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気づかない人。

先日、サドルの調節をして、多少下ハンが持ちやすくなったエフデジ号。

しかしながら、完璧じゃなくて、何より下ハン時にブレーキが握りにくいという点でまだ改善の余地がある感じだった。

先日午前午後二回乗った日、午前中はコルナ号に久しぶりに乗ったのだが、部屋の奥から引っ張り出した機会に、両車のサイズ計測をもう一度行ってみた。

サドル前側先からブラケットを持ったとき、親指と人差し指の間があたる位置までの距離は2台とも変わらず。
しかしながら、ドロップハンドルのエンドキャップまでの距離が数センチ違う。
「ハンドルの形状のせい?」
とも思ったが、両車ともロードバイク乗り初めからこだわっているアナトミックシャローで、リーチもドロップも見た目はほぼ同じ。

で、この差の原因はと言うと、自転車を正面から見たとき、取り付けたハンドルのステムのすきま部分から、メーカーのロゴとか上下左右調整の目安になるようなものが印刷されているのが見えるが、こいつがかなりな感じで上向き(汗)
購入後一度もハンドルの取り付け部分はさわってない。
一応自転車店で買ったので、こんな凡ミス(?)は想像すらしなかった。

ハンドルに刻まれている左右に引かれた線が、正面から見たときに地面と平行になるように調整して解決。
やっと普通の感じにたどりついたが、まだわずかにブレーキレバーがコルナ号より遠い。
この機種はレバーが手前に来るよう調整可能なので、いずれショップに点検に出す際にお願いしてみようと思う。


<以前の状態>


<修正後>

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今日のヒルポタ20200831

普段なら夏休み最後の日で、ユウウツになる児童生徒も多い日だが、今年はちょっと趣が違う。
大人の私でさえ、この行動が制限されている状況にちょっとうつうつとし始めているので、子どもたちはもっと大変だろう。
早く普通の日々が戻ってくるのを祈るばかりである。


午前中に二か月に一度の通院を終え、時間をずらそうか迷ったが正午過ぎに出発。

風もずいぶん涼しい感じだったので、今日は余裕かと思っていたが、やはりそこは「運動原則禁止」の通知が来るだけあって、坂を上り始めると相変わらずのキツさ。

最近の例のとおり大日神社前まででギブ。
平地ならいくらでも走れる感じなんだけどなあ。


<暑いので日陰から>


<平日の太公望たち>


<今日の100円>

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3.11




不謹慎かもしれないが、「現実にあったドラマのような世界」というのがこの本の第一印象。
3.11から最近までの同地の消防署員たちの行動や心情を克明に追った記録の書。

震災当日、私はものすごく急ぎの書類の作成に追われていて、仕事場のテレビで、何か台風で水かさが増した川のような映像が流れていたのは目にしたが、それどころではない状況だった。
帰宅後から土日の間、テレビにくぎ付けになり、現実とは思えずぼう然とした自分がいると同時に、起きたことの重大さを少しずつ分かっていった。

震災の中心地である東日本と私の住む西日本とは距離が遠いこともあり、例えば関東地方に在住の人々と比べたら、確かに現実的な生活面でのかかわり方は小さいと言わざるを得ない。
しかしながら、その後情報として得た多くのことから、絆という言葉に代表される助け合いや、家族のあり方などを考えさせられた人は、居住する場所に関係なく本当に多かったことと思う。

地震発生から数年後に、私も被災地の一つである陸前眦弔帽圓辰董復興途中の現地をこの目で見て、またいろいろな話を伺った。
今回、本書を読んだことによって、私の中での東日本大震災に関する知識が大きく厚みを増したのは間違いない。
本書に登場された皆さんに、感謝を申し上げるとともに、エールを送りたい。



ちなみに周囲に人がいる状況では読まないほうが賢明。

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今日のヒルポタ20200829(2)


宇佐での食事会に向けて、午後3時に高知市内を出発。
ルートは坂を登れてかつ車の量もそこそこの治国谷ルートで。
いつもはもう少し早い時間に出ることもあり、朝方と比べても、気温も低く風も涼しく物足りない感じ(どこまでマゾやねん)。

一時間ほどで宇佐についた後、食事会(私にとっては飲み会か)の準備ができるまで、少々時間調整で港付近を軽く流した。
もう午後4時を過ぎてはいたが、釣り人たちは、裸に近いか肌が出ないように完全防備のいずれか。
十年ほど前、よさこい祭りの手伝いをした際、次の出番までの待機中に
「八月中旬は、夕方4時でもこの陽射しなのか」
と驚いた記憶がある。

夕方の浜辺で泳ぐ子供たちを見て、私が子供の頃、早く泳ぎに行こうと母にせがんでも夕方近くにならないと連れて行ってくれなかったことを思い出した。
今日のような日に、もう1〜2時間早く出発したときの状況を考えると、その意味が今はよく分かる。


<午後はエフデジ号>


<海と雲>


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今日のヒルポタ20200829(1)

中一週空いて、二週間ぶりに自転車に乗ることができた。

昨日おとといと、日中エアコンの効いた室内からさわやかな天気を見て、何度も
「こういう天気のいい日に走りてぇな」
と思ったことだった。

しかしながら、現実は裏腹で、暑いのなんの。
午後は宇佐に行くセカンドラウンドを予定していたものの標高はほとんど稼げないので、
「最近行けていない四段坂の最終まで行ってやろう」
という思いで朝9時に出発したが、焦りすぎて朝食後1時間もたたないうちに出発したため、坂を上がっているうちに微妙な気分が到来し、三段目の手前でちと休憩。
体調と暑さ的に四段目はすでにあきらめていたため、せめてもと三段目ラストで一人ゴール前スプリントをやったところ、気分の悪さに拍車がかかり、即撤退。

やはり、暑さは敵だと実感した。


<夏だね>


<久々コルナ号>


<コガメさん>


<今日の100円×2>



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スープジャー合格

スプーンが底まで届きづらいのと、カロリー多め摂取防止のため購入した小さいサイズのスープジャーを数日使ったが、かなり快適だ。

スプーンの件は使っている間はあまり気にならなかったが、いざ両方が底まで届く状態になると、届きづらいことは多少なりともストレスだったのがわかる。


2個のスープジャーの中身は、ひとつがカレーでもうひとつがライス。
カレーはもともとレトルトに冷蔵庫にある肉を加える程度だったが、不経済な感じもあり、路線変更。
普通のカレーを作るようにしたが、煮込むのに時間がかかるので、平日はなかなか。
で、現在形は、とりあえず玉ねぎ、にんじんと水をミルサーしたものをフライパンで温めて、少量のカレールウと無塩カレーパウダーを入れて、味の足りない部分はめんつゆ、余っているダシの素、鶏ガラスープなどで補っている。

