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今日のヒルクラ20140629




今日は天気も心配なさそうだったので、intermax号を始動。

しかしながら、サドルがいつものVELO gelから数倍固いアスピデに変わったことや、ポジションをライド用にきっちり合わせたので、前日まで乗っていたORBEAとはまったく異なったことにより、10キロほどでケツ痛発生。
乗り位置をずらしたりあれこれやってみて、多少楽になったりもしたが、行川に下って今度は逆ルート右回りで上っていたところ、再びぶり返してきて戦意喪失。
脚が無くなってきたのならまだがんばってカバーするが、こういった苦痛は苦手。

土曜日の半分くらいしかトレーニングは積めず残念。
加えて、ポジション変更による使用筋肉の微妙な違いや、痛みをかばう無理な姿勢をとったりしたので、距離を乗っていない割に疲労感が強い。

もうライドまで時間もないし、VELO gelに戻したら一件落着してほしいところ。

まあ1年前と同じことやらかしているわけだが。。。


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今日のヒルクラ20140628

先週の土日6/21・22は仕事などもあってまったく走れず。
天気予報もよくなかったのであきらめがつくと思いきや、2日とも十分走れてた。


で、今日は2週間ぶりだったが、体が重かった。

前日夜、intermax号の整備もあり、実家に戻っていたのだが、
「庭の草刈りしないと。これはひどすぎ」
と気になって気になって(笑)

県道33号ヘアピン分岐〜峠を2本と思ったが、峠に上がるとそのまま言い訳して行川に下りそうだったので、分岐〜第四小を2往復。
3本目に峠まで登って終了。
距離的には、峠まで2本とそう変わらないかと。


峠から雨上がりの高知市を望む
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日本最貧県やき、こんなもんで飲みゆうがやき



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ブックスエソテリカ ユダヤ教の本



2か月くらい前だったか、実家で本の整理をしていて、
「そういえばこの本あまり読んでないな」
と思って取ってきたはいいものの、最近読書習慣が少なくなってきており、必然的に放置。

ところが先週、ノアの方舟の映画を観て、
「この話ってキリスト教、ユダヤ教どっちだっけ」
と思いながらこの本を開いたら、冒頭で少しだけ触れられていた。
ついつい読み進んでしまい、20年の時を経て、映画をきっかけに半分以上を読むことができた。


この本自体は1995年の発行である。
このシリーズは最初は赤で、神道、釈迦、仏教、キリスト教などがあり、ひと通り全部購入した。
黄色になるのは、かなり後半である。
当時は宗教の本は専門書扱いのものが多く、結構高かった。
その中で、このシリーズは各宗教を広く浅く知りたかった私などにとっては、画期的なシリーズだった。


「神様とか仏様とかイエスキリストだとか、いっぱいあってわからないよね」
などと無知を口外することはない。
己の不勉強を恥じるとともに、調べればすむこと。
そう思いながら生きてた20代だったなあ。

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高知FDナイターなう。仕事で遅くなって20時前に来たら、もう8回裏(笑)



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Yahoo mail がまた改悪されている件

もう何十回も書いてきたので疲れたが、IT業界ってどうしてこうもHPの改変(=100%改悪)が好きなのか。


今回、またぞろYahoo mailが改悪。
メールソフト同様ワンクリックで受信トレイに行き着けるのはよくなったかもしれないが、「戻る」をすると1件前に読んでたメールじゃなくってなんでYahooのTOPに戻るんだよクソが。

他には、自分のアドレスがバカみたいにコピーしにくくなっている。
読んでるメールのヘッドの右下に1/4くらいしか見えていない文字があって、確認しようと思っても見られないし。

「気に入らないんなら使うな」
ってことですね。

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高知FDナイターなう。職場から見てたら照明消えないんで来たけど、朝から雨やんでないし



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パナの空気入れのバルブ用口金



先日、どこかで口金を落っことしてしまって、使えなくなっていたパナレーサーの空気入れBFP−GBG。

販売してないか探していたら、BFP−FV20というのがそれらしく、在庫2個のところを買い占めた(笑)。

今回は実家からの移動時にどこかに落としたようで、今後も持ち出すときは空気入れ終了後、口金を差し込んでから空気を入れる際と同様にレバーを倒して固定するよう注意が必要だ。

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エクセルで複数の行を一気に挿入する









現在仕事でやっているのが、元データでは1行に整理されている多数の情報を1データ分3行の所定様式へはめこんでいく不毛な作業。。。
元データ件数は、300件(300行分)。

