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なぜ料理カウンターは日本にしかないのか(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

その理由を探っていくと、日本の奥深い「料理人道」が見えてくる。


■1.なぜ料理カウンターは、日本にしかないのか

 寿司屋や小料理屋、そば屋などでのカウンター席は、わが国ではどこにでもある、ありふれた形式である。しかし、伊藤洋一氏の『カウンターから日本が見える』によると、酒を飲ませるバーカウンターは世界のあちこちにあるが、カウンターで料理を食べさせる形式は日本にしかないという。

 たしかに筆者も、欧州、北米、南米、北アフリカ、東南アジア、インド、中国、韓国などでレストランに入ったが、カウンター形式の店は一度も見たことがない。すべて、料理は別室のキッチンで作られ、客のいるテーブルに運ばれてくるという形式である。

 ハンバーガーショップなどにはカウンターがあるが、それは商品を手渡すところであって、客はテーブルに座ったり、壁に面したカウンター席で食べたりする。どうせカウンター席に座るなら日本の立ち食いそば屋のように、対面のカウンター形式にしても良いと思うが、絶対にそうはしない。

 なぜ料理カウンターは、日本にしかないのか。その理由を探っていくと、日本の奥深い文化的特質が見えてくる。


■2.カウンターに挑戦する「20世紀最高の料理人」

「なぜ料理カウンターは日本にしかないのか」、この疑問をひもとく鍵になるのが、「20世紀最高の料理人」と呼ばれるフランスのジョエル・ロブション氏である。

 ロブション氏は1996(平成8)年、パリの3つ星レストランをたたみ、2003(平成15)年4月に開いた東京・六本木の店ではカウンター形式を取り入れた。なぜロブション氏はカウンター形式のレストランを始めたのか、その理由をこう語っている。

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 1人数万円相当を払って、かしこまって食べる。そんな店にどこか飽き足らなかった。私自身がくつろげる店を作りたかった。盛り付けなどに注いでいた神経を、お客さんと楽しく過ごすことに使いたい。

新店のテーマは懇親性。約50のカウンター席では、客と料理人が食材を挟んで向かい合い、気軽に語り合える。このタイプの店を世界展開する考えだ。

 ヒントは寿司屋にあった。15年ほど前、東京・銀座の老舗(しにせ)「すきやばし次郎」に、友人の料理評論家・山本益博氏に連れられて行った。驚いた。魚の生臭さが漂わない。清潔。

客と会話しながら、目の前の食材をメーンディッシュとして供する。すべてが新鮮だった。来日のたびに通った。[1,p144]
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■3.料理人が「お客さんと楽しく過ごす」

 ロブション氏の言う「客と料理人が食材を夾んで向かい合い、気軽に語り合える」のは、カウンターならではの特徴だろう。

 フランス料理や中華料理などテーブル形式のレストランでは、料理人はキッチンに籠もり、客とは断絶されている。料理人がどれほど腕を振るっておいしい料理を作ったとしても、客の喜ぶ顔を直接見る機会はほとんどないのだ。

 有名なシェフがテーブルを回って挨拶をすることはあるが、それも短時間のことで、客が自分の料理をどう食べるかを観察することはできない。

 カウンターなら自分の包丁さばきにお客さんが見とれたり、そうして作った料理を、目の前でお客さんがおいしそうに食べる様子を目の当たりにできる。客がお世辞など一言も言わなくとも、料理人名利に尽きるであろう。

 またお客と話を咲かせるのも、カウンターならではのことである。料理人が食材や調理法の蘊蓄を語り、お客が「へえー」などと聞き入る事も多いだろう。キッチンで、黙々と料理を作っているのに比べれば、料理人にとっては至福の一時に違いない。

 職人としての誇りある料理人ほど、そうした達成感を求めるだろう。「20世紀最高の料理人」が新しくカウンター形式の店を作ったのも、そうした職人としての誇りと満足のためだとすれば、よく理解できる。


■4.「仕事に対する厳しさとは、仕事に敬意を払うこと」

 しかし、いくら料理人がカウンターを望んでも、客の方でそれを受け入れる土壌がなければ、店は流行らない。たとえば客が、料理人などは下の階級だと見下し、近寄りたくもない、と考えたら、「客と料理人が気軽に語り合える」世界は実現しない。

 料理人と客が対等に親しく話す、というのは日本人には当たり前だが、世界のほとんどの国では当たり前ではないのである。

 ロブション氏がカウンター形式の店を東京に作った事に関して、「なぜ東京に」という質問に、「日本人は仕事に対する厳しさがあります」と答えて、こう説明している。

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 76年に初めて来日した時、空港でエスカレーターの手すりをふいている人を見て驚きました。他国では絶対に見られない光景です。タクシーに乗ってもとてもきれいだし、街並みも、道行くトラックもピカピカ。

突撃隊みたいな料理人も知っています。やけどだらけなのですが、そんなこといわずに料理に突進して、またやけどする。そんな例は、挙げたらきりがありません。

仕事に対する厳しさとは、仕事に敬意を払うこと。それは自分の将来にも敬意を払うことです。15歳で料理の世界に入って以来、ずっと、仕事への厳しさを教えられてきました。日本人も同じような考え方であることを知った時は、うれしく思いました。[1,p146]
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 厳しい道を歩んできた職人を尊敬する文化がなければ、職人が客と対等に話せる料理カウンターは成立しない。


■5.職人を育て、認める仕組み

 ロブション氏自身が歩んできた職人の道を、朝日新聞はこう紹介している。

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 フランス中西部、ポワティエ市の小さな食料品店に生まれた。貧しいが、信仰心の厚い親の影響で、神父になりたいと思い、12歳で神学校に入った。厳しい修道院生活では、料理をする修道女を手伝う時だけ、心が休まった。15歳の時、経済的事情で神学校をやめると、迷わずパリの大ホテルで料理人見習いになった。

 レストランを渡り歩き、28歳でパリの大ホテルの総料理長に就いた。31歳で「フランス最優秀職人賞」を受賞。36歳で自ら開いた「ジャマン」は3年後、レストランガイド「ミシェラン」の三つ星に輝いた。[1,p149]
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 料理一筋の職人の世界で、人を育て、認める仕組みがある事が、フランス料理界の強味なのだろう。しかし、料理人を厳しく鍛える伝統においては、わが国も負けてはいない。

 一人前の「板前」、すなわちカウンターの向こうで料理する職人になるには、次の仕事をそれぞれ数年かけてマスターしていかねばならない。[1,p148]

「洗い場、追い回し」(料理の仕込みと鍋洗い)
「盛り付け」(料理を盛り付ける役割)
「焼き場」(炭火で魚を焼く。ここからが料理人)
「向こう板、花板、回し」(仲居がとってきた注文を調理場にとりつぐ)
「煮方」(蒸し物、揚げ物などすべてやる。これを卒業したら、店を持って良い。)

 こうした長年の厳しい修行を積んできた料理人が、人間的にも深みを持つのは当然だろう。

 ちなみにミシェランガイドでは星付きの店が、パリの74軒に対して東京は2倍以上の150軒[a]。料理人道の厳しさと、その結果としての実力、地位の高さはパリの上を行くのではないか。


■6.トップスター料理人が始めた料理カウンター

 料理人の地位は、昔はさらに高かったらしい。日本で料理カウンターを広めた料理人は塩見安三である。明治28(1895)年に生まれ、昭和46(1971)年まで生きた。当時の一流の料理人は二人一組で全国の有名な店を渡り歩いて、仕事をしていたらしい。

 塩見安三の孫で、その流れを汲む「銀座浜作」を経営している塩見彰英さんは、こう書いている。

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 うちの安三おじいさんと(相棒の)出井豊三郎さんは広島の料亭へ出かけて行った時など、トップスター並みの人気ぶりで、それこそ街をあげての大評判。店には客が殺到して大変だったといいます。
給料は百円とれれば一人前の板前と言われた大正当時、安三おじいさんは500円もらっていたと聞きました。[1,p17]
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 大正半ばの国立大学教授の月給は70円というから、今の感覚で教授が月給70万円としたら、一人前の板前が100万円、塩見安三は500万円という所か。まさにトップスターである。

 この塩見が大正13(1924)年にカウンター形式の店「浜作」を大阪で始めた。客の目の前で、当時のトップスター料理人が腕を振るうのを見られる、という事もあって、たちまち大評判となったようだ。値段も当時の一流お座敷料理屋を時には上回ったという。しかし塩見自身は無愛想だったというのだから、面白い。

 後に「浜作」は東京に進出し、白洲次郎[b,c]や谷崎潤一郎、菊池寛、岩波茂雄など、文化人、財界人に贔屓にされた。来日したチャップリンやマリリン・モンローまで来たという。

 客が料理人の腕を振るう様を喜んで見たり、料理人と話を楽しめるというのは、客の方にそれだけ職人に対する敬意がなければ成り立たない話である。カウンター形式が日本において広まったのは、厳しい料理人道と、そこから生まれる料理人への敬意が社会にあったからであろう。


■7.カウンターでは包丁の使い方も変わってくる

 ロブション氏と同様、日本人でも一流の料亭で働いていた料理人が、自分で店を持つときにはカウンター形式を取り入れる例がある。「吉兆」で料理長までしていた穴見秀生さんは、大阪で「本湖月」というカウンター中心の割烹料理屋を開いた。穴見さんは言う。

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 大きなキッチンで働いているときは、要するに最後の仕上がりが綺麗であるかどうかが勝負でした。多少切り身の切り方がおかしくても、仕上がりがよければ良かったのです。[1,p134]
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 お客さんの目の前にある料理カウンターでは、また板も常に綺麗にしています。水を打って。しかし調理場では、そんなことまでは必要なかった。鯛の頭を落とすにしても、料理カウンターでは、お客さんに何か飛ぶようなことがあってはいけないと、包丁の使い方が調理場とは違ってきます。[1,p135]
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 このように、調理のプロセスがすべて客の目の前で行われること、そして客が食べるときに満足しているかどうかを、調理人が目の当たりに出来ること。要はそれだけカウンターは、キッチンに比べて真剣勝負なのだ。料理人道を歩む職人であれば、カウンターに挑戦したくなるのも当然であろう。


■8.「僕はまだここで働き始めて半年」

 本稿では、料理人道の最先端を行く達人たちの話が中心となったが、わが国の「道」とは初心者にも容易に入っていける広い入り口を持っている。

 大阪のホルモン屋でアルバイトをしている20代の青年は次のように書いている。[2]

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 僕がアルバイトしているホルモン屋はとにかく熱い! 情熱を持ってお客様へ最高のおもてなしを心がけています。

 僕はまだここで働き始めて半年。仕事の流れも徐々に把握できて今はいかにお客様にどう接するかを考えながら働いています。

 先日男女2人組のお客様が来店されました。店内をキョロキョロしているところを見ると初めてのご来店だなと思い、「はじめてのご来店ですか?」とお尋ねすると「噂には聞いていますが来るのは初めてで」というようにワクワクされていました。

 お席に通した後もそのお2人が楽しく美味しく召し上がっておられるか気になって気になって、時より声をかけると「おいしいです!」と超笑顔で言って下さいました。

 それならお返しに「おいしいいただきましたーーーー!!!!」と僕が言い、「ありがとうございます!」とスタッフ全員で店内に響き渡る声で言うと、すごく喜んでくださいました!

 最後に帰り際、「本当にありがとう!楽しかったし、美味しかったです。料理は味だけじゃないね。その店の雰囲気も重要だよ!」と言って下さいました。そんなお言葉をもらったのは初めてだったのですごく嬉しかったです!
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 料理人道はわが国社会のあちこちに入り口を開けて、待っている。その道に入るのは簡単である。自分でいかにお客様におもてなしをするかを考えていけば良い。ひとたび、その世界に入れば、その中には豊穣な世界が広がっているのである。
(文責:伊勢雅臣)
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中国の仕掛ける心理戦にどう備えるか(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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   ■ 国際派日本人養成講座(H24.10.07) ■

武力侵略の前から、日本国民の抵抗意思を挫く心理宣伝が始まっている。


■1.中国の仕掛ける「心理戦」

 尖閣諸島をめぐる日中間の緊張で、最近、一部識者から「日中両国で島の帰属や共同開発など、平和的に話し合ってはどうか」という主張が聞こえてくる。平和と友好を重んずる日本人には、いかにも心地よく聞こえる主張である。これに関して、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏はこう指摘する。

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 中国側が仕掛けた『情報戦』『心理戦』の一環だろう。日本固有の領土なのに、どうして中国と交渉のテーブルに着く必要があるのか。動じてはならない。毅然として『尖閣は絶対に守る』と言っていればいい。[1]
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 沖縄・南西諸島地域の領空を守る航空自衛隊南西航空混成団司令を務めた佐藤守・元空将もこう語る。

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 中国の代弁者に聞こえる。2008年に中国人民解放軍の幹部と議論した際、まったく同じことを言っていた。中国の軍事的脅威より、こうした謀略工作が心配だ。民主的手段で尖閣が侵攻されたら、自衛隊にも米軍にも手出しができない。[1]
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 中国の侵略は、武力侵攻のはるか以前から、謀略工作による「情報戦」「心理戦」として始まっている。そして、それに負けてしまえば、いつのまにか尖閣諸島は共同管理となり、はては取り上げられてしまうという恐れもある。


■2.「精神−心がくじけたときに、腕力があったとて何の役に立つでしょうか」

 心理戦への備えを強く説いているのが、スイス政府が全家庭に配布した『民間防衛』である。同書はスイスが他国からの侵略を受けた際に、国民としてどう行動すべきかを詳細に説いた本である。消火・救援活動のみならず、核・生物・化学兵器からの身の守り方、さらには占領された後のレジスタンス活動まで説いている。

 その中でも、心理戦の重要性について「まえがき」でこう説いている。

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 一方、戦争は武器だけで行われるものではなくなりました。戦争は心理的なものになりました。作戦実施のずっと以前から行われる陰険で周到な宣伝は、国民の抵抗意思をくじくことができます。

精神−心がくじけたときに、腕力があったとて何の役に立つでしょうか。反対に、全国民が、決意を固めた指導者のまわりに団結したとき、だれが彼らを屈服させることができましょうか。[2,p6]
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 相手の抵抗意思を砕き、戦わずして屈服させるのが、心理戦の宣伝工作なのである。


■3.「みずからを守った小国は、その国家的存在を保つ事ができたのである」

「全国民が、決意を固めた指導者のまわりに団結したとき、だれが彼らを屈服させることができましょうか」という一節は、スイスの第2次大戦中の苦闘を知れば、単なる「精神主義」ではないことが分かる。

 当時、ドイツがフランスを降伏させ、イタリアもドイツ側に立つと、スイスは枢軸国に囲まれた。ドイツ国内では、一気にスイスを占領して、イタリアとの通商路を確保すべきだ、という声が強まった。

 それに対して、スイスはドイツ軍が侵攻したら、イタリアとの間のトンネルや鉄道線路を爆破して、通商路そのものを破壊すると宣言した。ドイツはそういう事態よりは、スイスの中立を尊重して、イタリアとの通商路を確保している方が得だと考えて、スイス侵攻を諦めた。

 こうしてスイスは中立を維持できたのだが、それができたのも、当時国民の間にわき上がっていた「同じ民族のドイツ側に立つべし」「バスに乗り遅れるな」という日和見主義を、ギザン将軍のもとで排除し、国民の意思統一を図ったからである。[a]

『民間防衛』では、さらにドイツとソ連の狭間でフィンランドが独立を求めて苦闘した例[2,p233,b]を挙げ、「みずからを守った小国は、その国家的存在を保つ事ができたのである」と主張している。


■4.「美しい仮面をかぶった誘惑のことば」

 このような「国民の抵抗意思」を、「作戦実施のずっと以前から行われる陰険で周到な宣伝」で挫(くじく)くことが心理宣伝なのだが、それを『民間防衛』は次のように説明する。

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 軍事作戦を開始するずっと前の平和な時代から、敵は、あらゆる手段を使ってわれわれの抵抗力を弱める努力をするだろう。

 敵の使う手段としては、陰険巧妙な宣伝でわれわれの心の中に疑惑を植えつける、われわれの分裂をはかる、彼らのイデオロギーでわれわれのこころをとらえようとする、などがある。新聞、ラジオ、テレビはわれわれの強固な志操を崩すことができる。[2,p145]
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 その例として、スローガン、ポスターの形で、以下を挙げている。
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 敵はわれわれの抵抗意思を挫こうとする
そして美しい仮面をかぶった誘惑のことばを並べる:

「核武装反対
 それはスイスにふさわしくない。」

「軍事費削減のためのイニシャティブを
 これらに要する巨額の金を、すべてわれわれは、
 大衆のための家を建てるために、各人に休暇を与えるために、
 未亡人、孤児および不具舎の年金を上げるために、
 労働時間を減らすために、税金を安くするために、
 使わなければならない。
 よりよき未来に賛成!」

「平和のためのキリスト教者たちの大会

 汝 殺すなかれ
 婦人たちは、とりわけ、戦争に反対する運動を
 行わなければならない。」[2,p234]
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■5.「ダブル・スタンダード(二重基準)」

 わが国でも、そっくりの心理宣伝が行われてきた。たとえば、「核兵器反対」「戦争反対」、最近では「原発反対」。もちろん、純粋な思想信条としてこれらを主張している人々がほとんどであろう。しかし、その人々の純粋な心情を利用して、わが国の抵抗力、抵抗意思を弱めようとするのが心理宣伝なのである。

 純粋な思想信条か、心理宣伝かを見分ける簡単な方法がある。それは「ダブル・スタンダード(二重基準)」になっていないか、とチェックすることである。

 たとえば、「核兵器反対」を唱える活動家たちは、アメリカの核兵器だけでなく、ソ連や中国の核兵器にも反対していただろうか。広島の原水禁大会で、「アメリカの核兵器だけでなく、ソ連の核兵器にも反対する必要がある」と述べた学生が、壇上から引きずり下ろされたという事例がある。

 同様に「ベトナム戦争反対」とデモをしていた人々は、中国によるベトナム侵攻や、ソ連によるアフガン侵攻にもデモをしただろうか。

 最近では「原発反対」のデモが話題になったが、わが国と同様に地震の多い、しかもわが国ほどの安全技術を持たない中国で原発の大建設が行われている事に、反対しているだろうか。

「核兵器反対」「戦争反対」「原発反対」などを、人類普遍の理想として主張するなら、それはすべての国々に公平に向けられなければならない。それがわが国や、同盟国アメリカにのみ向けられ、敵対陣営に向けられていない場合は、わが国の抵抗力、抵抗意思を弱めるための心理宣伝だと考えてよい。


■6.「各人の判断力と完全な責任感を養う」

 しかし、このような心理宣伝に対抗するために、政府が言論統制したりしてはならない、と『民間防衛』はたしなめる。思想言論の自由を守ることは、スイスや我が国のような自由主義社会の本質だからだ。

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 わが国家は、自由とキリスト教の上に立っている。この両者は、ともに、イデオロギーでもなく、教条的体系でもない。われわれは、入り乱れる精神的闘争の中にあって、われわれの、最上の価値を持つ財産を、見失ってはならない。

したがって、スイスで言う心理的国土防衛とは、教条的訓練ではなく、各人の判断力と完全な責任感を養うことである。[2,p163]
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 スイスにとっての「自由」の価値を、同書の「訳者あとがき」では次のように解説している。

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 スイスは守るべき価値として、物質的な財産はもちろんのことだが、より基本的には「自由」を根幹とする社会体制を重視している。
 ここで「自由」は自分達のよりよき社会を築いていくことができるための不可欠な要素として捉えられている。スイス人がスイスの社会を愛し、それぞれの時代の要求に応じ社会の改善に努めるためには自由な発言が許され、いかなる意見も抑圧されず、自由に政党が結成され、そして自由に政治活動が認められなければならないということである。[2,p317]
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 自由は我が国の政治的伝統でもある。中世近世において、世界で欧州と日本においてのみ近代文明が生じたのは、両地域に自由の伝統があったからである。[c]

 したがって敵対国からの心理戦を仕掛けられても、政府が言論統制を行っては、我が国の貴重な社会伝統を毀損することになる。

 アメリカの核には反対するが、中ソの核にはダンマリという、政治宣伝に対しても、あくまで自由な国民として、一人ひとりがそのダブル・スタンダードを見破り、批判の声を上げなければならない。こうした事ができるよう「各人の判断力と完全な責任感を養う」事が心理戦に対する民間防衛なのである。


■7.心理宣伝の手口を知る

『民間防衛』では、さまざまな種類の心理宣伝を挙げている。その手口を知ることは、心理戦に備える第一歩である。それぞれの手口を、最近の中国の例とともに紹介しよう。

・自国の力を強大だと信じさせ、とうてい敵わないと抵抗を諦めさせる。
 「中国経済は日本を抜いた。やがてアメリカも追い抜く」「中国海軍に初の空母配備」「中国漁船1000隻が尖閣へ」

・その逆バージョンで、日本の弱さを強調する。
 「中国での暴動で、日本企業はひとたまりもない」 「米軍は尖閣を守らない」「レアアースの輸入が止められたら」

・日本政府と国民を離間させる(あるいは、敵対的な政権が誕生しないようにする)
 「お腹痛くなっちゃって政権を投げ出した安倍晋三」

・日本の歴史をねじ曲げ、国民が愛国心を持たないようにさせる。 「南京大虐殺30万」「日本の中国侵略の犠牲者3千万人」

 このような心理宣伝の一つひとつに対して、国民一人ひとりが事実を知り、自らの頭で考え、心理宣伝を行う識者やマスコミを論破していく事が、自由主義社会における民間防衛である。

 迂遠なようだが、そのような自立した国民によって支えられた国の方が、全体主義で国民を隷従させる大国より強いという事例が、スイスやフィンランド、そして日清・日露戦争でのわが国によって示されている。


■8.「あらゆる危険に備える平和愛好国と、いかなる危険にも目もくれない平和愛好国!」

 心理戦に関してだけでも、これだけの事を述べた本をスイス政府は全家庭に配っているのである。心理戦に関しては政府も国民も無知なわが国とはまったく違う。

 スイスも日本も半世紀以上も戦争をしていない平和愛好国であるが、この両国を比較して、『民間防衛』の訳者後書きでは次のように述べている。

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 しかし、一方の国では平時から、戦時に備えて2年間分位の食料、燃料等必要物資を貯え、24時間以内に最新鋭の武器を備えた約50万人の兵力の動員が可能という体制で平和と民主主義を守り、他方の国では、軍事力を持つことは民主主義に反するというような議論が堂々となされているのは、まことに奇妙といわざるをえない。

 あらゆる危険に備える平和愛好国と、いかなる危険にも目もくれない平和愛好国![1,p319]
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 スイスが周囲をドイツ、フランス、イタリアなど、同質の近代的民主主義国家群に囲まれているのに対し、日本が中国、北朝鮮、韓国、ロシアと異質な前近代的国家群に囲まれていることを考えれば、両国の違いは、さらに際立ってくる。

 わが国の独立と自由を守るためには、まずは国民一人ひとりが心理宣伝に惑わされない自立した思想と精神を育てるという民間防衛から始めるべきだろう。

(文責:伊勢雅臣))
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恩を仇で返す国、中国(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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   ■ 国際派日本人養成講座(H24.9.30) ■

 恩を仇で返す国、中国


■1.販売店の残骸を指さして腹を抱えるように大笑い

 中国・青島における反日暴動の被害状況が「記者が訪ね歩いた反日暴動、憎悪と恐れの傷跡」としてレポートされている。[1]

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・・・ホンダ系列の販売店は、すでに四方を覆いに囲まれていた。覗き込むと、窓ガラスはほぼすべて割られ、建物の中は鉄骨がねじ曲がり、焼け焦げたものが四散している。・・・

(日産自動車系列の)販売店内に展示されていたと思われるクルマが、十数台、無残な姿を晒していた。ほぼすべてガラスは割られており、中にはボディが滅茶苦茶に凹まされているものもある。・・・

 と、大きな笑い声がしたので振り返ると、破壊された自動車販売店の目の前の路上にクルマが停車していた。おそらく20代前半の男性数人が乗っており、販売店の残骸を指さして腹を抱えるように大笑いしている。

 だが、彼らが指さして笑う被害者は、日本企業の系列とはいえ、オーナーも従業員も中国人の純然たる中国企業だ。中国人が、破壊された店舗で途方に暮れている中国人を笑っている。その事実に彼らは気づいているのか。
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 そもそも、いくらある外国が憎いからと言って、こんな野蛮な焼き討ち、暴動が許される国は異常である。

 しかも、このレポーターが書いているように、被害店のオーナーも従業員も中国人である。さらにホンダと言い、日産といい、すでに大規模の現地生産をしているので、同じ中国人の作った車だろう。日本に損害を与えるためには、同胞にいくら迷惑をかけても構わず、大笑いまでする感覚は、日本人のみならず、文明国の人間には理解不能だろう。


■2.「恩を仇で返す」行為

 今回の中国における反日暴動では、パナソニックも被害に遭い、「『井戸掘った企業』も標的 松下幸之助氏への恩忘れ」と報道されている。[2]

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 パナソニックと中国の関係は、松下電器産業時代の1978年10月、大阪府茨木市の工場で、創業者の松下幸之助氏が、中国の近代化路線を進めるトウ小平氏(当時副首相)を迎えたときから始まった。

 電子工業分野の近代化を重視していたトウ氏が、「教えを請う姿勢で参りました」と切り出したのに対し、松下氏は「何であれ、全力で支援するつもりです」と全面的なバックアップを約束した。

 松下氏は、改革・開放路線の黎明(れいめい)期に日中経済協力に踏み出した功績で、中国では「井戸を掘った人」としてたたえられてきた。
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 そんなパナソニックですら、反日暴動の標的にされた事実は、まさに「恩を仇で返す」行為である。しかし、中国ではこれと同じ事が何度も繰り返されてきた。

 1930年代のアメリカで、キリスト教宣教師たちが中心となって貧しい中国を救おうと、官民あげての支援をしてきたのだが、その宣教師たちが虐待、虐殺されたり、彼等の建てた学校が焼き討ちや略奪にあっている。

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 私の知るところでは、1927年国民党が政権を握り、裏で排外政策を採って以来、略奪、放火などの暴力事件を含む学生暴動が起きないアメリカン・ミッションスクールは一つとしてない。国民党政権になった年、東部だけでも108校あったミッションスクールのうち、45校が数年間閉校となった。[3,p167]
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 こう記すのは、1931年からアメリカの副領事として上海、その後、福建省福州で勤めたラルフ・タウンゼントである。彼が1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』には、彼が直接、見聞し、あるいは副領事として巻き込まれた事件が数多く、記されている。


■3.虐殺された高齢の女宣教師

 同書には、カトリック系の宣教師に限った被害統計が引用されている。それによると、1912年から1932年までの約20年間で320人の宣教師が「逮捕」され、47人が殺害されている。「逮捕」とは身代金目当ての誘拐であるが、それでは聞こえが悪いから、中国側の「愛国運動」の一環として「逮捕」されたことになっている。

 福州での一例をタウンゼントはこう紹介している。

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 福州を流れる川の上流でのこと。高齢のイギリス人女宣教師が二人、追い剥ぎに捕まり「裁判され」、「帝国主義者」にされ、「残虐なる死刑」に処せられた。

生涯を聖職者として現地住民のために捧げた二人を待っていたのは、体中を切り刻まれ、長時間悶え苦しみ殺されるという無残な最期であった。当然ながら、中国国民党「政府」は何もしなかった。政策の一環であるから、助けるわけがない。[3,p171]
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 山中の盗賊に、外国人宣教師が襲われる、ということは、どこでもあることかも知れない。しかし、金目のものを持っていない老女二人をわざわざ「残虐な処刑」にするのは、悪魔の所行である。

 また老宣教師二人から長年の恩を受けた住民も、せめて顕彰碑を建てるぐらいの事はあっても、しかるべきだろう。

 台湾では日本統治が始まった翌年の明治29(1896)年正月、台湾の近代化を目指して設立された最初の小学校に赴任した6人の日本人教員が抗日ゲリラに襲われて殺害されるという事件が起こったが、その犠牲者を祀る「六士先生之墓」が建立されている。これが心ある国民の態度であろう。[a]


■4.略奪を奨励する政府

 中国における外国人に対する暴動の特徴は、政府が外国人を守るどころか、外交政策の一環として、陰で操っているという点である。タウンゼントはこう書く。

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 中国中央政府に盗賊団や学生放火魔を取り締まるよう要請しても期待できない。しかし、「アメリカ資産に手を出すな」とお触れを出させるくらいのことを要求する権利はある。

しかし保護するどころか、過激排外学生におもねり、略奪を奨励する政府である。略奪行為の多くを私はじかに知っているのであるが、これに荷担した政府役人でも何のお咎めもなし。

 全在中国領事館を調査したら、1927年に国民党が政権を握ってからの略奪事件だけでも数千件にも上ると思われる。[3,p286]
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「略奪を奨励する政府」とは、この時期の国民党政府に限らない。現在の共産党政府もそうだし、また1900年に起こった義和団事件での清国政府もそうであった。

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 この事件で宣教師はじめ外国人追放運動に可能な限りに軍事援助をしたのがあの西太后である。いつもながらそのやり口が汚い。義和団が不穏な動きを見せていたが、政府は宣教活動の「守護神」として理解を示していた。

そして義和団が無防備の宣教師を虐殺し、「できる」と見ると「君子豹変」した。数百の宣教師が殺害された。宣教師だけではない。「信者」のレッテルを貼られて虐殺された中国人は4桁にもなる。[3,p173]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 清国政府、国民党政府、共産党政府と三代の政府のいずれもが、同様に暴動を後押ししている以上、それは中国の政治文化の本質と言うべきだろう。

 ちなみに、この義和団事件では、清国政府は外国人を守るどころか、その虐殺に理解を示したので、欧米諸国と日本は結束して、自国民保護のために出兵した。日本は地理的に近いことから、欧米諸国の要請を受けて最大の兵力を送った。

 この時、北京の公使館地区では欧米10カ国と日本の駐在武官たちによる自衛団が結成され、2ヶ月間、侵入しようとする暴徒と清国兵から、大使館員とその家族、周辺の住民を守り通した。その中心となって奮戦したのが、柴五郎中佐率いる日本将兵たちで、柴中佐には、欧米各国からの勲章授与が相次いだ。

 事件後、外国人の安全を守れない清国政府は、日本が自国民を守るための軍隊を清国内に駐留させる事を受け入れた。支那事変の発端となった盧溝橋事件で、日本軍が北京周辺にいたのは、侵略ではなく、あくまで自国民の保護のための権利であった。


■5.ミッションスクールを襲う学生や教職員

 アメリカのミッション・スクールを襲うのは、キリスト教に触れたことのない暴徒だけではない。自らの慈善活動で育てた学生たちからも襲われたのである。

__________
 代表例を挙げよう。慈善団体が援助する学校で、外人教師は交代して夜中に教室と宿舎の見回りをしている。「中国人学生の放火から校舎を守るため」である。

中国人学生とは何者か。宣教師が救ってやった者ではないか。奴隷同然の境遇から救い、将来のため教育を受けさせ、高い寮にまで入れた子ではないか。こういう子が夜の夜中に寮を抜け出し、自分が学ぶ寮や教室に火を放ち、「くたばれ、帝国主義のヤンキー野郎」と叫ぶのである。イギリス人も同じ扱いをされている。福州では去年、貴重な校舎を3ヶ月で三つも失った。[3,p166]

汕頭では学生と中国人教職員が混乱に乗じて校舎を占拠し外国人職員を追い出した。普段は愛嬌を振りまく中国人が、好機到来とみるや豹変する一例である。[3,p167]
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■6.中国人学校の平和的侵略

