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靖国

先の上京の折、いつものように靖国に参拝に行った。

企画展示室では、「軍属(軍人以外の役割で軍隊に所属した方々)」に焦点をあてた内容のものが開催されていた。
所用は昼からだったため、ちょうど昼前に観覧したのだが、涙腺がちょっと・・・・・・
完全な休日だったらかなり来てたかもしれない。

太平洋戦争では、本当に全国各地の出身の方々があちこちで亡くなられている。
こういったものを観ると、ドラマや小説になっているのはごくごく一部であって、それぞれの死に、それぞれの物語があっただろうことを感じざるをえない。
特に家族を亡くされた方々の気持ちを思うと、胸が痛んだ。

教科書では大まかな流れしかわからないので、こういった施設に行く機会を設け、当時の方々がどんな思いで生きていたのか、亡くなっていったのかを義務教育の中でもっと学んでもらうことにより、国家観、戦争観を養ってもらいたい。






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幸せ、働きがいはどうしたら手に入るか

稲盛和夫氏と、つい先日退任された鈴木敏文氏の対談記事。


人間としての本質はこれだと原点に返る思い。

「人間として何が正しいのか」、その一点で考える。(中略)
正しいと思うことを選択するのであまり迷いません。





しかし
災難にあうのは、過去に積んだ業がすべて現れた証拠
って。。。

反省しかないな。




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「日本人の精神にはまだ清冽な地下水が流れている」(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■


「日本人の精神にはまだ清冽な地下水が流れている」



■1.「なんという微妙精巧な宇宙のバランス」

 最近、読んだ本の次の一節に驚かされた。

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 数年前、宇宙物理学者桜井邦朋(くにとも)氏から聞いた話である。

 太陽の中心核では水素が融合してヘリウムをつくっているが、そのプロセスで水素の質量の0.7パーセントがエネルギー転換して放出され、それによって太陽は輝いている。

 これが0.71パーセントでも0.69パーセントでも宇宙はできない。0.71パーセントだと星の進化のスピードがもの凄く速く、水素を使い尽くし、太陽は既にない。0.69パーセントだと進化のスピードが遅くなりへリウム結合ができず、137億年経ったいまも炭素はつくられていない。つまり、生命は生まれていない。

 なんという微妙精巧な宇宙のバランス。一体いかなる意志が働きいて、この奇蹟が実現しているのか。まさに神秘的としか言いようのない物理的事実の上に人間の生命は存在している。[1,p10]
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■2.「体も心も全部、天地宇宙から借り受けたもの」

 致知出版社社長・藤尾秀昭氏の最新刊『ポケット修養訓』の一節である。人間の生き方を説く『修養訓』に、こんな最新の宇宙論が入っている点が、いかにも日本的だと感じた。欧米の修養論なら、キリスト教べったりの説教か、あるいは逆に世俗的な処世術となってしまうところだ。

 日本人の理想とする生き方の根底には、古代から続く宇宙観、自然観、生命観が地下水のように流れていおり、しかも、それらは現代科学とも相性が良い。本書にも、その地下水脈が所々、泉のように湧き出ている。たとえば、以下の一節だ。

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 若い社員に時折する話がある。

「みなさんは、自分の体を自分のものと思っているが、自分で作ったものなど一つもない。体も心も全部、天地宇宙から借り受けたもので、時間がきたら返さなくてはならない。天地から借りている、この自分という場をまず照らさないと、周りなんか照らせない。一隅を照らすとは自分自身を照らすことだ」[1,p13]
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 宇宙には何らかの「意思」が働いており、その宇宙が自分に、この身体を貸し与えてくれた。こう考えれば、「自分の身体なのだから、どうしようと自分の勝手だ」とは言えなくなる。

 身体だけではない。素質や能力も与えられたものである。

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 人は誰でもそれぞれに、天から与えられた素質能力がある。これを「命(めい)」という。自分はどういう命を与えられているのか。それを知ることが「知命(ちめい)」である。知って、それを完全に発揮していくことが「立命(りつめい)」である。----安岡正篤師の言葉である。[1,p148]
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 安岡正篤(まさひろ)師は、「昭和の哲人」として弊誌でも紹介した[a]。宇宙を、古人は「天」と呼んだ。天が自分に与えた「命」が「天命」である。天命に従って生きることが、人間の生き方の理想である、と古人は考えた。

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■3.「天はかならず助けてくれる」という信頼

 天命に従って生きていれば、天はかならず我々を助け、報いてくれる、という素朴な、しかし強靱な信頼を古人は持っていた。

 明治初期に陶器などのアメリカへの輸出を切り拓いて、国家に尽くした森村市左衛門も、天への信頼をこう語っている。

__________
 人は正直に全心全力を尽くして、一生懸命に働いて、天に貸してさえおけば、天は正直で決して勘定違いはありません。人ばかりを当てにして、人から礼を言われようとか、褒められようとか、そんなケチな考えで仕事をしているようでは、決して大きなものにはなりません。

 労働は神聖なもので、決して無駄になったり骨折り損になどならない。正直な労働は枯れもせず腐りもせず、ちゃんと天が預かってくれる。どしどし働いて、できるだけ多く天に預けておく者ほど大きな収穫が得られる。

私は初めからこういう考えで、ただ何がなしに天に貸すのだ、天に預けるのだと思い、今日まで働いてきたが、天はいかにも正直。三十年貸し続けたのが、今日現にどんどん返ってくるようになりました。[1,p17]
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 市左衛門はこの考えで天に貸しを作り、天は現実に、ノリタケ、TOTO、日本碍子、日本特殊陶業、INAXなどの優良企業という形で、貸しを返してくれたのである。[b]


■4.「天から与えられる天職なんかない」

 それでは、天が自分自身に与えた天命とは何かを、どうやって知ることができるのか。藤尾氏はこう説く。

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 「天から与えられる天職なんかない」
 天職というのは天から職業を与えられるものだと思つている人が多いでしょう。違うんです。天職というのは自分が今やっている仕事なんです。「これが天職だ」と思った瞬間に、その仕事が天職になるんです。[1,p161]
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 天職とは「天から与えられるもの」と考えて、ただ待っているだけの者には天職はやってこない。目の前の仕事をつまらないと思って、それをおろそかにしている間は、何度、転職しても天職は見つからない。

「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」だとはイチローが2004年に年間257安打という大リーグ記録を84年ぶりに更新した時に語った言葉である。[1,p140,c]

 野球はまさにイチローにとっての天職だが、それは天から勝手に降ってきたものではない。小学6年生の時の作文には「3年生の時から今までは365日中360日は激しい練習をやっています」と書いている。

 高校3年生夏の甲子園予選では決勝で敗れ、ドラフトで4位指名してくれたオリックスでも最初の2シーズンは1軍と2軍の間を3回も往復した。ここで投げ出していたら、野球はイチローの天職にはならなかったろう。[d]

 オリックスに入団した当初、「なぜそんなに厳しいトレーニ ングを自分に課しているのか?」と聞かれて、「僕を獲ってくれたスカウトの方に失礼があってはいけませんから、、、」と答えている。

 イチローは自分を指名してくれたスカウト三輪田勝利氏に感謝し、三輪田氏が亡くなった後も、毎年のシーズンオフには墓をお参りして、感謝を新たにしていた。その思いで、一生懸命バッティングや守備の小さな工夫を積み上げていくうちに、いつのまにか大リーグで大記録をうち立てる選手になっていった。

 藤尾氏の言う通り、天職とは天からある日、勝手に舞い降りてくるものではない。日々、目の前の小さな仕事に打ち込んでいるうちに、「これが自分にとっての天職だったのだ」と発見するものだろう。


■5.「誠心誠意を尽くす時」

 イチローの生き様を見れば、次の言葉も自然に納得がいくだろう。

__________
「至誠(しせい)神の如(ごと)し」ともいう。誠心誠意を尽くす時、人間業とは思えない、さながら神の仕業(しわざ)のようなことが出現するというのである。胸に刻むべき人生の法則である。[1,p169]
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 イチローが大リーグに登場した2001年、身長175センチ、体重73キロの体格では大リーグで通用するはずがない、と見られていた。しかし、その年、首位打者(3割5分)と盗塁王(56盗塁)を同時に獲得。大リーグでも51年ぶりの快挙だった。守備でも失策わずか1個でゴールドクラブ賞を獲得。

 イチローよりも、体格でも才能でも、より恵まれた選手は大リーグにはゴロゴロしているだろう。イチローのこの「神の仕業」とは、体格や才能がもたらしたものではないことは明らかである。イチローの少年の頃からの「神の如」き至誠が「神の仕業」をもたらしたものだと考えざるを得ない。


■6.「素直な人が伸びる」

 藤尾氏は、雑誌『致知』の取材を通じて、それぞれの世界で一道を切り拓いてきた人々と出会った。

__________
「どういう人が伸びますか」
 という質問に、職業のジャンルを越え、その道の頂点を極めた人たちが一様に答えたのは、
「素直な人が伸びる」
というシンプルな言葉だった。即ち、素直な人でなければ運命を伸ばすことはできないということである。[1,p180]
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 目の前の仕事に対して「こんな雑用をやらされていては出世できない」とか「俺の才能は、こんなつまらない仕事では発揮できない」などと余計なことを考える人は「素直な人」ではない。

 与えられた仕事に一生懸命取り組み、失敗して叱られたら「次はどうしたら、うまくできるか」と一心に工夫し、何かアドバイスを受けたら、喜んでその通りにやってみよう、とするのが「素直な人間」である。それはそのまま「誠心誠意」であり「至誠」である。

 どういう分野でも、そういう「素直な人が伸びる」し、そういう人が自分の天職を見つけていく。それは一つの道で大成した人々が体験を通して得た法則である。


■7.「真の楽しみ」

 与えられた仕事に誠心誠意、取り組んでいくというのは、決して苦しい道ではない。藤尾氏は言う。

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 名人達人の域に達した人たちが等しく抱く感慨がある。

「精進(しょうじん)の中に楽(らく)あり」

 人生の真の楽しみは、ひたすらな努力、精進する中にこそ潜んでいるということである。それはレジャー、娯楽から得る安逸な楽しみよりもはるかに大きく深い、人間の根源から湧き起こる楽しみである。

 その楽しみを知つているのが名人達人である、とも言える。[1,p111]
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 先哲の多くは「真の楽しみ」を「真楽(しんらく)」という言葉で表してきた。

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 何事であれ対象と一体になった時に生命の深奥から、湧き上がってくる楽しみが「真楽」である。物事に無我夢中、真剣に打ち込んでいる、まさにその時に味わう楽しさが真楽なのである。

 人生の醍醐味(だいごみ)とは、この真楽を味わうことに他ならない。[1,p152]
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 この真楽こそ、天職に至誠を持って取り組んだ人への天からのご褒美であり、人間から見れば真の幸福なのである。


■8.「日本人の精神にはまだ清冽な地下水が流れている」

 我が先人たちが信じ、実践してきた修養論とは、かくも簡明にして味わい深く、しかも誰でもが自分の人生の中で実践しうるものであった。

 藤尾氏の『ポケット修養訓』は、その簡明さそのままに簡潔で、ポケットに入れて仕事の合間にも気になった章句を読み直すことができる。

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 日本人の精神にはまだ清冽な地下水が流れている。この水を清冽なまま次代に引き継いでいくのが、先に生きる私たちの使命である。[1,p99]
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 藤尾氏が38年前に月刊誌『致知』の発刊に取り組み、今また、この『ポケット修養訓』を出版した志はここにあるのだろう。

『致知』の創刊時、「こんな固い雑誌は誰も読まない、といわれたものです」と藤尾氏は回想する。そんな「固い雑誌」がいま読者10万人を超え、また『致知』を社員教育の一環として取り入れた会社も1千社を超えるという。

 いまだに日本人の心の奥底に流れている「清冽な地下水」に、多くの読者、企業が気づき始めたという事だろう。
(文責:伊勢雅臣)
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国際派日本人にお勧めの英語勉強法(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

国際派日本人にお勧めの英語勉強法


「英語ができなければダメ」という強迫観念から、まず抜けだそう。




■1.マイクロソフト日本の取締役でも「英語はほとんど話せなかった」

 マイクロソフト日本法人の取締役を務めていた成毛眞(なるけ・まこと)氏が『日本人の9割に英語はいらない』という面白いタイトルの本を出しているので、国際派日本人に参考になるかと思って読んでみた。「はじめに」から意表をつくスタートだ。

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 ご存知の方も多いと思うが、私は以前マイクロソフト日本法人の取締役を務めていた。入社した当時は、外資系の企業自体、日本ではまだ珍しかった時代である。さぞかし英語が堪能だったのだろうと思われるかもしれなぃが、実は、英語はほとんど話せなかった。マイクロソフトに入り、シアトルに出張するようになってから覚えたのである。

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マイクロソフト日本法人で英語ができないのは、成毛氏ばかりではない。
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 外資系企業の社員は全員英語ができる。英語がしゃべれなければ外資系企業で働くことはできない。多くの人がこう思っているようだが、これは間違いである。外資系で本当の英語力が求められるのは、本社の上層部と直接やりとりをする経営陣で、全社員の割合からすればせいぜい3%である。

 私がいたマイクロソフトでも、部長クラスまではみな英語が下手だった。本部長をやっている人間が「いやあ、英語に関してはヘレン・ケラーですよ」とよく言っていたほどである。謙遜などではなく、彼は本当に英語を話せなかった。

 だが、彼は英語を話せなくても出世できたし、クビを切られることもなかった。[1,p82]
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■2.「英語は下手でも、仕事ができればいい」

 楽天やユニクロの持ち株会社ファーストリテイリングでは、社内の公用語を英語にしたと聞くが、一方で外資系の日本法人が逆に部長以下はみな英語が下手だった、とはどうしたわけか。成毛氏は、こんな種明かしをしている。

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 なぜなら、外資系の企業であっても、日本の支店は日本人を相手に商売をするからである。シアトルの本社からすれば、彼に求めているのは英語力ではなく、日本人に商品をうまく売り込む能力である。英語は下手でも、仕事ができればいい。実にシンプルかつ合理的な考えである。


 アメリカの経営陣から見れば、日本人社員は日本人の顧客相手にうまく商品を売ってくれれば良いのであって、英語ができなくともコミュニケーションが必要とあれば、通訳を使えば良い。ビジネスでつっこんだ議論をするには、生半可な英語力ではダメで、それなら商売の実力さえあれば、あとは通訳を通じて議論した方が速いし正確だ。

 楽天社員と覚しき人がツイッターで「『重要なことなので日本語で失礼します』という言葉が流行ってきた」とつぶやいて話題になったが、海外でのビジネス経験のある人なら、さもありなんと思うだろう。

 平成26(2012)年卒の学生を対象に行った就職希望企業人気ランキングによると、楽天は前回57位から227位、ファーストリテイリングは前回63位から262位に急落したそうだ[1,p87] 英語に自信のない学生が敬遠したのか、あるいは英語公用化などと打ち上げる経営者の見識を疑ったのか。いずれにせよ優秀な学生から見離されたという、残念な結果である。


■3.本当の英語力が必要なのは日本人の数%

「日本人の9割に英語はいらない」という成毛氏の主張は、以下の計算に基づく。万人単位で丸めて紹介すると:

 まず、3ヶ月以上外国に長期滞在している人数は、この20年の平均で約57万人。平均滞在期間を4年として、人生80年のうち4年間、すなわち人生の1/20の期間を海外で過ごす人が常に約57万人いるとすると、日本人全体で一生のうち4年ほど海外で滞在する人はその20倍、11百万人ほどだ。

 これに外資系企業の雇用者数約1百万人と、ホテルやレストラン、交通機関などで訪日外国人にサービスする人口を1百万人と仮定すると、合計13百万人。日本の総人口の約1割となる、という計算だ。

 逆に言えば、日本人の9割は外国に長期滞在もしないし、外資系に勤めたりも、ホテル・交通機関などで外国人にサービスもしない、実生活ではほとんど英語を使う必要はないという事になる。

 しかし、この1割にしても、本当の英語力が必要かと言うと、大いに疑問がある。現実には外資系企業に勤めていても、マイクロソフトのように97%は本当の英語力は不要であったり、レストランやホテルでも使うのは「ご注文は何にしますか」などと限られた表現だけだ。

 海外長期滞在と言っても、英語などまったく通じない国もあるので、全ての人が英語が必要なわけではない。こう考えると、議論や交渉、知的会話などができるレベルの英語力が必要なのは、数%台しかいない、と言えるのではないか。


■4.自国語で大学教育までできる国は珍しい

 しかし、国民のうち英語が必要なのはせいぜい数%しかいない、という日本の状況は世界でも珍しい。

 たとえば、英語の話せるインド人は9千万人に上ると言われている。総人口が12.5億人なので、それでも7%台だが、国際会議や交渉の場で、インド人があの変わった抑揚の英語でリードしている場面にはよく出くわす。

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・・・インド人が、日本の大学では日本語で授業が行われていると知ると、驚くのだという。日本人の英語力の低さに驚いているのではない。日本人が母国語で自然科学や社会科学といった高度な学問を学べることに驚くのである。[1,p4]
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 インドの大学では英語で授業が行われる。これは500万人以上の話者を持つ言語が26もあるという多言語国家で、英語が準公用語となっている事と、大学の教科書は英語で揃っているので、そのまま使った方が効率的だと、という事情がある。

 そもそも世界で、自国語で大学まで学べるという国はそれほど多くない。ヨーロッパでもドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語などの大言語を除けば、デンマーク語とかアイルランド語とかチェコ語といった話者の少ない言語の国では大学の教科書のような少人数向けの本は出版できないからである。

 もう一つは、大学で使う高度な近代的概念用語を揃えた言語もそれほど多くない。たとえば「中華人民共和国憲法」とか「北朝鮮人民民主主義共和国」などでの「人民」「共和国」「憲法」「民主主義」などは、日本の明治の先達が漢字にした概念用語を直輸入して使っているだけだ。

 輸入品だから、いつまでも憲法や民主主義などが根づかないのだろうと皮肉の一つも言いたい所だが、逆に日本から輸入した概念用語がなければ、中国語や朝鮮語では大学教科書は作れなかったか、作れても何十年も遅れたであろう。

 自国語で大学教育ができるというのは、それだけその言語の人口規模が大きいことと、その言語が高度な近代的概念用語を揃えているという必要がある、ということである。そういう言語は世界でも10指に満たないであろう。我が国はそれだけ恵まれた環境にあるのである。


■5.「英語ができないのは、幸福な国の証」

 英語力のグローバルなテスト、TOEIC(Test Of English for International Communication)の2010年の平均点で、日本はアジアの30カ国中27位と低迷している。しかし、アジアの上位5位を見るとシンガポール、インド、マレーシア、パキスタン、フィリピンとなっている。

 この5カ国の共通点はイギリスやアメリカなど英語国の植民地になっていたことだ。これらの国では前節で述べたように、大学教育は英語で受けるというばかりでなく、今でも旧宗主国が政治、経済、文化的な影響力を持っている。だから英米に留学したり、移住したり、英米企業の現地法人に勤めたり、という事で、英語を使わざるを得ないシーンが多い。

 こういう国々では、英語ができない人はエリートとして扱われない。英語ができなければ、生涯大きなハンディを背負うので、必死に勉強しなければならない。日本人がいつ使うか分からないけど、とりあえず勉強しておこう、などと言うのとは、切実さが違う。

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 自国の産業を持ち、国民がみな一定の生活レベルを保っている日本では、海外に飛び出さなくても自国で幸せに生きていける。英語ができないのは、幸福な国の証でもあるのではないだろうか。
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■6.海外で仕事をするのに必要な能力は

 そうは言っても、仕事上、英語が必要な数%の人もいる。そういう人はどうしたらよいのだろうか。私の知人のAさんは、日本の自動車部品会社のアメリカ現地法人の社長をしているが、日本から派遣された駐在員に関して、次のような事情を語ってくれた。

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 日本からの駐在員で、TOEICで400点未満でも、明るくどんどんアメリカ人の中に飛び込んでいくような人は周囲と良いチームワークを作っている。仕事での会話と言っても、決まった専門用語と、中学レベルの文法と基本表現を知っていれば、だいたい間に合う。

 一番すごい人は、中卒ながら日本の現場で職長をやっていた人で、アメリカの工場でも、専門用語を並べるだけで、作業者をアゴで使っていた。それでも、一人一人を一生懸命育てようとしていて、その姿勢はアメリカ人にもすぐ伝わるので、皆、彼の言うことをよく聴いていた。
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 海外での仕事に必要なのは、1に専門能力、2に誠実さ・真剣さなどの人格、3にコミュニケーション能力だ。英語力は三番目のコミュニケーションの一部に過ぎない。


■7.英語をマスターするのに2千時間は必要

 アメリカの外務職員局の調査によると、アメリカ人がフランス語、スペイン語など欧米圏の言語をマスターするには約600時間で済むが、日本語や中国語、アラビア語などは難しく22百時間が必要だとしている。

 日本人が英語をマスターするのも2千時間ほど必要と言われており[a]、特に日本人が語学下手という訳ではない。単に日本語と英語はそれほど異なった言語だ、という事だ。

 中学から高校までで1300時間こなしているが、間延びして6年間もかけているから、実質500時間ほど。残り1500時間を社会人になってからやろうとすると大変だ。

 仕事を持つ社会人なら、せいぜい週2時間も英語学習に使えれば立派なものだが、それでは750週、14年もかかってしまう。こういうペースでは、日本で仕事をしながら英語を流暢に話せるレベルに到達するのは、ほとんど不可能だと考えた方が良い。

 成毛氏は日本人の社会人が、目的も必要性も不明確なまま、英語の勉強をするよりは、学問や読書をする事を勧めている。確かに、1500時間もあれば、1冊3時間としても、500冊は本を読める勘定になる。どんな分野でも、500冊も本を読めば専門家のレベルに達するだろう。その一部で古典を繰り返し読めば、人格も磨ける。

 科学技術や法律、経済に限らず、ドイツ哲学だろうが英米文学だろうが、日本では日本人による著書や、世界の名著良書の邦訳が揃っている、という日本人だけが享受できる幸福を活用すべきた。

 そうして身につけた業務能力と人格は、国内でもそのまま役に立つし、海外に駐在になっても便りにされる。英語は、現地に行ってから泥縄で練習すればよいのである。

 現地でなら集中的に英語を使いながら習得できるし、現地の真剣勝負の中で必要性がはっきりしてから身につけた方が効率的だ。Aさんの言うように、専門能力と人格が身についていれば、英語は即席でも仕事はできる。


■8.国際派日本人にお勧めの英語勉強法

 弊誌で今まで英語教育を扱ってきた号ともあわせて、年代別の英語勉強法をまとめると、以下のようになる。

・小学校まで: 幼児に英語を教えるのは百害あって一利なしであるから、まずは国語をきちんと教えて、言語能力、論理的思考能力を鍛える[b]。英語塾に通わせるよりも、論語の素読や日本語の名文を暗唱する塾に入れて日本人としての背骨を鍛えるべきだ。

・学生時代: 中学、高校では文法中心の英語をしっかり勉強する。英文法と知的に格闘することで、国語の力も磨かれる。大学に入って、将来、英語が必要な数%になる志があるなら、その文法力の上で、英米人の英語ではなく国際コミュニケーション用の英語(イングリック)を学ぶ。

・社会人: 英語を勉強する暇があったら、自分の専門分野の勉強をするか、日本の古典や歴史を学ぶ。もし、本当に英語が必要な数%となったら、現地で泥縄の勉強をすれば良い。

 これによって専門能力と日本人としての品格を持って、国際的な舞台でも流暢ではないが論理的な英語できちんと自己主張ができる国際派日本人になれるだろう。

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国土が育てた日本人(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■


国土が育てた日本人


■1.チームワークの得意な日本人

 アメリカに住む友人のAさんが一時帰国して、面白い話を聞かしてくれた。最近、日本人とアメリカ人合同のゴルフ大会に参加して日本人のチームワークの凄さを改めて感じた、というのだ。

 大会は「ベスト・ボール」というルールで、4人でそれぞれボールを打ち、その4つからベスト・ポジションを選んで、そこからまた4人がそれぞれ打つ。こうして各ホールで4人のうちのベスト・スコアだけをつけて、最良のスコアの組が優勝するという団体戦である。

 Aさんの組はたまたま日本人4人で、初めて会った人ばかりという組合せだったが、2、3ホールやれば、それぞれの腕前、得意不得意が判る。たとえばドライバーショットでは、高齢のAさんは方向性は正確だが、距離がでない。若手のBさんは距離はぶっ飛ばすが、時々とんでもない方向にボールが行く、等々。

 数ホールすると、特に相談もしていないのに、Aさんが先に打って、とりあえず距離はでなくとも、そこそこ良い位置を確保するようにした。その後でBさんを打たせると、もう最低線は確保しているので、プレッシャーから解放されて、距離も方向性も素晴らしい一打が出る。日本人の組ではそんなチームワークがごく自然に出来た。

 Aさんたちの前のアメリカ人ばかりの組は、そんな事はおかまいなしに、各人が「我こそは」とぶん回している。どうやら、誰か一人が良い当たりをすれば良いので、自分は失敗しても良いからと、難しいチャレンジを楽しんでいる様子である。大きな池越えのホールでは4人とも大胆な挑戦をして、全滅していた。

 一人ひとりの力量は、アメリカ人組の方が高いのに、チーム戦となると、日本人組が得意のチームワークを発揮して、最終スコアでは僅差で勝ったという。

 Aさんは、日本の自動車部品メーカーの現地法人の役員をしているが、アメリカ市場では、日系メーカーが最高品質の車を競争力ある価格で販売し、いまや北米市場でのシェアは4割近くに達するという。その原動力がこのチームワークであり、アメリカ人従業員たちにも教育を通じて、日本流のチームワークを発揮させているという。


■2.日本の国土の特性

 Aさんの話を聞いた後に読み始めた国土学の権威・大石和久氏の近著『国土が日本人の謎を解く』[1]で、日本人のチームワークの良さは日本列島の国土の特性が生み出した、というの指摘に、目から鱗の思いをした。この著書は、欧米や中国との国土の違いから民族性の違いが生まれている事を鮮やかに解き明かしている。

 日本の国土の特性を大石氏は10の特性にまとめているが、チームワークの発達に影響したのは、次の3つである。

・細長い弓状列島: 日本列島の最大幅は250キロ程度しかないが、列島の東北端から南西端は直線距離でも3300キロに達する。

・脊梁山脈の縦貫: その細長い列島の中軸を1〜3千メートルの高い脊梁山脈が縦貫している。ほとんどの河川は、この脊梁山脈から発して海に注ぐので、きわめて短く、急流となっている。

・数少なく、狭い平野: 山と川が多いので、平野は内陸地域では盆地として、海岸地域では河川が押しだしてきた河口の土砂の上にしかない。

 大きな平野として関東平野や大阪平野があるじゃないか、と思うだろうが、これらの平野がまとまって使えるようになったのは、江戸時代以降のことである。

 それまでは多くの川が両平野の中を流れており、洪水がある度に流路を変えるので、平野の中に点在する小高い所だけに、人が住んだり、田畑を作ったりしていた。

 江戸時代に入ってから、江戸湾に注いでいた利根川を銚子の方に付け替えるとか、大阪平野を北上していた大和川を堺市の方に流す、などというご先祖様の治水工事のお陰で、ようやくまとまった大きな平野として使えるようになったのである。[a]


■4.数百人単位の村で数千年、暮らしてきた日本人

 この小平野が散在する国土で、日本人は数多くの小さな村に別れて暮らしてきた。天保5(1834)年の全国の村の数は6万3千余もあり、平均的な人口は400人ほどだった。縄文時代の三内丸山遺跡も、人口4〜5百人程度と推定されているから、日本人は細かく散在した平地に、縄文時代から江戸時代まで数百人程度の小さな村で暮らしてきたのである。

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 狭く小さく分散している平野の、きわめて小さな集落の中で、歴史のほとんどの期間を暮らしてきたことが、われわれを規定しているのである。

 ここでは、何千年という期間にわたって、顔見知り仲間が共同作業によって、灌漑設備の設置や水の配分・田植え・稲刈り・道普請・屋根の葺き替え・冠婚葬祭などを協力し分担して行うという暮らしをしてきた。

 その結果、集落の中でのもめ事を最も忌避し、全戸参加による話し合いによって物事を定めたり、争いごとを解決してきたのである。これが、われわれの日本人の秩序感覚を磨いてきたのである。[1, p119]
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 日本人がチームワークが得意だというのも、こういう数千年の歴史の中で磨かれたムラ意識の所産なのだ。


■5.中国の大平原が独裁社会を生む

 日本人が分散した小平地で数百人単位の村落で生活してきたのとは対照的に、中国人は広大な平原で暮らしてきた。たとえば、北京から上海まで南北で1200キロ、最大幅も600キロほどの平原が広がっている。1200キロといったら、東京−福岡よりも長い距離だ。

 この広大な地域に水を引くには大規模な土木工事が必要だが、そのためには人民を大量動員できる権力が必要である。随の煬帝は、610年に総延長2500キロメートルにも及ぶ京杭大運河を完成させたが、このために100万人もの動員を行ったという。それだけの権力集中が中国にはあった。[1,p144]

 しかも、この大平原を目指して、周辺の異民族が押し寄せる。紀元1年からの100年間では、18回もの異民族の侵入や、反撃の征討があった。異民族の侵入から護るべく、都市を巨大な壁で囲み、さらには万里の長城を築いて国土全体を囲んだ。

 こういう国土では、民衆も自分たちを護ってくれる強力な権力者を必要とする。大平原が独裁社会を生むというのは、お隣のロシアにもあてはまる現象だ。

 しかし独裁社会で、腐敗や民衆の搾取が進み過ぎると、民衆が反乱を起こし、内乱の中から次の権力者が登場する。王朝の交替時期には、常に大規模な戦乱があった。「革命は銃口から生まれる」と毛沢東は言ったが、共産革命に限らず、歴代の王朝交代は常に暴力で行われてきたのである。

 各皇帝は自分の権力を守るために軍隊を持つ。現在の中国の軍隊は、国家に帰属しているのではなく、共産党に属しているが、共産党書記長という皇帝が、軍隊を握っている、と考えれば、今の共産党政権も中国の歴代王朝の伝統をそのまま引き継いでいるのである。


■6.ヨーロッパの国土が産んだ「公」の概念

 ヨーロッパの国土は、日本と中国の間に位置づけられるだろう。ヨーロッパの平野は、日本よりははるかに大きいが、中国ほどではない。しかもアルプス山脈が中央に聳えて、南北、東西を分断している。日本のように多くの地域共同体に別れていたので、封建制が発達した。

 しかし、欧州が日本と異なり、中国と似ている点は、ゲルマン民族やアジアの騎馬民族が周期的に襲ってきた、ということである。そのため、ヨーロッパの共同体は城壁で囲まれた都市国家となった。

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 パリを見ても、シテ島周辺から始まった都市城壁は、人口増加などの時代の変化とともに拡大し、最終的には周囲34キロメートルという大きさになったが、いつの時代にも大勢の人が肩がぶつかるようにひしめきあって壁の中で暮らしてきた。

しかし、都市規模が大きくなると、全員が顔見知りというわけでもないから、わが国のように「みんなでとことん話し合って、みんなで守り毎を決め、みんなでの約束として遵守(じゅんしゅ)する」というわけにはいかない。

 厳密な表現の文章による成文のルールを定め、それを守ると約束する人だけが城壁内に暮らすことができる権利を得るということにならざるを得ない。[1,p109]
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 そして、ひとたび外敵に襲われると、城壁の中に閉じこもって、市民が結束して防衛にあたる。「市民」とは、成文法を守る約束をし、いざという時には防衛の義務を果たすことで、城壁内に住むことを許された人々のことである。こうして同じ城壁内で住み人々が、共通のルールを守り、共同体のために尽くすところから、「公」の概念が生まれた。


■7.ヨーロッパの「公」、日本の「共」

 ヨーロッパの国土が都市国家の形成を通じて、「公」の概念を育てたように、日本や中国の国土もそれぞれに特徴をもった政治構造を産んだ。

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 日本のように、細かな平野が分散的・孤立的に存在しているのであれば、強大な権力は必要なかったし、また生まれもしなかった。これは日本人の強健への拒否や忌避という性癖にもつながっているし、逆にいえば中国人は強権好きということなのかもしれない。[1,p144]
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 小さな集落で、互いに顔をつきあわせながら、一生を暮らしていくことから、仲良く暮らしていくことが最優先となった。集落で物事を決定する場合も、民俗学者の宮本常一氏が記録しているように、全戸が賛成するまで徹底的な話し合いが行われ、時には反対者がいなくなるまで3日3晩も続けられたという。

 多数決が民主主義の意思決定ルールなのだが、十二分な話し合いがないままに決を採ろうとすると「強行採決」と批判するのは、このムラ意識からである。独裁者を嫌い、「強行採決」を嫌う気性は、日本の国土で数千年も続いてきたムラ社会で培われたものである。

 大石氏は、ヨーロッパで「公」の概念が育ったが、日本でそれに対するのは「共」であるという。「公」と「共」は性格を異にするが、個人と共同体と結ぶ絆として機能することで、法治主義、自由民主主義などの基盤となる。日本がアジアでいち早く、近代的法治国家としてスタートできたのも、欧州の「公」の役割を「共」が果たしてきたからであろう。

 それに対して、中国の独裁社会では、一人の皇帝が億兆の民を支配する。多数決どころか、民衆の投票すらあり得ない。法とは「公」や「共」のルールではなく、皇帝が臣下や民衆に下す命令である。

「公」も「共」もない社会では、およそ法治主義も民主主義も根付かない。民衆が声をあげられるのは反乱による武力革命だけだ。


■8.ムラ意識のグローバル社会での適応障害

 日本人は数千年のムラ社会の経験で、世界でも断トツのチームワークを得意としている。東日本大震災で世界に感銘を与えた互いへの思いやりは、このチームワークが発揮されたものである。

 しかし、ムラ意識は良い点ばかりではない。現代のグローバル社会はヨーロッパ流の「公」を中心とした構造をとっているので、日本流のムラ意識が不適合を起こす場合がある。

 たとえば、昨今の集団的自衛権の論議の中で、こんな発言をした学生がいた。

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 もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?
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 平和なムラ社会の中でしか通用しない発想である。天安門では民主主義を求める学生・青年たち大勢を、自国民でも平気で虐殺した政権である事が、まるで判っていない。

 彼らが反対する「集団的自衛権」とは、欧州の都市国家群が外敵から共同で防衛した歴史から出てきた概念で、欧米人にはごく当たり前の話なのだが、平和なムラ意識の持ち主には、改めて勉強して貰わないと理解できないのであろう。

 そういう意味で、国際派日本人を目指す人々には、グローバル社会の国際常識を学ぶ必要があるのだが、そのために一番、良い方法は、国際社会に触れ、外からの視点で自らの強み弱みを認識することだ。

 弊誌916号[b]で「西側先進国で、わが国ほど、政治、マスコミ、法曹、教育の各界で、いまだに左翼がしぶとく巣くっている政治的後進国はない」と述べたが、政治、マスコミ、法曹、教育の各分野こそ、もっとも国際社会から遠く閉ざされて、ガラパゴス的なムラ意識の残存している分野だからだ。

 日本人が国際社会で活躍・貢献しようとすれば、ムラ意識の良い面であるチームワークを発揮しつつも、このガラパゴス島から一度、外に出て、西欧流の「公」の概念を良く理解しなければならない。


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頑固一徹スイスに学ぶ(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■

No.900 沖縄の祖国復帰を果たした県民の思い

 沖縄が「グアム」化や「香港」化の道を避け、日本復帰を果たしたのは県民の祖国愛の賜だった。



■1.「グアム」化も「香港」化も避けた沖縄

 沖縄は昭和47(1972)年5月15日に返還された。戦争で失った領土が平和的な話し合いで短期間のうちに祖国に復帰したのは世界史上でもあまり例がない。

 一度失った領土を外交交渉で取り戻す事がいかに難しいかは、北方領土や竹島の現状を思い浮かべれば、容易に理解できる。香港はアヘン戦争の結果、1898年にイギリスとの間で99年間の租借条約が結ばれ、中国に返還されたのは1997年であった。