A列にある主となる項目は、転記先では3行目のうち1行目なので、作業を簡単にするには、現在のすべてのデータの間に2行ずつ挿入しなければならない。


勘のいい人なら、上の3つの図を見ただけで、すぐにやり方がわかるであろう。
忙しい中、いろいろ頭使うより、普段やっている作業の延長ならわかりやすい。


<図1>
元データ
これを別のシートに3行おき(間に2行)で貼り付けたい

<図2>
左端に1列挿入
各データに番号をふる
データが9つなので、貼り付け先のデータの間の2行用分
数字を準備する。
ここでは、1〜9の数字に0.01を加算することを繰り返した


<図3>
作成した27個の数字をコピーし「形式を選択して貼り付け→(値)」で貼り付けする。
その後、データの並べ替えを行えば、3行おきとなる。


※説明用にムダと思われる作業も多少してます

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DVDプレーヤーで再生したらモザイクが出る

パソコンで、動画サイトから落としたFLVファイルを、Freemake Video ConverterでDVDに焼いて、ブルーレイHDDDVDプレーヤーを通じて、いわゆる地デジテレビをモニターに再生したところ、最初から3分の1あたりでモザイクが入って再生があやしくなり、しばらく立ち止まったあげく、0:00:00から再生し直しという状況だった。
もう1枚焼いても結果は同じ。


調べてみたら
「安物の20枚とか50枚単位のケース無しDVDメディアはあかん」
みたいな結果だったので、メーカー品のちゃんとしたやつを買ってみた。

あら不思議。
きちんと再生。

(※環境で差があると思うので自己責任で)



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木村摂津守とサンフランシスコの人々(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。




 咸臨丸でやってきた木村摂津守の礼節・謙譲あふれる言動はサンフランシスコの人々に感銘を与えた。


■1.咸臨丸、サンフランシスコ到着

 安政7(1860)年2月26日、咸臨丸が37日間の太平洋横断を無事に終えて、サンフランシスコ湾に入った。船から眺めると、東洋の神秘の国・日本から初めてやってきた船を一目見ようと集まった群衆がアリのように見える。

 2年前の安政5(1858)年6月19日、品川沖のアメリカ軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約が調印されたが、その際に日本側は、条約の批准書交換をワシントンで行うことを提案した。そして正使はポーハタン号で送り迎えして貰う事になったのだが、副使は日本で別の船を仕立てて送り出すことにした。それが咸臨丸だった。

 日本側としては、調印を日本でやったのだから、批准書交換はアメリカで、それも副使用とはいえ独自の船を出す、という形で対等の独立国としての対面を保とうとしたのだった。現代日本とはまったく違った「武士の面目」を、当時の日本は持っていた。


■2.「いきなり太平洋横断ができるわけがない」

 咸臨丸派遣には、もうひとつ重要な狙いがあった。独立維持のため強力な海軍を育てようと、幕府は安政2(1855)年に長崎海軍伝習所を作り、オランダ人教官を招いて乗員養成に努めていたが、航海練習は日本近海での経験しかなかった。そこで、この米国への使節派遣という絶好の機会を捉えて、外洋航海の経験を積もうとしたのである。

 しかし、当時はアメリカ軍艦でも太平洋を横断するのは難事であった。ペリーの黒船艦隊にしても、大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て、日本にやってきていたのである。このコースなら、相当部分を港を伝いながら陸地沿いに進める。

 太平洋横断は米商船が年に1、2回行っているだけで、軍艦の航行はほとんどなかった。日本近海しか航行したことのない日本軍艦がいきなり太平洋横断を目指すのは、無謀ともいえる企てだった。

 米国への日本船派遣は、海軍創設に尽くしてきた軍艦奉行・水野忠徳ら開明派官僚たちが提案したのだが、老中側は、伝習わずか3年も経たない未熟な腕で、いきなり太平洋横断ができるわけがない、と一度は却下された。

 それを水野らは「できる」と強引に押し切って、正式決定に持ち込んだのだった。日本国の名誉だけではなく、日本海軍の将来がこの太平洋横断にかかっていた。


■3.起死回生のラスト・ホープ

 咸臨丸に乗り組む副使として任命されたのが、水野の後任として軍艦奉行に任じられた木村摂津守(せっつのかみ)良毅(よしたけ)であった。木村家は旗本の家柄ながら、将軍の命により、砂糖や朝鮮人参の栽培・販売などに代々、功績があり、そこで育った良毅は農民や商人、職人たちとも交わり、広い視野を養っていたようだ。

