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完全禁煙5日目with初めての週末

これは辛い。マジで。

チャンピックスとかまったく効かないdeath!

自発的にやってるわけじゃないし、経済的理由でスタートしているので、日に3本とか5本だったらペットボトル飲料買う程度(私はまったく買いません)なんで、問題ないから吸っちゃってもいんだけどね。

先日2回目の禁煙外来いったら、担当の先生が
「うちの父親も元喫煙者で肺がんで亡くなってねえ」
みたいな話をするわけさ。
まあいいけどね。

しかしながら、一酸化炭素の検査を息を吐くことによってやるんだけど、3日吸ってない後だと、見事に結果は違ってた。




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新幹線を創ったサムライたち (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座(H21.12.27) ■

新幹線を創ったサムライたち

〜世界初の高速鉄道は、無数のサムライ達の献身的な努力で実現した〜



■1.新幹線開発は日本の不朽の功績■

 温室効果ガスを排出する自動車や飛行機に替わって、高速
鉄道がグローバルに広まりつつある。現在、アメリカ、ブラ
ジル、ベトナムなどが導入を計画している。

 この高速鉄道の先駆者が日本の新幹線である。新幹線が開業
したのが昭和39(1964)年だから、すでに45年前になる。日
本の新幹線の成功に刺激されて、その6年後に建設が始まった
のがイタリアのディレティッシマ、さらにその6年後にフラン
スのTGV、ドイツのICEの工事が始まった。[a]

 1960年代と言えば、鉄道は自動車と飛行機にとって替わられ
つつある斜陽産業だと考えられていた。また鉄道技術で先進の
欧州諸国では、試験走行でこそ300キロ以上のスピードを記
録していたが、一度走ると線路が壊れてしまうので、営業運転
などとても無理、と考えていた。

 日本が新幹線を成功させて、そんな常識をひっくりかえさな
かったら、今でも世界は石油をがぶ飲みし、温室効果ガスをま
き散らす自動車と飛行機に頼るほかなかったであろう。

 新しい地球環境文明の大きな柱として高速鉄道を開発した我
が国の貢献は不朽である。そして、それは戦後の復興を賭けて
常識に挑戦したサムライたちの功績なのである。

■2.「線路をまくらに討ち死にする覚悟で」■

 サムライの筆頭が、新幹線建設を推し進めた国鉄総裁・十河
(そごう)信二である。十河は71歳の高齢で、昭和30
(1955)年5月に国鉄総裁に就任したのだが、それには事情があっ
た。

 その数日前、国鉄宇高連絡船が同じく国鉄の貨車航送船と衝
突して沈没、168人の死者が出て、前任の国鉄総裁が辞任し
ていた。当時の国鉄は大量の戦後復員者を抱え、改善の見込み
のない赤字体質、さらに大事故のたびに総裁の首が飛ぶとあっ
ては、誰も進んで総裁になろうという人はいなかった。

 国鉄出身の十河が心配して、民主党総務会長の三木武吉など
に後任総裁を進言していたが、誰も引き受け手がおらず、三木
は「十河さん。そんなにいうんならあんたがやったら」と言い
出した。十河は高齢と健康を理由に固持したが、

 君の祖国である国鉄は苦難つづきで、いま危機に瀕して
いるではないか。君は赤紙(召集令状)を突きつけられて
も祖国の難に赴くことをちゅうちょする不忠者か。[1,p42]

 とまで言われると、明治生まれの十河は返す言葉もなく、
「俺は不忠者にはならん」と引き受けてしまった。

 十河は総裁就任の記者会見でも「国鉄のため、国民のため、
最後の御奉公と思い、線路をまくらに討ち死にする覚悟で」と
思いを述べた。

■3.十河総裁の「討ち死に」■

 十河は総裁に就任するとすぐに、国鉄再建の目玉として、東
海道に広軌新線を敷く案の検討を命じた。東京−名古屋−大阪
を結ぶ高速鉄道こそ、日本の経済発展を支える大動脈になる、
との考えである。それは明治の終わりから大正の初めにかけて、
十河が満鉄時代に仕えた後藤新平の構想だった。

 しかし、今後は飛行機と自動車の時代で、鉄道の衰退は世界
的な流れと考えられていた。たしかに東海道線は切符もなかな
か買えないほど混み合っていたが、それは翌年秋に全線電化が
完成すれば輸送力が増して解決できる問題だと考えられていた。
国鉄内部で広軌新線の案に賛成したのは一握りの人々だけで、
十河は内部の説得に努め、同時に政治家や官僚、財界人にその
必要性を説いて回った。

 ようやく策定された建設計画の投資規模は3千億円を超えて
いた。国家予算が4兆1千億円程度の時代である。またすでに
計画が進んでいた東京−神戸の高速自動車道(後の東名、名神)
の総建設費が約15百億円だった。十河は「すこしぐらいの赤
字ならあとから俺が責任をもって話をつけてやるから」と無理
矢理、投資額を2千億円以下に下げさせた。

 昭和33(1958)年12月、3年間の努力が実を結んで、新幹
線の着工が正式決定となった日の夕方、十河は青山墓地に行き、
広軌鉄道の先覚者だった後藤新平の墓に、その実現の日がつい
にやってきたことを報告した。

 十河は総裁を2期8年務め、昭和38(1963)年5月に退任し
た。せめて1年4ヶ月後に迫った開業式まで留任させてテープ
カットをさせてあげてはという同情論もあったが、工事費は物
価上昇も含めて38百億円に膨れあがっており、総裁の責任と
してそれは許されなかった。

 総裁在任中、政治家たちが地元利益のために新線建設をさか
んに依頼してきたが、十河はそのような票目当てで経済効果の
ない建設計画を抑え込み、真に国家が必要とする新幹線建設に
予算をつぎ込んだために、敵が多かったのである。

 昭和39(1964)年10月1日の新幹線開業式に十河は招待さ
れなかった。十河はその覚悟通り「線路をまくらに討ち死に」
したが、その志は立派に果たされたのである。

■4.島秀雄の「あえて火中の栗を拾う」決意■

 十河に任命されて、副総裁格の技師長として新幹線建設の技
術開発の指揮をしたのが、島秀雄である。実父が戦時中に弾丸
列車の設計に携わった縁で、「親父さんの弔い合戦をやらんか?」
と十河に誘われたのである。

 島は電車列車方式、ATC(信号方式)、CTC(列車集中
制御方式)など画期的な技術開発を成功させ、欧州の鉄道界が
不可能としていた時速200キロ以上での営業運転を実現した
ばかりか、開業以来今日まで45年間、一度も大事故を起こし
ていないという驚くべき安全性をもたらした人物である。その
足跡は[a]で述べたが、ここでは十河からスカウトされた時の
逸話のみを紹介しておこう。