 ミッションスクールは中国人の「平和的侵略」にも悩まされた。以下は、タウンゼント自らが巻き込まれた事件である。[3,p99]

 福清近くのミッションスクールが校舎の近くに空き地を持っていた。近くの中国人学校の偉い人たちが何人かで来校してこう言った。「お宅はあの空き地をお使いになられていないご様子ですが、お宅が使うまで当方に貸してもらえないでしょうか?」

 ミッションスクールの校長は「必要となったら、無条件でいつでも返す」という条件で、同意した。ところが中国人学校の方は、空き地を校庭として使い始めると、周りに塀を建て始めた。

 ミッションスクールの校長は、直ちに抗議したが何の効果も無く、中国人学校の学生から石を投げかけられる始末である。地元の警察に頼んでも何もしてくれない。

 中国人学校は塀を完成させ、堂々とその所有権を主張した。ミッションスクールは福州のアメリカ領事にこの件を訴え、領事はアメリカ政府と連絡して、福建政府に強硬な要望書を出した。

 何週間も経ってから、責任者から「塀を直ちに撤去する」旨の通達があった。しかし、その後も一向に撤去されない。「いつ撤去するのか」と問い合わせると、「即刻」と返事が来る。より強硬な要望書を何度か出すと、今度は「塀はすでに撤去され、完全復元済み」と連絡が来た。ところが現地に出向いて見ると、塀はまったくの手つかず。

 こうしたやりとりを一年近く続けた上で、ようやく塀は本当に撤去された。ところが、塀を取り壊すとき、彼らはこっそり礎石を2、3個残しておいた。ミッション側がこの礎石の上に建物を建てたら「石を返せ。弁償しろ」と無理難題を吹っかけようというのである。しかし、以前、同じ事があったので、その手は通じなかった。

 こんな些細な事件でも、解決までに数ヶ月から数年かかる。当該領事は疲労困憊して、病気を理由に福州を去った。「優秀でありながら、中国人に振り回され、半狂乱になった人の数は枚挙に暇がない」とタウンゼントは記している。


■7.「人生無駄にしたなあ」

 さて、こういう虐殺、暴動、放火、詐欺に悩まされながら、布教を続けたキリスト教宣教師たちは、成果を上げることができたのだろうか。ある老齢の女性医療宣教師が、次のように語った言葉が引用されている。

__________
 62歳になって帰国するんです。希望が持てなくなってね。34年間も片田舎で中国人のために医療宣教師として務めました。義和団事件の頃だって病院を離れなかったわ。・・・

62の今になって気づきました。「人生無駄にしたなあ」と。・・・ここでは何をしても無意味で、感謝もされないのです。本当に残念ですね。でもこれからは違うわ。アメリカに帰ったら若者に「宣教師として中国に行くなんて狂気の沙汰よ」と、命ある限り訴えようと思っています。[3,p169]
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 タウンゼントは、このおよそ80年前に出版された本で、未来をこう予想していた。

__________
 中国人の誰もが舶来の高級服を着て、高級外車に乗れる時代になったとしても、ずる賢く言い逃れをし、頑固で嘘をつく性格が変わるとは思えない。[3,p90]
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 まさしく中国人が高級服を着て、高級外車に乗れる時代となったが、今回の反日暴動を見れば、タウンゼントの予言は見事に当たった事が分かる。歴史は鏡である。歴史を見れば、中国の本質はすぐに見透かせる。

(文責:伊勢雅臣)
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新幹線を創ったサムライたち (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座(H21.12.27) ■

新幹線を創ったサムライたち

〜世界初の高速鉄道は、無数のサムライ達の献身的な努力で実現した〜



■1.新幹線開発は日本の不朽の功績■

 温室効果ガスを排出する自動車や飛行機に替わって、高速
鉄道がグローバルに広まりつつある。現在、アメリカ、ブラ
ジル、ベトナムなどが導入を計画している。

 この高速鉄道の先駆者が日本の新幹線である。新幹線が開業
したのが昭和39(1964)年だから、すでに45年前になる。日
本の新幹線の成功に刺激されて、その6年後に建設が始まった
のがイタリアのディレティッシマ、さらにその6年後にフラン
スのTGV、ドイツのICEの工事が始まった。[a]

 1960年代と言えば、鉄道は自動車と飛行機にとって替わられ
つつある斜陽産業だと考えられていた。また鉄道技術で先進の
欧州諸国では、試験走行でこそ300キロ以上のスピードを記
録していたが、一度走ると線路が壊れてしまうので、営業運転
などとても無理、と考えていた。

 日本が新幹線を成功させて、そんな常識をひっくりかえさな
かったら、今でも世界は石油をがぶ飲みし、温室効果ガスをま
き散らす自動車と飛行機に頼るほかなかったであろう。

 新しい地球環境文明の大きな柱として高速鉄道を開発した我
が国の貢献は不朽である。そして、それは戦後の復興を賭けて
常識に挑戦したサムライたちの功績なのである。

■2.「線路をまくらに討ち死にする覚悟で」■

 サムライの筆頭が、新幹線建設を推し進めた国鉄総裁・十河
(そごう)信二である。十河は71歳の高齢で、昭和30
(1955)年5月に国鉄総裁に就任したのだが、それには事情があっ
た。

 その数日前、国鉄宇高連絡船が同じく国鉄の貨車航送船と衝
突して沈没、168人の死者が出て、前任の国鉄総裁が辞任し
ていた。当時の国鉄は大量の戦後復員者を抱え、改善の見込み
のない赤字体質、さらに大事故のたびに総裁の首が飛ぶとあっ
ては、誰も進んで総裁になろうという人はいなかった。

 国鉄出身の十河が心配して、民主党総務会長の三木武吉など
に後任総裁を進言していたが、誰も引き受け手がおらず、三木
は「十河さん。そんなにいうんならあんたがやったら」と言い
出した。十河は高齢と健康を理由に固持したが、

 君の祖国である国鉄は苦難つづきで、いま危機に瀕して
いるではないか。君は赤紙(召集令状)を突きつけられて
も祖国の難に赴くことをちゅうちょする不忠者か。[1,p42]

 とまで言われると、明治生まれの十河は返す言葉もなく、
「俺は不忠者にはならん」と引き受けてしまった。

 十河は総裁就任の記者会見でも「国鉄のため、国民のため、
最後の御奉公と思い、線路をまくらに討ち死にする覚悟で」と
思いを述べた。

■3.十河総裁の「討ち死に」■

 十河は総裁に就任するとすぐに、国鉄再建の目玉として、東
海道に広軌新線を敷く案の検討を命じた。東京−名古屋−大阪
を結ぶ高速鉄道こそ、日本の経済発展を支える大動脈になる、
との考えである。それは明治の終わりから大正の初めにかけて、
十河が満鉄時代に仕えた後藤新平の構想だった。

 しかし、今後は飛行機と自動車の時代で、鉄道の衰退は世界
的な流れと考えられていた。たしかに東海道線は切符もなかな
か買えないほど混み合っていたが、それは翌年秋に全線電化が
完成すれば輸送力が増して解決できる問題だと考えられていた。
国鉄内部で広軌新線の案に賛成したのは一握りの人々だけで、
十河は内部の説得に努め、同時に政治家や官僚、財界人にその
必要性を説いて回った。

 ようやく策定された建設計画の投資規模は3千億円を超えて
いた。国家予算が4兆1千億円程度の時代である。またすでに
計画が進んでいた東京−神戸の高速自動車道(後の東名、名神)
の総建設費が約15百億円だった。十河は「すこしぐらいの赤
字ならあとから俺が責任をもって話をつけてやるから」と無理
矢理、投資額を2千億円以下に下げさせた。

 昭和33(1958)年12月、3年間の努力が実を結んで、新幹
線の着工が正式決定となった日の夕方、十河は青山墓地に行き、
広軌鉄道の先覚者だった後藤新平の墓に、その実現の日がつい
にやってきたことを報告した。

 十河は総裁を2期8年務め、昭和38(1963)年5月に退任し
た。せめて1年4ヶ月後に迫った開業式まで留任させてテープ
カットをさせてあげてはという同情論もあったが、工事費は物
価上昇も含めて38百億円に膨れあがっており、総裁の責任と
してそれは許されなかった。

 総裁在任中、政治家たちが地元利益のために新線建設をさか
んに依頼してきたが、十河はそのような票目当てで経済効果の
ない建設計画を抑え込み、真に国家が必要とする新幹線建設に
予算をつぎ込んだために、敵が多かったのである。

 昭和39(1964)年10月1日の新幹線開業式に十河は招待さ
れなかった。十河はその覚悟通り「線路をまくらに討ち死に」
したが、その志は立派に果たされたのである。

■4.島秀雄の「あえて火中の栗を拾う」決意■

 十河に任命されて、副総裁格の技師長として新幹線建設の技
術開発の指揮をしたのが、島秀雄である。実父が戦時中に弾丸
列車の設計に携わった縁で、「親父さんの弔い合戦をやらんか?」
と十河に誘われたのである。

 島は電車列車方式、ATC(信号方式)、CTC(列車集中
制御方式)など画期的な技術開発を成功させ、欧州の鉄道界が
不可能としていた時速200キロ以上での営業運転を実現した
ばかりか、開業以来今日まで45年間、一度も大事故を起こし
ていないという驚くべき安全性をもたらした人物である。その
足跡は[a]で述べたが、ここでは十河からスカウトされた時の
逸話のみを紹介しておこう。

 島は終戦後、工作局長として国鉄の近代化に辣腕を振るって
いたが、昭和26年8月に国鉄を退職した。その4ヶ月前、京
浜東北線桜木町駅構内で、電気工事のミスから車両火災が発生
し、106人もの焼死者が出るという大事故が発生した。島は
その責任をとるとともに、これだけの大惨事に国鉄内部で責任
のなすりあいをしている姿に嫌気がさして、辞職したのである。

 島はその後、住友金属工業に入り、その技術的手腕で大きな
成果を上げて役員にまでなった。そんな矢先に十河から、新幹
線をやるので、戻ってこいと誘いを受けたのである。

 島は「住友金属にお世話になっているから」と固持し続けた
が、十河は住友金属の社長に会って、島の説得と譲渡方を頼ん
だ。社長からも勧められては、島も断り切れず、「あえて火中
の栗を拾う」決意を固めた。住友金属の役員から国鉄技師長に
転任すると、収入もかなり減ったが、島は冗談交じりに十河に
語っただけで、以後、二度とそのことを口にしなかった。

 十河が総裁を退任した際に、島も一緒に国鉄を退職した。石
田礼助・新総裁から「技術面の責任者としてぜひとどまってい
ただきたい」としきりに慰留されたが、「私は十河さんに呼ば
れて国鉄に入ったのだから、十河さんがお辞めになるんなら私
も辞めます」と断った。新幹線も技術的には99%目処がつい
たという思いがあった。

 島も開業式には招待されず、高輪の自宅から一番列車の出発
を見送った。

■5.零戦の技術が新幹線開発に生きた■

 陸海軍には飛行機や軍艦、兵器などの研究開発に携わってい
た技術者が大勢いたが、終戦後、そのほとんどが軍の解体で職
を失い、路頭に迷うところだった。それを見た当時の鉄道技術
研究所長・中原寿一郎は、運輸次官に対して、

 陸海軍の優秀な技術者をみすみす散逸させてしまうのは
国家にとって大きな損失。国鉄で引き受けましょうよ。

と口説き落とし、約1千人の技術者たちを研究所に採用してし
まった。当時5百人だった研究所が、一挙に3倍以上に膨れあ
がった。

 海軍航空技術廠で飛行機の振動問題を研究していた松平精も
その一人であった。世界有数の研究設備と工場も含めて3万人
もの人員を擁していた海軍航空技術廠にいた松平は、木造のバ
ラック3棟からなる研究所を見てがっかりした。しかし鉄道で
の振動の研究論文を読んでいくと、お粗末なものばかりで、
「これならやることはいっぱいある」と思った。

 この頃の国鉄は脱線事故は珍しくなく、時には100人以上
もの死者が出ていた。昔からの鉄道技術者たちは、レールの蛇
行が脱線の原因と考えていた。それに対して、松平は零戦がフ
ラッター現象(空気流によって機体の振動が増幅していく現象)
で空中分解した事故を研究した経験から、同じ事が列車で起こ
り、それがレールを曲げて、脱線にいたると考えた。

 松平がいくら説明しても、フラッター現象などという新しい
概念を鉄道技術者たちは受け入れなかった。論より証拠と、松
平は円形の無限レールの上で車両を高速走行させ、その振動状
況が観察できる試験装置を開発した。ある速度になると突然、
車輪が左右に揺れだして、松平の仮説が正しかったことが誰の
目にも明らかになった。

 この試験装置から、高速走行しても横揺れしない車両の開発
につながった。かつての零戦の技術が、新幹線の誕生に役だっ
たのである。

■6.新丹那トンネル工事に挑む■

 路線建設工事は工期が長く、技術的にも難しいトンネルや橋
梁から始められた。新幹線ルートはできるだけ最短距離を通る
ようにしたため、トンネルが多くなった。総延長515キロの
うち、トンネルの総距離は69キロに達した。

 なかでも最長は熱海の先の全長8キロの新丹那トンネルで、
最初に着工された。近くを通る東海道本線の丹那トンネルは、
大正7年に着工されて16年近くを要し、67名もの犠牲者を
出して、完成されたものである。

 戦争中の弾丸列車計画で、昭和16(1941)年から新丹那トン
ネルが着工されたが、戦局の悪化に伴い、昭和19(1944)年6
月に工事が中止された。戦後の新幹線では、この未完成の新丹
那トンネルでそのまま工事が再開されることになった。

 戦争中のトンネル工事で熱海側の工事区長だった青木礼二は、
工事中断後もずっとトンネルの保守を続けてきた。新幹線建設
で15年ぶりにトンネル工事が再開されると、今度は三島側の
工事区長として、取り組んだ。

 工事途中で、断層から大量の出水があり、掘削中止に追い込
まれたが、水抜き坑を別途掘るなどして、半年後に工事を再開
し、4年4カ月で完工にこぎ着けた。青木はこう語っている。

 新丹那トンネルは旧丹那と50メートルしか離れておら
ず、地質もよく似ている。そこで私は新丹那トンネルの工
事を再開する際に、『丹那隧道工事誌』という旧丹那トン
ネル工事の精密な記録をくり返し熟読し、難所や問題点は
すべて頭の中に入れておいた。このため工期はわずか4年
そこそこで、直接の事故は全くなかった。これは全く丹那
トンネルを完成した先人のおかげだ。[1,p219]

 ちなみに、新丹那トンネルから出る大量の水は熱海市の水道
に利用され、その3分の2ほどをまかなっているという。

■7.「鉄道に入って糞尿の調査とは」■

 新幹線の開発に必要だったのは、こうした最先端の技術ばか
りではない。もっと泥臭い開発も必要だった。その一つが糞尿
の処理である。

 当時は、乗客の糞尿は走行する車両からそのまま線路にまき
散らされていた。そのため、飛散する汚物で沿線の民家の洗濯
物が汚れるなどの問題が起きていた。このまき散らしの方式だ
と高速の新幹線では、どれだけ被害が広がるか分からない。

 そのために、糞尿を車両床下のタンクに貯め、それを車両基
地で処理する方式が考えられた。これは日本のみならず、世界
でもはじめての試みだった。

 糞尿処理施設の設計のもととなる基礎資料づくりを命ぜられ
たのが、国鉄に入社して間もない鎌田覚だった。「鉄道に入っ
て糞尿の調査とは」とぼやいたものの、誰かがやらなければな
らない、と思い直して、調査に乗りかかった。

 東海道本線の列車のトイレに糞尿のタンクを仮設し、朝7時
半に大垣を出てから、東京に行き、22時半に大垣に戻るまで、
トイレのそばに陣取って、乗客の使用回数と時間を調べた。大
垣ではタンク内の糞尿の量を量り、サンプルをとって、夜行で
東京に戻り、内容の分析をする。

 こうした鎌田の献身的な調査から得られた基礎データに基づ
き、世界で初めて列車の糞尿処理の問題が解決したのである。

■8.サムライたちの努力の結晶■

 このほかにも、地上げ屋との不眠不休の戦いを続けた用地買
収係員、品川駅で新幹線のためのスペースを空けるために、複
雑な在来線の線路や架線、信号、施設の付け替え工事を、まる
で心臓手術のように、綿密に着実にやり遂げた工事担当者、等
等、縁の下の力持ちの仕事に、無数の人々が寝食を忘れて取り
組んだ。

 世界初の高速鉄道がいきなり登場して、驚異的な安全性と事
業としての成功を達成したのは、ひたすら新幹線の成功のため
に、それぞれの使命に献身的に打ち込んだ無数の人々の努力の
賜物なのである。

 サムライを「公のために主体的、献身的に努力する人」と定
義すれば、まさしく新幹線は無数のサムライたちの生き様の結
晶である。

 JR東海は、超電導磁気浮上式リニア新幹線を2025年頃に完
成させる計画を進めており、有人での世界最高時速581キロ
を達成している。この壮大な計画には、また多くのサムライた
ちが献身的な努力を続けているのだろう。その姿こそ「大和の
国」すなわち「大いなる和の国」の強みである。
(文責:伊勢雅臣)
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忘れられた国土開発 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座(平成10年9月26日)■


地球史探訪:忘れられた国土開発

■1.李朝朝鮮の飢餓地獄■

本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だった。

たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」には、次のような記述がある。

 1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
は、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。

 しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
放置しておく道を選んだ。[1,p64]

まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったから、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。これが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。

■2.20年間で倍増の人口爆発■

朝鮮半島が急激な人口増加を迎えるのは、20世紀に入ってからである。1906年(明治39年)からの20年間で、980万人から、1,866万人と倍増した。さらに1938年には、2,400万人となった。日韓併合時代である。[1,p29]

この人口増加の原因としては、いくつかの要因がある。一つは第6代宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動である。30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。併合当初米の生産量が約1千万石であったのが、20年後の昭和に入ると、2千万石へと倍増した。[1,p80]

もう一つは医療制度の確立、特に伝染病の予防である。1910年から徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年から20年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減した。

さらにインド、中国から朝鮮にかけて猛威を振るっていたハンセン病退治のための救ライ事業として、世界的規模と質を誇る小鹿島更正園を作って、6千人以上もの患者を収容している。[1,p85-86]

農村振興は、終戦後も朴正熙大統領のセマウル運動として続けられる。宇垣総督の秘書役であった鎌田澤一郎氏が、その経験を買われて何度も朴大統領に呼ばれ、アドバイスをしている。[2,p44]

北朝鮮が現政権から解放された暁には、日本も援助をして、このような農村振興をもう一度やり直さねばならないだろう。日韓併合時代にどのような国土開発事業を行って、朝鮮半島の民生向上に成功したのか、今のうちに研究しておく必要がある。

■3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■

 李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。

1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような旅行記を残している。

 どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
めに刈り取られている。
  山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
 ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
見られない。

森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要というのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。[1,p114]

内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている。[2,p39]

植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総合的な国土開発事業が展開された。

これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]

■4.きめこまかな農民保護政策■

こうした大規模な国土開発とともに、きめこまかな民生安定化の施策がとられた。宇垣総督時代には、当時8割を占めた小作農の生活を安定させるため、朝鮮農地令を実施して小作権を確立し、税制を整理して、負担を軽くした。さらに低利資金を融通して高利債務を返還させ、多角農業主義により綿花栽培や山羊飼育を奨励した。
[3,p414]

また従来、朝鮮農民が見捨てていたような不毛の地に入植して、開墾する日系移民も約3,800戸あった。これらの移住農民が、米の改良品種、新農法を持ち込み、養豚、養鶏、養蚕などの多角経営を図り、また厳冬にも家族ぐるみで副業に励む姿を見せた。日系農家の自力更正が、朝鮮農民の意識改革に大きな役割を果たしたのである。[1,p153]

興味深い事に、米作保護のために、現在の日本と同様の逆ざや価格政策がとられた。昭和18年の生産者の手取り価格は生産奨励金なども含めると一石62円50銭、消費者価格は43円、この逆ざやは政府が負担していた。

農業生産が軌道に乗ると、日本への輸出が急成長した。併合当時わずか11万石だったのが、昭和3年には760万石までになった。
これは日本の農家を圧迫し、日本政府は朝鮮米の輸入制限を図ろうとするが、総督府は徹底的にこれに反対して、朝鮮農民を守った。[3,p414]

朝鮮経済の保護育成政策は、関税制度にも明らかである。朝鮮から日本に輸出されるものは免税だが、輸入は移入税を課した。後進国が自国の産業育成を図るときに、輸入関税で保護するというのは、常套手段だが、日本は朝鮮経済に対して、これを適用したのである。

ちなみに当時の日本人の土地所有は1割程度なので、総督府の農業保護の恩恵の9割は、朝鮮農民が受けたと言える。また治山治水事業での労働に対しては、作業者に日当が支払われている。これは李朝時代には無かった事である。

■5.開発をささえた資金源は■

こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから出てきたのだろうか。

宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であった。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔も変わりない。それでも足りない分は、日本の金融市場から集めた公債によってまかなわれた。[1,p142]

ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]

朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多くの面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。

しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。

■6.食料危機対応のモデルケース■

北朝鮮が金日成政権から解放されたら、飢餓地獄から北朝鮮国民を救うべく、朝鮮総督府が行った国土開発事業をもう一度、始めからやり直さねばならないだろう。費用の問題は別として、そのモデルは、朝鮮総督府によって示されたと言って良いであろう。

実はこの国土開発の方法は、朝鮮総督府の独創ではなく、我が国江戸時代に、上杉鷹山公(米沢藩藩主)、恩田木工(信州松代藩)、二宮尊徳などが行った農村振興を発展させたものだ。それは西洋的な自然征服ではなく、治山治水を通じて、自然と共生しつつ、農業生産の向上を図るという、優れたエコロジー的発想なのである。

環境破壊による食糧危機は、北朝鮮だけではない。中国の最近の洪水被害も国土破壊の結果であり、いよいよ食料自給が困難になってきている。中国が食料輸入国に転落すれば、現在の国際食料価格が急騰し、アジア、アフリカ、南米などにも飢餓が広まろう。そうした視点から見れば、朝鮮総督府による国土開発事業の世界史的な成功は、貴重なモデルケースとなるはずである。

[参考]
1. 歪められた朝鮮総督府、黄文雄、光文社、H10
2. 「韓国併合」とは何だったのか、中村粲、日本政策研究センタ
ー,H8
3. 日韓2000年の真実、名越二荒之助、国際企画、H9
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朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。


■1.「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」

 二人の男が自転車で部落にやってきた。「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」という声がした。洋服姿をしているだけで、侮蔑の眼差しを向ける。老人は逃げ、青年たちは嘲りの表情で二人を見た。女たちも戸を閉めて家の中に隠れた。

 自転車を降りた二人のうちの一人は、杖をついてびっこを引きながら歩いている。丸眼鏡に頬髭を生やした特異な風貌である。その歩く様を、子供たちがそっくり真似しながら、はしゃいで、ついてくる。

 大正14(1925)年11月、平壌から東に40キロも入った江東という寒村でのことである。平壌からは1日1回、6人乗りのバスが往復するだけで、電気もなく、夜はランプの暮らしだった。

 びっこを引く男は重松〇修(○は高に昇、まさなお)。江東金融組合の理事である。金融組合とは、日本政府によって各地に作られた小規模の組合で、高利貸しに苦しむ農民を救うために小口低利の貸し出しを行っていた。

 江東金融組合では理事の重松以下、4人の朝鮮人職員がいるだけだった。びっこを引いているのは、前任地で暴徒に襲われ、脚を打ち抜かれるという重傷を負ったからだ。

 重松が訪れたのは、江東の下里(かり)という50戸ほどの部落で、両班(ヤンバン、貴族)の家柄から働くことを軽蔑して、のんびりと長煙管(きせる)を吸いながら、その日その日を過ごすことを誇りとしていた。そんな生活を続けていたので、零落していたが、それでも生活態度を変えようとはしなかった。

 重松は、因習を続けている下里を更正させることで、江東全体の変える模範部落にしようと考えたのである。


■2.養鶏の副業で農民を豊に

 重松は、江東の地に赴任してから、区域内の農民の現状を観察して回った。小作農や小農は凶作だと食べるものもなくなって、高利貸しに金を借りる。借金の返済のために僅かな土地を売り、一家離散したり、都会の浮浪者になる、という有様だった。

 金融組合が「節約して貯蓄を」と勧めても、そもそも貯蓄そのものが不可能な貧窮農家が多かった。そこで重松の考えたのが、養鶏を副業として農民を豊かにする事だった。

 トウモロコシの実をとった残りの黍殻(きびがら)を臼で擂(す)って鶏の餌にする。鶏の糞で田畑を肥やす。その卵を売り、また一部は育てて親鶏を増やす、というアイデアだった。

 こう思いついてから、重松は仕事の傍らで自力で鶏舎を建て、平壌に行って日本人の専門家から飼育の仕方を習い、10羽の白色レグホンと5羽の名古屋種を購入して育て始めた。朝晩は重松が世話をし、昼は妻が手伝う。

 艶々とした真っ白の羽と赤い鶏冠を持った白色レグホンとバラ色をした名古屋種は、鶏舎の中を元気に歩き回り、手のひらで餌を差し出すと、駆け寄ってきて、ついばんだ。

 やがて卵を生み始めると、毎晩、重松は卵が親鶏の羽の下からはみ出していないかチェックする。北朝鮮の冬では、冷えた卵は凍死してしまうからだ。

 養鶏は順調に進み、白色レグホンから生まれ育った若鶏は136羽。こららの生む有精卵を下里の村人たちに無償配布しようというのである。


■3.「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重松は李青年の案内で、立派な門構えの家に入っていった。飼い犬が吠えると、髭をたくわえた老人が出てきた。この村の長老のようだ。李青年は朝鮮式の丁寧な挨拶をした。部落の人も10名近く集まってきた。

 重松は朝鮮語で挨拶し、ここに来た目的を語り始めた。各戸に白色レグホンの有精卵を15個ずつ無料で配布するので、それを育て、とれた卵を供出して貰って共同販売する。卵の代金は据え置き貯金にして、貯まったお金で、豚や牛を買い、土地も買える。

 重光の熱意の籠もった言葉を、村人たちは黙って聞いていたが、はがて口を開いた。

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えば罰があたる」
「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんで、そんなことがあり得るはずがない」
「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重光は底知れぬ頑迷さを感じた。しかし、村人たちの嘲りの裏には、充たされぬ思いが潜んでいるような気がした。

 重松は何も反論せずに、「もっとよく静かにお考えになってください。そのうちまたお邪魔に上がります」と言って、引き揚げた。重松は自転車を押しながら、あの頑迷さを打ち破るには何度も何度も訪問し、誠意で彼らの心に触れ、愛によって彼らの心の底の魂を揺り覚まさなければならない、と考えた。


■4.見たこともない大きな卵

 重松は下里の村に何度も足を運んで、養鶏を勧めた。翌年2月末、一人の老婆が組合事務所に現れて、「卵を欲しい」と言ってきた。重松は急いで舎宅に戻り、有精卵を15個、丁寧に綿で包んで、老婆の持ってきた籠に入れてやった。老婆は見たこともない大きな卵に驚いて「アイゴー・・・」。そして自分のしていた襟巻きを卵に掛けて帰って行った。

 3月になると、重松の配る卵の大きさに驚き、ポツリポツリと下里から種卵を貰いに来る人が出てきた。その中には、かつて重松に毒づいた人たちもいた。

 3月の終わりには、老婆から「13羽、雛が孵(かえ)りましたよ」と伝えてきた。重松は時間ができると、下里に行って、雛の育て方を指導した。8月末までに520個の種卵を配布し、そのうち半分が育った。初年度としては満足すべき結果だった。

 翌春には育った鶏が産卵を始めた。その卵を組合に持ってこさせ、重松とその妻が、日本人校長や署長、朝鮮人の組合長など、比較的余裕のある家に売り歩いた。従来種の値段よりも一割ほど高くしたが、大きさと新鮮さ、それになによりも重松夫妻の志を知っているので、快く買ってくれた。

 それでもさばききれないほど、卵が持ち込まれるようになり、重松は平壌の金融組合連合会本部に販売を頼むと、斉藤清理事長は快く引き受けた。

 重松と部下たちは勤務時間終了後、集まってきた卵を一つ一つ明かりを当てて調べ、合格印を押し、厳重に荷造りして、乗合バスに載せて貰う。

 そうして届いた卵を、斉藤理事長は何個か背広のポケットに入れ、近所の銀行や会社などに出かけて、「この卵を買わないか。大きくて美味いよ。食堂で使うといい」と売って歩いた。相手は、顔見知りの経営者である。販売先は次々に決まっていった。ただ、時々、ポケットの中の卵が割れて、困ったこともあった。


■5.未亡人の借金返済

 下里で若くして夫を亡くした夫人がいた。二人の小さな子供を抱えており、組合にも37円の借金をして、途方に暮れていた。亡くなった夫は、立派なレグホンを育てていて、重松も一目置いていた人物だった。

 重松の部下は「土地がわずかばかりありますから、差し押さえをすれば、組合に損失はないですよ」と言った。それが当時の朝鮮社会の常識だった。

 重松は「そんな冷酷なことはできないよ。一度、会ってみて、話をしてみよう」と言った。しばらくして、夫人が組合にやってきて鶏卵を届け、その後で重松の前に来た。4歳の長男を抱えている。

「ご主人が亡くなられてお気の毒です」と重松から話しかけた。「ありがとうございます。その主人の病気や葬儀などもあって、借りていたお金を返したいのですが、どうにもしようがないのです」とやつれた顔で答えた。

「ここにあなたの養鶏貯金が4円55銭あります。滞貨しているあなたに払い戻しはできません。しかしあなたが豚を飼って一生懸命働いて債務を返す覚悟がおありでしたら、払い戻しを特別に認めたいと思います」

 土地を取られるものと思っていた所に、思いがけない言葉をかけられて、彼女の目は輝いた。そして4円だけ引き出し、市で子豚を買って帰った。その後も婦人は卵を組合に持ち込み続けた。重松は顔を合わせるたびに、激励の言葉をかけた。

 それから7ヶ月後、育てた豚を32円で売り、それと養鶏貯金のお金で、37円の貸付金と利子をきれいに払った。重松には何度も頭を下げて、礼を言った。

「理事さんのおかげで土地も売らず夫の債務を払うことができました。これから先も豚や鶏を飼って貯金し、子供を学校に行かせるつもりです。本当にありがとうございました」と、涙をこぼさんばかりに喜んでいた。


■6.「鶏が医生を生んだ」

 37歳の貧しい小作人がいた。妻と3人の幼い男の子を抱え、二間しかない草葺きの小屋に住んでいた。しかし重松の指導どおりに鶏を飼い、どしどし卵を組合に持ってきた。やがて養鶏貯金は27円75銭になり、もうすぐ牛を買える額に近づいた頃、重松に手紙を出した。

__________
 ・・・私は理事様の公益を広く施そうという高義に副(そ)いたいと思います。私は来る4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心いたしました。

その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したく思います。理事様にこのことをご了承いただければ、小生はそのご恩は永久に忘れません。[1,p157]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 重松は驚くとともに、感激した。改めて調べてみると、医者にかかれない貧しい人のために医生になろうと、毎晩、漢方医の本で独学していたという。