 また、当時は30歳にも届かない青年であったが、長崎海軍伝習所の取締も3年間、勤めていた。当時、反動派の井伊直弼(なおすけ)が大老となり、開明派官僚を次々と左遷・追放し、また長崎海軍伝習所も閉鎖したが、木村は家柄の良さと温厚な人柄のゆえか、その反動の嵐には巻き込まれていなかった。

 咸臨丸の太平洋横断は、虫の息となっていた日本海軍の起死回生のチャンスであり、それを任された木村こそ海軍育成を志す人々のラスト・ホープであった。

 軍艦奉行を命ぜられる準備段階として、その2ヶ月前に任じられた「軍艦奉行並」の格は高くなかったが、木村は「海軍の事は当今国家の最大急務にして、余は初めより専心是事に微力を尽くさんとの素志にあれば、毫(ごう)も不足を感ぜず」と言い切っている。

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■4.木村の判断

 木村がもっとも苦心したのは、乗組員の選定であった。海軍伝習所の教監・勝安芳(海舟)を艦長とし、優秀な伝習生を選ぶことは当然の処置であった。しかし、木村は、同時に老中を通じてアメリカ公使ハリスに適当な案内者を依頼した。本格的な外洋航海を通じて人員を育てるには、良き指導者がいるとも考えたのだろう。

 ハリスは海軍大尉ジョン・マーサ−・ブルックを推薦してきた。ブルックは15歳で米海軍に入り、当時33歳のベテラン士官であるばかりでなく、太平洋を2回も横断した米海軍随一の経験者だった。木村と勝はブルックを面接して、その人物、技量を見込んだ。

 ブルック大尉はベテラン水兵を中心に10人を引き連れて咸臨丸に乗り込むことになった。日本人だけで航海を、と意気込んでいた乗組員たちは、当初、余計なお世話と反発していた。

 しかし、咸臨丸が太平洋に乗り出した途端に、ブルック自身が「こんな時化(しけ)には会ったことがない」というほどの暴風雨に襲われた時も、彼は冷静に指揮を執り、ベテラン水兵達が真っ暗闇の荒海でも平気でマストに上り、風向きや波のうねりを見て舵をとった。

 さらに米人水兵がルールを破って、飲料水を洗濯に使っていたのを見とがめた日本人乗組員たちに、ブルックは「これは共同の敵だから、即刻銃殺してくれ」と言った。その謹厳な姿勢に、日本人乗組員は感激して、以後、ブルックの言に従うようになった。

 また、木村は、通訳として中浜万次郎を連れて行くことで、老中の許可を得た。万次郎は土佐の漁師だったが、漂流していた所をアメリカの捕鯨船に救われ、そのまま米国で航海士としての教育を受け、アメリカの捕鯨船の副船長にまでなって、3年間も世界の海を航海した経験を持つ。[a]

 万次郎はブルックとも友情を結び、日本人乗員たちとの良き仲介役となった。この二人がいなければ、咸臨丸は暴風雨の中で太平洋の藻屑として消え去ったかも知れない。あるいは、帰りにはブルックたちを下ろして、今度は本当に日本人だけで太平洋を横断したのだが、それほどの技術習得もできなかっただろう。

 咸臨丸の乗員が、その後の日本海軍の中心的役割を担っていった事を考えれば、木村の判断が日本海軍の未来を救ったと言える。

 もう一つ、木村が優れた人物眼を示したのは、福沢諭吉を乗せたことである。福沢が見ず知らずの木村に会って、従者として連れて行って欲しい、と頼むと、木村はその場で快諾した。福沢の人となりを見抜いたのだろう。福沢はこの渡米経験から、後の文明開化のリーダーとして成長していく。[b]

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■5.金の工面

 人員と並んで木村が出航前に苦心したのは、金の工面であった。米国が船を出して使節を送り迎えしてくれるのに、なぜ巨額の費用を使って副使のために別の船を出す必要があるのか、という反対が勘定所を中心にくすぶっていた。

 その一方で、士官たちは3、4年も長崎海軍伝習所で航海術を学んで腕を上げていても、俸禄は入所の時と変わっていない。その不満を良く知っていた木村は俸禄の増額を請願したが、毫も顧みられなかった。