 島は終戦後、工作局長として国鉄の近代化に辣腕を振るって
いたが、昭和26年8月に国鉄を退職した。その4ヶ月前、京
浜東北線桜木町駅構内で、電気工事のミスから車両火災が発生
し、106人もの焼死者が出るという大事故が発生した。島は
その責任をとるとともに、これだけの大惨事に国鉄内部で責任
のなすりあいをしている姿に嫌気がさして、辞職したのである。

 島はその後、住友金属工業に入り、その技術的手腕で大きな
成果を上げて役員にまでなった。そんな矢先に十河から、新幹
線をやるので、戻ってこいと誘いを受けたのである。

 島は「住友金属にお世話になっているから」と固持し続けた
が、十河は住友金属の社長に会って、島の説得と譲渡方を頼ん
だ。社長からも勧められては、島も断り切れず、「あえて火中
の栗を拾う」決意を固めた。住友金属の役員から国鉄技師長に
転任すると、収入もかなり減ったが、島は冗談交じりに十河に
語っただけで、以後、二度とそのことを口にしなかった。

 十河が総裁を退任した際に、島も一緒に国鉄を退職した。石
田礼助・新総裁から「技術面の責任者としてぜひとどまってい
ただきたい」としきりに慰留されたが、「私は十河さんに呼ば
れて国鉄に入ったのだから、十河さんがお辞めになるんなら私
も辞めます」と断った。新幹線も技術的には99%目処がつい
たという思いがあった。

 島も開業式には招待されず、高輪の自宅から一番列車の出発
を見送った。

■5.零戦の技術が新幹線開発に生きた■

 陸海軍には飛行機や軍艦、兵器などの研究開発に携わってい
た技術者が大勢いたが、終戦後、そのほとんどが軍の解体で職
を失い、路頭に迷うところだった。それを見た当時の鉄道技術
研究所長・中原寿一郎は、運輸次官に対して、

 陸海軍の優秀な技術者をみすみす散逸させてしまうのは
国家にとって大きな損失。国鉄で引き受けましょうよ。

と口説き落とし、約1千人の技術者たちを研究所に採用してし
まった。当時5百人だった研究所が、一挙に3倍以上に膨れあ
がった。

 海軍航空技術廠で飛行機の振動問題を研究していた松平精も
その一人であった。世界有数の研究設備と工場も含めて3万人
もの人員を擁していた海軍航空技術廠にいた松平は、木造のバ
ラック3棟からなる研究所を見てがっかりした。しかし鉄道で
の振動の研究論文を読んでいくと、お粗末なものばかりで、
「これならやることはいっぱいある」と思った。

 この頃の国鉄は脱線事故は珍しくなく、時には100人以上
もの死者が出ていた。昔からの鉄道技術者たちは、レールの蛇
行が脱線の原因と考えていた。それに対して、松平は零戦がフ
ラッター現象(空気流によって機体の振動が増幅していく現象)
で空中分解した事故を研究した経験から、同じ事が列車で起こ
り、それがレールを曲げて、脱線にいたると考えた。

 松平がいくら説明しても、フラッター現象などという新しい
概念を鉄道技術者たちは受け入れなかった。論より証拠と、松
平は円形の無限レールの上で車両を高速走行させ、その振動状
況が観察できる試験装置を開発した。ある速度になると突然、
車輪が左右に揺れだして、松平の仮説が正しかったことが誰の
目にも明らかになった。

 この試験装置から、高速走行しても横揺れしない車両の開発
につながった。かつての零戦の技術が、新幹線の誕生に役だっ
たのである。

■6.新丹那トンネル工事に挑む■

 路線建設工事は工期が長く、技術的にも難しいトンネルや橋
梁から始められた。新幹線ルートはできるだけ最短距離を通る
ようにしたため、トンネルが多くなった。総延長515キロの
うち、トンネルの総距離は69キロに達した。

 なかでも最長は熱海の先の全長8キロの新丹那トンネルで、
最初に着工された。近くを通る東海道本線の丹那トンネルは、
大正7年に着工されて16年近くを要し、67名もの犠牲者を
出して、完成されたものである。

 戦争中の弾丸列車計画で、昭和16(1941)年から新丹那トン
ネルが着工されたが、戦局の悪化に伴い、昭和19(1944)年6
月に工事が中止された。戦後の新幹線では、この未完成の新丹
那トンネルでそのまま工事が再開されることになった。

 戦争中のトンネル工事で熱海側の工事区長だった青木礼二は、
工事中断後もずっとトンネルの保守を続けてきた。新幹線建設
で15年ぶりにトンネル工事が再開されると、今度は三島側の
工事区長として、取り組んだ。

 工事途中で、断層から大量の出水があり、掘削中止に追い込
まれたが、水抜き坑を別途掘るなどして、半年後に工事を再開
し、4年4カ月で完工にこぎ着けた。青木はこう語っている。

 新丹那トンネルは旧丹那と50メートルしか離れておら
ず、地質もよく似ている。そこで私は新丹那トンネルの工
事を再開する際に、『丹那隧道工事誌』という旧丹那トン
ネル工事の精密な記録をくり返し熟読し、難所や問題点は
すべて頭の中に入れておいた。このため工期はわずか4年
そこそこで、直接の事故は全くなかった。これは全く丹那
トンネルを完成した先人のおかげだ。[1,p219]

 ちなみに、新丹那トンネルから出る大量の水は熱海市の水道
に利用され、その3分の2ほどをまかなっているという。

■7.「鉄道に入って糞尿の調査とは」■

 新幹線の開発に必要だったのは、こうした最先端の技術ばか
りではない。もっと泥臭い開発も必要だった。その一つが糞尿
の処理である。

 当時は、乗客の糞尿は走行する車両からそのまま線路にまき
散らされていた。そのため、飛散する汚物で沿線の民家の洗濯
物が汚れるなどの問題が起きていた。このまき散らしの方式だ
と高速の新幹線では、どれだけ被害が広がるか分からない。

 そのために、糞尿を車両床下のタンクに貯め、それを車両基
地で処理する方式が考えられた。これは日本のみならず、世界
でもはじめての試みだった。

 糞尿処理施設の設計のもととなる基礎資料づくりを命ぜられ
たのが、国鉄に入社して間もない鎌田覚だった。「鉄道に入っ
て糞尿の調査とは」とぼやいたものの、誰かがやらなければな
らない、と思い直して、調査に乗りかかった。

 東海道本線の列車のトイレに糞尿のタンクを仮設し、朝7時
半に大垣を出てから、東京に行き、22時半に大垣に戻るまで、
トイレのそばに陣取って、乗客の使用回数と時間を調べた。大
垣ではタンク内の糞尿の量を量り、サンプルをとって、夜行で
東京に戻り、内容の分析をする。

 こうした鎌田の献身的な調査から得られた基礎データに基づ
き、世界で初めて列車の糞尿処理の問題が解決したのである。

■8.サムライたちの努力の結晶■

 このほかにも、地上げ屋との不眠不休の戦いを続けた用地買
収係員、品川駅で新幹線のためのスペースを空けるために、複
雑な在来線の線路や架線、信号、施設の付け替え工事を、まる
で心臓手術のように、綿密に着実にやり遂げた工事担当者、等
等、縁の下の力持ちの仕事に、無数の人々が寝食を忘れて取り
組んだ。