 平壌での一年の苦学の末、総督府より医生の免許が交付された。重松からの手紙でこの事を知った京城日報社長の松岡正男は感激して、その手紙を新聞に4段抜きで紹介した。そこでは「部落では、鶏が医生を生んだなどと喜んでおります」と重松は喜びを語った。


■7.「軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」

 昭和5(1930)年の春、重松が平壌に出てきた際に、斉藤理事長に第77聯隊に連れて行かれた。重松の説明を受けた白石聯隊長は「朝鮮の農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と語った。聯隊との間で月7千個もの卵を収める契約が交わされた。

 ある時、軍事演習に合わせて、2千個もの大量注文が電報でもたらされた。重松は組合の在庫を調べたが、その半分もない。考えた末に、重松は近くの小学校の菅校長を訪ねた。

 菅校長は50歳近くになって、教育者としての最後の舞台を朝鮮人少年少女の教育に捧げようとやってきた人物である。そして雛を育てることが少年少女の情操教育にもつながると、生徒の家庭でも養鶏貯金を奨励していたのである。

 重松は、菅校長に事情を話し、朝礼の時間に全校生徒に各家庭での卵をあるだけ持ってくるように伝えてくれないか、と頼んだ。菅校長は「いいですとも、さっそくやりましょう」と快諾した。こうして4百人の生徒が、めいめいの家庭から卵を持ち込み、軽く2千個が集まって、演習地に送られた。

 軍関係では、さらに航空隊、高射砲隊、病院などが江東の卵を買ってくれるようになり、販売数は飛躍的に増加していった。昭和2年の鶏卵の販売数は993個だったが、昭和11年には30万個を軽く超えるようになった。

 それまでに養鶏貯金で購入された牛1千頭、豚2千100頭、土地2万5千坪、さらに進学資金、結婚資金、家の建て替えなどに使われ、江東農民の生活は格段に向上した。また江東の成功を見て、同様に養鶏を始める地方が数多く現れた。


■8.「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」

 副業としての養鶏が軌道に乗ると、重松はさらに女性たちにハングルを教えたり、村人が集まって将来を論じあうための集会所を建てることを提案した。それを受けて、村人たちは朝一時間、早起きして、自力で会堂を作り上げた。こうした作業が勤勉と共同の精神を育てていった。

 昭和11(1936)年2月11日の紀元節、3番目の模範部落であった芝里が一番の更正部落として、知事から表彰された。芝里は歓喜の渦に包まれ、重松の喜びも一入(ひとしお)であった。

 3月の終わり、芝里の代表たちが組合にやってきて、重松に次の日曜日に部落に来てくれ、と頼んだ。「なにがあるんです?」と聞くと、「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」という。重松は呆然としたが、もう碑は出来ているのだから、行くしかなかった。

 昭和13(1938)年6月、重松に転勤命令が出た。江東での実績が高く評価され、京城の金融組合聯合会本部で、後輩の育成をせよとの辞令である。遠方からも組合員たちが押しかけ、名残を惜しんで送別会を開いてくれた。長老の一人は「理事さん、家族の食べる分はわしらが出すから、残ってくれ」と泣き声で言った。

 その後、重松は金融組合の教育部長などを努めて、後輩の育成に邁進した。戦争が終わると、朝鮮総督府関係の有力者として逮捕状が出たが、養鶏で学資を得て出世した人物たちが、密かに手配して重松を日本に脱出させることに成功した。

(文責:伊勢雅臣)
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職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話 (国際派日本人養成講座から)

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職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話

 ソ連軍の迫る中で、9人の乙女は電話交換手として最後まで職務を果たそうと、決心した。


■1.「町民のために最後まで責任を全うしてくれた」

 先の東日本大震災の際に、宮城県南三陸町で、身を顧みずに、防災対策庁舎から「6mの津波が来ます。避難して下さい」と放送し、多くの町民を助けた女性がいた。防災放送の担当職員の遠藤未希さん(24)だ。

 未希さんが放送をした3階建ての防災庁舎は、津波に呑まれ、赤い鉄筋だけが残された。放送は途中で切れ、最後の方は声が震えていたという。

 避難所に逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。[1]

 遠藤未希さんの行為は、多くの人々に、終戦時、ソ連侵攻下の樺太・真岡で電話交換手として最後まで職場を護って殉職した9人の乙女の物語を思い起こさせた。


■2.「戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」

 あの朝、昭和20(1945)年8月20日の午前6時頃、樺太南西部の港湾都市・真岡は深い霧に覆われていた。

 5日前に終戦の詔勅が発せられ、港にはソ連軍の侵攻の前に婦女子を北海道に避難させるための船がぎっしり並んでいた。それらの船には北部から逃げてきた女性と子供がすでに乗っていたが、さらに乗り込もうと、リュックをかついだ人々が、霧の中を港へと坂道を降りて行く。

 そこに、黒っぽい、一見してソ連艦船とわかる大きい軍艦2隻と、駆逐艦ほどの船2隻が湾内に入ってきた。真岡郵便局の上田豊局長は、すでに真岡北方の監視哨から「ソ連軍艦らしいのが、4、5隻、真岡に向かった」と連絡があった、との報告を電話交換室監督の高石ミキさんから受けていた。

 敵艦の甲板にはぎっしり兵隊が並んでいたが、敵前上陸のような緊迫感は感じられず、上田局長は「ああ、何ごともなくすみそうだ。戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」と思った。

 しかし、その1、2分後に、大地を揺るがせるような砲声が轟き、追いかけるように、機銃がいっせいに火を吹いた。それまで道ばたに立って珍しげに港湾を見下ろしていた市民が、撃たれて倒れるもの、あわてて身を伏せるものもふくめてバタバタと、将棋倒しに倒れるのが見えた。


■3.「崇高な使命感」

 その4日前の8月16日、上田局長は豊原逓信局から、女子職員を緊急疎開させるよう指示を受けていた。局長はすぐに女子職員全員を集めて、その旨を申し渡した。

 ところが、電話担当の大山一男主事が「全員が引き上げに応じない。そして局にとどまることを血書嘆願するといって、準備をしているようです」と報告してきた。

 上田局長は直ちに女子職員を集め、ソ連軍が進駐したのちに予想される事態を語り、説得した。ソ連兵が占領した地で、略奪暴行を繰り返すことは、よく知られていたであろう。

 しかし、女子職員全員が「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかった。確かに、ソ連軍が迫る中で、一人でも多くの住民を安全に引き揚げさせるためにも、電話は欠かせない手段であった。

 上田局長は感動したが、その決意を是認することはできなかった。引き揚げ船を確保し、それが真岡に入港したら、命令で乗船させようと決意した。しかし、その前にソ連艦船が来てしまったのだ。

 上田局長は後に回想文に、次のように書いている。

__________
 あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一カ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか、その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命感以外にない。[2,p329]
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「他人の命令」云々というのは、戦後、彼女らが軍の命令で職場に残された、というデマが流されていたことに対する当事者として反論である。


■4.親への最後の甘え

「かあさん、これ私の形見。預かっておいてね」 そう言って、電話交換手の一人、可香谷シゲさんは、母親のあささんに白い布包みを差し出した。貯金通帳、写真のほか、シゲさんが日ごろ大切にしていた品々が入っていた。ソ連軍侵攻の前日、19日朝のことである。

「どうしたの、急に・・・」と、あささんが、けげんな顔をすると、「ううん、なんでもないの・・・」と言って、シゲさんは防空頭巾を背にくくりつけると飛び出していった。

 この日は沖合に白波が立ち、北の奥地から二艘のハシケで避難してきた人たちが、真岡で下船して第一国民学校に仮泊するために坂道をあえぎながら登っていた。

 夕方、シゲさんから電話がかかってきた。「おかあさん。晩ご飯のおかずがないの。なにかあったら持ってきてよ」

「ああいいとも。おとうさんがあとでタバコを買いに行くというから、何か持っていってもらうから」

 娘のなんの屈託もない声にほっとする思いで、あささんは受話器をおいた。ところが、急に深い霧が湧き起こり、日が暮れるとソ連の空襲に備えて灯火管制をしている町は一寸先も見えない闇となり、おかずを届けることはできなかった。

__________
 いまになると、あれがシゲの最後の願いであったわけで、それを聞いてやれなかったことを思うと・・・。死を思いつめていた娘は、最後に親に甘えてみたかったのでしょうね。かわいそうなことを・・・[2,p334]
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 後に、あささんは、こう語って声をつまらせた。


■5.「武ちゃん、もう会えないかもしれない」

 同じく19日、交換手の一人・吉田八重子さんの家では、翌朝の船で北海道に疎開する予定で、荷造りを進めていた。しかし職場に残る八重子さん一人を残していくことに、家族は気が重かった。

 母親は、八重子さんの大好きなおはぎを作った。中学3年の弟・武さんがそれを八重子さんが働いている郵便局に届けた。すでに辺りは暗くなりかけていた。

 局の階段を上って、交換室の戸を開けると、八重子さんは入り口に背を向けて交換台についていたが、戸の開いた音に気がついて、振り返ると、そこに弟がいるのを見て、近づいてきた。

「ねえさん。これ、おはぎだ。荷造りも終わったし、かあさんが最後のご馳走に、ねえさんの好物をつくったんだ」と、重い包みを差し出した。

「ありがとう。武ちゃん、こんなに。重たかったでしょう」

 弟に礼をいって包みを受け取ると、ちょっと間をおいてから、低い声で「武ちゃん、もう会えないかもしれない。からだに気をつけて、しっかりやるんですよ」と言って、涙ぐんだ。

「うん、ねえさんもだよ」 死を決した姉の言葉とは知らず、武さんは軽くうなづいて局舎を出た。

 後に、武さんはこう語っている。

__________
 生前の姉たちにあったのは私が最後であったかもしれません。姉のあのあらたまっていったことば以外は、ふだんと変わりない交換室の空気でした。

死ぬとわかっていればむりにでも連れもどしたものをと思うと残念だ、くやしいと思うのですが、死を覚悟しながらふだんと変わらぬ表情、動作であったあの人たちの姿はほんとうに立派なものでした。
 私の届けたおはぎを、みんなで分け合って食べてくれたろうと思う。死出の旅にささやかなご馳走であったが・・・[2, p335]
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■6.「敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・」

 20日早朝、可香谷あささんは、シゲさんからの電話を受けた。それがわが子の最後のことばとなっただけに、あささんは忘れることができない。

__________
 敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・。いちばんよいものを着て、きれいに死んでね。鈴木さん(かづゑさん、JOG注: 付近の友人か)にも知らせて・・・[2,p335]
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 あささんが、付近の家に「シゲからソ連の軍艦が見えるといってきた」とあわてて飛び込んでいった瞬間、頭上にものすごい弾道音がとどろいた。

 真岡の東、内陸部にある清水村逢坂の広瀬郵便局長夫人きみさんは起き抜けに、ゴーゴーという遠鳴りを耳にして、遠雷だと思った。交換手をさらに内陸部の豊原に避難させた後、きみ夫人は一人で交換台についたが、真岡から豊原の師団司令部へ火急を告げる連絡電話を傍受して、遠雷ではなく、敵の艦砲射撃であることを知った。

 真岡局を呼ぶと応答があった。可香谷シゲさんの声だった。しかし、その声は銃砲声にかき消されそうになるほどだった。「外を見る余裕なんかないのよ」 シゲさんの悲痛な声は、いまでもきみ夫人の耳朶(じだ)にこびりついている。

 その頃には、ソ連軍が上陸し、自動小銃や機銃を浴びせながら、市街に侵入していたのであろう。きみ夫人は、その後も断続的に真岡を呼んだが、砲撃で回線が切断されてしまったのか、午前6時半頃には不通になってしまった。


■7.「長くお世話になりました。おたっしゃで・・・」

 真岡の北方にある泊居(とまりおろ)局との回線はつながっており、真岡の各所で火の手があがる様子が伝えられた。銃砲声の中で、弾雨にさらされている9人に危険が刻々と迫っていることが感じられた。

 交換手の一人、渡辺照さんが「今、みんなで自決します」と知らせてきたのは、所弘敏局長の記憶では午前6時半ごろだという。

「みんな死んじゃいけない。絶対、毒をのんではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手ぬぐいでもよい、白い布を入り口に出しておくんだ」

 所局長は受話器を堅く握りしめて、懸命にさけんだ。声だけで相手を説き伏せられないもどかしさ。しまいには涙声で同じ言葉を繰り返した。しかし、その声をひときわ激しさを増した銃砲声が吹き飛ばした。

__________
 高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできたし、もうどうにもなりません。局長さん、みなさん・・・、さようなら、長くお世話になりました。おたっしゃで・・・、さようなら・・・[2,p336]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 所局長も交換手も顔をおおって泣いた。無情にも電話は切れた。誰かが「真岡、真岡、渡辺さん・・・」と叫んだが、応答はなかった。


■8.職務に殉じた乙女たち

 上田局長は郵便局に向かう途中で銃撃を浴びて負傷し、その後、上陸したソ連軍に海岸の倉庫に連行された。倉庫内には血みどろの負傷者がその後も運び込まれたが、何の治療もされず、翌21日朝には局長の周囲にいた重傷者の多くはすでに冷たくなっていた。

 そんな中で、上田局長は「宿直の交換手全員が自決したらしい」と耳にして、「ほんとうか」と聞ききつつも、眼からみるみる涙があふれ、嗚咽が漏れた。

 23日になって、見回りに来たソ連軍将校に、部下局員の遺体を引き取るために局舎に入ることを認めてほしい、と訴えると、将校は「私が連れて行く」と言ってくれた。

 局舎に着き、交換室の戸をあけると、真っ先に目に飛び込んできたのは、監督の机の前に倒れている高石ミキさん(24歳)の遺体だった。机の上には、その日の交換証のつづりと事務日誌がきちんと重ねられて、そのわきに睡眠薬の空き箱が二つ転がっていた。

 吉田八重子さん(21歳)はブレスト(交換手用のヘッドセット)をつけ、交換台にプラグを握ったまま、うつ伏せになっていた。

 隣の渡辺照さん(17歳)も同じくブレストをつけ、コードを握って、横倒しになった椅子の上に、おおいかぶさるように亡くなっていた。二人とも、薬物を飲んで、薄れ行く意識の中で、最後の瞬間まで、交換台で仕事をしていたのだろう。

 他の乙女たちは部屋の真ん中で、肩を寄せ合うように倒れていた。室内は、いつものように整然ととしていた。しかし、交換台には、5、6発の弾痕があった。

 上田局長は膝まづいて慟哭した。同行したソ連将校も、静かに胸元で十字を切って瞑目した。職務に殉じた乙女たちを見たとき、そこには敵味方も、人種の差もなく、人間としての崇敬の気持ちがあるだけだ、と上田さんは思った。

(文責:伊勢雅臣)
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朝日新聞が伝えた「従軍慰安婦」の真実 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■1.政権末期になると「反日」に走る韓国政界の宿痾

 政権末期になると、かならず反日運動が盛り上がってくるのは、韓国政界の宿痾である。「従軍慰安婦」問題だけでも、最近こんな動きが見られた。

・昨年12月、ソウル中心部の日本大使館前に元慰安婦支援団体が慰安婦像を設立。[1]

・本年3月1日、李明博大統領は日本統治下の朝鮮半島で起きた反日抗議運動「3・1独立運動」を記念する式典で元慰安婦への賠償請求権問題について「すぐに解決しなければならない人道的問題だ」と演説。[2]

・本年5月、ソウル市内に慰安婦に関する資料などを集めた「戦争と女性の人権博物館」を開設。韓国政府が約3500万円の資金提供。[3]

・同月、「米ニューヨーク韓国人会」はニュージャージー州の公立図書館内に「従軍慰安婦」の追悼碑を設置。今後も全米各地で次々と追悼碑を建てていくと表明。[4]

 選挙が近づくと、左派が反日活動を盛り上げ、保守派もやむなく反日のポーズを強める、という構図である。朝日新聞など国内の左傾マスコミがこれを増長させている。

 日本国民としては、「従軍慰安婦」問題など、韓国・北朝鮮側の主張が史実かどうか理解した上で、政府・外務省に対してきちんとした対応をとるよう要求するとともに、国内の一部マスコミの偏向報道を批判していかねばならない。


■2.朝日新聞の偏向報道が火をつけた

 従軍慰安婦問題の経緯については、弊誌106号「『従軍慰安婦』問題(上)日韓友好に打ち込まれた楔」、107号「『従軍慰安婦』問題(下)仕掛けられた情報戦争」で紹介した。[a,b]

 発端は、昭和58(1983)年に、吉田清治なる人物が、著書『私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録』の中で、昭和18年に軍の命令で、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表したことである。

 しかし、この「体験」は、その後の現地調査で創作であったことが明らかにされ、本人もそれを認めている。

 この問題に火をつけたのは、平成4年1月11日、朝日新聞が、宮沢首相の訪韓直前に、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道した事である。

 ソウル市内では抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、不意打ちされた宮沢首相は首脳会談で謝罪を繰り返し、真相究明を約束した。

 軍が慰安所を設けること自体は、戦後の米軍が日本や韓国に命じて慰安所を作らせたことにもあるように、違法なことではない。

 韓国軍がベトナムに進駐した際は、それをせず、ベトナム女性を強姦したり、現地婚の後で置き去りにされた孤児が数千から数万人の規模で発生していることに比べれば、はるかに良心的な措置である。

 問題は、軍が慰安婦を強制連行したかどうか、という所にあるのだが、[a]で述べたように、この「関与」とは、慰安婦を募集する民間業者の中には「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す」「警察当局との連携を密にし・・・社会問題上遺漏なき様配慮」せよ、という良心的な「関与」であった。

 これを朝日新聞は、さも軍が強制連行に「関与」したかのように報道したのである。意図的な偏向報道そのものである。


■3.悪徳朝鮮人業者の毒牙

 現代日本に住む我々には想像もつかないことだが、戦前の朝鮮では婦女子を誘拐して、娼妓として売り飛ばす悪徳業者が少なくなかったようだ。それらの悪徳業者を朝鮮総督府がいかに苦心して取り締まったのか、当時の朝日新聞自体が報道している。

 たとえば、次のような記事がある。斐長彦という朝鮮人率いるグループが女性を誘拐していたのを、捕らえて送検したという内容である。

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 田舎娘など14名も誘拐 一味送局(JOG注: 送検)さる

 京城府蓬莱町4丁目無職斐長彦(57年)ほか11名は共謀して田舎の生活苦に喘(あえ)ぐ家庭の娘、あるいは出戻り女など14名を誘拐して酌婦あるいは娼妓などに売り飛ばして約1万余円をせしめていた事件は西大門署で取り調べていたが、25日一件書類とともに送局した。
(『大阪朝日・西鮮版』昭和15(1940)年6月28日)[5,p43]
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 同様な記事が続々と見つかっている。[5,p45]

「貴婦人装ふ誘拐魔 男女4名を手下に使ひ 全鮮から小娘28名を誘拐」(『大阪朝日・南鮮版』昭和13(1938)年3月1日)

「農村の娘に毒牙 巧みに誘拐しては売飛ばす 恐るべき全貌判明」(『大阪朝日・南鮮版』昭和14(1939)年3月30日)

「資産家の主婦を連出し行方晦(くら)ます 偽刑事が大胆な犯行」(『大阪朝日・南鮮版』昭和15(1940)年5月21日)


■4.朝鮮名の悪徳業者たち

 また、日本統治時代に創刊され、現在では韓国の三大紙の一つとなっている『東亜日報』も同様の報道を行っていた。[5,p57-61]
ついでに犯人の名前も書いておこう。みな朝鮮名で、これだけでも、「創氏改名」で日本名を強制されていたという説が、史実でないことが分かる。

「戸籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所行 犯人は警察に逮捕」、犯人:呉正渙(『東亜日報』、昭和8(1933)年5月5日)

「路上で少女を拉致 醜業、中国人に売り渡す 売り飛ばした男女検挙」、犯人:朴命同、李姓女(『東亜日報』、昭和8(1933)年6月30日)

「良家の子女を誘拐して、満洲に売り飛ばし金儲け 釜山署犯人を逮捕」、犯人:田斗漢(『東亜日報』、昭和13(1938)年12月4日)

「悪徳紹介業者が跋扈(ばっこ) 農村の婦女子を誘拐 被害女性100名を超える」、犯人名不明(『東亜日報』、昭和13(1938)年12月4日)

 この最後の記事では、関係者として浮かび上がった満洲・奉天の紹介業者を逮捕するため、「ユ警部補以下刑事6名が奉天に急行した」とある。「ユ刑事」とは、この『東亜日報』が全面、漢字とハングルで書かれているので、漢字が分からないためだ。

 日本統治時代に創刊された新聞が、ハングルを使っていたのだから、「ハングルを奪わて、日本語を強制された」などという説が嘘っぱちであることは、これだけでも明らかである。

 また、このユ警部補は名前からして朝鮮人で、朝鮮総督府の警察は日本人と朝鮮人により構成・運営されていた。両者が力を合わせて、婦女子を誘拐して売り飛ばす悪徳朝鮮人業者を取り締まっていたのだ。


■5.日本人の悪徳業者も

 悪徳業者は朝鮮ばかりでなく、日本にもいた。天理教教師と偽って愛媛県で信者の娘4人を誘拐し、満洲に連れて行く途中、朝鮮で逮捕された、という事例である。

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 肩書きは天理教の教師 実は希代の誘拐魔 移動警察の網にかかる

 ・・・23日午前7時50分釜山桟橋発新京行き急行列車のぞみの三等客30歳前後の男子と20歳前後の娘4人を慶尚南道移動警察が挙動不審で取り調べたおころ、意外にも右は・・・神尾嘘造(30年)仮名=が天理教教師という肩書きのもとに信者の娘を甘言をもって満洲に連(つれ)出し魔窟に売りとばさんとしていたこと判明した。

 すなわち本籍地愛媛県宇和島方面で信者の娘4名を誘拐、吉林に向かう途中で身柄は大邱署に引き渡して厳重取調中であるが、同様手段ですでに多数の娘を誘拐して大陸の魔窟へ売り飛ばしているらしく関係方面へ手配中。
(『大阪朝日・西鮮版』昭和14(1939)年11月25日)
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 この「神尾嘘造」なる犯人が、日本人かどうかは明記されていないが、日本人の仮名を使っていること、愛媛県で誘拐していることから、おそらく日本人であろう。

 いずれにせよ列車内にまで目を光らせていた所に、当時の警察が、いかに真剣に婦女子の誘拐事件を防ごうとしていたかが窺われる。

 こういう状況を背景に、陸軍が「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す」「警察当局との連携を密にし・・・社会問題上遺漏なき様配慮」せよ、と指示したことは適切な配慮であった事が分かる。


■6.総督府警察の朝鮮人娼妓待遇改善への努力

 また警察が、誘拐防止だけでなく、朝鮮人娼妓の劣悪な待遇を見かねて、「自前制度」を認めるという改革にも乗り出したという記事もある。「自前制度」とは、娼妓の個人営業を認めて、雇い主による搾取から救いだそうとした制度と思われる。

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 朝鮮人娼妓に救いの自前制度 全鮮に魁(さきが)け平壌で実施

 平壌警察署では全鮮にさきがけて朝鮮人娼妓の自前制度を認め25日から実施することになった。これまで平壌賑町遊郭朝鮮人娼妓の抱主との契約は大正13年からの年期契約制度で前借の最高は800円で年期の最長は5年であって娼妓の稼ぎ高5年間にいくら少なく見積もっても5千円である、

 この結果4千余円は抱主の不当所得となっているという不合理なものであってそこで平壌署では協議の末この娼妓への福音がもたらされたもので、かねて平南道へ認可申請中のところ21日許可が下り、いよいよ25日から実施されることになったものである。
(『大阪朝日・北鮮版』昭和15(1940)年6月25日)[5,p51]
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 娼妓制度自体は合法的なものとしても、娼妓たち達への不当な搾取は許さない、という正義感が感じられる所作である。


■7.法改正・制度改正して朝鮮の女性を護る

 警察のみならず、総督府全体としても、伝統的に女性蔑視の傾向の強かった朝鮮において、女性を守るための法改正、制度改正を推し進めた。その一つは女性の再婚を認める、というものだ。

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 再婚を許さぬ風習 若い寡婦の悩み 頻々たる「嬰児殺し」の犯行 朝鮮に多い特殊犯罪

 【京城】警務局の犯罪係に最近各道から嬰児殺しの報告が毎日2、3件づゝ到着して係員を驚かせているがこれらは何れも申し合わせた如く朝鮮人寡婦が不義の児を生んで世間態を恥ぢ圧殺するもので寡婦の再婚は絶対に認めない朝鮮古来の風習を物語っている。
(『大阪朝日・北鮮版』昭和8年(1933)年2月14日)[5,p162]
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 また旧来の朝鮮社会では女性の戸主相続権は認められていなかった。男子の相続人がいない場合は、女子がいても嫁に出し、他家から養子を迎えていた。総督府の法改正により、女子が家を継ぎ、さらに婿養子を迎える、ということができるようになったのである。

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 女子相続権の実現こそは婿養子制とともに半島女権史上一大飛躍であるはもちろん家族制度に明確な大変革をもたらすものとして極めて注目される。
(『大阪朝日・南鮮版』昭和16年(1941)年6月14日)[5,p164]
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 力の籠もった文勢に、朝鮮における女性の権利確立に向けた総督府の政策に期待する朝日記者の思い入れがよく窺われる。


■8.朝日記者たちの「一視同仁」

 日本の朝鮮統治は「一視同仁」(すべての人を平等に愛すること)を理想としていた。朝鮮は植民地ではなく、日本と新たに吸収合併した国であって、その民は内地と同じく天皇の御仁愛に護られるべき民であった。政治家や官僚は、その大御心を体して、民の安寧を図ることが使命であった。

 もちろん、この遠大な理想がすぐに朝鮮半島のすみずみまで実現できるはずもないから、あちこちで差別もあったろうが、本稿で紹介した朝鮮の女性を守ろうとする警察の動きを見れば、日本人と朝鮮人の警官たちが一致協力して、「一視同仁」の理想に向かって努力していた様が窺われる。

 そして、そうした警察の活動を報道する朝日記者たちの「誘拐魔」「毒牙」といった筆致にも、被害者女性を憐れみ、悪徳業者の所行を憎む、まさに「一視同仁」の心情が窺われるのである。

 こうした戦前の朝日記者たちの後輩たる現代の朝日記者たちは、戦前の先輩たちの報道も思いも顧みることなく、「日本軍が女性を強制連行して慰安婦にした」などと、史実を曲げたプロパガンダに走っている。

 そんな有様を、戦前の朝日記者たちは、草場の陰から、どんな思いで見ていることだろうか。
(文責:伊勢雅臣)



■リンク■

a. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_2/jog106.html

b. JOG(107) 「従軍慰安婦」問題(下)
 仕掛けられた情報戦争。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_2/jog107.html
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「絶対にゆるまないネジ」はいかに生まれたか(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


「絶対にゆるまないネジ」はいかに生まれたか

「利他の精神」で諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる。




■1.東京スカイツリーに使われている「絶対にゆるまないネジ」

 高さ世界一の電波塔「スカイツリー」が5月22日に開業する。高さ634メートルは「武蔵の国」のムサシの語呂合わせだという。
 その最先端の技術の中に「和の伝統」がちりばめられている。中心に直径8メートルの「心柱(しんばしら)」が建ち、地震の揺れを低減する構造は、法隆寺の五重塔などと同じだ。

 地表部分の断面は三角形だが、上に行くにしたがって徐々に円形になっていくので、側面は場所によって、反っている部分と、ふくらんでいる部分が見える。反りは日本刀の刀身の美しさである。ふくらみは、古い神社仏閣の柱で「起(むく)り」と呼ばれる、少し膨らませて柔らかな印象を与えるデザインである。

 もう一つ、使われているのが「絶対にゆるまないネジ」。東大阪市の中小企業・ハードロック工業株式会社の社長・若林克彦さんが、神社の鳥居で見たクサビからヒントを得て、開発した商品である。

 ネジは、ねじ込まれたボルトが元に戻ろうする力で、かならず緩むものである。そのために定期的に点検し、「増し締め」しなければならない。高い鉄塔での増し締めは危険だが、それを怠るとネジが緩んで倒壊の危険を招く。

 そんな場所では「絶対にゆるまないネジ」は貴重である。「絶対にゆるまないネジ」は、瀬戸大橋や新幹線、原子力発電所などで広く使われている日本の誇る技術である。

 ハードロック工業は、東大阪にある従業員50名弱の典型的な中小企業だ。ネジという極めて成熟度の高い業界で、しかも100%国内生産を貫いている。通常なら、こういう企業は安価な中国製品に圧倒されて廃業するか、あるいは生産を中国に移すしかない。いずれにせよ人件費の高い国内生産は維持できない。

 しかしハードロック工業のネジは、他社が真似できないので、価格競争とは無縁だ。昭和49(1974)年の創業以来、一度も赤字を出したことがない。この「絶対にゆるまないネジ」がどのように誕生したのか、その軌跡を辿ってみよう。


■2.「アイデアは人を幸せにする」

 アイデアは人を幸せにする、というのが、若林さんが10歳の頃の体験から学んだことだった。大東亜戦争の末期、長野県の田舎に疎開していた時のこと、大人たちが腰をかがめて、一つ一つ等間隔に種を蒔いていく重労働を見て、「楽に種蒔きをする方法はないのか」と考えた。

 するとアイデアが閃(ひらめ)いた。一輪車を小型にしたような器具を作り、車輪部分に一定間隔で穴を開け、種を入れておく。この一輪車を転がせば、等間隔で種が蒔ける。

 腰をかがめることなく、楽な姿勢で効率よく種蒔きができるので、まわりの大人たちの喜んだこと! 「アイデアは人を幸せにする」ことを、10歳にして若林さんは知った。

 高校生の時には、つけペンのペン先をインク壺につける際に、つけすぎたり、つけ足りなかったりする困り事を解決するために、いつも一定量のインクをつけられる「定量付着インク瓶」を発明して、文具メーカーに実用新案として売り込み、30万円も得た。

 インク壺のように長年使われてきたものでも、まだまだ困りごとがある。それを、新しいアイデアで解決する事で、人を幸せにできるのである。


■3.独立と初受注

 大学を卒業した若林さんは、技術者として大阪のバルブメーカーに就職したが、発明への情熱は持ち続けていた。昭和35(1960)年、27歳の時、国際見本市でネジの緩みを防止するために、ナットの中にコイル状のバネを入れて、戻り止め効果を出している商品を見つけた。

 値段を聞くと、これが高い。直感的に、バネをコイル状ではなく、板状にすれば、もっと簡単に安く作れる、と閃いた。そして思った。「この商品は必ず売れる。この商品を世に広めたい。よし、そのために会社を作ろう」

 翌年、会社を辞め、この板バネを使った新製品「Uナット」を売るための新会社を、弟と友人の3人で立ち上げた。早速、ネジ問屋に飛び込み営業を始めたが、「こんなもん使えるか」と、まったく相手にされない。そこで気がついたのは、問屋は今売れている物しか扱わない、ということだ。全くの新製品なら、ネジの使い手である工場を回らなければならない。

 しかし東大阪にたくさんある中小企業の工場を回っても、どこも相手にしてくれない。どこも忙しいので、使えるかどうか分からないものを試してくれる所などないのだ。

 そこで作戦を切り替えた。とあるコンベアの工場を訪問して、その片隅に、Uナットを一箱置いてきてしまう。その後で、電話して「よろしければ、使ってください」と伝える。「そんな勝手なことして、、、」

 2〜3週間して、その工場を再訪すると、「一般ナットの在庫が切れたので、使ったで。伝票入れといて」と言ってくれた。勝手に置いていったものだから、お金はいらない、と言ったが、相手も「タダではモノは受けとれんわ」と承知しない。