 まして米軍は沖縄戦で7万5千人もの死傷者を出した。アメリカ軍の中には、「沖縄は我々の青年の血で贖(あがな)った戦利品である」と発言する者もいた。

 昭和22(1947)年6月、マッカーサーは「沖縄人は日本人ではない」と発言した。この時点で、アメリカは、本土と沖縄を切り離して永久支配することを考えていた。いわば、今日のグアムのような形態である。

 朝鮮半島、中国大陸、東南アジアを睨む沖縄の地政学的な重要性を考えれば、ここをアメリカの直轄地として、自由に使えるようにしておきたい、と考えるのは当然であった。

 しかし、沖縄は「香港」にも「グアム」にもならず、平和裏に祖国に復帰できた。この世界史上での奇跡がどう実現したのか見てみよう。


■2.祖国防衛に尽くした沖縄

 沖縄が祖国防衛のために果たした役割は計り知れない。

 昭和20(1945)年2月のヤルタ会談で、ルーズベルト大統領は、日本を壊滅させ、無条件降伏させる方針を確認した。4月中に沖縄を占領した後、南九州上陸を狙うオリンピック作戦、続いて関東平野に侵攻するコロネット作戦が計画されていた。スターリンのソ連は北海道、東北地方に侵出することが決定されていた。[1,p19]

 このシナリオ通りに展開したら、本土決戦でさらに数百万人規模の日本人が犠牲となっていたろう。さらにドイツと同様、無政府状態となったまま、米ソに分割占領されていたはずだ。

 その悲劇を阻止したのが沖縄戦であった。日本軍の洞窟陣地を利用したゲリラ戦術により、米軍は太平洋戦争で最大の損害を受けた。日本軍守備隊の戦死者約6万5千人に対して、米軍は地上戦闘での死傷、神風特攻による艦船の沈没・損害、激烈な戦闘による神経症での戦線離脱などで合計7万5千人もの死傷者を出している。[a]

 日本軍の5倍の兵力を投入しながら、1ヶ月の作戦が3ヶ月もかかった。米軍は実質的には沖縄戦は敗北だったとの認識をしていた。[1,p17]

 そして、その被害の大きさに、このまま本土侵攻に進んだら、米軍も100万人規模の犠牲を出すであろうと予想された。ここから、米政府は無条件降伏の方針を撤回し、有条件降伏を勧めるポツダム宣言を出した。

 戦場となった沖縄で、日本軍は島民の三分の一、20万人を本土や安全な島北部に疎開させた[b,c]。それでも軍属として戦った青壮年、従軍看護婦らも含めて、10万人規模の住民犠牲者が出ている。

 沖縄戦での軍民の尊い犠牲により、本土決戦を避け得て、その何倍もの国民が救われ、国家と皇室の護持ができたのである。


■3.沖縄の「グアム」化を避けた昭和天皇のご提案

 この事情を踏まえてであろう、昭和天皇は沖縄県民に対して格別のお気持ちを抱かれていた。それは昭和62(1987)年に病に倒れられた際に、「(沖縄訪問は)もうだめか」と言われ、次の痛恨の御製を詠われた事から窺える。

 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

 昭和22(1947)年、占領下ながら、昭和天皇はアメリカに対して沖縄に関する重要な提案をされた。ひとつは、アメリカが沖縄を永久支配しようとしているのに対して、沖縄の潜在的主権は日本が持ち、施政権のみをアメリカが預かる形にして欲しいということ。

 もう一つは、共産主義勢力から沖縄を守るために、アメリカの軍事力を展開して欲しい、ということだった。この慧眼は、現代においても、沖縄の米軍基地が中国の覇権拡大を食い止め、東アジアの平和維持に必要不可欠の存在になっている事実からも窺える。

 昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復するが、その際にアメリカは昭和天皇のご提案を受け入れ、潜在的主権は日本が持ったまま、施政権はアメリカが預かる形とした。これにより「グアム」化への道は避けることができた。

 次の問題はアメリカが沖縄の施政権をいつまで持つのか、という点となった。イギリスが香港を99年間租借したように、アメリカも沖縄を長期間支配すべしというのが、当時のアメリカ国民の意見だった。このままでは沖縄は「香港」化する恐れもあったのだが、それを食い止めたのが沖縄の祖国復帰運動だった。


■4.「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」

 後に沖縄の祖国復帰運動の中心となった小学校教諭・仲村俊子さんは復帰前の沖縄県民の祖国への思いを次のように回想している。

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 復帰前の沖縄には、アメリカ施政下の琉球政府がありましたが、県民感情としては祖国日本が懐かしいのです。米軍統治下で物質的には恵まれていましたが、私たちの代で復帰を果たさないと、子供たちは自分の祖国がどこなのかさえわからなくなってしまうと危惧されていました。[1,p34]
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 祖国復帰運動に立ち上がったのは、沖縄教職員会だった。これは日教組とは違い、純粋な教育団体だった。その初代会長・屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏は、復帰後に初代の沖縄県知事となった人物である。この屋良会長の時に、学校教育を通じて日の丸掲揚を広げる運動が始まった。

 昭和27(1952)年に屋良会長名で次のような通知が出された。「各家に国旗を掲げるように奨励いたしましょう。国旗の注文はいつでも学校ごとにまとめて地区委員会を通じて申し込んでください」。毎年1万本の申し込みがあったという。本土側でもこれを支援して、大量の国旗を沖縄に送った。

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 当時、私は平敷屋中学校に勤務していましたが、初めて日の丸が学校で届いたときには、胸に響くものがあり、涙が出ました。[1,p35]
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 昭和30年代から40年代には、教職員が復帰運動の中核となった。「沖縄を返せ」と歌いながら、デモ行進を行った。沖縄全県で日の丸が掲揚された。

 こういう県民の想いに応え、佐藤栄作首相は昭和40(1965)年8月、戦後の首相としての初めての沖縄入りを果たし、那覇空港での第一声で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」と語った。この声明は祖国を願う県民を大いに勇気づけた。佐藤政権も政治生命をかけて沖縄復帰に取り組んだ。


■5.ニクソン政権の沖縄返還決断

 沖縄での祖国復帰運動の盛り上がりを背景にした日本政府の返還要求は、ニクソン政権を揺るがした。キッシンジャー大統領補佐官はニクソン大統領にこう提案をした。

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 日本の返還要求の圧力はもはや押し戻すことのできないところまでに来ている。この交渉を拒否すれば一切の基地を失ってしまうことになってしまう。[1,p23]
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 時あたかもベトナム戦争の最中であり、日本国内でも「ベトナム戦争反対」や「日米安保反対」と学生運動の嵐が吹き荒れていた。日本を自由主義陣営に留め、沖縄の基地を維持するためには、沖縄を返還せざるを得ないと考えたのであろう。昭和44(1969)年11月の日米首脳会談で「核抜き、本土並み、3年後返還」が合意された。

 しかし沖縄が日本に復帰して一体化・安定化し、米軍基地がそのまま残ったのでは、中国やソ連など共産陣営にとっては極めて都合の悪い。分断されたまま、住民が反米感情を抱いていた方が米軍の動きを制約できるし、いざとなれば沖縄だけ独立させて共産陣営に取り込む道も残る。


■6.「沖縄を日本革命の基地にしよう」

 そんな意向を受けたのであろう、左翼陣営から祖国復帰反対運動が起こされた。昭和43(1968)年、屋良会長が琉球政府の行政主席に当選し、事務局長だった喜屋武(きやむ)氏が会長に就任した頃から沖縄教職員会が変わり始めた。

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 学校に「日の丸に賛成か、反対か」と言うアンケートが配られ、驚いて思わず「本当に喜屋武先生の名前できているのか」と聞いたほどです。私の勤務していた那覇市の城岳小学校はしっかりした人が多く、「賛成」が多数でした。

すると「やり直し」と言われてアンケートが返ってきたのです。指導を受けて「反対」を多くすると、ようやく通りました。この一件でおかしいと感じ始めました。

 名護で開催された教職員婦人部の会では「今の日本に復帰するのではないから、復帰は言わずに安保反対だけを言え」という主張がなされていました。・・・

学校には「70年安保に向けて」というパンフレットが回ってくるようになり、街には「沖縄を日本革命の基地にしよう」という教職員会のポスターが貼られるようになりました。[1,p36]
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■7.「沖縄県民が望まないのに無理してまでも復帰させなくてもいい」

 学校でも闘争資金集めがあり、「この組織には絶対についていけない」と感じた仲村さんは、昭和44(1969)年11月に仲間5人と教職員会を脱会した。

 脱会声明を「沖縄タイムズ」と「琉球新報」に乗せ、連絡先として中村さん宅の電話番号を記した。新聞社は「相当の圧力が来るかと思うが大丈夫か」と心配してくれたが、翌朝、立て続けにかかって来たのは抗議ではなく、「よく頑張った」という激励だった。

 昭和46(1971)年6月に「沖縄返還協定」が調印され、11月に批准、翌年5月に返還という運びとなっていたが、そこに東京から「復帰が危ない」という連絡があった。前年に参議院議員に当選していた喜屋武会長が、与野党に「批准に反対してくれ」と説いて回っている、との由。

 また沖縄でも安保反対のデモがあり、東京からは県民の大多数が復帰そのものに反対しているように見えたので、「沖縄県民が望まないのに無理してまでも復帰させなくてもいい」という話が国会でも出ているとのことだった。

 仲村さんは居ても立ってもいられなくなり、組合を一緒に脱退した仲間たちと10月31日に「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」を開いた。千人以上の県民、市町村の首長や議員も集まってくれた。仲村さんもクビを覚悟で、登壇して意見発表をした。

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■8.「祖国復帰とは、必死に祖国を守るために戦われた英霊の御心に応えること」

 11月3日、仲村さんら8人の陳情団が上京した。沖縄出身の議員を始め、関係する政治家を回って、早期批准の陳情を行った。竹下登・官房長官などは祖国返還を願う仲村さんたちの訴えを涙ながらに聞いてくれた。

 さらに6〜13日は都心部やターミナルなどでビラまきをし、沖縄返還協定批准を願って「祈・批准」と書いたタスキを掛けて、整然としたデモ行進を行った。

 一方、返還反対運動は過激化して、沖縄ではゼネスト、渋谷では暴動事件が起こり、両方で火焔瓶が投げられて、警察官が死亡するという事件まで起きた。

 しかし、県民集会や陳情が奏功して、「沖縄返還協定」は11月24日に衆議院で自民党による単独採決で批准された。

 沖縄に戻った時は、年休の2週間を超えていた。学校で60人あまりに吊し上げられ、組合の分会長からは「お前たちが陳情に行ったから、沖縄返還が強行採決されたんだぞ」と、ノートでテーブルを叩きながら、怒鳴り散らされた。

 しかし、仲村さんは「私のクビ一つだけで沖縄が復帰できれば安いものだ」と吹っ切れた気分で出勤していた。何日か経って、校長とともに那覇市の教育委員会に呼ばれたが、理解ある教育長で、クビにはならずに済んだ。

 仲村さんと一緒に上京して活動した富川春子さんは、沖縄戦で現地召集兵の父親と幼い弟を亡くしている。富川さんは上京時の思いを目を真っ赤にしてこう語っている。

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 祖国復帰とは、必死に祖国を守るために戦われた英霊の御心に応えることなのです。
 上京時の私たちはわずか7名でしたが、背後には十数万柱の英霊がついていて下さると思うと、不思議と怖くありませんでした。
 沖縄戦で亡くなられた英霊を思えば、赤化していく沖縄の状況を到底座視することはできませんでした。[2]
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 今また、沖縄は中国とその手先となっている左翼勢力により祖国から奪われる危機に瀕している。
(文責:伊勢雅臣)


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選ばない

桜の開花も迫り、歓送迎会の季節である。

私も二十数年前に新社会人最初の歓送迎会に参加した。
普通二次会にはあまり行きそうにないものだが、何かの流れでついていき、別の部署に異動する課長のKさんをはじめとする4名で静かな居酒屋に入った。

タイミング的に、私はまだ会社で着るスーツを購入する前だったので、学生気分の抜けないいささかバブル感のあるダーク&ソフト系のスーツを着ていた。

二次会の席でそんな私を見たKさんが
「君はなかなかオシャレだな。いいか、これからもたくさん服を買うと思うが、服は選んではいけない。自分の好きな物を買う。それを忘れないように」
とおっしゃった。

それだけではなく、Kさんは主席での私の不作法な点について、何のためらいもなく叱責してくれた。
私もそろそろそういった役割もしなければならない年代に近づいている。

以来、服を買うときにはよくKさんの言葉を思い出している。



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中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ小史(下)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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 朝日は、中国の国内代弁者としてモンスター国家の成長に一役買った。


■1.「国外追放になる記事はあえて書く必要はない」

 ソ連崩壊後、朝日新聞は代弁の依頼元を中国に乗り換える。その伏線が昭和42(1967)年の親中派・広岡知男氏の社長就任だった。

 昭和39(1964)年に日中記者交換協定が締結され、日中双方が8人ずつの記者を相手国に常駐させるようになった。しかし、日本側の記者が、次々と「反中国報道」を行ったなどの理由で国外追放になり、1970(昭和45)年には朝日の秋岡家栄・特派員のみが北京に留まっていた。

 広岡社長は他紙からの批判をものともせず「こう書けば国外追放になるという記事はあえて書く必要はない」と秋岡特派員に指示していた。秋岡特派員はこの指示を忠実に実行した。たとえば1971(昭和46)年9月に中国共産党副主席だった林彪がクーデターに失敗して、ソ連に向かって飛行機で脱出する途中、モンゴルで墜落死した。

 この年の国慶節パレードが突然、中止されたため、重大な事件が起こったのではないか、という観測が世界に広まったが、秋岡特派員は「北京の様子はまったく平静」などと否定した。

 日本の各紙が林彪失脚を記事にする中で、朝日だけが現地からの否定記事を送り続けた。朝日が「林彪すでに死亡」と報じたのは、翌年7月に毛沢東がそれを認めた後だった。[a]


■2.文化大革命は「世紀に挑む実験」

 この頃、中国では10年余におよぶ「文化大革命」が吹き荒れていた。その始まりは1966(昭和41)年だったが、同年5月2日付け社説では、中ソ対立を機に、中国がソ連とは別の道を歩み始めていた事を踏まえて、次のような期待感を表明した。

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 そこには、いわば「道徳国家」ともいうべきものを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする「世紀に挑む実験」といった意欲も感じられなくはないのである。[1,p185]
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 しかし、この期待感は、紅衛兵たちの蛮行によってすぐに裏切られる。「紅衛兵」の腕章をつけた少年少女が北京市内にあふれ、大人を「私は革命に反対した」というプラカードを持たせて、市中を引き回したりした[b,c]。朝日はこの暴走を「理性的配慮を欠いている」などと批判しつつも、こんな強弁で弁護した。

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 スターリンは、反対者をおさえるのに血の粛清をもってした。中国では、こんどはもちろん、以前にもそれがほとんどなかったことは、大きな進歩である。・・・中国が人間改造という途方もない大事業に乗出した意義と影響を、冷静に見守る必要があろう。{1,p187]
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■3.「日本軍国主義復活」

 広岡社長は昭和45(1970)年3月から1ヶ月近くも、日中両政府の「覚書貿易交渉」の日本代表にくっついて、中国に滞在した。なんとか日中国交回復を実現させたい、という思いからであった。

 後に回想録で「現役社長が、株主総会もすっぽかして1ヶ月も中国に滞在していて、いったい何をしていたんだと社員からも、世間からも責められる破目になった」と自慢げに書いているが、明らかに新聞社社長としての立場を逸脱した入れ込みようであった。

 しかし、広岡社長が夢見ていた周恩来首相との単独会見は叶わず、日本代表団に混じっての集団会見参加しか許されなかった。その会見記事には周恩来首相の発言しか掲載されていない。これでは平特派員とかわらず「何をしていたんだ」という批判も当然である。

 その周恩来は佐藤栄作・自民党政権の沖縄返還、日米同盟堅持、防衛力強化を「日本軍国主義復活」と批判し、朝日はその発言を紹介した上で、さらに社説でこう述べた。

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「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力となっている」とか「沖縄の返還は全くのペテンだ」と中国側は主張した。・・・ われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。だが「復活」の危険な情勢にあることは、・・・認めざるを得ないと思う。[1,p170]
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■4.「安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を」

 おりしも、70年安保改定が進められていた。日米安保条約の自動延長が決まった同年6月23日付け社説はここまで述べている。

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 日中関係の正常化こそ、わが国の恒久的な安全保障の条件なのであり、“選択の70年代”の課題は、対米関係の調整に立った安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を並行して進めてゆくことである。[1,p173]
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 以後、朝日は「日中関係正常化」に邁進するが、それは「日米安保の解消」とセットになった進路であった。自主防衛力強化にも反対しており、それは中国の属国になる道に他ならない。

 広岡社長は帰国後、「日中友好」に血道を上げる。昭和46(1971)年4月には日中親善卓球大会を後援し、中国出土文物展を開催、47年の上海バレエ団公演では資金集め等、すべての実務を担当した。

 それ以前、日本国民にとって中国は「得体の知れない不気味な国」だった。昭和45(1970)年5月時点の時事通信社による世論調査では、中国を「好き」と答えた人はわずか2.5%であり、対中貿易は日本の貿易総額のわずか2%しかなかった。朝日の「奮闘」がなければ、その後の「日中国交正常化」そのものが不可能だったかも知れない。[d]


■5.朝日が始めた「南京大虐殺」キャンペーン

 中国の「日本軍国主義」批判に呼応して、朝日はその援護射撃をするかのように、自虐史観の宣伝を始めた。昭和46(1971)年8月26日夕刊から連載を開始した、本多勝一記者による「中国の旅」である。

 その中には「百人斬り競争」の記事がある。南京戦で、二人の日本兵がどちらが先に100人の中国人を殺せるか競争した、という戦中の東京日日新聞(毎日新聞の前身)の虚構の戦意高揚記事を、「日本軍の残虐行為」という視点で、書き直したものだ。

 後に山本七平氏が、日本刀で3人も斬れば使い物にならなくなり、ましてや「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、木刀でマキを切れないように物理的に不可能な点を指摘した。[e]

「中国の旅」の虚報に対して、様々な識者から批判されたが、本多記者は「中国で聞いた話を記事にしただけで、文句があるなら、中国側に言え」と突っぱねた。聞いた話が事実かどうか確認してから記事にするという基本も無視して、日本軍の「残虐行為」だけを書き散らした、まさにプロパガンダそのものである。

 ここから日本軍が南京で30万人規模の虐殺をしたという「南京大虐殺」のキャンペーンを、中国と朝日や日教組などの国内左翼勢力が連携して行い、日本人に中国に対する贖罪意識を持たせ、その上で「日中国交正常化」を中国ペースで進めた。

 林彪事件や文化大革命のように中国に都合の悪い事実は書かず、中国側の主張を繰り返し、「日中友好行事」に邁進すつつ、日本国民に虚構の「南京大虐殺」を刷り込んで贖罪意識を持たせる。中国にとって、朝日は日本国内における理想的な「工作機関」だった。


■6.日清戦争以来の中国侵略と「反共の障壁」を自省せよ

 昭和47(1972)年2月、親米・親台湾を信条とする佐藤栄作政権が末期を迎えると、周恩来は「日本軍国主義批判」をぴたりとやめ、次期首相と目される田中角栄を中国に招待した。

 首相となった田中角栄は、マスコミに「今太閤」と持て囃されるなか、内閣発足3ヶ月足らずのうちに、中国を電撃訪問し、「日中国交正常化」を謳い上げた共同声明を発表する。[d]

 これを朝日新聞は、広岡社長による「日中正常化と日本の進路」と題した論説を1面トップに掲げて、こう述べた。

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 去る9月25日、北京の人民公会堂で開かれた日本代表団の歓迎夕食会において、周恩来首相があいさつの中で「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」とのべて、日本の侵攻の起点を日清戦争としていることは、見逃してならぬ点であろう。・・・

明治維新によって、先進国の技術を取り入れ、近代国家に頭を突っこんだ日本が、富国強兵政策によって起こした中国との衝突が日清戦争であった。それ以降の日本人の頭の中には、侵略される側の犠牲を考える意識はなくなり、戦いに勝ち、国を取ったことによる国民の士気高揚のみが残った。[1,p173]
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 日清戦争まで日本の「侵略」とするのは、まさに中国側に立った特異な史観である。さらに同日の社説「共同声明の歴史的重み」は、こう述べた。

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 新しい日中関係の歴史は、戦前にさかのぼるわが国の中国侵略と、反共の障壁をかまえてきた戦後の外交政策に対する深い自省を起点とすることによって、初めて開かれる。[1,p174]
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「反共の障壁」とは、日本がアメリカと同盟を組み、西側陣営に属してきたことを指す。戦後のわが国は、日米同盟によって平和が保たれ、自由主義経済、貿易によって、奇跡的な復興を遂げた。それを「自省」し、文化大革命や大躍進政策で、数千万の犠牲を出し、経済も疲弊していた中国と共なる道を歩むべしと、朝日は説くのである。


■7.教科書検定の誤報

 宿願の「日中国交正常化」を果たした後も、朝日は中国の代弁者として忠勤に励む。中国は日本国民に贖罪意識を持たせつつ、それをテコとして賠償金がわりに経済援助を引き出す戦術をとった。そのためには日本国民の自虐史観を維持することが必要だった。

 昭和57(1982)年6月26日、朝日は一面トップで「教科書さらに『戦前』復帰へ」「文部省 高校社会中心に検定強化」「『侵略』表現薄める/古代の天皇にも敬語」と大々的に報道した。


 各紙で一斉に同様な報道がなされた事から、ある共通の情報元からの意図的なプロパガンダがなされたのだろう。特にこの年、9月に鈴木善幸首相が日中友好10周年記念行事で訪中を予定していたので、それに狙いを定めたようだ。

 朝日記事は、検定前と検定後の違いを一覧表にして、「日本軍が華北を侵略すると・・・」を「進出すると」、「中国への全面侵略・・・」を「全面侵攻」に訂正された、と指摘したのである。

 この報道を踏まえて、中国政府は日本側に正式抗議してきた。朝日の挙げた「華北侵略」の例をそのまま使っており、その報道に依拠したものであることは明白であった。

 その後、「侵略」を「進出」に書き換えた事実はなかった事が明らかになったが、朝日はわずか15行の「誤報訂正記事」を出しただけで、逆に「『侵略』抑制、30年代から一貫」と題する9段抜きの長文記事を出したりして、問題を煽り続けた。[f]

 この事件が外国政府が日本の教科書に口出しをする悪しき前例となり、教科書検定に「近隣諸国に配慮する」という「近隣諸国条項」が盛り込まれ、わが国の歴史教科書は自虐史観の度を強めていく。

 さらに、この傾向に歯止めをかけようと執筆された「新しい歴史教科書をつくる会」による『新しい歴史教科書』に対しても、朝日は「「中韓懸念の『つくる会』教科書」「中韓など反発必至」などと大々的な非難キャンペーンを行い、これに呼応するように中国政府が抗議をしてきた。中国とその代弁者・朝日は息のあった連携を見せ続ける。[g]


■8.朝日が貢献したモンスター国家の成長

 また中国は首相の靖国参拝については、まったく問題にしていなかったのに、昭和60(1985)年8月15日の中曽根首相の参拝に突然、非難の声をあげた。これは親日派・胡耀邦をターゲットにした共産党長老たちの権力闘争が背景にあったと考えられるが、以後、朝日は靖国参拝に関しても、執拗な日本政府攻撃を続けて「軍国主義批判」を援護射撃する。[h]

 権力闘争の末に天安門事件が起こり[i]、国際的な経済制裁を受けると、中国は天皇訪中をきっかけにした日本の制裁解除を目論み、朝日もこれを後押しして、実現させた。[j]

 こうして中国は共産党独裁体制を温存したまま、経済・軍事大国化し、わが国のみならず台湾、フィリピン、ベトナムなどの周辺諸国に軍事的な圧力をかけている。このモンスター国家を育てた大きな要因は、日本の経済援助と日本企業進出である。

 朝日に代表される親中マスコミがプロパガンダ報道ではなく、大躍進、文化大革命、天安門事件、さらにはチベットやウイグルでの蛮行を正確に伝えていたら、国民も警戒して、対中援助もこれほどには行われず、日本企業の進出ももっと抑制的となり、天安門以降の経済制裁も長期化していたろう。

 わが国は中国の巧みな外交戦略に乗せられてきたのであり、それは朝日という国内代弁者がいなければ成功しなかった。仮に国内代弁者なく、中国政府だけが同様の主張をしてきたとしたら、日本国民はかくも見事に騙されなかったろう。

 今後、このような過ちを避けるためには、わが国のマスコミが外国政府の代弁者ではなく、正確に事実を報道しつつ、日本国民のための言論活動をする、という本来の報道機関に戻ることが不可欠である。

(文責:伊勢雅臣)
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中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ小史(上)(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■




 敗戦直後からソ連崩壊まで、朝日新聞はソ連の忠実な代弁者として発言してきた。



■1.我が国の自由民主主義を破壊するプロパガンダ

 朝日新聞が「慰安婦問題」での32年も前の「誤報」を認めた事から、新聞、週刊誌、ネットが大炎上している。「誤報」と括弧つきで書くのは、弊誌にはそれが意図的な「誤報」、すなわち政治宣伝(プロパガンダ)だったとしか思えないからだ。

 朝日が、慰安婦は日本軍によって強制徴用された「性奴隷」だと誤認し、人道的な観点から謝罪や補償を訴えたのなら、まだ救いがある。その事実誤認が分かり次第、自ら謝罪して、正しい事実を広めようと誠実な努力をする限り。(その姿勢が全く見られないから、大炎上しているのだが)

 しかし、仮に朝日が韓国や中国の意向を受けて、誤った事実と知りながら、世界に訴えてきたとしたら、どうだろう。それは意図的な虚報によって、日本の国益・名誉を損ない、中韓を外交的優位に立たせる行為である。

 これを世に「売国行為」と言う。しかし、弊誌ではそのような悪罵よりも、確かな事実と自由な言論に基づく議会制民主主義を破壊して、かつてのソ連や現在の中国のような全体主義社会をもたらしかねない危険なプロパガンダであると批判する。

 弊誌では、20年近く前から、28号「平気でうそをつく人々」[a]や42号「中国の友人」[b]を初めとして朝日のプロパガンダを批判してきた。「慰安婦問題」に関する「誤報」は、中ソの代弁者として活動してきた朝日新聞の戦後70年の歴史のほんの一幕に過ぎない、と弊誌は見る。

 以下、その歴史を振り返ってみれば、この点は明白となろう。


■2.国際共産主義団体コミンテルンに協力した朝日記者

 朝日が中ソの代弁者となる予兆は、すでに戦前からあった。朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)は特派員として昭和2(1927)年から上海に駐在し、リヒャルト・ゾルゲと親交を結ぶ。ゾルゲはドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。


 尾崎はその後、朝日を退職して近衛内閣の嘱託となり、日本と蒋介石政権を戦わせて共倒れにさせ、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」を実現しようとするコミンテルンの方針に協力して、さかんに日本軍の中国大陸進出をけしかける記事を発表した。[a]

 その後、ゾルゲは在日ドイツ大使の私設情報官となり、尾崎と緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流した。二人は昭和16(1941)年に逮捕されて、死刑に処せられる。

 尾崎秀實の所行は、朝日新聞社とは関係のない、あくまで異端分子のものだろうか。当時は、ソ連が誕生したばかりで、共産主義の理想が巧みに宣伝されて少壮軍人や革新官僚などを洗脳していた。

 当時の知識人が集まっていた朝日の中にも、ソ連シンパが潜んでいたとしても不思議はない。戦後の朝日の報道ぶりを見れば、尾崎は氷山の一角だった、という事が見えてくる。


■3.朝日の共産主義運動への参加宣言

 敗戦から3ヶ月足らず後の昭和20(1945)年11月7日付け一面で、朝日は「国民と共に立たん/本社、新陣容で「建設」へ」という宣言を掲げた。戦争中、軍部に協力した報道責任をとるために、社長以下全重役、編集幹部が辞職し、今後は「あくまで国民の機関たることをここに宣言する」と述べた。

 同日の社説では、この「国民」とは「支配者層と判然区別せられたる国民でなければならない。それは一言にして言えば、工場に、職場に、農山村に働く国民のいひである」として、「新聞の担(にな)ふべき究極の使命は、働く国民の間から生まれるべき日本民主主義戦線の機関たることでなければならない」と明言した。

 朝日の言う「国民」とは、支配者層と区別された「労働者階級」であり、その「民主主義戦線」とは当時の日本共産党が唱えていた「民主戦線」に他ならない。「共産主義」の言葉こそ隠しているが、これは朝日の共産主義運動への参加宣言であった。

 この「宣言」の起草者は、後にマルクス・レーニン主義に強く傾き、毛沢東信奉者となる森恭三であった。戦時中の経営者層の退陣と同時に、尾崎秀實の後継者たちが実権を占めるようになったのである。


■4.サンフランシスコ講和条約への反対

 ソ連の代弁者としての報道が本格化したのは、日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約に際してである。当時はすでに朝鮮戦争の最中で、米ソの対立が表面化していた。ソ連は東欧に鉄のカーテンを降ろし、中国大陸を赤化し、今また中国軍を使って朝鮮半島に触手を伸ばしていた。

 この講和条約の意味する所は、時の吉田茂政権が、日本は米国を中心とする自由主義陣営に立ってソ連の侵略から国を守る、という道を選択したことであった。[d]

 しかし、朝日を中心とする左翼勢力は、これを「単独講和か、全面講和か」という問題にすり替えた。「全面講和」とは、ソ連と共産圏諸国を含めた全関係国との講和という美辞麗句で、現実に米ソが対立している以上、それは実現不可能な空想であり、それではいつまでも独立回復などできない事は明らかであった。

 一方の「単独講和」とは、米国を中心とする自由主義陣営との講和であるが、講和に賛成したのは48カ国、反対したのはソ連、チェコ、ポーランドの3カ国だけだったので、実質は「多数講和」である。これを「単独講和」と呼ぶのは、日本国民に国際社会の現実を見せまいとするプロパガンダそのものであった。

 朝日は、講和会議でのグロムイコ・ソ連首席全権の発言をそのまま伝えている。

__________
 日本は米国の軍事基地に転換されつつある。対日講和条約の目的は米軍を日本に駐在させることにあり、米国は「老練な戦争誘発者」たるダレスの指導下に「侵略者の連合組織」を打ち立てようとしている。[1,p69]
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「全面講和」などという日本人の琴線に触れる虚構で、ソ連にとって好都合な世論誘導をしてくれる、まことに得がたい代弁者が登場したのである。


■5.「日本を他国の戦争にまきこむ危険」

 米ソ対立の中で、日本の進路の第二の岐路は「60年安保闘争」であった。これは日米安保を、単に米軍に基地提供するだけの条約から、日米共同防衛、また在日米軍の配置や装備に関する両国での事前協議など、より対等の同盟に近づけようとする改訂であった。

 これに関して、朝日は昭和34(1959)年10月9日付けの社説「なお消えぬ安保改定への疑念」で次のような主張を展開した。

__________
 核兵器の持込みを含む、在日米軍の装備の重要変更と日本領域外における作戦行動は、これを「事前協議」するとしているが、なぜこれを単なる協議でなく、同意を必要とすると明記できないのか。・・・

「事前の協議を」を必要と認めた政府が、日本の安全を第一に考えなければならない安保条約に、日本を他国の戦争にまきこむ危険をもつ、日本領域外の米軍の作戦をどうして認めようとするのか。[1,p80]
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「日本を他国の戦争にまきこむ危険」とは、前節のソ連による「日本は米国の軍事基地に転換されつつある」と同じ見方である。そこには、ソ連の侵略からどう国を守るか、という視点が欠落している。以後、この「捲き込まれ論」は日米同盟反対の一つ覚えの論法として繰り返される。最近の集団的自衛権での騒ぎでも同様である。

 朝日の主張するように、もし在日米軍の作戦行動に日本の同意を必要とするとしたら、いかなる作戦行動であろうと、社会党が国会でごねて在日米軍を一歩も動かせなくなる。ソ連から見れば、在日米軍の動きを阻止する上で、実に効果的なくびきとなったろう。


■6.ソ連軍事増強よりも「我が国の防衛力強化」を懸念

 昭和50年前後には中国はソ連と対立するようになり、日米接近を図った。ここで朝日は親中派の広岡知男社長の旗振りで「日中友好」に大きな役割を果たしたが、これについては後編に譲る。

 昭和52(1977)年に、モスクワ特派員の経験もある親ソ派・秦正流が専務取締役編集担当となると、ふたたび親ソ派が社内で実権を握った。そして「ロシア・ソビエト国宝絵画展」「全ソ民族舞踊アンサンブル」「建国60周年記念ソビエト連邦展覧会」「ロシア美術館名品展」「ソビエト映画フェスティバル」と親ソ行事を次々と主催または後援して、ご機嫌取りに奔走する。

 昭和54(1979)年10月初め、ソ連が日米中の接近を威嚇して、国後、択捉島に5、6千人の約1個旅団と約50両の戦車などを配備したと防衛庁が発表すると、朝日は「もはや軍事力を背景にして、外交を展開する時代ではないのではないだろうか」と、まるで他人事のような前置きをした後、こう言い切った。

__________
 われわれは、今回のソ連側の動きに対して、国内で不必要な反応が生じることも防がねばならぬ。・・・ 今回のソ連軍基地増強が、我が国の防衛力強化論につながるおそれがあるからだ。[1,p130]
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 朝日にとっては、ソ連の軍事基地増強よりも、日本の防衛力強化の方が危険のようだ。ソ連から見れば、そうに違いない。

 ソ連は日本側の世論工作のためか、同月末にノーボスチ通信社社長一行を派遣し、朝日新聞東京本社を訪問させた。中江編集局長が対談で、北方領土の軍事力増強について質問すると、トルクノフ社長はこう答えた。

__________
 それらの情報は周知の通り、米国の軍事筋によってあおられたものであり、明らかに一定の目的を追求している。・・・いわゆる「ソ連の軍事的脅威」についてのペンタゴンのグローバルな宣伝キャンペーンだが、実際には存在せず、それを隠れ蓑にして米国と日本をふくむその同盟国の軍事力の増強が行われている。[1,p132]
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 自国に脅威を与えている軍事増強に対して、中江編集局長は食い下がることもせずに、このトルクノフ社長の発言をそのまま記事にして流した。まさにソ連の忠実なる代弁者であった。


■7.ソ連の「立場を正しく理解することが必要」

 昭和56(1981)年に、日本政府が2月7日を「北方領土の日」と定めると、朝日は猛烈に反対した。

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 ・・・東西の緊張が高まり、内外に右旋回が著しくなるなかで、「北方領土の日」をテコとした国民運動が誤った方向にねじ曲げられたら、所期の目的を達せられなくなるおそれがある。・・・いたずらに「ソ連脅威論」であおったり、右傾化のバネに利用してはならない。[1,p145]
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 相変わらず、ソ連の脅威を論ずることは「右傾化、軍事力強化のテコ」という論法である。同時に、相互信頼の確立に不可欠なのは、北方領土に対するソ連の「立場を正しく理解することが必要」として、こう力説する。

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 ソ連は第二次大戦において、世界で最も大きい人的、物的被害をこうむった。それゆえに第二次大戦の結果にソ連がこだわるのは、決して理由のないことではないのである。北方領土問題は、ソ連にとって国際法の問題というよりは、多くの犠牲のもとにえた結果を失えぬという、国益と感情問題なのである。[1,p148]
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 史実を見れば、ソ連が第二次大戦で受けた被害のほとんどはドイツとの戦いによるものであり、北方領土は終戦間際に我が国との中立条約を踏みにじって、武力で奪ったものだ。この点での自国の「国益と感情」を押し殺して、ソ連の「国益と感情」を「正しく理解せよ」と説くことは、筋金入りの代弁者でなければ言えないセリフだ。