 世界初の高速鉄道がいきなり登場して、驚異的な安全性と事
業としての成功を達成したのは、ひたすら新幹線の成功のため
に、それぞれの使命に献身的に打ち込んだ無数の人々の努力の
賜物なのである。

 サムライを「公のために主体的、献身的に努力する人」と定
義すれば、まさしく新幹線は無数のサムライたちの生き様の結
晶である。

 JR東海は、超電導磁気浮上式リニア新幹線を2025年頃に完
成させる計画を進めており、有人での世界最高時速581キロ
を達成している。この壮大な計画には、また多くのサムライた
ちが献身的な努力を続けているのだろう。その姿こそ「大和の
国」すなわち「大いなる和の国」の強みである。
(文責:伊勢雅臣)
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忘れられた国土開発 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座(平成10年9月26日)■


地球史探訪:忘れられた国土開発

■1.李朝朝鮮の飢餓地獄■

本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だった。

たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」には、次のような記述がある。

 1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
は、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。

 しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
放置しておく道を選んだ。[1,p64]

まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったから、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。これが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。

■2.20年間で倍増の人口爆発■

朝鮮半島が急激な人口増加を迎えるのは、20世紀に入ってからである。1906年(明治39年)からの20年間で、980万人から、1,866万人と倍増した。さらに1938年には、2,400万人となった。日韓併合時代である。[1,p29]

この人口増加の原因としては、いくつかの要因がある。一つは第6代宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動である。30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。併合当初米の生産量が約1千万石であったのが、20年後の昭和に入ると、2千万石へと倍増した。[1,p80]

もう一つは医療制度の確立、特に伝染病の予防である。1910年から徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年から20年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減した。

さらにインド、中国から朝鮮にかけて猛威を振るっていたハンセン病退治のための救ライ事業として、世界的規模と質を誇る小鹿島更正園を作って、6千人以上もの患者を収容している。[1,p85-86]

農村振興は、終戦後も朴正熙大統領のセマウル運動として続けられる。宇垣総督の秘書役であった鎌田澤一郎氏が、その経験を買われて何度も朴大統領に呼ばれ、アドバイスをしている。[2,p44]

北朝鮮が現政権から解放された暁には、日本も援助をして、このような農村振興をもう一度やり直さねばならないだろう。日韓併合時代にどのような国土開発事業を行って、朝鮮半島の民生向上に成功したのか、今のうちに研究しておく必要がある。

■3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■

 李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。

1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような旅行記を残している。

 どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
めに刈り取られている。
  山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
 ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
見られない。

森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要というのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。[1,p114]

内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている。[2,p39]

植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総合的な国土開発事業が展開された。

これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]

■4.きめこまかな農民保護政策■

こうした大規模な国土開発とともに、きめこまかな民生安定化の施策がとられた。宇垣総督時代には、当時8割を占めた小作農の生活を安定させるため、朝鮮農地令を実施して小作権を確立し、税制を整理して、負担を軽くした。さらに低利資金を融通して高利債務を返還させ、多角農業主義により綿花栽培や山羊飼育を奨励した。
[3,p414]

また従来、朝鮮農民が見捨てていたような不毛の地に入植して、開墾する日系移民も約3,800戸あった。これらの移住農民が、米の改良品種、新農法を持ち込み、養豚、養鶏、養蚕などの多角経営を図り、また厳冬にも家族ぐるみで副業に励む姿を見せた。日系農家の自力更正が、朝鮮農民の意識改革に大きな役割を果たしたのである。[1,p153]

興味深い事に、米作保護のために、現在の日本と同様の逆ざや価格政策がとられた。昭和18年の生産者の手取り価格は生産奨励金なども含めると一石62円50銭、消費者価格は43円、この逆ざやは政府が負担していた。

農業生産が軌道に乗ると、日本への輸出が急成長した。併合当時わずか11万石だったのが、昭和3年には760万石までになった。
これは日本の農家を圧迫し、日本政府は朝鮮米の輸入制限を図ろうとするが、総督府は徹底的にこれに反対して、朝鮮農民を守った。[3,p414]

朝鮮経済の保護育成政策は、関税制度にも明らかである。朝鮮から日本に輸出されるものは免税だが、輸入は移入税を課した。後進国が自国の産業育成を図るときに、輸入関税で保護するというのは、常套手段だが、日本は朝鮮経済に対して、これを適用したのである。

ちなみに当時の日本人の土地所有は1割程度なので、総督府の農業保護の恩恵の9割は、朝鮮農民が受けたと言える。また治山治水事業での労働に対しては、作業者に日当が支払われている。これは李朝時代には無かった事である。

■5.開発をささえた資金源は■

こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから出てきたのだろうか。

宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であった。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔も変わりない。それでも足りない分は、日本の金融市場から集めた公債によってまかなわれた。[1,p142]

ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]

朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多くの面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。

しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。

■6.食料危機対応のモデルケース■

北朝鮮が金日成政権から解放されたら、飢餓地獄から北朝鮮国民を救うべく、朝鮮総督府が行った国土開発事業をもう一度、始めからやり直さねばならないだろう。費用の問題は別として、そのモデルは、朝鮮総督府によって示されたと言って良いであろう。

実はこの国土開発の方法は、朝鮮総督府の独創ではなく、我が国江戸時代に、上杉鷹山公(米沢藩藩主)、恩田木工(信州松代藩)、二宮尊徳などが行った農村振興を発展させたものだ。それは西洋的な自然征服ではなく、治山治水を通じて、自然と共生しつつ、農業生産の向上を図るという、優れたエコロジー的発想なのである。

環境破壊による食糧危機は、北朝鮮だけではない。中国の最近の洪水被害も国土破壊の結果であり、いよいよ食料自給が困難になってきている。中国が食料輸入国に転落すれば、現在の国際食料価格が急騰し、アジア、アフリカ、南米などにも飢餓が広まろう。そうした視点から見れば、朝鮮総督府による国土開発事業の世界史的な成功は、貴重なモデルケースとなるはずである。

[参考]
1. 歪められた朝鮮総督府、黄文雄、光文社、H10
2. 「韓国併合」とは何だったのか、中村粲、日本政策研究センタ
ー,H8
3. 日韓2000年の真実、名越二荒之助、国際企画、H9
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Panasonicの自転車すげぇ

検索してたらたまたま出てきた、Panasonicの自転車についてるあれこれ

ガチャリンコってネーミングもすごいが(笑)

いやあ、私のロードにも付けたいくらいだ。



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喫煙率と肺がん2



喫煙と肺がんの関連を示すデータについては、どこのサイトを見ても我田引水の捏造データとしか思えないので、自分で作った。
昔から思っているのだが、たばこの害に関する記述を見ると、
「・・・・・・・・・と推計されます」
とか、いい加減なデータばかりでまったく信用できない。
学会などに発表したからと言って、それが100%真実ってわけでもないだろう。