冷蔵庫に余った肉があれば、カケラにして入れたりもするし、とろみが欲しければ片栗粉投入も。
気休めかもしれないが、カロリー過多になるということで量を抑えているカレールウは、市販のブロックのものをあらかじめ細かく切っておいて溶けやすいようにしているので、切った玉ねぎとにんじんさえストックしておけば、朝でも短時間で作ることができる。
このほかに野菜は、トマトを中心に、ピーマン、キャベツなどがあれば入れる感じ。

昼休みに社を出て定食を取るより野菜はとれていると思うのだが。


<時には煮込み用の肉を少量ずつ入れたりも>


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チベット・ホロコースト  50年(下)〜ダライ・ラマ法王の祈り〜(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.法王の脱出■

 1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノ
ルブリンカ宮殿を包囲した。その日、法王は中共軍司令部での
演劇に招待されていた。しかも中共側は法王が護衛なしで来る
ことを要求していたのである。今まで東部チベットで、高僧が
中共軍司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄
されるケースが4回もあった。群衆は、法王を中共軍の手に渡
すまいと決意していた。

 法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、訪問に反対する「民
衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告
げた。中共軍の将軍たちは激高して叫んだ。

 いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事
件は叛乱である。これが決裂点である。われわれは今こそ
行動にでるであろう。だから覚悟しろ。

 群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。3月
17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の
近くに落ちた。法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の
対立がいや増すだけだと考え、国外脱出の決意を固めた。群衆
の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそ
かに宮殿を脱出した。[2,p127-169]

■2.中共軍「反乱を鎮圧」■

 法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2
時から、宮殿に向け、一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41
時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1
万から1万5千人のチベット人が殺された。宮殿の内外は死体
で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。

 中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土
に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4000人を逮捕し
た。[4,p136] 中共軍の内部資料によると、10月までに、ラ
サおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人を殺害したと
いう。[3,p89]

 3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット
政府の解散と、その職権を「チベット自治区準備委員会」に移
すことを発表した。そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されて
いる間、パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。
[4,p136]

 パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チ
ベットに現れたと信ぜられ、法王に次ぐ宗教的権威を認められ
てきたが、世俗的権力はなかった。このパンチョン・ラマも、
中国の傀儡にはならず、89年には「チベットは中国から得たも
のよりも、失ったものの方が大きい」という歴史的な声明を発
表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。
[4,p161],[3,p214]

■3.ヒマラヤ超え■

 世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、
その安否を気遣っている間、法王の一行約100人は、200
名の兵士、ゲリラ兵に守られて、徒歩でラサから道もない広大
な山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断
して、インドへ向かっていた。

 国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋を
きわめた。そうして、つづく二,三日というもの、大吹雪、
雪に反射するぎらぎらする光、それから滝のようにおちる
激しい雨などの異常な連続によって、わたくしたちは悩ま
された。・・・

 非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が
凍りついた。・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸び
た人々もかなりあったが、その人々の口ひげには、氷がい
っぱいついた。

 それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかっ
たから、暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけ
であった。[2,p193]

 途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュ
ースを聞き、法王は同行していた人々で臨時政府を作り、その
宣言のコピーをチベット全土に送った。

 法王の一行が、正式な許可を得て、インドに入国すると、町
や村では、心からの親切な歓迎をした。ネール首相も、電報で
歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。さらに全
世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえてい
た。[2,p200]

 法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人
が、同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。途中で行き倒
れになった人数は数知れない。[3,p88]

■4.アデの悲しみ■

 アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。常に
囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。
厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、ア
デは耐え抜いた。1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に
移った百人の女囚のうち、3年後に生き残っていたのはアデを
含め、わずか4人であった。

 21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許
された。バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、通りにたくさん
の中国人がいることに驚かされた。標識はすべて中国語で書か
れていた。実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収され
ていた。

 森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になる
まで、薬草や花がやみくもに採取されていることがわかっ
た。私はその荒廃ぶりに圧倒された。生命あるものに対し
て、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、
いったいどういうことなのか理解できなかった。[1,p276]

 私の若いころにはとても活気に満ちていた、カルナン僧
院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破
壊され、略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前
建っていたところには、野生の灌木が生い茂っていた。
[1,p273]

 アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。二人の兄は人
民裁判で暴行され殺された。最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダ
ーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、発狂して死んだ。

 息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、母
親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、そうしているうち
に、川に落ちて死んでしまったという。

 アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンド
は、アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。アデは22
歳になっていた娘を初めて見た。娘は近く結婚する事になって
おり、アデは幸せな生活を送って欲しいと、自分の悲惨な過去
についてはあまり話さなかった。

 私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ
(収容所)に戻る準備を始めた。またバスに乗り、カンゼ
を通り過ぎるとき私が考えていたのは、「もう何も残って
いない」ということだけだった。苦痛、別離、そして失っ
てしまった21年間がすべて心の中にこみあげてくるよう
な気がした。それは本当に耐え難いものだった。そして、
いまの私には何も残されていなかった。[1,p281]

 アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。
アデはその後、インドに脱出し、ダライ・ラマ法王がチベット
亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。

■5.収奪された国土■

 第二次大戦後、アジアやアフリカの民族が次々と独立してい
く中で、チベット民族はこうして、唯一、植民地に転落した。

 チベットは、ヨーロッパ共同体に匹敵する広大な領土を持っ
ていたが、その東部は分割されて、四川省、雲南省、甘粛省な
どに編入された。北部のアムド地区は青海省とされた。たとえ
ば、アデの生まれ育ったカンゼ地区は、四川省甘孜(カンゼ)
チベット族自治州とされている。細かく分割して、周囲の省の
少数民族とされたのである。残るチベット自治区の面積は、約
半分にすぎない。[3,p83]