 これが初受注だった。若林さんは、この時ほど嬉しかったことはない、と言う。しかし、さらにUナットを使ったコンベアを出荷した先まで出向いて、問題なく使えているか、確認した。コンベアで最も振動の激しい場所に使われていたが、「まったくゆるみもないし、問題なく使っているよ」

 このコンベアメーカーからは、継続的に注文が入るようになった。たまたま、そこがコンベア業界では大手だったので、そこで使われているということで、他のメーカーでも広く使われるようになった。

 この経験から、若林さんは、良い製品があっても売れるとは限らない。その良さをお客さんに理解して貰う営業活動が欠かせない、と気がついたのである。


■4.困った時の神頼み

 Uナットの事業は軌道に乗り、昭和48(1973)年頃には、従業員80名、月商1億3千万円ほどに成長した。

 しかし、ある時、「なんや、絶対にゆるまへんのと違うんか!」とものすごい剣幕のクレームを貰った。スチームハンマーでコンクリートパイルを打ち込む「杭打ち機」のメーカーからだった。

 緩まないと思って使っていたUナットが緩んでボルトが折れ、機械が壊れてしまったという。「もし人身事故にでもなったら、どないしてくれるんや!! 機械の修理費用は、あんたのところでもってもらうで!」

 さすがのUナットも杭打ち機のような強い衝撃が続く機械では、緩んでしまうことが分かった。万一、これで大事故が起こったら、どうするのか。若林さんは真剣に悩んだ。そして、決心した。「どんなことがあっても、絶対にゆるまないナットをつくろう!」

 しかし今回ばかりは行き詰まってしまった。事業の傍ら、いろいろと考案・開発を重ねたが、激しい振動を与えると、どうしてもネジは緩んでしまう。

「まあ、気分転換に神頼みでも」と近くの住吉大社にお参りにいった。その鳥居の前で若林さんは、ふと、足をとめた。「これや! これやがな!」

 鳥居の縦の柱と、横に渡した貫(ぬき)の繋ぎ目にクサビが打ち込まれている。同様にボルトとナットの間にクサビを打ち込めば、強いゆるみ止め効果が得られる。そこから工夫を重ねて、2個のナットを重ね、上のナットの中心をずらして、ねじ込むと下のナットの一片を強く押さえ込む構造とした。

 試作して、何回着脱を繰り返しても、絶対に緩むことがないことを確認できた。若林さんは飛び上がるようにして喜んだ。「これからは堂々とお客様に商品を使ってもらえる!」

 クレーム、すなわち、お客様の困り事から逃げないことで、絶対にゆるまないネジ、「ハードロック」が誕生したのである。


■5.「今度はこのナットを使えって言うんやろ」

 しかし共同経営者は「多少のゆるみのクレームなんか、いいじゃないですか」とせっかく売れているUナットを潰しかねない新商品の販売に乗り気ではなかった。

 お客様に喜んでいただくことを信条とする若林さんは、その共同経営者とは一緒にやっていけないと感じて、売上の3パーセントの特許使用料を貰うという条件だけで、会社を共同経営者に譲ってしまった。

 昭和49(1974)年、若林さんはハードロック工業を設立した。しかし、やはりハードロックも、お客様に良さを理解して貰うのに時間がかかり、最初の2〜3年はなかなか売れなかった。ナットが二つに分かれたことで、Uナットよりも価格が2〜3割高くなってしまうし、作業の手間も増えてしまう。

 用途としては、多少のコストと手間をかけても、ボルトが緩むことで大事故につながり兼ねない分野ということになる。まず目をつけたのが鉄道である。

 当時の国鉄に行って、「車両や線路の保守点検作業が大幅に省けますよ」と売り込みをかけたが、当時、組合の強かった国鉄では、「それでは人減らしになってしまう。そんな提案をするんじゃない!」と追い返されてしまった。当時の国鉄は、こんな組合が幅を効かせていた。

 そこで国鉄を諦め、私鉄に向かった。以前Uナットの売り込みをかけた阪神電鉄は「今度はこのナットを使えって言うんやろ」と試してくれた。

 すると、保安要員がレールをつなぐボルトの緩みの点検・増し締めをする回数が大幅に減り、安全性も向上すると分かって、正式に採用が決まった。他の私鉄や民営化後のJRも追随して、受注量が急増した。

 さらに新幹線1編成には2万個以上のナットが使われていると知って、新幹線車両設計の部署に、いつものように商品を置いていくアプローチで売り込みをかけた。しばらくすると、鉄道総合研究所での厳しい試験の結果、ハードロックナットがダントツの性能を発揮したとして、採用が決まった。

 新幹線は、金属疲労の関係で100万km走ると、ナットを全数交換する。それだけ、安定的な売上が見込めることになった。そして、新幹線に採用された実績で、ハードロックのブランド力が大いに向上した。

 ネジが緩むというピンチをチャンスに変える、そして国鉄に断られたら私鉄に向かうという粘りが、ハードロックを生み、育てたのである。


■6.「うちの便所より小さいじゃないですか!」

 その後、ハードロックナットは、電力会社の送電線用鉄塔や、電電公社(現在のNTT)の放送用鉄塔、日立製作所を経由しての原子力発電所などと、用途が広がっていった。

 電電公社での採用が決まった時、工場を見に来ると言われて、若林さんは困った。町工場の狭い、汚い工場を見られては、注文を断られてしまうかもしれないと心配したからだ。なんとか、工場を見せまいと、とあがいたが、工場を見ないことには発注できないと言われて、観念した。

 工場に連れてくると、電電公社のリーダー格が言った。「えっ! これ、うちの便所より小さいじゃないですか!」 これで取引は中断だ、とがっくりしたが、相手は続けて、こう言った。

「工場が古くて狭いのはいいんですよ。問題は生産管理や品質管理がまるでなっていないことですよ。ですから、われわれが指導しますんで、まずはマニュアルを整備して、その通りに品質管理をやってください。」

「えっ・・・教えてくれはるんですか!」「ハードロックナットそのものは素晴らしい技術ですから、我々もぜひ採用したいんです」

 また、山梨大学の澤俊行教授は、ハードロックナットと出会って興味を持ち、なぜ緩まないかを、理論的に証明してくれた。その研究成果をアメリカの学会で発表してくれたことから、国際的な認知度が高まった。

 日本の社会では、世のため人のために頑張ってくれると、かならず、このように応援してくれる人が現れるのである。


■7.「利他の精神」で諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる

 国際的な認知度を高めたハードロックナットは、台湾、中国、ポーランド、英国などの高速鉄道でも、採用されるようになった。

 海外で有名になってくると、当然のように中国から多くの模造品が出回るようになった。価格は2〜3割安い。しかし、振動試験機でテストしてみれば、すぐ緩んでしまう。

 この違いは、寸法のバラツキをミクロン(千分の一ミリ)単位で押さえ込んでいることによる。髪の毛の太さが80ミクロン程度なので、その80分の一と言えば、精度が想像できるだろう。

 若林さんが考案した特殊な工作機械によって、こんな高精度のナットの大量生産が可能になったのである。また、毎分数百個のナットの各寸法を、これまたミクロンレベルで測定する世界最高レベルの全数検査装置も導入している。

 中国メーカーがナットの形だけ真似しても、絶対に緩まないネジは作れないのである。

 ナット一筋でコツコツと37年もやっているからこそ、ここまでの商品ができた。まわりのみなさんを幸せにしたい、という「利他の精神」で、諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる、というのが若林さんの信念である。

(文責:伊勢雅臣)
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「日本人という生き方」(下)〜 ウガンダの高校生を変えた日本の躾(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。




■ Japan On the Globe(639) ■ 国際派日本人養成講座 ■

     Common Sense:「日本人という生き方」(下)
                 〜 ウガンダ高校生たちの志

      日本の躾を身につけたウガンダの高校生たちは、
      「母国を良くしたい」と志すようになった。
■転送歓迎 H22.03.14_39,636 Copies/3,265,844 Views ■


■1.ウガンダのために働いている日本人

「ウガンダの父」と呼ばれている日本人がいる。現地で45年以上もシャツ製造会社を経営している柏田雄一さんである。ある日、小田島さんは選手たちを連れて、柏田さんの工場を訪問した。柏田さんはウガンダの歴史、環境保護、そして工場内で実践している躾の大切さを語った。

 話の終わりに柏田さんは「私は、もう引退して老後をゆっくり日本で暮らすこともできるのに、なぜここにいると思う?」と選手たちに尋ねた。誰も答えることができなかった。その答えは「ウガンダを愛しているから」であった。

 その言葉を聞いたとき、選手たちの背筋がピンと伸びたように思えた。この人はお金のためでなく、ウガンダのために働いている日本人なんだ、ということを肌で感じたようだ。

 その効果は翌朝の掃除から出ていた。前日の移動の疲れがあるので、今朝の掃除は無理かなと思っていたら、10分前に全員が揃った。放課後の練習も、今までにないピンと張り詰めた雰囲気となった。選手の心が変わったのだ。


■2.日本人以上に日本人らしく

 早朝の読書と清掃、そして夕方の練習を続けて半年ほどすると、選手たちの真摯な姿勢、他人へのやわらかい物腰、何かを学ぼうという真剣なまなざしは、日本人以上に日本人らしくなっていた。

「時を守り、場を清め、礼を正す」だけで、これほどまでに効果が上がるとは思っていなかった。日本の教育現場は混迷の真っ只中にあるが、この選手たちの成長の姿を見せたら、忘れかけている日本の躾の素晴らしさを再認識して貰えるだろう、と小田島さんは考えた。

 そこで、ウガンダでの様子をDVDに収め、日本でお世話になった人々に送った。その様子に感動した日本の人々との間で、ウガンダ・チームを日本に呼ぼうという企画が持ち上がった。日本での有志が「ウガンダ国際交流実行委員会」を立ち上げ、募金活動を始めた。

 選手たちには折りにふれ、日本での支援者の様子を伝えた。

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 彼らは、仕事があるのに、家族でもない、親戚でもない私たちのために動いている。彼らは、人のために動くことができる、本物のレディーであり、ジェントルマンだ。その恩に報いるためにも、私たちは、ジェントルマンになって日本に行かなければならない。[1,p130]
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 選手たちはますます真剣になっていった。集合時間の1時間前の朝3時半に来て、自発的に読書や授業の準備をする選手も増えてきた。掃除も、小田島さんが「そこまでやるか」と思うほど徹底してやってくれるようになった。


■3.「試合中に5回ほど涙が出そうになった」

 平成20(2008)年1月24日、セントノア高校野球部選手、校長、そして小田島さんの総勢15名が関西国際空港に降り立った。折から北海道は大雪で、札幌行きの便が飛び立てるか心配だったが、一行を乗せた便だけが欠航とならずに、新千歳空港に到着した。選手たち、支援者たちの思いを天が応援してくれたように小田島さんは感じて、涙がこぼれた。

 初日は登別の温泉に入る。母国では、たらい一杯の水で体も頭も洗う彼らは、お湯がなみなみと張られている湯船にびっくりした。選手たちは体を洗い終えると、使った桶を片付け、腰掛をまっすぐに並べた。物を使ったら、次の人のためにきれいに片付けるという事が、当たり前のようにできるウガンダ青年たちの姿に、今度は周囲の日本人客が驚いていた。

 札幌ドームでは北海道日本ハムファイターズ中学生選抜チームと親善試合を行った。屋根つきの体育館すらほとんど見たことの無いウガンダ選手たちにとって、屋根つきのドーム球場はまるでSFの世界のように見えただろう。

 実力ははるかに上の相手で、大差で負けてもおかしくなかったが、奇跡が起こった。0対0の引き分けだった。投手のべナードが、何かが乗り移ったのかと思うほど、冷静で粘り強い投球を見せた。守備での相互のカバーリング、声の掛け合い。チームの一体感は、相手を上回っていた。技術の差を「心」でカバーする、まさに日本野球をウガンダ選手たちは見せた。試合終了後、2千人以上入ったスタンドからウガンダ・チームに大声援が送られた。

 夏の甲子園で優勝した駒澤大学苫小牧高校野球部の香田元監督は、試合の様子を次のように語った。[1,p156]

__________
 ウガンダ人の野球に対する姿勢が本当に勉強になった。試合中に5回ほど涙が出そうになった。子供の頃、初めてボールを握った感覚や、楽しくボールを追っかけていた過去が蘇りました。言葉ではうまく表現できないけれども、日本野球に失われたものを彼らは持っている。
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■4.「ウガンダを良くしたい」

 日本への旅は、選手たちを一段と成長させた。「正しいことを積み重ね、良い人間になれば、誰かが必ず応援してくれる」ということを、経験から学んだのだ。

 帰国後20名近くの部員が新たに入部したが、先輩部員たちは、毎朝4時半に彼らを起こし、時間通りに清掃を始めた。後輩部員も、夢を叶えた先輩を尊敬し、積極的に真似ようとした。その結果、先輩たちが6ヶ月かかったことを、後輩たちは1ヶ月でできるようになった。

 さらに先輩部員たちは、自分たちの経験を多くの人に伝えようと、校内で集会を開いては、「時を守り、場を清め、礼を正す」の大切さを一般生徒にも説いた。地域の小学校を訪問しては、日本の躾の素晴らしさと、「夢は実現する」ということを語った。

「ウガンダを良くしたい」「自分たちの生き様をウガンダに広げたい」「ウガンダのリーダーになる」、そういう志を選手たちは持つようになったのである。


■5.「どうしたらよいでしょうか?」

 そんなある日、キャプテンのアーロンが小田島さんの所に相談に来た。家庭の都合で学校をやめなければならないという。

 アーロンはチームリーダーとして、陰日なた無く働いてくれていた。彼の夢は、大学に進学し、アフリカの国々を鉄道でつないで、友好の架け橋になる、という事だった。

__________
 実は、私は母子家庭です。お父さんの顔は見たことがありません。お母さんも働けません。だから、祖母の遺産で高校に進学することができました。ただ、その遺産が底をついたようです。だから学校をやめ、働くことになります。野球もやめなければなりません。どうしたらよいでしょうか?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と言うアーロンに、小田島さんは返す言葉を失った。
[1,p168]


■6.「私は、親にもウガンダという国にも感謝しています」

 アーロンは本当によくやっている。朝の4時半から学習し、掃除をする日々。「私の高校時代と比べると天と地ほどの開きがある。私は、彼らのような努力もせずに大学卒業まで野球を続けることができた」と思った小田島さんは、アーロンを慰めるつもりでこう言った。[1,p170]

__________
 もし、君が日本に生まれていたら、絶対成功している。君ほど頑張っている若者はいないのだから。ウガンダに生まれたばかりに、かわいそうに。
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 ところが、彼から意外な返事が返ってきた。

__________
 コーチ、違います。私は運の強い人間だと思います。ウガンダでは多くの人は高校に行けません。祖母がお金を残してくれたおかげで、私は高校に通うことができました。そして、親が許可をしてくれたので野球をすることができました。そしてコーチに出会い、多くの日本の方々に応援していただき、日本に行くことができました。
こんなウガンダ人、アフリカ人はいません。ここウガンダに生まれたからこそ、実現できたことだと思います。私は、親にもウガンダという国にも感謝しています。
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 アーロンの言葉に、小田島さんはショックを受けた。「高校に通えて当たり前」「野球ができて当たり前」だと信じていた自分の考えを恥ずかしく思った。世界の8割の途上国の人々にとっては、それは当たり前のことではなかったのだ。

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 コーチ。私はウガンダのリーダーになりたい、そのために成功する必要がある。そして日本人の伝統習慣を多くのウガンダ人に伝えたい。そうすれば、ウガンダが発展すると思います。
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 彼の「どうしたらよいのでしょうか」という質問は、この志を遂げるために、今後、どうしたらよいか、という相談だったのだ。アーロンは小田島さんと話し合って、農業を志すことに決めた。肥沃な土地と豊富な水に恵まれたウガンダは、農業に大きな可能性を秘めている。彼の目標は、農業で成功するということに変わった。


■7.「どうして日本がそんなに豊かになったのか」

 ウガンダから見れば、高校進学率が95%近くに達し、半数以上の若者が大学に行ける日本は、別世界のように豊かな国である。小田島さんはセントノアセカンダリー高校の先生から、こんな質問を受けたことがある。[1,p192]

__________
 日本は先の大戦で原爆を2つも落とされ、敗戦した。国がひどい状況になったにもかかわらず、60年たった今、世界で有数の豊かな国になっている。ウガンダは独立してから50年以上経つが、まだこのような貧乏な国である。あと10年したら日本のような国になれるのか? そして、どうして日本がそんなに豊かになったのか教えてほしい。それがわかれば、ウガンダの発展のヒントになると思う。
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 小田島さんは、この質問に答えることができなかった。日本人でありながら、そのようなことを考えたことはなかった。

 この質問への答えを見つけるべく、日本のことを調べていく中で、「焼き場に立つ少年」という写真に出会った。アメリカ人の報道写真家が戦争直後の日本を撮った1枚で、10歳ほどの少年が死んだ赤ん坊をおぶって、直立不動の姿勢で焼き場の順番を待っている姿である。

__________
 悲しみに打ちひしがれながらも、涙一つ見せずに、強い意志を持って自分の責任を果たそうとする少年の姿に、この時代の日本人の精神性の高さを知った。

 指先を伸ばし、あごを引いて、直立姿勢を保つ少年の姿に、この頃の家庭及び学校での躾教育の素晴らしさを見た。わずか10歳でも、このような凛々しさを持っている。彼に理想の日本人の姿を見た。[1,p195]
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 今の豊かな日本は、こういう強い精神力に根ざした先人のたゆまぬ努力の賜物である、と小田島さんは知った。そして、そういう人物を作る教育こそ、小田島さんがウガンダで目指したものだったのである。


■8.「精神のリレー」

 朝5時からの読書、6時前からの校内清掃は野球部員にとって、当たり前になりつつある。しかし、一般生徒や教員は、ゴミ箱を増やしても、そこらにポイ捨てしてしまう。

「時を守り、場を清め、礼を正す」という日本人の生き方は一朝一夕にできたものではない。2千年以上の努力の積み重ねによって出来上がったものだ。その努力の賜物として、「高校で野球をする」というほとんどのウガンダ人のとっては「かなわぬ夢」も、普通の日本人には挑戦可能な幸せな社会が実現している。

__________
 先祖のたゆまぬ努力があって、自分の夢が実現する。

 そう考えると自分の人生は自分のものだけでなく、先祖のものであり、子孫のものでもあるのだ。自分のためだけでなく、次の世代のためにも、自分の人生を完全燃焼しなければならない。

「命のリレー」は、「精神のリレー」である。
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 ウガンダでの2年間、野球部員とともに小田島さん自身の心も大きく成長した。ウガンダを去るにあたって、小田島さんは次の言葉を選手たちに贈った。

__________
 私は日本を良くするために生きる、そして君たちは、ウガンダを良くするために生きてほしい。私はウガンダで、君たちのようなジェントルマンに会えたことを誇りに思う。それぞれの国で、人生のチャンピオンになろう。
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(文責:伊勢雅臣)
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「日本人という生き方」(上)〜 ウガンダの高校生を変えた日本の躾(国際派日本人養成講座から)

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■ Japan On the Globe(638) ■ 国際派日本人養成講座 ■

     Common Sense:「日本人という生き方」(上)
             〜 ウガンダの高校生を変えた日本の躾

          「時を守り、場を清め、礼を正す」の躾で、
          彼らは野球に真剣に打ち込むようになった。


■1.生徒に夢を持たせるには

 札幌の中学校教師だった小田島裕一さんが、青年海外協力隊の一員としてアフリカのウガンダ共和国セントノアセカンダリー高校に赴任したのは、平成19(2007)年9月のことだった。

「野球を通じた国際貢献」を志したのは10年も前のことだった。教師生活も5年経ち、無気力な生徒たちを見て、「何か生徒に夢を持たせ、それに向かわせたい」と思っていた。

 平成8(1996)年、元近鉄バッファローズの野茂英雄投手がメジャーリーグで大活躍した。当時は日本人がメジャーで活躍するのは「絶対に無理」だと考えられていた。野茂投手は日本での実績をすべて捨て、その「常識」に挑戦して、成功したのだった。

 小田島さんは、野茂投手の夢に挑戦する姿勢を見て、生徒に夢を語らせる前に、自分が夢を持ち、挑戦しなければならないと思った。そこで中学生時代にやっていた野球を通じて国際貢献する、という夢を描いたのである。


■2.「熱い思いが伝わった」

 夢は山と同じで、遠くから見るときは美しいが、実際に登り始めた途端に多くの困難にぶつかる。青年海外協力隊の選考試験に何度挑戦しても、合格できない。ある面接官からは「あなたみたいな『ただ行きたいだけの人』が行くと、相手の国が迷惑なのだ」とまで言われた。

 6回目の不合格通知が送られてきた時は、「叶わない夢だってある」と諦めかけた。しかし、それから1週間後、南北海道代表の駒澤大学付属苫小牧高校が夏の全国優勝を果たして、心が熱くなった。雪や寒さのために練習環境では圧倒的に不利な北海道の高校が日本一になった。再び、夢に灯が点った。

 翌年、7回目の選考も落ちた。今までは「なぜ自分のやる気を評価してくれないのか」と相手を責めていたが、今回は「自分が相手の国の人々に喜んで貰えるような一流の野球指導者になることを目指そう」と考えた。そして一流の指導者、一流の学校を訪ねて、自分を磨き続けた。

 8回目、自分の思いを手紙に綴り、2年間の活動計画を添えた。「合格」を電話で伝えてきた面接官は、「小田島さんの手紙に感動しました」と言ってくれた。熱い思いが伝わった瞬間だった。10年かかった夢がようやく実現しようとしていた。


■3.「君たちは野球の前にすべきことがある」

 赴任したセントノアセカンダリー高校は、中高一貫、男女共学の私立校で、富裕層の子弟が通っている。

 案内してくれた先生は、野球部には素晴らしい選手が揃っている、と言っていたが、実際にグラウンドに行って見ると、選手は5人。上半身裸で練習している生徒やら、ガールフレンドに膝枕され耳掃除をして貰っているもの、練習中に立ち小便をしたり、鬼ごっこをする者。誰一人としてまじめにやっているようには見えなかった。

 部室に案内して貰うと、まるで「ゴミ箱」。書類や段ボール箱が積み上げられ、グローブやバットが床に置き捨てられていた。

 5人の選手に目標を尋ねると、「ウガンダ・チャンピオンになりたい」と答える。「コーチのいる2年間でウガンダ・チャンピオンになれますか?」と聞いてきたので、小田島さんが「なれる」と答えると、彼らは喜んで笑顔になった。

 聞けば、現チャンピオンであるチャンボゴ高校には、今年1対30で負けたという。

 小田島さんは、一言付け加えた。「ウガンダ・チャンピオンになるために、君たちは野球の前にすべきことがある」。


■4.「いいこと言いますね。コーチは天才です」

 翌日のミーティングで、第一回ワールドベースボールクラシックで、日本チームの優勝シーンをDVDで見せた。選手の瞳は輝き、背筋が伸びた。

「私は、日本の野球をモデルにして君たちを指導したい。いいか?」「はい、コーチ」

 日本の野球が世界一なのは、その目的が人間を育てることにあるからだ。私は日本のやり方で、君たちをジェントルマンにしたい。ジェントルマンとは「自分のためだけでなく、人のためにも喜んで動ける人」のことである。野球はあくまでも選手一人ひとりをジェントルマンに育てるための手段である。その考えを小田島さんは書き出して、部屋に貼った。

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【セントノア野球部 理念】 ジェントルマンになるために
1.私たちは、すべてのものに感謝します。
2.私たちは、礼儀正しく謙虚です。
3.私たちは、日々向上します。
  ・・・
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「この理念でいいか?」と選手たちに尋ねると、「いいこと言いますね。コーチは天才です」。小田島さんは、お世辞の混じった答えに安心したが、現実はそんなに甘いものではないことを、すぐに思い知らされることになる。


■5.「自分さえ良ければ」という考え方

 ウガンダで暮らし始めて、小田島さんはその生活習慣に驚かされた。まず、時間の概念があまりない。学校の教室には時計がなく、生徒も腕時計を持っていない。学校で唯一、校長室にある時計も2年前から壊れていた。時計がなくとも困らないほど、みな時間にルーズなのだ。

 整理・整頓・清掃の習慣もない。ゴミはその場でポイ捨て。一日の授業が終わっても、生徒が掃除をする習慣がない。だから教室にゴミが落ちていても、汚いままであっても、そのまま下校し、翌日はそのまま授業に入る。

 礼儀作法にしても、こちらが挨拶しても、無視するか、横柄な態度で応対する。話を聞いている時も肘をつき、集中せず、あらぬ方を見ている。練習中、ボールを拾ってやっても、「ありがとう」の一言もない。

 これらの根底にあるのは「自分さえ良ければ」という考え方だと、小田島さんは思った。時間を守れない人は、待たせる相手のことを考えていないからである。後片付けや掃除がきちんとできないのは、次に使う人のことを考えていないからだ。礼儀がしっかりしていないのは、相手に対する敬意が足りないからである。

 教育哲学者の森信三が提唱した教育再建の三大原理、「時を守り、場を清め、礼を正す」という「躾」から始めなければならない、と小田島さんは考えた。この3つを守れたら、どんな荒れた学校も良くなるという。

■6.「こいつら馬鹿じゃないか?」

 そこで始めたのが、早朝の読書と清掃だった。生徒たちは毎朝4時半に学校の教室に集合。6時まで教室で読書し、その後、校内の清掃を行って、7時からの授業開始に備える。

 生徒たちは校内の寮に住んでいるから良いが、小田島さんの住居はバスで15分くらいの所にある。毎朝3時半に起床し、4時から、いつ来るか分からないバスを待つ。選手たちのお手本になるためには、遅刻は絶対に許されなかった。

 しかし、選手たちは雨が降れば、平気でサボった。ウガンダでは雨が降ると仕事は休みになるのである。掃除中でも眠くなれば、寮に帰ってしまう。そんな選手達に怒り、怒鳴る日々が続いた。

「こいつら馬鹿じゃないか?」「本当に意志の弱い奴らだ」。いつしか、小田島さんは学校に行くのが憂鬱になった。ウガンダ・ジェントルマンを育てることなど、できないのかもしれない、と弱気になり始めた。


■7.まず自分が本物の日本人になる

 毎週月曜日は、練習を休みにして部屋の掃除と道具の手入れをさせていた。そんな月曜日、選手の一人ジミーが掃除中に「コーチ、洗剤がほしいのですが」と言ってきた。

「何のために使う」「ボールをきれいにするためです」「ボールを?」「もっときれいになると思います」

 軟式ボールを洗剤で洗うという発想は、小田島さんにはなかった。茶色のボールが洗剤で真っ白になった瞬間、彼らの顔に笑顔が溢れた。

 今まで、サボる選手、続かない選手に怒りをぶつけていたが、そんな中にもコーチを信じて、コツコツと努力している選手がいることに、初めて気づいた。この子たちをジェントルマンにし、成功させてあげたい。心の底からそう思った。

 彼らの進歩に一喜一憂していた自分には、どこか焦りがあった。選手たちが自分の期待通り動いてくれないのは、自分の側に「時を守り、場を清め、礼を正す」ことの大切さを、本当の意味で理解していなかったからではないのか。

 改めて思えば、日本での自分も、遅刻をしたり、掃除を選手に任せたりしていた。自分自身が習慣になっていないものを、彼らに要求していたのだ。彼らのミスを責める前に、まず自分が本物の日本人になることを決意した。

 選手の行動はコントロールできないが、自分の行動は自分でコントロールできる。うまくいかない原因を選手の側に問題ではなく、自分自身の問題としてとらえるようになってから、不思議なことに選手たちは想像以上に速く成長していった。


■8.選手の心のコップを上向きにしなければ

 朝の清掃と読書を始めた当初、選手たちからは「ウガンダ・チャンピオンになるために、もっと技術練習をしたらどうですか」と言われた。

 たしかに、野球コーチが練習より、遅刻や掃除、挨拶をうるさく言っているのは、彼らには理解できなかったろう。

 しかし、時間は守れない、練習はさぼる、人の話は集中して聞けない、という状況は、コップが下を向いているようなもので、いくらコーチが技術指導した所で、水はコップに入らない。

 まずは、選手の心のコップを上向きにしなければならない。そのために必要なのが、「時を守り、場を清め、礼を正す」であった。これが自然とできていくうちに、心のコップが上を向いてくる。こうなって初めて技術練習の意味が出てくる。

 その成果は、やがて試合の結果にもつながっていった。チャンピオン・チームであったチャンボゴ高校とは、最初の試合は1対19で敗れた。その1カ月後には、4対14となった。指導してから3カ月後には2対3となり、6カ月後には9対10とほぼ互角の戦いができるまでになった。

 技術練習の時間は1時間のまま変わらなかったが、練習の密度があがっていったのだ。選手も結果が出始めると、小田島さんのやり方を信頼するようになっていった。


■9.「こいつら、なんでこんなに一生懸命なんだ」

 朝読書、朝清掃を始めて6カ月。チームとして1時間半、教室で一言もしゃべらず、背筋を伸ばして学習する選手たち。朝の読書には「座禅」のような効果がある。読書で集中力を高め、朝の校内清掃に入る。

 掃除も、始めた頃は「四角い部屋を丸く掃く」という有様だったが、小田島さんがお手本を示し、掃除の回数が200回を超えたあたりから、彼らの掃除は小田島さんよりも丁寧になっていった。

 仁愛保育園の石橋冨知子園長は言う。[1,p65]

__________
 単にゴミを拾うことが掃除本来の目的ではありません。塵が有るのか無いのかを、かがんで、四隅を見て、十本の指を使って一つ一つ確認し、理解していくのです。一生懸命掃除をすることで、隅々を見る人間、いろいろなことに気づく人間が育ちます。掃除を心がければ人間が傲慢になりません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 選手たちも掃除をすることで、「気づく人間」に成長していった。仲間の表情や態度から、その気持ちを察することができるようになっていった。

 ある日、小田島さんは私用で外出し、夕方の練習に遅れて参加した。いつもと違い、道路から直接グランドに入る小田島さんの姿に、選手たちは気がつかない。

 大きな声が響き渡るグラウンド。一人ひとりの真剣な目。力一杯、走る姿。小学生も練習に参加していた。彼らも高校生選手を真似て、一生懸命である。

「コーチがいないのに、こんなに真剣にやっている」。思わず涙が溢れた。涙が止まらなかった。嬉しかった。

「こいつら、なんでこんなに一生懸命なんだ」。一生懸命の姿は美しい。こんな光景が見られるとは思ってもいなかった。

(文責:伊勢雅臣)
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気は優しくて力持ち 〜 自衛隊の人づくり(国際派日本人養成講座から)

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No.739 気は優しくて力持ち 〜 自衛隊の人づくり

自衛隊員たちは、被災地の過酷な環境の中で、なぜこんなに優しくできるのか。



■1.自衛隊員たちの優しさ

「俺、自衛隊に入る」、ポツリとその小学生は言った。「なぜ」と聞かれて、こう理由を語った。

 津波に呑み込まれた父親が帰ってこないかと、と毎日、ずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声を掛けられた。そこに佇(たたず)む理由を話すと、その自衛官は何も言わずに肩に手を置いて、しばらくの間、一緒に海を見てくれたのだという。[1,p83]

 被災地で救援に従事している自衛隊の一隊が、ある学校のそばを通りかかった時、先生から「どうしても金庫にしまった成績表を引き上げたいんです」と頼まれた。子供が行方不明のままの親御さんに、せめてもの形見にしてあげたいという。