 やむなく木村は、水夫や火焚きも含めて乗員への恩賞と、米国滞在中に日本武士の面目を保つだけの費用を自分で用意することとした。家財道具を処分して3千両を作り、さらに幕府から500両を借りた。100両あれば、土地付きの屋敷が買えた時代である。現在価値で言えば、二桁の億という所だろう。

 木村はこの金で、士官や水夫に何度も恩賞を与えたり、サンフランシスコで土産物を買う費用を与えたりした。米国の水兵たちにも十分な謝礼を与えた。帰国した時には、自前で用意した費用はすべて使い切っていた。

 幕府からは、別途、邦貨とドル貨が支給されたが、食料品などの経費を切り詰めて、受取額の2割以下しか使っておらず、帰国後に大半を返納している。しかも返納5770両1分31文4分などと、きめ細かく計算している。木村の律儀な性格が窺われる。


■6.「一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物」

 出航前の様々な難題を乗り越え、太平洋で何日も続いた暴風雨・荒波を切り抜けて、ようやくたどり着いた咸臨丸を、サンフランシスコ市民は大いに歓迎した。一つにはアメリカが開国させた日本からの最初の使節を受け入れる、という事は、自分が育てた生徒が成長したという満足感を与えたからだろう。

 もう一つは、東部からサンフランシスコに至る大陸横断鉄道がもうすぐ完成し、ここからさらに日本を結ぶ太平洋横断航路が開ければ、同市はアメリカの東洋進出の中心的拠点になる、という期待もあった。

 咸臨丸が錨を降ろすと、ただちに新聞記者たちが取材に押しかけてきた。「デーリー・アルタ・カリフォルニア」紙はこう報じた。

__________
 彼(木村)は、一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で、四十前後と見受けられた。(髷や衣装を整えた後)やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度で現れた。[1,p101]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本人は欧米人からは年より若く見られるのが普通だが、木村が反対に10歳も年長に見られたのは、その落ち着いた物腰からであろう。記者たちは咸臨丸を隅々まで見て回り、ブルック等から航海中の様子を聞いて、精しく記事にした。

 艦内は「清潔で秩序正しくゆきとどいていた」。水夫たちも「サンフランシスコの支那人より、はるかに教養が高いように思われた」などと報じている。[2,p265]


■7.「こんどは大統領の名前を先に」

 3月2日、サンフランシスコ市の正式の歓迎会が催された。当直を除く全員が招待され、市庁を訪れると、17発の祝砲が街を震わせ、周囲の建物の窓ガラスがみな割れるという騒ぎだった。

 会場では市の幹部や士官たちと握手したが、室外にも大勢の人がいたので、木村はその人々とも握手させて欲しいと提案して、その後30分も握手が続いた。人々が日本刀と絹の着物に強い好奇心を抱いていたので、握手することでこれらを間近に見せたのである。

 次に一行はホテルでの宴席に案内された。ご馳走の山を前に差しつ差されつの賑わいが続いた。頃合いを見計らって、市長が立ち、乾杯の音頭をとった。日本の皇帝と米国大統領、そして日本の提督すなわち木村のためと、3度乾杯した。次に木村が立ち、万次郎の通訳で、提案した。

__________
 今、日本の皇帝のために乾杯していただいたが、その名前が米国大統領の前にあった。こんどは大統領の名前を先に、米国大統領と日本皇帝のために乾杯していただきたい。[1,p105]
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 当然、大歓声が起こったに違いない。神秘の国・日本から来た客人が、これほどアメリカ人の心をくすぐるような機転を利かせたことを、市民たちは驚きと喜びをもって迎えただろう。


■8.国際派日本人の先駆け

 翌日、咸臨丸は船体修理のため、サンフランシスコの北東40キロほどにあるメア・アイランド海軍造船所へ移った。米側はここでマスト2本の取り替え、帆の新調、ペンキ塗り替えなどの大がかりな補修作業をわずか2ヶ月足らずでやってくれた。

 修理が終わって、木村は費用を払いたいと申し出たが、造船所のカニンガム長官は、咸臨丸がはるばる米国まで来てくれた事に対する米国大統領のお礼の気持ちとして、米側が負担するという。結局、サンフランシスコの消防士や船員の未亡人団体に2万5千ドルを寄付する、ということで、ようやく話は落ち着いた。

 この修理の最中に、幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号がサンフランシスコに着き、咸臨丸を追ってメア・アイランドまでやってきた。米側が正使一行を迎えて、サンフランシスコで盛大な歓迎会をすると言うので、木村は正使たちとともに便船で市内に向かった。