 1949年当時のチベットの森林面積は22万平方kmであった
が、中共軍による乱伐で、1985年には13.4万平方kmとほ
ぼ半減した。中共軍は旧国民党系の囚人や、チベット人を使っ
て、原始林へのアクセス道路を切り開き、伐採した木材を中国
本土に送っている。

 チベットは、インドや東南アジアを望む戦略的地域である。
中国はここに90基の核弾頭を配備している。アムド地区の中
国西北核兵器研究所は、その核廃棄物をきわめてずさんな方法
でチベット高原に廃棄したと伝えられている。[3,p170-179]

■6.生活と文化の破壊■

 チベット亡命政府は、1949年から79年の30年間に死亡した
チベット人は、120万人をくだらないと発表している。その
内訳は、拷問17万3千人、死刑15万7千人、戦闘43万3
千人、飢餓34万3千人、自殺9千人、傷害致死9万3千人で
ある。侵略以前のチベット人口が600万人なので、5人に一
人が殺された事になる。チベット人の家庭で、家族が一人も投
獄、殺害されていない家を見つけるのは難しい。[3,p99-10]

 仏教国家チベットには、6,259もの僧院、尼僧院があっ
たのが、1976年に残っていたのは、わずか8つに過ぎない。仏
像や装飾品などは、ことごとく中国本土に持ち去られた。59
万人いた僧、尼僧などのうち、11万人強が拷問死し、25万
人以上が還俗を強制された。[3,p146-149]

 僧院に付随して学校があったのだが、それらも一緒に破壊さ
れた。チベットの12歳以上の文盲率は、中国側の発表でも、
74.8%であり、中国本土の31.9%の2倍以上となっている。
[3,p132]

 中国政府は、産児制限や、中絶・不妊手術により、チベット
人の人口抑制を図っている。その一方で、中国人の移住を数々
の優遇策によって奨励した。その結果、チベット人口600万
人に対して、チベット全土に住む中国人は750万人と見積も
られている。[3,p166]

 チベットは、中国の過剰な人口の捌け口とされ、チベット人
は自らの国土においても、少数・劣等民族とされてしまったの
である。

■7.ダライ・ラマ法王の祈り■

 ダライ・ラマ法王の働きかけで、国連総会は1959年、61年、
65年の三度、「チベット人民の基本的人権と、その独特の文化
的ならびに宗教的生活を、尊敬することを要求する」と決議し
ている。

 近年、多くの国の議会がチベットの人権を尊重するよう中国
政府に求める決議を行ってきた。たとえば欧州議会(1987-90,
4回)、旧西ドイツ(1987)、イタリア(1989)、オーストラリア
(1990,1991)など。アメリカの上下院は10回以上の決議を行
っている。[3,p114]

 1989年には、ノーベル平和賞が法王に授与された。ノルウェ
ーのオスロ大学での受賞記念講演では、法王は「平和は私達一
人一人の内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々
とも平和を分かち合うことができます。」との信念を披瀝し、
「非暴力による平和の追求」が世界の一大潮流になっているこ
とを指摘した。

 89年6月の第2次天安門事件において、「中国で同じような
変化をもたらそうとした勇気ある人々の努力は、・・・暴力で
うち砕かれてしまいました。」しかし中国の若者達が「権力は
銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、非暴
力を選んだことを、法王は高く評価した。

 チベット高原全体を、人間と自然が調和して、自由に平
和に暮らして行ける保護区にしようというのが、私の夢で
す。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自
分自身の内にある平和の真の意味を探し求める地区とした
いのです。

 として、チベットの非武装、非核化、自然保護、そして国際
人権保護機関の設置を提案した。法王は演説を次の祈りで締め
くくった。

世界に苦しみがあり、
生き物が残っている限りは、
私も、残ります。
世界の苦難を消すために

 ダライ・ラマ14世の肉体は滅びても、その魂は15世とし
て、この世に戻ってくる。世界の苦難を消すために。チベット
仏教の輪廻転生信仰は、世代を越えて受け継がれる人類の「内
なる平和への意志」の象徴とも言えよう。
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チベット・ホロコースト 50年(上)〜アデの悲しみ〜(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.「花の土地」に生まれたアデ■

 アデは1932年、チベット東部、中国との国境に近いカム地方
メトク・ユル(花の土地)にタポンツァン家の末娘として生ま
れた。

 いまでも目を閉じれば、子どもの頃の日々が鮮やかによ
みがえる。はてしなく広がる空の下、花でいっぱいの野原
を笑いながら走ったり、転げ回ったりしていた日々。
[1,p24]

 遊び疲れた遅い午後には、父のひざの上に座るのが大好
きだった。父はよくカワロティ山脈の峰のほうを見つめて
いた。この山々の姿を見ると、父はしばしば乾杯のために
杯をささげ、歌うのだった。・・・父はカワロティ(万年
雪)とは、ヒマラヤの神で山の中に住み、私達が立ってい
るこの土地もカワロティの領土なのだと教えてくれた。
[1,p26]

 この幸福な少女が、後に父も兄も、将来の夫も子供も、侵略
者に命を奪われ、さらに27年も牢獄で暮らすことになるとは、
この時、誰が予想し得たであろう。

 私たち子どもがいうことを聞かないとき、大人たちはよ
く中国人を持ち出して子どもたちをおびえさせた。大人た
ちはこういった。「いうことをきかないと、劉文輝将軍が
来て連れてかれちゃうよ」[1,p31]

 劉文輝将軍とは、1920年代に四川省のほとんどを制圧した軍
閥で、チベットの国境地域を侵略し、残虐な行いでチベット人
から恐れられていた存在だった。

 しかし、実際にやってきたのは、もっと恐ろしい毛沢東の共
産党軍だった。彼等は、日本の6.5倍もの広さを持つチベッ
ト全土を蹂躙し、山林を乱伐し、核廃棄物の捨て場とした。6
00万人のチベット人のうち、120万人の生命を奪い、さら
に産児制限や中絶・不妊手術の強制を行った。今日では750
万人もの中国人が移住した結果、チベット人はチベット本土で
も少数民族にされてしまった。[3]

■2.中国人は我々からすべてを奪い去るつもりだ■

 1948年の晩春、16歳になっていたアデは、3歳年上のサン
ドゥ・パチェンと結婚した。やさしく思いやりのある夫とその
母親にアデは暖かく迎えられた。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。1950年春には、中
国共産党軍がアデの住むカンゼ地区にやってきた。この地方だ
けで、3万人の中国兵であふれかえった。中共軍はこう発表し
た。

