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木村摂津守とサンフランシスコの人々(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。




 咸臨丸でやってきた木村摂津守の礼節・謙譲あふれる言動はサンフランシスコの人々に感銘を与えた。


■1.咸臨丸、サンフランシスコ到着

 安政7(1860)年2月26日、咸臨丸が37日間の太平洋横断を無事に終えて、サンフランシスコ湾に入った。船から眺めると、東洋の神秘の国・日本から初めてやってきた船を一目見ようと集まった群衆がアリのように見える。

 2年前の安政5(1858)年6月19日、品川沖のアメリカ軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約が調印されたが、その際に日本側は、条約の批准書交換をワシントンで行うことを提案した。そして正使はポーハタン号で送り迎えして貰う事になったのだが、副使は日本で別の船を仕立てて送り出すことにした。それが咸臨丸だった。

 日本側としては、調印を日本でやったのだから、批准書交換はアメリカで、それも副使用とはいえ独自の船を出す、という形で対等の独立国としての対面を保とうとしたのだった。現代日本とはまったく違った「武士の面目」を、当時の日本は持っていた。


■2.「いきなり太平洋横断ができるわけがない」

 咸臨丸派遣には、もうひとつ重要な狙いがあった。独立維持のため強力な海軍を育てようと、幕府は安政2(1855)年に長崎海軍伝習所を作り、オランダ人教官を招いて乗員養成に努めていたが、航海練習は日本近海での経験しかなかった。そこで、この米国への使節派遣という絶好の機会を捉えて、外洋航海の経験を積もうとしたのである。

 しかし、当時はアメリカ軍艦でも太平洋を横断するのは難事であった。ペリーの黒船艦隊にしても、大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て、日本にやってきていたのである。このコースなら、相当部分を港を伝いながら陸地沿いに進める。

 太平洋横断は米商船が年に1、2回行っているだけで、軍艦の航行はほとんどなかった。日本近海しか航行したことのない日本軍艦がいきなり太平洋横断を目指すのは、無謀ともいえる企てだった。

 米国への日本船派遣は、海軍創設に尽くしてきた軍艦奉行・水野忠徳ら開明派官僚たちが提案したのだが、老中側は、伝習わずか3年も経たない未熟な腕で、いきなり太平洋横断ができるわけがない、と一度は却下された。

 それを水野らは「できる」と強引に押し切って、正式決定に持ち込んだのだった。日本国の名誉だけではなく、日本海軍の将来がこの太平洋横断にかかっていた。


■3.起死回生のラスト・ホープ

 咸臨丸に乗り組む副使として任命されたのが、水野の後任として軍艦奉行に任じられた木村摂津守(せっつのかみ)良毅(よしたけ)であった。木村家は旗本の家柄ながら、将軍の命により、砂糖や朝鮮人参の栽培・販売などに代々、功績があり、そこで育った良毅は農民や商人、職人たちとも交わり、広い視野を養っていたようだ。

 また、当時は30歳にも届かない青年であったが、長崎海軍伝習所の取締も3年間、勤めていた。当時、反動派の井伊直弼(なおすけ)が大老となり、開明派官僚を次々と左遷・追放し、また長崎海軍伝習所も閉鎖したが、木村は家柄の良さと温厚な人柄のゆえか、その反動の嵐には巻き込まれていなかった。

 咸臨丸の太平洋横断は、虫の息となっていた日本海軍の起死回生のチャンスであり、それを任された木村こそ海軍育成を志す人々のラスト・ホープであった。

 軍艦奉行を命ぜられる準備段階として、その2ヶ月前に任じられた「軍艦奉行並」の格は高くなかったが、木村は「海軍の事は当今国家の最大急務にして、余は初めより専心是事に微力を尽くさんとの素志にあれば、毫(ごう)も不足を感ぜず」と言い切っている。

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■4.木村の判断

 木村がもっとも苦心したのは、乗組員の選定であった。海軍伝習所の教監・勝安芳(海舟)を艦長とし、優秀な伝習生を選ぶことは当然の処置であった。しかし、木村は、同時に老中を通じてアメリカ公使ハリスに適当な案内者を依頼した。本格的な外洋航海を通じて人員を育てるには、良き指導者がいるとも考えたのだろう。

 ハリスは海軍大尉ジョン・マーサ−・ブルックを推薦してきた。ブルックは15歳で米海軍に入り、当時33歳のベテラン士官であるばかりでなく、太平洋を2回も横断した米海軍随一の経験者だった。木村と勝はブルックを面接して、その人物、技量を見込んだ。