 泥沼の中から金庫を取り出すのは至難の業だったが、小隊全員でなんとかやり遂げた。そこに視察中の上官が通りかかった。小隊長が慌てて、「すみませんでした。今後は捜索に集中しますので、今回だけは見逃してください」と懇願したところ、「素晴らしいことだ」と逆に褒められたという。[1,p82]

 毎日、朝から晩まで、被災者たちの救援で大変な毎日だったのに、自衛隊諸士はなぜこんなに優しくなれるのだろう。


■2.細やかな心遣い

 お腹をすかせている被災者を見かねた自衛隊員が、自分の分の食糧をこっそりと配っていた。被災者たちも「本当にもらっていいんですか? あなたの食べる分がなくなってしまうのではないですか?」と何度も確認したそうだが、自衛隊員たちは必ず笑顔を浮かべて、「しっかり食べていますから、大丈夫です」と答えたという。

 厳密に言えば、自衛隊の食糧を流用したという意味でルール違反なのだが、目の前で苦しんでいる被災者をなんとしても救いたい、という純粋な気持ちから起こした行動であり、上官たちも見て見ぬふりをしていた。

 また食事をする際にも、「被災者の目に触れない場所で食べること」というルールを守っていた。行方不明となった家族を必死に探している人が、自衛隊員たちが腰を下ろして食事をしている所を見たらどう思うか、という心遣いからだ。

 しかし、すべてを津波で押し流された被災地では、車の中くらいしか、隠れて食事をできる場がない。そして、その車はつい今し方まで遺体を運搬していた、という事もしばしばであった。

 避難所では、自衛隊の持ち込んだ風呂が喜ばれた。もともと1個師団につき二つずつ配備されているものだが、それを被災者に提供した。テントの入り口にのれんをかけて「○○の湯」と、その部隊所在地の名前を書き込むだけで、被災者は体だけでなく、心もホッと温まる。

 しかし、もともと隊員用なので、かなり湯船が深くなっているため、入る際の段差が高く、お年寄りには大変だった。そこで、すかさず隊員たちは、あり合わせの材料でお年寄りのための階段と手すりまで拵えて、誰でも入れるバリアフリーの風呂に変身させた。女湯では、女性隊員たちも一緒に入浴して、被災者のお世話をしたり、避難所での悩みに耳を傾けた。

 過酷な環境に中で、自衛隊諸士は、なぜこんなに細やかな心遣いができるのだろう。


■3.過酷な環境と使命の中で

 こうした優しさや心遣いは、思いやりのある人なら誰でも出来るだろう。しかし、災害地で自衛隊の置かれた過酷な状況と使命を考え合わせたら、それが到底、常人のなせる業ではないことに気がつく。

 朝は6時頃から日没までは、ひたすら救援・捜査活動をする。瓦礫の下に行方不明者が残っている可能性があるから、ビルの工事現場のように、重機で瓦礫を一気に取り除くことなどできない。行方不明者や遺体を捜索しながら、手作業で慎重に瓦礫を一つ一つ除去していく。

 遺体が発見されると、できる限り丁寧に収容することを心がけているが、担架などないから、背負って収容所まで運ぶ。戦闘服には腐敗した体液がべっとりついて、大変な悪臭を放つ。しかし、事業仕分けの影響でほとんどの隊員が2着しか戦闘服がないため、消臭スプレーでなんとかごまかすしかない。

 また自分の子供と同じくらいの年格好の子供の遺体を収容するのは、特に精神的にストレスが大きい。一日の作業終了後には、隊で車座になって、その日一日の苦しみ、悲しみを吐き出したという。

 暖かい食事を作る炊事車はあるが、被災者の食事を優先するので、多くの場合、乾パン、缶詰、カレーなどのレトルト食品だけとなる。こういう食事を、しかも不規則な時間に、かつ被災者に見られないように素早くとっていると、野菜不足もあいまって、ひどい便秘や口内炎に悩まされる。

 また、上述のように、風呂も被災者に提供しているので、隊員たちは当初は汗ふきタオルで済ましていた。

 こんな毎日が数ヶ月も続いたら、通常の人はそれだけで病気になるか、ノイローゼになってしまうだろう。そんな状態の中で、我々は、海に佇む少年の肩を抱いてやったり、成績表の入っている金庫を泥沼から引き上げたりすることが、出来るだろうか。なぜ自衛隊員たちには、それができるのか。


■4.「強くなければ優しくなれない」

 その秘密を、かつてイラク支援の「ヒゲの隊長」として名を馳せた自衛隊OB佐藤正久氏(現・参議院議員)[a]は、「強くなければ優しくなれない」として、こう説明している。

__________
 結論から言いますと、「もっと過酷な条件下で訓練しているから」に尽きます。

 基本的に自衛隊員たちは、朝6時に起床すると、そのまま夕方までハードな肉体錬成や各種訓練に明け暮れます。そして、すべての訓練が終わると、それぞれクラブ活動として野球やサッカーなどのスポーツにも励んでいます。

 つまり、一日中、野外で立ちっぱなし、動きっぱなし、というのは自衛隊員にとって特別なことではないのです。
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 こうした日々の鍛錬に加えて、時には「3日間で100キロ歩く」という行軍を行う。背中には20〜30キロの荷物を背負い、さらに機関銃やロケット砲などを持って歩く。夜も交代で歩哨をする。
こうして100キロ踏破して目的地に着くと、そこから本番の演習が始まる。

 こうした極限状態を体に覚え込ませることで、どんな厳しい状況に置かれても耐えていける体力と精神力が身につく。


■5.集団生活から育つ「自己犠牲の精神」

 しかし、いくら体力と精神力が強くとも、人間としての優しさは別問題である。それはどこから来るのか? 佐藤さんは常に集団生活をしていることで、そういう心が育っていくと説く。[2,p123]

__________
 集団生活を維持していく、と言うと「切磋琢磨して成長し、ついてこられない者は切り捨てる」と勘違いされる方が多いようですが、実際にはまったく逆です。つまり、一番能力が低い人間にグループ全体に基準を置くのです。・・・

 全体を底上げしようとしたら、いかに能力が低い人間をフォローし、その人間の力を引き上げるか考えなくてはいけません。これ自体が、なんでもできる人間にとっては苦痛を伴う我慢になります。

そういったことを繰り返していくうちに、自然と仲間のために自分を殺してフォローに回るという『自己犠牲』の精神がしっかりと心に刻まれていくのです。
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 この自己犠牲の精神から、「困っている人がいたら、理屈抜きで助ける」という優しさが出てくる。


■6.「自衛隊は教育の場でもある」

 佐藤氏は「自衛隊は教育の場でもある」と指摘している。入隊した時点では、尖ったり、やたらと威張ったりしている連中も多いが、入って3日で変わるという。[2,p134]

__________
 とにかく最初に床屋に連れていってバリカンで丸坊主にするわけです。そうすると面白いもので、さっきまであんなに威勢の良かった連中に限ってシュンとなってしまう。・・・

 実際の話、入隊式の段階で父兄の方が『本当にあれが暴れん坊だった我が息子か?」と目を疑ってしまうほど、最初の3日で変わってしまう。もっとも、この時点では上っ面だけの変化なのですが。

・・・大きく変わるのは10人単位のスモールグループで集団行動を始めるからでしょう。修了式ではもう別人です。
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 もちろん、体を鍛えたり、人間修養の教育ばかりではない。必要な各種の技術を習得するためのクラスはいくらでもある。


■7.9月入学前に「自衛隊での訓練を受けよ」

 立命館大学教授の加地伸行教授は、国立大学の9月入学に賛成して、3月の高校卒業から、9月入学までの半年間は自衛隊での訓練を受けよ、と主張している。[3]

__________
 国立大学の教員・学生は、いったいだれのお蔭(かげ)で研究・教育の場を与えられているのか、分かっているのか。もちろん国民の血税のお蔭ではないか。とすればまずは国家に感謝し国家のために尽くすべきである。・・・

 とすれば、国立大学男女新入生(私学も希望者参加)は、まずは国防の大切さを実感するために、自衛隊において、将校でなく一兵卒として諸訓練を受けよ。そして受験勉強で柔(やわ)になった身体や世間知らずの小理屈を敲(たた)き直せ。

 半年、行軍・柔道剣道・水泳などで身体を鍛え、救命方法やクレーン車を動かせるまでの技術を学び、合宿中多様な友人を作り、国家とは何かを談じ合い日本人の自覚を持て。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大学生たちが、こういう形で、強い体力と精神力、自己犠牲の精神とそれに支えられた優しさ、日本人としての自覚をもったら、将来の日本も大きく変わるだろう。

 弊誌は、さらに新卒者で就職先が見つからない若者たちに、一定期間、自衛隊での教育訓練を受けさせる事を提案したい。自衛隊で、強い体力、精神力、技術力、優しさを身につけた若者たちは、企業にとっても貴重な戦力となるし、一朝、事あるときには予備自衛官として駆けつけることができる。

 一人あたり給与と経費で年間400万円、5万人対象としても、年間2千億円で済む。高校無償化などに5千億円も使うよりは、はるかに大きな人材育成効果が期待できる。そして年に5万人の予備自衛官を育てることができれば、10年で50万人。大規模災害でも、十分な人数となる。


■8.津波や原発事故以上に悲惨な事態を抑止するには

 自衛隊での教育の本質が、極限状態での体力と精神力の鍛錬、そして集団生活で学ぶ「自己犠牲の精神」にあると述べたが、それはまさしく、ゆとり教育と行き過ぎた個人主義で歪められた戦後教育とは対極のものだ。

 元学生運動家で戦後教育の申し子とも言うべき菅前総理は[b]、震災時に自衛隊諸士とは対照的な行動をさらけ出した。防衛省に打診することもなく、出動人員を当初の2万人から、翌日12日には5万人、さらに13日夜には10万人に倍増させると発表したのである[c]。

 この時点でなすべき事は、詳細な現状把握をベースに、どれだけの部隊をどこに派遣すれば、国民の生命を最大限救えるか、という戦略であり、現状把握も救出戦略もないままに、単に動員員数だけをアピールすることではなかった。

 これは明らかに政治家としてのスタンドプレーである。すなわち総理の権力を乱用して、自己のアピールのために自衛隊を利用したわけで、そこには被災者への思いやりも「自己犠牲の精神」のかけらもなかった。

 さらに菅前首相の思いつきの動員により、24万人中、10万人の自衛官が出動した結果、本来任務の領空、領海、領土警備が交代要員もない、手薄な状態になった事を忘れてはならない。

 その隙を窺って、中国のヘリが海上自衛隊の艦船に異常接近したり、ロシアの戦闘機が我が領空に接近したりしてきた。こういう状況下での我が国の国防態勢を偵察したのだろう。こんな隣国に我が国は囲まれているのだ。

 戦後教育の悪弊の一つは、国防の大切さを考えさせない、という点にあったから、その申し子たる菅前総理も、10万人を動員したら、国防の最前線がどうなるかは、念頭になかったと思われる。

 地震や津波と違って、他国の侵略や核ミサイル攻撃は、事前に抑止、あるいは撃退することができる。北朝鮮のゲリラ軍が津波のように押し寄せる前に、あるいは中国の核ミサイルが原発事故以上の惨状をもたらす前に、十分な備えを見せることによって、そうした事態を予防できる。

 民主党が「国民の生活が第一。」と信ずるなら、まずは津波や原発事故以上に悲惨な事態を抑止することを第一に考えなければならない。そして、この国防こそが自衛隊の本来任務なのである。

 事業仕分けで戦闘服を2着しか持てないというような政治をしていては、強くて優しい自衛隊諸士の足を引っ張るだけである。

(文責:伊勢雅臣)
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夢と希望の長寿大国(国際派日本人養成講座から)

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世界一の長寿を、健康で活き活きと過ごせる夢の技術が開発されつつある。

■1.世界最速、最高水準の高齢化

「この国には何でもある。だが、希望だけがない」などという悲観論が幅を効かせている理由の一つとして、少子高齢化の傾向がある。高齢化により年金生活者ばかりが増え、人口も減少して経済が縮小していく、という暗鬱な未来像が、マスコミで喧伝されている。

確かに我が国の高齢化は、史上、例がないスピードで進んでいる。昭和25(1950)年に高齢化率(総人口に占める65歳以上の人の割合)5%だったのが、平成17(2005)年には20%を超えて、世界最高となった。50年後の平成65(2055)年には高齢化率40%超という未曾有の事態となる。

平成7(1995)年には高齢者1人を生産年齢人口(15〜64歳)4.8人で支
えていたのものが、平成65(2055)年には1.3人で支える勘定だ。こんな数値を語られたら、若者が希望をなくすのも当然である。


■2.世界最先端の高齢化社会の課題を世界最先端の技術で解決

しかし弊誌は、こうした報道は、我が国社会を常に暗く描く偏向報道の一種ではないか、と考える。

今の日本のお年寄りは、世界最高水準の長寿を誇るだけでなく、昔に比べればはるかに若々しいので、65歳を超えてもまだまだ働きたいという人も多い。仮に定年を10年伸ばして、15〜74歳までを生産年齢人口とすれば、平成65(2055)年でも、75歳以上の高齢者1人を、約2人の現役世代が支えれば良いことになる。

現在の我が国の平均寿命は、女性は86.39歳で世界一、男性は79.64歳で世界第4位である。第4位と言っても、上を行くのは香港、スイス、イスラエルといった人口数百万人規模の小国・地域ばかりなので、人口1千万以上の中・大規模の国の中では男女とも堂々の1位である。

昔から長寿は人間の幸福の一大要素であった。しかも、その長寿の人生で、末永く、好きな仕事に打ち込み、それで世のため人のために尽くせたら、こんなに幸せなことはないだろう。

お隣の中国では、一人っ子政策が災いして、急速に高齢化が進み、2010年代後半から労働人口が減少すると予測されている。国民全体が豊かになる前に、しかも医療・保険制度も不十分、所得格差世界最大級という中で、高齢化社会に突入する。その中国に比べれば、日本に生まれた我々の幸運に感謝あるのみである。

しかし、寝たきりになったり、ボケてしまっては、せっかくの長寿が活かせない。実は、そうならないよう、我が国では各方面で高齢化社会を支える技術開発が進んでいる。

世界最先端の高齢化社会の課題を、世界最先端の技術で解決しようとしているわけで、その技術は世界の高齢者を支えるかけがえのないものとなろう。今回は、その最前線を見てみよう。


■3.脳波で動くロボット・スーツ

人間がぬいぐるみのようなロボットに乗り込んで、手足を動かすと、その通り、ロボットが動くというSF映画を見たことがあるだろうか。最近の映画『アバター』では最後のクライマックス・シーンで、敵役がこれを着て、主人公と戦った。

これをさらに小型にして、身につける「ロボット・スーツHAL」がすでに我が国で開発されている。脚が弱って歩けない人でも、ロボット・スーツが両足を支えて、スタスタ歩けるようになる。、手の力が弱って、重いものを持てない人も、腕を支えて力を貸してくれる。

ロボット・スーツの操縦は、手足で操縦していたSF映画よりもさらに進んでいる。ロボット・スーツが脳波を捉えて、体を動かしたいと思うだけで、その動きを助けてくれるからだ。

脚を前に出したいと思うと、脳から脊髄の方にイオン電流の形で信号が流れる。皮膚表面にもそのイオン電流が漏れでてくるので、センサーで検知して、動きたいと思う動作を先取りして、ロボット・スーツが動いてくれる、という優れものである。

おそらくこういう製品の課題は、長期信頼性やコストだと思うが、このあたりの量産技術は、自動車でも見られたように、日本製造業のお家芸である。

やがて、寝たきりだったお年寄りも、これを着て、続々と社会復帰する、という光景が実現するのではないか。高齢化が心配されている農業や林業でも、ロボット・スーツを着用した高齢者が重作業でも楽々とこなすことができる。


■4.ロボット・スーツはいかに生まれたのか

ロボット・スーツHALの開発の中心となっているのは、筑波大学大学院の山海嘉之(さんかい・よしゆき)教授である。山海教授は子供の頃、アイザック・アシモフのSF小説『私はロボット』を読んで、「科学者の生き方というのはとても魅力的だな。自分もそういうものを創りだしてみたいな」と思ったという。

それで教科書でカエルの足に電極を接触させる実験を見て、興味を持ち、自分で作った発振器でカエルの筋肉に電気を通じ、どのくらいの周波数で、どのくらい収縮するかを調べたりした。やり始めると夢中になって、毎日飽きもせずに何時間もやっていたという。

ロボット・スーツHALの開発も、生理学や工学の境界を超えて取り組んでいるので、やっていることは小学校の頃とほとんど同じだと言う。

『私は好きなことが見つかった段階で、才能がひとつ見つかったのと同じようなものだと思うのです。ですから、子供時代に思いっきりのめり込めるものを持っていた私は、非常に幸運でした』

そして、そこから、HALにたどり着いた経緯をこう語る。

『私はもともと人間が好きで、社会や人に役立つテクノロジーというものを常に意識していました。人とテクノロジーがどうして一緒になっていくのがいいのかと模索を続けた結果、HALに結びついたのです』

好きなもの夢中になって打ち込みながら、それが世の中の役に立つ。これこそが理想の生き方であろう。ロボット・スーツで社会復帰するお年寄り方にも、ぜひそんな生き方をしていただきたいものだ。


■5.高齢者に優しいEV(電気自動車)

大都市圏は除いて、仕事や生活に車が必需品という地域は多い。徒歩圏内に生鮮食料品店が存在しない世帯数は現在約46万世帯もあるが、地域人口減少と店舗閉鎖に伴い、約114万世帯に増加する、という展望を国土交通省が示している。

しかし、現在の車は、高齢者が使うには難しい。高齢ドライバーによる交通事故件数は、平成11(1999)年の6万3千件から、平成21(2009)年には10万5千件と急増した。一方、事故を恐れて運転免許を返納する高齢ドライバーも多い。平成21(2009)年には、13万4千件の免許返納があった。

そこで、高齢者に優しい自動車を開発しようという試みが推進されている。国土交通省、福岡県、自動車メーカーなどの協力で、高齢者が使いやすい二人乗りのEV(電気自動車)を目指している。

EVに絞ったのは、地方ではガソリンスタンドが次々と閉鎖される中、家のコンセントで手軽に充電できるからだ。

将来は、ロボット・スーツの技術を使って、脳波で動く自動車ができるだろう。


■6.70年は使い続けられる人工関節

ロボット・スーツまで行かなくとも、高齢者に多い関節リュウマチや変形関節症の痛みをなくし、動きをある程度回復する技術が開発されつつある。

人工関節を人体に埋め込むという手術で、国内だけで人工膝関節は年間7万件、人工股関節は約10万件に上るという。しかし、現在の人工関節は、使っているうちに表面が削れ、粉が発生する。

その粉に対して細胞が免疫反応を起こすと、周辺の骨が少しづつ消失して、人工関節がゆるくなり、再手術が必要となることがあった。

そこで、京セラグループの日本メディカルマテリアル(JMM)が開発したのが、摩擦が少なく、免疫反応も起こしにくい生体親和ポリマーを使った人工股関節である。

これだと「70年は使い続けられそうだ」ということで、大人なら一度、手術すれば、生涯使えることになる。世界的に見ても人工関節の手術件数は増加すると見込まれているが、世界の患者に感謝される技術となろう。


■7.難聴、難視も解決するiPS細胞技術

高齢化で衰えるのは、体力だけではない。耳が遠くなったり、目が悪くなったりする。現在は、補聴器や眼鏡などで補っているが、程度がひどくなると、これらでは間に合わない。

この問題を一挙に解決する可能性を秘めているのが、iPS細胞の技術である。
iPS細胞とは、体を構成する多種多様な細胞に分化成長する能力を持った万能細胞である。

たとえば老人性難聴は、音を電気信号に変えて脳に伝える内耳の聴神経細胞が傷つくことによって起こる。ここで、患者自身の皮膚細胞などからiPS細胞を作り、それを聴神経細胞として成長させて移植すれば、難聴が改善できる。すでに京都大学病院では、こうした方法で、モルモットや猿の難聴改善に成功している。

また、目の難病である加齢黄斑変性は、失明につながる病気で、高齢者で増えている。これも、iPS細胞技術を使って、患者の皮膚細胞を「網膜色素上皮細胞」に分化させ、傷んだ細胞と置き換える移植手術をする。平成25(2013)年から、臨床研究が始められる計画だ。

こうしたiPS細胞の技術開発を世界的にリードしているのが、京都大学の山中伸弥・京都大教授である。iPS細胞の作成に関する基本特許を、欧州や米国でも取得。世界のiPS細胞関連の特許を京大がほぼ独占している。山中教授は、現在、ノーベル賞候補にあがっていると言われている。

山中教授はもともと整形外科医だったが、脊髄損傷など治療できないものも多いことを知り、改めて研究をしっかりやろうと決心した。研究成果を医療につなげたいという気持ちで、研究に意欲を燃やしてきた、という。


■8.老人性認知症の根治に光明

こうした技術で、体は元気になっても、老人性認知症などになってしまって
は、仕事を続けることはできない。入浴や排泄に介護を必要となると、家族も社会も負担が大変だ。国内の認知症高齢者は推定230万人もいる。その6割が、アルツハイマー型で、脳全体が萎縮してしまう。

平成9(1997)年にエーザイが世界に送り出したアルツハイマー型認知症治療薬「アリセプト」の生みの親、杉本八郎氏。アリセプトは認知症の進行を遅らせる薬だが、「根治薬はいつできますか」と患者から何度も聞かれて、杉本氏は奮起した。

現在、京都大学客員教授として、京大発ベンチャー「フェルマエイト」で、老人性認知症の根治薬開発に取り組んでいる。

インドのアルツハイマー発症率が米国の4分の1と低い事に着目し、その原因として、カレーの粉ウコンの効果が判明した。この成分をもとに、約千種類の分子を設計して、候補化合物を絞り込んだ。平成25(2013)年からは、米国での臨床試験開始を目指している。


■9.幸福なる長寿大国へ

20歳前後から仕事を始め、75歳まで現役で働くとすると、50数年もの期間を働くということになる。現在の30数年の仕事の後で、さらに20年もの期間がある。第2のキャリアを持つ二毛作人生が可能となる。

第1のキャリアで培った専門技術、経験、見識を、第2のキャリアに生かせ
ば、非常に高い知的生産性を達成できるだろう。高齢化社会は、知的生産性の高い技術大国、芸術大国への道でもある。

同時に、ここで紹介したロボット・スーツ、人工関節、iPS細胞技術、そしてアルツハイマー治療薬などを含め、高齢者でも元気に活躍できる製品、技術は、主要輸出産業として、我が国の経済を支える柱になるだろう。

労働を神が人類に与えた罰とするキリスト教社会では、早く一財産こしらえ
て、さっさと退職して遊んで暮らすことを理想としている向きがあるようだが、我が国の神話では、神々自身が、田を耕したり、糸を紡いだりして、労働にいそしんでいる。

仕事を楽しみながら、仕事を通じて世のため人のために貢献して生きがいを得る。世界一の長寿を、そのような形で最後まで充実して過ごせる幸福なる長寿大国、それが我が国の目指す道である。

(文責:伊勢雅臣)
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金正日死亡で、北朝鮮はどうなる??? (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。




★金正日死亡で、北朝鮮はどうなる???

ロシア政治経済ジャーナル
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今回は特別号外として、モスクワ在住の北野幸伯(よしのり)さんが発信されているメルマガ「ロシア政治経済ジャーナル」の12/21号「金正日死亡で、北朝鮮はどうなる???」を転載させていただきます。

北野さんの3冊の著書は、弊誌でも以下に紹介させていただいています。

JOG(382) 覇権をめぐる列強の野望
北野幸伯『ボロボロになった覇権国家(アメリカ)』を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog382.html

JOG(515) 石油で読み解く覇権争い
北野幸伯『中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日』を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog515.html

JOG(565)ロシアから日本を見れば
私達が抱いている自画像とは、まったく異なる国の姿が見えてくる。
(北野幸伯『隷属国家日本の岐路』より)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/jog565.html

北野氏はロシア政府高官や大学教授などとも親交があり、日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などという戦後日本の鎖国的世界観を完全に抜けだしたリアリズムで、しかも実に分かりやすく、現実の国際社会の有り様を照らし出してくれます。

国際派日本人が国際政治経済の基本を理解するためのメルマガとして「ロシア政治経済ジャーナル」をお勧めします。(伊勢雅臣)

== RPE Journal=======================
 
       ロシア政治経済ジャーナル No.790

                         2011/12/21

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★新規購読者の皆様へ!
はじめまして!RPE発行者北野です。RPEのモットーは、
1、わけのわからない世界情勢を世界一わかりやすく解説する。
2、でも、きれいごとは一切言わない。です。
世界の裏側で起こっていることを、あなただけにこっそりお教えします。
これは、国連・世銀・外務省・政治家・ファンド・社長さん軍団・大企業幹部・起業家等々が内緒で読んでいる、秘伝のメルマガです。
友人知人には、このメルマガのこと絶対秘密にしておいてください。
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★金正日死亡で、北朝鮮はどうなる???
全世界のRPE読者の皆さま、こんにちは!
北野です。
(●独裁者に意外な共通点? 詳細は【おたより】コーナーで!)
金正日さん死亡について、いろいろ質問が来ています。


▼質問1、「北の春」は起こるのでしょうか?
アラブ諸国で起こった革命を、「アラブの春」というそうです。
北朝鮮でも民衆が蜂起して、革命が起こり、「北の春」は起こるのでしょうか?
という質問です。
私は「起こらない」と考えています。
ここで「洗脳」についてお話します。
洗脳の要諦は
1、同じ情報を繰り返し繰り返し与えつづける
2、他の情報を与えない
です。

1、同じ情報を繰り返し繰り返し与えつづける
たとえば、ある宗教団体では、「A尊師は、世界を救う救世主です」とされている。
これを新規の人に信じさせようとすれば、ことあるごとに、
「A尊師は、世界を救う救世主。なぜなら○○で○○だから」
と繰り返せばいい。
カンボジアの独裁者ポルポトは、「ウソも100回いえばホントになる」
といったとか。

北朝鮮はどうでしょうか?
これは、学校でもテレビでもラジオでも、「金日成は偉大だ!」「金正日は偉大だ!」と毎日毎日延々と教育(洗脳)される。
だから、国民の大部分は、ホントにそれを信じているのでしょう。
最近の、サッカー日本代表と北朝鮮代表の試合の様子を見ても、「おいおいマジだぜ〜」と思いましたよね。
ですから、北朝鮮の国民は、心から金正日の死を悲しんでいるのだと思います。
(もちろん、「泣かないとひどい目にあうから泣くフリしよう」という人もいるでしょうが・・・。)
ロシアでも、年配の人に、「スターリン死んだときどうだった?」と聞けば、ほとんど全員が「泣いた」と答えます。
革命が起こったアラブ諸国の場合、この「洗脳」が甘かったのでしょ
う。

2、他の情報を与えない
同じ情報を繰り返し繰り返し与えることも重要ですが、他の情報を与えないことも同じくらい大切です。
たとえば「A尊師は世界の救世主だ!」と信じ始めた新規の信者。
その人に、友達がある本を渡した。
その本には、「A尊師は、信者に菜食を強制しながら、実はしゃぶしゃぶ好き」
「A尊師は、信者に禁欲を強制しながら、自分は複数の愛人をかかえている」
などと書いてあった。
これで、新規信者の信仰は一気に揺らいでしまいます。

ソ連も、ゴルバチョフがペレストロイカをはじめる前は、「ソ連は世界一進んでる」と信じてたんです。
ところが、「グラスノスチ」(情報公開)で、西側の情報が入ってくると、クレムリンのウソがばれちゃった。
「なんだ、西側の人たちは、私たちよりでかい家に住んでいる。一家に一台自動車をもっている。しかも、ソ連製と比べると断然かっこいい!」
だから、洗脳を確固たるものにするためには、「他の情報を遮断しておくこと」が大事。

この点、北朝鮮はしっかりしています。
自由で豊かに暮らす日欧米の情報が入らないようになっている。
革命が起こったアラブ諸国は、「フェイスブックで革命が誘発された」といわれるように、比較的自由に、世界の情報にアクセスできた。
北朝鮮で「フェイスブック」といっても、「なんですか〜?」ということでしょう。

というわけで、「北の春」はまだこないと思います。


▼質問2「金正恩への権力移行は平穏に進むのでしょうか?」
「クーデターなどは起こらないのでしょうか?」
私は、「平穏に進む」と思います。
これも、要するに「洗脳」の結果なのです。
偉大な金正日が、「後継者は、3男の金正恩」と決めた。
国民は、「金正日が決めたのなら、それでいいじゃないか」ということでしょう。

「でもそれは民主的じゃない!」
というのは、私たちの価値観にすぎません。
民主主義の価値観が根付く前、世界のほとんどの国には王様がいた。
王様の次の王様は、王様の子供に決まっています。
さて、誰かがクーデターを画策しようとする。
国民が神様のように思っている金一族に反逆するなんて難しいですね。
だから、権力を握りたい人は、「若い金正恩を操って実権をにぎろう!」と考えるのではないでしょうか?