 私たちは、みなさんが一般の人々の生活を向上し、過去
の過ちを正して、真の人民による政府を築き上げるのを助
けるために来ました。・・・私たちの義務を遂行したら、
私たちは自分の国に帰ります。[1,p71]

 やがて占領軍は、貧しい子どもたちのために小学校を作り、
中国共産党の講師たちが教え始めた。チベット人は彼等の偉大
なる母国中国の少数民族であり、はるかに卓越した中国文化を
学ぶべきだと教えた。

 アデの父親は、地域の有力者として選ばれ、派遣団の一員と
して、中国視察に送られた。彼はそこで国民党員の囚人をあふ
れるほど載せて処刑場に向かうトラックを見て、中国共産党の
正体を知った。

 戻った父は、信頼できる友人を訪ねては、中国人は我々から
すべてを奪い去るつもりだ、と語った。中共軍は父に「再教育
を受けるように」と命じた。帰国時から健康のすぐれなかった
父は、その時すでに病床に伏しており、中国兵に病院に連れて
行かれた。

 父ははじめは頑固に治療を拒否していたが、アデの兄たちの
すすめに従って、薬を飲み始めた途端、見る間に体力が衰えて、
亡くなってしまった。

■3.チベットから帝国主義侵略勢力を追放する■

 1951年の始めに、ダライ・ラマ14世は、中国政府の要求に
より、チベット代表団を北京に送った。

 この時、ダライ・ラマは弱冠16歳だったが、租税徴収の公
正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発
揮し始めていた。しかし平和な宗教国家として、わずか850
0人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に
屈するしかなかった。

 チベット代表団は、17項目の協定案を最後通牒として提示
され、従わない場合は、より以上の軍事行動を展開する、と脅
迫された。ダライ・ラマの訓示を仰ぐことは禁ぜられ、中国側
が偽造したチベット印璽で、調印することを強要された。

 その第一条は、以下の文面であった。

 チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢
力を追放すること。チベット人民は母国中華人民共和国の
大家族に復帰すること。

 これには、二重の虚偽が含まれている。第一に、この時、チ
ベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、外国勢力
といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だ
けであった。[2,p100]

 第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に
史実をねじ曲げたものだった。チベットは、史実の伝わる13
00年以上の歴史を通じて、かつて漢民族によって支配された
ことはない。元と清の皇帝はラマ教(チベット仏教)に帰依し、
チベットの宗主国の立場にあったが、前者はモンゴル民族であ
り、後者は満洲民族である。漢民族はそれらの帝国の植民地の
一部であったにすぎない。[2,260]

 協約の第2条は「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベ
ットに入って国防を強化するのを積極的に助けること」、第8
条はチベット軍を中共軍に併合する事を規定し、第14条は、
外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪していた。

 協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、中共軍一万
人規模の駐屯が始まった。

 かれらは何一つ携帯しては来なかった。ことごとくわれ
らの貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。穀物
の価格が突如として約10倍にも高騰した。バターが9倍、
一般穀物が2倍ないし3倍になった。ラサの民衆は飢餓の
縁まで零落した。[2,p98-103]

■4.夫の急死■

 1955年春、アデに長男チミ・ワンギャルが生まれた。しかし、
この時には、夫サンドゥ・パチェンは、アデの兄たちや、姉の
夫ペマ・ギャルツェンとともに、中共軍と戦う決意を固めてい
た。

 翌56年の早春には、多くの地域で戦闘が始まっていた。サン
ドゥは、アデと幼いチミを、ラサにいる裕福な親戚のもとに避
難させる事にした。

 出発に先立ち、地域の人を集めて送別の宴を開いた。ところ
が、サンデュが出された肉を食べた途端、胃をかきむしり、叫
びながら地面に倒れた。アデは彼のもとに駆け寄った。何人か
の人々が村医者を呼びにいった。しかし、サンデュは医者が来
る前に、あっけなく死んでしまった。彼の皿に毒が入れられる
所を見た人はいなかったが、中国側のしわざと誰もが思った。

 多くの友達や家族が、遺体の周りに立って泣いた。すべてが
一瞬の出来事だったので、アデは呆然とするばかりだったが、
目から涙がこぼれだした時には、気を失って倒れた。この時、
息子のチミは1歳、アデは次の子どもを宿していた。

 アデに実の母親のようにやさしくしてくれた姑のマ・サムプ
テンは絶望状態に陥り、息子の死の衝撃から立ち直れずに、半
年後に亡くなった。アデは息子とともに、実家に戻った。
 
■5.「民主改革」始まる■

 56年春にはカンゼ地区での「民主改革」が始まった。僧院の
所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。耕作はミミズ
や虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許され
ていなかった。このチベット仏教の教えを否定するために、僧
たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。

 人民裁判がさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は
雇い主を、僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。ア
デは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせら
れ、中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。群
衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。

 民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。アデの指
輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、古
いすり切れた洋服だけが残された。中国兵たちは、仏壇から仏
像を持ち出し、「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどう
かを見てみよう」と言って、射撃の的にした。

 貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。
後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。この
方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、後には、竹
串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。

■6.アデの逮捕■

 カンゼ地区の男たちは、森に潜伏して、中共軍にゲリラ戦を
挑んだ。アデは5〜60人の女性とともに、密かに中国側の動
きを伝え、食料を供給する役を果たした。抵抗組織のリーダー
の一人は、義兄のペマ・ギャルツェンだった。

 各地の抵抗組織は、中共軍の駐屯地を攻撃し、多大の損害を
与えた。しかし中共軍は、飛行機による爆撃や、数万人規模の
兵力を投入して反撃した。チベット亡命政府の発表では、戦闘
による犠牲者は43万人に上るとされている。[3,p102]

 ペマ・ギャルツェンも、カンゼ地方の中国人行政官を夜襲し、
高級将校二人とともに、殺害した。この成功の知らせはチベッ
ト中の人々の望みを高まらせた。

 しかし、この事件で、アデの兄オチョエを含む地区の行政委
員が告発され、処刑されると発表された。ギャルツェンは、オ
チョエを救うべく、仲間とともに山を下り、投降した。