たばこに含まれる発がん物質と、その数値をあげるのはいいが、ではそれがどの程度健康に悪影響を及ぼすのか、水道水や○○工業地域のA地点、○○道路のB地点と比較してどうなのか、現在問題になっている○○作業に従事する場合との比較はどうかといった点がまったく欠如している。


青・・・肺がんによる10万人あたり志望者数(男)
赤・・・肺がんによる10万人あたり志望者数(女)
緑・・・喫煙率(男)
紫・・・喫煙率(女)

もし私が
「たばこを吸うと肺がんになる!」派閥なら、このデータを持ち出されたら負けである。
例えば、男性については
「やめてもタイムラグがあって、後々原因になりうる」
と言い逃れることは可能かもしれないが、こと女性に至っては、まったく言い訳が通用しない。

たばこが肉体に悪影響をまったく及ぼさないとは言い切れないが、世の中の人々は、垂れ流しされる情報を鵜呑みにすることなく、
「では、肺がんによる死亡率が上がってるのはなぜか」
という切実な問題に目を向けるべきだ。


喫煙率ソース
厚生労働省(国のデータは平成以降のためJTのもの)
http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html

肺がん死亡率ソース
国立がん研究センターがん対策情報センター
http://ganjoho.jp/professional/statistics/statistics.html
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まだまだやるよブルーキー(笑)

今回の実験台は、ドクターマーチンの3ホールブーツ。
黄色いステッチが代名詞で、革部分は磨くけど、ここは今まで手入れしたこともなかった。
今回、ブルーキーとブラシで洗ってみたところ、見事に綺麗に。





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喫煙率と肺がん

「たばこを吸うと肺がんになる」
って言うけどさ、あんまり関係ないんじゃないかね。

「かつて吸っていた人が」
って言っても、この右肩上がり状態ではまったく説得力が無い

まあ、肺がんの原因に直接はならなくとも、どっか健康に悪い部分はあるかもしれないんだけどさ。
実際、誰の言ってることが真実なのかもよくわからない。


平成 喫煙率 肺がん死亡者数 
元 55.3 25,870
2 53.1 26,872
3 50.6 27,968
4 50.1 29,223
5 44.8 30,398
6 43.8 31,724
7 52.7 33,389
8 51.2 35,023
9 52.7 35,700
10 50.8 36,880
11 49.2 37,934
12 47.4 39,053
13 45.9 39,904
14 43.3 41,146
15 46.8 41,634
16 43.3 43,921
17 39.3 45,189
18 39.9 45,941
19 39.4 47,685
20 36.8 48,610
21 38.2 49,035
22 32.2 50,395


ソース
<死亡者数>
国立がん研究センターがん対策情報センター
http://ganjoho.jp/professional/statistics/statistics.html#07


<喫煙率>
厚生労働省
http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd100000.html
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朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。


■1.「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」

 二人の男が自転車で部落にやってきた。「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」という声がした。洋服姿をしているだけで、侮蔑の眼差しを向ける。老人は逃げ、青年たちは嘲りの表情で二人を見た。女たちも戸を閉めて家の中に隠れた。

 自転車を降りた二人のうちの一人は、杖をついてびっこを引きながら歩いている。丸眼鏡に頬髭を生やした特異な風貌である。その歩く様を、子供たちがそっくり真似しながら、はしゃいで、ついてくる。

 大正14(1925)年11月、平壌から東に40キロも入った江東という寒村でのことである。平壌からは1日1回、6人乗りのバスが往復するだけで、電気もなく、夜はランプの暮らしだった。

 びっこを引く男は重松〇修(○は高に昇、まさなお)。江東金融組合の理事である。金融組合とは、日本政府によって各地に作られた小規模の組合で、高利貸しに苦しむ農民を救うために小口低利の貸し出しを行っていた。

 江東金融組合では理事の重松以下、4人の朝鮮人職員がいるだけだった。びっこを引いているのは、前任地で暴徒に襲われ、脚を打ち抜かれるという重傷を負ったからだ。

 重松が訪れたのは、江東の下里(かり)という50戸ほどの部落で、両班(ヤンバン、貴族)の家柄から働くことを軽蔑して、のんびりと長煙管(きせる)を吸いながら、その日その日を過ごすことを誇りとしていた。そんな生活を続けていたので、零落していたが、それでも生活態度を変えようとはしなかった。

 重松は、因習を続けている下里を更正させることで、江東全体の変える模範部落にしようと考えたのである。


■2.養鶏の副業で農民を豊に

 重松は、江東の地に赴任してから、区域内の農民の現状を観察して回った。小作農や小農は凶作だと食べるものもなくなって、高利貸しに金を借りる。借金の返済のために僅かな土地を売り、一家離散したり、都会の浮浪者になる、という有様だった。

 金融組合が「節約して貯蓄を」と勧めても、そもそも貯蓄そのものが不可能な貧窮農家が多かった。そこで重松の考えたのが、養鶏を副業として農民を豊かにする事だった。

 トウモロコシの実をとった残りの黍殻(きびがら)を臼で擂(す)って鶏の餌にする。鶏の糞で田畑を肥やす。その卵を売り、また一部は育てて親鶏を増やす、というアイデアだった。

 こう思いついてから、重松は仕事の傍らで自力で鶏舎を建て、平壌に行って日本人の専門家から飼育の仕方を習い、10羽の白色レグホンと5羽の名古屋種を購入して育て始めた。朝晩は重松が世話をし、昼は妻が手伝う。

 艶々とした真っ白の羽と赤い鶏冠を持った白色レグホンとバラ色をした名古屋種は、鶏舎の中を元気に歩き回り、手のひらで餌を差し出すと、駆け寄ってきて、ついばんだ。

 やがて卵を生み始めると、毎晩、重松は卵が親鶏の羽の下からはみ出していないかチェックする。北朝鮮の冬では、冷えた卵は凍死してしまうからだ。

 養鶏は順調に進み、白色レグホンから生まれ育った若鶏は136羽。こららの生む有精卵を下里の村人たちに無償配布しようというのである。


■3.「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重松は李青年の案内で、立派な門構えの家に入っていった。飼い犬が吠えると、髭をたくわえた老人が出てきた。この村の長老のようだ。李青年は朝鮮式の丁寧な挨拶をした。部落の人も10名近く集まってきた。

 重松は朝鮮語で挨拶し、ここに来た目的を語り始めた。各戸に白色レグホンの有精卵を15個ずつ無料で配布するので、それを育て、とれた卵を供出して貰って共同販売する。卵の代金は据え置き貯金にして、貯まったお金で、豚や牛を買い、土地も買える。

 重光の熱意の籠もった言葉を、村人たちは黙って聞いていたが、はがて口を開いた。

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えば罰があたる」
「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんで、そんなことがあり得るはずがない」
「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重光は底知れぬ頑迷さを感じた。しかし、村人たちの嘲りの裏には、充たされぬ思いが潜んでいるような気がした。