 ブルック大尉はベテラン水兵を中心に10人を引き連れて咸臨丸に乗り込むことになった。日本人だけで航海を、と意気込んでいた乗組員たちは、当初、余計なお世話と反発していた。

 しかし、咸臨丸が太平洋に乗り出した途端に、ブルック自身が「こんな時化(しけ)には会ったことがない」というほどの暴風雨に襲われた時も、彼は冷静に指揮を執り、ベテラン水兵達が真っ暗闇の荒海でも平気でマストに上り、風向きや波のうねりを見て舵をとった。

 さらに米人水兵がルールを破って、飲料水を洗濯に使っていたのを見とがめた日本人乗組員たちに、ブルックは「これは共同の敵だから、即刻銃殺してくれ」と言った。その謹厳な姿勢に、日本人乗組員は感激して、以後、ブルックの言に従うようになった。

 また、木村は、通訳として中浜万次郎を連れて行くことで、老中の許可を得た。万次郎は土佐の漁師だったが、漂流していた所をアメリカの捕鯨船に救われ、そのまま米国で航海士としての教育を受け、アメリカの捕鯨船の副船長にまでなって、3年間も世界の海を航海した経験を持つ。[a]

 万次郎はブルックとも友情を結び、日本人乗員たちとの良き仲介役となった。この二人がいなければ、咸臨丸は暴風雨の中で太平洋の藻屑として消え去ったかも知れない。あるいは、帰りにはブルックたちを下ろして、今度は本当に日本人だけで太平洋を横断したのだが、それほどの技術習得もできなかっただろう。

 咸臨丸の乗員が、その後の日本海軍の中心的役割を担っていった事を考えれば、木村の判断が日本海軍の未来を救ったと言える。

 もう一つ、木村が優れた人物眼を示したのは、福沢諭吉を乗せたことである。福沢が見ず知らずの木村に会って、従者として連れて行って欲しい、と頼むと、木村はその場で快諾した。福沢の人となりを見抜いたのだろう。福沢はこの渡米経験から、後の文明開化のリーダーとして成長していく。[b]

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■5.金の工面

 人員と並んで木村が出航前に苦心したのは、金の工面であった。米国が船を出して使節を送り迎えしてくれるのに、なぜ巨額の費用を使って副使のために別の船を出す必要があるのか、という反対が勘定所を中心にくすぶっていた。

 その一方で、士官たちは3、4年も長崎海軍伝習所で航海術を学んで腕を上げていても、俸禄は入所の時と変わっていない。その不満を良く知っていた木村は俸禄の増額を請願したが、毫も顧みられなかった。

 やむなく木村は、水夫や火焚きも含めて乗員への恩賞と、米国滞在中に日本武士の面目を保つだけの費用を自分で用意することとした。家財道具を処分して3千両を作り、さらに幕府から500両を借りた。100両あれば、土地付きの屋敷が買えた時代である。現在価値で言えば、二桁の億という所だろう。

 木村はこの金で、士官や水夫に何度も恩賞を与えたり、サンフランシスコで土産物を買う費用を与えたりした。米国の水兵たちにも十分な謝礼を与えた。帰国した時には、自前で用意した費用はすべて使い切っていた。

 幕府からは、別途、邦貨とドル貨が支給されたが、食料品などの経費を切り詰めて、受取額の2割以下しか使っておらず、帰国後に大半を返納している。しかも返納5770両1分31文4分などと、きめ細かく計算している。木村の律儀な性格が窺われる。


■6.「一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物」

 出航前の様々な難題を乗り越え、太平洋で何日も続いた暴風雨・荒波を切り抜けて、ようやくたどり着いた咸臨丸を、サンフランシスコ市民は大いに歓迎した。一つにはアメリカが開国させた日本からの最初の使節を受け入れる、という事は、自分が育てた生徒が成長したという満足感を与えたからだろう。

 もう一つは、東部からサンフランシスコに至る大陸横断鉄道がもうすぐ完成し、ここからさらに日本を結ぶ太平洋横断航路が開ければ、同市はアメリカの東洋進出の中心的拠点になる、という期待もあった。