 ギャルツェンの仲間の一人が、拷問の末、支援者としてアデ
の名を漏らし、早朝6人の中国兵がアデを逮捕しに来た。アデ
が子どもたちをおいてはいけないと抵抗すると、彼らはアデを
殴ったり、蹴ったりして、ロープで縛った。泣き叫ぶ息子のチ
ミがアデにまとわりつくと、中国兵は押し返して、ブーツで蹴
り上げた。なおも抵抗するアデを家の外まで引きずり出した。

■7.我々は、お前を一生苦しめたいのだ■

 アデに仲間の名前を白状させようと、中国兵たちは拷問を続
けた。両手を頭の上にあげて、二つの鋭い三角形の木の上にひ
ざまづくよう強要された。腕を下げると、ライフルの柄でひじ
をなぐられた。またある時は、極細の竹棒を人差し指の竹の間
に、第一関節まで少しづつ突き刺していった。

 獄中では、何ヶ月も手錠をかけられたままだったので、両手
とも手のひらまで腫れ上がった。監獄の仲間たちは、そんなア
デの食事や用足しを助けてくれた。それでもアデは仲間の名前
を白状しなかった。

 ある朝、アデは車で軍司令部の近くの平原に連れて行かれた。
膨大な数の群衆が集まっていた。横20センチ、縦10センチ
ほどの板が首にかけられた。

 そこに義兄のペマ・ギャルツエンが、同じように首に板をか
けられた姿で、連れてこられた。アデとペマは向かい合ってひ
ざまづかされた。ペマは両手を後ろにきつく縛られ、のどにも
ロープを巻きつけられて、ろくに話すこともできない状態だっ
た。それでも、殴られて赤く腫れあがった顔で、アデにほほえ
みかけた。拡声器から声が流れた。

 本日、我々はペマ・ギャルツェンの処刑を行う。アデ・
タポンツァンは、残りの人生を通して苦しませるという判
決が下った。本日、彼女には16年の「労働による矯正」
が宣告された。

 二人は立ち上がるよう命ぜられた。アデは「さあ、早く三宝
(仏法僧)に祈りを捧げるのよ」と言った。ペマはうなづいた。
後ろから2発の銃声が聞こえ、ペマはアデの前に倒れた。脳の
破片と血液がアデの服の上に飛び散った。

 アデは中国兵に、自分も殺してくれ、と頼んだ。

 だめだ。もしお前を殺しても、いま目の前にいるペマ・
ギャルツェンと同じだ。一瞬で終わってしまう。我々は、
お前を一生苦しめたいのだ。もう誰が勝ったかわかってい
るな。

 拡声器は、「自分たちのいうことを聞けば、幸せな生活が待
っている。さもなければ、ペマ・ギャルツェンと同じ運命が待
っている」と群衆に叫び続けた。

 1959年晩冬の日だった。この日からアデは各地の収容所を転
々とし、強制労働に耐えつつ、持ち前の強い気力で餓死や病死
をまぬがれた。釈放されたのは、26年後、1985年のチベット
正月であった。
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3rdスープジャー

先週土曜日は、七月初めに亡くなった義父の四十九日の法要の日であった。
一応家族なので喪服しか選択肢がなかったのだが、多少曇り気味だったこともあり、前日までほどは暑くなくひと安心したところ、帰宅時はこれでもかというくらいの土砂降りでそちらのほうが大変だった。

雷は午後もずっと続き、ヒルポタはお預け。
ウイークデイはいつも天気がいいのに、週末に限り天候が悪いことは多い気がするが、これは私が思うところであって、例えば水曜が仕事休みの人は、土日天気がいいのになどと、同じ思いをしてるかもしれないと思ったりもする。


このたび、新たにスープジャーを買った。
いつもカレーとライスとに分けて2つ持っていくのだが、ロングサイズのほうは深くてスプーンが届きにくい。
また、サイズ大きいからといって、多めに入れがちなので、食べすぎも考慮して。

先日、元から使っているジャーのフタを回していて、なんかジャリ感があるなと思っていたところ、元々分解できるフタのねじが緩んでいることに気づいた。
今まで分解したことは無かったが、意外に簡単にできることを知り、綺麗に洗浄した。
構造上、フタの裏側のetcは、ジャーに入れているものにはふれないので健康面に影響はないが、綺麗にしておくほうが精神的にもいいと思われる。


<左端がこのたび購入>


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新宿ロフトじゃ毎晩気の合う





著者の平野悠氏は新宿ロフトを始めとする一連のライブハウスロフトを作った方。

その方が「ロフトの歴史を記しておこう」ということで書いた一冊。
(以前出版された”定本”の付かないバージョンもあるが入手が難しく読めてない)

特に創世記の70年代から80年代前半のロックを中心とした音楽シーンを知る人には、「おおっ」という話がたくさん。

特にミュージシャン同士がロフトで出会った話や、今やビッグネームの方々の駆け出しのころの話など、枚挙にいとまがなく、ストレートな文体もあいまって非常に読みやすい。

自分の記憶と重なる内容が多く、満足感が高い一冊だった。

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ヤノジュンカーへの道は続くよ

終戦記念日とお盆が両方やってくるこの時期、ニュースの中でも特集的に先の戦争の話がよく流される。

正直、こういった辛気くさい話は見聞きしたくはないが、やはり人としての責務を考えると目を背けることはできないので、番組を調べて積極的には見ることはしないが、気になった言葉や、詳細はどうだったかなどを調べることはある。
そしてネットや図書館の本で詳細な現場の記述を読んでその場で想像した場面が一週間くらい頭をよぎり陰鬱な気分になることの繰り返し。
これも私向けの平和学習の一つなんだろう。


先日、入手しておらず一枚飛ばして聴くことになったローカルシンガー矢野絢子のCD「星ヲ抱ク者」。
買ったような気もしなくもないがと、よくよく手持ちのCDを調べたところ、実は持っていた。
最近「買った分、処分する」を原則に、持ち物を増やさないことに努めているものの、相変わらず所有物の管理ができない。。。。。。

現在直営ショップで販売されているものを除けば、「星カンムリ」「Root1」以外は音源を確保。
これから持っている分を1枚1枚聴ききるのに何年かかるのだろうか。




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今日のヒルポタ20200815

※走ったのは2日前

一週間ほど前、今の家に引っ越す前に祖母と住んでいた家がある地区の公民館長から電話があり、
「お宅の家の庭の雑草やら竹やらがかなり伸びてるので、一度見に来て。まあこのあと一週間くらいは暑いみたいだから、いっときしてからでもいいけど」
とのこと。