■8.ソ連崩壊で代弁者の豹変

 ソ連は平成3(1991)年に崩壊し、新たな連邦「独立国家共同体」に生まれ変わった。

 これは西側諸国との軍拡競争でソ連経済が耐えきれずに崩壊した結果であった。極東においては、自衛隊と在日米軍がソ連軍と対峙し、その消耗を加速させた。朝日のいままでの論調と正反対に、日米同盟と自衛隊強化が、ソ連という最大の軍事的脅威を取り除いたのであった。

 ソ連の忠実な代弁者だった朝日は、この事態に豹変する。同年8月25日付け社説はこう述べた。

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「自由な共和国による揺るぎない連邦」。スターリンの時代以来、ソ連の指導層は自国をこうたたえてきた。それは建前にすぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGB(JOG注:秘密警察)などの「鉄の腕」に締め上げられてきた。・・・

 新連邦条約は何より、忌まわしい過去を清算し、これまで建前に過ぎなかったものに実質を与えるものでなければならない。[1,p163]
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「鉄の腕」「忌まわしい過去」とは、よくも言ったり。代弁者は、落ちぶれた依頼人を、手のひらを返したように見捨てた。しかし、朝日の代弁者としての本質は変わらない。

 今度は新しい依頼人、「中国」のために奔走するようになる。
(以下、次号。文責:伊勢雅臣)
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国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」


 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。


■1.「家がこんな状態なのに行くんですか」

 宮城県の沿岸の都市で、ある酒屋が今回の大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。若者と母親が店内の片付けをしていると、制服の自衛官が来て、1枚の紙を示した。「召集令状」である。

 若者は元自衛官であり、万が一の時に招集に応ずる即応予備自衛官であった。若者は令状を示す自衛官に直立して「了解しました」と答えた。

 横からテレビのレポーターが「家がこんな状態なのに行くんですか」と聞くと、「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、10年、20年と後悔しますから」 そばにいた母親も「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。[1]

 元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役並みの活動を期待されているのが、即応予備自衛官である。現在、約5600人いるなかで、今回の震災では4月中旬時点で、1300人が招集されていた。

 教育勅語に、理想の国民像として「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」(もし危急の事態が生じたら、義心と勇気を持って、公のために奉仕し)との一節があるが、まさにそれを絵に描いたような一場面である。


■2.「仲間のために自分は行く」

 東京電力福島第一原発の危機もなんとか沈静化しつつあるが、それも多くの人々の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」のお陰である。

 東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員、根本誠さん(47、仮名)は3月11日の震災発生当時、第一原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚10数人とそのまま原発に残って、復旧作業に入った。

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 被曝(ひばく)の危険性があることは分かっていたが、復旧作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた。
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 第一原発では連日、東電社員と協力会社社員、合計で300〜500人が残って、復旧作業にあたった。1日の食事は非常食2食、毛布にくるまって雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける。

 3日後の14日午前11時1分、根本さんが2号機で電源復旧作業に当たっていた時に3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。

 外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、灰色の煙がもうもうと青空に立ち上がっていた。「もうだめだ、、、」仲間の声が聞こえた。

 根本さんは「放射能をくらうぞ。避難するんだ」と声を上げて防護服のまま、瓦礫の上を走った。乗ってきた車は爆風で窓が割れて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近く、最後は息切れしながら、たどり着いた。

 根本さんは翌日15日から東電の緊急退避命令により、しばらく避難生活を送ったが、また志願して、第一原発に戻るという。

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 同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。むろん、行かなくとも誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く。[2]
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 行かなくては「自分がよしとはできない」とする心が「義」であり、危険を承知で現地に赴くのが「勇」である。


■3.「任務ですから」

 原発には、東京消防庁のハイパーレスキュー隊、自衛隊、警視庁なども放水活動のために駆けつけた。

 大阪市消防局は53人が20日夜から90時間、東京消防庁の活動を支援した。参加した隊員たちには、本人の意思を確認した上で、職務命令が出された。指揮を執った片山雅義・警防担当課長代理(48)は、こう語った。

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 東京消防庁が孤軍奮闘、国民のために命がけで戦っているのを、同じ消防職員として見過ごすわけにはいかない思いだった。

 私の息子は24歳だが、ほぼ同じ年齢の東京の隊員が体を震わせながら「任務ですから」とだけ言い残して出動していった。
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 原発から約20キロ地点の前進基地から、800メートル地点の指揮所までサイレンを鳴らして移動する途中で、自分たちに向かってお年寄りら6人の住民がお辞儀をした。

「腰を90度まで曲げて、深々とおじぎをされた。その姿を見て、これは絶対に何かお役に立って帰らねばと思った」と片山さんは語った。[2]


■4.全国から集まった3千人の都市ガス局員

 同僚が命がけで戦っているのを「見過ごすわけにはいかない」という「義勇」の心は、民間事業者も同じだ。

 仙台市ガス局では7市町村で35万世帯の都市ガス供給がストップした。この危機に全国の都市ガス業者が立ち上がった。北は北海道ガスから、南は鹿児島の日本ガスまで、最大手の東京ガスも含め、約30業者が約3千人を仙台に派遣。仙台市ガス局員約500人とともにガス管の損傷確認や一軒ごとの開栓作業など、人海戦術で復旧にあたっている。

 仙台市ガス局内に設けられた現地復旧対策本部には、会社ごとに異なる様々な作業着を着た技術者たちが集まる。全国に派遣要請を出した日本ガス協会の広報担当・山田俊彦さんは「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い。同業の仲間として放っておけない」と使命感を語る。

 新潟県柏崎市から8時間かけて駆けつけた同市ガス水道局の佐藤貴人さんも、3月末、仙台市内でガス管の修繕作業に従事した。「中越沖(地震)の際には仙台市にも助けてもらった。やっと恩返しができる」と、語った。

 オール・ジャパンによる総力戦の復旧作業で、地域ごとに供給が再開されていった。仙台市ガス局の桝川佳隆さんは「同業者の支援は本当にありがたい。全域復旧を急ぎたい」と声をつまらせた。[3]


■5.「荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声」

 電気、ガスと同様、ライフラインとして重要なのが物流だ。ヤマト運輸は岩手、宮城、福島の125店舗を震災後10日で再開させた。阪神・淡路大震災の時に要した日数が15〜20日なので、大幅に縮めている。

 石巻市でいち早く営業再開した石巻蛇田センターは、近隣の5事業所分の荷物を一気に引き受け、北信越、関西などの事業所から駆けつけたヤマト運輸社員がサポートして、通常1日取扱量800個程度のところ、3000〜3200個をさばいた。

 そのほとんどすべての荷物は、被災した親戚に食べ物を届けたいとか、親友に衣類を送りたいという、救援物資である。阿部浩・石巻支店長は言う。「自宅や避難場所に荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声。物流は電気や水道と一緒。同じインフラなんです」

 ヤマト社員たちの心意気を示すエピソードがある。ヤマト運輸のドライバーたちは、避難所間の供給物資の格差に気がついた。ある避難所には潤沢に救援物資が行き渡るのに、小さな避難所には行き渡らない。

 各担当エリアを隅々まで知り尽くしているヤマト運輸のドライバーたちは、自発的に小さな避難所まで救援物資を送り届けた。他の運送会社と共同で、救援物資の配送を行ったケースもあった。

 ドライバーたちの自発的な動きを知ったヤマト運輸本社では、こうした活動を支援するために急遽「救援物資輸送協力隊」を組織し、グループ挙げての活動に乗り出した。

 宮城県気仙沼市の青果市場に設けられた救援物資の一時倉庫では、約50人の自衛隊員と同数のヤマト運輸の協力隊が働いている。自衛隊が宮城県の倉庫からこの一時倉庫に物資を輸送し、ここから約90カ所の避難所に配るのがヤマト社員の役割である。[4,p13]


■6.自動車営業マンの奉公

 宮城県石巻市のトヨタ自動車系ディーラー、仙台トヨペット石巻店は、地震発生の40分後に、巨大な濁流に襲われた。車はすべて流され、営業再開のメドも立たないため、須藤店長は従業員に自宅待機を命じた。しかし、4日目には、従業員が一人、また一人と店舗に戻ってくる。

 売るものなど何もなかったが、須藤店長は店を開けることにした。すると、顧客が次々と店舗にやってくる。「流されたクルマで玄関が開かない、道路が通れない」など、用件の大半はクルマの撤去で、1日に10件以上も依頼が舞い込んでくる。店舗の片付けも終わらない中で、従業員は数人がかりで、撤去作業に出かけていく。

 携帯電話がつながるようになると、営業マンたちは常連客の安否確認を始めた。すると、顧客からの第一声は「生きていたか」「家族は大丈夫か」と、営業マンたちの身を案ずる言葉だった。

 電車もバスも途絶えた被災地で、車は生活に欠かせない移動手段であり、物資の運搬手段である。顧客からは次々と注文が寄せられる。地震発生後3週間で新車30台、中古車25台を受注した。震災前の10日間の受注は10台だった。

 石巻店は津波の難を逃れた在庫をやりくりして、4月1日、震災後の納車第1号ハイブリッド車「プリウス」を顧客の許に届けた。仙台トヨペットは、全国各地のディーラーに呼びかけて、200台の中古車を調達する手はずを整えた。

 トヨタ本体からも毎日のように救援物資が届けられる。仙台トヨペットでは、支援物資の多くを自社の店舗だけでなく、避難所や病院にも届けている。地域社会に根ざしたディーラー網は、住民生活を支える社会インフラとなっている。[4,p11]


■7.生活に必要なものを普通に買える喜び

 宮城県気仙沼市にあるイオン気仙沼店では、地震発生直後、店舗にいた買い物客と従業員は、避難場所に定めてあった店舗正面入口に集まった。町内放送は高さ6メートルの津波が押し寄せてくる、と伝えた。雪が降る中、高瀬千晃店長(59)は高台にある県立高校跡地などに全員を誘導し、一人の被害者も出さずに済んだ。

 翌日、避難先から店に戻った従業員たちが目にしたのは、無残に破壊された売り場だった。建物はなんとか残ったものの、1階売り場では自動車が流れ込んで横転しているなど、膨大な瓦礫の山に埋め尽くされていた。

 高瀬店長は、どう店を再開するのか、悩んだ。店舗の外のスペースは既に自衛隊が拠点として利用していた。建物の内部が使えないとすれば、残るは屋上しかない。「お客さまが満足する売り場になるのか。そもそも、早い時期に再開する意味があるのか」と迷った。

 それでも顔見知りの常連客からは「お店はいつ開くの?」「早く営業して」と何度も声をかけられた。従業員たちにとっても、大切な職場だ。

 4月1日、屋上駐車場にテントを張った仮設店舗で、店を再開した。並んだ商品は、カップ麺、野菜、自転車、布団など生活必需品が中心だった。冷蔵庫が必要なものは置けない。

 斎藤光代課長(62)が朝礼で、いつものように「行動規範宣言」唱和のリード役を務めた。斎藤さんは26年前の気仙沼店開業時にパート従業員として採用され、その後、正社員として、この店で働き続けてきた。

 朝礼では、再開にこぎ着けた喜びで、多くの従業員が涙を流した。開店前に約500人もの買い物客が列をなしていた。開店後は、臨時レジの前で長い行列ができた。生活に必要なものを普通に買える喜び、その客の喜びを従業員も受けとめたことだろう。

 売り場を完全に破壊された店舗の本格復旧は今もメドが立たない。それでも斎藤課長は誓う。「私たちにはこの場所しかない。ここで必ず復興する」[4,p6]


■8.公とは「大きな家」

「公に奉ずる」の「公」とは、「おおやけ」、すなわち「大きな家」という意味である。国全体を一つの「大きな家」だと見なし、その家族一人ひとりがそれぞれの働きを通じて、「大きな家」を支えることが、「公に奉ずる」ということである。

 ここで紹介した即応予備自衛官、原発作業員、消防隊員は言うに及ばす、ガス工事のおじさん、宅急便のおにいさん、自動車営業マン、スーパーのおばさんたちも、一人ひとりがそれぞれの仕事を通じて、立派な「奉公」をしている。

 そういう生き方を理想とするのが、我が国の国柄であり、明治日本の急速な隆盛も、戦後の奇跡的な復興も、多くの国民がそれぞれの場で奉公に勤しんだ事が原動力となっている。

 震災によって、本編の登場人物たちのように、いまだ多くの人々がそれぞれの職場で奉公をしていることがあきらかになった。そしてこれらの人々の生き様に感ずる処があったら、あなたの心の中にも、このDNAが脈々と受け継がれていると思ってよい。

 大震災を契機に、国民一人ひとりの中で、「義勇公に奉ず」の心が目覚めたとすれば、膨大な犠牲者の御霊も慰められるであろう。

(文責:伊勢雅臣)
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Media Watch : 政治的ウソの見分け方(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

Media Watch : 政治的ウソの見分け方
〜 国際政治学者・中西輝政氏に学ぶ

 歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治的ウソを見分けることができる。




■1.「予測をどこでどう間違えたのか?」

 国際政治学者の中西輝政京都大学教授は、自ら政治的なウソに騙された事例を紹介している。

 イラク戦争直後、教授は二、三年かかるにしろ、イラクの国内状況は次第に落ち着きを取り戻し、経済の発展も始まるだろうと考えていた。しかし、イラク情勢はその後何年経っても、依然として混迷状態にある。そこで教授は「予測をどこでどう間違えたのか」と何度も反芻した。

 一つは情報の歪みである。ワシントンやニューヨークの一流メディアから流される情報はすべて楽観論一色で「アメリカはすでに並ぶものなき軍事大国で、その力は隔絶している」などというものだった。「いまから考えると、かなりの部分が情報操作だったのでしょう」と教授は言う。[1,p164]

 もうひとつの反省点は、自身で「あれ?」という疑問を持ったのに、それを深くつっこまなかった事だ。その疑問とは、なぜアメリカ軍はイランやシリアとの国境を閉鎖しなかったのか、という事であった。

 国境を閉鎖しなかったら、イランからアルカイダなどのゲリラ勢力が自由に入ってくるし、シリアからも武器や物資が運び込まれてくる。「こんなことでは危ない。なぜ閉めないのだろう」と教授は疑問に思ったが、「まあ、アメリカのことだから、そんな事は百も承知でやっているのだろう」「人工衛星か何かで監視しているのだろう」などと、自分の疑問を押し込めて、自身を納得させてしまった。


■2.「ふと浮かんだ疑問」を大事にする

 当時、大統領選を翌年に控え、ブッシュ政権は「アメリカの鮮やかな勝利」を強調していた。ラムズフェルド国防長官は「アメリカは軍事革命を果たした」「衛星とスリムな軍隊で、アメリカは世界のどの地域でも同じ事ができる」という新ドクトリンを打ち出していた。

 しかし、国境を閉鎖しようとしたら、最低3、4万人の兵力を増派しなければならない。それでは「イラクは実はうまくいっていないのではないか」という批判を招きかねない。

 その批判を避けるために、国境は閉鎖しなくとも何とかなるだろう、という大バクチをラムズフェルド国防長官は打ったのだった。そして、それに都合のよいウソの情報を流していたのである。はたしてバクチは裏目に出て、イラクは泥沼化し、アメリカは深い傷を負った。

 中西教授は、もし「なぜ国境を閉めないのだろう」という疑問にこだわって、いろいろ調べていけば、かなりの情報が集めら、早い段階で「この戦争は泥沼化する」と分かったはず、と自省している。

 ふと浮かんだ疑問は自分の素直な感覚であり、物事を考える際にこれがものを言うことが多いと、教授は言う。


■3.美しい言葉にはトゲがある

 我々日本国民もさまざまなウソに騙されてきた。たとえば、「次の言葉のうちで、あなたが好感できるものを選んでみてください」と中西教授は問いかける。

「豪華」「自慢」「自由」「蓄財」「大物」「平等」「格安」「平和」「出世」「民主」 おそらく大部分の人は「自由」「平等」「平和」「民主」などを選ぶ。これらの「美しい言葉」は誰も疑わない。だからこそ、そこに危険なワナが仕掛けられている。これらの「美しい言葉」は、人々の思考停止を誘い、我々の素朴な感覚を押さえつけてしまう。

 たとえば「平和」。軍隊をなくし、核兵器をなくせば、平和な世界が来る、と戦後教育では教えられてきた。そして「平和」を声高に叫ぶ人々は、「核兵器反対」を唱え、米国の艦船が核を積んでいるのかどうか、などと問題にしていた。

 しかし、彼らは日本を狙うソ連や中国の核兵器には何も言わない。かつて広島の反核集会で、「米国の核ミサイルだけでなく、ソ連の核ミサイルにも反対する必要があるのではないか」と発言した学生が、演台から引きずり下ろされてしまった事もあった。

 この学生のように素朴な疑問を大事にすることで、こういう美しい言葉に隠された危険なウソを見破ることができる。

 美しいバラにはトゲがあるが、美しい言葉にはウソが隠されてることがしばしばある。政治的ウソを見分けるには、まずは美しい言葉を見たら、そこにはウソが隠されていないか、気をつける必要がある。そこから素朴な感覚が働き出す。


■4.化けの皮がはがれた「日中友好」

「日中友好」も、かつては多くの日本人を騙して、膨大な国富を奪った美しい言葉であった。

 1980年代には「日中友好2千年」「日中は(同じ漢字を使う)同文同種の国」「一衣帯水(一筋の帯のように、細い海峡に隔てられた隣国)」など、マスコミの流す様々なスローガンが友好幻想をかき立てた。総理府(現・内閣府)の調査によると、1980年代前半では70%以上の日本国民が中国に親しみを感じていた。

 もともと、これらの美しいスローガンは、中国がソ連と対立して、日本からの経済協力を必要としていた時代に、流されていたものである。[a] 「日中友好2千年」などというスローガンが、いかに歴史的に見ても偽りに満ちたものかは[b]で述べた。

 最近は尖閣諸島問題や反日デモなどで、こういうスローガンのうさん臭さが誰の目にも明らかになり、ここ数年では、中国に親しみを持つ人々は20%台にまで落ち込んでいる。

 しかし、過去20年ほど「日中友好」に騙されてきた結果、3兆円以上(日本国民一人あたり3万円規模)も貢いできた対中ODAは感謝もされずに忘れ去られようとしている。

 またマスコミの「中国経済賛美」に乗せられた日本企業の対中投資額も10兆円規模に達しているが、日本企業がいざ中国から撤退しようとしても、中国政府や合弁の相手企業は難癖つけて投資分を返さない。「日中友好」の美辞麗句に騙されて、膨大な国富を我々は奪われてきたのである。

 孔子は「便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり(外見が良いだけの人を友とし、人当たりが良いだけの人を友とし、言葉巧みな人を友とするのは損である)」として、友を選ぶことの重要性を語っている。

 国家間の関係も、我々の友人関係と同じである。相手が友として信頼してよい人物かどうかを見極めることが大切だ、という素朴な感覚を大事にしなければならない。


■6.米軍の刑法犯は国内平均の半分以下

 近年、中国が太平洋に覇権を伸ばそうとするにしたがって、沖縄の米軍基地に関する政治的ウソがさかんに流されるようになってきた。沖縄の米軍基地こそが、中国の太平洋侵出にとっての最大の障害だからである。

 たとえば、沖縄には在日米軍基地・施設の約75%が集中していると言われると、ほとんどの日本人は驚いて、いかに沖縄県民が米軍基地の「過重な負担」を堪え忍んでいるか、と思ってしまう。

 しかし、この75%とは米軍が単独で使用している基地だけの話で、自衛隊と米軍が共同使用している三沢、厚木などの基地を加えると約25%というのが実態である。[2]

 また、沖縄で数年に一度、米兵による強姦事件などが起きると、マスコミが大騒ぎするが、千人あたりの刑法犯検挙人数で見ると、

−沖縄の米軍  1.4人
−沖縄県民   3.0人
−来日中国人  15.7人(登録者・永住者+短期旅行者/日数)
−来日韓国・朝鮮人 19.4人 (同)

 となっている[3]。外国人犯罪について騒ぐなら、10倍以上の刑法犯を出している近隣諸国からの在留者、旅行者こそ問題にしなければならないはずだ。

 さらに最近は米軍の新型輸送機オスプレイの危険性がマスコミで騒がれているが、これもデータを見れば、そのウソが分かる。オスプレイは2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回で、いま使われているヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下である。沖縄県民の安全を本当に心配するなら、一刻も早くオスプレイ配備を願わなければならない。

 現在のヘリコプターCH-53Dでは尖閣諸島には届かないが、オスプレイなら1時間で着ける。オスプレイの「危険性」を本当に心配しているのは中国軍の方であろう。[4]

 政治的なウソが、センセーショナルな犯罪報道や、巧みに作られた数字によって流されることがある、と知れば、ちょっと待てよと、素朴な感覚を働かせるチャンスが出てくる。

 特に最近は、[2]や[3]のように、大手マスコミの報道する政治的ウソをデータで客観的に暴くインターネット・サイトも増えてきているのは、歓迎すべき傾向である。こういうサイトを見聞する事で、データを通じて、我々の素朴な感覚を磨くことができる。


■7.我々の素朴な感覚を磨く道

 我々の素朴な感覚を磨くには、他にどのような道があるのか。一つは人生経験を積むことだが、もう一つは、他者の経験、すなわち歴史に学ぶことである。

 中西教授はイギリス・ケンブリッジ大学に留学した際に、国際政治に関する分野を教わったのは、歴史学者のハリー・ヒンズリー教授だった。ヒンズリー教授は「歴史に還元しないと何事も本当の知識にはならない」と中西教授に教えたという。

 中西教授の国際政治に関する独自の見方は、歴史的な視野を持っているところから来ることが多い。たとえば、現代の日本が直面している少子化、人口減少に関しても、こんなエピソードを紹介している。

 1935年にアメリカ政府は、米国における長期人口予測を発表した。そこには、次のような予測が示されていた。

__________
 1965年になったとき、アメリカの人口は三分の二に減っているだろう。大々的に移民を受け入れるか、それともこのままやっていくかの大変な分かれ道だ。
[1,p216]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この予測は見事にはずれた。第二次大戦が始まると、急に結婚率が上がり、それにつれて出生率も大幅にあがった。これが1965年まで続き、「大ベビーブーム」時代が出現したのである。

 もし、1935年時点で、この予測にしたがって、大々的な移民政策がとられていたら、どうなっていたろう。現在でも、大規模な移民政策がうまく行っている国がないのは、トルコ移民問題に悩むドイツ[c]や、中国化しつつあるカナダ[d]を見れば明らかである。

 アメリカは経済的にも社会的にも1960年代に黄金時代を迎えるが、もし1935年の時点で大規模な移民政策をとっていたら、貧しい移民たちへの生活保護に税金を投入せねばならず、また治安の悪化などで、その後の黄金時代を迎えられたかどうかは分からない。

 大ベビーブームを経験したアメリカですら、その前に人口減少が政府によって予測されていたという歴史的事実を知っているだけで、我が国の少子高齢化はもはや覆せない傾向だとあきらめ、1千万人移民計画などに突っ走る危険性を感じとることができるだろう。

 歴史を通じて、人類の過去の経験を知ることで、我々の素朴な感覚も磨かれていくのである。


■8.「宙ぶらりん」の状態に耐える

 少子高齢化と人口減少を前にして、大規模な移民政策にも走らず、何か他の方策はないかと思い悩む状態は人間にとって、つらい状態である。弱い人間はえてして、「もう移民政策しかない」などと、一足飛びに結論に飛躍したがる。

 イギリスの軍事史研究家かつ戦略思想家のリデル・ハートは次のような言葉を残している。

__________
 ものごとがいずれにも決しない状態に耐えることはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて「死に至る道」(後先考えずに飛び込んでしまう衝動的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。

しかし、このつらい「宙ぶらりん」の状態に耐えることこそ、可能性の明確ではない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼(かいじん)に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである。[1,p25]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「平和」とか、「日中友好」などという美辞麗句に踊るのも、現状の「宙ぶらりん」の状態に耐え続けることができず、政治的ウソとして与えられた明快な結論に飛びつく、という弱さの表れだろう。

 フランス革命やロシアや中国の共産革命の歴史を知れば、政治的な嘘に踊らされて、「死に至る道」を突っ走った国民の悲劇を目の当たりにする事ができる。
逆に、宙ぶらりんの状態に耐えつつ、一歩一歩、素朴な感覚に基づきながら危機を克服してきた英国の強さを知ることができる。

 どちらの道を目指すかは、その国の人々がいかに政治的ウソにだまされずに、自らの素朴な感覚を磨き、働かせるか、にかかっている。

(文責:伊勢雅臣)
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ぼくらの祖国を甦らせる「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」

■1.「奇跡の島」

 日米の最大の激戦が行われた硫黄島(いおうとう)は、アメリカでは「奇跡の島」と呼ばれている。戦後、日米の生き残った戦士やその子、孫、ひ孫が集まって、毎年早春に合同慰霊祭をやっているからだ。

 青山繁晴さんは、硫黄島で生き残った一人、金井啓さん(当時82歳)と会った時、この合同慰霊祭について、こう語った。

 それなのにそこにやってくるアメリカ軍の生き残りは、自分だけでなくて子や孫、ひ孫に至るまですべてアメリカ国民が支えて、つまりみんなみんな、税金で来ますね。アメリカ国民の支えによって、アメリカの政府とアメリカ軍の支えによってやってくる。

そして亡くなった方々は、ぼくが調べたらケンタッキーに帰った人も、ニューヨークに帰った人も、カンザスシティーに帰った人も、サンフランシスコに帰った人も、みなヒーローになって、そこで褒め称えられて祖国を守った英雄として扱われています。

 ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分たちで出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方はいまだに滑走路の下や岩の下に閉じ込められたままになっています。


■2.「この違いは何ですか。日米の違いは何ですか」

 日本から遺骨収容に行く人々は自費で硫黄島に渡り、政府に許されたごく一部の地域でしか、活動を許されていない。そして、米軍が作り、今は自衛隊が使っている滑走路の下には無数の遺骨が、今も眠っている。およそ2万人の戦没者のうち、遺骨として収容されたのは、いまだ8千数百柱に過ぎない。

 金井さん、この違いは何ですか。日米の違いは何ですか。ほんとうは、日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊ではなくて悪者だと教えてきたから、悪者だから忘れて良かった、悪者だから放っておいてよかった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使ってよかった、これが戦後日本の本当の真実なんですね。


 金井さんはそのとき突然、大きな声を出した。

「その通りっ。俺たちのどこが悪者なんだ。おまえたちのためにみんな戦ったんだ」

 そのたった一言を叫んで、金井さんはまた静まった。


■3.擂り鉢山

 青山さんは金井さんに会う前日、硫黄島に行っていた。硫黄島は東京都の小笠原村に属する昔からの日本の国土である。青山さんはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)の社有ジェット機に乗せて貰ったのだが、羽田からわずか2時間半、沖縄より近い。

 しかし、硫黄島は海上自衛隊の基地となっており、特別な許可がないかぎり上陸できない。青山さんは防衛庁と半ばケンカ混じりの交渉をして、「行くなら勝手に行け。ただし自衛隊は協力しない」とまで言われて、個人的にFNNのツテを辿って、ようやくやってきたのだった。

 ジェット機が島の上空に到達すると、慰霊のためにぐるりと一周して貰った。南端の擂鉢山は、その名の通り、擂り鉢(すりばち)の形をした火山であるが、その南側の火口が崩れている。アメリカ軍の艦砲射撃と爆撃により、火口が吹き飛んでいるのだ。この山にも張り付いていた日本軍将兵は、山の形が変わるまで砲撃されて、どうやって生きていられただろう。



 この擂り鉢山の頂を、激しい戦闘の末に占領した米兵のうちの6人が力を合わせて、星条旗を結んだ一本のポールを立てた。従軍カメラマンのローゼンタール記者がその光景を撮った写真は、ピュリツァー賞を受賞し、世界的に有名になった。

 アメリカはその写真を第二次大戦中最大の激戦の勝利を記念するものとして、そのまま立体の巨大な彫刻にして、首都ワシントンDCの広場に据え、自国のヒーローたちを称えている。

 わが国の観光客が、ワシントンDCを訪てその像の記念写真をとったりしているが、その陰に2万余もの同胞が犠牲になっていることをどれだけ知っているだろうか。ここでも、硫黄島のアメリカ軍将兵と、日本軍将兵とのそれぞれの国の処遇の違いは残酷なまでに明らかである。



■4.滑走路での土下座

 1944年12月、米軍はサイパン島などマリアナ諸島から爆撃機を飛ばして、日本本土の爆撃を開始したが、マリアナ諸島から東京までは往復5千キロもある。戦闘機は航続距離が足りなくて護衛できない。また爆撃機も被弾したり、故障したりすると、途中で海に落ちるしかない。

 マリアナ諸島と東京のちょうど中間にあるのが、硫黄島だった。米軍からしてみれば、硫黄島に滑走路を作れば、日本の本土爆撃をより効率的に、より少ない損害でできる。

 だから、米軍は硫黄島の戦いが終わる前から、必要な土地を制圧するや滑走路を作り始めたのだ。日本兵の亡骸を収容することもなく、その上からコンクリートを流し込んで、滑走路を作った。

 硫黄島が返還された後も、滑走路のごく一部が遺骨収容のために掘り返されたが、大部分は今もその下に日本兵の遺骨を下敷きにしている。

 ジョット機が滑走路に着陸し、倉庫の隅に機体を寄せた。小さな飛行機で、滑走路に降り立つステップは3段ほどしかない。しかし、青山さんの両足は凍りついたように動かない。

 その理由は青山さんには分かっていた。自分が滑走路に足を下ろしたならば、自分たちのために命を捧げた先人の頭や胸や腰を踏みつけることになるからだ。

 しかし、硫黄島に滞在できる時間は限られている。クルーは帰りに備えて機体の点検もしなければならない。青山さんは足を無理に動かして、地面に降りると、そのまま土下座をした。滑走路のコンクリートに手のひらを当て、その下にいるはずの英霊たちに語りかけた。

 これから硫黄島の中を見せていただいて、それをぼくが生きている限りは必ず国民のみんなにありのままお伝えしますから、今から島の中を見せてください。どうかお許しください。



■5.「これは実質的な敗戦ではないか」

 硫黄島の日本側の司令官、栗林忠通・陸軍中将は、武官として米国駐在経験もあり、米軍の物量作戦や戦略を見抜いていた。そして本土空襲を一日でも遅らせるために、硫黄島での戦闘を一日でも長く引き延ばすことを決心した。

 そのためには波打ち際で華々しく玉砕するのではなく、島内に地下壕陣地を作り、砲撃・空爆を凌ぎつつゲリラ戦にでる、という戦術をとった。

 中将は「自決をしてはならぬ」「万歳突撃をしてはならぬ」と命じた。どうせここで死ぬなら、最後は華々しく散りたいと願うのは人情で、この命令には反発もあったが、中将は各部隊を回って、自身の考えを説いた。

 結果から見れば、中将の作戦は成功した。2万余の日本将兵のほとんどが戦死したが、米軍も総員7万5千のうち2万6千近くの死傷者を出し、当初、島を5日間で占領する計画だったのが、36日間もかかった。

「これは実質的な敗戦ではないか」という一大論争が米国内に沸き起こった。小さな島一つ取るのにこれほどの被害が出るなら、ルーズベルト大統領の主張する無条件降伏を要求し続けて、日本本土決戦まで行ったら、どれだけの米兵の命が失われるのか、という疑問がつきつけられた。

 硫黄島戦の直後、ルーズベルト大統領が急死した事もあって、ポツダム宣言での有条件降伏に変更され、ようやく日本が降伏を受け入れられる余地が生じた。硫黄島2万余の英霊は、その死闘によって、和平への道を切り開いたとも言えるのである。


■6.地下壕

 青山さんは同行した海上自衛官らとともに地下壕の一つに入った。掘った道具は今も、そのまま転がっている。青山さんが見たのは、子どものおもちゃのようなトンカチだけだった。それだけでも手にできた人は幸運で、道具のない人は、生爪をはがしながら手で掘った。しかも、硫黄島は地獄のように暑い。掘っていったら、気温が70度にもなったと、わずかに生き残った兵は証言している。

 青山さんが入った地下壕は、草藪の中に、小さな縦に掘った穴が口を開いていた。両手を広げ、体をこすりながら、ストーンと真っ直ぐに下まで落ちる。底には、毛細血管のような細いトンネルが、横に続いている。灯りで照らすと、壁は全部、焦げている。米軍の火炎放射器に焼かれたのだ。

 横穴を、両腕を縮めて匍匐(ほふく)前進すると、突然、天井が高くなって、背が立つようになる。さらに進むと、びっくりするくらい広い部屋が突然、現れた。そこはまったく焦げていない。栗林中将は、米軍が火炎放射器を使う事を知っていて、この迷路のようなトンネルを作ったのだ。

 日本軍の将兵は、こういう地下壕から出没して、米軍に果敢なゲリラ戦を挑んだ。


■7.英霊の方々が本当に聞きたいこと

 青山さんは、我慢できなくなって、後ろについてきた海上自衛官たちに絞り出すような声で語りかけた。


 みなさん、これを見ましたか。

 生半可な努力でこんなものは掘れないよ。そして一番大事なことは、これを掘った2万1千人の日本の方々のうち、一人でも自分の利益のために、自分が助かりたいとか、自分の利益になるからといって掘った人はいるんですか?