 重松は何も反論せずに、「もっとよく静かにお考えになってください。そのうちまたお邪魔に上がります」と言って、引き揚げた。重松は自転車を押しながら、あの頑迷さを打ち破るには何度も何度も訪問し、誠意で彼らの心に触れ、愛によって彼らの心の底の魂を揺り覚まさなければならない、と考えた。


■4.見たこともない大きな卵

 重松は下里の村に何度も足を運んで、養鶏を勧めた。翌年2月末、一人の老婆が組合事務所に現れて、「卵を欲しい」と言ってきた。重松は急いで舎宅に戻り、有精卵を15個、丁寧に綿で包んで、老婆の持ってきた籠に入れてやった。老婆は見たこともない大きな卵に驚いて「アイゴー・・・」。そして自分のしていた襟巻きを卵に掛けて帰って行った。

 3月になると、重松の配る卵の大きさに驚き、ポツリポツリと下里から種卵を貰いに来る人が出てきた。その中には、かつて重松に毒づいた人たちもいた。

 3月の終わりには、老婆から「13羽、雛が孵(かえ)りましたよ」と伝えてきた。重松は時間ができると、下里に行って、雛の育て方を指導した。8月末までに520個の種卵を配布し、そのうち半分が育った。初年度としては満足すべき結果だった。

 翌春には育った鶏が産卵を始めた。その卵を組合に持ってこさせ、重松とその妻が、日本人校長や署長、朝鮮人の組合長など、比較的余裕のある家に売り歩いた。従来種の値段よりも一割ほど高くしたが、大きさと新鮮さ、それになによりも重松夫妻の志を知っているので、快く買ってくれた。

 それでもさばききれないほど、卵が持ち込まれるようになり、重松は平壌の金融組合連合会本部に販売を頼むと、斉藤清理事長は快く引き受けた。

 重松と部下たちは勤務時間終了後、集まってきた卵を一つ一つ明かりを当てて調べ、合格印を押し、厳重に荷造りして、乗合バスに載せて貰う。

 そうして届いた卵を、斉藤理事長は何個か背広のポケットに入れ、近所の銀行や会社などに出かけて、「この卵を買わないか。大きくて美味いよ。食堂で使うといい」と売って歩いた。相手は、顔見知りの経営者である。販売先は次々に決まっていった。ただ、時々、ポケットの中の卵が割れて、困ったこともあった。


■5.未亡人の借金返済

 下里で若くして夫を亡くした夫人がいた。二人の小さな子供を抱えており、組合にも37円の借金をして、途方に暮れていた。亡くなった夫は、立派なレグホンを育てていて、重松も一目置いていた人物だった。

 重松の部下は「土地がわずかばかりありますから、差し押さえをすれば、組合に損失はないですよ」と言った。それが当時の朝鮮社会の常識だった。

 重松は「そんな冷酷なことはできないよ。一度、会ってみて、話をしてみよう」と言った。しばらくして、夫人が組合にやってきて鶏卵を届け、その後で重松の前に来た。4歳の長男を抱えている。

「ご主人が亡くなられてお気の毒です」と重松から話しかけた。「ありがとうございます。その主人の病気や葬儀などもあって、借りていたお金を返したいのですが、どうにもしようがないのです」とやつれた顔で答えた。

「ここにあなたの養鶏貯金が4円55銭あります。滞貨しているあなたに払い戻しはできません。しかしあなたが豚を飼って一生懸命働いて債務を返す覚悟がおありでしたら、払い戻しを特別に認めたいと思います」

 土地を取られるものと思っていた所に、思いがけない言葉をかけられて、彼女の目は輝いた。そして4円だけ引き出し、市で子豚を買って帰った。その後も婦人は卵を組合に持ち込み続けた。重松は顔を合わせるたびに、激励の言葉をかけた。

 それから7ヶ月後、育てた豚を32円で売り、それと養鶏貯金のお金で、37円の貸付金と利子をきれいに払った。重松には何度も頭を下げて、礼を言った。

「理事さんのおかげで土地も売らず夫の債務を払うことができました。これから先も豚や鶏を飼って貯金し、子供を学校に行かせるつもりです。本当にありがとうございました」と、涙をこぼさんばかりに喜んでいた。


■6.「鶏が医生を生んだ」

 37歳の貧しい小作人がいた。妻と3人の幼い男の子を抱え、二間しかない草葺きの小屋に住んでいた。しかし重松の指導どおりに鶏を飼い、どしどし卵を組合に持ってきた。やがて養鶏貯金は27円75銭になり、もうすぐ牛を買える額に近づいた頃、重松に手紙を出した。

__________
 ・・・私は理事様の公益を広く施そうという高義に副(そ)いたいと思います。私は来る4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心いたしました。

その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したく思います。理事様にこのことをご了承いただければ、小生はそのご恩は永久に忘れません。[1,p157]
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 重松は驚くとともに、感激した。改めて調べてみると、医者にかかれない貧しい人のために医生になろうと、毎晩、漢方医の本で独学していたという。

 平壌での一年の苦学の末、総督府より医生の免許が交付された。重松からの手紙でこの事を知った京城日報社長の松岡正男は感激して、その手紙を新聞に4段抜きで紹介した。そこでは「部落では、鶏が医生を生んだなどと喜んでおります」と重松は喜びを語った。


■7.「軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」

 昭和5(1930)年の春、重松が平壌に出てきた際に、斉藤理事長に第77聯隊に連れて行かれた。重松の説明を受けた白石聯隊長は「朝鮮の農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と語った。聯隊との間で月7千個もの卵を収める契約が交わされた。

 ある時、軍事演習に合わせて、2千個もの大量注文が電報でもたらされた。重松は組合の在庫を調べたが、その半分もない。考えた末に、重松は近くの小学校の菅校長を訪ねた。

 菅校長は50歳近くになって、教育者としての最後の舞台を朝鮮人少年少女の教育に捧げようとやってきた人物である。そして雛を育てることが少年少女の情操教育にもつながると、生徒の家庭でも養鶏貯金を奨励していたのである。

 重松は、菅校長に事情を話し、朝礼の時間に全校生徒に各家庭での卵をあるだけ持ってくるように伝えてくれないか、と頼んだ。菅校長は「いいですとも、さっそくやりましょう」と快諾した。こうして4百人の生徒が、めいめいの家庭から卵を持ち込み、軽く2千個が集まって、演習地に送られた。

 軍関係では、さらに航空隊、高射砲隊、病院などが江東の卵を買ってくれるようになり、販売数は飛躍的に増加していった。昭和2年の鶏卵の販売数は993個だったが、昭和11年には30万個を軽く超えるようになった。

 それまでに養鶏貯金で購入された牛1千頭、豚2千100頭、土地2万5千坪、さらに進学資金、結婚資金、家の建て替えなどに使われ、江東農民の生活は格段に向上した。また江東の成功を見て、同様に養鶏を始める地方が数多く現れた。