 それを見送るポーハタン号の放った礼砲で、たまたま岸壁を通りかかったカニンガム長官が顔面に火傷を負った。サンフランシスコに着いた後、電信でこの事を知った木村は直ちにメア・アイランドに引き返した。

 歓迎会はそのまま開催されたが、人々は木村の姿が見えないのを不審に思った。そこでブルックが、カニンガム長官の負傷を気遣って、木村が傍を離れられないために欠席した、と告げると、会場から大喝采が起こった。ここでも木村の振る舞いはアメリカ人に感銘を与えたのである。

 日本文学者ドナルド・キーンは次のように語っている。

__________
 咸臨丸が浦賀湾に投錨したのは5月5日であった。長い航海もついに終わったのである。そしてそのことは、今や日本人が船を操って太平洋を横断出来る、という事実を、立派に証明した。

 しかし、おそらくこちらのほうがもっと大事なのだが、2百余年にものぼる鎖国のあとにも、木村のような日本人が存在し得た事実をも、それは証明したのである。すなわち外国の土地で、外国人に交じって、日本人としての自己を失わずに易々と、しかも相手に感銘を与えながら振る舞うことの出来た日本人のいたことである。[2,p281]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 江戸時代に日本は世界最高水準の教育[c]と礼節と思いやりに満ちた社会[d,e]を築いていた。その日本文明の粋を身につけていた木村は、そのまま米国でも尊敬される人物として通用したのである。木村摂津守良毅こそ国際派日本人の先駆けの一人であろう。

(文責:伊勢雅臣)
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TOPEAK UFO and  ・・・・・・



intermax号は、新品同様品だったので、素の車体以外には、ボトルゲージ1つ以外は何も無し。

ってことで、近所チョイ乗りまでは問題無かったが、ライドに出場するにあたっては、最低限のグッズは構えないといけない。


とりあえず、安全走行の必需品である前後ライトだが、特にフロント用についてはお気に入りのVETTAの製品を探しているのだが、もう生産されていないのかまったく売られていない。

で、さらに物色していたら見つかったのが、現在リア(シートポスト)用に使っているTOPEAKのもので、こいつは前後のセット。

フロント用電源がCR123Aと微妙なんだが、値引き加減に負けて購入。
リアのUFOタイプは言うこと無しだぜなんだが、未体験のフロントがどうかってところ。
CR123Aを使っているライトは、とにかく明るいので、問題は充電関連だけ。

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今日のヒルクラ20140615

今日は、朝9時半出発。
intermax号のポジション合わせetcもあり、ORBEAに乗るのも今日ぐらいにしておかないとと思い、記念に平家の滝方面へ。

オレンジ橋を越えた先の小学校跡の坂道がお値打ちなので、そこまで行くことに。
さらに上は、ワンワンがいっぱいいるので、行かぬが吉。


今日は、鏡地区いっせい道普請の日だったのか、あちこちが綺麗になっていた。
オレンジ橋から下ってきて、今度は梅ノ木方面へ。
2日目で結構キツイ感じだったので、旧第4小学校で折り返そうと思っていたら、すぐ手前で草刈り作業の真っ最中だったので、そこで折り返し、都合1.5往復。

帰宅後、実家に行きささっとintermax号のフレ取り調整終了。
ホイールのフレもあったが、リヤブレーキの固定も少々ゆるかった。


今日は、最近平家の滝ではなく梅ノ木のほうになぜ行きたくなるかが何となくわかった。

1)上るときに右側が山手なので、山の茂みに気を遣わなくてよい
2)県道なので道がそこそこ手入れされており、草木が少なめ
3)野生生物との出会いが少ない


旧鏡第三小学校


久しぶりのオレンジ橋
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今日のヒルクラ20140614

昨夜、実家にライドで乗るつもりのintermax号を取りに行ったが、後輪のリムがORBEA号同様、スプロケの反対側に偏っていて乗れる状態ではなかった。
しかも、ニップル回しを持参しておらず、調整はあきらめた。

もうひとつの目的は、パナレーサーの空気圧計付きポンプの仏式用の口金がどこかで落下して行方不明だったので、実家に落ちていればと思ったのだが、こちらもなく、結局手ぶらで帰ってきた。


今日は朝9時に出発。

いつもの平家の滝・梅ノ木方面分岐のヘアピンから領家の峠まで上がるルートを上って下って3往復。
結構楽勝と思いながら往復していたが、3本目の半分過ぎたあたりで急激にパワーダウン。
筋力面でのスタミナの問題か、栄養補給面の問題かは不明。
明日、どっちなのかをを探りたい。