 ひとり残らず、ただ人のために、公のために、子々孫々のために、祖国のために、それだけが目的で掘ったんですね。

 そしてこの掘った人たちを、私たちは戦後ずっと日本兵というひと固まりで呼んできました。ほんとうは大半が普通の庶民なんです。・・・

 ここにいらっしゃる、間違いなくこの部屋にいらっしゃる、この英霊の方々が本当に聞きたいのは戦争は悲惨でしたという話だけではなくて、今、自分たちが助けた女性と子供を手がかりにして甦っていった日本民族が、祖国をどんなよい国にしているのか、その話を聞きたいんだ。

 その英霊の方々にぼくたちは、日本はこんな国になりましたと言えるんですか。

 経済は繁栄したけれども、いまだ国軍すらないから隣国に国民を拉致されて、されたまま救えず、憲法はアメリカが原案を英語でつくったまま、そして子が親をあやめ、親が子をあやめ、さらにいじめられた子が自殺する。

 そういう国に成り果ててしまいましたと、この英霊に言えるのか。 ぼくたちの一番の責任はそこでしょう。



■8.「祖国を蘇らせる手がかり」

 地下壕を出ると、若い海上自衛官が、青山さんの目をまっすぐに見て、話しかけてきた。

 青山さん、私たち昼ご飯を食べていると、帝国海軍の方が横で昼飯を食べているんです。今まではただの幽霊だと思っていました。しかし本当は、おい、おまえたち、祖国はどんなよい国になった、今、話してくれ、祖国はいい国になったんだろうなと、それを聞いていらっしゃるんですね。

 初めて今日、わかりましたよ。

 この硫黄島の話をインターネットの動画で視聴した琉球大学の学生から、青山さんはEメールを貰った。彼は「思春期のころから、夢のない無気力人間」だったが、硫黄島の話に触れて、こう考えるようになったという。

 自分の欲求、私利私欲だけを追求し続けて死にたくない。人のために生きたい。人のため、社会のため、公のために、生きたい。人のためになら、たった一度の人生を頑張れる、克己(こっき)できる。そう思いました。

 祖国とは、自分が大切に思う家族、郷里、さらに自分の血肉となっている言語、歴史、文化である。したがって祖国とは自分の心のうちにある。

 戦後教育は、その祖国を意識的にわれわれの心の中から忘れさせようとしてきた。しかし、忘れたものは、思い出せばよい。青山さんは、思った。
 あぁ、硫黄島は、ぼくらの生きるヒントだ。
 生きる手がかり、生き直す手がかり、祖国を蘇らせる手がかりだ。


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木村摂津守とサンフランシスコの人々(国際派日本人養成講座から)

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 咸臨丸でやってきた木村摂津守の礼節・謙譲あふれる言動はサンフランシスコの人々に感銘を与えた。


■1.咸臨丸、サンフランシスコ到着

 安政7(1860)年2月26日、咸臨丸が37日間の太平洋横断を無事に終えて、サンフランシスコ湾に入った。船から眺めると、東洋の神秘の国・日本から初めてやってきた船を一目見ようと集まった群衆がアリのように見える。

 2年前の安政5(1858)年6月19日、品川沖のアメリカ軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約が調印されたが、その際に日本側は、条約の批准書交換をワシントンで行うことを提案した。そして正使はポーハタン号で送り迎えして貰う事になったのだが、副使は日本で別の船を仕立てて送り出すことにした。それが咸臨丸だった。

 日本側としては、調印を日本でやったのだから、批准書交換はアメリカで、それも副使用とはいえ独自の船を出す、という形で対等の独立国としての対面を保とうとしたのだった。現代日本とはまったく違った「武士の面目」を、当時の日本は持っていた。


■2.「いきなり太平洋横断ができるわけがない」

 咸臨丸派遣には、もうひとつ重要な狙いがあった。独立維持のため強力な海軍を育てようと、幕府は安政2(1855)年に長崎海軍伝習所を作り、オランダ人教官を招いて乗員養成に努めていたが、航海練習は日本近海での経験しかなかった。そこで、この米国への使節派遣という絶好の機会を捉えて、外洋航海の経験を積もうとしたのである。

 しかし、当時はアメリカ軍艦でも太平洋を横断するのは難事であった。ペリーの黒船艦隊にしても、大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て、日本にやってきていたのである。このコースなら、相当部分を港を伝いながら陸地沿いに進める。

 太平洋横断は米商船が年に1、2回行っているだけで、軍艦の航行はほとんどなかった。日本近海しか航行したことのない日本軍艦がいきなり太平洋横断を目指すのは、無謀ともいえる企てだった。

 米国への日本船派遣は、海軍創設に尽くしてきた軍艦奉行・水野忠徳ら開明派官僚たちが提案したのだが、老中側は、伝習わずか3年も経たない未熟な腕で、いきなり太平洋横断ができるわけがない、と一度は却下された。

 それを水野らは「できる」と強引に押し切って、正式決定に持ち込んだのだった。日本国の名誉だけではなく、日本海軍の将来がこの太平洋横断にかかっていた。


■3.起死回生のラスト・ホープ

 咸臨丸に乗り組む副使として任命されたのが、水野の後任として軍艦奉行に任じられた木村摂津守(せっつのかみ)良毅(よしたけ)であった。木村家は旗本の家柄ながら、将軍の命により、砂糖や朝鮮人参の栽培・販売などに代々、功績があり、そこで育った良毅は農民や商人、職人たちとも交わり、広い視野を養っていたようだ。

 また、当時は30歳にも届かない青年であったが、長崎海軍伝習所の取締も3年間、勤めていた。当時、反動派の井伊直弼(なおすけ)が大老となり、開明派官僚を次々と左遷・追放し、また長崎海軍伝習所も閉鎖したが、木村は家柄の良さと温厚な人柄のゆえか、その反動の嵐には巻き込まれていなかった。

 咸臨丸の太平洋横断は、虫の息となっていた日本海軍の起死回生のチャンスであり、それを任された木村こそ海軍育成を志す人々のラスト・ホープであった。

 軍艦奉行を命ぜられる準備段階として、その2ヶ月前に任じられた「軍艦奉行並」の格は高くなかったが、木村は「海軍の事は当今国家の最大急務にして、余は初めより専心是事に微力を尽くさんとの素志にあれば、毫(ごう)も不足を感ぜず」と言い切っている。

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■4.木村の判断

 木村がもっとも苦心したのは、乗組員の選定であった。海軍伝習所の教監・勝安芳(海舟)を艦長とし、優秀な伝習生を選ぶことは当然の処置であった。しかし、木村は、同時に老中を通じてアメリカ公使ハリスに適当な案内者を依頼した。本格的な外洋航海を通じて人員を育てるには、良き指導者がいるとも考えたのだろう。

 ハリスは海軍大尉ジョン・マーサ−・ブルックを推薦してきた。ブルックは15歳で米海軍に入り、当時33歳のベテラン士官であるばかりでなく、太平洋を2回も横断した米海軍随一の経験者だった。木村と勝はブルックを面接して、その人物、技量を見込んだ。

 ブルック大尉はベテラン水兵を中心に10人を引き連れて咸臨丸に乗り込むことになった。日本人だけで航海を、と意気込んでいた乗組員たちは、当初、余計なお世話と反発していた。

 しかし、咸臨丸が太平洋に乗り出した途端に、ブルック自身が「こんな時化(しけ)には会ったことがない」というほどの暴風雨に襲われた時も、彼は冷静に指揮を執り、ベテラン水兵達が真っ暗闇の荒海でも平気でマストに上り、風向きや波のうねりを見て舵をとった。

 さらに米人水兵がルールを破って、飲料水を洗濯に使っていたのを見とがめた日本人乗組員たちに、ブルックは「これは共同の敵だから、即刻銃殺してくれ」と言った。その謹厳な姿勢に、日本人乗組員は感激して、以後、ブルックの言に従うようになった。

 また、木村は、通訳として中浜万次郎を連れて行くことで、老中の許可を得た。万次郎は土佐の漁師だったが、漂流していた所をアメリカの捕鯨船に救われ、そのまま米国で航海士としての教育を受け、アメリカの捕鯨船の副船長にまでなって、3年間も世界の海を航海した経験を持つ。[a]

 万次郎はブルックとも友情を結び、日本人乗員たちとの良き仲介役となった。この二人がいなければ、咸臨丸は暴風雨の中で太平洋の藻屑として消え去ったかも知れない。あるいは、帰りにはブルックたちを下ろして、今度は本当に日本人だけで太平洋を横断したのだが、それほどの技術習得もできなかっただろう。

 咸臨丸の乗員が、その後の日本海軍の中心的役割を担っていった事を考えれば、木村の判断が日本海軍の未来を救ったと言える。

 もう一つ、木村が優れた人物眼を示したのは、福沢諭吉を乗せたことである。福沢が見ず知らずの木村に会って、従者として連れて行って欲しい、と頼むと、木村はその場で快諾した。福沢の人となりを見抜いたのだろう。福沢はこの渡米経験から、後の文明開化のリーダーとして成長していく。[b]

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■5.金の工面

 人員と並んで木村が出航前に苦心したのは、金の工面であった。米国が船を出して使節を送り迎えしてくれるのに、なぜ巨額の費用を使って副使のために別の船を出す必要があるのか、という反対が勘定所を中心にくすぶっていた。

 その一方で、士官たちは3、4年も長崎海軍伝習所で航海術を学んで腕を上げていても、俸禄は入所の時と変わっていない。その不満を良く知っていた木村は俸禄の増額を請願したが、毫も顧みられなかった。

 やむなく木村は、水夫や火焚きも含めて乗員への恩賞と、米国滞在中に日本武士の面目を保つだけの費用を自分で用意することとした。家財道具を処分して3千両を作り、さらに幕府から500両を借りた。100両あれば、土地付きの屋敷が買えた時代である。現在価値で言えば、二桁の億という所だろう。

 木村はこの金で、士官や水夫に何度も恩賞を与えたり、サンフランシスコで土産物を買う費用を与えたりした。米国の水兵たちにも十分な謝礼を与えた。帰国した時には、自前で用意した費用はすべて使い切っていた。

 幕府からは、別途、邦貨とドル貨が支給されたが、食料品などの経費を切り詰めて、受取額の2割以下しか使っておらず、帰国後に大半を返納している。しかも返納5770両1分31文4分などと、きめ細かく計算している。木村の律儀な性格が窺われる。


■6.「一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物」

 出航前の様々な難題を乗り越え、太平洋で何日も続いた暴風雨・荒波を切り抜けて、ようやくたどり着いた咸臨丸を、サンフランシスコ市民は大いに歓迎した。一つにはアメリカが開国させた日本からの最初の使節を受け入れる、という事は、自分が育てた生徒が成長したという満足感を与えたからだろう。

 もう一つは、東部からサンフランシスコに至る大陸横断鉄道がもうすぐ完成し、ここからさらに日本を結ぶ太平洋横断航路が開ければ、同市はアメリカの東洋進出の中心的拠点になる、という期待もあった。

 咸臨丸が錨を降ろすと、ただちに新聞記者たちが取材に押しかけてきた。「デーリー・アルタ・カリフォルニア」紙はこう報じた。

__________
 彼(木村)は、一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で、四十前後と見受けられた。(髷や衣装を整えた後)やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度で現れた。[1,p101]
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 日本人は欧米人からは年より若く見られるのが普通だが、木村が反対に10歳も年長に見られたのは、その落ち着いた物腰からであろう。記者たちは咸臨丸を隅々まで見て回り、ブルック等から航海中の様子を聞いて、精しく記事にした。

 艦内は「清潔で秩序正しくゆきとどいていた」。水夫たちも「サンフランシスコの支那人より、はるかに教養が高いように思われた」などと報じている。[2,p265]


■7.「こんどは大統領の名前を先に」

 3月2日、サンフランシスコ市の正式の歓迎会が催された。当直を除く全員が招待され、市庁を訪れると、17発の祝砲が街を震わせ、周囲の建物の窓ガラスがみな割れるという騒ぎだった。

 会場では市の幹部や士官たちと握手したが、室外にも大勢の人がいたので、木村はその人々とも握手させて欲しいと提案して、その後30分も握手が続いた。人々が日本刀と絹の着物に強い好奇心を抱いていたので、握手することでこれらを間近に見せたのである。

 次に一行はホテルでの宴席に案内された。ご馳走の山を前に差しつ差されつの賑わいが続いた。頃合いを見計らって、市長が立ち、乾杯の音頭をとった。日本の皇帝と米国大統領、そして日本の提督すなわち木村のためと、3度乾杯した。次に木村が立ち、万次郎の通訳で、提案した。

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 今、日本の皇帝のために乾杯していただいたが、その名前が米国大統領の前にあった。こんどは大統領の名前を先に、米国大統領と日本皇帝のために乾杯していただきたい。[1,p105]
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 当然、大歓声が起こったに違いない。神秘の国・日本から来た客人が、これほどアメリカ人の心をくすぐるような機転を利かせたことを、市民たちは驚きと喜びをもって迎えただろう。


■8.国際派日本人の先駆け

 翌日、咸臨丸は船体修理のため、サンフランシスコの北東40キロほどにあるメア・アイランド海軍造船所へ移った。米側はここでマスト2本の取り替え、帆の新調、ペンキ塗り替えなどの大がかりな補修作業をわずか2ヶ月足らずでやってくれた。

 修理が終わって、木村は費用を払いたいと申し出たが、造船所のカニンガム長官は、咸臨丸がはるばる米国まで来てくれた事に対する米国大統領のお礼の気持ちとして、米側が負担するという。結局、サンフランシスコの消防士や船員の未亡人団体に2万5千ドルを寄付する、ということで、ようやく話は落ち着いた。

 この修理の最中に、幕府の正使を乗せた米軍艦ポーハタン号がサンフランシスコに着き、咸臨丸を追ってメア・アイランドまでやってきた。米側が正使一行を迎えて、サンフランシスコで盛大な歓迎会をすると言うので、木村は正使たちとともに便船で市内に向かった。

 それを見送るポーハタン号の放った礼砲で、たまたま岸壁を通りかかったカニンガム長官が顔面に火傷を負った。サンフランシスコに着いた後、電信でこの事を知った木村は直ちにメア・アイランドに引き返した。

 歓迎会はそのまま開催されたが、人々は木村の姿が見えないのを不審に思った。そこでブルックが、カニンガム長官の負傷を気遣って、木村が傍を離れられないために欠席した、と告げると、会場から大喝采が起こった。ここでも木村の振る舞いはアメリカ人に感銘を与えたのである。

 日本文学者ドナルド・キーンは次のように語っている。

__________
 咸臨丸が浦賀湾に投錨したのは5月5日であった。長い航海もついに終わったのである。そしてそのことは、今や日本人が船を操って太平洋を横断出来る、という事実を、立派に証明した。

 しかし、おそらくこちらのほうがもっと大事なのだが、2百余年にものぼる鎖国のあとにも、木村のような日本人が存在し得た事実をも、それは証明したのである。すなわち外国の土地で、外国人に交じって、日本人としての自己を失わずに易々と、しかも相手に感銘を与えながら振る舞うことの出来た日本人のいたことである。[2,p281]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 江戸時代に日本は世界最高水準の教育[c]と礼節と思いやりに満ちた社会[d,e]を築いていた。その日本文明の粋を身につけていた木村は、そのまま米国でも尊敬される人物として通用したのである。木村摂津守良毅こそ国際派日本人の先駆けの一人であろう。

(文責:伊勢雅臣)
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事務処理マニュアルの作り方

この4月から新しい業務をいくつか受け持っているが、わけがわからないことが多すぎる

とある業務で、各担当の送ってきたエクセルファイルをプリントアウトしたの
ち、別ファイルに手入力し集計していくのだが、
「なぜ各担当が作成するエクセルファイルのどこかのシートに、自分が最終的に作成する集計表にコピペできるようなデータスタイルを置くようにしなかったのか?」
とフツーに疑問である。
この点は、ゆくゆく変えていきたいと思っている。

で、次に、引継文書として「事務処理マニュアル」的なものが一応あって、普通はあればありがたく思うものだが、これがやたらと分厚いだけで、まったく何の役にも立たない。
どうせ作るなら次の点に注意してもらいたいものだ。


1)文章だけで作成するな
プレゼンでパワーポイントがなんでもてはやされるのかというと、箇条書きが簡潔でわかりやすいから。
あの1枚1枚にダラダラ文書ばかり書かれていたら、プレゼンを見る人も疲れてしまう。
(というか、パワポを使う意味がないか)

疑問は大体一言で晴れるものだし、新しい仕事を受け持って神経を使っている身では、パっと見で理解しやすいほうがよほどラクなので、箇条書きによる作成や、後述の表への書き込みを多用すべき。
加えて、長い文章は書き手にものを書くセンスがないと、何が言いたいのかまったくわからないので、余計に始末が悪い。


2)エクセルであれば様式で説明を
これもビジュアル面重視の話。
冒頭のケースであれば、作成様式を使って、セルコメントを表示させておくことにより、ここはこういった数字を各担当が入れてきますといった説明があれば、回りくどい文章から拾い読みするよりはるかにわかりやすい。

また、マニュアル上で「(エクセルシート上の)ここは自動計算されます」と
いった記載はまったく余計な情報。
エクセル表の行または列の項目に「(自動計算・入力不要)」とつけ足せばよいだけだ。
また、入力してもらう様式でも、印刷範囲外に図形を置き、入力についての情報を書き込んでおけば、わかりやすい。


3)早い時期から自分用に作れ
少しずつ改訂はされているらしいが、もとは4年間担当していた人が異動する直前に作ったとのこと。
そんな人間が作ったものが役に立つ確率は低い。
ベテランになれば、作り手が注意しなければ「マニュアル=単なる自分の仕事解説」にしかなりっこないからだ。

今回受け取ったマニュアルでも、冒頭の単語ですでに
「○○って一体何だ?」
といった具合である。
その後もくどくどと文章が続くとともに、さらに不明な単語が出てくるため、だんだんと見る気も失せてくるし、自分の知りたいポイントはほとんど書かれていないしで、見るのもイヤになる。

私の場合は、新しく担当になって、自分がわからずあちこちで聞いたこと、調べたことや間違ったことを、随時メモ的にファイルに蓄積していっている。
後々見たら、初心者だった頃に何でつまづいたのかがよくわかるし、どういった理由でそうなっているのかを自分が忘れたときも確認ができる。

担当が代わるまでにはかなりの量になるので、後任にはプリントアウトせずにテーマごとに整理したWordファイルのみ渡しているが、おかげでこの4月1日以降、別の部屋にいる後任からは一度の質問もない。

今回は、ただ不明点をメモるよりは、自分でこの役立たずマニュアルを作りかえれば、業務に早く精通できると考え、現在一から作り直している次第。


4)重要なことから「3段階」で作成する

(ア)すぐ対応を始めるべきこと
(イ)四半期や上半期や年間のスケジュール
(ウ)個別業務のポイント説明

例えば異動したての場合、これらを一斉に渡されても、読もうと思っているそばから、知識が少ないためすぐに回答できない電話はかかってくるわ、急ぎの書類を教わりながら作らねばならなかったりして、肝心なことが欠落する恐れがある。
(ア)から順に入れればよいが、長文の(ウ)から入ってしまうと、(ア)
(イ)の存在が埋もれがちになり、後々の失敗につながりかねない。
逆にいえば(ウ)は調整がききやすいが、(ア)(イ)は日を追うごとに打つ手が減るものなので、優先順位を間違えないようにしたい。




「自分で解決策を探すのも大事な手順」という人もいるかもしれない。
しかし、正社員も少なくなってきている現在、果たしてその考え方でいいのだろうか。
周囲は
「一日でも早く一人でできるようになってほしい」
と考えているはずである。

何も取扱説明書のようにこと細かく作り込む必要はない。
項目ごとのポイント、そして全体のフレームをしっかり教えるということである。
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モノのいのちとの付き合い方 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

■ 国際派日本人養成講座 ■

モノのいのちとの付き合い方 〜 『人生がときめく片付けの魔法』に学ぶ

 このベストセラーは、日本人の心の奥底に眠っていた古来からの生命観を揺り動かした。


■1.『片付けの魔法』に見る日本古来の生命観

 近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』は130万部も売れて、平成24(2012)年上期のベストセラーとなった本だが、今頃になって読んでみた。本講座で取り上げるつもりではなく、日頃から整理が下手で、周囲にいろいろな物が乱雑に積み上がっているので整理術の参考に、と思って読んでみた次第。




 ところが、この本は単なるノウハウ本ではない。大げさに言えば、すべてのモノには命がある、という日本古来からの生命観に基づいて、そのモノのいのちとどうつきあうか、という人生観を論じている。たとえば、こんな一節がある。

__________
 押し入れやタンスの奥にしまわれ、その存在すらも忘れ去られてしまったモノたちがはたして大切にされているといえるでしょうか。 もし、モノに気持ちや感情があるとしたら、そんな状態がうれしいはずはありません。

 一刻も早く、牢獄、あるいは離れ小島のような場所から救出してあげて、「今までありがとう」と感謝の念を抱いて、モノを気持ちよく解放してあげてください。
 片付けをするとスッキリするのは、人もモノもきっと同じだと、私は思っています。[1,p88]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「世の中のすべてのものには生命(いのち)がある」というのが、日本人の心の奥底に眠る太古からの生命観だが、この本がベストセラーとなったのは、それを揺り動かしたからであろう。


■2.モノにはすべて役割がある

 片付けは不要なモノを捨てることから始まる。しかし、モノを捨てることに多くの日本人は「もったいない」という罪悪感を抱いてしまう。そのためにモノがあふれて整理どころではなくなるのが、片付けが進まない大きな理由である。

 モノを捨てることを罪悪と感ずるのは、やはりモノに生命を感じて、それを殺してしまうから、と考えるからである。それを「無駄なモノは捨てるべき」という近代的合理主義では、日本人の罪悪感を拭いきれない。

 この点を、近藤さんは次のように説く。

__________
 たとえばあなたの洋服ダンスの中に、買ったけれどもほとんど着なかった服があれば、その一つを思い浮かべてみます。なぜ、その服を買ったのでしょうか。

「お店で見て、かわいいと思ったから、つい、、、」
 買った瞬間にときめいていたのなら、その服は「買う瞬間のときめき」をあなたに与えたという役割を一つ、果たしたことになります。[1,p86]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 とすると、その服はすでに自分の役割を果たしている。だから「買った瞬間にときめかせてくれて、ありがとう」といって、捨ててあげればいいのです、と近藤さんは説く。

 モノとのご縁は人とのご縁と同じで、すべての人が親友になったり、恋人になったりするわけではない。一期一会(いちごいちえ)のご縁をいただいた人には「ありがとう」と言って別れるのと同様に、買った時のときめきを貰った服にも、「ありがとう」と言って、お別れすればいい、と言うのである。


■3.モノとのご縁

「ご縁」という言葉は、日本古来からの世界観のキーワードである。ヒトもモノもすべてがいのちを持っており、「世の中」はいのちといのちのつながり、すなわち「ご縁」でできている、と太古から日本人は考えてきた。

__________
 あたりまえのことのようですが、モノがおうちにあることって、ものすごいご縁だと思いませんか。たとえば、一着のシャツ。たとえそれが工場で大量生産されていたモノだとしても、あなたがその日にそのお店で買ってきたそのシャツは、世界でたった一つしか存在しません。

 モノとのご縁は、人と人とのご縁と同じくらい、貴重で尊い出会いなのです。
 だから、そのモノがあなたの部屋にやってきたのには、必ず意味があるはずです。[1,p251]
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 その日そのお店で出会った服ががあなたの許にやってきたのは、その時にあなたをときめかせてくれた、という意味があったのである。その意味を果たしてくれたご縁に感謝して、それ以来着なくなった服は、タンスという牢獄に閉じ込めるのではなく、捨てる。それがモノにとっての新たな門出だと、近藤さんは説く。


■4.モノを捨てることはモノにとっての新たな門出

 モノを捨てることが、なぜ門出なのか。捨ててゴミ処理工場で燃やされたら、モノのいのちはなくなってしまうのではないか。この疑問に、近藤さんはこう答える。

__________
 すべてのモノは、あなたの役に立ちたいと思っています。モノは、捨てられて燃やされたとしても「あなたの役に立ちたい」というエネルギーは残ります。

エネルギーとなって自由になったモノは「〜さんという、素敵な人がいるよ」とまわりに知らせながら、世の中を回ります。そして、「今のあなた」にとって、一番役に立ってくれるモノ、一番幸せにしてくれるモノとなって、また戻ってきてくれるのです。

 それは、たとえば服なら、新しい素敵な服となって戻ってきてくれるかもしれないし、ときには情報やご縁など形を変えて、戻ってきてくれるときもあります。[1,p252]
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 合理主義的に考えれば、そんなバカなと思うかもしれない。しかし、物理学的に考えれば、服が焼却されて発生した二酸化炭素が樹木に吸収され、その樹木から紙が作られて、本の形になってまた世間に戻ってくるかも知れない。

 世の中をそういう生命の循環と捉えるのが、日本的な世界観である。「七生報国(七度生まれ変わって、国のために尽くそう)」とは楠木正成の言葉であるが、今この肉体が滅びても、やがてその魂が新しい肉体に生まれ変わって、世の中に戻ってくると考える。

__________
 だから、モノを捨てるときは、「あーあ、全然使わなかったなあ」とか「まったく使わなくて、ごめんなさい」というふうに思うのではなくて、「私と出会ってくれてありがとう」「いってらっしゃい! また戻ってきてね」と元気でおくりだしてあげるのが正解です。

 いまはもうときめかなくなったモノを捨てる。それは、モノにとっては新たな門出ともいえる儀式なのです。ぜひその門出を祝福してあげてください。
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■5.「心がときめくモノだけを残す」

 もう一つ、片付けで難しいのは、何を捨て、何を残すかを決めることだろう。服にしても本にしても、そのうち使うだろうと考えていては捨てるという決心がつかない。その結果、モノがあふれ、整理できない状態となってしまう。

 この点に関する近藤さんのユニークな主張は、「モノを一つひとつ手にとり、ときめくモノは残し、ときめかないモノは捨てる」という点である。「心がときめくかどうか」とは、いかにも女性らしい感性豊かな表現だが、これを近藤さんはこう説いている。

__________
 心がときめかない服を着て、幸せでしょうか。
 積ん読したままの、心がときめかない本に囲まれて、幸せを感じますか。・・・

 答えは「いいえ」のはずです。
 こころがときめくモノだけに囲まれた生活をイメージしてください。それこそ、あなたが手に入れたかった、理想の生活ではありませんか?

 心がときめくモノだけを残す。あとは全部、思いきって捨ててみる。
 すると、その瞬間から、これまでの人生がリセットされ、新たな人生がスタートするのです。[1,p64]
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■6.モノに「お疲れさま」「今日もいい仕事をしたね」

「こころがときめくモノだけに囲まれた生活」とはどんなものか、近藤さんは自分の生活をこう記している。[1,p172]

__________
 仕事を終えて帰宅してからの私の日課は次のような感じです。

 カギを開けてドアを開くなり、まずはおうちに向かって「ただいま!」と声をかけます。玄関の三和土(たたき)にある昨日履いて一日置いた靴に「昨日はお疲れさま」と話しかけながら、靴箱に戻し、靴を脱いでそろえたら、キッチンでやかんに火をかけ、寝室へ。

バッグをふわふわムートンのラグの上にそっと置いて、まずは部屋着に着替えます。着ていたジャケットとワンピースをハンガーにかけつつ、「今日もいい仕事したね」とねぎらい、・・・引き出しから部屋着を気分に合わせて選んで着替えたら、窓際にある腰くらいの高さの観葉植物にも「ただいま!」と葉っぱをなでなで。
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 こうして大切にされるモノは光っている、と近藤さんは言う。

__________
 愛する人ができた女性は、彼から受ける愛情そのものはもちろん、自分が愛されているという自信や、彼のためにもっときれいになろうと努力する気持ちがエネルギーとなり、肌はつやめいて瞳はキラキラと輝きを増し、どんどんきれいになっていきます。

モノも同じように、持ち主の愛情ある眼差しを受けてていねいに扱われることで、「この人のために、自分の役割をもっと頑張って果たそう」とエネルギーにあふれ、いきいきと輝きを増していくのです。[1,p262]
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■7.モノと心の通う幸福な生活

 モノに「お疲れさま」「今日もいい仕事をしたね」と声をかけるのは、我々の生活をモノが一生懸命支えてくれているからである。

__________
 一流のスポーツ選手が道具を神聖なモノとして扱い、ていねいに手入れをし、大事にするというのはよく聞く話です。きっと彼らは自然に、そうしたモノの力というものを感じているのだと思います。

だとしたら、特別な仕事道具じゃなくたって、服もバッグもペンもパソコンも、ふだん使っている一つひとつのモノ全部を大切に扱えば、あたりまえの毎日に心強い助っ人が一気にできるようなもの。・・・

 私達が意識していなくても、モノは本当に毎日、持ち主を支えるためにそれぞれの役割を全うしています。一生懸命私たちのために働いてくれているのです。[1,p224]
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「片付け」とは、すでに役目を終わったモノには新たな門出をして貰い、残された「心ときめくモノ」との心の通う生活を実現することなのである。


■8.忘れていたモノの命との付き合い方

 法隆寺は1300年以上も前に建立された現存する世界最古の木造建築である。その法隆寺に代々仕えてきた宮大工・西岡常一棟梁によれば、木には二つの命がある。[a]

 自然の中で生育している間の樹齢と、用材として生かされている間の耐用年数と。そして自然の木のいのちをいただいて、新しい用材としてのいのちを与えるのが、大工の役目だという。

 そして宮大工は建物を建てる時に祝詞(のりと)をあげる。

__________
 わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、「祝詞(のりと)」 を天地の神々に申上げます。その中で、「土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます」という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです。 [3,p53]
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 木々にお宮という新しいいのちを与えることを誓う西岡棟梁の心持ちは、おうちに向かって「ただいま」と挨拶する近藤さんの心根に通じてる。

 モノが溢れる中で、我々は先祖から伝えられた一つひとつのモノのいのちとの付き合い方を忘れてしまっていた。しかし、忘れた事は思い出せる。近藤さんの本が130万部ものベストセラーになったのは、日本人の心の底で眠っていた生命観を揺り動かしたからであろう。

 そしてその「モノのいのち」という生命観を思い出せば、「物質文明か精神文明か」という二分法は単純すぎることに気がつく。モノのいのちを大切にし、モノとの付き合いが心の豊かさを生む文明を我が先人たちは育んできたのでである。

(文責:伊勢雅臣)
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命の使い方 〜 『永遠のゼロ』から (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■1.「僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた」

 百田尚樹氏の『永遠のゼロ』が売れ続けている。すでに240万部に達し、年 末には映画も公開される。その裏表紙には、内容をこう紹介している。

__________
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、 なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖 父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1 つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 小説としての出来も素晴らしい。文庫本で600頁近い大作でありながら、読 者をぐいぐいと引っ張っていく構成と筆力は見事だ。最後の結末は圧巻で、芸能 界きっての読書家として知られる故・児玉清氏は、「解説」で次のように書いて いる。[1,p588]

__________
 なぜ、あれだけ死を避け、生にこだわった宮部久蔵が特攻で死んだのか。それ は読んでのお楽しみだが、僕は号泣するのを懸命に歯を食いしばってこらえた。 が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。・・・

 なんと美(うるわ)しい心の持主なのか。なんと美しい心を描く見事な作家な のか。なんと爽やかな心か。涙の流れ落ちたあと、僕の心はきれいな水で洗われ たかのごとく清々しさで満たされた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 私も同様の思いをした。人間の美しい真心を描いて、大東亜戦争を戦った日本 軍兵士は軍国主義に騙されて無駄死にをした、という戦後のイデオロギーを粉砕 している。

 この本が、一人でも多くの人に読まれることを願って、以下、私が二番目に感 動したシーンをご紹介したい。一番目はもちろんラストシーンだが、それは読者 自ら原作を読んで、「心をきれいな水で洗われる」体験をしていただきたい。


■2.「お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

 健太郎は姉と共に、かつて祖父と一緒に戦ったことのある元海軍飛行兵曹長・ 井崎源次郎を都内の病院に訪ねた。ロビーには、井崎の娘という50代の女性 と、その息子が待っていた。息子は髪を金髪に染め、派手にペイントしたオート バイ用のヘルメットを抱えている。

「父は戦友会から、宮部さんのお孫さんから連絡があったと知らされた時は、大 変驚いておりました。父の体はかなり悪くて、医者からは、あまり興奮するよう な話はしないようにと言われていましたが、どうしても会うと言って聞きません でした」

 病室に入ると、ベッドの上に痩せた老人が正座していた。「お父さん、座って なんかいて大丈夫なんですか」と慌てる娘に、「大丈夫だ」と力強く応えて、 「井崎源次郎です」と頭を下げた。

 それから孫に向かって、「誠一、お前も一緒に聞きなさい」
「俺には関係ねえこどだろ」
「関係はないが、お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

 井崎は健太郎の方に向き直ると、もう一度居住まいを正して、「宮部さんと出 会ったのはラバウルです」と、ゆっくり話し始めた。

■3.「何という凄腕! 何という早業!」

 宮部らがニューギニア島のラバウルにやってきたのは、昭和17(1942)年7月 だった。皆に挨拶があって、解散してから、宮部は井崎に「よろしくお願いしま す」と声をかけた。

 階級章を見ると一飛曹(一等飛行兵曹)で、下士官の一番上の階級である。一 飛兵(一等飛行兵)の自分とは、とてつもない差がある。井崎は慌てて「こちらこ そ、よろしくお願いします。わたくしは井崎一等飛行兵と言います」と大きな声 で答えた。

「自分は宮部久蔵一飛曹です。よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。こん な丁寧な口をきく上官にあったのは初めてだった。よほど育ちが良いのか、ある いは馬鹿なのか、どちらかだと思った。

 翌日、ポートモレスビーに出撃。ここには連合軍の基地があり、ここを奪えば オーストラリアはすぐ先にある。一小隊3機、3小隊の9機編成で、一番後方の 小隊の2番機が宮部、3番機が井崎だった。

 スタンレー山脈を越え、わとわずかでポートモレスビーが見える地点に来た 時、突如、上空の雲の隙間から敵機が襲いかかってきた。隊の一番、後方に位置 していた井崎機に、敵の一番機が背中から食いついてきた。「やられる!」と井 崎は思った。

 その時、井崎機を狙っていた敵戦闘機が突然火を吹いて吹き飛んだ。次の瞬 間、井崎の目の前を一機の零戦がすごいスピードですり抜けた。宮部機だった。 宮部は更にもう一機を撃墜し、旋回して逃げようとする敵機の背後に鋭い旋回で 回り込み、一連射で撃ち落とした。

 この間、僅か数秒。何という凄腕! 何という早業! 井崎は鳥肌が立った。 この頃の零戦は世界の戦闘機の中でも抜きんでた性能を誇っていた[a]。その名 機を宮部は完璧に使いこなしていた。


■4.「敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ」

 空襲を終えて基地に戻ると、井崎は真っ先に宮部に礼を言いに行った。宮部は 笑っただけだった。 しかし、その後、一緒に戦っていると、ただ一つ、ひっか かる事があった。宮部はひっきりなしに後方を振り返り、また死角となる下方を 見るために背面飛行も頻繁にやる。乱戦になると、いち早く逃げ出して、同じよ うに戦域から逃れてきた敵機を狙う。臆病者かと思った。

 やがて宮部が小隊長になり、井崎はそのまま列機を務めるようになった。「他 の小隊から妙に思われるので、丁寧言葉はおやめ下さい」と、井崎は頼んだ。

 宮部の消極的な戦い方を物足りなく思った井崎は、一度、小隊を離れて、敵戦 闘機の背後にへばりついた事があった。敵機を撃ち落としたと思った瞬間、後ろ から撃たれた。2機の敵機が背後から挟み撃ちするようにくっついている。左右 どちらに逃げてもやられる。井崎は死を覚悟した。

 次の瞬間、敵の銃撃が止んだ。後ろを見ると、一機の敵機が火を噴いて錐揉み 状態で墜ちていった。もう一機は急降下で逃げていった。後ろには零戦が一機い た。宮部機だった。宮部に命を救われたのは、これで2度目だった。

 基地に戻った時、礼を言う井崎に、宮部はにこりともせずに言った。「いい か、井崎。敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ。たとえ敵機を 討ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃墜する機会はある。し かし、一度でも撃ち落とされれば、それでもうおしまいだ」 死を覚悟した直後 のせいか、宮部の言葉は心の底にずっしりと響いた。

「私がこの後、何度も数え切れないほどの空戦で生き延びることが出来たのも、 この時の宮部小隊長の言葉のおかげです」とベッドの上の井崎は、健太郎たちに 語った。


■5.「娘に会うためには、何としても死ねない」

 宮部はいつも夜半に宿舎を離れ、1時間以上も戻ってこなかった。ある日の夕 暮れ、井崎が隊舎から離れた川に一人で釣りに行った帰りに、宮部が上半身裸に なって、壊れた飛行機の銃身を片手で何度も持ち上げている光景を見た。

 宮部が立ち去った後、井崎は自分でその銃身を持ち上げようとしたが、重くて まったく持ち上がらない。両手でやっと持ち上げることができた。これを片腕一 本で上下動させられるとはなんたる怪力。宮部一飛曹の華麗なる操縦技術はこの 怪力に支えられていたのだ。

 翌日、「小隊長は毎日やっておられるのですか」と聞くと、黙って頷く。「今 日はもうやめようと思う日はないのですか」とさらに聞くと、おもむろに胸ポ ケットから布袋を取り出し、その中に入っていた写真を見せた。それは若い婦人 が生まれて間もない赤ん坊を抱いている写真だった。

「6月に生まれました。ミッドウェーから戻ってすぐに生まれたのですが、休暇 が取れず、会いにいくことが叶いませんでした。ですからまだ一度も会ってない のです。辛い、もう辞めようと、そう思った時、これを見るのです。これを見る と、勇気が湧いてきます。」

 それから宮部小隊長は、写真を胸ポケットにしまうと、つぶやくようにこう 言った。「娘に会うためには、何としても死ねない」 その顔は普段の温和な彼 からは想像もつかないほど恐ろしい顔だった。


■6.「無理だ。こんな距離では戦えない」

 8月7日、ガダルカナルの戦いが始まった。ラバウルから約千キロもある。 「無理だ。こんな距離では戦えない」と、宮部は悲痛な声で言った。それを聞い た若い一人の士官が怒髪天を衝くが如くの形相で向かってきた。