例年は最低二月に一度は様子を見がてら草刈りに行くのだが、今年は特に延々と平日は残業で帰宅が遅いため、物事をするのが休日に偏ってしまうことに加え、やはり自転車にも乗りたいということもあり、家の中に残してきている私の荷物も含め、気にはなってはいたものの、なかなか行くことができていなかった。

私が就職した後、手狭な実家に帰る気はなく、一人暮らしをしてもよかったのだが、祖母がそれなりの年齢ということもあり、買い物に一緒に行くなど手助けもいること、どうせ同じ市内に住むのだから、二世帯より一世帯のほうが経済的だろうといった周囲の後押しなどもあり、祖母が亡くなるまで二人暮らしが続いた。

祖母と住んでいた時期は別として、祖母が亡くなって後、家屋敷は遠く離れた県外にいる叔父の名義になったため、私がやる義務もないのだが、生前の祖母のことを考えると、
「あなたも住んでいたところなんだから、それぐらいはやりなさい! ご近所にも迷惑でしょ!」
と言うだろうから、朝早い時間に行ってきた。

今年生えた、直径7、8センチ、長さ5〜7メートル程度の竹を数本切った後、目立っている雑草やつる草を刈ってと、三、四十分作業をしたら予想通り
「もう勘弁してください」
状態になったので、即時撤退。
作業を終えてから帰宅後も一時間ほど汗はとまらず、相変わらずの夏場の草刈りの重労働さを思い知った。



3週連続で宇佐で食事会となり(飲みたいがゆえ仕向けた面がかなりあるが)、午後は原則運動禁止の通知がスマホに来る酷暑の中、治国谷越え。

1時間少々とはいえ、朝の草刈りもあって、運動したぜ感はかなりのもの。
朝は4時半に起きて二度寝できなかったため、夜は十時前には自然に意識を失ってましたとさ。


<いつのも撮影ポイント>


<たまには川も>

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今日のヒルポタ20200808

先週に引き続き、夕方から宇佐で食事会となった。
昼前からフリーだったので、コースをいろいろ考えたが、夕方雷雨来るかもという予報もあり、より単純なコースに。

まず、市内から宇佐まで走って、あと1時間を調整という状況だったので、浦ノ内の北岸を三十分走って、折り返すことにした。

小動物の遺体を結構目にしたが、湿度も高くなく、曇っている感じもあり、汗はさほどかかず、体調はよくもなかったが走りやすかった。

ヒルポタっていうほど登ってないな今日わ。


<横浪半島東端を望む>


<浦ノ内のみかん畑>


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今日のヒルポタ20200802


最近結構走ってるし行かなくてもいいかなと思いつつも、思い出したように家で何度か筋トレするより二時間走ったほうがましってことで、正午を挟む時間帯に出発。

暑い時間帯なので、ボトルの消費量が半端ない。
朝食にインスタント麺を食べたのもいけなかった。

そういうわけで、今日も三つ目の坂で打ち止め。
いざ写真をと思ったら、スマホがまさかの電池切れ。
出かける前に使ったのに気づかなかった。

<今日の卵買い>


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コロナ対応:隠蔽の中国、迅速果断の台湾、極楽とんぼの日本(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

 コロナ禍は、中国、台湾、日本の政治体質の違いを浮き彫りにした。

■1.中国の隠蔽、台湾の迅速検疫、日本の極楽とんぼ

 中国・武漢市の李文亮医師が「華南海鮮市場で7人のSARS感染者が確認された」とSNSで発信したのが、昨年12月30日でした。明けて1月3日には武漢市当局より「インターネット上で虚偽の内容を掲載した」として訓戒処分を受けています。情報隠蔽のための素早さには驚かされます。

 逆に迅速果断な処置で驚かされたのが、台湾政府でした。12月31日には武漢で原因不明の肺炎により「複数の患者が隔離治療されている」という情報をキャッチし、その夜からは武漢直行便に検疫官が乗り込み、検疫を始めたのです。

 翌1月1日からは入国してくる中国人全員の検温を開始しました。15日にはこのウィルスを「法定感染症」に指定し、隔離措置を可能としました。2002年のSARSでは、台湾の死亡者は73人と、世界の犠牲者の1割を占めたので、その際の悲惨な経験を教訓として迅速な防疫体制を構築していたのです。

 一方、日本ではその翌々日17日付けの朝日新聞は「厚労省は現時点でヒトからヒトへと感染が拡大するリスクは低く、過度な心配は必要ないとしている」と報じました。記事の中では専門家のコメントとして、「(ヒトからヒトへの)感染があったとしても、インフルエンザやはしかなどと比べて確率はとても低い」という、今から見れば「極楽とんぼ」的な見通しを紹介してます。


■2.情報隠蔽から武漢封鎖

 武漢市衛生健康委員会は1月11日、「一月三日以降は新たな患者は発生していない。人から人へ感染は確認されていない。状況はコントロール下にある」との強気の姿勢を示しました。

 1月18日には万家宴が予定通り開かれました。旧正月直前に10万人とも言われる武漢市民が料理を持ち寄って行う「巨大宴会」です。当然、「感染爆発の場」になったと推定されています。

 しかし、1月22日、北京政府は突然「人から人への感染は明らか」との発表を行いました。すでに中国のネットには、武漢の病院の光景が溢れていました。病院に殺到し「助けて!」と泣き叫ぶ人々、ビニール袋に入れられて積み上がった遺体、、、

 1月23日午前2時5分、中国の旧正月では大晦日の前日、武漢人民政府は「同日10時をもってすべての交通を停止する、市民は武漢を離れてはならない」と発表しました。なぜ異例の深夜の発表を行ったのでしょうか? 有力な説として、同時刻に開かれていたWHOの会議で、「中国はこれだけのことをやっている」として、審議されていた緊急事態宣言を先送りさせた、と見られています。

 発表から都市封鎖までの8時間ものタイムラグも奇妙でした。「脱出するなら10時までにどうぞ」と教えているようなものです。市や党の幹部の家族に脱出の時間を与えたのでしょうか?