▼質問3「金正恩時代になって北は核兵器を放棄するでしょうか?」
放棄しないでしょう。
北朝鮮としては、核兵器があるおかげでアメリカから攻撃されないでいる。
もし核兵器がなくなれば、アフガンやイラクやリビアのようになる。
北朝鮮がそう懸念するのももっともです。

ちなみに日本では、「中国やロシアも北朝鮮の核兵器には困っている」という論調が多いです。
別に中国やロシアは、北が核兵器もっていても困りません。
だって、北朝鮮の核兵器のターゲットは、日本、韓国、アメリカなのですから。
日本だって、アメリカが核兵器もってても困らないでしょう。
それと同じで中国、ロシアは北朝鮮の核兵器問題を解決する気はないのです。


▼質問4「北朝鮮の人たちは飢えていると聞きます。近い将来体制は崩壊するのでしょうか?」
中国が元気なうちは、北朝鮮は崩壊しないでしょう。
なぜかというと、中国が北朝鮮を支援し、守るからです。
なぜ、中国は北朝鮮を守るのでしょうか?
もし、韓国中心に朝鮮半島が統一されたらどうなります?
アメリカ軍が中国と北朝鮮の国境に駐留したり、ミサイルを配備するようになるかもしれない。
これは中国にとって悪夢です。

ですから、中国は金王朝ができるだけ長くつづくことを願っているのです。
では、金王朝は永続するのでしょうか?
それでも、私は金正恩の代で崩壊すると思います。
それは、中国の経済崩壊とセットで起こるでしょう。
中国からの支援が止まれば、北朝鮮も崩壊せざるを得ません。
というわけで、なかなか流動的・不透明な現状ですが、以上が私の考えです。

今回は、北朝鮮のはなしでした。



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★Tさまからのおたより
北野様、こんにちは。
北の金総書記が死亡したという報道が流れ、朝鮮半島情勢も混迷するかもしれませんね。
後継者・正恩氏が軍部をしっかり統制できるのか、不安材料もありますが、日本は拉致問題も含め、行き詰った日朝外交を、独自外交により打開できるチャンスでもありますね。
さて、ここに興味深い話があります。
独裁者は、69歳で亡くなる?法則が話題になっている様です。
また金総書記の死亡日は、韓国大統領・李明博氏の誕生日だそうです。
http://www.yukawanet.com/archives/4050040.html 

カンボジアのポルポト(1928年5月19日生まれ 69歳没)
イラクのサッダームフセイン(1937年4月28日生まれ 69歳没)
リビアのカダフィ(1942年6月7日生まれ 69歳没)
北朝鮮の金正日(1941年2月16日生まれ 69歳没)

興味深い謎ですね。

これからも、よろしく御願いいたします。
書いた人 nippon | comments(0) | - |




夢と希望のエネルギー立国 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■1.希望がなければ創れば良い
「この国には何でもある。だが、希望だけがない」とは、村上龍の小説『希望の国のエクソダス』に出てくる印象的なセリフだ。「なるほど」と当初は思ったが、「ちょっと待ってよ」と考え直した。

 希望がなければ創ればよい。車や家では「なければ創れば良い」とは言えないが、希望なら自分の心の中で創れるはずだ。希望を他人から与えられるものと思い込み、自ら創りだすという逞(たくま)しさを失っているからこそ、こういうセリフに共感してしまうのではないか。

 この新年号では、初夢として、我国の未来に関する希望を語ってみたい。以下に紹介する夢は、架空のものではない。様々な人々が自ら描き出し、その実現に向けて自分の人生で努力をしている夢である。


■2.エネルギー自立の夢

 夢にもいろいろな分野があるが、まずはエネルギーの分野をとりあげたい。エネルギーを輸入に頼っている点が近現代の日本のアキレス腱であり、先の大戦にしても、米英蘭の対日石油禁輸が我が国を袋小路に追い込んだのである。

 現時点でもエネルギーの殆どを輸入に頼っており、例えば中国海軍に石油輸入のシーレーンを抑えられたら、もはや属国となるしかない[b]。逆に、エネルギーで自立できたら、こうした100年来の課題が一挙に解決できることになる。

 地球レベルで見ても、資源・エネルギーの枯渇と、化石燃料による環境破壊が人類の生存を脅かすレベルになってきている。ここは我が国の技術で人類の未来を切り開きたいところだ。

 先の福島第一原発事故で、原子力の危険性が認識されたが、原子力を代替する自然エネルギーとしては、太陽光・風力・地熱などが普及期に入っている。

 しかし、これら以外にも、夢のエネルギー源が日本の技術で着々と開発されている。本号では、それらの中から、いくつかを紹介したい。


■3.渓流や水路で水車を回す小水力発電

 水田の横を流れるせせらぎで回る水車は、いかにも懐かしい日本の原風景である。国土の急峻な我が国では、多くの小さな水流がある。そこに設けた水車で発電しようというのが、小水力発電である。

 今までの水力発電は、巨大なコンクリートのダムを建設し、その上流にある村を水没させるなど、自然や社会への影響が大きかった。小水力発電は、どこにでもある水路、渓流に水車を設置するだけなので、自然にも村落にも影響を与えずに、かつ必要な場所で電気を得ることができる。

 また水路や渓流は24時間、水が流れているので、太陽光発電ののように夜は休業とか、風力発電で無風の時はお手上げ、という心配がない。

 栃木県那須塩原市の那須野ケ原土地改良区連合では、農業用水に7基の発電機を設置して1千kWを発電し、水門の開閉や地下水の汲み上げなどに利用している。冬場は余った電力を東京電力に売って年間約6千万円もの収入を上げている、との由。

 環境省の試算では、3万kW未満の中小水力発電の潜在能力は原発14基分に相当する1400万kWもあるという。

 小水力発電に適した小型発電機の開発も進められている。草津市の元大工、平松敬司さん(73)と京都大大学院工学研究科の中村武恒准教授が開発した「平松式発電機」は、発電機内の抵抗を極限まで減らすことで、効率的な発電を実現し、1台で1世帯分の電力を賄える能力を持つ。

 我が国のどこにでもある渓流の必要な地点から自在にエネルギーを取り出し、その地域で消費するという、まさに地産地消型のエネルギー源である。農村復興の一助ともなるだろう。さらに発展途上国の奥地でも渓流さえあれば電気を得られるので、生活の近代化に貢献することができる。


■4.温泉発電

 渓流と同様、火山国日本のたいていの地域にあるのが温泉だ。この温泉から生ずる温水を発電に使うのが、温泉発電である。

 これは温泉で湧く熱水(工場での温排水でも良い)で沸点の低いアンモニアなどを沸騰させ、発生した蒸気でタービンを回して発電する仕組み。

 新潟県十日町市の松之山温泉では、97度の源泉を使った実証試験を始めた。
一般家庭約100世帯分の電力を作れるという。

 神戸製鋼所は、昨年10月から、温泉などで捨てている75〜90度のお湯を使って発電できる装置を発売した。神戸製鋼所が得意とする小型タービンと熱交換の技術で、開発に成功したものである。温泉事業者からの問い合わせが殺到しているという。

 より大規模に地下の熱源を使う方法としては、地熱発電がある。米国では原発3基分に相当する309万kWもの地熱発電が行われている。実は地熱発電の技術においても、日本企業は圧倒的な強みを誇っており、富士電機、三菱重工、東芝の3社で世界シェアの7割を占める。

 しかし、我が国ではここ10年も新たな地熱発電所の建設が行われていない。
 国内の地熱資源のほとんどは国立公園などの保護地域にあり、環境規制があるためだ。また地下の熱水を使うために、近隣の温泉の湯量が減ってしまうのでは、という心配もある。

 こうした地熱発電に比べ、温泉発電はごく小規模に、かつ既存の温泉にそのまま導入できるという手軽さがある。これはちょうど小電力発電が、大規模ダムを必要としない点に似ている。


■5.「希望は母なる海にある」

 山に渓流があれば、海には海流がある。海流で発電しようというのが海流発電である。潮の満ち引きで発電する潮流発電も、この海流発電の一種である。

 各種の方式が考えられているが、その1つとして海中にスクリュー型のタービンをつなぎとめ、海流の力で回して電気を得るという方式がある。

 この開発を進めているのが、株式会社ノバエネルギー。同社のホームページによると、明石海峡の橋桁に300kWの発電装置を設置し、橋の下を流れる潮流によって明石海峡大橋のイルミネーションと橋桁のライトアップをする構想を進めている。

 明石海峡大橋のイルミネーションは壮大で美しいが、その電力が潮流から得られれば、世界一の大橋を作る我が国の技術力と、自然エネルギー活用への決意を象徴するモニュメントとなろう。

 その後、2000kWの海流発電装置800機を黒潮の流れる東シナ海に設置し、原発1.6基分相当の電力を得る「黒潮発電160万キロワット構想」を推進するという。

 海流のエネルギーは膨大だ。東シナ海から北上して我が国の沿岸を流る黒潮は世界最大級の海流であり、日本近海では幅100キロメートル、最大速度7.4KM/時は人間の歩行速度の2倍ほどである。

 そのごくごく一部、伊豆半島沖の幅150メートル、深さ50メートルの断面だけで、210万kWのエネルギー・ポテンシャルというから、通常原発2基分に相当する。海洋大国日本にふさわしいエネルギー源である

 ノバエネルギーの鈴木清美社長は、ホームページでこう語っている。

「日本の場合国土の面積は世界60位ですが、領海と排他的経済水域を合わせると世界第9位の面積となります。そのEEZの海底には豊かな鉱物資源が手つかずのまま眠っております。
 鉱物資源は陸上にある物だけではありません。海でエネルギーを生産できれば、そのエネルギーを使って海底の資源を取り出すことが出来るのです。見方を変えれば、わが国は少資源国家ではありません。資源豊かな国になれるのです。希望は母なる海にあるのです」


■6.「日本がエネルギー資源の輸出国になる」

 海が秘めるもう一つのエネルギー源は、太陽光で温められた海面近くの温水と、深海の冷水との温度差を利用する海洋温度差発電である。

 温水の熱でアンモニア液を蒸発させて、タービンを回し、それを冷水で液体に戻すというサイクルを繰り返す。原理的には100年以上も前から考案されており、世界各国で試行されてきたが、エネルギーの変換効率が上がらず、実用レベルには至っていなかった。

 この問題へのブレークスルーに成功したのが、上原春男教授(前佐賀大学学長、現・海洋温度差発電推進機構理事長)のグループが開発したウエハラ・サイクルで、これにより海洋温度差発電の技術開発では日本が世界をリードしている。

 沖縄県久米島では日量1万3千トンの海洋深層水を取水して、ミネラル豊富な飲料水、塩、もずくや海ぶどうの養殖などで年間20億円規模の売上を上げている。

 この海洋深層水の取水量を拡大し、海洋温度差発電を導入して、出力1250kW、島内の消費電力の10%を供給しようという検討が進んでいる。

 海洋温度差発電では、同じ原理で、海水を蒸発させて、冷却すれば真水が得られるため、水の少ない中近東や熱帯の島嶼国には魅力的な技術である。

 また、同じ技術で、石油、発電所、鉄鋼、化学等の工場プラントで大量に発生する低温排熱から、電気を取り出す排熱温度差発電も実用化されつつある。

 こうした技術開発・設備開発を牽引しているのが、ベンチャー・ビジネスのゼネシス社である。同社社長の實原定幸氏は、ホームページでこう述べている。

「私たちは、海洋温度差発電や排熱温度差発電の実用化・普及により、日本がエネルギー資源の輸出国になるための一翼を担ってまいります」

 エネルギーの自立化どころか、輸出国になろうという野心的な夢である。


■7.「発電タウン」の夢

 山や海など自然に恵まれた場所では、以上の自然エネルギーの活用が可能だが、大都会ではどうか。都会では多くの人が歩いたり、車が通ったりするが、その時に生ずる振動で発電をしようというのが振動力発電だ。

 スピーカーは電気で振動板を震わせて音を出すが、振動力発電はその逆の原理で、圧電素子などで振動を電気に変換する。ベンチャービジネス・音力発電が世界に先駆けて開発した技術である。

 首都高速の中央環状線の荒川にかかる五色桜大橋は、通過する自動車の振動で発電し、バッテリーで蓄電して、夜間のイルミネーションに使うという世界初の試みである。

 また人間が踏むと発電する「発電床」も実証実験が行われた。渋谷のハチ公前広場では、平日70〜90万人という通行量があるが、ここに発電床が設置され、その電力がクリスマス用イルミネーションに使われた。発電床はすでに商業施設や水族館などで、人が歩くと床の誘導灯が光ったり、装飾灯が輝くイルミネーションで実用化されている。

 音力発電の青年社長・速水浩平氏は、あるインタビューで次のような夢を語っている。


「また、少し夢のような話をすると、大きなビルの床や階段、壁を全て発電できるようにし、そのビル自体を「発電所」のように使えるようにしたり、それを公園、住宅等にまで広げたりしながら、街全体を「発電タウン」にできれば素晴らしいですね」

 こんな街ができたら、石油輸入も、原発も不要で、クリーンなエネルギーを地産地消する社会が実現することになる。


■8.日本文明の強みが息づいている

 以上、日本が世界をリードする新エネルギー開発の状況を紹介したが、これらに共通する点がいくつかある。
 第1は、渓流や海流など、自然のエネルギーをうまく取り出して利用しようという考え方で、いかにも自然と共生してきた日本文明らしい発想である。

 第2は、温泉の排温水、工場の排熱、車の振動など、ムダに捨てているエネルギーをうまく使おうというアプローチで、これも資源を活用せずに捨てるのは「もったいない」とする日本文明の伝統である。

 第3は、国家や世界のための志を持った人々が、主体的に夢と希望を描いて、粘り強くその実現のために努力している点。江戸日本の高度な産業経済の発展、明治以降の急速な近代化、戦後の奇跡的な復興と高度成長は、こうした国民性によって実現したものである。

 今回紹介した事例からは、以上の日本文明の強みが今も脈々と息づいている様が窺えた。国民の間に、こういう気概がある限り、エネルギー自立という夢と希望も、そう遠くない将来に実現するのではないか。

(文責:伊勢雅臣)
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平和ボケを治す道(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

Common Sence: 平和ボケを治す道

米国務省日本部長が見た「平和ボケ」ニッポン。


■1.大震災でも「石橋を叩いても渡らない」

「沖縄はゆすり、たかりの名人」と発言したとする共同通信記事で、米国務省日本部長を更迭されたケビン・メア氏が自ら職を辞して、反論に立ち上がろうとした3月11日、東日本大震災が東北地方を襲った。

メア氏は国務省の対日支援タスクフォースのコーディネータに任命され、しばし辞職を思いとどまった。そして対日折衝の矢面に立って活躍したのだが、その過程でこんな思いを吐露している。

『歯に衣着せぬ言い方をすれば、日本は危機管理に弱くなっていると思います。その病巣はおそらく「平和ボケ」が治っていないことではないかと推測しています』


たとえば、原発事故で米国として日本に提供できる品目のリストを送ったところ、日本政府から返ってきたのは長々とした質問リストであった。たとえば、支援リストには無人ヘリが入っていたが、その性能や特徴に関する細かな質問や、放射能で汚染された場合の補償はどうなるのか、といった問い合わせであった。

『とにかく、震災・津波・原発事故処理という“戦争”に勝たねばならないのに、この期に及んでなお「石橋を叩いても渡らない」かのような平時のお役所仕事がまかり通っていました。米国側の支援リストに対する問い合わせをめぐるやりとりで、およそ二間が空費され、その間、われわれは何が必要なのか早く決めてほしいと言い続けていました。・・・
つまらない問い合わせの最中も、放射能は漏れ続け、陸も水も空も汚し、大地震と大津波を生き残った被災者たちは避難所で寒さと飢えに苦しんでいたのです』

■2.米政府の菅政権に対する不信感

平和ボケはお役所だけではない。危機にあたって官僚を使いこなすべき政治家自体が平和ボケに冒されていた。

「米政府の菅政権に対する不信感は強烈といってもよいものでした」とメア氏は語る。特に、自衛隊のヘリ一機がようやく日本時間17日午前、3号機に散水したが、その光景を見た米政府のショックは大きかった。

『日本という大きな国家が成し得ることがヘリ一機による放水に過ぎなかったことに米政府は絶望的な気分さえ味わったのです。・・・
いわば、菅首相の政治的パフォーマンスとしかわれわれには見えませんでした。・・・それでも、首相のパフォーマンスと知りながら、命令とあれば命を賭けて作戦に赴いた自衛隊員たちには敬意を表したいと思います。あの日、危険な任務に出撃した自衛隊員はまさに「武人の誉れ」でした』

国家的危機からいかに国と国民を護るか、ということよりも、政治的パフォーマンスで自らの立場を護ろうとする人間が、首相になっていた。そうした首相を選んだ民主党、ひいてはその民主党に政権を託した日本国民全体が平和ボケに冒されていたのである。


■3.「これって、ジョークだよね?」

 原発の安全性に関して、メア氏はこんなエピソードを紹介している。

ブッシュ政権の頃、2001年9月11日の同時多発テロ事件後、米国は原発に関するテロ攻撃の脅威を真剣に受け止め、その一環として同盟国日本の原発警備状況を把握しようとした。

ホワイトハウスの国土安全分野担当が東京を訪れ、日本政府当局者と意見交換する場に、メア氏も同席した。ホワイトハウスの担当者は、日本の原発警備の手薄さに驚き、銃で武装した警備要員の配置が必要であると力説した。

これに対する日本の当局者の答えがふるっていた。「日本の原発に、銃で武装した警備要員は必要ではありません。なぜなら、銃の所持は法律違反になるからです」

『ホワイトハウスの当局者は小声で傍らの私にたずねた。
「これって、ジョークだよね? だったら笑ったほうがいいかな」
 私は彼の耳元にささやいた。「たぶん、ジョークじゃない。笑わない方がいい」 ホワイトハウス当局者は神妙な表情でうなづき、日本政府当局者の発言をメモに取るふりをしていました』

■4.「憂いなければ備え無し」

米国では原発防御も対テロ戦の重要な項目となっていて、過激派に乗っ取られた航空機が原子炉に突入し、原発が全電源を喪失した事態を想定するシミュレーション訓練も定期的に実施している。

東電は福島第一原発の全電源喪失を「想定外」と言ったが、米国で電源喪失、中央制御室の機能喪失といった非常事態を想定した訓練を行なっていることを調べていれば、「想定外」などとは言えないはずだ。

たとえば、津波でなくとも、某近隣諸国のテロリスト集団が日本海沿岸の原発を攻撃するという事態は、素人でも考えつく。これも「銃の所持は法律違反なので、想定外でした」とでも言い訳するのだろうか?

今回の津波を想定して多くの人命を救った事例もあった。岩手県釜石市内の死者・行方不明者は約1300人にものぼったが、そのなかで釜石市立の14の小中学校全校では、学校管理下になかった5人を除く児童・生徒約3千人が無事に避難した。「釜石の奇跡」と呼ばれる事例である。

これは群馬大学大学院の片田敏孝教授が市の防災・危機管理アドバイサーをしていて、その指導で徹底した防災訓練をしていたからだった。

「備えあれば憂いなし」をひっくり返して、「憂いなければ備え無し」と語ったのが危機管理の第一人者、佐々淳行氏だ。今回の原発事故はまさに、この「憂いなければ備え無し」そのものであった。危機を想定する憂いがなければ、何でも「想定外」になってしまう。

そして憂いを持たないのは、国民の安全を真剣に念じていないからである。平和ボケの真因はここにある。


■5.「トモダチ作戦」を支えた「備え」

 今回の大震災では、自衛隊と在日米軍の共同作戦である「トモダチ作戦」が被災者救援で大きな効果をあげたが、メア氏はその舞台裏を紹介している。

『地震発生後に開かれたホワイトハウス、国防総省、国務省の指導部の会議では、対日支援をすべきか否かという問いは最初から発せられませんでした。対日支援作戦の発動は自明であり、そのため、現場に最も早く駆けつけられる部隊は今、どこにいるかということがまず議論されました。
その時、日本の最も近い海域に展開していたのは原子力空母ロナルド・レーガンを主力とする空母打撃群でした。大震災発生時、東南アジア方面に向かっていた強襲揚陸艦エセックスも急遽呼び戻され、東北地方沖に展開しました。』

駆けつけた米軍は20人くらいの小部隊に分かれて被災地の孤立した地域に出動して救援活動にあたったのだが、不意に米兵ばかりが姿を見せると、被災地住民が驚いてしまうのではないかという心配から、同行した自衛隊員が「先見要員」として避難所に赴き、この後米軍がやってくる事を知らせるという配慮をしていたという。

『私はこの話を聞いて、こんな繊細な心配りを伴う共同作戦が遂行可能なまでに日米部隊の一体運用のレベルは上がっているのだと思い、感動を覚えました』


メア氏の言う「日米部隊の一体運用」とは、平成17(2005)年10月の両国の外務・国防トップによる安全保障協議委員会(2プラス2)で、自衛隊と在日米軍の相互運用性の向上、共同訓練機会の増大、計画検討作業、輸送協力、情報共有などで合意し、以来、危機に対して共同対処態勢を強化してきたことを指す。

そうした積み重ねが「トモダチ作戦」の成功につながっている、とメア氏は言う。「憂いなければ備え無し」の政府・官僚の陰で、自衛隊と在日米軍は、国民を護るために黙々と「備え」をしてくれていたのである。


■6.鳩山氏の平和ボケ

こうした黙々たる「備え」を知らずして、沖縄の基地問題のみを取り上げるのも、平和ボケの一症候だろう。

平成8(1996)年、鳩山氏は「民主党 私の政権構想」という論文を発表し、有事駐留論を展開した。有事の際にのみ米軍が来て、日本を防衛すれば良い、という内容である。

メア氏は仲間内の会話で、「有事駐留論は米軍をただの番犬とみなしている。とても失礼だ」と言った。するとアメリカ人の友人が「それは違う」と反論した。

『番犬だったら餌ぐらいはもらえるだろうし、犬小屋にだって住めるかもしれない、でもこの場合の米軍は、普段はただの野良犬として扱われているのに、必要な時に口笛で呼ばれて強盗や泥棒を追い払えと命令される。ただの番犬ですらない』


日米同盟は、日本が基地を提供し、米軍が日本の防衛に協力する、という"giveand take"によって成り立っているのである。

米国が日本に基地を置くことによるメリットは何か。その一端は90-91年の湾岸戦争で示された。7ヶ月間の対イラク戦争で日本と中東の間を往復した米軍艦船はのべ117隻にのぼり、その大部分が石油と弾薬の補給だった。また横須賀、佐世保は米艦隊の母港となっており、その艦船補修能力の高さは、米本土を上回るとされている。

米軍は、日本に駐留することによって、西太平洋からアジア、インド洋にかけての覇権を確立しているのである。それによって異常な軍拡を続ける中国から、わが国を含め、この地域の国々を護っている。


■7.米軍基地がなくなれば

日本が米軍に基地を提供しないのであれば、米国は日本を護る余力も意思もなくなり、グアムやハワイに後退せざるをえない。米軍が引けば、すぐに中国が出てくるのは、フィリピンから米軍基地が撤退した直後に、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島を占拠した例にも現れている。[b,c]

日本から米軍が撤退すれば、わが国のみならず、韓国、台湾、そして東南アジア諸国も中国の覇権下に入り、チベットやウイグルのような運命に陥ってしまうだろう。

沖縄の基地問題を論ずる前提として、わが国を含めた東アジアの平和と安全は沖縄が米軍基地を受け入れているからであるという沖縄への感謝、そして米軍基地が撤退すれば、まっさきに中国に狙われるのも沖縄である、という「憂い」が共有されていなければならない。

また鳩山内閣は「東アジア共同体構想」を主張し、日米中を「正三角形の関係」と見なしていた。日本に核ミサイルの照準をあわせている国と、日本を護るために血を流す覚悟を持って自国の軍隊を置いている国を同列に扱うというのは、国民の安全を真剣に考えていない証拠である。

「有事駐留論」も「日米中正三角形論」も、まさに、わが国の安全と独立を真剣に考えない平和ボケの産物だった。こうした人間が首相になれば、日米同盟が破綻の危機に陥ったのも、当然であろう。


■8.「晴れた日のリベラル、雨の日の保守」

イギリスには「晴れた日のリベラル、雨の日の保守」という言葉があるそうだ。
平和で景気の良い時は「国民の生活が第一。」などと甘い言葉で庶民の歓心を買うリベラル政党が政権をとりやすい。子ども手当などのバラマキ政策で、票を買い集められるからだ。

戦後のわが国は半世紀以上もの長きにわたって、平和で豊かな「晴れた日」が続いたために、「雨の日」をすっかり忘れてしまっていた。「雨の日」への「憂い」がなければ「備え」なしとなってしまう。鳩山首相がもたらした普天間基地移設問題の迷走も、菅首相の原発事故での右往左往も、ここに由来する。

そして、人知れず「傘」の役割を果たしいる自衛隊や在日米軍に白い目を向けるのも、「雨の日」があることを忘れ去っているからである。

大震災という「雨の日」が到来して、平和ボケぶりをさらけ出した民主党政権と、日頃から備えを怠らなかった自衛隊、在日米軍の違いが明らかになった。

いつかはやって来る「雨の日」を予想し、そうなったら我々の同胞たちが、そして我々の子孫がどのような苦しみを受けるのか、憂うるところから、備えが始まる。

メア氏の言う平和ボケから脱却するには、まず我々国民自身が、どのような「雨の日」が来るのかを憂え、それにふさわしい政治家を選ぶところから始めなければならない。

(文責:伊勢雅臣)
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放射能ヒステリーの正体(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

放射能ヒステリーの正体
〜放射能は、どんなに微量でも危険なのか?〜


■1.「微量の放射能は健康に良い」!?

「微量の放射能は健康に良い」と聞いて、耳を疑った。いかにもイカサマ科学のように聞こえたからだ。しかし、考えてみれば、大量に摂取したら体に毒だが、微量ならかえって健康増進効果がある、という話はあちこちで聞く。

その典型例が種痘だ。かつて天然痘は40%もの高い致死率をもたらす恐ろしい伝染病だったが、イギリスの医学者エドワード・ジェンナーが、より軽度の牛痘のワクチンを接種すると、種痘にはかからないことを発見した。

微量の弱い病原体を接種することにより、体内に抗体が作られ、感染症にかかりにくくなる免疫力がつく、というのが、ワクチンの考え方である。

同様に微量の放射線を浴びると、体内の免疫力が増進して、ガンによる死亡率が大きく減少するという効果が、大規模な医学研究の結果、あきらかにされてきている。

ジェンナーの種痘法はヨーロッパ中に広まったが、医学会はそれをなかなか認めなかった。また、一般民衆も「牛痘を接種すると牛になる」などという迷信から、なかなか脱却できなかった。

いかほど微量の放射能でもヒステリックに騒ぐ今日の社会も、実は19世紀の種痘への無理解と同じような状態に陥っている。


■2.ラドン温泉でガン死亡率が減る

微量の放射能がどのような影響を持つのか、簡単明瞭な例としてラドン温泉、ラジウム温泉の例がある。鳥取県の三朝(みささ)温泉は、世界有数のラドン温泉である。

ウランは14回の変化を経て、最後は鉛となって安定するが、その変化のたびに放射線を出す。5回目がラジウムで、その次にラドンになる。ラドンは気体で、空中にも水中にも存在する。ラドン温泉とは、このラドンを含んだ温泉なのである。

三朝温泉地区の住民は、当然ながら温泉に入ったり、また気体のラドンを吸い込んだりして、放射線への露出度が高いわけだが、各種癌での死亡率を見ると、以下のように圧倒的に低い数値が報告されている。

以下は、それぞれの全国平均を1として、三朝温泉地区と周辺比較地域(鳥取県)の死亡率を比較したデータである。

         三朝温泉   周辺比較地域(鳥取県)
   全ガン   0.49    0.8
   胃ガン   0.395   0.8
   肺ガン   0.345   0.735
   大腸ガン  0.185   0.7

周辺比較地域の人々も0.7〜0.8と全国平均より低いのは、たまに三朝温泉に入ったり、またそこから流れてくるラドンを吸っているのだろう。三朝温泉地区の住民は、そのさらに半分から3分の一という圧倒的な低レベルである。

ラドン温泉、ラジウム温泉は健康に良い、ということは我が国の先人たちは昔から体験的に知っていたのが、それを実証するデータだと言える。


■3.福島原発の20倍もの放射線を浴びる宇宙飛行士

微量の放射能は健康に良い、という学説を最初に唱えたのは、ミズーリ大学の生命科学の教授トーマス・D・ラッキー博士だった。ラッキー博士はアメリカ航空宇宙局(NASA)から、宇宙における放射線の、宇宙飛行士への影響を調査することを依頼された。

宇宙船内では、毎時45マイクロシーベルト(μSv)の放射線を浴びる。宇宙船内で約半年間を過ごすと、19万μSvほどになる。地上で我々が浴びる自然放射線量は世界平均で年間2400μSvなので、その80倍程度である。

また福島第一原発から20〜30Kmのエリアでは8月末現在で1万μSvだから、宇宙飛行士の被曝量はその19倍ほどにあたる。
(1000μSvは1ミリシーベルトmSvに相当するが、本稿では分かり易いように、すべてμSvで統一する)

しかしラッキー博士が10年以上をかけて、多くの宇宙飛行士の健康状態を調べると、宇宙に行く前よりも、行った後の方が、良くなっている、という事実が明らかになった。

ラッキー博士は、この研究成果を米国保健物理学会誌"Health Physics"(1982年12月号)に発表したが、世界の放射線学会からは黙殺された。

当時から放射線の健康への影響については、放射線はどんなに微量でも有害である、と信じられていた。これは米国の遺伝学者ハーマン・J・マラー博士が、ショウジョウバエへのX線照射実験で得られた「当てた放射線量と発生した遺伝子異常の数は比例する」という実験データによる。

過度の放射線を照射されて遺伝子変異を起こし、モンスター化したショウジョウバエの写真は、一般人にいたるまで放射能への恐怖を植え付けた。

マラー博士は、この研究によって1946年度のノーベル生理学・医学賞を受賞し、以後、世界の放射線学会はこの考えに基づいて、放射線の安全基準を設定してきた。


ラッキー博士の発見は、これらの安全基準の正当性を根底から引っ繰り返すものであったから、当時の支配的な学者たちが黙殺した理由も想像に難くない。


■4.微量の放射線がガンを抑制する

黙殺されていたラッキー博士の発見に、スポットライトを浴びせたのが日本の電力中央研究所の服部禎男博士だった。服部博士を中心とする研究者たちの実験観察は、ラッキー博士の正しさを証明するとともに、マラー博士の誤りも明らかにしていった。

我々の体の各細胞は、活性酸素や自然放射線により、一日あたり5万〜50万回もの頻度で、DNA損傷が発生する。これに対し、数百種類の修復酵素がDNAの修復を行う。

DNA損傷を修復しきれなかった細胞は「老化」による休眠状態に入るか、ガン抑制遺伝子により「自殺」するかだが、それでも処理しきれなかった異常細胞がガン細胞として暴走し、時には人体自体を死に追い込む。

強い放射線は激しいDNAの損傷を起こし、修復機能が追いつかなくなって、各種のガンで人体を死に追いやる。しかし、微量の放射線を浴びると、活性酸素抑制酵素、DNA修復酵素、ガン抑制遺伝子などが活性化して、修復機能が増進、ガン細胞の発生が抑えられる。

マラー博士の頃は、このDNA修復のメカニズムは発見されておらず、また博士が実験に用いたショウジョウバエのオスの精子は、もともとDNA修復力を持たない細胞だったので、微量の放射線による健康増進効果は、見過ごされてしまったのである。


■5.広島・長崎の被曝者の調査研究

ラッキー博士と服部博士の研究から、その後、微量放射能の健康への影響が広く研究された。その重要な成果の一つに、広島、長崎の被爆者を対象に行われた様々な健康調査がある。その詳細を見る前に、ラッキー博士の総括を引用しておこう。

「被爆者の両親から生まれた子供に遺伝子異常のモンスターは一人も見つかっていない。半世紀に及ぶ研究の結果、次のような点に関し統計的にみて異常と思われるような影響は見つかっていない。先天性欠陥、死産、白血病、がん、子孫の死亡率、男女割合、幼少期の成長・発達度合い、遺伝子異常、突然変異などである。」

個々の調査結果を見ると、「異常と思われるような影響は見つかっていない」どころか、実際には健康増進効果が見つかっている。

たとえば広島・長崎両市で約2万μSvの被曝線量を受けた7400人の人々のガンの死亡率は、通常よりも著しく低かった。約2万μSvとは、現在の福島第一原発から20〜30Km圏内では1万μSvだから、その2倍に当たる。この水準は、まだ健康に良いレベルだということになる。

また同レベルの被曝量を浴びた母親の妊娠例5万以上では、死産、先天性異常、新生児死亡などの比率が通常の数分の一というデータも得られている。
こうした調査を行った欧米人研究者の一人は、次のようなコメントを残している。

「とりわけ、この研究成果は研究に協力してくれた数多くの日本の被曝者やその子供たちを安心させることに役立てなければいけない。なぜなら、彼らの絶大な協力がなければこの研究は不可能であったし、また彼らは長年にわたり誇張されてきた遺伝子異常のリスクを喧伝されて苦しんできた被害者なのだから。」

科学的な調査に基づくことなく放射能の怖さのみを訴えてきた反核派の人々は、そのプロパガンダによって、被曝者を言われなき差別で苦しめてきたのである。


■6.微量放射能の「ワクチン」効果

さらに大規模な調査が核施設労働者を対象に行われている。8つの研究で、合計800万人年(一人10年としたら、80万人分)と、一般平均サンプル約700万人年のデータに基づいている。

これによると、5万〜10万μSv/年を浴びた各施設労働者たちのガン死亡率は、研究によってバラツキはあるものの、一般平均サンプルの10〜50%の水準となっている。

そして8つの研究のいずれにおいても、10万μSv/年程度までは、被曝量が増えるに従ってガン死亡率が減少している。

これらの大規模な観測データは、いずれも、微量の放射線が損傷したDNAを修復する能力を高め、ガンを予防する、という医学的仮説と合致している。

もちろん大量の放射能はDNAを損傷して危険だが、数万μSv/年という程度であれば、その微量の放射能が人体の免疫力を増進する「ワクチン」役を果たす、という事が確かめられつつある。


■7.放射能に汚染した牛肉?