 咸臨丸が錨を降ろすと、ただちに新聞記者たちが取材に押しかけてきた。「デーリー・アルタ・カリフォルニア」紙はこう報じた。

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 彼(木村)は、一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で、四十前後と見受けられた。(髷や衣装を整えた後)やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度で現れた。[1,p101]
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 日本人は欧米人からは年より若く見られるのが普通だが、木村が反対に10歳も年長に見られたのは、その落ち着いた物腰からであろう。記者たちは咸臨丸を隅々まで見て回り、ブルック等から航海中の様子を聞いて、精しく記事にした。

 艦内は「清潔で秩序正しくゆきとどいていた」。水夫たちも「サンフランシスコの支那人より、はるかに教養が高いように思われた」などと報じている。[2,p265]


■7.「こんどは大統領の名前を先に」

 3月2日、サンフランシスコ市の正式の歓迎会が催された。当直を除く全員が招待され、市庁を訪れると、17発の祝砲が街を震わせ、周囲の建物の窓ガラスがみな割れるという騒ぎだった。

 会場では市の幹部や士官たちと握手したが、室外にも大勢の人がいたので、木村はその人々とも握手させて欲しいと提案して、その後30分も握手が続いた。人々が日本刀と絹の着物に強い好奇心を抱いていたので、握手することでこれらを間近に見せたのである。

 次に一行はホテルでの宴席に案内された。ご馳走の山を前に差しつ差されつの賑わいが続いた。頃合いを見計らって、市長が立ち、乾杯の音頭をとった。日本の皇帝と米国大統領、そして日本の提督すなわち木村のためと、3度乾杯した。次に木村が立ち、万次郎の通訳で、提案した。

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 今、日本の皇帝のために乾杯していただいたが、その名前が米国大統領の前にあった。こんどは大統領の名前を先に、米国大統領と日本皇帝のために乾杯していただきたい。[1,p105]
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 当然、大歓声が起こったに違いない。神秘の国・日本から来た客人が、これほどアメリカ人の心をくすぐるような機転を利かせたことを、市民たちは驚きと喜びをもって迎えただろう。


■8.国際派日本人の先駆け

 翌日、咸臨丸は船体修理のため、サンフランシスコの北東40キロほどにあるメア・アイランド海軍造船所へ移った。米側はここでマスト2本の取り替え、帆の新調、ペンキ塗り替えなどの大がかりな補修作業をわずか2ヶ月足らずでやってくれた。

 修理が終わって、木村は費用を払いたいと申し出たが、造船所のカニンガム長官は、咸臨丸がはるばる米国まで来てくれた事に対する米国大統領のお礼の気持ちとして、米側が負担するという。結局、サンフランシスコの消防士や船員の未亡人団体に2万5千ドルを寄付する、ということで、ようやく話は落ち着いた。

 この修理の最中に、幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号がサンフランシスコに着き、咸臨丸を追ってメア・アイランドまでやってきた。米側が正使一行を迎えて、サンフランシスコで盛大な歓迎会をすると言うので、木村は正使たちとともに便船で市内に向かった。

 それを見送るポーハタン号の放った礼砲で、たまたま岸壁を通りかかったカニンガム長官が顔面に火傷を負った。サンフランシスコに着いた後、電信でこの事を知った木村は直ちにメア・アイランドに引き返した。

 歓迎会はそのまま開催されたが、人々は木村の姿が見えないのを不審に思った。そこでブルックが、カニンガム長官の負傷を気遣って、木村が傍を離れられないために欠席した、と告げると、会場から大喝采が起こった。ここでも木村の振る舞いはアメリカ人に感銘を与えたのである。

 日本文学者ドナルド・キーンは次のように語っている。

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 咸臨丸が浦賀湾に投錨したのは5月5日であった。長い航海もついに終わったのである。そしてそのことは、今や日本人が船を操って太平洋を横断出来る、という事実を、立派に証明した。

 しかし、おそらくこちらのほうがもっと大事なのだが、2百余年にものぼる鎖国のあとにも、木村のような日本人が存在し得た事実をも、それは証明したのである。すなわち外国の土地で、外国人に交じって、日本人としての自己を失わずに易々と、しかも相手に感銘を与えながら振る舞うことの出来た日本人のいたことである。[2,p281]
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 江戸時代に日本は世界最高水準の教育[c]と礼節と思いやりに満ちた社会[d,e]を築いていた。その日本文明の粋を身につけていた木村は、そのまま米国でも尊敬される人物として通用したのである。木村摂津守良毅こそ国際派日本人の先駆けの一人であろう。

(文責:伊勢雅臣)
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