「貴様、今、何と言った」と言うが早いか、宮部の顔面を殴った。「貴様は宮部 だな。貴様の噂は聞いているぞ、この臆病者め!」 士官はそれだけ言うと、そ の場を立ち去った。

 片道千キロでは巡航速度で3時間もかかる。戦闘時間は10分少々で、また3 時間かかって戻る。その間に敵機が待ち伏せているかもしれないし、方位を見 失って無駄な航路を取ると、燃料が足りずに帰還できなくなる恐れもある。

 その日、出撃した17機の零戦のうち、帰還できたのはわずか10機だった。 その後に日本海軍のエース・パイロット坂井三郎[b]も重傷を負って、なんとか 帰還した。宮部と井崎は、翌日出撃し、なんとか無事に帰還したが、爆撃機の方 は大半が帰還できなかった。そんな戦いが連日続いた。


■7.「貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか」

 10月のある日も宮部の小隊はガダルカナル攻撃に参加したが、3番機の小山 上等兵は宮部の命令を無視して、敵を深追いして、グラマンを2機撃墜した。し かし、それによって燃料を使い過ぎた。

 ラバウルへの帰還途中、小山は「ラバウルに帰れそうもないから、ガダルカナ ルに戻って自爆する」と合図をしてきた。宮部は「何とか頑張って、帰還しろ」 と合図し、燃料を節約するための高度や速度で細かい指示を小山に与えた。

 しかし、基地まであと10分という所で燃料が尽き、小山機は海上に不時着し て沈没、小山は海に飛び込んだ。基地に帰還した後、すぐに水上機を向かわせた が、すでに小山の姿はなく、数匹の鱶(ふか)が泳いでいた、という。

 井崎は悔しさのあまり、宮部を問い詰めた。「どうして小山に自爆させてやら なかったのですか?」 宮部は「飛び続ければ助かるかもしれないが、自爆すれ ば、かならず死ぬ。死ぬのはいつでもできる。生きるために努力をすべきだ」と 答えた。

「どうせ、自分たちは生き残ることは出来ません。もしわたくしが被弾したな ら、潔く自爆させてください」と井崎が悔し泣きしながら訴えると、宮部はその 胸ぐらを掴んで、こう言った。

__________
 井崎! 馬鹿なことを言うな。命は一つしなかい。貴様には家族がいないの か、貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その時、不意に5歳の弟、太一の顔が脳裏に浮かんだ。泣きじゃくる顔が見え た。後にも先にも宮部に怒鳴られたのは、この時だけだった。しかし、この時の 宮部の言葉は、井崎の心に深く沈んだ。


■8.「なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました」

 その後、井崎はラバウルを離れ、空母「翔鶴」の搭乗員となった。昭和 19(1944)年のマリアナ沖海戦で、敵戦闘機と激しい空中戦の結果、燃料タンク を撃ち抜かれた。もはや母艦にも帰れず、せめて敵機を道連れにしてやれと、体 当たりを決意した。

 その時、宮部の怒鳴り声が頭の中に響いた。「井崎! 貴様はまだわからない のか!」 同時に幼い弟の顔が浮かんだ。井崎はなんとか敵機の編隊から抜け出 し、海面に不時着してから、9時間も泳いで、グアム島に泳ぎ着いた。何度も諦 めかけたが、その都度、「兄ちゃん、兄ちゃん」と泣きながら呼ぶ弟の顔が浮か んできて奮い立った。

「しかし本当に私を助けてくれたのは、宮部小隊長だったと思っています」と、 ベッドの上で井崎は語った。そして、こう続けた。

__________
 実は、私は、ガンです。半年前に、医者からあと3ヶ月と言われました。それ がどうしたわけか、まだ生きています。

 なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました。この話をあなたたちに語 るために生かされてきたのです。[1,p252]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その時、井崎の孫が大きな声で泣き出した。その母親もハンカチで目を抑えて いた。健太郎の姉も嗚咽を漏らしていた。

 井崎は窓の外の空を見つめて言った。「小隊長、あなたのお孫さんが見えまし たよ。二人とも素晴らしい人です。男の子はあなたに似て、立派な若者です。小 隊長---、見えますか」

 しばらく後、井崎源次郎の訃報を受けとった。焼香の時、孫の誠一を見かけた が、長い髪は短くなり、金髪は黒くなっていた。言葉は交わさなかったが、健太 郎に深々と頭を下げた。

 健太郎の中でも変化が起こっていた。しばらく諦めていた司法試験にもう一度 挑戦してみようという気になっていた。かつて人々のために尽くしたいと弁護士 を志した気持ちを取り戻したのだった。

 家族や世のため人のために自分の命を使おうと思えばこそ、その大切さに気が つくのである。

(文責:伊勢雅臣)
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頑固一徹スイスに学ぶ(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

夢も希望もない韓国経済 〜 外国資本に貢ぐ輸出企業、窮乏化する国民


 IMFに構造変革を強要され、外国資本の餌食になった韓国経済の悲惨

■1.「夢も希望もないウリ(我らが)社会」

「大学新卒者が5人集まれば正規雇用は1人だけ。3人は非正規、1人は無職」とは、韓国の大学卒業者の就職状況である。その就活(就職活動)の苦しさは、日本以上だ。

__________
 全企業数に対してサムスン電子やLGエレクトロニクスといった財閥系企業が占める割合は、わずか1%に過ぎない。しかし、主要財閥の総売り上げはGDPの約75%を占める。その入社試験の倍率は少なくとも数百倍で、トップのサムスン電子に至っては700倍とも報じられている。[1]
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 財閥系企業では(会社側は否定しているが)、TOEIC990点満点中、800点以上でないと履歴書すら見て貰えないという。

 就職支援会社の調査では、サムスン電子の新入社員の年俸は約4千万ウォン(約345万円、日本流にボーナス5ヶ月と考えると、月給換算20万円ほど)で、これは中小企業の40代前半の大卒男性の平均年俸に相当する。

 一方、全企業の新人社員の6割は、18百万〜220万ウォン(約155万円〜190万円、月給換算9万〜11万円)。年俸制を採用する韓国では1年単位の契約なので、正規雇用と言っても、1年後に契約が更新されなかったら、クビである。

 非正規雇用となれば、年俸は中小企業の正規雇用のさらに80%程度で、社会保険への加入も制限される。これでは、財閥系企業に殺到するのは当然だろう。希望通り就職できないので、何年も就職浪人をする学生も少なくない。それもやっていけなくなると、あきらめて中小企業に向かうか、それも無理だと非正規雇用となる。

__________
 財閥系企業の社員が住む高級マンション街を仰ぎ見るように密集する古びた小型集合住宅。そのなかでも一番家賃の安い半地下階の、陽の当たらない部屋で湿気に耐えつつ仕事の疲れを癒やす若者も多い。

「夢も希望もないウリ(我らが)社会」−韓国の大半の若者がそう漏らす。[1]
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■2.同世代の6人に1人が国を捨てる

 夢も希望も持てなければ、当然、国を捨てて海外脱出を目指す国民も増える。

 韓国の名門女子大学である梨花女子大の校内誌が2005年に行ったアンケート調査では「生まれる前に自分の意思で祖国を選択できるなら、韓国を選択するか?」という問いに、62%にあたる492人が「NO」と答えた。

 名門女子大に入れた女学生と言えば、学力もあり、裕福な家庭に育った女性たちであろう。その過半数が、韓国には生まれて来たくないというのでは、中流下流の女性たちの気持ちは推して知るべしである。

 学生ばかりではない。2011年に韓国の男女会社員932人を対象に行われたアンケート調査では、実に76.1%が「移民が可能であれば、韓国を離れたい」と回答した。理由として多かったのは、「不十分な福祉政策」(62.5%)、「貧富の差」(49.5%)、「深刻な失業」(47.8%)など、経済的な苦境が主要因だった。

 移民願望は現実となっている。2005年の韓国統計庁の国際人口移動統計では、韓国を脱出した人数は8万1千人。その86%が30歳未満の若者で占められている。

 韓国の出生率は日本を下回り、世界でも最低レベルだが、それでも1年間の出生児数は50万人規模である。年間8万人規模の脱出ということは、若者の6人に1人が国を捨てて海外に行ってしまっている、ということになる。[2,p72]


■3.世界一となった自殺率

 身軽な若者は、国を捨てて、アメリカなり、日本なりに脱出できるが、ある程度の年齢以上になると、それも難しくなる。そういう人にとって、残された道が自殺である。

 Wikipediaでの国の自殺率順リストでは、韓国は人口10万人あたり33.5人と、トップに立っている。日本では自殺者が3万人を超えて大きな問題となったが、それでも10万人あたり23.8人と韓国の3分の2のレベルである。[3]

 韓国は1995年あたりまでは10人以下の水準だったのに、アジア通貨危機後の1998年くらいから、急上昇を始めたのである。[4]

__________
 とくに高齢者の自殺は目に余るものがあり、65歳以上では10万人あたり81.9人と、全体平均の2.6倍にも達しています。

 高齢者に限って言えば、日本の4〜5倍に相当しているのです。

 ・・・社会保障がOECD加盟国最低の水準で、韓国の基礎老齢年金の支給額は9万4600ウォンしかありません。日本円にして1万円にも満たない金額ですから、高齢者の困窮ぶりは容易に想像がつきます。[2,p64]
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■4.韓国企業の躍進と韓国国民の窮乏化

 最近は、自動車の現代(ヒュンダイ)、スマートフォンやテレビのサムソン電子、製鉄のポスコなどの韓国企業の躍進が伝えられているだけに、韓国社会はかつての高度成長時代の日本のように、国民が未来への希望に燃えて張り切っているのか、と思いきや、意外な実態である。

 どうして韓国は、こんな「夢も希望もないウリ社会」になってしまったのか。その問いに答えてくれるのが、先にも引用した三橋貴明氏の『いよいよ、韓国経済が崩壊するこれだけの理由』[2]である。

 氏の解説を簡単に要約すると、

(1)韓国は少数の独占的大企業が世界的な輸出企業に育ったが、
(2)それは自国民を低賃金、ウォン安で搾取し、政府に払う税金も少なく、
(3)しかも、その利益は、外国人株主に持って行かれてしまう

 という、言わば、「植民地経済」になってしまっているからである、という。この見方からすると、韓国大企業の躍進と、韓国国民の窮乏化が同時に説明できる。もう少し詳しく三橋氏の説明を追ってみよう。


■5.国内を犠牲にして海外進出している韓国経済

 まず、「少数の企業が世界的な輸出企業に育った」という点だが、韓国の「三大輸出企業」と言えば、現代とサムソン、ポスコで、この三社の売上合計は、韓国のGDPの売り上げの30%に相当する。

 対抗する日本のトヨタ、パナソニック、新日鉄の売り上げを合計すると、平成22(2010)年度で合計31.7兆円で、2010年のGDP512兆円の6%強に過ぎない。それぞれの分野で、強大なライバル企業がひしめいているからである。

 しかも、韓国経済はGDPの44.9%も輸出に依存している。我が国は10.7%に過ぎない。これではアメリカや欧州、あるいは中国市場が風邪を引いたら、韓国がすぐにクシャミをすることになる。韓国の輸出企業は、日本企業と競合する分野が多いので、最近の円安ウォン高で大騒ぎをしているのも頷ける。

 しかも、輸出大企業の稼ぎ方が異常である。サムソンの利益を国内外で分けて見ると、[2,p9]

・海外市場 売上63.7兆円 営業利益 1.5兆円 利益率2.4%
・国内市場 売上18.3兆円 営業利益 10.3兆円 利益率56.1%

 たとえば携帯を原価1万円で作れるとしたら、海外では245円だけ乗せて売り、国内では2万3千円弱と倍以上の値段で売っている、という計算となる。

 同業どうしの競争の激しい日本の国内市場では、営業利益率56.1%などという数字は聞いたことがない。家電分野では、サムスン電子とLGの2社しかないので、こんな暴利をむさぼることができるのだろう。そもそも国内利益10.3兆円がなければ、海外市場で2.4%などという低い利益率では長続きしないだろう。

 韓国経済は一部の大企業が、国民を安い賃金で使い、高い商品を売りつけて、その国内利益を元手に輸出で外貨を稼いでいる、という構図が浮かんでくる。


■6.外国人株主が半分近く

 しかも、韓国経済を支える輸出企業はことごとく外国人株主が半数を占めている。サムソン電子は外国人株主比率49%、現代自動車、ポスコなども50%近くを占めている。

 ということは、サムソン電子など巨大輸出企業があげた利益の半分近くは外国人株主に持って行かれてしまう、ということである。[2,p10]

 また税金も2006〜2008年にかけてサムスン電子が支払った法人税は、平均で15.7%に過ぎない。同時期にシャープが日本政府に支払った法人税率は平均35.8%だった。シャープが利益を上げれば、日本政府、ひいては日本国民が豊かになるが、サムソン電子が儲けても、韓国政府、韓国国民にはそれほど還元されない、ということである。

 韓国経済はまさに外国資本に搾取されている、ということが言えそうだ。


■7.「経済成長しても国民が豊かになれない、歪んだ経済モデル」

 なぜ、韓国経済はこんな植民地のような構造になってしまったのか。三橋氏は1997年のアジア通貨危機と、その後のIMF(国際通貨基金)の介入が契機となっていると説明する。

__________
 それまでの韓国には多くの財閥企業が存在し、傘下にある企業が過当競争を繰り広げていました。現在は家電メーカーとして名高いサムスンも、自動車など様々な事業を幅広く展開していました。

 しかしIMFは、過当競争によって各企業の利益が圧迫されていることこそが問題だとして、「ビッグディール(企業の大規模事業交換)」を強制的に行ったのです。

 日本企業でたとえるなら、パナソニック、ソニー、日立製作所、東芝、富士通ひとめとめに合併させるようなものです。

 その結果、サムスン電子のような超巨大な家電メーカーが誕生し、国内市場をほぼ独占することになります。同じことが、ほとんどの業界で行われました。

 それ以降、大手企業は国内で「やりたい放題」の商売をして利益を上げ、グローバル市場での競争力を高めていくことになるのです。[2,p6]
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 外国人株主が半分近くを占めるようになったのも、やはり通貨危機後のIMF管理によって行われた構造改革が原因だという。

__________
 ウォンと株価が暴落し、バーゲンセール状態になった状態で、外国人株主がサムソン電子などの株を買い漁ったために、外国人の資本的支配を受けることになってしまいました。

 そして、韓国国民の利益に何の関心も持たない外国人が株主として君臨し、配当金の最大化を目指す「株主資本主義」のための経済モデルを作りあげていきました。・・・

 輸出企業が世界中で売上を伸ばし、いくら利益を上げたところで、ゴッソリと外国人がいただいていく。

 経済成長しても国民が豊かになれない、歪んだ経済モデルなのです。[2,p10]
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■8.韓国経済はグローバル化時代の反面教師

 韓国経済のもう一つの弱みは、日本の高度設備や先端部材に全面的に依存していることである。たとえば、半導体製造に必要な工作機械、計測機器、半導体の原材料となるシリコンウエハーなど。半導体製造に絶対必要なレアガスは100%、日本依存だという。

 韓国の企業が稼いだ輸出代金の4割は、日本などからの設備・部材の支払いにあてられる。したがって、韓国の輸出が増えるほど、日本からの輸入が増えるという構造になっており、1965年の日韓国交正常化以来、韓国は一度も対日貿易で黒字になったことはない。

 技術面でも日本やアメリカの特許を無断で使っているものが多く、パナソニックやシャープなどの家電メーカーが次々と特許侵害訴訟を起こした。サムソン電子は3800件もの訴訟案件を抱えている。また新日本製鐵(現・新日鉄住金)も、ポスコと元社員を相手に、約1千億円の損害賠償と鋼板の製造・販売の差し止めを求める訴訟に踏み切った。

 腰を据えて、自前の技術を開発するのではなく、手っ取り早く他国の技術をコピーしたり、設備・部材を買ってきて済ませるという韓国のビジネス・モデルは行き詰まってきている。

 韓国経済の悲惨な現状は、グローバル化の時代の反面教師である。我が国においては、手間暇かけて自前の技術を育成し、国民を雇用し、国民に優れた商品を提供し、収益を国内株主に、税金を日本政府に納める企業をこそ、大切にしなければならない。

(文責 伊勢雅臣)




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ココダの約束(国際派日本人養成講座から)

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ココダの約束 〜 戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男

「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」


■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束

 安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。

 硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。

 米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。

 戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。[a]

 国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。

 しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。

 そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。


■2.ハペル氏の驚き

 オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。

 現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」

 この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議と生き抜いた。

 そして戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきた、というのである。

 この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。『ココダの約束』[1]である。こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。


■3.小隊56名中、戦死55名

 西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。

 日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の三分の二の距離にエフォギ村はあった。日本軍の志気は高く、皆がポートモレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。

 エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃たれ、助けを求めて、うめいていた。

 その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。弾丸が3発、彼の肩を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒した。

 その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。

 その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原がとっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。しかし、逆に腰を打ち抜かれ、一瞬にして死んだ。

 こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。


■4.「この約束は必ず守る」

 日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。

 9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。

 その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。

 饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。

 最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。そして、こう約束した。

__________
 もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。[1,p106]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。

 残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。


■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ

 西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャツにショベルといういでたちだった。

 ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒されながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。西村の約束を待つ英霊たちが彼を護っていたのかもしれない。

 敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。

 しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。

 昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。

 それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけが父を理解して家に残った。

 西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。


■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」

 西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。

 多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。

 ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした場所だった。

 西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。

 68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。

 男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。


■7.「忠実なる英霊のために」

 このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建てている。またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の決意が窺える。

 一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。

 西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。

 自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。

 西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。


■8.果たされた約束、果たされてない約束

 2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。

 1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸子との暮らしを始めた。相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。

 西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。

 安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。

 我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。

(文責:伊勢雅臣)
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安全な国土を子孫に残そう (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■

安全な国土を子孫に残そう

 祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして、子孫に残すという事 は我々の責務である。


■1.連動する大地震

 日本のある地域で大地震があると、かならずと言って良いほど、他の地域でも 20年程度の間に大地震を誘発しているというデータがある。[1,p52]

・東日本 貞観地震(M8.3以上) 869年
・関東圏 相模・武蔵地震(M7.4) 878年(9年後)
・西日本 仁和地震(M8.0以上) 887年(18年後)

・西日本 慶長大地震(M7.9以上) 1605年
・東日本 慶長三陸地震(M8.1) 1611年(6年後)
・関東圏 慶長江戸地震(M6.1) 1615年(10年後)

・関東圏 明治東京地震(M7.0) 1894年
・東日本 明治三陸地震(M8.2) 1896年(2年後)

・関東圏 関東大震災(M7.9) 1923年
・東日本 昭和三陸地震(M8.1) 1933年(10年後)
・西日本 昭和東南海地震(M8.0) 1944年(21年後)
・西日本 昭和南海地震(M8.0) 1946年(23年後)

 日本列島の下では、4つの大陸プレートが押し合い、へいしあいして地震エネ ルギーをいろいろな箇所に蓄積しており、一カ所で大地震が起こると、それがプ レート間のバランスを崩して、他の地域での大地震を誘発する、というメカニズ ムである。

 そう考えると、平成7(1995)年には西日本で阪神淡路大震災が起こり、16年 後の平成23(2011)年には東日本大震災が起こった。次は東海、南海、東南海地 方で大震災が起こっても、なんら不思議はない。今後30年以内に、そのいずれ かが起こる確率は50%〜87%と言われている。[1,p174]

 阪神淡路大震災では死者・行方不明者が6千4百余人、被害総額10兆円規 模、東日本大震災では1万8550人、16兆円〜25兆円。東海・南海・東南 海を直撃する大震災となれば、直接被害だけでも40〜60兆円に達すると予想 されている。東日本大震災の被災地復興とともに、他地域での防災、減災を急ぐ 必要がある。


■2.「此処(ここ)より下に家を建てるな」

 藤井聡・京都大学教授の『列島強靱化論 日本復活5カ年計画』[1]では、来 たるべき大震災から日本列島を「強靱化」するための8策を提案しているが、そ のいくつかは東日本大震災で住民を守った事例に基づいている。本稿では、まず これらの成功事例から見ていこう。

 岩手県宮古市の重茂半島東端の姉吉地域では、太平洋に張り出して、津波をま ともに受ける地形にも関わらず、12世帯約40人のすべての家屋が被害を免れた。

 この村ではかつて、明治、昭和の二度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞ れ2人、4人という壊滅的な被害を受けた。

 その経験を踏まえ、昭和8(1933)年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メート ルの場所に「此処(ここ)より下に家を建てるな」という石碑を建て、以後、す べての村民が石碑より高い場所で暮らすようにした。

 今回の巨大地震発生後、港にいた住民たちはみな高台にある家をめざして駆け 上がり、全員が助かった。震災後、自治会長のの木村民茂さん(65)は、「幼 い頃から『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで 集落は生き残った」と語った。[1,p196]

 同様の例は原発にもある。東北電力女川原発は津波対策として、主要な建屋を 海抜約15mに設置していたので、13mの津波に襲われても何の被害も受けな かった。当時想定されていた津波の高さは約3mだったが、同社の元副社長が強 硬に海抜15m以上と主張したという。[2]

 この元副社長の脳裏には、昔からの地域の知恵が残っていたのではないか。


■3.「2度あることは3度あってはいかん」

 人工的な防災措置で、津波から無事だった村もある。岩手県・三陸海岸北部の 普代村、人口約3千人の漁村には高さ15.5メートルの防潮堤と水門が作られ ていた。

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 高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁村や加工 工場を一気にのみ込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。 みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約 1000世帯が住む集落までは来ませんでした。(普代村魚協・太田則彦氏) [1,p97]
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 港に船を見に行った男性が行方不明になったが、防潮堤の内側にいた人の被害 はゼロ、住宅への被害も一切なかった。ちなみに隣の田野畑村では、高さ8メー トルの防潮堤では津波を防げず、死者・行方不明者40人、全・半壊533戸の 被害が出たという。

 普代村で15.5メートルもの堤防を造った経緯について、村役場住民課の三 船雄三氏は、次のように語っている。

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 防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同) で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行 方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。

戦後、和村幸徳(わむら・こうとく)村長が「2度あることは3度あってはいか ん」と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるの で、当時は「他のことに使えばいいのに」「ここまでの高さは必要なの?」と いった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。

 きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか。[1,p98]
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■4.3千人近い小中学生が難を逃れた「釜石の奇跡」

 立地や防潮堤などハード面ではなく、防災教育というソフト面で大勢の人命を 守った事例もある。岩手県釜石市の3千人近い小中学生のほとんど全員が津波の 難を逃れた「釜石の奇跡」と呼ばれている事例である。

 明治三陸大津波では、当時、約6500人だった釜石町(当時)の人口のう ち、実に約4千人もの命が失われた。それでも現代の地元は無防備で、地震が あって津波の避難勧告が出ても、それに従う人はほとんどいない、という状況 だった。

 そこで群馬大学大学院の片田敏孝教授は、学校での防災教育を十分にやれば、 いずれその子供たちが親になって地域に根付いていくだろう、と考えた。その教 育が実って、3月11日に大地震が襲うと、中学生たちは率先して、隣の校舎の 小学生たちを連れて、避難所に向かった。

 小学生たちは校舎の三階に避難していたが、日頃から中学生たちと一緒に避難 する訓練を重ねていたので、一斉に校舎を飛び出し、中学生について避難した。 後にその校舎の3階には、津波に運ばれた車が突き刺さったほどだから、そのま まそこにいたら、多くの犠牲者を出したろう。

 東北地方には「津波てんでこ」という言い伝えがある。津波が来たら、てんで んばらばらに逃げないと、家族や地域が全滅してしまう、という教訓だ。片田教 授は、子供たちが親に「いざという時は、僕は必ず逃げるから、お父さんやお母 さんも必ず逃げてね」と伝えるように教育していた。

 今回の震災で、釜石市全体では約1300人が亡くなったが、3千人の小中学 生の親を調べてみると、亡くなったのは40人程度で、比率的にも非常に少な かった。これは「津波てんでこ」のような先祖の知恵が、防災教育を通じて、子 供たちから親にも伝わった成果だろう。


■5.「天変地異という有事」に対しても「平和ぼけ」

 以上、紹介した三つの事例を日本全国で実践すれば、今後予想される大地震・ 津波の被害者数を一桁、二桁下げる、ということも夢ではない。

 これらの三つの事例で共通していることは、過去の津波で大きな被害を受けた 後、次の津波では被害を減らそう、なくそうと、知恵を絞っていることだ。

 しかも、その対策として低地に家や原発を作らないとか、巨大な防潮堤を作 る、など、目先の利益を犠牲にしても、いつ来るか分からない地震・津波から住 民を守ろうとしている。

 しかし、こういう事ができたのは、ごく一部の限られた地域のみで、日本全体 としては、これとは逆のことが行われてきた。

 たとえば、民主党政権で「コンクリートから人へ」というスローガンで、その 前の麻生政権で立案されていた小中学校の耐震強化のための予算が1800億円も削 減された。高速道路の耐震補強のための1211億円の予算執行も全額取りやめに なっている。子ども手当や高校無料化などの票目当てのバラマキが、国民の安全 を守る措置よりも優先されたのである。

 戦後の復興と高度成長を果たした約半世紀は我が国は長らく平和が続いたが、 同時に「地震静穏期」にあたり、巨大地震がほとんど起こらない時期だった。藤 井教授はこう指摘する。

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 つまり、戦後の日本人は、何も、「戦争という有事」に対してのみでなく、 「天変地異という有事」に対してもまた、愚かしい「平和ぼけ」を、半世紀以上 も続けてきたのである。[1,p176]
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 しかも、阪神淡路大震災で甚大な被害を出しながら、いまだに「平和ぼけ」か ら目覚めずに、耐震化工事の予算を削ってまでバラマキに努めたのでは、阪神・ 淡路の6千人以上もの死者・行方不明者も浮かばれないだろう。

 さらに東日本大震災で、それ以上の被害を出した現在、和村幸徳村長の言う通 り「2度あることは3度あってはいかん」という常識が我々に求められている。


■6.デフレ・スパイラル脱却と防災投資

 藤井教授の『列島強靱化論』がユニークなのは、防災論に留まらず、防災投資 がデフレ対策にもつながるという経済的主張である。

 現在の日本は需要と供給の差、すなわちデフレ・ギャップが30兆円程度ある という。これだけ物が売れないと、企業が倒産したり、人々の収入が減って、そ の結果、さらに需要が減り、デフレ・ギャップが拡大を続ける。この悪循環がデ フレ・スパイラルである。

 1991年のバブル崩壊以降、我が国経済はこのデフレ・スパイラルに落ち込み、 国民一人当たりの平均所得が100万円以上も落ち込んでしまった。同時に自殺 者も一気に1万人以上も増加し、それが10年以上も続いている。つまりデフ レ・スパイラルによって、10万人もの人々が命を失われているのだ。

 積極的な防災投資を行うことによって、将来の大災害を予防すると同時に、現 下のデフレ・スパイラルからも脱却できる、というのが、藤井教授の主張である。


■7.子孫に安全な国土を残す

 問題は、どこにそんなお金があるのか、という点だろう。実は国内の銀行の 「預金残高」から「貸出残高」を差し引いた預金超過額は、平成22(2010)年 11月時点で151兆円に達している。

 つまり、国内の銀行は151兆円ものお金が余っていて、貸し付け先が見つか らない状態なのだ。だから、その余っているお金を政府の防災投資のために役立 てたらよい、といのが、藤井教授の主張である。

 手段としては国債を発行して、銀行に買って貰うという事になる。国債とは子 孫に借金を残すということだが、それで集めたお金をバラマキで使ってしまった ら、現世代の消費のツケを子孫に回るということで、倫理的に問題だ。

 しかし、今後、発生が予想される大地震や津波から子孫を守るために、現世代 の余っているお金を借りて使うということは、十分、倫理的なことではないだろ うか。子孫に借金は残るが、安全な国土という資産も残せるのである。

 しかも、それによってデフレ・スパイラルから脱却し、少しでも明るい日本経 済を残せるとしたら、それも子孫のためになる。


■8.より美しく、より安全な国土を子孫に残そう

 藤井教授の考え方で共感するのは、防災には共同体意識が必要だという感覚 が、著書のあちこちに窺える点である。

 たとえば、和村村長は苦労して巨大な防潮堤を作ったが、生きているうちにそ の効果を見ることはなかった。生前は「他のことに使えばいいのに」と多くの批 判を受けた。

 また、姉吉地域で「此処(ここ)より下に家を建てるな」と言い伝えたのも、 高台で暮らす不便を堪え忍んでも、子々孫々のために安全を確保したい、という 先人たちの思いである。

 防災投資とは、現世代が自分のために使えるお金を、後の世代の安全のために 使う、ということである。そこには自分たちの世代が我慢をしても、子孫のため に尽くそうという無私の心がある。これが共同体意識である。

 耐震工事の予算を減らしてバラマキに使ってしまう、という民主党の政策は、 まさに先祖に感謝し子孫のために尽くす、という共同体意識を忘れた戦後的発想 の表れである。自分の世代のことしか考えない享楽主義では、百年の計が必要な 防災対策はできない。

 祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして子孫に残すという事は 我々の責務である。

(文責:伊勢雅臣)
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新社会人に捧ぐ 2013



ファッション的な意味では、この秋冬シーズンはもう終盤だが、今シーズンは所有して いるスーツ大蔵ざらえというか、とりあえず今後着るのか、さもなくば処分して しまうのかといった意味での点検を行った。

スーツの点数が多い方なら、あるスーツをたまたま着なかった年があるという経 験もあるだろうが、私の場合、主にサイズの関係で6〜7年ぶりというのが3着 あった。

画像のモノは、現在数多く所有しているチェンジポケット(普通のポケットの上 に小銭入れ用とされるポケットが付いている)仕様のもののうち、私が初めて購 入したもの。
当初からウエストが少しきつめで何とかなると思っていたが、何とかならなかっ たので、長らく敬遠していたのだが、
「クローゼットの中で、来ないかもしれないスリムになる日を待って無為に時を 過ごすよりは、1シーズン着倒されたほうが服としては幸せだろう」
ということで、ウエストを補正。
今シーズンは、多用した。
他にアイロンペッターのおかげで日の目を見たのが2着あった。
しかし、虫はいい服から食べていくのは不思議だ。

スーツと言えば、私の職場にも久しぶりに新規採用の女性がやってきた。
いわゆるリクルート系スーツが初々しい。
リアルに20歳くらい離れてるし、異性だし、特にかけてあげたい言葉も思い浮 かばないが、例えば私が新採のときに、こう言われておけばよかった(言われた かもしれないがきいてないだけか?!)だろうことを少し。



1)常にベストを尽くせ
月並みだが。
・プロである以上は、同じミスを何度も繰り返さない。
・会社・組織のために働くことを忘れないこと。
・境遇がどうであれ、ベストを尽くすこと。




2)ビジョンを持て
まあ、普通に
「○○歳で結婚して、○○歳で新居を買って」
とか、いわゆる節目的なことは考えておくこと。
私はヒカゲと同じで、くたばるまでPUNKPUNKPUNK的な生き方だったから正反対だったけどw
細かく考えなくていいので、最低いつまでにとか、あくまで大枠で。


3)やり続けろ
一番いいのは、中学・高校でやってた部活を社会人になってもやれることかな。
まあ、新しいことにトライしてもいいけど。

私は、磯&渓流釣りとかマラソンとか料理とか、いろいろはまりましたw
最近は、野球観戦と自転車とウオーキングか。

今でも昔マラソン一緒に走った人とたまにバッタリ会って話したりするし、釣りに関しては、今やっている人と話し始めたらもう止まらないって感じ。
マラソンは、やってるときは一人スポーツだが、こういった部分もあります。


社会人になると年齢が上がっていくほど、運動をする時間の確保が難しくなっていくので、週数回できるスポーツを継続する(予定をやりくりして最優先するほどのもの)のがベスト。
まあ、最近は、走る・歩くがどんどん市民権を得てきてるから、メインは土日にして、トレーニングは夜遅くでも1時間くらいやればいいんだけど。

まあ、30年、40年社会人生活はあるんだから、その期間ずっとは無理だとしても、いくつか10年以上続けたことを持ってほしいです。

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コメが鍛えた日本人(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■

コメが鍛えた日本人

地形も気候も不向きな日本列島でコメを育てようとする知恵と努力が、勤勉、真面目、几帳面な日本人を育てた。



■1.稲作に不向きな日本列島の地形

 日本列島は、そもそも稲作にはまったく不向きな土地であった。このことはもともと熱帯性植物であったコメが東南アジアで栽培されている様子と比較するとよく分かる。

 世界をまわって稲作の研究をしている農学博士・渡部忠世(わたべ・ただよ)京都大学名誉教授のチームが東南アジアで撮影したビデオがある。それにはこんな風景が映し出されている。

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 広大な湿地帯か沼を思わせるデルタの深い水の中に、葦のような丈の長い食物が雑然と生い茂っている。人々は胸まで水につかりながら穂の先をちょん切るようにして刈り取っていたり、あるいは舟で水の上を滑りながら穂先を刈り取ったりしている。

これが「天水田」。つまり天然自然のままの水利条件に依存し、天然自然に稲が育つのを待って、できたものだけを刈り取るという素朴な稲作である。[1,p22]
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 これが稲作の原風景であった。東南アジアには、メコン川のような大河が広大な平野を流れており、その流域や海にそそぐデルタ地帯は、そのまま水をたたえた湿地帯になる。稲はそこで自生する。

 日本列島のように山が海岸まで迫っているような国土では、川は短くて、流れが急である。人間が知恵を絞り、地形を変えて水をコントロールしなければならなかった。


■2.稲作には不向きな自然条件

 気候条件から言っても、日本列島はコメ作りには適していなかった。稲は本来、熱帯、亜熱帯の植物である。苗は温度が8度以下になると生育が止まり、零下1度に下がると枯死してしまう。

 東南アジアのような気候温暖な地域にこそ適した作物であって、そもそも雪深い新潟とか、東北地方、北海道で栽培できるような作物ではなかったのである。

 コメが日本列島に入ってきたのは、最近の研究では縄文時代にさかのぼることが分かってきている。そして日本人は何千年もかけて、日本列島に不向きなコメを品種改良しつつ、世界で最もおいしいコメを作り上げてきた。渡辺名誉教授はこう結論づけている。

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 日本は地形的にも平地が少なく、急峻な川が流れ、気候的にも温帯で、熱帯植物である稲の生育には決して恵まれた条件とはいえなかった。日本人は知恵と努力によってそれを克服して、世界的な稲作国家になったわけです。そういう意味では、劣悪な条件が日本人を鍛えたともいえます。[1,p31]
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■3.急峻な地形を水田に変えた「灌漑田」

 不向きな条件を克服した日本人の知恵と努力の様を具体的に見てみよう。

 まず必要なのは、急峻な地形を水田に変える事である。棚田を想像すれば、その大変さがよく想像できる。傾斜地を、ある部分は削り、ある部分は土を盛って、水平にしなければならない。一定の高さごとに区切って、何段もそれを作る。

 そして、近くの川から水路を作り、田に水が流れ込むようにする。田は何段もあるから、上の田から下の田へと水が流れるようにする。当然、一枚の田は水平に作らなければならないし、水量をコントロールするためには、水路の大きさや傾斜を適正に設計しなければならない。こうして人工的に水を引く田を「灌漑田」という。

 灌漑田を作るためには、精密な土地測量技術、土手や畦を作る土木技術などが必要である。また人々が力を合わせて田を造成していくために、共同体の運営技術も発展させなければならない。

 逆に天水田が行われているメコン河のような大きな河川の流域では、ひとたび豪雨があると大規模な洪水が起こって、あたりを呑み込んでしまう。灌漑などの人間の努力は消し飛んでしまうわけで、こういう面からも水のコントロールなどはせずに、天然自然のままに稲の自生を待つ、という形にならざるを得ない。

 こうして考えると天然の沼地やデルタ地帯に種をばらまいて、稲が育つまで待つという「天水田」と、人間が地形を改良してまで水をコントロールして作る「灌漑田」とは、本質的に異なることが分かる。