こういう研究結果をもとに、最近の我が国における放射能騒ぎを見てみよう。
福島県の農家から出荷された肉牛から、「暫定基準値」(1キロ当たり500ベクレル)の6倍の放射性セシウムが検出されたとして、世間を騒がせた。

1キロあたり500ベクレルの放射性セシウムが検出された肉を200グラム食べると、被曝線量は1.6μSvとなるという。広島・長崎の被曝者で、健康に好影響のあったという2万μSvの1万分の1以下のレベルである。

逆に言うと、こういう肉を200グラムの1万倍、すなわち2トンほど食べると、広島・長崎の微量被曝者と同程度の被曝量となる。
2トンといえば、毎日200グラム食べても1万日、すなわち、27年かかるわけで、そんなに食べても放射能としては、健康には問題のない、あるいは好影響のありうる水準なのだ。逆に、こんなに牛肉ばかり食べていたら、肥満、動脈硬化、高血圧で早死にしてしまうだろう。

となると、そもそも、この「暫定基準値」の根拠は何なのか、ということになる。結局、これも半世紀以上前のマラー博士の研究に基づいて、「放射能は少なければ少ないほど良い」という仮説から、根拠もないままに、無理矢理低い水準を設定したものなのではないか。わざわざ「暫定」とつけている所に、そんな逃げ道が感じられる。

こんな「暫定基準値」を何倍か越したからと言って、風評被害にあう農家の方こそ良い迷惑である。無知に基づく放射能ヒステリーが、被災地をさらに苦しめている、という他はない。


■8.中国の黄砂による放射能には、なぜ騒がないのか?

かつての反核派は、アメリカの核ミサイルには大騒ぎしていたのに、ソ連や中国の核ミサイル、核実験にはなんら声を上げなかった。これをダブル・スタンダード(二重基準)と言うが、現在の放射能騒ぎにもそれが見られる。

放射線防護学の第一人者・札幌医科大学の高田純教授は、中国がウィグル地区で広島の原爆の1375発分に相当する規模の核実験を行い、100万人以上のウイグル人たちが死傷している事を訴えている[a]。

高田教授によれば、地表核爆発によって黄砂が放射能汚染され、それが偏西風に乗って、日本にも流されてきている。教授の推定では、黄砂によって日本人の体内に蓄積された放射性ストロンチウムは2千−5千μSvに達している、という。

1.6μSvの牛肉に大騒ぎするなら、2千−5千μSvの黄砂には、その千倍以上も大騒ぎしなければならないだろう。しかし、こういう事を騒ぎ立てるマスコミはない。

「我が国は世界で唯一の被爆国」というのが反核勢力の常套文句だが、それなら放射能の被曝の影響を科学的に突きとめ、合理的な対応を世界に示す事が我が国の役割だろう。

世論もマスコミも、そして政府ですら、根拠のない放射能アレルギーで空騒ぎをしているようでは、「唯一の被爆国」という看板が泣くのみである。

(文責:伊勢雅臣)

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「己の道」を求めた人々(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

「己の道」を求めた人々

■1.「王位などとは口惜しいものじゃ」

 平安時代の後期、堀河院(1079-1107)の頃、市の正(かみ)時光という笙(しょう、雅楽で用いられる管楽器)の名人がいた。

 茂光という篳篥(ひちりき、雅楽や神楽で用いられる縦笛)の名手とよく気が合い、二人で興にまかせて裏頭楽(唐楽の一種)という曲を合唱していたが、その見事さが宮中にも聞こえて、堀河院からお召しの使者が来た。

 使いの者は、その旨を伝えたけれども、二人とも夢中で歌い続けていて、耳を貸さないので、どうしようもなく、堀河院にありのままを報告した。これではどんなお叱りがあることかと思っていたが、案に相違して、堀河院はこう言って涙ぐまれたという。

__________
 さても風雅なる者たちかな。それほどまでに音楽に夢中になって、すべてを忘れるばかり熱中することこそ尊いことよ。王位などとは口惜しいものじゃ。行って聞くことも出来ぬとは。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 宮中からお召しがあったら、その名を世に響かせるチャンスになっていたはずだが、二人にとっては、そんな事はどうでも良いことだった。ただただ、良い音楽を作り出せれば、それで満足であったのだ。

 堀河院自身にしても、自ら管弦を愛し、その腕前も優れていたと言われており、天皇の位にあることよりも、彼らの優れた音楽を聞きに行くことすらできない、という事を口惜しく思われている。


■2.「古(いにしえ)の学者は己がためにし、今の学者は人のためにす」

「古(いにしえ)の学者は己がためにし、今の学者は人のためにす」という孔子の言葉がある。古の学者はただただ己の道の探求のために学問をしたが、今の学者は世間に知られんがために学問をする、というほどの意味である。

 世間に知られる事を求めるのは、名誉や冨を得るためである。とするならば、名利が目的で、学問はそれを得るための手段である、ということになる。

 それが昂じれば、名利さえ得られれば、学問の方は手を抜いても良い、ということになろう。そういう姿勢からは一流の学問も、また本当の学問の喜びも生まれない。

 時光と茂光が名手名人となったのは、宮中からのお召しという名利よりも、ただただ良い音楽を求める、という己の道に没頭していたからであろう。

 そして、そのような名手・名人こそが一流の芸術や学問を創り出す。「己がため」にすることが、結果的には「世のため人のため」になるのである。

 我が国には、ひたすらに「己の道」を探究して、一流の芸術や学問を創り出した先人が実に多い。今回は、そうした人々を紹介したい。


■3.刀の目利きにかけては自分こそが天下の権威という誇り

 本阿弥(ほんあみ)家は、代々刀剣の鑑定などを家業としていたが、その一人、本阿弥光徳(こうとく、1556−1619)が、徳川家康から正宗の脇指(わきざし)を見せられたことがあった。

 代々足利公方家の宝とされてきたもので、足利尊氏直筆の添状(そえじょう)までがついており、家康のかねて自慢の品であった。
 ところが光徳がその刀をよくよく見ると、焼き直しものでとうてい使い物にならない。そう正直に申し述べると、家康はとたんに機嫌が悪くなり、「なにとてさようなことを言うぞ」と心外ならぬふうであった。

 光徳は、尊氏公の添状があったとて何の用にも立たない、尊氏公が刀の目利きであったという評判もない、と断乎として言ってのけた。家康は、慮外な奴と、二度と光徳を召し出すことはなかった。

 刀の目利きにかけては自分こそが天下の権威という誇りは、天下第一の権力者を前にしても、変わることがなかった。


■4.「いかほど高値(こうじき)でもわれらが引き取りましょう」
 本阿弥家には、これとは逆の逸話もある。有名な本阿弥光悦の孫、空中斎光甫(くうちゅうさい・こうほ、1601-1682)は、江戸滞在中のある日、安芸広島藩の屋敷に呼ばれていくと、刀奉行の今田四郎左衛門という人から、古びた鞘(さや)に入った錆び刀を見せられた。

 国元から、代金2枚で売ってくれと頼んできたので、方々へ見せたが、買い手がつかない。光甫の手でどこかへ売ってくれないか、という。

 光甫が刀をつくづくと見ると、銘もなく、錆びて見るかげもなくなっているものの、刀はまさしく正宗である。そこで光甫は、「いかほど高値(こうじき)でもわれらが引き取りましょう。が、あとで後悔めさるるな」と言った。

 その場に居合わせた重臣たちが、興味を持って、「この刀いったい何であるか」と尋ねるので、光甫は「正宗に間違いありませぬ」と断定して、一同を驚かせた。

 光甫はその刀を預かって、京に帰り、研ぎ上げてみると、見ればみるほど良い刀となった。一族の長・光温(こうおん)は判金250枚という値段をつけてやった。

 光甫は、目利きたる自分が正宗と断じたものを、相手が知らぬからと言って、安い値で引き取るような所業を恥とした。そんな卑しい金儲けよりも、刀の目利きにかけては自分たちこそが天下の権威であるという誇りと自負を護ることが大事だったのだ。

 その誇りと自負を支えるためには、どれほど日頃の精進があったことか、想像に難くない。

 本阿弥家が長きにわたって、刀剣鑑定にかけては天下の権威として君臨したのも、権力者に媚びず、利に流されず、ひたすら己の道に打ち込んだ故であろう。


■5.「一点の俗悪の気なし」

 江戸時代中期の文人画家、書家の池大雅(いけのたいが)も金銭には目もくれない人だった。書画を書いて謝儀を受け取っても、扇を開いて受領し、封も切らないままにそばの箱の中に入れておく。金額を見れば、多少の欲心が出てよくない、と言っていたそうだ。

 米味噌などの代金を受け取りに商人が来ると、「この内に天より給いたる品あれば取りていくべし」と言って、勝手にその箱から持って行かせた。自分の書画のわざは天の与えたものであって、それで米味噌など必要なものをいただければ、充分と考えていた。

 8、9畳ほどの粗末な小さな部屋に妻と二人で住み、時々は大雅が三味線を、妻が琴を弾いて、楽しんでいた。

 ある時、金屏風を描いて大金をいただいたが、その包みをそのまま床の上においておいた。夜中に盗人が壁を切り抜いて、その包み金を持ち去った。朝、妻が切り抜かれた壁を見て、驚いて、昨日いただいた金はどこに置きましたか、と尋ねると、大雅は驚く様もなく「床の上に置いたが、なければ、盗人が持っていったのだろう」と答えた。

 門人たちが来て、壁の穴は見苦しいので修繕したら、と勧めたが、大雅は、ちょうど夏で涼風が入るから、このままで結構と取り合わなかった。

 また、ある時、祗園祠の修繕が計画され、門前の人々は財産に応じて、費用を出すよう求められた。見るからに貧しそうな生活ぶりの大雅は、300銭しか割り当てられなかった。

 しかし、大雅は押入れに銭が貯まっているが、使うこともないのに貯めておくのも無益なので、祗園祠に奉納するに如かずと、数えてみたら300貫余もあった。夫婦で喜んで、銭を担いで奉納すると、近所の人はみな奇特な人だと讃えた。

 こうした生き方を貫いた大雅が描いた書画は「一点の俗悪の気なし」と讃えられている。


■6.「たのしみは」

 池大雅の風格を慕った幕末の歌人が橘曙覧(たちばな・あけみ)である。曙覧は福井の人で、30代半ばにふと決心して、祖先伝来の家業財産を弟に譲り、山中に引きこもって、貧乏暮らしも気にせずに、歌を詠んで生きた。

 曙覧の歌で、最も有名なのは「たのしみは」で始まる『独楽吟』であろう。

 たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭ならべて物をくふ時

 たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

 たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人を見し時

 貧しい中にも、いかにも心豊かな生活が窺われる歌である。

 福井藩の名君・松平春嶽は曙覧の歌才を重んじ、その家を訪ねた事があったが、壁は落ちかかり、障子は破れと言った様に驚いている。しかし、その机にはおびたたしい書物が積んであった。

 春嶽公は、次のような意味のことを書き記している。

__________
 自分は富貴の身で大廈高楼(たいかこうろう)に住み、何ひとつ足らぬものとてない身上であるけれども、その屋に万巻の書の蓄えもなく、心は寒く貧しく、曙覧に劣ること言うまでもないから、自然とうしろめたくて顔が赤くなる気持がしたことであった。

 これからは曙覧の歌ばかりでなく、その心の雅を学ばねばならぬと思った。[1,p119]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 陋屋の有様などは気にもかけずに、自らの心の貧しさに顔を赤らめる春嶽公もまた、名利にとらわれず己の道を歩んだ人であったろう。


■7.庶民の生き方

 以上、芸道の達人・名人を取り上げてきたが、名利に囚われず、ただ己の道を究めようとする生き方は、市井の庶民にもできることだ。その一例として、以上の例を引用させて頂いた『清貧の思想』[1]の著者・中野孝次氏は、自身の両親の生き様を紹介している。

__________
 わたしの父は職人−家を建てる大工−でしたが、父の関係で知った様々な職人には、職人気質という一つの生き方の規範がありました。

 かれらはその小さな家に必ず神仏を祀(まつ)り、朝夕敬虔にそれを拝し、神仏の存在を信じていました。たとえ法や人の目に触れなくとも間違ったことをするのは神仏に対して許されぬ、という心の律を持っていたのです。・・・

 そしてその暮しは・・・身を粉にしても貧しいもので、しばしばそのことを嘆いてもいましたが、人間はまっとうに働いて生きるべきもので、盗みや詐欺や収賄や投機や、そんな手段で成功するのは間違っていると信じていました。・・・

 かれらは仕事と自分の業に誇りを持ち(本阿弥一族と同じです)、金儲けよりもよい仕事をすることを望んでいました。[1,p224]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 母親の生き方も欲得を離れたものであった。

__________
 わたしの母なぞは炊事、掃除、縫い物など、すべて家族のために身を捧げるような毎日でしたけれども、家の内はつねに清潔に保ち、みずからに対して求めることはまったくなかったのでした。・・・

 母は狭い庭に花の咲く灌木や草や盆栽を育てていて、それらの花が咲くと近所の友だちと茶を飲みながら、今年はよく咲いたと、生きてふたたび花に逢えたことを一緒に楽しんでいたものでした。[1,225]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■8.「己の道」を歩んでいけば

 こうした、名利にとらわれずにひたすら己の道を歩んだ庶民が、かつての我が国にはあちこちにいたのだ。こういう生き方から見れば、現代の、経済成長率がどうの、株価がどうのとばかりいう世界は、あまりにもお金に囚われ過ぎているように見えてくる。

 そして、目先の利益だとか、経済成長にとらわれて、顧客や社員のためになる事業を追求したり、技術を磨いたり、という「己の道」を怠れば、結果的に経済も衰退してしまう。近年の我が国の経済不振も、このあたりが原因かも知れない。

 それよりも、中野氏の父親のような一徹の職人、母親のような家事や育児に没頭する婦人、さらには実業家、技術者、教育者、政治家、自衛官、警察官などが、それぞれの「己の道」を追求している国の方が、立派な社会を築き、経済も発展するだろう。

 その結果、池大雅のように、知らないうちに押入れに大金が貯まっていて、困っている他国を助けてあげる、ということもできるかもしれない。

 名利にとらわれて「己の道」を見失えば名利も逃げていく。名利を忘れて、ただ「己の道」を歩んでいけば、心豊かな生き方ができるし、時には名利も勝手についてくる。我が国の先人たちは、こういう事を教えてくれているようだ。

(文責:伊勢雅臣)

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「日貨排斥」の歴史は繰り返す(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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地球史探訪:「日貨排斥」の歴史は繰り返す

貿易を通じた中国の嫌がらせに、戦前の日本人も憤激していた。

■1.「日貨排斥」の歴史は繰り返す

尖閣列島付近の我が国領海内で違法操業をしていた中国漁船が、停船させようとした海上保安庁の巡視船に体当たりした事件で、中国人船長が逮捕された。

これに中国政府が即時釈放を要求し、那覇地検が「今後の日中関係を考慮して」釈放した。法律を守らせるという法治国家の根本が、中国の圧力でかくも簡単にねじ曲げられた点に、多くの国民は憤激している。

直近の世論調査では、「今回の事件で中国に対するイメージが悪くなった」79.7%、「中国は信頼できると思わない」83.1%、「中国は日本の安全を脅かす国だと思う」71.5%となっている。

今回の日本政府のあまりにも稚拙な対応については、すでに多くの論評がなされているので、ここでは繰り返さないが、弊誌が「やはり」と思ったのは、中国の圧力の掛け方である。

日本向け輸出に対する通関検査を厳格にして遅延させる、レアアース(希少資源)の輸出制限をする、さらには軍事施設を撮影したとして日本人4人を逮捕する等々、実態は不明確だが、こうしたニュースが日本のマスコミに流されることで、日本政府に対する大きな圧力となった。

実は中身こそ現代流になっているが、こうした形で日本に圧力をかけるというのは、戦前から中国が盛んに使っていた手口なのである。「日貨排斥」(日本製品のボイコット)で日本企業に損害を与え、在留邦人にはテロをしかける。それに憤激した日本国民が「暴支膺懲(ぼうしようちょう、暴虐な支那(中国)を懲らしめよ)」と立ち上がったのが、戦前の日中関係だった。


■2.政治的武器としての「排外ボイコット」

戦前の日貨排斥の実態については、「リットン報告書」が詳しい。これは昭和6(1931)年の満洲事変勃発の翌年に、国際連盟が派遣した調査団による報告書である。

「リットン報告書」と言えば、日本の「満洲侵略」を国際社会がこぞって非難したレポートだと歴史の授業で教わった人が多いだろうが、原文にあたってみれば、中国側の日貨排斥も不法行為として、事実に基づいた批判がなされている。

同報告書は、中国における排外ボイコットに関して、次のように説明している。

『国民的基礎の上に立ち、シナ(JOG注: China)が外国に対して行った政治的武器としての「排外ボイコット」は、1905年、アメリカに対してなされたボイコットにはじまる。それは同年改訂された「米支(JOG注: 米国とシナ)通商条約」の規定が前よりもいっそう厳しくシナ人の渡米を制限したことに起因していた。このとき以来今日まで、国民的規模のボイコットは十回も行われてきた(このほかに地方的な性質をもつ排外運動があった)。そのうち9回は対日で、1は対英だった』


すなわち、1905(明治38)年から1931(昭和6)年までの26年間に合計11回のボイコットが起きたというから、2、3年に一回の頻度で全国的規模の排外ボイコットが発生していた。そのうち9回は日本が対象だったというのである。


■3.「上海反日会」の四原則

「こうした運動は、もしボイコット団体がその手続きにおいてある種の統一性をもっていなければけっして効果はあがらない」として、同報告書は、対日ボイコットが組織的に展開されたことを指摘している。

1931年7月17日に開催された「上海反日会」の第一回会議で採
用された四原則は、この種の規則の主要目的を例証している。

イ すでに契約した日本製商品(いわゆる「日貨」)の注文を取り
消すこと。

ロ すでに契約した日本製商品で、まだ積み込みが終わっていない
ものは、船積みを停止させること。

ハ すでに倉庫に入っているものでも、支払いが終わってない日本
製商品は引き取りを拒絶すること。

ニ すでに購入した日本製商品を「反日会」に登記し、その売却を
一時停止すること。

注文取り消し、船積み停止、引き取り拒否、売却停止、、、。こうした法律も契約も無視した仕打ちを受けた当時の日本人がどんな悔しい思いをしたか、今回のレアアース輸出制限、通関検査遅延で被害を受けた日本企業は、追体験したことだろう。


■4.「石炭商の構内に爆弾を投げ入れ、、、」

こんな事をすれば、輸入側の中国人商人も損害を被るので、「四原則」を守らない者も、当然出てくる。それに対しては「上海反日会」は厳しい弾圧を加えている。

「未登記日貨」を収蔵している嫌疑のある商店や倉庫には手入れ
を行い、規則違反を発見した場合は責任者に注意を促す。規則違反
(未登記日貨)を発見された商人はボイコット団体から罰金を科さ
れ、公然と民衆の非難にさらされ、所有商品は没収のうえ、公売に
付され、売上金は反日団体の資金となる。

同報告書が執筆されている最中にも、関東軍嘱託の一人の日本人が匪賊に拉致された事件から、日中の対立が高まると、再びボイコットが盛り上がった。

同市(JOG注: 上海市)の石炭商同業組合は日本炭の輸入を最小限度に制限することを決定した。同時に、日本炭を取り扱っている疑いがある石炭商の構内に爆弾を投げ入れ、商店主に対しては手紙を送り、「日貨販売をやめなければ財産を破壊するぞ」と脅迫するなど、いっそう激越な方法がとられるようになった。新聞に掲載されたこの種の脅迫状には「鉄血団」または「血塊除奸団」という署名があった。

国家の法律や企業間の契約を一切省みることなく、「上海反日会」という一民間団体が勝手に作った規則が押しつけられ、それを守らない商店にはテロが仕掛けられる。法治国家とはほど遠い、前近代的社会がここに見られる。


■5.排日ボイコットで「シナの工業を発展させる」

 日本人の商店や日本企業に対する直接的な不法行為もなされていた。たとえば上海で1931年7月から12月末まで、排日諸団体員によって日本商品が捕獲・拘留された事件は35件、約28万7千ドルとの報告が、日本側から委員会に対してなされている。

委員会は、こうした排日ボイコットは、日本企業の事業を妨害して、中国の工業を発展させる狙いもあることを指摘している。

このボイコットのもうひとつの特徴は、右の例からもわかるように、単に日本の工業にダメージを与えるだけでなく、これまで日本から輸入していた製品の国内生産を刺激してシナの工業を発展させることにある。その主な結果は、上海の日本人所有の工場を犠牲にしたシナの紡績工場の拡張である。


『排日ボイコットは、サービス業にも及んだ。

ボイコットは商売だけにかぎられない。シナ人は日本の船で旅行
したり、日本の銀行を利用したりすることを禁じられ、業務上であ
れ私事であれ、いかなる資格においても日本人に仕えることがない
よう警告される。こうした命令を無視するものは各種の非難や脅迫
を受ける』

「日本人に仕えることがないよう」とは、日本企業に勤める中国人
従業員に対する脅迫である。


■6.ボイコットは中国の伝統的手段

中国側は、こうしたボイコットが純粋に自然発生的なものだと主張したが、これに対しても委員会は明確に否定している。

『われわれ委員会は、シナのボイコットは民衆運動であると同時に組織されたものであり、またボイコットは強い国民的感情から生まれ、それに支持されているといえども、これを開始または終息させることのできる団体(例えば国民党)によって支配され命令されたもので、確かに脅迫に近い方法によって強行されたものだと結論する。ボイコット組織には多くの団体があるが、主たる支配権力は国民党にある』

報告書は、こうしたボイコットが中国で数世紀にわたって発展してきた伝統的手段であるが、国民党がそれを闘争手段として活用している、と指摘している。

『数世紀にわたってシナ人は、商人、銀行家の団体や同業組合においてボイコットを常用してきた。同業組合は近代的な情勢に合致するよう変形されてきたが、いまなおシナには多数存在し、共通の職業的利益を擁護するため組合員に対して絶大な力を振るっている。

数世紀の歴史をもつ組合活動で得られた訓練と姿勢は、現代のボイコット運動において、近年の熾烈なナショナリズムと結合した。国民党はそのナショナリズムの組織的な表現だ』


■7.明治末から始まっていた日貨排斥

日貨排斥は、「日本の中国侵略」に対抗するための中国側の正当な手段である、と主張する向きもあろうが、実は「日本の中国侵略」のはるか以前から始まっている。

『シナ人とは何か 内田良平の「支那観」を読む』は、日貨排斥の始まりについて、次のように説明している。

明治時代には清国から多くの留学生が日本を訪れ、また孫文など革命家を日本が支援していたので、日中関係は良好だった。

雲行きがおかしくなったのは、辛亥革命後、清朝軍閥の生き残りである袁世凱と革命派が妥協して袁が新「中華民国」の大総統に就任した「南北妥協」(明治45年1月)の頃からである。

袁は革命派鎮圧のため清朝政府から全権を授けられながら模様眺めをした老獪な人物である。彼は革命派の弱体を看て取り、革命により自国権益が回収されることを恐れるイギリスを後ろ盾に、革命派と日本の離間を図り、日本に満洲侵略の意図ありとの風説を流した。

動乱の責任を日本になすりつけ、漢民族大衆の「中華」意識から発する排外主義に火をつけた袁の術策は当たり、大衆は日貨排斥に走った。

袁世凱は革命派を追い落とすために、その後ろ盾になっている日本に対してボイコットを仕掛けたのである。西洋の侵略からアジアを守るために、一刻も早く中国に近代化してほしいと孫文ら革命派を支援してきた日本[a,b]としては、思いも寄らぬ仕打ちだった。

「南北妥協」の明治45年と言えば1912年。「日本の中国侵略」の端緒と言われる満洲事変が始まったのが1931年(昭和6年)、さらにその淵源と言われる対華21ヶ条要求でも1915年(大正4年)である。


■8.「賢者は歴史に学ぶ」

袁世凱の日貨排斥の成功に学んだのは、蒋介石率いる国民党であった。昭和初年に、満洲の支配者・張作霖を打倒するために、張を「日本の傀儡(かいらい)」として、大衆の排外ナショナリズムを燃え上がらせ、日貨排斥を広めたのである。

このように排外ボイコットは、中国社会に深く根ざした伝統であり、外国と対立すれば、ごく自然に「ボイコットで圧力をかけよう」という発想が浮かび上がる。戦前は日本からの石炭輸入阻止、現代では日本へのレアアースの出荷制限、とその具体的な手段は変われど、発想はまったく同じである。

したがって、今後も日中摩擦が起こるたびに、排外ボイコットは常套手段として繰り返される可能性がある。「誠意を尽くして話し合えば」とか「過去の侵略の真摯な謝罪をすれば」で、解決する問題ではない。

これに対抗するには、排外ボイコットは自分の首を絞めるだけと中国に理解させる事が必要である。

たとえば、今回、初めて中国はレアアース輸出制限というカードをちらつかせた。国内需要の9割以上を中国から輸入している米国では、即座に下院がレアアースの自給体制の確立を目指す法案を可決した。我が国でも大畠経産相が「補正予算でレアアースの安定供給のための対策を検討する」と語った。

レアアースの生産では中国が世界の97%を占めているが、埋蔵量自体は世界の3割超に過ぎない。中国のレアアースの独占的供給は以前から危険視されていたが、今回、そのカードを実際にちらつかせてしまった事で、賢明な国はそのリスクに気がつき、一斉に対中依存から逃げ出していくだろう。

同様に賢明な企業は貿易や工場投資なども中国向けを減らして、ベトナムやインド、ブラジルなど、より安全な新興国に向けていくだろう。

「賢者は歴史に学ぶ」とはこういう事である。

(文責:伊勢雅臣)

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親学のすすめ(下)乳幼児編(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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親学のすすめ(下)乳幼児編
〜 母の愛で子は育つ


「ぼく、生まれてきていけなかったの?」と3歳の子は母親に聞いた。

■1.「ぼく、生まれてきていけなかったの?」

「ぼく、生まれてきていけなかったの?」と3歳になる息子が、布団の中で、突然、母親に聞いた。母親は驚いて
「えっ、どうして、そんなことを言うの」と聞き返した。息子はこう
答えた。

__________

だって、お母さんはいつも言っているよ。子どもを育てるのは大変
だって。友達といつも電話で話しているよ。
子どもがいて、自分の自由な時間がないって。ぼく、お母さんに迷惑をかけているの?