スローペースで、上りが30分、下りが20分程度。
(大会以外はメットをかぶらないので、基本スローです)

峠から高知市街方面 10時くらい


峠から高知市街方面 正午くらい
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フレ取りwithセンターゲージ



今月最初に走った際に、大いに後輪にフレが出てしまい、中断みたいな形で帰ってきた。

その日のうちに実家でフレ取りをして、
「オレもうまくなったもんだ」
と悦に入っていたのだが、月曜日にいざ取り付けて乗ろうとしていたら、またシューに当たる。

「なぜだい?」
と思ったら、やたらスプロケの反対側に全体が寄っている。。。

そうdeath。
センター出しをすっかり忘れてた。
見事にハブの中心はとらえているのだが(笑)

最初に組むときに多少合わせたような記憶はあるが、その後長いことセンターゲージは使わなかったので、スプロケ反対側に一番フレていたところを基準に合わせたことが多かったみたい。
そんな状態で、飛ばしてはいないとはいえ、急な下りでブレーキングしたものだから、ホイールには相当ストレスだったろうし、大きなフレが出てもしょうがないわな。

で、またもや実家に帰ってセンターゲージを久々に持ち出して再調整。
第2週目走行後は、出発したときの状態とあまり変わらないという理想的な感じでした。

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今日のヒルクラ20140608

午前中は、12キロのウオーキング

雨が降っていればいい口実になったが、晴れ間まで出ている始末。
やむなく昼食後、13時に出発。

今日も平家の滝には行かず、去坂のヘアピンを回って梅ノ木へ。

土曜日朝から運動三昧だったので、さすがにちょっと前日とは違った。
昨日と同じギヤに入れても重く感じる。
時間的にも体力的にも2周は無理なので、一度上ってきたルートを下り、もう一度上ることに。
峠で折り返すと練習を越えてイジメになるので、旧鏡第四小学校で折り返し。

それでもなんだこれは。
賽の河原か?!

峠の手前では、ヘナチョコダンシングを連発しないといけないくらいバテてました。

しかしながら、今週いろいろ試したおかげで、来週は3〜4周にトライする楽しみ?ができた。


今日も梅ノ木の旧鏡第四小学校


領家地区上にある峠から高知市内を望む


上の写真のアップ



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春野あじさいウオークなう。毎年天気が微妙な大会

去年に引き続き参加

あえて運営に関する意見を言わせてもらえば、
(1)受付時の説明詳しく(商品券もらったが参加費領収書かと思った)
(2)参加賞のあじさい交換場所がわからんかった。はっきり明示を
(3)コースの草刈りをもう少しやってほしい
の3点。

他の大会もそうだが、(1)については、歴史の長い大会はこうなりがち。
自分も主催大会は気をつけなくては。





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今日のヒルクラ20140607

ライド向けトレーニング2週目。

最近数時間おきに内容が変わる天気予報で、夕べ遅く時点では今朝は曇り予報だったが、朝起きたら多少晴れ間が。

降ってきたらスタートしようとは思わないので、個人的にはかなり早めの9時前に出発。

先週行った梅ノ木コースがすっかり気に入ってしまい、今日も平家の滝へは行かず。
先週できなかった、2周目にもトライ。
昨日から結構涼しい感じが続いていて、今日はあまり汗はかかず、先週はゲージ用ボトル2本で足らなかったが、1本ですんだ。

もう少し天候がよければ、もう2周したかったが、2周目序盤にかなり降られたし、エネルギー補給も考えてなかったしで終了。

このコースがいいのは、息が切れるような傾斜はまったくないが、じわじわ上りがトゥルマレ峠まで続くので、気分次第で強弱を付けたトレーニングができること。
(まあ私は延々と弱弱なんだが)

次回から時間のある日は、多少はハアハアゼイゼイとなる平家の滝往復を加えて、さらに梅ノ木を回るコースを3〜4周するのを定番にしようかと考えている。
ほんとは工石山とか行って、さらなる急坂を上る練習をすればいいんだけど、年に数か月しか本格的に乗られない身にとっては・・・・・・。
きっと何年たっても上れません。