 高天原(たかまがはら)の支配者となった天照大神(アマテラスオオミカミ)がまず手がけた重要な仕事が、神々を指揮してコメを作ることであった。高天原の「狭田(さなだ)」や「長田(ながた)」に稲を植えたという物語が神話に語られている。

「狭田」や「長田」とは、いかにも山間の狭い土地を段々に水平にならして作った細長い棚田を思わせる。日本によくある真田(さなだ)、長田、さらには山田、谷田などという名字は、まさに稲作のための日本人の水田造成の懸命な努力を象徴しているようだ。

「一生懸命」はもともとは「一所懸命」であり、一つの領地を命を懸けて守るという鎌倉武士の時代に生まれた言葉のようだが、その土地で何世代にも渡って水田造成をして来た努力を偲べば、先人たちの「一所懸命」の思いも伝わってくる。


■4.雑草取りの苦行

 東南アジアの天水田と、日本の灌漑田では稲の品種も異なる。天水田では主にインディカ米が作られている。これは場合によっては2メートルもの背丈を持ち、深い湿地帯や沼でも容易に育つ。

 日本で作られているのは、丈の短いインディカ米である。人工の灌漑田ではそれほど深くできないので、背の低い方が適している。

 インディカ米は丈が高いので、周囲に雑草が生えても、陽光が遮られて、生育が邪魔されるということはない。ジャポニカ米は、丈が短いので、雑草に太陽を遮られて衰弱枯死してしまう。そのために、人間による雑草取りが欠かせない。

 伊勢神宮には毎朝毎夕、神様にお供えするコメを昔ながらの自然農法で育てている約3ヘクタール(3町)ほどの神田(しんでん)がある。新田の管理責任者・森普(すすむ)氏によれば、育てたばかりの苗を田植えした際には、ちょっとした雑草でも弱々しい稲の栄養を奪ってしまうので、怠りなく草取りをしなくれはならない、という。森氏は言う。

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 苗が30センチくらいになるまでに、一枚の田圃(たんぼ)で3回は草取りをせんといかんわけですが、田圃の中を這いながら草取りをしていると、苗が目にささって痛いんですよ。昔は、この時期になると、よく目医者が流行ったものです。まさに汗と涙の結晶でした。[1,p30]
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 10月に入って、収穫が終わると、田を深く掘り超して、稲を育む土に新鮮な空気と陽光を吸収させるが、これが同時に雑草を除くことにもなる。この耕耘(こううん)という作業を4、5回繰り返す。我々の先祖は、こういう作業を数千年、続けてきたのである。


■5.知恵をしぼって手間をかければそれだけ収穫が上がる

 耕耘の際には、土に栄養となる肥料を施す。今は化学肥料だが、戦前までは鰊粕(にしんかす)や大豆粕(だいずかす)が使われていた。

 ジャポニカ米は、肥料を施すことで、一株の稲の茎の数がいちじるしく増え、コメの増収につながる。しかしインディカ米の方は背丈だけが高く伸びて倒れてしまう。インディカ米は肥料をやらない方が、むしろ収量が安定する。

 田植えにしても、ジャポニカ米は一定間隔を置いて稲を植えると適度に栄養を吸収して収穫量が上がるが、インディカ米にはそういう性質がない。

 伊勢神宮の別宮である伊雑宮(いぞうぐう)の作長(さくちょう)である別所保氏は、こう語る。

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 コメ作りというのは、知恵をしぼって手間をかければそれだけ収穫が上がり、手を抜けばその分だけ収穫量が減る。台風のような天災は別として、人間の努力にたいして正直な結果で報いてくれる。[1,p31]
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 これはジャポニカ米について言えることで、インディカ米では適当に種をまいて、後は自然天然にまかせて収穫を待つ、という形となる。


■6.灌漑田耕作が、勤勉、真面目、几帳面な民族を作った

 我々の祖先はこのような手間をかけて灌漑田を作り、それを毎年毎年耕し、肥料をやり、雑草をとって、少しでも質の良いコメを、少しでも多く作ろうと、数千年、取り組んできたのである。それが日本民族の性格に影響を与えた。

 京都大学霊長類研究所・元所長の久保田競(きそう)名誉教授は、こう語っている。

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 ・・・灌漑農業をやるようになると、農業には考えるということが絶対必要になった。水を引くとか、堤防を作るとか、耕すとか、苗を植えるとか、雑草を取るとか、天候や気候のことを考えなくてはいけませんし、
そのようにして計画的に、先を見ながら、よく考えながら、手足身体をこまめに動かしてコメ作りをやってきたということが、勤勉さや真面目さ、几帳面さといった日本人の性格を作り上げ、また知的な興味も湧いてくるようになったのではないでしょうか。[1,p33]
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 東南アジアでは、天水田による天然自然に任せたままのコメ作りが行われている、と冒頭で述べたが、実はいくつか例外がある。

 その一つ、ベトナムでは灌漑田耕作が行われており、日本の水田のように、田が整然と仕切られ、畝が作られ、苗が整然と植えられ、除草、施肥、耕耘、土壌作りが丹念に行われている。コメは基本的にインディカ米だが、ジャポニカ米のように背丈が低く、相当な品種改良が行われているようだ。

 ベトナム人は、東南アジアの中でも勤勉、真面目、几帳面で、「日本人によく似た民族」と言われている。そう考えると、モンゴル帝国がアジアで侵攻に失敗したのは、日本とベトナムである。さらに両国とも日清戦争や中越戦争で中国を破り、アメリカにも手を焼かせている。

 日本人とベトナム人が、似たような性格を持っているのは、似たような灌漑田耕作をしてきたからだと言えるのではないか。


■7.近代工業が花開く土壌を作った稲作文化

 欧米で発達した近代工業を日本がいち早く導入し、なおかつ様々な分野で追い越してしまった、という発展には、灌漑田耕作で培われた勤勉、真面目、几帳面さが大きく寄与している。久保田名誉教授は、こうも語っている。

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 たとえば、QC(品質管理)活動などは、もともと西欧で開発されたものですが、日本で定着してしまった。農作業はある意味で絶え間ないQC活動の連続のようなものですから、生産性向上、品質向上、粗悪品を出さないといった活動をやることついては、日本人は何の抵抗もないわけです。[1,p35]
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 ベトナムは早くからフランスの植民地とされて近代化が遅れたが、最近は多くの日本企業が脱中国の一環として進出している。筆者もいくつかの代表的な日系工場を訪問したことがあるが、職場は整然と規律正しく、技能訓練は熱心に受講するなど、日本的なモノ作りとの相性の良さを感じた。今後、ベトナムの工業は急速に発展していくだろう。


■8.コメが地球を救う

 それにしても、日本人はなぜこんな苦労をしてまで、コメ作りにこだわってきたのか。

 まず、第一にコメの方が、小麦よりも美味しいという点がある。中国とインドでは2千年にわたり、何億という人間がコメと小麦を食べ比べてきたが、民衆は常にコメを望んでおり、そのためコメは小麦よりも高価となっている。

 欧州でもイタリアやスペインではリゾットやパエリアなど、コメ料理がそれぞれの食文化に定着している。人類の歴史を見ても、小麦からコメに転換した民族は少なくないが、その逆は存在しない。

 第2に水田の持つ環境維持機能がある。小麦やトウモロコシなどの単一作物の連作を続けると、土地がやせ衰え、不毛の半砂漠状態になっていく。

 それに対して水田は保水機能を持ち、また無数の微生物や昆虫、オタマジャクシ、水鳥の共生するエコ・システムである。日本列島で何千年も水田耕作を続けてこられた理由がこれである。[a,b]。

 日本神話では天照大神が孫のニニギノミコトが地上に降りる際に、稲を渡して、これを食物として地上で栽培するように言われた。以来、日本人は先祖からいただいたコメに感謝し、また子々孫々のために、一所懸命に水田を守り広げてきた。先祖への感謝と、子孫への思いが、日本人を困難な稲作に立ち向かわせてきた第3の理由であろう。

 日本人が稲作を通じて克服してきた食糧や環境の問題に、今や、人類全体が直面している。篤農家・星寛治氏は著書『農業新時代−コメが地球を救う』で、こう述べている。
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 いま、地球上に広がりつつある不毛の砂漠を緑のじゅうたんに、そして黄金の穂波に変えることができれば、飢餓の時代は回避できる。そのときこそ、みずほの国日本の農民が、2千年かけて蓄積してきた稲作技術、ノウハウのすべてを注ぎこんで、途上国の、いや人類の壮大な実験に貢献すべきだと考える。[1,p156]
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(文責:伊勢雅臣)
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スーツジャケットの袖丈とワイシャツの袖丈の関係





ネットであちこち調べてみた結果と、私の体験で出した結論はこんな感じである。

○ワイシャツのベストな袖先
 まず袖のボタンを外す
  ↓
 自分にとって「自然に立った状態」にする
 リラックスした気をつけ状態
  ↓
 手を握るような感じで薬指・中指で袖先をさぐる
 このとき手首は曲げてはいけない
  ↓
 これでギリギリさわれるかさわれないかくらいがベスト
 (ここのプラスマイナスで好みの位置を判断) 

 

○スーツ上着(ジャケット)の袖丈

教科書的には「ワイシャツが1センチ程度見えること」とされているので、おのずと袖先の位置は 決まってくる。
しかしながら、あまりに「1センチ出し」を意識すると短くなりがち。
ジャケットの袖丈詰めは短くしすぎると取り返しがつかないので要注意である。

ワイシャツの袖先とほぼ同じ〜1センチ短いあたりで好みの位置を判断。
このときワイシャツは自分にジャストフィットしてると思う一枚で。

または自分でジャケットとシャツの袖先の関係が最適だと思うジャケットを着て、上のシャツの方法でやってもよい。
一度手のひらにベストのジャケットの袖先位置をマーキングした後、袖丈調整するジャケットを着て再度マーキング。
差の分を詰める。
この作業は一人では結構難しいので、その場合は慎重に。
これらの作業を数回こなせば、自分にベストの長さの感覚をつかめてくる。

ジャケットについては、つくりがゆったりかタイトかなどで変わってくるので安易に他のジャケットの袖丈寸法(肩の縫い目〜袖先)をそのまま適用せずに、面倒でも上の方法で確認したい。


○そのほか

ワイシャツを試着して買うことは少ないだろうから「ワイシャツのベストな袖先」は結果論ということになる。
M・L・LLで選ぶのではなく、「首回り−袖丈」の表記(41−82とか)を
参考に購入すれば、長すぎ・短すぎをある程度回避できる。
一番いいのはオーダーだが、そうそうできるものではないので、その次は自分に ベストサイズと思ったら同じメーカーの同じシリーズのものを買い続けることか(まあこれも難しいのだが)。

「シャツは袖丈が長くても(短くても)ボタンで留めれば一緒」
と思うかもしれないが、これは間違い。
手を伸ばす動作をすれば、適正なものとの違いは感覚ですぐにわかる。

また、特にスーツ上着について、左右の手の長さが違えば、袖丈も違ってくる。
私などは2センチ違うので、確実に補正が必要である。
当然シャツも気になるが、スーツほど違和感はないので目をつぶっている。

スーツもシャツもオーダーにしない限り、ジャストフィットはなかなかあり得ない。
同じA7サイズのスーツを買っても、同じ41−82表記のシャツを買っても製造者が違えばどうしても差は出てくる。
こういったことを常に念頭においておくべき。




本切羽は見栄えはいいが、袖丈については肩口から補正するしかなくこれが結構高いので、サイズが合わない場合はあきらめた方が無難。
楽天にあるショップではこんな感じ。
どうせなら、往復送料無料のときがいい。

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スーツなんかの選び方

今日はかなり風が吹き荒れたが、まだまだ頑張っている桜も多い。
大学などでは入学式も行われている。

2か月後に引っ越しを控え、ぼちぼち本腰を入れてモノの整理をしないといけないのだが、数年前から最小限にしてきたつもりなので、これ以上となるとちょっと考え方を入れ替えないといけない。

最近はそうでもないが、かつてはかなり忙しい時期もあったので、
「2週間洗濯できなくても、着るものに不自由しない環境」
を整えていた。
それが尾をひいているのか、どうしても仕事で必要な服を多めに準備するクセがついている。

やはり着ていて嬉しい服がいいもの。
選ぶときはこの点を重視したい。
選ぶと言うより好きなものを買うと言ったほうが正確か。

私自身の年代が上がってきていることもあるが、このことも含めて
「2万の服を10着より4万の服を5着がいいよな」
などと感じている。

靴にしても、以前はバーゲンを見るとみさかいなく買っていたが、最近はかなり熟慮している。
最近何の記事で見かけたが、3年間履いていても、手入れさえきちんとしていれば、まったく見苦しくない程度を保てるらしい。
これまで、ミンクオイルが王道だと思っていたが、そうでもないらしく、色抜けも出てくるので、靴クリーム、それも乳化性を使ったほうがよいとのこと。

一足、手入れはしていたものの、色抜けが気になっていた靴で試してみたところ、見事に復活した。
靴が汚れていたり、見栄えが悪かったりするとテンションが下がるので、これは喜ばしかった。



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英霊たちの帰国(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

 英霊たちの帰国

 平和に栄える祖国を見ようと、65年ぶりに帰還した英霊たちを待っていたのは、、、

■1.英霊たちの帰還

 8月15日午前1時12分、東京駅地下ホーム。最終電車が出た後に、軍用列車が入ってきた。列車から出てきたのは、先の大戦で南の海に玉砕し、海の底に沈んだ英霊たちのぼろぼろの姿だった。

 ホームに一斉に並んだ英霊たちは点呼の後で、部隊長・秋吉少佐から訓示を受けた。

__________
 休めッ。休んだまゝ聞いて欲しい。

 現時刻は昭和85年8月15日。マルヒトヒトロク(01時16分)。現在地は東京駅ホームである。

 今から65年前の本日正午。我等が祖国日本は、畏れ多くも(一同直立)天皇陛下の大詔(たいしょう)を拝し、萬斛(ばんこく)の涙をのんで無条件降伏を余儀なくされた。休め!(一同休メの姿勢に)爾来(じらい)65年の星霜が流れたわけである。

 この65年。敗戦の責を負う我々帝国軍人は、故国に残した家族、友人、子孫に対し、合わす顔なき英霊として南の海に漂ってきた。

 しかし。祖国は逞しく蘇り、我等の悲願した平和国家を世界に誇るまでに再建したと聞く。

 本日我々の帰還した目的は、僅かな時間乍(なが)ら、その平和を目の当たりに目撃し、かの海にまだ漂う数多(あまた)の水漬(みず)く魂に、以って瞑すべしと伝えることである。

 今から解散、自由行動をとるが、敗れたりといえども諸君はよく英霊としての軍紀を遵守し、民間人に不要な接触、或いは姿を見せる等の恥ずべき行動をとってはならない。

 集合時間はマルヨンマルゴ。場所は現在地。軍規に反したものは置いていくことになり、英霊としての籍も剥奪される。

 では、僅かの時間だがそれまでの間、心おきなく故国の姿を各自充分に見聞することを祈る。以上!
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■2.大宮上等兵と妹あけび

 帰還した英霊たちの一柱、大宮鉄次上等兵は、大正8年岩手県八戸郡遠野村に生まれた。父母を幼い時に亡くし、妹あけびと親戚をたらい回しにされたあげく、東京・浅草の見世物小屋の客引きをしていた。以来、ヤクザとの出入りに駆り出されて、負け知らず。

 その後、徴集され、2等兵として北支やラバウルに従軍したが、上官を殴るなど問題を起こしては、本国に送還された。昭和20年6月9日、秋吉大隊の一員として、沖縄に向かう途中、輸送船が撃沈され、行方不明。戦死と認定された。享年26才。

 大宮は、妹のあけびを訪ねた。すでに老女になっていたあけびは都内の病院にいた。意識はあるが、体中の筋肉が動かず、5年以上、人工呼吸器で生かされていた。

 あけびには、一人息子の健一がいた。浅草オペラ館で踊り子をしていた際、熱烈なファンだった帝大生が学徒動員で出征する前夜、体を捧げて授かった子どもだった。

 あけびは戦後、進駐軍の米兵士の囲い物になったり、飲み屋で働いたり、地方周りのストリッパーをしながら、健一を育てた。

 その健一は、すでに65歳。大学教授となり、金融問題の専門家としてテレビに出たり、政府の財政顧問として活躍していた。夫人とその両親、長男夫婦と田園調布で幸せに暮らしていた。

 しかし、あけびの病院には、治療費は送ってくるものの、ほとんど見舞いには来ない。大宮上等兵は、妹のあまりの変わりように、ベッドのそばの椅子に座ったまま、動けなくなっていた。


■3.「大好きな鉄次兄ちゃんもきっとあっちで待っているわ」

 隣の病室に茜(あかね)という少女がいた。あけびがこうなる前から親しくしていて、年中、遊びに来ていた。あけびの頬っぺたの筋肉がまだかすかに動いた時、ボードを使って交信していた。あけびは、ボード交信もできなくなったら、死なしてくれるように病院に伝えてくれ、と何度も茜に頼んだ、と言う。

 大宮上等兵が椅子に座っている時に、その茜が部屋に入ってきた。茜には大宮の姿は見えない。

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 おばあちゃん。聞こえる。私の云うこと判る? 私ね、約束を果たしに来たの。あばあちゃんに云われてたあの約束。

 人口呼吸器止めてあげるからね。怒られたってヘッチャラよ私。だって私ももうじき行くンだもン。待っててね。天国の入口で。

 きっとあっちは良いとこよ、とっても。あばあちゃんの大好きな鉄次兄ちゃんもきっとあっちで待っているわ。
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 大宮は、涙をポタポタ流しながら、何度も何度もうなづく。

 茜は機械のダイヤルを回し、「もうじき又逢えるわ。それまで。サヨナラ」と部屋を出て行った。

 大宮は最敬礼で、茜を見送った。「ありがと! お嬢ちゃん! 感謝する! ありがと!」

 大宮はあけびを抱きしめた。


■4.「これで漸く、肩の荷が下りた」

 病院からの電話で、健一は母親の死を、財務総合研究所のオフィスで知った。深夜だったが、スクリーンいっぱいに世界の株式市場の動向が映されていた。

 健一は秘書の小泉に電話して、適当な斎場を手配して、密葬の段取りをするよう指示した。「俺はもちろん、ちょっとは顔を出す」

 甥の受け答えをそばで聞いていた大宮上等兵は、怒りで体中の血が煮えたぎった。しかし、ここで事を起こしたら、南の海の底にも帰れなくなって、本当に今度こそ行き場がなくなる、と必死に自分を抑えた。

 健一は妻にメールを打ち始めた。大宮はそばに寄り、メールの中身をのぞき込んだ。

__________
 おふくろが死んだ。朝になったら正彦たちに知らせろ。

 小泉に連絡して後の処置は頼んだ。大仰にする必要、全くなし。余所には洩らさず、密葬ですませ。

 子供らはそれぞれ受験勉強があるから。出なくてよろしい。

 これで漸く、肩の荷が下りた。
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 最後の一文で、大宮の堪忍袋の緒が切れた。訳も分からないうちに、その右手は腰の牛蒡剣(ごぼうけん)を引き抜き、健一を刺した。


■5.「あんまりじゃないか君。あんまりじゃないか」

 大宮は不思議と後悔は湧かず、今日初めて見た自分の甥に静かに語りかけた。

__________
 なぁ君。俺たちは戦ったんだ。

 軍隊の中で、叩かれいじめられ、懸命に耐えて戦地に送られ、−−輸送船の中で爆撃を受け、敵の顔も見ずに海に投げ出され、うねる海上で板きれにつかまって水も食い物もなく波に翻弄され、戦友がどんどん溺れて行く中で、たった一人で海の上にいた。

 それでも俺は6日間生きた。お天道様が上がるのを6回、目にした。その6日間俺が波の中で、何を考えてがんばったか判るか。

 浅草の景色だ。六区の賑わいだ。オペラ館で踊るあけびの姿だ。

 なあ君。君の知っているおふくろの肌はしわが刻まれて醜いのかもしれない。だがそのしわは、君の為に、君を生かす為に刻まれたしわだ。君の生まれる前その肌はピチピチと、青春の光に輝いていたんだ!

 俺があの海で、最後に夢想し、その後の歳月もずっと夢見てきた、日本の平和の姿っていうのは、−−こういう残酷なものだったのかい。

 あんまりじゃないか君。あんまりじゃないか。
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 大宮上等兵の目から涙が噴き出した。


■6.「俺たちは今のような空しい日本を作る為にあの戦いで死んだつもりはない!」

 午前4時、東京駅。英霊たちが再び集合し、点呼をとっていた。英霊たちは現在の日本を見て、それぞれの悲しみや失望を味わっていた。

 大宮上等兵の姿はその中にはなかった。報告を受けた秋吉部隊長は、こう聞いた。

__________
 戦後65年、日本はあの敗戦から立ち直り、世界有数の豊かな国家として成功したんじゃなかったのか。家族をかえり見ぬ人間達の社会が、それでも豊かと云えるのか?

 俺たちは今のような空しい日本を作る為にあの戦いで死んだつもりはない!

 俺たちの仲間、海に沈んだまゝの英霊は、30万体を越えている。俺たちの唯一のささやかな愉しみは、うねりの強い人気(ひとけ)のない夜、海面に浮き上がって月を見ることだ。

 月を見ながら故国のことを想う。あの月の下で俺たちの子孫は、倖せな眠りを眠っているだろうか。家族の寝息がきこえるだろうか。
 そして時折悲しい過去を−−その為に死んだ俺たちの世代を、思い出し感謝して、いや! 感謝などしてくれる必要はない。思い出してくれゝばそれで充分だ。

 そう思うことを心の支えにし、冷たい海底に又沈んでいく。そうして65年を過ごした。無残に戦死したあのまゝの心で、ひたすら故国の倖せを祈っている。
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 しかし、その英霊たちの祈りを、現代の日本人はほとんど忘れ去っている。大宮上等兵の甥・健一のように。

 秋吉部隊長は「出発!」と命じた。大宮上等兵の為に、葬送ラッパを吹かせながら。


■7.「僕はどっかでまちがっちゃったンです」

 大宮上等兵は、靖国神社の鳥居の下にぽつりと立っていた。そこに既に死の世界に入った健一が現れた。

__________
 おじさん。さっきから考えていたンですが−−。僕はどこでまちがってしまったンでしょう。最初の頃はちがったンです。最初はおふくろを大事にしてた。何より一番大切に思ってた。

 僕の為に散々苦労したおふくろを、楽にしてやりたい、倖せにしてやりたい、その為に必死でがんばったんです。がんばって来たつもりで−−。ずっと。−−いたンです。それが−−どこで僕はまちがってしまったンでしょう。

 小学校の頃おふくろに連れられて、初めて食べたラーメンの旨さを、−−今でも突然思い出します。こゝのはおいしくて量が多いよ、って僕の耳元でおふくろが囁いた。

 僕はおふくろにあぁいうラーメンを御馳走できる身分になりたかった! その為にがんばって。−−がんばってるうちに、そういう初心からどんどん離れた。僕はどっかでまちがっちゃったンです。
どこでまちがったンでしょう。
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■8.「大丈夫もうよぅく判っているよ!」

 鉄次は、健一に近付いて、いきなり殴った。健一はすっとび、折れた歯を押さえて苦悶した。

「あけびの代わりだ。痛かったか。悪かった。すまねぇ。昔のクセが出ちまった」

「イエおじさん−−僕は−−嬉しかったです。−−久しぶりに、急に−−目が醒めた気がします。」

「目が醒めたンなら一つだけ覚えとけ! −−恥を知れ。人間としての恥を知れ。おふくろンとこへすぐとんで行け! とんでいって、キッチリ謝って来い。」

 そこにあけびの声がした。「許してやってもう。鉄次兄ちゃん! その子、元々やさしい子なンだよ! 大丈夫もうよぅく判っているよ! ありがと兄ちゃん。とっても嬉しいよ」

「どこにいるンだ、あけび。出てきて兄ちゃんに面を見せろ!」という大宮に、あけびは泣き笑いながら、「いやだよ兄ちゃん。兄ちゃんは若いままなのに、私はトシとってしわくちゃなんだもン」

 雀の声が聞こえてきた。朝の東京の喧噪が始まった。階段を駆け下りるサラリーマンの足音。駅のアナウンス。

(文責:伊勢雅臣)




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今日は、「はやぶさ」ではプロジェクトマネージャを務められた、川口淳一郎氏の講演を拝聴してきた。

面白い話をたくさん聴いたが、印象に残ったのは、
「小才は縁に出合って縁に気づかず。中才は縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖すり合った縁をも生かす」
という言葉で、出典は柳生家の家訓らしい。

最近はそうでもないが、若い頃の自分を考えると、色々なことを一生懸命にやってはいたのだが、何かを目標にし、それを取りに行く迫力に欠けていたと思う。

漠然と物事をやっていて、
「こうなるんだろうなあ」
で、そう進んでいくこともあるが、それより
「こうなりたいんだ。だから具体的手段としてこうするんだ」
と、突き詰めながら進んだ方が成就しやすいだろうことは言うまでもない。

突き詰めて生きていれば、おのずとちょっとした縁をきちんと利用することもできるのだろう。
この頃は、とにかく流れに乗りながらやっていくことを考えている。
わかりやすい言い方をするなら、
「アヤがついた話には乗らない」
という感じか。

何か途中で横やりが入る場合は、流れがよくないと考え、すっぱりやめてしまうのが最善の策だ。
ただ、
「ここは何があっても押すところだろ」
というケースもあって、これを見極めるのが「自在性」というものなんだろうが、これがなかなか難しい。






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日本はすでに農業大国(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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日本はすでに農業大国
日本の農業生産額は世界5位。「高齢化する零細農家」は「農業版自虐史観」。

■1.日本は世界第5位の農業大国

日本の国内農業生産額は2005(平成17)年時点で、826億ドル、8兆円相当の規模で、これは中国、米国、インド、ブラジルに続き、世界第5位を占めている。

米国(1775億ドル)のちょうど半分程度だが、大雑把に言えば、人口も米国の半分程度なので、国民一人あたりの農業生産額はいい勝負と言える。

また欧州の農業大国と言われるフランスは6位549億ドル、広大な領土を持つロシアは7位269億ドル、オーストラリアは17位259億ドルで、日本の生産額はこれらの「農業大国」をはるかに上回っている。

品目別に見ても、生産量で世界トップレベルのものが少なくない。ネギは世界一、ホウレンソウ3位、ミカン類4位、キャベツ5位、イチゴ、キュウリは6位だ。コメは生産能力の4割を減反していて10位だが、減反開始前の昭和35(1960)年代には3位だった。意外なのがキウイフルーツで、世界6位、米国を上回っている。

こうして見ると、自動車やエレクトロニクスなどの工業分野と同様、農業分野でも我が国は大健闘している、と言える。

すなわち、日本はすでに農業大国なのである。GDP(国内総生産)を根拠に、我が国が今まで「世界第2の経済大国」(最近、中国に抜かれたようだが)と呼ばれていたのだから、農業の国内生産高、すなわち農業GDPによって世界第5位の農業大国と呼ぶのは妥当だろう。我が国の国土の狭小さを考えれば、これは驚くべきことである。

「食糧自給率が約40パーセント」、「農業従事者の約60パーセントが65歳以上」などと喧伝されていることから、我が国の農業は衰退状態にあり、いざ食糧危機が起こって輸入が途絶えたら、国民が飢餓に瀕するなどというイメージが一般的だが、『日本は世界5位の農業大国』の著者・浅川芳裕氏によれば、これこそが「農業版自虐史観」だと言う。[1,p45]


■2.日本は食糧輸入大国?

それでも食糧自給率40パーセントと言うからには、生産高は多くとも、より多くの食糧を輸入に頼っているのではないか、という疑問が湧く。

日本の農産物輸入を米英独仏の先進4カ国と比べてみると(2007年データ)、まず輸入額では、米国747億ドル、ドイツ703億ドル、英国535億ドルに次いで460億ドルと第4位。金額的に見て、我が国は主要先進国の中では少ない方である。

輸入額は人口にも影響されるから、国民一人あたりの輸入額で見ると、英国880ドル、ドイツ851ドル、フランス722ドルと来て、我が国はそのフランスのほぼ半分の360ドルとやはり4位。最も少ない米国の244ドルと大差ない。

「日本が輸入している農産物は、穀物など単価の安いものが多いから、金額は低くても量は多いのでは?」とさらに疑う読者のために、一人あたりの輸入量で見ても、ドイツ660キロ、英国555キロ、フランス548キロに続き、日本は427キロとやはり4位で、米国の177キロを上回るに過ぎない。

すなわち、この先進5カ国の中で比べてみれば、生産高は826億ドルと米国に次いで第2位、輸入高では460億ドルと生産高の半分強で第4位。このどこが「食糧輸入大国」であろう。


■3.食糧自給率40パーセントのカラクリ

実は「食糧自給率40パーセント」という数値にカラクリがあると、浅川氏は指摘している。この計算はカロリーベースのもので、一人1日あたりの供給カロリーのうちの国産供給分の比率である。分母となる供給カロリーの中の4分の1ほどは、レストラン、ファーストフード店などでの廃棄分や食べ残しが含まれる。

それらの廃棄分を除いて実際に国民が摂取している一人一日あたりの摂取カロリーで見れば、自給率は54パーセントとなる。民主党が10年後に目指すとしている自給率目標50パーセントはすでに達成されている。現在の定義で自給率を高めようとすれば、まずは廃棄分を減らすのが、正しい方向だろう。

さらに自給率を生産額ベースで計算すれば66パーセントとなる。先の先進5カ国で言えば、米国、フランスに次いで3位である。米国やフランスは輸出が多いから自給率も高いのだが、主要な輸出品目は穀物、肉製品、ワイン等。これらの品目は、南米や東欧などの新興国に押され気味で、生産額ベースの自給率は低下傾向にある。

一方、日本より自給率の低い英国やドイツは、寒冷地で野菜や果物は輸入に頼らざるを得ない。

我が国土は狭隘と言えども、南北に長く一年を通じて様々な農産物の栽培が可能で、農業に適している。しかも、その中で高度に発達した国内市場を持ち、そのニーズに基づいた高品質の野菜、果物、畜産品を開発、生産している。

カロリーベースで自給率40パーセント、という「農業版自虐史観」だけでは、こうした我が国農業の真の実力を見失ってしまうのである。


■4.大幅な農業生産性向上

「農業従事者の約60パーセントが65歳以上」というのも、実態を惑わす表現である。お年寄りの農家が細々と田畑を耕していて、後継者もおらず、生産高は徐々に減っていき、いずれ日本農業は全滅してしまう、と想像しがちだが、これまた事実ではない。

まず我が国の農業総生産高は着実に伸びている。昭和35(1960)年の4700万トンから、平成17(2005)年の5000万トンへと300万トンの増産を実現している。

確かに農業従事者数は減っている。昭和35年に約1200万人いたのだが、平成17年には約200万人と激減している。確かに農業従事者数は6分の1となったが、逆に生産高は増えている。すなわち一人あたりの生産性が6倍以上に向上しているのである。

農業者一人あたりの生産額で見ても、昭和35(1960)年の18万円が、平成17(2005)年には約24倍の438万円に上昇。物価変動分を差し引いても、5.2倍になっている。

一人の農業従事者が何人分の食糧を生産しているか、をカロリーベースで試算すると、昭和35(1960)年には7人分だったのが、平成17(2005)年には4倍超の30人も養えるほどになっている。

すなわち、農業従事者の減少とは、生産性の大幅向上によって、一定規模の食糧生産に必要な人数が大幅に減った結果であって、農家が高齢化して引退していき、食糧生産も衰退していっている、ということではない。

農業生産性の向上によって、農家が大幅に減少していく、というのは、先進国共通の現象である。過去10年の農家の減少率で見ると、我が国は22パーセントだが、ドイツ32パーセント、オランダ29パーセント、フランスが23パーセントと、日本以上の減少率となっている。

「農業従事者の約60パーセントが65歳以上」というのは、お年寄りがいくつになっても元気で田畑を耕したり、あるいは兼業農家をやっていた会社員が定年後に晴耕雨読の生活に入るなどしているからである。喜ばしいことではあっても、心配すべきことではない。


■5.他の本業で稼ぎ、家庭菜園を営むアマチュア農家

日本の農業大国ぶりを支えているのは、こうした高齢化した農家とは別の、少数精鋭の農業従事者である。

約200万戸の販売農家(面積30アール以上、または年間の農産物販売金額が50万円以上)のうち、売り上げ1千万円以上の農家はわずか7パーセントの14万戸しかないが、彼らが全農業生産額8兆円の6割を産出している。

逆に売り上げ100万円以下の農家が120万戸、6割も存在するが、彼らの生産額はわずか5パーセントに過ぎない。売り上げ100万円以下とは、耕作の目的はあくまで自家用やおすそ分け用であって、余った分を販売に回しているに過ぎないだろう。いずれにしろ、国民全体の食生活を支える存在ではない。

民主党は「農業者個別所得補償制度」を提唱し、平成22(2010)年には、5618億円もの予算が「個別所得補償モデル対策」として農家にばら撒かれた。その対象は、米を例に挙げると、180万戸ほど。そのうちの100万戸が1ヘクタール未満の農家で、農業所得は数万円からマイナス10万円程度である。

これが本当なら生きていけるはずもないが、実はこの層の多くは役所や農協、一般企業で働いており、その本業で平均500万円ほどの収入がある。零細農家というよりも、本業で所得を稼ぎながら、家庭菜園で自家用やおすそ分け用を中心に耕作をしているアマチュア農家である。

こうしたアマチュア農家に、56百億円もの税金をばら撒いて、食料自給率が向上するはずもない。そもそも農産物を売って、生計を立てようとはしていないのだから。民主党がこの政策で本当に食料自給率を上げようとしているなら愚劣の極みであり、またそれと知っていて得票目当てに国民の税金を投入しようとしている確信犯なら、悪徳の極みである。


■6.高収入のプロ農家

それでは、農業を本業とする少数精鋭のプロ農家とはどのような人々なのだろうか。その一例を、弊誌633号「『明るい農村』はこう作る 〜 長野県川上村の挑戦」で紹介した。かつては「信州のチベット」と呼ばれた高地でレタスを作り、東京市場の価格変動に機敏に対応した出荷を行って、607戸の農家が平均25百万円の野菜販売額を上げている。まさにプロ農家集団である。

こうしたプロ農家の所得の実態を、浅川氏が副編集長を務める月刊誌『農業経営者』で行った。

アンケートの対象となった2566人の平均収入は343万円。うち、個人農場1314人の平均348万円、農業法人社員870人の平均が241万円、農業法人経営者870人の平均が560万円であった。

農業法人社員の241万円は、社員数5〜9人の小企業における平均年収236万円とほぼ同程度の年収となっている。

個人農場主は他業種であれば個人商店や個人企業に相当し、農業法人経営者は企業経営者に該当する。それぞれ他業種に引けをとらない年収を得ている実態が明らかになった。

こうしたプロ農業者が、わが国の農業の生産性を何倍にも高め、わが国の食料供給のを支え、農業大国の大黒柱となっているのである。


■7.農業こそが世界の成長産業

わが国の農業をさらに強くして、国民がおいしい農作物を安く食べられるようにし、かつ万一の場合の食糧安全保障を図るには、これらのプロ農家をいかに発展させるか、が課題である。

そのひとつの方策は、国際市場に打って出ることである。日本のエレクトロニクス産業や自動車産業は海外市場で戦うことで、競争力を磨き、規模を大きくしてきた。

日本の車や家電製品が国内市場だけでやってきたとしたら、現在ほどの発展は望めなかったろう。逆に海外製品の攻勢に対抗できず、ちょうど今の農業のように高関税で海外製品の輸入を阻止することに汲々としていたであろう。

世界の農産物貿易額は急速に拡大している。1961年に670億ドル(約7兆円)だったのが、2007年には1兆7800億ドル(約180兆円)と拡大した。とくに2000年以降は年平均10兆円も伸びている。農業こそが世界の成長産業なのである。

この農産物貿易の拡大にうまく乗ったのが、ドイツや英国で、それぞれ420億ドル、200億ドルの輸出増加を果たした。同期間の日本の輸出の伸びは17億ドルに過ぎない。もしわが国がドイツ並に400億ドルも輸出を伸ばしていたら、生産額ベースの自給率は90パーセント以上に達していたはずだ。


■8.「僕自身、日本の農産物は世界一だと思っている」

海外市場に打って出て成功している農業者がいる。農業法人・和郷園である。平成19(2007)年に輸出事業を始め、わずか2年で売り上げの約1割を占める3億円に達した。香港に現地駐在員を置き、自社生産の高品質農産物をレストランやスーパー向けに輸出している。

和郷園代表の木内博一氏はこう語る。
『僕自身、日本の農産物は世界一だと思っている。今、そのことを世界にしっかり表現していくときだ。まずは最高級品を輸出することにこだわり、海外で「ジャパン・プレミアム」を創出する。頂を高くすれば、その後の日本産農産物の世界市場は大きく開ける』

自動車やエレクトロニクスと同様に、和郷園では海外生産も始めている。タイでマンゴーとバナナを生産する現地法人を設立し、バナナの半分は日本に輸入しているが、残り半分は現地で販売している。日本人の農家が地元タイで作った "Made by Japan" が評価され、世界ブランドの「ドール」よりも、高値で売れている。

「高齢化し、衰退する日本農業」という「農業版自虐史観」では、アマ農家に税金をばら撒き、輸出はおろか、高関税で海外農産物の輸入阻止という袋小路に入り込むだけである。

和郷園のようなプロ農家が輸出や海外生産を通じてさらに競争力を鍛えていけば、農業大国日本の将来は明るいのである。

(文責:伊勢雅臣)

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機雷除去に命をかけた男たち(下)(国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

機雷除去に命をかけた男たち(下)

■1.「北朝鮮海域に海保の掃海隊を出してほしい」

 海上保安庁の初代長官・大久保武雄が日本橋兜町にあった極東海軍司令部に呼び出されたのは、昭和25(1950)年10月2日のことだった。参謀副長アーレイ・バーク少将は大久保にこう言った。

「元山上陸作戦のために、北朝鮮が敷設した元山港の機雷を除去したい。海保の掃海隊を出してほしい」[2]

 大久保は絶句した。海上保安庁の掃海部隊は、国内の港湾、航路の掃海に大きな成果をあげていたが、朝鮮戦争が行われている海域での掃海は戦争行為そのものであり、米国が押しつけたばかりの新憲法に抵触する。

 この時、朝鮮戦争は大きな山場に差し掛かっていた。4月に北朝鮮軍が大規模な奇襲攻撃を仕掛けて、国連軍は朝鮮半島南端に追い詰められたが、総司令官マッカーサーの仁川上陸作戦により北朝鮮軍を挟み撃ちにして、戦局を挽回した。

 マッカーサーはさらに日本海側の元山に上陸し、朝鮮半島の最も細いくびれた地帯を東西から分断し、北朝鮮軍を袋のネズミとして殲滅しようという作戦に出た。しかし北朝鮮は沿岸にソ連製機雷を大量に敷設しており、それらの除去が不可欠だった。

 しかし国連軍で掃海作業にあたっていたのは、わずか数隻の、それも経験に乏しい掃海艇のみで、上陸作戦を行うにはどうしても熟達した日本の掃海部隊の助けを借りるしかなかったのである。


■2.「極秘でやってくれ」

 新憲法を盾に「掃海部隊派遣は困難」と回答した大久保長官に対して、バーク少将は「掃海艇がなければ国連軍が敗北するかもしれない。それは日本に不幸な結果をもたらす」と脅した。

 大久保長官は事の重大さに、とても一人で決められる問題ではないと、ただちに吉田首相を訪ねて、指示を仰いだ。おりしも、講和条約の締結に向けた交渉が進んでいた時期であり、独立を待望していた我が国にとって、掃海艇派遣拒否はどう考えても得策ではなかった。

「それは困ったな。米国と講和条約の交渉に入ったばかりだから、(掃海を断って講和の)チャンスを逃すわけにはいかない。しかし、やれば国内的に問題になる…極秘でやってくれ」と吉田は答えた。

 その日の真夜中、「直ちに出港準備をなせ!」との命令が各地の掃海隊に下された。1時間ほどすると、各艇から次々に「出港準備完了!」の連絡が返ってきた。有事即応の海軍精神が生きていた。掃海隊は任務地は教えられないまま、下関港での集結を命じられた。


■3.「大義」は?