■8.「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」

 副業としての養鶏が軌道に乗ると、重松はさらに女性たちにハングルを教えたり、村人が集まって将来を論じあうための集会所を建てることを提案した。それを受けて、村人たちは朝一時間、早起きして、自力で会堂を作り上げた。こうした作業が勤勉と共同の精神を育てていった。

 昭和11(1936)年2月11日の紀元節、3番目の模範部落であった芝里が一番の更正部落として、知事から表彰された。芝里は歓喜の渦に包まれ、重松の喜びも一入(ひとしお)であった。

 3月の終わり、芝里の代表たちが組合にやってきて、重松に次の日曜日に部落に来てくれ、と頼んだ。「なにがあるんです?」と聞くと、「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」という。重松は呆然としたが、もう碑は出来ているのだから、行くしかなかった。

 昭和13(1938)年6月、重松に転勤命令が出た。江東での実績が高く評価され、京城の金融組合聯合会本部で、後輩の育成をせよとの辞令である。遠方からも組合員たちが押しかけ、名残を惜しんで送別会を開いてくれた。長老の一人は「理事さん、家族の食べる分はわしらが出すから、残ってくれ」と泣き声で言った。

 その後、重松は金融組合の教育部長などを努めて、後輩の育成に邁進した。戦争が終わると、朝鮮総督府関係の有力者として逮捕状が出たが、養鶏で学資を得て出世した人物たちが、密かに手配して重松を日本に脱出させることに成功した。

(文責:伊勢雅臣)
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連休のサイクルトレーニングとか

○15日(土)
久しぶりにORBEAで長距離を走った。
以前よりサドルを結構上げたこともあり、うーん、ケツが痛い。

先日まで乗っていたTREKのサドルは、SELLE SMP (セラ エスエムピー) シリーズで、先月90km走ったときでもまったく痛いとは感じなかった。

ORBEAのは、VELO COMPETITIONのジェル入りなんだが、ジェルの入っていないSELLEのほうがよほど柔らかい。
やはり、真ん中が大きくあいているデザインはいいんだろうか。
で、痛みに耐えかね15kmほどで挫折。往復30km少々で終了。


○16日(日)
行こう行こうと思いながら雨が心配で出られず。
結局夕方まで降らなかった。ちくしょおぉぉぉぉ!


○17日(月祝)
終日風雨。
夕方ちょろっと5km程度。


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自転車のチェーンオイル汚れ落とし その2

またまたブルーキーで、やってみました。
今度はいわゆる綿パン。綿100%です。
やり方は前回のとおり。


左側裾・洗濯前

左側裾・洗濯後 これはすごい!


右側裾・洗濯前

右側裾・洗濯後 若干残ってますがこれは食べこぼし?


ブルーキーって、昔運動靴洗ってたときはすごさを感じなかったけど、改めてまじめにやってみると、結構すごい。
いや、いい経験でした。




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ブルーキーでブレーキオイル汚れは落ちるのか

自転車乗りにとって、オイルによる衣服の汚れは宿命とも言える。
何しろ、ちょっと移動させているときにコンと体にあたれば、そこにはチェーン模様の黒い汚れが・・・・・・。

これまで灯油を使っていたが、使用後に水で入念に洗わないとニオイが移るので、洗濯機に安易に放り込めないという不都合もあり、恒久的に使えるものはないかと、汚れ落としの定番ブルーキーを使ってみた。

1)少し生地を湿らせてブルーキー塗る
2)ブラシでゴシゴシ
3)放置した後(今回は24時間)、洗濯機で洗う

結果は、画像のとおり。

いや、すごいです!

今回は化繊だったので、少々固めのコーナーブラシでゴシゴシやりました。
そのときは、綺麗には落ちていなかったのですが、長時間放置が功を奏したのか、かなりいい具合に。
次は、綿パンやってみよ。

注)自己責任でお願いします





(洗濯前)

(洗濯後)


(洗濯前)

(洗濯後)


(ブラシ)
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NO FUN

最近光フレッツ環境に戻ったことにより、youtubeを見ることが多くなっている。

先日、SEX PISTOLSの一連の曲を見ていて、ジョニーロットンが最後のアメリカツアーで言った言葉である
「だまされた気分はどうだい?(Ever Get the Feeling You've Been Cheated?)」
を思い出していた。

この言葉には、いろいろな意味合いが込められていたと思う。
すでにこの時期、内部では解散の方向がほぼ決まっていたにもかかわらず、ツアーをやっていたのであった。
1977年のことである。

時は流れ、1990年。
第2次UWFは、12月の長野大会で全選手がリングに勢揃いして万歳三唱し、一致団結しているかに見えた。
しかしながら、その後ほどなくして3つの団体に分裂した。

ひとつの物事が終わる手前というものは、いつも壮絶で儚い。



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Yahooメール ベータ版を元に戻す方法 2012

手順1) 右側少し上の「設定・その他」をクリック

手順2) 「正式版に戻す」をクリック

手順3) 確認メッセージが出るので左側をクリック

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ネットで探したら古い情報しかなかったので。

しっかし、マジでクソだねこのβ版。

メーラー意識してんだと思うけど、広告とかで画面の3分の1は占めてるのに、メッセージとその内容を表示はどう考えても無理。

アドレスも勝手に色々やるんで、入力すらできない欠陥品。

前々から何度も言ってるけど、どうしてこいつらは改悪ばかりしたがるのか?!
MSNのHOTMAILもそうだけど、ひとつも便利になってないもんな。




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高知FDナイター どうなってんだろ



現在18:35。
れ? ナイターの照明ついてるけど、さっきまでゲリラ豪雨だったから、もう無理だよな。

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GPBLクッション



先日、GPBL(日本女子プロ野球リーグ)のエキジビションマッチを観に行った折に、某球団幹部に無理矢理買わさ・・・・・・・・・、いや、自分の意志で買ったもの。

折りたたみ式なので、まだ型が残ってますが、実際は円形。

個人的に球場ではクッションなくてもいい派なんだけど、買った以上は使い道を考えなくては。

けど、屋外だとどっか行ってる間に飛んでいきそうで心配。





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職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話

 ソ連軍の迫る中で、9人の乙女は電話交換手として最後まで職務を果たそうと、決心した。


■1.「町民のために最後まで責任を全うしてくれた」

 先の東日本大震災の際に、宮城県南三陸町で、身を顧みずに、防災対策庁舎から「6mの津波が来ます。避難して下さい」と放送し、多くの町民を助けた女性がいた。防災放送の担当職員の遠藤未希さん(24)だ。

 未希さんが放送をした3階建ての防災庁舎は、津波に呑まれ、赤い鉄筋だけが残された。放送は途中で切れ、最後の方は声が震えていたという。

 避難所に逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。[1]