 1月26日、武漢市長は「封鎖前に500万人もの人々が市外に出た」と記者会見で明かしました。これだけの人々が、わずか8時間に武漢を逃げ出したのです。武漢市民の逃げ足の速さも、日本人の想像を絶するレベルでした。

 さらに、武漢市長は「すぐに武漢から情報を発信できなかったのは、上層部が私にこのことを発表する権限を与えてくれなかったからだ」と、中央の命令で情報隠蔽がなされた事を暴露してしまいました。8時間のタイムラグでの500万人脱出といい、この情報隠蔽の内幕暴露といい、中央政府に責任転嫁して保身を図ろうとしたかのような爆弾発言でした。


■3.台湾は団体旅行禁止、日本は質問票

 台湾政府は、武漢封鎖の前日22日には台湾と武漢間の旅行を禁止し、翌23日には中国へのマスク輸出を全面禁止にしました。「中国人は必ずマスクを大量に買い占め、高値で売る」と、彼らの習性を読んでいたのです。東京都小池知事がこの1月後に、医療用防護服33万余着を大量のマスクなどとともに中国に寄付したのとは、まことに対照的な処置でした。

 武漢封鎖の翌日24日には、台湾は中国大陸への団体旅行を全面禁止にしました。

 一方、日本の厚生労働省は、1月21日に武漢から航空機で入国する人に対し、発熱や咳の有無を尋ねる質問票を配布する事を発表しました。中国版ツイッターでは「日本行きの搭乗前に解熱剤を飲み、発熱と咳の項に爍裡廊瓩肇泪襪鬚垢譴估本には入国できる」という情報が飛び交うようになりました。

 中国で見殺しにされるより、日本に逃げれば、治療を受けられる、というコロナ難民がいたようです。そんな恐れは一顧だにせず、野党は国会の審議時間のほとんどを「桜を観る会」の追求に使って、政府の足を引っ張っていました。


■4.「中国本土からの入国禁止をなぜしないのか!」

 自民党本部内では、1月27日には「新型コロナウィルス関連肺炎対策本部」が立ち上げられました。会議が始まると、マスコミは外に出されますが、廊下で耳をそばだてていた一人の記者はこう語っています。

__________
 彼ら(JOG注:厚労省、外務省など関連省庁の政務官や審議官)に向かって議員たちが激しい声を飛ばしていました。この会議ではいつも、佐藤正久、青山繁晴、山田宏、長尾敬……といった面々が大声で発言していました。政府の危機感のなさへの怒りがすごかったんです。[門田、1427]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 とくに怒号が飛んだのは「このままでは日本は感染大国になる。中国本土からの入国禁止をなぜしないのか!」という事でした、しかし、各省庁からの官僚たちは「検討させていただきます」程度の返答しかしません。

 1月31日には、ベトナムが中国全土からの入国拒否を始めました。こののち同じ措置をとる国が、2月1日オーストラリア、モンゴル、シンガポール、2月2日、アメリカ、インドネシア、2月3日、ニュージーランドと続き、2月中だけでも134カ国に上りました。


■5.中国からの入国制限はなぜ遅れたのか?

 日本政府が中国からの入国者に対して制限を設けたのは、これら諸国から1か月以上も遅れた3月5日のことでした。入国者に対して検疫所長が指定する2週間待機させ、国内の公共交通機関を使わせない、という制限です。

 なぜこれほど遅れたのでしょうか。ある記者は、その3時間前に習近平国賓来日の延期が発表されていた事から、「習近平国賓来日が中国全土からの入国禁止ができなかった理由だったことがわかりましたね」と語っている。中国からの入国制限をしたら、それを乗り越えて習近平を国賓として迎える事などできなくなる、という本末転倒の論理でした。

 こうなった理由について、ある官僚はこう解説しています。
__________
 中国には逆らわない。それは官僚たちにとっては、あたり前の行動様式です。なぜか、と聞かれたら、中国を怒らせると面倒だから、と答えるしかないですね。・・・中国に睨(にら)まれたら、上司のほうに自分に関するマイナス情報を入れられたりもします。つまり、人事に影響が出てくるわけです。実際に出世の道を断たれた官僚は結構いますよ。
・・・中国全土からの入国禁止なんて、おそらく誰も率先しては言えなかったでしょう。それを言い出すような度胸の据わった人はいません。[門田、3100]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 こういう中で、安倍首相はどう判断したのか。先ほどの記者は、こう解説する。
__________
 一番強かったのは、これだけの人権弾圧をやっている当事者を陛下に会わせてはならない、という世論でしたね。これを主張する保守派は、首相の支持基盤でもあります。中国全土からの入国禁止をできなかったことで、保守派の不満や政権批判はすごかったですよね。その怒りがそのまま国賓来日阻止につながっていたような気がします。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 逆に言えば、習近平国賓来日と入国禁止の遅れに国民がもっと怒っていれば、安倍首相ももっと早く決断できた、ということになります。


■5.安倍首相も「厚労省は何をやっているんだ」

 今回の一連のコロナ対応の中で日本政府の唯一のクリーンヒットが、1月29日から始まったチャーター機5機による武漢の邦人救出でした。1月26日の日曜日夕刻、安倍首相が武漢から帰国を希望する邦人を全員連れ帰ることを宣言し、政権を挙げての一大プロジェクトが組まれました。ようやく首相のリーダーシップが発揮されたようです。

 その夜、茂木俊充外相が中国の王毅外相と電話で直接交渉し、マスクや防護服の支援物資と引き換えに了解をとりつけたと伝えられています。決死の覚悟で武漢入りした日本大使館員たちが、武漢の日系企業の協力を得て帰国希望者を集め、結果的に世界で最初の「武漢からの救出便」が実現しました。

 しかし帰国者の受け入れは迷走を重ねました。厚労省は、症状のない帰国者をそのまま「自宅に帰らせる」つもりでした。「まさか都市封鎖までされた武漢からの帰国者を犒于甦兒´瓩發靴覆い泙渕宅に帰すのか」と、官邸のスタッフの中からもさすがに異論が上がりました。

 おまけに厚労省には、帰国者の滞在先を探し出す手腕もありません。最後は、自民党の林幹雄(もとお)幹事長代理が、自分の選挙区に近い勝浦の『ホテル三日月』に頼み込んで快諾してもらいました。翌日、無症状者の中からも陽性反応が確認され、官邸の不安は的中しました。安倍首相も「厚労省は何をやっているんだ」と不満を漏らしたと伝えられています。