 神戸、舞鶴、大湊、呉、門司などから次々に掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻が下関港に集結した。全船艇の指揮官、艇長が集められ、航路啓開本部長の田村久三が任務を語った。米軍からの命令で、朝鮮水域での掃海にあたって貰う、という内容だった。

 重苦しい沈黙が続いた。今まで国内での掃海に取り組んできたが、それには「国家再建のため」という大義があった。つらい危険な作業だったが、それは戦後の窮乏に苦しむ国民を救うために、誰かがしなければならない仕事だった。

 海軍軍人として一度は捨てた命を、もう一度、国家、国民のために捧げることは厭わない。しかし、今回は「祖国のため」とか「愛する人のため」ではなく、ただ「占領軍の命令」なのだ。

 重い空気を破って質問が出た。「行き先は? 大義名分は? 命令権者は誰か? 米軍の指揮下に入った場合の我々の身分は? 万一のことが起きた時の補償や手当は?」

 それから3時間も堂々巡りの議論が続き、「北緯38度線以南の戦闘の行われていない港湾の掃海とする」などの事項が、この場で定められた。しかし、掃海部隊の内々の決め事を米軍が守ってくれるという保障などどこにもなかった。


■4.「今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」

 各艇長を通じて、乗員全員に任務の説明がなされ、「下船したい者があれば申し出るように」と伝えられたが、2名を除いて、全員が了解した。

 朝鮮へ出動すると知った家族は各地から下関に駆けつけた。岸壁に横付けされている船から夫を捜し出して、「朝鮮には行かないで頂戴! 掃海隊を辞めてうちに帰ってください!」と涙ながらに訴える妻がいた。また夫の胸にすがりついて「日本の戦争は終わったのに、今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」と必死に引き止める妻。隊員たちも必死に家族を説得したに違いない。

 10月7日、第一掃海隊5隻、116名が下関を出港。翌朝には総指揮艦艇「ゆうちどり」を先頭とした第2掃海隊7隻が続いた。

 米軍の命令で、船名も消され、日の丸を掲げることも許されなかった。夜になっても、灯火はいっさいつけず、暗夜の無灯航行を続けた。

 途中で、米海軍の駆逐艦数隻が現れ、掃海部隊の左右両側を護衛するように航行した。目的地は「元山」、「隊内においても、日本に向けても無線は封止」「本艦に続行せよ」との指令が下された。

 第2掃海隊指揮官の能勢省吾は、こう記している。[1,p128]

__________
 10月10日、夜が明けてみるとついに元山沖付近まで来ていたのである。遙か沖合の方に米第7艦隊らしい戦艦、航空母艦等がずらりとならんでいるのが沖合い遠くに見える。我々の行く処は朝鮮東岸の元山沖であったのかと、はじめて皆はびっくりしたのであった。・・・

 これこそ第7艦隊の主力ではないか。元山でこんな大部隊を動かすような大作戦が計画されていたのかと思って私は驚いた。
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 湾口近くにいる駆逐艦数隻は、陸上への砲撃を行っていて、戦場に来たのだということを、誰しもが感じた。


■5.米掃海艇2隻沈没

 米艦から燃料、水、食糧の補給を受け、12日、早朝から掃海作業を始めた。能勢は米軍の4隻の掃海艇を見て目を疑った。全て鋼の船体で、これでは磁気機雷にかかればひとたまりもない。実はそれ以外の掃海艇はすべて米本土に帰されていたのだ。

 しかし、その米掃海艇は恐れを知らないかのように、先頭に立って、湾口をめざす。

__________
 先頭艦が湾口にさしかかった時である。「ドーン!」という大音響とともに、先頭艦AM275が水煙に覆われた。「やられた! 触雷だ!」艦橋に居合わせたもの皆一様に、声もなく、見つめた。[1,p131]
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 水柱は10〜15秒で消え、同艇は船首を下に、急速に沈下しつつあった。3分ほどで、最後のマストまで見えなくなった。

 その時、「ズドーン!」とけたたましい音が耳をつんざいた。湾口南側の島から敵の攻撃が始まったのである。米2番艇は、沈没した1番艇の乗員を救助しながら、艦載砲で反撃する。

 しかし、その2番艇も触雷し、「ドーン!」という大音響とともに水柱と煙につつまれ、見る間に横倒しになって、一瞬のうちに沈んでしまった。

 3番艇、4番艇も砲撃しつつ、救助作業を行う。日本の掃海艇はただ見守ることしかできなかった。しばらくすると「掃海を中止し、泊地に撤退せよ」との命令が下された。結局、この日、2隻の掃海艇が失われ、戦死者13名、負傷者92名の被害が出た。


■6.行方不明1名

 その後、沖合から湾口の島々に、米戦艦、巡洋艦、駆逐艦から、まる一晩、艦砲射撃が行われた。これだけ撃ち込まれたら、北朝鮮の砲撃部隊も壊滅しているだろうと思われた。その後、掃海作業が連日、続けられた。

 17日午後3時半、「ドーン!」と足元から突き上げるような大音響が起こった。煙が消えると、日本の掃海艇の一隻が、すでにマストと艦橋部分を残して水没しているのが見えた。能勢は「掃海中止、掃海索を揚げ救助せよ!」と各艇に指示した。

 しかし、各艇は掃海索の揚収にもたついている。また周辺は機雷の海で、下手に動けば同じように触雷するかもしれない。歯噛みをしていると、米艦が救助に全力で急行するのが見えた。日本艇の沈没を見て、自らの危険を顧みずに救助に向かうその姿は、日本の掃海部隊員の心を打った。

 30分ほどして、米艦から24名を救出、うち重傷3名、軽傷5名との連絡を受けた。1名、中谷坂太郎が行方不明のままであった。

 油に覆われた海面から助け出された隊員たちは、入浴が許され、新しい衣服が支給された。北朝鮮の海は10月にはもう冷たく、米艦上でも震えが止まらなかったが、暖かい飲み物を配られて、少し落ち着いた。米兵の真心のこもった親切さが身にしみた。

 救助された隊員たちは、翌々日には佐世保に送られ、負傷者は病院へ、元気な者は旅館に収容された。久しぶりの畳の上の生活だったが、皆もう一度、元山に戻って、残してきた仲間を助けたいと思った。

 なかでも、石井艇長は「俺は中谷の遺体を見ていない、まだ生きて、助けを待っているかもしれないじゃないか」と、どうしも戻ると言って聞かず、結局、その後、再び、元山に赴いている。


■7.国事に殉じた一青年

 行方不明となった中谷坂太郎は厨房員だった。触雷沈没した17日は、掃海作業が一段落し、元山に上陸できそうなので、「ごちそうを作らないとな」と、張り切っていたという。そして、触雷の直前に、後部の船倉に降りていく姿があった。船倉にいたとしたら、触雷爆発ではひとたまりもない。

 事故から一週間後、坂太郎の両親の元に米軍大佐が通訳と一緒に訪れて、訃報を告げたが、その際、「瀬戸内海で死んだことにして欲しい」と言った。憲法9条とのからみもあり、国際問題になる事を避けるため、と説明された。

 父親の力三郎はかつての陸軍近衛兵であり、それが国のためになるのなら、と黙って米軍大佐の申し出を受け入れた。27日、呉海上保安部にて、海上保安庁葬が営まれ、同艇の乗組員たちも参列したが、彼らが朝鮮で掃海作業に従事していたことは、厳重に口止めされていた。

 失意のためか、母親のハナはその後間もなく亡くなり、半年後、父の力三郎も後を追うように息を引き取った。

 当時、海上保安庁長官だった大久保武雄のその後の奔走により、30年近く後の昭和54(1979)年、亡くなった坂太郎に「戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章」が授与された。大久保は、国事に殉じた一青年を国家として慰霊・顕彰していないことの責任を30年にわたって背負い続け、ようやくせめてもの叙勲にこぎ着けたのだった。

 これを機に、坂太郎の兄・藤市は、靖国神社に弟の合祀を申請した。国のために「戦死」したのだから、靖国神社に祀られることこそ坂太郎の本懐であろう、と考えたのである。靖国神社としても、できることなら合祀したいと考えたが、「朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外となっている」とのことで、いまだ実現していない。


■8.日本の独立を早めた掃海部隊の貢献

 犠牲者まで出た触雷事故に、一部の掃海艇長から「38度線以北には行かない」などと内輪で取り決めていた事項が守られていない事に関する不満が一気に噴き出した。それをなだめるべく、より安全な掃海方法への変更を米軍に提案したが、米軍は遅れている元山上陸作戦を早く実行するために「予定通り掃海を実行せよ」と聞き入れない。

 これに憤って3隻の掃海艇が任務を降りて、内地に引き返した。しかし、入れ替わりに日本から直ちに5隻の掃海艇が新たに増派されて、掃海作業を続けた。

 世界最強の米艦隊は3千個の機雷に行く手を阻まれ、日本の掃海部隊が掃海を完了するまで、じっと待っていなければならなかった。10月26日、掃海を終えて、ようやく米軍による元山上陸が実行に移された。

 一度、日本の部隊によって掃海された海域は、やり直しの必要はなかった。国連軍の他の国による掃海は、そうはならなかったことから、日本掃海部隊の実力と貢献は高く評価された。

 元山以外にも、仁川、群山など各地の港湾、航路の掃海が、日本の部隊によって行われた。冬の日本海の高波、強風、そして雪の舞う中を、掃海隊員たちは一日中、甲板で黙々と掃海作業に従事した。その姿と確実な掃海ぶりは、国連軍の信頼を集めた。

 延べ46隻、1200名以上の隊員が参加した特別掃海隊は12月15日に任務を終えた。米極東海軍司令官ジョイ中将からは、米海軍の最大級の賛辞”Well Done”が贈られた。

 翌昭和26(1951)年3月31日、米国から対日講和条約草案が示されたが、それは外務省が予想したよりも遙かに日本に有利なものであった。日本に掃海艇派遣を要請したバーク少将は大久保長官にこう語っている。[1,p202]

__________
 海上保安庁掃海部隊が朝鮮半島で国連軍を援助したことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の気運をぐっと早める効果をもたらしたと思う。
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(文責:伊勢雅臣)

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機雷除去に命をかけた男たち(上) (国際派日本人養成講座から)

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■ 国際派日本人養成講座 ■

機雷除去に命をかけた男たち(上)

■1.「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」

 3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。

「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」

 東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。

 ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟である。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。

 桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』[1]で見事に描いた掃海部隊員たちの姿がそれである。終戦後、機雷に閉ざされた日本の港を開くべく命をかけて掃海作業にあたってきた部隊員たちの活動をたどって、被災地で頑張る自衛隊員の皆さんへの応援としたい。


■2.「対日飢餓作戦」

 先の大戦末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2千個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦だった。

 終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。

 米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。[1,p11]

__________
 機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと一年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7千万の1割にあたる7百万人が餓死したに違いない。
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 海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。

 終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。

 日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかった。


■3.「我々掃海隊員に課せられた責務」

 終戦直後に、占領軍は帝国陸海軍を解体させたが、機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、すべての機雷の速やかな除去を命じた。

 戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊はそのまま危険な除去作業を続けることになった。ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いであった。

 徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。[1,p22]

__________
 諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。
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 こうして戦後の掃海作業が始まった。装備は、海防艦約20隻、徴用漁船その他約300隻余、そして人員は1万名余りであった。


■4.機雷除去作業

 一口に機雷といっても、様々な種類がある。形態として海底に沈んだ重しからワイヤーで結ばれて海中に浮かんでいる「係維機雷」と、海底に沈んでいる「沈底式機雷」がある。

「係緯機雷」は、2隻の掃海艇が平行して走りながら、掃海索(ワイヤー)を曳航して、それによって機雷と重しとの間のワイヤーを切断し、浮き上がった機雷を銃撃して爆発させる。

 このタイプは、帝国海軍が防衛のために自ら敷設したものが主で、敷設した場所も分かっているだろうし、処理も単純なので、約1年で除去完了となっている。厄介なのは、主に米軍がばらまいた「沈底式」である。

 沈底式には、艦船の発する磁気に感応するタイプが3種類、音響に感応するタイプ2種類、加えて磁気と水圧の変化の複合型と7種類もあった。

 磁気に感応するタイプに対しては、自身では磁気を発生させない木造の掃海艇2隻が掃海電線を曳航し、それに電流を流して磁気を発生させて爆発させる。

 さらに、感応9回目ではじめて爆発するような設定になっていたりする。すると、1000メートルの航路を掃海するためには、100メートルずつの幅に分け、各幅を9回、合計90回の曳航を繰り返す。

 しかもレーダーがない当時は、2分ごとに自分の目で3角測量という方法で測定するしかない。測量を間違えれば、掃海していない空白部分ができ、そこに機雷があれば、大事故につながるのである。


■5.名誉の戦死者でも、戦没者でもなく

 掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者2百名の被害が出ている。

 昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。[1,p75]

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 午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
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 浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。

 殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。彼らの葬儀は表向きにできなかった。というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。

 おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。

 したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。


■6.「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」

 しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。[a]

 しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。

 15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。

 お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。[1,p80]

__________
 高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、・・・隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。

「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」

「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。
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■7.荒れ海の登舷礼

 昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)であった。

 海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊32隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。

 海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。
__________
 私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。

 ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。[1,p81]
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 巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。

 荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。

__________
・・・乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。[1,p82]
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 国のため、国民のために、危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。


■8.「掃海殉職者顕彰碑」

 昭和27(1952)年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、港湾都市からは歓呼の声があがった。この「安全宣言」による経済効果は絶大で、復興を大きく後押しすることになった。

 なお、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。

 同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。

 世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、我が国の伝統なのである。

(文責:伊勢雅臣)
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国民の幸を願われ20年(国際派日本人養成講座から)

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国柄探訪: 国民の幸を願われ20年

 両陛下は180回のご巡幸で全都道府県514市
町村を訪問され、770万人の奉迎を受けられた。


■1.「人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ」■

 ちょうど20年前に即位された当初、今上陛下は「なるべく
早く全都道府県をまわりたい」と仰っていた。それが実現した
のは、平成15(2003)年11月の鹿児島県御訪問であった。訪
れられた自治体数は401、ご移動距離は12万キロ、地球3
周分の距離である。

 鹿児島を離れるに際し、陛下は次のようにお述べになった。

 今回の訪問で即位後47都道府県の全てを訪れたことに
なりました。各地を訪れ、戦争の痛手から立ち上がり、今
日を築いてきた日本の人々の努力に深い感慨を覚え、非常
に心強く感じております。[1,p86]

 翌年の歌会始では、次の御製(天皇の御歌)を発表されてい
る。

人々の幸(さち)願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経
(へ)つ

 その後もご巡幸は続き、平成19年末までの行幸は180回、
514市町村に達した。平成20(2008)年9月の新潟県ご訪問
までの奉送迎者数は約770万人にのぼる。[2,192]

 皇室は世界で最も古い王室だが、同時に世界で最も「国民と
ともにある」存在とも言えよう。

■2.苦しみ、悲しみ、辛さを背負っている人こそ■

 侍従長として10年以上もお側に使えた渡邉允(わたなべま
こと)氏は「両陛下はいわゆる名所旧跡へは全くいらっしゃい
ません」と語る。まず国民と会うことを第一義に考えられてい
るからであり、特に地震などの被災地へのお見舞いや、障害者
施設、老人ホームなどへの御慰問などが多い。

 国民の中で、他の人は背負っていないような苦しみ、悲
しみ、辛さを背負っている人こそが、両陛下にとって慰め
なければならない人たちなのだと思います。[3,p55]

 特に平成3年の雲仙岳噴火、平成5年の奥尻島を襲った北海
道西南沖大地震、平成9年ロシア船タンカーからの日本海重油
流出事故、平成12年三宅島大噴火、平成16年新潟県中越地
震などの被災者に両陛下は思いを寄せられた。

 平成7(1995)年1月17日の阪神・淡路大震災では、両陛下
は1月31日に現地を見舞われ、その後も次のようにたびたび
ご訪問されている。

・平成13(2001)年4月 復興状況ご視察
・平成17(2005)年1月 10周年追悼式典にご参加
・   同    8月 世界心身医学会開会式の際にご視察
・平成18(2006)年9月 第61回国民体育大会の際にご視察

 以下、兵庫県の被災者と両陛下との交流の様を見てみたい。

■3.希望の象徴■

 大震災直後に、陛下は次のような御製を詠まれている。

なゐ(地震)をのがれ戸外に過ごす人々に雨降るさまを見
るは悲しき

 一刻も早く被災地をお見舞いされたいと思われたのであろう、
2週間後に両陛下はヘリコプターで現地入りされた。その時の
ことを被災地の人々は座談会で次のように思い起こしている。


中山 バスが一台来まして、警察の方がたくさん立ってお
られましたので、どうなさったんですか?って聞い
たら、今、天皇皇后両陛下がお越しいただいていま
すと。それでちょうどアーケードの焼けたところで
皇后陛下が水仙の花を持ってそうっと手向けてくだ
さっているんですよ。そこで手を合わされていまし
た、あの時は、わぁーとこう心に伝わるものがあっ
てね。いやこれは頑張らねばあかんねっていう気持
ちをもったのが、私、今だにわすれられませんわ。
・・・

小畑 後に皇居で秋篠宮妃殿下にお会いした時に、「あれ
はお堀の側の水仙を摘んで持って行かれたんですよ」
       ってお聞きしたのです。自ら摘んで持ってきていただ
いたということでまた感動でした。

 米国の週刊誌タイムは泣き崩れる若い女性を優しく抱かれた
皇后様のお写真を掲載して、「被災地の人々は村山首相の視察
には冷淡であったが、天皇皇后を希望の象徴としてお迎えした 」
と報道している。

■5.『みんなが見守ってくれているんだ』■

 この年以降、陛下はお誕生日前の記者会見で必ず被災者の身
の上を案ずるお言葉を述べられるようになった。

 遺族や、今も厳しい不自由な生活をしている被災者、特
に高齢の人を思うと本当に心が痛みます。(平成8年)

 間もなく三年を迎えようとしている阪神・淡路大震災の
被災者が、まだ二万所帯以上仮設住宅に住まっていること
を思うにつけても、日本の厳しい自然を年頭に置き、自然
災害に対する備えが一層充実していくことを願ってやみま
せん。(平成9年)

 陛下の被災者へのお言葉は、仮設住居の入居者が完全になく
なる平成11年まで5年間、続けられた。

 この間、平成13(2001)年4月には復興状況ご視察に来県さ
れている。さらに皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下、紀宮
様、常陸宮同妃両殿下も加えると、震災後10年間で17回と、
まさに皇室をあげてのお見舞いがなされた。

 貝原俊民・前兵庫県知事は、こう述べている。

 被災者は、なぜ自分だけがこんなにひどい目にあうのか
と非常に落ち込むものです。・・・ですから、被災者一人
一人にとっても、被災地全体としても『みんなが見守って
くれているんだ』と感じうることが非常に大きい支えにな
るのです。

 両陛下にはたびたび兵庫にお越しいただき、いろいろな
お言葉をかけていただいたことは、まさに被災者は自分一
人ではないんだ、皆さんに支えていただいて復興していけ
るんだ、という勇気をもつことに繋がったと思います。


■6.「笑み交わしやがて涙のわきいづる」■

 平成17年1月、両陛下は「阪神淡路大震災10周年の集い」
を機に、三度目の被災地お見舞いをされた。前述の座談会では
この時のことも話題に上っている。

戸田 みな水仙を持って、両陛下のお車がお通りになる沿
道でお待ちしていました。やがて、先導車が来られ
たんで、われわれぱーっと水仙を高く掲げて振りま
したら、普通ならそのまま真っ直進んでいくはずだっ
たお車が私らの方にまで近づいて目の前でゆっくり
進めれたのです。

池内 天皇陛下が奥で皇后陛下が手前でしたが、寄り添っ
て覗くように水仙をご覧いただきましたので、われ
われもそれにお答えして。

中山 もう一生懸命水仙の花が折れるくらいお振りしまし
た。後で見たら、水仙折れてました。一生懸命やっ
たのでしょうね。

 皇后様は翌年の歌会始で次の御歌を発表された。

笑み交わしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ

 この御歌に関して、

戸田 これは私らの勝手な予想なんやけど、先ほどの中央
区の沿道で水仙でお迎えした私らの前をゆっくり車
でお通りになったときの歌ちゃうか、と思うたくら
いな感動を受けたんですよ。

小畑 皆この御歌がスラスラっ言えますからねぇ。そんだ
けこう心の中にずっとしまっていますわ。大事にし
てますよ。

 神戸市長田区では水仙が復興のシンボルとされ、水仙をあし
らった照明灯をつけたコミュニティー道路(スイセン通り)、
そして約千本の水仙を植えた公園が設けられた。

 この皇后様の御歌の歌碑が神戸市役所の南の東遊園地に建立
された。縦1メートル、横2.4メートルの黒御影石に刻まれ
たもので、この御歌に感動した生田神社宮司・加藤隆久氏が中
心となり、賛助金も瞬く間に集まって完成したのである。

■7.「人々の築きたる街みどり豊けし」■

 震災直後、避難所や仮設住宅などで多くのボランティア活動
が展開され、その参加者数は1年間で138万人に達した。平
成7年は「ボランティア元年」と呼ばれた。

 陛下はこの事をことのほか喜ばれ、同年のお誕生日のご会見
で次のように語られた。

 被災者が互いに助け合い、冷静に事に処している姿と、
各地から訪れたボランティアが、懸命に被災者のために尽
くしている姿に深く感銘を受け、我が国の将来を心強く思
いました。

 復興の一環として進められたのが、緑豊かな街づくりを目指
す「ひょうごグリーンネットワーク」(代表・安藤忠雄氏)で
ある。震災後の街は緑も失われ、ほこりっぽい潤いのない光景
が広がっていた。10年間で25万本を目標に、阪神間では鎮
魂の願いを込めて白い花の咲くコブシ、ハナモクレン、ハナミ
ズキなどが植えられた。

 平成13年4月のご視察で、両陛下が植樹をされた際には、
すでに目標を上回る30万本の植樹が達成され、陛下は安藤氏
に「よくここまで緑が戻りましたね」と声をかけられた。

六年(むつとせ)の難(かた)きに耐えて人々の築きたる
街みどり豊けし

 翌年年頭にご発表になった御製である。6年の苦難を乗り越
えて、人々が力を合わせて街を築いた。その豊かな「みどり」
は人々の復興への意思と助け合いの象徴である。

■8.「提灯を通して両陛下と私たちが一つになった」■

 平成18(2006)年9月、第61回国民体育大会が神戸市で開
催された。兵庫県では3回目の開催であったが、今回は特別な
意味が込められていた。震災から11年、兵庫県が立ち直った
姿を示し、全国各地の復興支援への感謝の気持ちを示そうと
「"ありがとう"こころから・ひょうごから」とのスローガンが
掲げられた。

 震災後4度目のご訪問となる両陛下を歓迎しようと、井戸敏
三・兵庫県知事、矢田立郎・神戸市長が名誉顧問となって奉迎
委員会が設立され、沿道での奉迎に14万本の日の丸の小旗が
用意された。神戸に向かう途中に立ち寄られた三木市では人口
の五分の一にあたる2万人の人々が沿道で奉迎した。

 両陛下がご宿泊されたホテルオークラの前のメリケンパーク
では、その晩に千人の人々が提灯を掲げて歓迎をした。両陛下
はホテルの33階のお部屋から8階まで降りてこられ、午後7
時20分から約10分間、提灯を振って答礼をされた。前述の
加藤宮司は次のように語っている。

 両陛下は、ゆっくりと上下左右に何度も提灯をお振りに
なり、私たち約一千人もそれと軌を一にして提灯を振りま
した。提灯を通して両陛下と私たちが一つになった感覚を
しみじみと感じました。奉迎者の中から「天皇陛下、皇后
陛下万歳」の声が澎湃として沸き起こり、提灯の他に日の
丸の小旗も打ち振られました。君が代を何度も斉唱し、本
当に感無量でした。

■9.「私たちは一人ぽっちではない」■

 両陛下がお心を寄せられたのは、阪神淡路大震災だけではな
い。平成16年の中越地震では、陛下はヘリコプターで被災し
た山古志村をご訪問になり、次の御製を詠まれた。

地震(なゐ)により谷間の棚田荒れにしを痛みつつ見る山
古志の里

 両陛下に励まされた山古志村村長・長島忠美氏は次のように
語っている。

 私たちはあのとき絶望の中にいました。場合によっては
一人ぽっちになるかもしれないと思っていました。しかし、
両陛下がお出で下さった。日本を象徴する方が来て下さっ
た。私たちは一人ぽっちではない。これだけで勇気に繋がっ
たと思います。・・・

 天皇皇后両陛下は、私たち政治家ではできないことをずっ
とやってきて下さっていると思うのです。それは大きな御
心で国民全体を愛するということです。その気持ちが国民
に伝わるから、勇気になったり、感謝の気持ちになったり
するのだと思います。

 天皇が国土を巡られることを、ご巡幸と言う。「幸」という
のは、古代シナの「天子が赴くところ幸いが生ず」という信仰
から来ている。

「人々の幸」を願い、祈る両陛下の御心が国民に伝わって、
「私たちは一人ぽっちではない」という感謝、そこから湧き上
がる勇気、そして互いに助け合おうという思いやりの心が生ま
れる。国民一人ひとりがこうした心を持てることが、真の「幸」
ではないか。

 両陛下は、このような幸を願いつつ、全国を巡幸されている
のである。
(文責:伊勢雅臣)



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日本経済は中国に依存してない(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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『日本経済は中国に依存してない』

中国への輸出はGDP(国内総生産)比3%以下、投資は1%強でしかない。

■1.『中国がなくても、日本経済はまったく心配ない!』

『中国がなくても、日本経済はまったく心配ない!』という本がよく売れている。
「エッ!?」と思わせるタイトルだが、それだけ「日本経済は中国の成長に依存している」という先入観が、日本中に浸透しているからだろう。

著者の三橋貴明氏は、経済分野での偏向報道・自虐的報道を定量的データで喝破する優れた経済評論家であり、本誌にもすでに2度ほど登場いただいている。

今回の著書でも、「中国は世界一の金持ち国」「中国はアメリカを抜いて世界一の経済大国になる」など、一部マスコミが垂れ流しているプロパガンダを喝破している。
「成長する中国と衰退する日本」という虚像に洗脳されて、いたずらに中国に平身低頭したり、我が国の未来を悲観する事は、国家の前途を誤らせる。

三橋氏の著書は、これらのプロパガンダの嘘を、データを通じて明らかにしてくれている。グラフも多用され、一般国民にも分かり易く説明されているので、国際経済分野の基本図書としてもお勧めしたい本である。本稿では、そのさわりを紹介させていただく。


■2.対中輸出はGDPの2.79%に過ぎない

まずは「日本経済は中国に依存している」という事が事実かどうか見てみよ
う。「依存」の定義として、以下の3つが考えられる。

1) 中国への輸出がなくなったら、日本経済は大変なことになる。
2) 中国からの輸入がなくなったら、日本経済は大きな打撃を受ける。
3) 中国への膨大な投資がパーになると、大損害だ。

まず中国への輸出だが、平成21(2009)年度における中国・香港向けの輸出額は約1415億ドル。これだけみるとずいぶん大きいようだが、同年の日本のGDP(国内総生産)は約5兆ドルなので、そのわずか2.79%でしかない。

本講座なりに例えれば、年に500万円の利益を上げている「日の本株式会社」があるとする。その顧客の一つが倒産して、14万円の売上がなくなったのと同じである。多少の痛手ではあるにしても、致命傷というほどのこ
とはない。

しかも日本企業が中国に部品を輸出して、現地子会社で組立をし、完成品を日本に逆輸入したり、欧米などに輸出したりする割合もかなりあるので、これらは中国がなくなっても、ベトナムその他で十分、代替が効く。
とすると、実際の損失はもっと小さい。

また、2、3%のGDP減少は、それほど珍しいことではない。平成12(2000)年を基点として、平成22年(2010)年までの10年間で、GDP(名目USドルベース)が対前年で4%以上下がった年が3度もあった。


■3.中国からの輸入は2.44%、しかも代替が効く品が多い。

輸入はどうか。中国・香港からの輸入は、同じく平成21(2009)年度で約1236億ドル、GDPの比率にして2.44%である。

しかも中国からの輸入は、農産物や安価な工業製品が多い。農産物なら多少値段が高くとも、高品質で安心できる国内産で代替できる。その分、国内農家が潤う。

また安価な工業製品も、中国製でなければダメという製品はほどんどないだろう。国内産の高級品、あるいは東南アジア製などで代替可能である。

尖閣諸島での中国漁船衝突事件で、レア・アースの輸出制限が大きな問題となったが、三橋氏によれば、そもそも90年代にレア・アースはアメリカや南米、オーストラリアなどで普通に産出されていた。その後、中国がダンピング攻勢をしかけたので、これらの国の鉱山が閉鎖に追い込まれたという。中国がレア・アースを売らないというなら、再び、これらの国から買えばよいだけだ。

ということで、中国が無くなっても、GDPへの影響は2.44%の数分の一という規模であろう。「日の本株式会社」の例で言えば、これは年12万円ほどの仕入れ先が一つなくなったが、その相当部分は他の仕入れ先に振り
替えればよい、という話である。


■4.対中投資はGDPの1%強

もう一つは対中投資である。「日本から中国への膨大な投資がパーとなったら大損害だ」と言われるが、本当にそうか。

平成21(2009)年度末での対外直接投資残高で見ると、中国向けは550億ドル。GDPに対しては1%強。日本の対外投資残高は7404億ドルで、そのうちの7.4%に過ぎない。これは対米の四分の一、対西欧の三分の一の規模である。

「日の本株式会社」で例えれば、町内のあちこちに74万円ほど貸し付けているが、そのうち隣の「チャイナ株式会社」に貸していた5万円が焦げついた、という事である。経営が傾くほどのことではない。

中国政府がもし日本の資産を接収するような暴挙をしたら、日本はGDPの
1%強を失うだけだが、その瞬間にすべての外国からの対中投資はストップするだろう。外国からの投資を接収してしまうような無法国家に投資しつづける愚かな国や企業があるはずがない。すでに投資した分も回収にかかる。

中国が海外から受け入れている直接投資残高は、平成20(2008)年度末で3781億ドル。日本の対中投資の6.8倍もの規模である。海外からの投資がストップしたら困るのは「日の本株式会社」よりも「チャイナ株式会社」なのである。


■5.外貨準備高世界一は「世界一の金持ち」?