 遠藤未希さんの行為は、多くの人々に、終戦時、ソ連侵攻下の樺太・真岡で電話交換手として最後まで職場を護って殉職した9人の乙女の物語を思い起こさせた。


■2.「戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」

 あの朝、昭和20(1945)年8月20日の午前6時頃、樺太南西部の港湾都市・真岡は深い霧に覆われていた。

 5日前に終戦の詔勅が発せられ、港にはソ連軍の侵攻の前に婦女子を北海道に避難させるための船がぎっしり並んでいた。それらの船には北部から逃げてきた女性と子供がすでに乗っていたが、さらに乗り込もうと、リュックをかついだ人々が、霧の中を港へと坂道を降りて行く。

 そこに、黒っぽい、一見してソ連艦船とわかる大きい軍艦2隻と、駆逐艦ほどの船2隻が湾内に入ってきた。真岡郵便局の上田豊局長は、すでに真岡北方の監視哨から「ソ連軍艦らしいのが、4、5隻、真岡に向かった」と連絡があった、との報告を電話交換室監督の高石ミキさんから受けていた。

 敵艦の甲板にはぎっしり兵隊が並んでいたが、敵前上陸のような緊迫感は感じられず、上田局長は「ああ、何ごともなくすみそうだ。戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」と思った。

 しかし、その1、2分後に、大地を揺るがせるような砲声が轟き、追いかけるように、機銃がいっせいに火を吹いた。それまで道ばたに立って珍しげに港湾を見下ろしていた市民が、撃たれて倒れるもの、あわてて身を伏せるものもふくめてバタバタと、将棋倒しに倒れるのが見えた。


■3.「崇高な使命感」

 その4日前の8月16日、上田局長は豊原逓信局から、女子職員を緊急疎開させるよう指示を受けていた。局長はすぐに女子職員全員を集めて、その旨を申し渡した。

 ところが、電話担当の大山一男主事が「全員が引き上げに応じない。そして局にとどまることを血書嘆願するといって、準備をしているようです」と報告してきた。

 上田局長は直ちに女子職員を集め、ソ連軍が進駐したのちに予想される事態を語り、説得した。ソ連兵が占領した地で、略奪暴行を繰り返すことは、よく知られていたであろう。

 しかし、女子職員全員が「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかった。確かに、ソ連軍が迫る中で、一人でも多くの住民を安全に引き揚げさせるためにも、電話は欠かせない手段であった。

 上田局長は感動したが、その決意を是認することはできなかった。引き揚げ船を確保し、それが真岡に入港したら、命令で乗船させようと決意した。しかし、その前にソ連艦船が来てしまったのだ。

 上田局長は後に回想文に、次のように書いている。

__________
 あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一カ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか、その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命感以外にない。[2,p329]
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「他人の命令」云々というのは、戦後、彼女らが軍の命令で職場に残された、というデマが流されていたことに対する当事者として反論である。


■4.親への最後の甘え

「かあさん、これ私の形見。預かっておいてね」 そう言って、電話交換手の一人、可香谷シゲさんは、母親のあささんに白い布包みを差し出した。貯金通帳、写真のほか、シゲさんが日ごろ大切にしていた品々が入っていた。ソ連軍侵攻の前日、19日朝のことである。

「どうしたの、急に・・・」と、あささんが、けげんな顔をすると、「ううん、なんでもないの・・・」と言って、シゲさんは防空頭巾を背にくくりつけると飛び出していった。

 この日は沖合に白波が立ち、北の奥地から二艘のハシケで避難してきた人たちが、真岡で下船して第一国民学校に仮泊するために坂道をあえぎながら登っていた。

 夕方、シゲさんから電話がかかってきた。「おかあさん。晩ご飯のおかずがないの。なにかあったら持ってきてよ」

「ああいいとも。おとうさんがあとでタバコを買いに行くというから、何か持っていってもらうから」

 娘のなんの屈託もない声にほっとする思いで、あささんは受話器をおいた。ところが、急に深い霧が湧き起こり、日が暮れるとソ連の空襲に備えて灯火管制をしている町は一寸先も見えない闇となり、おかずを届けることはできなかった。

__________
 いまになると、あれがシゲの最後の願いであったわけで、それを聞いてやれなかったことを思うと・・・。死を思いつめていた娘は、最後に親に甘えてみたかったのでしょうね。かわいそうなことを・・・[2,p334]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 後に、あささんは、こう語って声をつまらせた。


■5.「武ちゃん、もう会えないかもしれない」

 同じく19日、交換手の一人・吉田八重子さんの家では、翌朝の船で北海道に疎開する予定で、荷造りを進めていた。しかし職場に残る八重子さん一人を残していくことに、家族は気が重かった。

 母親は、八重子さんの大好きなおはぎを作った。中学3年の弟・武さんがそれを八重子さんが働いている郵便局に届けた。すでに辺りは暗くなりかけていた。

 局の階段を上って、交換室の戸を開けると、八重子さんは入り口に背を向けて交換台についていたが、戸の開いた音に気がついて、振り返ると、そこに弟がいるのを見て、近づいてきた。

「ねえさん。これ、おはぎだ。荷造りも終わったし、かあさんが最後のご馳走に、ねえさんの好物をつくったんだ」と、重い包みを差し出した。

「ありがとう。武ちゃん、こんなに。重たかったでしょう」

 弟に礼をいって包みを受け取ると、ちょっと間をおいてから、低い声で「武ちゃん、もう会えないかもしれない。からだに気をつけて、しっかりやるんですよ」と言って、涙ぐんだ。

「うん、ねえさんもだよ」 死を決した姉の言葉とは知らず、武さんは軽くうなづいて局舎を出た。

 後に、武さんはこう語っている。

__________
 生前の姉たちにあったのは私が最後であったかもしれません。姉のあのあらたまっていったことば以外は、ふだんと変わりない交換室の空気でした。

死ぬとわかっていればむりにでも連れもどしたものをと思うと残念だ、くやしいと思うのですが、死を覚悟しながらふだんと変わらぬ表情、動作であったあの人たちの姿はほんとうに立派なものでした。
 私の届けたおはぎを、みんなで分け合って食べてくれたろうと思う。死出の旅にささやかなご馳走であったが・・・[2, p335]
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■6.「敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・」

 20日早朝、可香谷あささんは、シゲさんからの電話を受けた。それがわが子の最後のことばとなっただけに、あささんは忘れることができない。

__________
 敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・。いちばんよいものを着て、きれいに死んでね。鈴木さん(かづゑさん、JOG注: 付近の友人か)にも知らせて・・・[2,p335]
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 あささんが、付近の家に「シゲからソ連の軍艦が見えるといってきた」とあわてて飛び込んでいった瞬間、頭上にものすごい弾道音がとどろいた。

 真岡の東、内陸部にある清水村逢坂の広瀬郵便局長夫人きみさんは起き抜けに、ゴーゴーという遠鳴りを耳にして、遠雷だと思った。交換手をさらに内陸部の豊原に避難させた後、きみ夫人は一人で交換台についたが、真岡から豊原の師団司令部へ火急を告げる連絡電話を傍受して、遠雷ではなく、敵の艦砲射撃であることを知った。