■6.「私も泣いてしまいました。陳さん、ありがとう」

 台湾は中国からの嫌がらせを受けて、チャーター機の武漢入りをなかなか受け入れて貰えませんでしたが、ようやく2月3日深夜に第一便が台北に到着して、247人が無事、帰国。そのうち、3人に発熱などの症状があり、検査の結果、一人が「陽性」であった事が判明しました。

 翌4日午後8時、帰国便到着以来、一睡もせずに、検査結果を待っていた陳時中・衛生福利部長(厚生大臣)は涙ながらに、こう語りました。

__________
 皆さん、残念ながら陽性者が一人増えてしまいました。皆さんも心配だと思います。しかし、私はこの結果をよかった、と思っています。
 なぜならこの人の命を私たちは救うことができるからです。私たちが一生懸命、同胞を武漢から連れ帰そうとしたのは、ほかでもありません。陽性となって、本当なら武漢で死んでしまったかもしれない同胞を連れ帰ることによって、その命を助けることができるかもしれないからです。[門田、2355]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 台湾国民の間で大きな反響がありました。衛生福利部のフェイスブックには、あっという間に「いいね!」が20万件を超え、「私も泣いてしまいました。陳さん、ありがとう」などのコメントが10万件も寄せられました。

 陳部長の父親は、日本統治時代の台湾で「リップンチェンシン(日本精神)」を身につけた高名な法学者で、部長は「私が父から教えられたのは"誠実"ということの大切さでした」と語っています。日本の厚労省に足りないのは、能力ではなく、一人でも国民を護ろうという"誠実"さのような気がします。

345px-02.07_總統慰勉「嚴重特殊傳染性肺炎中央流行疫情指揮中心防疫同仁」_(49500116692).jpg


 こうした迅速果断な対応のおかげで、台湾では8月1日時点の累計感染者数474人(うち382人が外国での感染者帰国)、死者7人に留まっています。4月12日からプロ野球もサッカーリーグも無観客でスタートしています。5月8日からは、観客を入れてのプロ野球公式戦も復活しています。


■7.三国の違いはどこから来るのか?

 今回のコロナ禍への中国、日本、台湾のそれぞれの政府の初期の対応だけを見ても、これほどの大きな違いがある事に驚かされます。詳しくは門田隆将氏の『疫病2020』を読んでいただきたいと思います。

 三国の違いがどこから出てくるのかを考えると、最後は国民の側の政府に対する厳しさに行き着くのではないでしょうか。

 台湾は国民党と民進党の間で、常に政権交代の可能性があります。今回の一連の果断な対応で、蔡英文総統の支持率が急上昇し、総統に再選された1月からさらに12ポイントも上がって、68.5%と過去最高に近づきました。いつ選挙に敗れて下野するかもしれない、という緊張感から、陳時中・衛生福利部長のような優れた人材が抜擢されるのでしょう。

 一方の中国は、選挙のない独裁制です。民意は反映されません。国民がどれほど苦しんでも、情報隠蔽や内部告発者の処罰でごまかされてしまいます。厳しいことを言えば、そういう政権を許していること自体が、国民の責任なのです。台湾もかつての蒋介石時代はそういう国でしたが、このたび亡くなられた李登輝元総統のもとに国民が力を合わせて、立派な民主国家を築いてきました。[b]

 日本は先人のお陰で民主主義体制が続いていますが、国民の「お上」まかせの意識に、自民党はあぐらをかいています。門田氏の著書は厚生労働省の無為無策ぶりをえぐり出していますが、これも初めてのことではなく、サリドマイド薬害事件や薬害エイズ事件での不作為で多くの被害者を出している事を、氏は糾弾しています。

 これらの事件で内閣の一つでも潰れるくらいの厳しい批判が国民から沸き起こっていれば、厚労省も抜本的な体質改革がなされ、今回でももっと迅速果断な処置ができていたでしょう。同時に、その厳しさがあれば、コロナ禍もどこ吹く風で「サクラ、サクラ」で審議時間のほとんどを潰していた野党の議員などは次の選挙で一掃されるでしょう。

 こうして見ると、一国の政治を良くするのも悪くするのも、国民の姿勢次第と思えてきます。これが国民主権の本旨でしょう。
(文責 伊勢雅臣)
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今日のヒルポタ20200801(2)

コロナのこともあり、しばらく自粛していたが、県内ではここ数か月で感染者は十名以内ということもあり、久しぶりに宇佐の友人宅で一献。

市内から治国谷経由で仁淀川河口大橋を通るコース。

治国谷の坂は、かつてはかなりキツイと思い込んでいたが、最近は「序盤の豪邸までと、トンネル直前のわずかな距離以外はまあたいしたことないな」という印象に変わってきた。


エフデジ号はこの春以降ずっと乗ってきたが、どうも下ハンが握りにくいと感じていて、出発前にコルナ号とセッティング比較してみた結果、サドルが
2センチ高いと判明。

サドル先端からブラケットまでの距離は、すべての自転車で同じにしているので、サドルが高い分、体が折り込まれる感じになっていたってことか。

「いや、サドルの高さくらい乗っててわかれよ」
って話なのだが、通勤なんかで乗るときは、ソールの厚さがほとんどないトレランシューズから、3センチ以上あるラバーソールまで履いて乗っているので、意識しないようにと思うようにしてるからねえ。

サドルの高さを下げ、位置はわずかに後ろへ。
一時間半程度走ったが、何か懐かしいポジションって感じがした。


<風景(1)>


<風景(2)>
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今日のヒルポタ20200801

コロナ禍で多くのイベントが中止になり、いつもと違う感じの中、八月になった。

毎年参加している八月第一週のライドも今年は中止。
今年は雨が多く走り込めなかったので、助かった部分もある。
梅雨も明け、今後の休日は、ここ2か月よりは多く走ることができそうだ。

前日まで、今シーズン初の横浪半島コースの予定であったが、諸事情により変更。
午前の部・午後の部とセパレートになってしまった。
午前の部はいつもの坂道4つコースだが、午後も走ることもあり、4つの坂のうち3つめまで。

前夜また深夜に飲み食いしてしまい、「ちょっとおなかの調子が」と同じ失敗を繰り返してしまった。
次回からは、前日は酒は控えよう。


<成長する稲>


<花>


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