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

62歳になる祖母は、娘である母親からこの話を聞いて、孫がかわいそうで涙が止まらなかったという。
現代の子育ての難しさを象徴するエピソードである。

米国の精神分析学者E・H・エリクソンは、乳児期の発達課題を「基本的信
頼」と呼んだ。「自分は見捨てられていない」「ここにいていいんだ」「自分には価値がある、受け入れられている」という基本的な信頼感を、乳幼
児は求めているのである。


■2.「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」

『ちょっとだけ』(瀧村有子作・福音館書店)という絵本がある。
「なっちゃんのおうちに、赤ちゃんがやってきました」と、お話しは始まる。

主人公のなっちゃんは、まだ幼くてお母さんに甘えたいのだが、赤ちゃんが生まれて、ママはとても忙しい。
だから、なっちゃんは一生懸命、自分で自分のことをしようとする。

ミルクをコップに注いだり、髪をとかして二つにしばったり、まだ上手にはできないが、「いつもママがやってくれるのをみていたので、ちょっとだけ成功しました」と繰り返される。

最後に「ちょっとだけ抱っこして」というなっちゃんに、「ちょっとだけ? 
ちょっとだけじゃなくて、いっぱい抱っこしたいんですけど」と答えるママの愛情が、なっちゃんを安心させ、自分のことは自分でしてママを助けたい、という気持ちにさせる。

「自分には価値がある、受け入れられている」という基本的信頼があればこそ、幼児は甘えたい気持ちを自制し、独り立ちに向けて、成長していけるのである。

「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」という子育ての言い伝えが我が国にはあったそうな。
エリクソンの説に従えば、「しっかり抱いて」があればこそ、子供は「下に降ろして、歩かせろ」の次の段階に進める、と言えよう。


■3.母親への愛着が精神的発達の基盤

エリクソンの「基本的信頼」の考え方は、英国の精神医学研究者ジョン・ボルビーの「愛着理論」に通ずる。

イギリスの精神医学の研究者ジョン・ボルビーは、44人の非行少年の生い立ちを丹念に調査したところ、その子供たちは例外なく幼児期、6歳ぐらいまでの間に親に捨てられていた。

そこでボルビーは、親に捨てられるという別離体験が、思春期の子供の行動系をゆがませるという説を打ち出した。これが「愛着理論」の出発点となった。

子どもの健全な精神的発達のためには、少なくとも一人の養育者との親密な関係が必要であり、それが欠けると、子どもは社会的、心理学的な問題を抱えるようになる。

逆に、養育者を信頼し、愛着への欲求を満足している場合は、幼児は不安を忘れ、自分の遊びに集中したり、周囲のものに好奇心を抱く。これが幼児の知能的な発達をもたらす。

こうした説をボルビーが小児科医らに紹介すると、彼らは「3歳までの子供は親と一緒にいることが大切」と賛同し、乳児院や小児病棟に母親の付き添いや担当保母の制度を導入するなど、大変革を起こした。現在、愛着理論
は世界的に定着している。

松山市の小学生たちが親に対する気持ちを詩に詠んでいる。

「母がいる、そばにいる、それだけですごくうれしい」(小学校6年生)

母親への愛着を満たされた子供の幸福感がよく感じられる詩である。
こうした子供は、母親のために何かやってあげたいと思うようになる。

「大好きなお母さん、おぶるのぼくの夢」(小学校3年生)

他者への感謝や思いやりというという人間らしい心は、まずは母親からの愛着の欲求を満たされた所から始まる。


■4.「三つ子の魂百まで(も)」

最近の脳科学は、3歳までに脳の神経細胞の6割ができあがる事を明らかにしている。
脳の各部は「言葉を話す」など、いろいろな機能を受け持っているが、それぞれの部分が発達する「臨界期」があり、その時期を外すとその機能は発達しなくなる。

1920(大正9)年にインドで、オオカミに育てられた8歳ぐらいの少女が発見された。
オオカミと同じように手と膝をついて歩き、皿に口をつけて食べ、夜になると遠吠えをした。

17歳まで生きて、なんとか2本足で歩けるようにはなったが、覚えた言葉は40語足らずだった。
通常の3歳児だと9百語ほど覚えるが、ちょうど言葉を覚える臨界期にオオカミと生活していたために、その後でいくら教えても、言語能力が発達しなかったのである。

逆に、アメリカに14歳で医学部の大学生になった子がいる。
父親が日本人、母親が韓国人で、知能指数は200もある。その妹も同様だという。親は生後8カ月から毎日、10冊ぐらいの本を読んで聞かせたそうだ。
脳が育つときに、大量の読み聞かせをすることによって、人の話を理解し、
自らも考え
る能力が発達する。

言語能力や思考能力だけではない。思いやりや共感など、他者との関係を築く能力は、母親がにっこり微笑み、
子供も応えて笑う、という情感のキャッチボールから育っていく。

「三つ子の魂百まで(も)」という言い伝えもある。3歳までに身に
つけた心は百歳になっても変わらない、という意味である。

かつては、こうした3歳までの教育の重要性を、「女性を育児に専念させ、家庭に縛り付けるための3歳児神話」だと否定する考え方もあったが、現代の脳科学はこの「神話」が、実は真実であることを証明しつつある。


■5.世界のよろこび、感激、神秘を分かち合う大人が必要

人との共感能力、知的能力と並んで、自然の美しさを感じたり、その不可思議さに驚く感性も大切だ。1960年代に環境保護運動のきっかけを作ったアメリカの生物学者レイチェル・カールソンは、自然の美しさ、神秘を感じ取
る感性を、「センス・オブ・ワンダー」と呼んで、こう説いた。

__________

生まれつきそなわっている子供の、センス・オブ・ワンダーをいつ
も新鮮にたもちつつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子供といっしょに再発見
し、感動を分かち合ってくれるおとなが、すくなくともひとり、そばにいる必要があります。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こんな話がある。ある日の夕方、母親は来客の接待のため、台所で支度をしていた。
そこに小学生の子供が飛び込んできて、興奮しながら母親にこう言った。

「お母さん、お母さん! 夕焼けがすごくきれいだよ。ねえ、見に来てよ」

母親は、子供にこう答えた。
「まあ、そうなの。お母さんも見たいけれども、今お客さんで見られないの。だから、お母さんの分まで見てきてね。」

子供は、「うん」と言って、また外に飛び出していった。そして、夕焼けの様子を後でお母さんに話そうと思って、頭の中にしっかり焼き付けた。

こんなお母さんなら、後で、子供が一生懸命に話す夕焼けの美しさを真剣に聞き入ったろう。そうした感動を分かち合ってくれるくれる母親の存在が、子供の感性を伸ばすのである。

逆に、母親が「今、忙しいんだから、夕焼けなんて見ている暇はないの」と子供に答えたら、どうなるか。自然の美しさ、不可思議さには、無頓着な人間に育っていくのではないか。


■6.「子育てを負担に思う」が8割超

乳幼児の精神的、知能的、感性的な発達に、母親の存在がいかに重要である
か、が科学的にも明らかになってきたわけだが、この事は同時に、母親としての責任の重さを示している。

最近の厚生労働省の調査では、「子育てを負担に思う」と答えた親が8割を超している。その第一の理由は、自分の自由時間が奪われるから、というのである。

30年ほど前の昭和56(1981)年のアンケート調査では、子育てを負担に思う親は10%だった。
10年前の平成12(2000)では、まだ30.8%だった。
外で働く女性が増えると共に、育児との両立に悩む母親が増えているのである。

母親の意識も大きく変わっている。平成4(1992)年の出生動向調査では「子供が小さいうちは、母親は仕事を持たずに家にいるのが望ましい」と答えた人が88%もいた。

それが10年後の平成14(2002)年にベネッセ教育研究所が行った母親調査では「『3歳までは母の手で』という意識がとても気になる」と答えた人は25%しかいなかった。

同じ調査ではないので単純な比較はできないが、「3歳までは母の手で」という意識が薄れ、子育てになるべく手間をかけたくない、という意識が母親に広まっているようだ。冒頭に紹介した「子育てで、自分の自由な時間が
ない」とこぼす母親は、その典型である。


■7.「子育てはすごく楽しい」

一方、こんな興味深いデータもある。平成15(2003)年に厚生労働省が未就学児童を持つ全国2千世帯を対象に行った「子育て支援に関する調査」では、「子育てはすごく楽しい」という回答を、父親の77%、母親の68%
が行っている。

その理由として「付き合いがひろがった」「子供から学ぶものが多い」「自分の存在がかけがえのないものだと思えるようになった」などが挙げられている。

子育ては大変であるとともに、楽しいものである、というのは、家庭における食事を例に考えてみれば、分かりやすいだろう。

食事の準備をするのは主婦にとって、手間暇もかかり、自分の自由な時間を奪われる苦役だと考えれば、家族ばらばらにコンビニで好きなファーストフードを買ってきて、好きな時間に食べるのが、最も効率的だということになる。

しかし、それでは母親が家族のために愛情を込めて作った手料理を皆でいただく一家団欒の幸せや、それをもたらした母親の喜びは失われてしまう。

子育ても同じだ。たとえば、赤ちゃんが数回おしっこをしても、取り替えなくても良い、というハイテク紙おむつが売られている。それだけ母親の手間が減らせ、赤ちゃんを放っておける時間ができるというわけである。

アフリカのある地域では、赤ちゃんをおむつもせずに袋に入れて、ショルダーバッグのように首からかけて、片時も肌身離さずに育てる。赤ちゃんがオシッコをしたくなったら、母親にはそれが分かるので、袋から出して用を
させるのである。

育児で保育園というコンビニを使い、ハイテク紙おむつなどでファーストフード化しては、手間暇をかけて、その喜び楽しみを味わうというプロセスが無くなってしまう。それは子供にとっても、親にとっても、重大な不幸なのである。


■8.子育ては「興国の大業」

とは言え、働かなければ生活していけない母親も少なくないし、核家族で育児を相談できる相手のいない母親も多い。
母親が育児に専念できるような社会の支援が必要である。

ノルウェー、フィンランド、デンマークなどでは「在宅育児手当」を支給し、親の「子育てをする権利」を保障する政策の充実を図っている。

日本は保育所の整備など、母親が「家庭を離れて働ける事」を支援している
が、それよりも「3歳までの子を持つ母親が働かなくともよいよう」に支援をした方が、子供の健全な成長にははるかに効果的であるし、母親として
の幸福にもつながる。

また、保育所も子供を預けっぱなしにするばかりではなく、母親が幼児を連れてきて、子育てのポイントを学んだり、母親どうしが交流できるような場にしていく、という方策もあろう。

さらに、若い母親のために、育児経験の豊かな熟年女性が「お祖母さん」のかわりになって、助言したり手伝ったりする、という仕組みも考えられる。お祖母さんがいるのは、他の動物にはない人間だけの特権なのであ
る。

育児とは、次世代の立派な国民を育てるという「興国の大業」であ
る。
子育てに失敗した国に未来はない。国をあげて、子育てをしている母親を支えるべきである。

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ヨコミネ式子育て法(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

ヨコミネ式子育て法
〜子どもはみんな天才だ10段の跳び箱を跳び、2千冊の本を読む幼稚園児たち。



■1.子供はみんな天才だ

 こんな驚くべき光景がテレビで放映された。

【体育】
・一列に並んだ幼稚園児が次々と自分の背よりも高い10段の跳び箱を跳んでいる。
・皆で、逆立ちしながら、スタスタと歩いて行く。
・かけっこでは5歳児の50メートル走の平均タイムは10秒45。
これは小学校2年生男子の全国平均10秒80より速い。

【知育】
・卒園までに平均2千冊の本を読む。
・4歳で作文を始め、小学校3年までには2千枚の作文を書く
・ピアニカで5歳までに60曲のレパートリーを持つ。

そして、なによりも驚かされたのが、3歳児がおしゃべりもよそ見もせずに、一心に読み書きに取り組んでいる光景だった。
(YouTube http://www.youtube.com/ で「ヨコミネ式」で検索すると、視聴できます)

特別の子どもたちを集めた訳ではない。鹿児島市から車で2時間も離れた志布志(しぶし)市で、3つの幼児園と、小学生を対象とした2つの学童保育施設での合計約270人ほどの子供たちである。

ゆとり教育で九九もろくにできない小学生、授業中でも教室の中をウロウロする子ども、といった教育崩壊、学級崩壊の惨状とはまったく別の世界がここにある。


■2.「子供たちの目が輝くような園を作ろう」

この教育方法を生み出したのが横峯吉文氏。女子プロゴルファー横峯さくらの伯父にあたる。さくらのパパ良郎さんも、かつては吉文さんの幼稚園運営に加わっており、さくらを育てる際に、そこでの経験が役立ったという。

横峯さんが最初の幼稚園を設立したのは昭和55(1980)年のことだった。
幼児教育については素人だったので、ベテランの保育士さんたちに指導を任せた。

保育士さんたちは、毎朝、園児たちにラジオ体操をさせていた。
しかし、その姿を見ていると、子供たちの目が輝いていなくて、ちっとも楽しそうではない。

それにもかかわらず、先生達は「きちんと手をあげて」などと注意してラジオ体操をさせている。その光景を見て、横峯さんは「本当にこれでいいのかな」と疑問を感じた。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
面白くもなんともないラジオ体操を、大人たちの一方的な考えのもとにやらされる。なぜ、こんな教育をしなければいけないのか。私は、それまでの保育園教育に大きな疑問を感じ、子供たちにも申し訳ない気持ちでいっぱいになってきました。

私は、ベテランの保育士さんに頼ろうとしていた自分の考え方を反省し、「ともかく、子供たちの目が輝くような園を作ろう」「子供が楽しいと思える園をつくろう」と決意しました。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.「やる気にさせるスイッチを入れてあげさえすればいいんだ」

子供が楽しいと思うのは、まずは「遊び」である。横峰さんは、子供たちに徹底的に「遊び」をさせ、その中から何かを学ばせようと考えた。「遊びながら学ぶ幼稚園」を作りたいと思った。

そこで、園児たちを山に連れていって探検させたり、ジャングルジムから飛び降りさせたり、幅の狭いブロックの上に立たせたりして、とにかく子供たちが楽しいと思うことをさせた。

楽しいと思う事をさせると、子供たちはどんどん伸びていった。遊びや冒険を通じて、「新しいことを学びたい」という成長意欲が湧き上がってきたようだった。

いったん成長意欲が出てくると、遊びだけでなく、勉強に対する取組みもまったく変わってきた。読み書き計算などをやらせても、次々と新しいことを学び取っていこうとする。

この姿を見て、横峰さんは「子供たちはやる気になれば、放っておいても、どんどん伸びていく。やる気にさせるスイッチを入れてあげさえすればいいんだ」ということに気がついた。


■4.「才能開花の法則」

文字を教えると、あっという間に覚えてしまう園児がたくさんいた。「九九」の歌のCDを聴かせると、2歳児でも覚えてしまう。

小学1年生で漢字を習い始め、2年生で「九九」を始める、という学校のカリキュラムの枠を外して、3歳児、4歳児にさまざまな学習をさせてみると、子供たちはすぐに覚えてしまった。

学校のカリキュラムとは、大人が勝手に決めたもので、子供たちは大人が考えるよりも、はるかに素晴らしい能力を持っていることが分かった。

2歳児でも文字を覚えられる、ということが分かってきたが、一つ大きな壁があった。ひらがなを「あいうえお」の順で教えようとすると、初めて文字を書く子供にとって、「あ」という文字は曲線が多くて、どうしてもうまく書けない。
それでも無理に書かせようとすると、子供はいやになって、やめてしまう。

横峯さんは子供たちをよく観察して、「あ」とか「む」といった曲線の入った字にはつまづくが、直線で字画の少ない字だとすぐに書けるようになることを発見した。

「そうか、画数の少ない、直線を使った文字から先に書かせてあげればいいんだ」と気づいて、まず漢字の「一」から書かせる事にした。横に棒を引っ張るだけなので、2歳児でも簡単に書ける。書けると、子供はとても嬉しそ
うな顔をする。

次に縦棒の「|」、その次は横棒と縦棒を組み合わせた「十」、それからカタカナの「ニ」「エ」「ノ」と、少しずつ難しくしていく。こうして完成したのが、「ヨコミネ式95音」である。ひらがな、カタカナ各46音に「一」「|」「十」を加えたものである。最も難しい「あ」と「む」が最後にくる。

こうした無理のない方法を採用したら、子供たちは驚くべきスピードで文字を習得していった。2歳から文字を教えて、3歳の夏までに、一人も落ちこぼれることなく、全員がひらがな、カタカナを読み書きできるようになるこ
とが分かった。

できることは面白い
面白いから練習する
練習すると上手になる
上手になると大好きになる
そして次の段階に行きたくなる

この「才能開花の法則」を横峰さんは見つけたのである。


■5.読書の重圧からの快感

文字が読めるようになると、本を与える。と言っても、3歳児にとって、「本を読む」のは生まれて初めての経験である。難しい本を与えると、みな嫌がる。

そこで、文字と同様、簡単な本から始め、少しづつ難しい本に挑戦させる。最初の本は、1頁目に「お は よ う」、2頁目に「こ ん に ち は」、それで終わりである。

このような本でも、3歳児には相当な重圧がかかる。横峯さんが観察していると、文字を一文字ずつ思い出しながら、「お」「は」「よ」「う」と一所懸命に読んでいる。顔は、いかにもつらそうな、しかめっ面になっている。

ところが、読み終えた途端に、子供の顔に赤みが差してくる。重圧から一気に開放されて、快感を覚えているようだ。少しずつ難しい本を読んでいくにつれて、子供たちはこういう達成感を何度も味わっていく。

この快感を何度も経験することで、子供たちは「本が好きでたまらない」ようになり、幼稚園卒業までに平均2千冊を読破するのである。


■6.「子供は競争したがる」

既成概念にとらわれず、子供たちをよく観察していくことで、横峰さんは、いくつもの発見をした。その一つは「子供は競争したがる」ということだ。

かけっこでも勉強でも、「○○君が1番」「○○ちゃんが2番」と順位をつけてあげると、勝った子はものすごく喜び、うれしくなって、やる気を出す。負けた子は悔しがって涙を流し、「もっとできるようになりたい」と、これまたやる気を出す。

そこで横峰さんの幼稚園では、毎朝、徒競走をさせ、順位をつける。「足の遅い子は負け続けて、やる気をなくすのではないか」と心配する人もいるが、横峰さんは、子供たちの能力に合わせてハンディをつけている。

たとえば、徒競走では、5歳の子をスタートラインに立たせ、4歳の子はその5メートル前に立たせ、3歳の子はさらに5メートル前に立たせる。
これなら3歳の子でも、一生懸命に走れば、5歳の子に勝つチャンスがある。足の遅い子にも、さらには障害児にも適度なハンディをつけて、一緒に競争をさせる。

__________

年齢のちがう子が交じって一緒に競争することで、「もっと速くなりたい」
「お兄ちゃんのように速く走りたい」という成長スイッチが入り、さらに「1番!」と順位をつけてもらうことで、先生に認めてもらって、もう一つのスイッチが入ります。

こうして、「ボクは速くなったんだ」と思うことで自信を持つようになり、
「次はもっと速く走りたい」という気持ちにつながっていくのです。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この「成長スイッチ」が入ることで、かけっこでは5歳児の50メートル走の平均タイムは10秒45と、小学校2年生男子の全国平均10秒80を上回る成果が得られているのである。

「競争は悪」と決めつけて、運動会の徒競走でも、ゴール前に全員並ばせて、一緒にゴールインさせる、などという学校があるそうだが、それは大人の先入観から、子供のやる気をそいで、成長の芽を摘んでいることに他ならない。


■7.仲間の進歩を自慢する

子供が競争を好むのは、それが自らの成長意欲に火をつけ、そして、競争の結果で自分の成長を確認できるからだろう。勝ち負けにこだわる大人の競争とは、この点で全く違う。

横峯さんの幼稚園では、読解力をつける目的も兼ねて、先生が朝、昼、夕方に、こんなメッセージを黒板に書く。

__________

お早うございます。
きのう、れんとくんが、なんと!!
ブリッジ回転ができました。
すばらしい(花丸)
今日は みんなで見て下さい。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こういうメッセージを、みなで声を出して読む。日替わりで、すべての子が順番に名前を書いて貰って、先生と友達から認められる。これを続けていくと、お互いがお互いの成長を認め合うことで、友達関係も良くなっていった。

子供たちは、仲間の進歩をまるで自分のことのように素直に喜ぶようになる。

「給食のおばちゃん、ちょっと来て。○○君が跳び箱6段跳べたよ」
と言って、給食の職員を呼びに来る。10段跳べる子が、6段跳べた子のことを自慢するのである。


■8.「小学校って、何をするところですか?」

 横峯さんは、小学校の先生や教育委員会の人々に講演をする時、よく「小学校って、何をするところですか?」と聞く。すると、みな口をつぐんでしまって答えられない。文科省が作ったカリキュラムを、そのまま実行することが学校の使命になってしまっているのだろう。

「ゆとり教育」も、既成のカリキュラムに対する現状批判でしかなく、どのような人作りを目指すのか、というビジョンがない。だから「小学校って、何をするところですか」という素朴な、しかし根源的な質問には答えられな
いのである。

横峰さんは、子育ての目的は「子供の自立」である、と考える。そして自立するために必要なのは、「学ぶ力」「体の力」「心の力」である、とする。子供たちが幼稚園で2千冊の本を読む「学ぶ力」、跳び箱を10段跳べる「
体の力」、友達の進歩を自慢する「心の力」を持てば、やがて十二分に自立した大人になっていくだろう。

こうして自立した人間は、本人も充実した人生を歩めるだろうし、また各分野で国を支えていってくれるだろう。やはり「国作り」は「人作り」からである。

幼稚園や小学校の教育関係者には、ぜひともヨコミネ式を参考にして貰いた
い。また幼児を持つ家庭では、ヨコミネ式を自宅で行う方法がに紹介されて
いるので、取り組んで頂きたいと思う。

(文責:伊勢雅臣)

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横井小楠 〜 明治維新の設計者(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■■ Japan On the Globe(612) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 横井小楠 〜 明治維新の設計者

西洋列強が押し寄せる国難に際して、小楠は「無私の心」による国内団結を唱えた。

■1.横井小楠が設計し、西郷が具現化した明治維新■

 勝海舟は、維新後にこんなことを言っていた。

おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(しょうなん)と西郷南洲(JOG注: 隆盛)とだ。[1,p81]

横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出て来たワイ。[1,p191]

勝の見方によれば、明治維新は横井が設計し、西郷が実現した、と言える。

横井小楠は幕末に幕府方の中心人物であった越前福井藩主・松平慶永(よしなが、号は春嶽)のブレーンであり、最後の将軍・徳川慶喜もその説に感服していた。勝海舟も「自分は小楠の弟子である」とまで自称していた。

一方、吉田松陰も小楠に敬服し、長州藩まで指導に来て欲しいと招請している。坂本龍馬も何度も横井を訪れて、その意見を聞いている。西郷は、横井の説を勝から聞いて、それをやり通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。明治に改まってからも、小楠は17歳の明治天皇に国政の理想を説いた。

要は、幕末から明治維新にかけての中心人物たちが、幕府方と薩長方を問わず、誰もが師と仰いだ人物が小楠なのである。

■2.エリートコースからの転落■

小楠とは後につけた号で、通称は平四郎といった。平四郎は文化6(1809)年に熊本・肥後藩士の次男として生まれ、10歳で藩校・時習館に入学すると、めきめきと頭角を現した。29歳には寮長として塾生を指導する立場に立った。

31歳にして江戸遊学を認められた。幕府における学問の総元締め林大学頭(だいがくのかみ)に入門するとともに、尊皇攘夷思想のリーダーである水戸藩士・藤田東湖にも親しく教えを請うている。

その藤田東湖が開いた忘年会の帰りに、泥酔した平四郎は一人の幕臣と口論になり、殴ってしまう。この事件を聞きつけた熊本藩の江戸留守居役は、平四郎を帰国させた。藩からは「つまらない事件で有為の人物を処分するな」と言ってきたが、熊本藩内部では二つの派閥が勢力争いをしており、一方の家老から後押しされていた平四郎はそれに巻き込まれたのである。

帰国した平四郎は自宅謹慎を命ぜられ、兄の家の6畳一室に閉じこもって、ひたすら学問に打ち込んだ。やがて志ある郷士や豪農の子弟が、小楠に学ぼうと出入りするようになった。

門下生が増えると6畳では手狭であり、弟子たちは力を合わせて、新しい塾を建ててくれた。この塾は「小楠堂」と名づけられた。平四郎は尊皇に生涯を捧げた楠木正成[a]を尊敬しており、それにあやかったのである。本稿でも、これからは小楠の号を使う。

■3.越前藩へ■

嘉永4(1851)年2月、小楠は諸国遊歴の旅に出発した。すでに43歳となっていた。遊歴の許可を藩政府に願い出ると、二つ返事で許可が下りた。藩政に対してもなにか批判的な言辞を述べる要注意人物がしばらくでも旅にでることは、藩にとっても歓迎すべきことであった。

小楠は、北九州、山陽道、大坂、大和、伊勢、さらには北陸まで足を伸ばし、各地で名高い人物と会った。

特に福井には25日も滞在し、歓待を受けた。小楠堂には越前藩から来た武士も学んでいて、小楠の評判を国に伝えていたのである。滞在中は連日のように講義を求められ、それがさらに小楠の名声を高めた。

福井からの帰路、琵琶湖西岸の小川村を訪ねた。小楠はかつて陽明学者・熊沢蕃山の書から多くを学んだが、その蕃山の師が近江聖人と呼ばれた中江藤樹であり、この小川村には藤樹が書院を開いた跡があった。

「国を治め天下を平らかにする」という政治の根本は、まず人間一人ひとりの心の中にある「まごころ」を磨くところから始めなければならないと説いた藤樹の教えは、村全体の空気に染みこんでいた[b]。日本全体をそのような道ある国にしたい、というのが、小楠の志だった。

小楠を越前藩に招聘しようという案に藩主・松平慶永も乗り気になり、肥後藩主・細川斉護(なりもり)に、小楠借用を願い出た。松平慶永の妻は斉護の娘で、婿−舅(しゅうと)の関係である。しかし、肥後藩の重役たちは「藩の恥を晒(さら)すようなものだ」と聞き入れない。

結局、慶永は斉護に二度も直接手紙を書き、斉護は「ここまで婿殿が思い込んでいるのだ」と重役たちの反対を押し切って、承諾させた。

安政5(1858)年4月、小楠は福井に着き、50人扶持の待遇を受けて、越前藩の藩校での講義、および藩政改革の指導に当たることになった。

■4.藩を富ます■

越前藩の藩政改革で、小楠がまず取り組んだのは、殖産興業によって藩を富ますことだった。従来の藩政改革は倹約一辺倒でやってきたが、倹約して得た資金を貿易や商品開発に注ぎ込んで、富を増やすことを説いた。

藩士・三岡八郎(後の由利公正、五箇条のご誓文の起草に参画)を使って、名望のある商人を集めて物産商会所を作らせ、生糸、茶、麻などを扱わせた。そして農村での養蚕を奨励し、長崎のオランダ商館を通じて生糸を輸出した。3年後には、貿易高が3百万両にも達し、藩の金蔵には今まで見たこともないほどの富が蓄えられた。

「横井先生は、口舌の徒ではない。その説かれる教えは高邁だが、さすが実学を旨とされるだけあって、藩を富ます術にも長けておいでだ」と、小楠の越前藩における名声は完全に確立された。

小楠が旨としていた「実学」とは、学者が世間を知らずに論語などの字句の研究に沈潜し、一方では政治家が学問を通じて自分の身を修めることをしない、という傾向を批判していた。これも中江藤樹の「学問とは人の生き方を正すものだ」という教えを継承する姿勢だった。

■5.「富国」「強兵」「士道」■

安政7年春、松平慶永の跡を継いで新藩主となっていた松平茂昭(もちあき)が江戸からお国入りし、すぐに小楠に会いたいと言ってきた。茂昭は藩が豊かになったことへの礼を述べ、ついてはその使途について大綱を定めたいので、意見を聞きたい、と言った。小楠は感激して、すぐに筆をとり、『国是三論』と題した意見書をとりまとめた。

『国是三論』は「富国」「強兵」「士道」の三つの柱から成り立っていた。

「富国」は生産を奨励して、藩の財政も豊かにして税率を下げる。藩民の暮らしを豊かにして、人の道を教える。

「強兵」は、極東に押し寄せてきた西洋列強に対抗できる海軍を作る。日本海に面した越前藩も青少年を鍛え、船で他国と往来させて、外国の事情を見聞させる。

「士道」は、人君は慈愛の心を持ち、家臣はその心を体して、人民を治める。その環境の中から、人材が次々と出てくる。

「富国強兵」は西洋列強の侵略に備える策として、すでに多くの先人が唱えていたが、小楠はこれに「士道」を加え、この3つとも人材を育成輩出することを中心に置いた。この点でも、中江藤樹の志が受け継がれている。

小楠の思想は、三岡八郎、後の由利公正が「五箇条のご誓文」を起草する際にも受け継がれた。「上下(しょうか)心を一(ひとつ)にして盛に経綸(けいりん、経済その他の活動)を行ふべし」「智識を世界に求め大に皇基(国家統治の基礎)を振起すべし」などの表現に窺われる。

■6.「幕府も朝廷も、私の心を捨てて」■

文久2(1862)年、松平慶永は幕府から政事総裁職への就任を要請された。その前年、大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、幕政は混迷を極めていた。井伊直弼は朝廷の勅許を得ずに独断で日米修好通商条約を結び、また世に言う「安政の大獄」で反対する大名・公家・志士らを次々と処刑・弾圧した張本人であった。

慶永は小楠を江戸に呼び寄せ、意見を求めた。小楠は政事総裁職を引き受けるべき、と主張し、実行すべき政策を『国是7カ条』として献策した。

その第一条は「将軍は上洛して列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」であった。幕府も朝廷も、私の心を捨てて、公の心を持って議論を尽くし、日本の進路を決定しなければならない。そのために、まず天皇から大政を委任された幕府の方から、歴代の無礼をお詫びし、私心なき事を天下に示そうというのである。

さらに、大名の参勤交代を大幅に縮小し、人質として江戸に置かせていた妻子を故国に帰らせること。これも大名たちに幕府の私心なき事を示すためである。あとは人材登用、公論の尊重、海軍増強、貿易振興など、『国是三論』に共通するものであった。

西洋列強がひたひたと押し寄せてくる国難に際して、国内の朝廷、幕府、諸大名などが互いに私心を持ったまま勢力争いをしていては国家の独立を守れない。まずは幕府が私心無きことを示して、朝廷や諸大名の力を統合していこうというのである。

 これを聞いて、慶永は「なるほど、これは天下の人心を一新
するためにもそうとう効果のある政策かもしれない」と希望を
抱き、政事総裁職就任を決意した。そして、この『国是7カ条』
を就任の条件とするよう、将軍側近の大久保忠寛など要人の間
で小楠に根回しをさせた。要人たちも小楠の説得を受け入れた。

■7.「大乱を未然に防ぐ」■

慶永は政事総裁職に就任してから、早速、参勤交代の大幅縮小、大名の妻子帰国などを実現した。しかし「列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」には、幕府の首脳の中で反対意見が強かった。「将軍は天皇から政治の大権を委任されていて、その中には外交問題も入っているので、勅許を得ずに外国と条約を結んだからといって、無礼には当たらない」という論も起きる。幕府の面子をなんとか保とうという「私心」である。

その中で将軍後見職・一橋慶喜(後に最後の将軍として大政奉還)が「小楠の意見を聞きたい」と言い出した。幕府首脳がずらりと並んだ中で、小楠は語った。

幕府が公武一和を標榜する以上、武家の頂点に立つ将軍が自ら勤皇の実をあげることが、徳川家が私心を去り、公の心を持ったということの証(あかし)になります。将軍にとってもお辛いこととは存じますが、この一事によって天下の人心が鎮まり、大乱を未然に防ぐことができます。
[2,p245]

幕府と朝廷が互いに争い、諸大名がこれに加われば、国内は内乱状態になる。西洋列強は当然、それぞれの後押しをして、介入してくる。そうなれば他のアジア諸国のように植民地化されることは目に見えている。「大乱」とはこうした事態を指す。

慶喜が真っ先に「横井先生のご意見に感服した」と賛成すると、他の首脳たちは反対する気持ちを失った。

■8.「その時は、政権を朝廷にお返しすれば」■

 しかし、慶永には、もう一つ心配があった。将軍が上洛してまでの無礼を謝罪しても、朝廷があくまで「攘夷を実行せよ」と命じた時は、どうすべきか、という問題である。

「その時は、政権を朝廷にお返しすればよろしゅうございましょう」と小楠はこともなげに答えた。慶永は驚いた。

(攘夷のような)できもしないことをできるかのように天下を偽ることは、私の心に通じます。できないことはあくまでもできないと申し上げ、できないことをどうしてもやれと仰せられるのなら、政治の大権を朝廷にお返しして、朝廷の方で攘夷を実行していただければよろしいではございませんか。[2,p240]

攘夷をできるかのように偽っているのも、政治の大権にしがみついていたいという幕府の私心である。それでは国内の公論を欺き時間稼ぎをしている間に、列強はひたひたと迫ってくる。

小楠の説は、国家の独立を保つためには、国内が公論のもとで一致団結しなければならず、そのためにはそれぞれが「私心」を捨てて、ひたすら国全体のためにどうすべきか、と智慧を絞り、力を合わせなければならない、という一点にあった。

■9.「清冽な地下水のごとき伝統」■

その後、多くの紆余曲折はあったが、慶喜が将軍を継ぎ、幕府が朝廷に恭順の意を示すことで内乱を最小限の規模に収め、また大政奉還によって、明治新政府が誕生した。大筋として、小楠の描いた筋書きに従って、わが国は一挙に新体制への一新を図り、その後は富国強兵に邁進して、独立維持に成功するのである。

これも小楠の説くところに、松平慶永、一橋慶喜、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛など、当時の中心人物が共感したからであろう。冒頭で述べたように、西郷も、小楠の説を勝海舟から聞いて、それをやり通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。

なぜ小楠の説がこれほどの説得力を持ったのか。それはその根底に「国を思う無私の心」を置いたからだ、と思われる。

小楠の敬愛する楠木正成も中江藤樹も、無私の心でひたすらに世のため国のために尽くした足跡を歴史に残した。その清冽な地下水のごとき伝統を掘り当て、幕末の国難の時期に噴き出させたのが小楠の功績であった。
(文責:伊勢雅臣)
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国際派日本人養成講座について

6年前の1月、東京・六本木のとある店を借り切って出席者30名程度のオフ会が開催された。

参加者の職業は、会社員、地方公務員、自営業から新橋で街宣車で演説している者まで多岐にわたっていたが、全員に共通していることは「国家のためにDNA」を有していることであった。
一行は何度か河岸を変えながら夜遅くまで、各自の思いをそれぞれぶつけあった。
最近では紙面に「国益」という言葉をよく目にするようになったが、当時はほとんど無かったと記憶している。
が、この日の議論では、この言葉が当たり前のように飛び交っていた。

その後、この出会いをきっかけに各地で参加者を中心とした交流が広がっていった。
そして今回の衆議院選で2名の国会議員を輩出するに至った。


私もこの最初のオフ会に参加した一人である。
「誰か一緒に日本を変えたいやつはいないのか!」という思いが当時の私の中に熱く燃えたぎっていて、その思いがネットを通じて結実し多くの方との邂逅を得ることが出来た。

同じ時期に読み始めたと記憶しているメールマガジンがこの「国際派日本人養成講座」である。
読むたびに私の中の「国家のためにDNA」を揺さぶられていた。

個人的にここ数年、あまりにも仕事が忙しすぎ、少々自分を見失っていた。
そんな中で、最近再度読み始めたのがこのメルマガで、自分の原点を確認することができつつある。

幸いにもこの拙いブログも日々多くの方からのアクセスをいただいている。
日本のために、少しでも多くの人にこういったエピソードを紹介すべきではないかと今回短絡的に考え、転載させていただくこととした。
少しでも志を同じくする方の目にとまれば幸いである。



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