 真岡局を呼ぶと応答があった。可香谷シゲさんの声だった。しかし、その声は銃砲声にかき消されそうになるほどだった。「外を見る余裕なんかないのよ」 シゲさんの悲痛な声は、いまでもきみ夫人の耳朶(じだ)にこびりついている。

 その頃には、ソ連軍が上陸し、自動小銃や機銃を浴びせながら、市街に侵入していたのであろう。きみ夫人は、その後も断続的に真岡を呼んだが、砲撃で回線が切断されてしまったのか、午前6時半頃には不通になってしまった。


■7.「長くお世話になりました。おたっしゃで・・・」

 真岡の北方にある泊居(とまりおろ)局との回線はつながっており、真岡の各所で火の手があがる様子が伝えられた。銃砲声の中で、弾雨にさらされている9人に危険が刻々と迫っていることが感じられた。

 交換手の一人、渡辺照さんが「今、みんなで自決します」と知らせてきたのは、所弘敏局長の記憶では午前6時半ごろだという。

「みんな死んじゃいけない。絶対、毒をのんではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手ぬぐいでもよい、白い布を入り口に出しておくんだ」

 所局長は受話器を堅く握りしめて、懸命にさけんだ。声だけで相手を説き伏せられないもどかしさ。しまいには涙声で同じ言葉を繰り返した。しかし、その声をひときわ激しさを増した銃砲声が吹き飛ばした。

__________
 高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできたし、もうどうにもなりません。局長さん、みなさん・・・、さようなら、長くお世話になりました。おたっしゃで・・・、さようなら・・・[2,p336]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 所局長も交換手も顔をおおって泣いた。無情にも電話は切れた。誰かが「真岡、真岡、渡辺さん・・・」と叫んだが、応答はなかった。


■8.職務に殉じた乙女たち

 上田局長は郵便局に向かう途中で銃撃を浴びて負傷し、その後、上陸したソ連軍に海岸の倉庫に連行された。倉庫内には血みどろの負傷者がその後も運び込まれたが、何の治療もされず、翌21日朝には局長の周囲にいた重傷者の多くはすでに冷たくなっていた。

 そんな中で、上田局長は「宿直の交換手全員が自決したらしい」と耳にして、「ほんとうか」と聞ききつつも、眼からみるみる涙があふれ、嗚咽が漏れた。

 23日になって、見回りに来たソ連軍将校に、部下局員の遺体を引き取るために局舎に入ることを認めてほしい、と訴えると、将校は「私が連れて行く」と言ってくれた。

 局舎に着き、交換室の戸をあけると、真っ先に目に飛び込んできたのは、監督の机の前に倒れている高石ミキさん(24歳)の遺体だった。机の上には、その日の交換証のつづりと事務日誌がきちんと重ねられて、そのわきに睡眠薬の空き箱が二つ転がっていた。

 吉田八重子さん(21歳)はブレスト(交換手用のヘッドセット)をつけ、交換台にプラグを握ったまま、うつ伏せになっていた。

 隣の渡辺照さん(17歳)も同じくブレストをつけ、コードを握って、横倒しになった椅子の上に、おおいかぶさるように亡くなっていた。二人とも、薬物を飲んで、薄れ行く意識の中で、最後の瞬間まで、交換台で仕事をしていたのだろう。

 他の乙女たちは部屋の真ん中で、肩を寄せ合うように倒れていた。室内は、いつものように整然ととしていた。しかし、交換台には、5、6発の弾痕があった。

 上田局長は膝まづいて慟哭した。同行したソ連将校も、静かに胸元で十字を切って瞑目した。職務に殉じた乙女たちを見たとき、そこには敵味方も、人種の差もなく、人間としての崇敬の気持ちがあるだけだ、と上田さんは思った。

(文責:伊勢雅臣)
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サイクルグローブ発見



行方不明で苦労したんだが、弁当箱を買い換えたため、最近使ってない、あべちゃんのお弁当袋に入ってた。
両方洗濯した後、何も考えずにポイと入れたままだったらしい。
結構探したけど、これは無理っす。

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クロネコメンバーズ

なんかヤマト運輸から荷物来てますよみたいなメールが来て、
「早速登録したから機能したのか?」
と思って、荷物番号検索したら「西東京物流システム支店」経由と出ていて、まったく身に覚えが無くて
「えー、なんだろー、こえーよ」
と思ってたら、クロネコメンバーズの所在確認通知だった。

到着して免許証見せてって手順を踏むことにより、ちゃんと登録住所に住んでるかどうかって確認なんだね。

サービス充実の方策として、今から営業所持込って時に、自宅でコピペで住所打って、営業所へ行ったらすぐに送り状出してペタッみたいなことやってほしいんだがなあ。
一度、端末でやれって言われてやったけど、あれは時間かかるわ。




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今日のヒルクラ

上町〜神田〜治国谷(神田トンネル)〜春野運動公園前〜諸木郵便局〜花街道〜高知競馬場〜内の谷交差点

ここで1時間経過。

このまま鷲尾トンネルを越えれば1時間半もかからず終了なので、
「このルートを戻れば、2時間だな」
ということで、元来た道を折り返し。

7,8月に比べれば、汗のかきかたは激減。
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エレッセ 度入りサングラス ES-S101 ロードバイク編その2



先日購入した度入りサングラスエレッセのES-S101を今日は試してみた。


今日は、ロードバイクで「上町〜鷲尾トンネル越え〜春野運動公園前〜神田トンネル越え〜上町」と軽めの峠2つ。
途中ちょっと回り道して、16km程度で約50分。
あっという間だ。

今日は5種類あるサングラスレンズのうち、「偏光スモーク」を使用。
可視光線透過率は、18%。
曇り空で薄日がさす程度で、外ではまあOKだったが、比較的照明が少ない鷲尾トンネルではさすがに暗かった。
跳ね上げ式ではないので、車道が狭く、安全のためこちらも広いとはいえない自転車道を通るこのトンネルではスピードダウンせざるを得ない。
大会時なら、通常車道を通るのでまだましかも。

インナーレンズのはめ込むところがやわいので大丈夫かと思ったが、はずれるような雰囲気は無し。
目のすぐ前の見え方は、サングラスレンズと二重なので、1枚モノと同じとはいかないが、まあ許容範囲。

通常のめがねは汗などでずれおちて来て、前傾姿勢になるとフレーム上部の切れ目に視線が行ってしまい、何度もめがね位置を上げなければならないが、スポーツ用を標榜しているだけあって、上部への視界(上目遣いするとき)はすごくよく、まったくと言っていいほどズレ落ちはない。
逆に、下部はがら空きだが、これによる支障はない。

特に耳も痛くないし、ずれることはないし、全体的には及第点。

大会や長距離に行くなら、小さなパッケージ入りのレンズ拭きは持っていくべきだろう。
普通のめがねでもいるんだけど、レンズ4枚だからなおさら。
結構目から度入りレンズまで近いんで、接触しがちだし。



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