梅ノ木の旧鏡第四小学校


いつもの大日神社
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ママチャリ後輪タイヤ交換






実家のママチャリの虫ゴムをずっと前に交換したのだが、過日、
「最近また空気が抜ける」
と、母親が言うので様子を見に。

えっ、あれからもう4年たつのか w( ̄△ ̄;)w
ちょっと衝撃。

まあそれは置いておいて、考えられる理由はふたつ。
 ・当時交換した虫ゴムがこのたび寿命
 ・当時交換した虫ゴムが通常のように機能してない

とりあえず、虫ゴムを交換した。
数日後
「まだ抜けてる」
との連絡。
どちらかと言えば後者だったようだ。

虫ゴムを抜くときにバルブにくっついてる感満載だったし、入れるときも多少こびりつきによるであろう抵抗があったので、覚悟はしていた。
今回ダメになるまではなんとかなっていたが、もうこれ以上は無理なんだろう。
となると、後輪のチューブ交換しかない。
自転車屋に持って行くと、いまどき新車買ったほうがましといったデフレ時代なので、それも忍びがたく私が交換することに。

よりによって5月で一番暑かった日。
一番手こずったのは、一度フロントのギヤから外したチェーンを元に戻す作業。
「いざとなれば泥除け外せばいいや」
と思ってたら、これが一部直付け。
「こっちを外せば、こっちがかみこむ」の繰り返し。
クランク付近の取り外せる円形部分のスペースで悪戦苦闘するしかなく、最後はCRC5−56で回したときのかみこみを防ぎながら、何とかギヤにはめ込んだ。
30分近くかかったようで、もう汗ダラダラ。

最後は、もう1台あるママチャリを見ながら、複雑な順番を確認しつつ組み立て。
もう人生であんまりやりたくないわ(笑)

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高知FDナイターなう。降水確率70%だったんでそら少ないわな。と言ってる間に三重殺決めてビックリ



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今日のヒルクラ20140601

前回ヒルクラは、これか。

嶺北ライドまであと2か月となり、相変わらず短期間で準備しようとするいつものパターンに突入。
(というか、自転車は40も過ぎて、人生的に年間行事もほぼ固まったその後で入ってきた事象なんで、そのパターンを組み替えなければこの状態が続くんだよなあ。)

このところ、睡眠による休養を十分取れてないので眠れるがままにしたら、intermax号を実家に取りに行く時間が無くなり、長年の相棒ORBEA Mitis号で出発進行。

普段は通勤と町中乗りに使っているんだが、フロントギヤをインナーにしたとき、後ろの真ん中付近がオートマになりがちなんだな最近。

で、いつもの鏡村コースに。
宗安寺ではすでに大勢の人が水遊び中。
うらやましいことこのうえない。

当初、平家の滝を予定していたが、
 ・久しぶりだし
 ・直射日光強すぎ
 ・全然風吹いてない
の悪条件が重なり、無理をせず緑の多い梅ノ木方面に直行。

いつもは
「林の中って景色変わらないしつまんないよねー」
などと言ってることは内緒です。

「梅ノ木地区過ぎたらすぐ峠があってそのまま下り」
と、勝手に間違えて記憶していたものだから、その後が遠い遠い。

ながらも、峠下の水浴び場でほてった体を冷やすのは、えもゆわれぬ快感だった。


行川に下りつつ、あまりの物足りなさに、もう梅ノ木ルートをもう1周しようと画策。
旧鏡村役場付近まで来て、ペットボトルを1本購入し、さあと思ったら後輪が回らない。。。
はいているホイールは、自分で組み直したボントレガーのRACEXLITE

この件については、昨年、デザインが気に入って、カンパハブのものを後先考えず購入。
シマノ化するには、ハブ交換しか手段が無く、自分で組み直したというお話。

町中乗りを経て、何度かフレ取りをして落ち着いたものと思っていたら、急で長い下りのブレーキングで一気にフレが出てしまった。
ニップル回しは持っていないので、手でできる範囲で何とかリムがシューに当たるのは回避できたが、こんな状態で乗って制御不能になって谷底に落ちるのは避けたいので、本日は撤収。

こんなこともあろうかと、先月ホイールを注文していたが諸般の事情でキャンセルせざるをえなかったのがちょっとな。

あわよくば、ライドもこれでと思っていたが、今後もある程度フレが出続けるなら、眺めて楽しむ街乗り専用か。


梅ノ木(左)か平家の滝(右)かの分岐点カーブ


森林浴サイクリング


鏡小山と領家の間の峠


水浴び場


走行マップ(○印が画像1の分岐点)
書いた人 nippon | comments(0) | - |




事務処理マニュアルの作り方

この4月から新しい業務をいくつか受け持っているが、わけがわからないことが多すぎる

とある業務で、各担当の送ってきたエクセルファイルをプリントアウトしたの
ち、別ファイルに手入力し集計していくのだが、
「なぜ各担当が作成するエクセルファイルのどこかのシートに、自分が最終的に作成する集計表にコピペできるようなデータスタイルを置くようにしなかったのか?」
とフツーに疑問である。
この点は、ゆくゆく変えていきたいと思っている。

で、次に、引継文書として「事務処理マニュアル」的なものが一応あって、普通はあればありがたく思うものだが、これがやたらと分厚いだけで、まったく何の役にも立たない。
どうせ作るなら次の点に注意してもらいたいものだ。


1)文章だけで作成するな
プレゼンでパワーポイントがなんでもてはやされるのかというと、箇条書きが簡潔でわかりやすいから。
あの1枚1枚にダラダラ文書ばかり書かれていたら、プレゼンを見る人も疲れてしまう。
(というか、パワポを使う意味がないか)

疑問は大体一言で晴れるものだし、新しい仕事を受け持って神経を使っている身では、パっと見で理解しやすいほうがよほどラクなので、箇条書きによる作成や、後述の表への書き込みを多用すべき。
加えて、長い文章は書き手にものを書くセンスがないと、何が言いたいのかまったくわからないので、余計に始末が悪い。


2)エクセルであれば様式で説明を
これもビジュアル面重視の話。
冒頭のケースであれば、作成様式を使って、セルコメントを表示させておくことにより、ここはこういった数字を各担当が入れてきますといった説明があれば、回りくどい文章から拾い読みするよりはるかにわかりやすい。

また、マニュアル上で「(エクセルシート上の)ここは自動計算されます」と
いった記載はまったく余計な情報。
エクセル表の行または列の項目に「(自動計算・入力不要)」とつけ足せばよいだけだ。
また、入力してもらう様式でも、印刷範囲外に図形を置き、入力についての情報を書き込んでおけば、わかりやすい。


3)早い時期から自分用に作れ
少しずつ改訂はされているらしいが、もとは4年間担当していた人が異動する直前に作ったとのこと。
そんな人間が作ったものが役に立つ確率は低い。
ベテランになれば、作り手が注意しなければ「マニュアル=単なる自分の仕事解説」にしかなりっこないからだ。

今回受け取ったマニュアルでも、冒頭の単語ですでに
「○○って一体何だ?」
といった具合である。
その後もくどくどと文章が続くとともに、さらに不明な単語が出てくるため、だんだんと見る気も失せてくるし、自分の知りたいポイントはほとんど書かれていないしで、見るのもイヤになる。

私の場合は、新しく担当になって、自分がわからずあちこちで聞いたこと、調べたことや間違ったことを、随時メモ的にファイルに蓄積していっている。
後々見たら、初心者だった頃に何でつまづいたのかがよくわかるし、どういった理由でそうなっているのかを自分が忘れたときも確認ができる。

担当が代わるまでにはかなりの量になるので、後任にはプリントアウトせずにテーマごとに整理したWordファイルのみ渡しているが、おかげでこの4月1日以降、別の部屋にいる後任からは一度の質問もない。

今回は、ただ不明点をメモるよりは、自分でこの役立たずマニュアルを作りかえれば、業務に早く精通できると考え、現在一から作り直している次第。


4)重要なことから「3段階」で作成する

(ア)すぐ対応を始めるべきこと
(イ)四半期や上半期や年間のスケジュール
(ウ)個別業務のポイント説明

例えば異動したての場合、これらを一斉に渡されても、読もうと思っているそばから、知識が少ないためすぐに回答できない電話はかかってくるわ、急ぎの書類を教わりながら作らねばならなかったりして、肝心なことが欠落する恐れがある。
(ア)から順に入れればよいが、長文の(ウ)から入ってしまうと、(ア)
(イ)の存在が埋もれがちになり、後々の失敗につながりかねない。
逆にいえば(ウ)は調整がききやすいが、(ア)(イ)は日を追うごとに打つ手が減るものなので、優先順位を間違えないようにしたい。




「自分で解決策を探すのも大事な手順」という人もいるかもしれない。
しかし、正社員も少なくなってきている現在、果たしてその考え方でいいのだろうか。
周囲は
「一日でも早く一人でできるようになってほしい」
と考えているはずである。

何も取扱説明書のようにこと細かく作り込む必要はない。
項目ごとのポイント、そして全体のフレームをしっかり教えるということである。
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