中国の外貨準備高が204兆円(2009年末)となり、日本の89兆円の2倍以上となった。ここから「中国は世界一の金持ちになった」と言う見方が
喧伝されている。これも真実にほど遠い誇大妄想的な見方でしかない。

三橋氏は、「国家の金持ち度」を計る指標としては、対外純資産か、せめて対外資産の総額で比較しなければならない、と指摘する。対外資産は、外国への投資も含めて、その国が海外で所有している資産の総額であり、外貨準備高はその一部に過ぎない。

対外資産で見ると、日本の対外資産は562兆円で、中国の294兆円の2倍近い。外貨は少ないが、アメリカや欧州などに投資している額が大きい。

純資産とは、その国が海外でもっている資産の総額から、他国が国内に持っている資産を引いた額である。これがプラスだと、外部に貸したり、出資したりしている額の方が多い金持ちである、ということになる。

この純資産で見ると、日本は249兆円で、中国の129兆円のやはり2倍近い。日本の純資産は20年近く世界一を続けている。逆に中国は外貨準備高は204兆円もあるのに、純資産が129兆円ということは、その差額、75兆円は海外から投資を受けた分ということになる。

そもそも外貨準備高は多ければ良いというものではない。町内の会社間での売り買いで考えれば、チャイナ株式会社は一方的に売ってばかりいて、現金を貯め込んでいるが、町内には、その分赤字で困っている企業がある。こういうアンバランスがあっては、狭い町内でうまくやっていけるはずがない。

「日の本株式会社」は現金残高はそこそこだが、資産のかなりの部分
を、他社への貸し付けや出資に使っている。言わば、「日の本株式会社」は資産家だが、他商店との売り買いのバランスをとり、貸し付けや出資でよく他社を助けている。
「チャイナ株式会社」が売るばかりで現金を貯め込む守銭奴であるのに対し、「日の本株式会社」は町内で面倒見の良い長者といった存在である。


■6.中国は「世界の貸し工場」

中国は外貨準備高こそ204兆円と世界一だが、それ以外の純資産ではマイナス75兆円である。それに比べて、日本は外貨準備高こそ89兆円だが、それ以外の資産がプラス473兆円もある。この数字に、両国の国際経済における対照的な姿が現れている。

日本もかつては輸出一点張りで、膨大な外貨を貯め込んでいたが、海外からの批判を受け、変動相場制に移行して大幅に円を切り上げ、また輸出を現地生産に切り替えていった。

変動相場制により、円が高くなって、貿易のバランスがとれ、外貨準備高が調整される。また海外生産が増えることによって、輸出が減り、現地の
雇用確保に貢献した。海外での総資産が多いのは、こうした投資の結果である。
こうしたことができるのも、家電や自動車その他、独自の技術を持っていればこそである。

中国は日本と同じ道を歩めるのだろうか? 外貨準備高以外の純資産がマイナス75兆円というのは、先進国からの投資を多く受け入れているからである。

実際に中国の輸出に占める外資系の割合は2008年度で55.4%もある。
中国の輸出の過半は、日本企業や欧米企業が中国に投資して、工場を作り、そこから日本や欧米に輸出しているのである。本講座なりに形容すれば、中国は「世界の工場」というより、「世界の貸し工場」なのだ。

「貸し工場」としてやっていけるのは、人件費が安いからだ。それも、人民元を安いレベルでドルに固定しているからで、変動相場制に移行して元が上がれば、「貸し工場」のコストが高くなり、日系・欧米系企業はさっさと他の「貸し工場」に移ってしまうだろう。

中国が「貸し工場」を続けるには、欧米の非難を浴びつつも、元安を続け、
「外貨準備高世界一」の袋小路に留まっているしかない。これが「世界一の金持ち国」の実像である。


■7.「中国は世界一の経済大国になる}!?

「中国は10年後にはGDPで米国を抜いて、世界一の経済大国になる」という予測がある。過去10年の平均成長率(中国10.5%、米国1.7%)をそのまま延長すると、2022年に米中のGDPは逆転するという。

しかし中国が今までと同様の経済成長を続けるには、大きな前提条件が必要となる。まず前節で述べたように、中国はコストアップを避けるために、元安政策を続けなくてはならないが、すでに現時点でも貿易赤字を抱える米国が痛烈に批判をしている。あと10年も元安を続け、ドルをさらに貯め続けることができるだろうか。

また外資系企業にも、今までと同様に対中投資を続けて貰わねばならない。そのためには低賃金を続け、また無尽蔵に労働力供給を続けなければならない。

しかし、三橋氏は中国の労働力人口が2013年にもピークを迎え、その後は減少していく点を指摘している。人口抑制のための一人っ子政策により、中国は世界最速のペースで高齢化しているからである。

労働力供給が頭打ちになれば、かならず賃金は上昇する。その分、低コストの貸し工場としての魅力は薄れ、海外からの投資は減り、従来ペースの成長はできなくなる。すなわち「貸し工場」で外資企業頼りの成長モデルでは、このままあと10年も成長が続くはずがない。


■8.中国経済の実像

残された道は、国民が豊かになって、国内消費が伸び、それが投資と国内生産を押し上げて、さらに国民を豊かにするという善循環を実現していくことである。

それこそが日本が高度成長を成し遂げたプロセスであった。三橋氏は「日本経済は輸出依存で成長した」とする見方をデータで否定している。
高度成長期を通じて、輸出はGDPの1割程度であり、民間最終消費は常に6割の水準にあった。池田内閣の「所得倍増政策」により、民間消費と投資が両輪となって長期間の健全な成長が維持できたのである。

しかし、現在の中国経済は高度成長を迎える前の日本経済とは、似ても似つかぬ実態となっている。

まず中国の輸出のDGP比率は、2009年で26%、ピークの2006年では39%もあった。すなわち、輸出依存度で言えば、日本の2.5倍から4倍という「超輸出依存型」である。

また個人消費は2000年まではGDPの45%ともともと低い段階であったのが、2009年には35%まで下がってしまった。逆に投資は2000年が34%で、2009年には46%にまで上昇した。政府の公共投資と不動産バブルの影響である。

民間最終消費が異常に低いのは、社会に構造的な問題があるからだ。

まず年金制度が未成熟である。中国の年金は「養老保険」と呼ばれているが、その加入率は、3億人を超える都市部労働者で半分強、4億7千万人の農村労働者では1割程度しかない。老後のため、せっせと自分で貯金するしかない。

医療保険も未整備である。中国で所得最高水準の上海での可処分所得は月2万円程度だが、病院の平均医療費は診療1回当たり約6千円。一回、医者にかかると、月収の三分の一近くがふっとぶ。

さらに中国国内の所得格差は凄まじい。人口の上位10%が国民全体の所得の50%を占めている。日本では20%である。一部の突出した富裕層は、ベンツを買い、海外旅行を楽しんでいるが、下層階級は毎日の生活で手一杯である。日本のように膨大な中間層が、カー、クーラー、カラーテレビを買い求める、という国民全体で豊かになっていく、という健全な成長ではない。

こうした現在の状況を見れば、個人消費と投資が両輪となった健全な日本型高度成長モデルに転換するのは、至難の業であろう。そして中国は発展途上国のまま、史上最速で高齢化社会を迎える。

これが「日本を抜いて世界第2位の経済大国」「外貨準備世界一の金持ち国」そして「いずれはアメリカを抜いて世界一の経済大国へ」と喧伝され
ている中国の実像である。

(文責:伊勢雅臣)

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求道者・白鵬(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■


人物探訪: 求道者・白鵬

 神事としての相撲の伝統につらなり、一途に相撲道を歩む大横綱。

■1.「勝ちにいってしまった」

 昨年11月の九州場所で、白鵬の連勝は63でストップし、双葉山の持つ歴代1位の69連勝には届かなかった。稀勢の里に寄り切られ、土俵の下に倒れ込んだ白鵬は、少し首をひねって、照れたような笑いを浮かべた。大記録を逃して、さぞや無念だったろうと思いきや、その余裕ある表情が意外だった。その後のテレビのインタビューではこう語った。

『もうちょっといきたかったな。少し相撲の流れにスキがあった。慌てた。勝ちに行った。こんなもんじゃないかな、という感じ』

「こんなもんじゃないかな」というのは、自ら目指している双葉山に比べれば今の実力はまだまだ、というほどの意味であろう。「勝ちに行った」ことを反省しているのは、双葉山のDVDから次のようなことを学んでいたからである。

『 いちばん印象に残ったのは、「勝ちに行くぞ」という気合いがほとんど感じられないことである。力んでいないというか、適度に力が抜けている。立ち会いではどっしり構えて、相手をしっかり受け止めている。[1,p117]

・・・私は2009年の9月の(東京)場所で、翔天狼(しょうてんろう)に負けた。稽古場で一回も負けない相手に土をつけられてしまったのだ。なぜ負けたかというと、心が動いてしまったからだ。苦労しなくても勝てる相手だから簡単に勝ちたい、早く勝ちたい、と思ってしまった。要は「勝ちに行ってしまった」わけだ。そこに甘さが出てしまった』

 連勝記録という数字よりも、相撲の内容、そしてそれに取り組む心構えを追い求める白鵬の姿勢は、まさに相撲道の求道者と言うにふさわしい。


■2.「いまだ木鶏(もっけい)たりえず」

「勝ちに行かない」ということは、無心に、相撲の「流れ」にしたがって体が自然に動くに任せる、ということである。白鵬は座禅を組むことで、勝ち負けにこだわらない「無」の境地に近づいたという。

 双葉山の連勝が69で止まったとき、思想家の安岡正篤(まさひろ)氏[a]に「いまだ木鶏(もっけい)たりえず」という電報を打った。

 これは『荘子』などの中国の古典に出てくる話である。昔、闘鶏飼いの名人が、ある王から一羽の闘鶏の調教を依頼された。10日ほどたって、王から「鶏はもう使えるか」と訪ねられると、「空威張りの最中でいけません」と答えた。

 さらに10日経っても、「まだダメです。敵の声や姿に興奮します」。また10日経っても「まだまだダメです。敵を見ると『何をコイツが』と見下すところがあります」。それから10日経って、ようやく闘鶏として使えるという答えが返ってきた。

『いかなる敵にも無心です。そばで他の鶏が鳴いていても平然としていて、あたかも木でつくった鶏のように動じません。徳が充実してきました。まさに天下無敵です。』

 双葉山は、この「木でつくった鶏」のように動じない無心の境地を目指した。白鵬もその双葉山の辿った道を歩んでいる。


■3.土俵上のガッツポーズはなぜいけないのか

 心の有り様を重んずる白鵬の姿勢は、同じモンゴル出身の朝青龍と比べるとさらにはっきりする。平成21(2009)年9月場所千秋楽で、白鵬との優勝決定戦に勝って、24度目の優勝を達成した朝青龍は、観客席に向かって派手なガッツポーズをした。

 これについては、横綱審議会でも意見が分かれたが、白鵬はこう述べている。

『勝敗以上に、相撲というものの美しさがよく出た取り組みとして、先輩力士から聞かされたのは、1970年頃に行われた横綱同士の「北の富士・玉の海戦」である。千秋楽のその取組は2分を超える熱戦となったが、戦いを制したのは玉の海関だった。

 しかし北の富士関が土俵を割る瞬間、興味深いことが起きた。相手が土俵を割るのを確認してから、玉の海はふっと力を抜いたのだ。最近ならば、勢いあたって土俵下に突き落としているところだ。私もたまに流れの中で無意識にやってしまうことがあるが、玉の海関はそうしなかった。

 そこに美しさを感じる。何が美しいかというと、勝者が敗者をいたわる姿である。これぞ大相撲であり、これぞ礼儀の極みなのである。

 相撲道は、武士道の流れをくんでいる。武士道には、敗者の悔しさを思いやる勝者の心構えが説かれており、玉の海関の行為は、それに沿った行いである。それが相撲道とすれば土俵上でガッツポーズをすることなどできないはずだ。』


 武士の戦いに例えれば、相手を倒した後、その冥福を祈って手を合わせる武士と、倒れた相手の事など一顧だにせず勝ちどきをあげる武士と、どちらが本物か、ということである。


■4.土俵は「神の降りる場所」

 また白鵬は、大相撲が「神事」であるからこそ、力士にとって品格が必要であるとして、こう説いている。

 まず土俵は俵で円く囲ってあるが、そこは「神の降りる場所」である。大相撲の場所の前日には、土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを奉じ、相撲の神様をお招きするための「土俵祭」を行う。

 土俵上で力士が四股を踏むのは、土の中にいる魔物を踏みつぶす所作であり、取組前に塩をまくのは、土俵に穢れを入れないためと、己の穢れをはらい、安全を祈るためである。

『そもそも「横綱」とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る「注連縄(しめなわ)」のことである。さらにその綱には、御幣(ごへい)が下がっている。

 これはつまり、横綱は「現人神(あらひとがみ)」であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである。こう書いているだけでも、緊張して背筋が伸びる感じがする。こういう立場の力士に「品格」が必要なのは明らかなのである』

 相撲の神様の前では、各力士は心の穢れも落として、無心に美しい相撲をとらねばならないのである。


■5.横綱の責任

 こういう相撲道のあり方、神事としての神聖さを弁えない力士、親方が増えたからであろう。近年、相撲界に不祥事が相継いだ。

 平成19(2007)年6月、同年春に時津風部屋に入門した17歳の少年が、集団暴行を受け、死亡した事件が発生。平成20(2008)年8月には、3人のロシア出身の力士が大麻を吸っていた疑いで、解雇処分となった。

 平成22(2010)年1月には、朝青龍が泥酔して一般人に暴行を加え、その責任を取る形で突然の引退を余儀なくされた。

 そしてこの年6月、暴力団を胴元とする野球賭博に関与したとして、大関琴光喜と大嶽親方が解雇され、多くの力士、親方が謹慎処分に処せられた。

 7月10日からの名古屋場所はなんとか開催されることになったが、白鵬は出稽古さえもできず、心に大きなヒビが入った状態で、これではとても満足な相撲がとれないと悟って、休場を考えた。

『しかし、よくよく考えてみれば、名古屋での本場所は年に1回である。それを楽しみにしておられるファンがたくさんいる。横綱として、その人たちを裏切るような真似をしていいのか。

 こういう厳しい時期にこそ、ファンのためにいい相撲を見せるのが、横綱としての仕事ではないのか。それが相撲の信頼回復に向けてやるべきことではないのか。横綱である以上、それを率先してやっていく責任があるのではないのか----という思いが日を追うごとに強くなってきたのである。

 私はあらためて心と体を一つにして、名古屋場所に臨もうと心に決めた』

■6.「相撲を守ってくれ!」

 名古屋場所が始まった。チケットのキャンセルが相次ぎ、初日なのに空席が目立って、「満員御礼」が出なかった。

 土俵入りの最中、観客席から「相撲を守ってくれ!」というかけ声が白鵬の耳に入ってきた。守るための方法は分からなかったが、とにかく連勝を続けることを考えた。

 場所が進むにつれて、客足も戻り、7日目には初めて「満員御礼」の垂れ幕が下がった。白鵬は、土俵下で控えに座っているときから、なんともいえない感慨と有り難いなという気持ちを抱いた。

『その日、私自身も連勝を39まで伸ばしていたが、帰り際、会場の愛知県体育館の周りに大勢のファンが待っている光景が目に飛び込んできた。そのとき思わず「うれしいな」という声が出て、胸が熱くなった。気が付いたら、車から何度も手を振って応えていた』

 マスコミもやがて、野球賭博だけでなく、大鵬親方の持つ歴代3位の連勝記録45を抜き去るのかどうか、という話題を報道するようになっていった。

 結局、名古屋場所で白鵬は全勝優勝を果たした。連勝記録も47に伸ばし、大鵬親方を抜いて、昭和以降で単独3位となった。危機に陥った角界を一人で支えた白鵬に、「白鵬、最高!」という暖かい声援が向けられた。


■7.陛下からのお励まし

 しかし表彰式で土俵にあがって、優勝旗を受け取る白鵬は涙顔だった。「国歌が終わり、土俵を見たら、いつもなら置いてある天皇賜杯がなく、さびしくて自然に(涙が)出た」と後で語っている。

 土俵下のインタビューでも、「この国の横綱として、力士の代表として、賜杯だけはいただきたかった」と声を震わせた。相撲が国技であり、神事であるならば、その優勝力士に与えられる栄誉は、天皇陛下からの賜杯をおいてない。それをいただけなかった無念さが、涙となった。

 その無念さに、陛下は応えられた。陛下のねぎらいとお祝いのお言葉が、侍従長からの書簡として届けられたのである。次のような内容だった。

『困難な状況にありながら、連日精励奮闘して幕内全勝優勝を果たしたのみならず、大鵬関の連勝記録を超え、歴代第3位の連勝記録を達成した白鵬関に、おねぎらいとお祝いをお伝えになるとともに、今後とも元気に活躍するよう願っておられる』


 宮内庁によれば、陛下の祝意を力士に書簡で伝達するのは初めての事である。側近の1人は、今回の書簡は天皇陛下御自身の御発案だと明かし、「大相撲を長年、大切に考えてきた陛下は、野球賭博をめぐる問題を大変心配されていた。そうしたなかでの白鵬の頑張りに対し、何とかお気持ちを伝えたいと思われたのだと思う」と語った。陛下のお言葉に、白鵬は感じ入った。

『陛下からこのような有り難いお言葉を頂き、光栄の至りである。陛下からの書簡を一人で何度も何度も読み返した。お言葉の一つ一つが心にしみた。それ以上の喜びはなかった。陛下のお言葉を糧に頑張らねばと思った』

■8.モンゴルの大横綱と日本の大横綱

 言うまでもなく白鵬は、モンゴル生まれのモンゴル人であるが、その白鵬が、これほどまでに相撲の伝統に思いをいたし、それを支えようと頑張っている姿には、日本国民の一人として、ただただ感謝と敬意を表するのみである。

 日本人を親として、日本に生まれれば、自動的に日本人になるわけではない。日本に生まれながら、日本の歴史伝統を理解しようともせず、さらには言われも無き悪罵を投げつける輩もいる。

 日本人とは、生国や血筋には関係なく、日本の伝統を、その一端なりとも我が身に背負っていこうと努力している人々、と定義すれば、白鵬こそ真の日本人と言えよう。

 ここで忘れてはならない事は、このような白鵬を育てた父親の存在だ。父親はモンゴル相撲の大横綱だったが、白鵬が横綱に昇進した際に、こうアドバイスした。

『大横綱になるには、心・技・体がそろい、常に自分を磨くことだ。国民に愛される横綱になりなさい』

 モンゴルの大横綱も日本の大横綱も、その本質においては変わるところはない。同様に、真の日本人は他国の人々からも理解され、尊敬されるだろう。それこそが国際派日本人と言える。
(文責:伊勢雅臣)


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洋服お直しマニア

今日は、行きつけの洋服リフォームの店に、コートとジャケットを取りに行った。
先週金曜日に持ち込んだのだが、今日で年内営業終了ということで、気を遣って早めに仕上げてくれた。

双方とも、袖丈を右4センチ、左6センチ詰めた。
着てみるとまだ左が長いから、実際2.5センチ違う。
ジャケットは、袖の処理に手間がかかったようで、2点で5500円也。
ハッキリ言って結構な値段(笑)
まあ、オーダーで作るよりはマシと割り切るしかない。

ジャケットはともかく、コートは袖先を折り返すこともできるが、もうずっと袖丈にはこだわっているので、自分に合っていない服なんて着たくもない。
特に私は、左と右の差が大きいのでなおさらである。
袖丈が掌あたりまで来てる人がたまにいるが、それならスーツなんか着ないほうがいいんじゃないかと思う。

数年前までは、スタンダードにワイシャツの袖先より少し短めにしていたが、腕を伸ばした時に袖口が大きめのタイプのシャツを着ていた場合(最近はこのタイプは少ない)、バランスが悪くなるので、最近はほぼ同じ長さにしている。
海外ドラマなどを見ても、概ねこの程度なので問題ないだろう。

ただ、ショート丈で大きめのジャケットの場合、詰めても袖先も広いまま残ってしまう場合もあり、バランスが悪くなるので注意したい。
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海防人(うみさきもり)の戦い(下)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■1.工作船自爆

「『あまみ』と『きりしま』が被弾」との報告から、1、2分後、今度は「工作船が爆発」、そして「沈没」との連絡が相継いでもたらされた。

 北朝鮮本国から工作船に対し、「自爆せよ」との命令が無電で伝えられていることが、後に暗号解読から判明した。すべての証拠隠滅のためには、船ごと沈めてしまうのが良いとの判断であろう。自国の兵士の生命は使い捨てである。

 堀井船長率いる巡視船「みずき」が現場に近づいた頃には、工作船の乗組員と思われる人影が、夜の波間に数人浮かんでいるのが見えた。堀江船長は語る。

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 それを見たときには、もう救助するという考えはありませんでした。自ら船を爆破したような相手ですから。こちらにもそんな余裕はありませんでした。むしろ逆に船に乗り込まれて爆弾を使われたらそれこそ大惨事ですから、そういう心配をしました。[1,p190]
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 韓国の海上保安機関から海上保安庁に伝えられている情報によれば、北朝鮮工作船の乗組員は各自手榴弾を所持して、逮捕したら相手もろとも自爆する危険があった。[2,p40]


■2.扇千景・国土交通相のビデオ公開指示

 工作船が自爆して沈没したという報告を受けた扇千景国土交通相(当時)は、即坐に海保幹部に「映像を国民に広く見てもらうべきだ」と指示した。10人いたとみられる工作船の乗組員全員が死亡し、「海保の攻撃で船が沈没したのでは」という憶測が広まるのを避ける意図もあり、「政治主導」で全面公開を決定した。

 2日後の12月24日、工作船からの攻撃で巡視船が被弾する様子など緊迫した状況が、テレビで広く国民に公開された。

 工作船からの銃撃は約1分間行われ、巡視船「あまみ」には船体・船橋合わせて100発以上の銃弾が浴びせられた。船橋の窓ガラスが7枚割られたほか、レーダー、GPS、気圧計、後部監視カメラ用モニターが破壊されるという凄まじいものだった。

 巡視船「いなさ」も攻撃を受け、正当防衛のため応戦した。「撃て」「撃て」と繰り返し命令する船長の肉声が記録されている。3名が負傷したが、幸いにも軽傷だった。ある海保OBはこう語っている。

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 実際、工作船沈没のニュースが報じられた直後には、「なぜ(工作船の船員たちを)生きたまま捕らえられなかったのか!」という怒りの声が、いくつも本庁宛に寄せられていたのです。

 しかし、そうした声も、あの銃撃の映像をテレビで公開して以降は、ピタリと止んでしまいましたからね。[1, p191]
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 巡視船「あまみ」が攻撃されている様子を撮影した映像は、まさに「百の論より一つの証拠」となった。

 ビデオ撮影した職員は、激しい銃撃を受けている最中も、怯むことなく冷静にテープを回し続けた。テープを交換する際にも、平常通りの声で「テープを交換します」と自らの声を記録していた。


■3.工作船引き揚げ

 扇千景国土交通相は沈没した工作船の引き揚げを「捜査資料として絶対に必要」と主張した。しかし、沈没した海域は中国のEEZ(排他的経済水域)に入っていた。

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 ここでも当初、外務省は中国に気を使うあまり引き揚げには慎重になっていたのです。結局、中国側に対して(引き揚げ作業をすることが)中国の漁業の妨げになるという意味から、その期間の損害に準じた協力金を支払うということで合意しました。この協力金は最終的には1億5千万円で折り合ったのですが、中国側は当初7億円近い金額を吹っかけてきたといいます。[海保OB,1, p192]
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 この交渉は、小泉総理大臣の指示を受けた海上保安庁と外務省の担当者が中国に赴いて行ったが、中国側の法外な補償要求のために、およそ1ヶ月もかかった。

 ようやく交渉がまとまったのが、6月18日。そのわずか1週間後に引き揚げ作業が始まった。奄美大島の西方400キロ沖、水深90メートルの海底から、79日をかけて、全長約30メートル、幅約5メートルの工作船が引き揚げられた。後に、一般公開された工作船をみて、石原東京都知事は「あれは工作船ではなく、工作艦だ」という感想を述べている。

 通常の漁船は、漁労作業をするときに船上が安定するように船底が平らになっているが、この工作船は高速走行を可能とするためにV字型となっていた。

 燃料タンクの容量では24トンで、5千キロ以上の航続距離を持ち、平壌−新潟の1148キロを往復し、さらに日本近海で十二分に活動することが可能であった。


■4.小さな軍隊

 引き揚げられた工作船を調べる過程で、最も海保を驚かせたのが、船内に残された武器類であった。口径40ミリのロケット・ランチャー2挺、口径82ミリ無反動砲1挺、携帯型地対空ミサイル2挺、その他2連装機銃、軽機関銃、自動小銃など計7挺である。

 これらは船内に残っていたものだけで、これ以外にももっと多くの武器が海底に沈んでいるものと考えられている。

 ロケット・ランチャーは実際に巡視船に向けて発射されていたが、もし命中していたら、沈んでいたのは巡視船の方だったろう。

 工作船の武器装備に関しては、韓国の海上保安当局からの情報で、ある程度把握できていたが、携帯型地対空ミサイルは想定外であった。有効射程距離は5千メートルであり、低空飛行する海上自衛隊のヘリコプターやP−3C警戒機をも撃墜できそうだ。

 この重装備では、工作船とは言え、小さな軍隊と向かい合っていたわけである。海保職員の背筋に冷たいものが走った。


■5.金正日も北朝鮮の関与を認めた

 これらの武器の多くが、ロシア製のものを北朝鮮で模倣し、製造したものであった。さらに北朝鮮国民がつけていると言われる金日成バッジや北朝鮮製のタバコも発見された。こうした証拠から、海上保安庁はこの工作船が北朝鮮のものと断定した。

 引き揚げが完了した直後、平成14(2002)年9月17日に北朝鮮・平壌で開かれた日朝首脳会談の席上、朝鮮労働党書記長・金正日は、今回の工作船事件について、一部の北朝鮮の当局者が関与していることを認める発言をした。

 さすがにこれだけの物証が、テレビなどで国内外に公開されては、金正日も北朝鮮の仕業であることを否定できなかったのだろう。

 逆に言えば、工作船を引き揚げたからこそ、ここまで金正日を追い詰めることができたのである。工作船が自爆して船自体を沈めてしまったのであるから、その時点では物証は何もなかった。ビデオでの交戦映像だけでは、北朝鮮は「我が国には関係ない」としてしらを切り続けることもできたはずである。工作船の引き揚げは扇・国土交通相の英断であった。

 ただし、金日成は一部の人間の個人的な行為とし、政府としての関与は否定しているという。そのような言い抜けは国際社会で誰も信用しないだろうし、北朝鮮軍内の勝手な行為だとしても、国家としての北朝鮮の責任は免れない。


■6.覚醒剤密輸と工作員の密入出国

 また船内からはたくさんの携帯電話が発見されたが、そのなかに残されていた発信履歴には、都内の暴力団事務所の固定電話の番号、また暴力団組員個人の携帯電話の番号が複数、確認された。

 平成10(1998)年8月、高知県沖の海上で漁船に乗った暴力団組長ら6人が覚醒剤密輸未遂で逮捕されたことがあった。彼らに覚醒剤約300キロ(末端価格約180億円相当)を渡した北朝鮮の「第12松神丸」は、今回の工作船と同一であることが、造船の専門家から認定されている。北朝鮮は、国家事業として覚醒剤を製造し、その工作船を使って日本の暴力団に売り渡していたのであろう。

 また、工作船は船尾部分が左右に開閉可能な観音開きになっており、その中には漁船のように見える長さ11.1メートル、幅2.5メートル、2.9総トンの小型船が収納されていた。

 この小型船は、世界でも一流とされるスウェーデン・メーカー製のガソリン・エンジンを3機備えていた。エンジンの総出力からの推定では、時速50ノット(約93キロメートル)のスピードを出すことが可能であり、競艇のボートのように、海上を滑走できたと考えられている。

 この小型船は工作員の密入出国にも使われていたのだろう。ある北朝鮮の元工作員は「日本への浸透作戦はピクニックに行くようなものだ」と述べているが[a]、世界第6位の長大な海岸線を持つ我が国に、こうした高速の小型船で自在に出入りしていたのであろう。


■7.「現実にはわれわれができることは限られています」

 さて、今回、中国漁船が海保巡視船に衝突してきた尖閣諸島海域に関しては、今回の事件が起こる以前から、海保幹部は次のように述べていた。

__________
 尖閣諸島には、巡視船が一隻、どんなときにも張り付いていなければならないというのが原則です。ですから、必ず24時間体制で船を浮かべているわけです。天候の安定しない海域ですから、それだけでも大変なのですが、毎日何もない海に停まっていることは、乗組員には大きなストレスでしょう。

 一旦何かことが起きれば、責任を追及され大問題になる注目の海域であることはわかっていますが、現実にはわれわれができることは限られています。未来永劫いまの体制で尖閣諸島を守っていけるとはとても考えられません。[1,p38]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この海保幹部は、「われわれができること」として次のように述べている。
__________
 例えば、尖閣諸島に近づこうとする船をわれわれが侵入を防ごうとするとき、もし相手が停戦に応じなければわれわれが現状でできることは相手の船の針路を巡視船を使って妨害することだけです。

 そうなれば相手も進路をさがして蛇行し、その方向にまたわれわれも船を回すといういたちごっこを演ずることとなります。そんな追いかけっこを海上で繰り広げれば、衝突という事故が起きる確率はどうしても高くなります。

 衝突すればたちまち大問題になって大騒ぎです。かといって遠慮していては侵入を防ぐことはできない。もし衝突を回避しながら侵入を防ぐのだというのが命令なら、それは難しいと答えるしかありません。[1,p48]
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 しかし、北朝鮮の工作船なら口径40ミリのロケット・ランチャーや、射程距離5千メートルの地対空ミサイルまで装備している可能性がある。それを「相手の船の針路を巡視船を使って妨害すること」しかできない、となれば、機関銃を持ったギャング相手に素手で体を張って進路を妨害するのと同じである。いつ、蜂の巣にされても不思議はない。我が海上保安官たちは、そのような理不尽な危険に身を曝(さら)しているのだ。

 この事件で、工作船に対してRFS(Remoto Firing System)20ミリ機関砲で全弾命中させ、しかもそのビデオを即坐に国内外に公開し、さらには沈没した工作船を引き揚げしてまで、北朝鮮の工作であるという物証を国内外に見せつけたことは、北朝鮮の工作船活動に対して、大きな抑止力となったはずだ。

 もはや北朝鮮工作員たちも「日本への浸透作戦はピクニックに行くようなものだ」とは思わなくなったろう。このような抑止力が高まるほど、我が海の安全度は高まるのである。


■8.「未来永劫いまの体制で尖閣諸島を守っていけるとはとても考えられません」

 しかし、これまでの努力を一瞬にして無にしてしまったのが、今回の中国船衝突事件であった。

 北朝鮮工作船事件の際には、警告を無視して逃げる工作船の船体に射撃をしている。だから、今回も衝突してきた中国漁船に対して、正当防衛として相手の船体に警告射撃をするぐらいはできたはずである。「政治主導」の決断さえあれば。

 その上で、扇大臣が指示したように、すぐにテレビで国内外に中国漁船の方からぶつけてきた時のビデオを公開していれば、世界に中国船の無法ぶりを見せつけられたはずだ。

 それを民主党政権は証拠となるビデオすら「国家機密」として公開しなかった。さらにせっかく海保巡視船が危険を冒して逮捕した中国船船長を、中国の圧力に屈して釈放してしまった。

 今回の中国漁船は、従来のものよりもかなり大きいこと、現場から特殊な通信を発していた事から、工作船であるとの疑いが持たれている。[2]

 工作船が漁船に扮して、紛争をしかけ、それに対して日本政府が何もできないと分かれば、中国側は次はより大胆に攻めてこよう。それだけ我が国の領海を守る海保巡視船の危険が増す。

「未来永劫いまの体制で尖閣諸島を守っていけるとはとても考えられません」という我が領海防衛の最前線に立つ海防人たちの声に耳を傾けねばならない。

(文責:伊勢雅臣)

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海防人(うみさきもり)の戦い(上)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■1.「日本の海で起こっている出来事を見てもらいたい」

 尖閣諸島での中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、そのビデオ画像が流出して、多くの国民が現場の様子を直接目にすることができた。

 ビデオを流出させた海上保安官は、弁護士を通じて、次のようなコメントを公表した。[1]

__________
 政治的主張や私利私欲に基づくものではありません。一人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、一人一人が考え判断し、行動して欲しかっただけです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 海は我が国を外国と結ぶ通路であると共に、外国の利害と直接ぶつかり合う場でもある。「日本の海で起こっている出来事を見てもらい」たいとは、そこで体を張って国家の安全と利益を守っている海上保安官たち皆の正直な気持ちであろう。

 海上自衛隊を含め、我が国の海を守る防人(さきもり)たちが、どのような思いで、どのように我々を護ってくれているのか、国民として、その実態を知っておく必要がある。

 今回の事件については、まだ事実が明らかになっていないが、類似の事件として、平成13(2001)年12月に起きた北朝鮮工作船事件がある。これについては、『平成海防論 国難は海からやってくる』[2]に関係者のインタビューを含め、多くの事実がまとまっているので、これを頼りに、我が海防人たちの戦いの現場を見てみたい。


■2.「こんな失敗を二度と繰り返してはならない」

 平成13(2001)年12月22日午前1時10分、年の瀬の深夜、人通りの絶えた東京・桜田門にある海上保安庁・運用司令室に、海上自衛隊からの緊急電が入った。

__________
 海上自衛隊のP−3C機が工作船らしき不審な船舶を一隻発見。現在、奄美大島から約230キロメートルの九州南西沖を西に向かって航行中。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この情報は、直ちに鹿児島に本部を置く第10管区海上保安部に伝えられた。同時に、日本の海を取り巻く全管区にも「直ちに警戒態勢に入るよう」指令が飛んだ。福岡海上保安部所属の巡視船「みずき」の堀井和也船長も、指令を受けた一人だった。[2,p164]

__________
 あの日は2泊3日の勤務明けで家に帰ってゆっくりくつろいでいたのです。すると「みずき」船内の当直から私の携帯電話に「不審船が出現しました。緊急出航です」という連絡が入ったのです。時間は夜中の1時50分頃でした。

 やたらと寒い夜で、雪もちらちら降っていたのを覚えています。その雪のなかを船まで6、7キロメートルの距離を自転車で急行したのを覚えています。間もなく乗組員全員がそろい、午前3時50分ごろには20ミリ砲の弾の装填も終え、すべての態勢を整えて出港しました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 2泊3日の勤務明けの直後にもかかわらず、真冬の深夜、雪のちらつく中を、自転車で駆けつける海上保安官の姿は貴い。

 ちなみに日本全国に68の保安部、保安署が置かれているが、そのなかには巡視船が1隻しかないところも少なくない。その場合は、乗組員たちは、いつ何が起きても、すぐに駆けつけて出航できるような態勢を整えていなければならない。休みで陸にあがった時も、遠出はできない。


■3.「もし本当なら何が何でも停船させてやるのだ」

 堀井船長は、その当時、不審船情報があふれ返っていたので「今回は本当かな?」と思う反面、「もし本当なら何が何でも停船させてやるのだ」と決心していた。2年前に起きた『能登半島不審船事案』で、不審船を取り逃がして、海上保安庁への批判が集中した経験があったからである。

 この事件では、日本漁船の名を偽装した2隻の不審船が、能登半島沖で発見され、海上自衛隊を含め、巡視艇15隻、航空機12機を向かわせる大捕り物となった。

 巡視船は威嚇射撃を敢行したが、不審船は少しも怯むことなく、高速で振り切ってしまった。35ノット(時速65キロ)という高速で走る不審船に、そんなスピードは出せない巡視艇はみるみる引き離されてしまった。

 また、海上自衛隊のP−3C機が荒海を高速で走る不審船の40メートル以内に、相手に当てないように8発ほど爆弾を投下する、という見事な腕を見せたが、正当防衛の場合以外、相手に「危害を与えてはならない」と法律で縛られた自衛隊には、それ以上のことはできなかった。

 不審船は、ゆうゆうと去っていった。海上保安庁には「何で撃沈しないんだ」という非難の電話が殺到した[a]。逆に、社会党の土井たか子党首(当時)は、「相手が発砲もしていないのに、威嚇射撃は尋常ではない」と非難した。

 こんな失敗を二度と繰り返してはならない、という気持ちは、海上保安庁の職員全体が共有していた。


■4.世界第6位の広大な海域を護る

 日本の海は広い。現場に最初に到着した巡視船「いなさ」(長崎海上保安部所属)が不審船を確認できたのは、すでにその日の昼過ぎ、不審船の第一報がもたらされた午前1時から実に11時間を要した。

 我が国の排他的経済水域(EEZ)と海岸線延長は、ともに世界第6位である。ある海保OBは、「現在の海上保安庁には1万2411人が在籍していますが、この人数で世界第6位を誇る広い海を守ること自体に無理があるのです」と言う。[2,p168]

 アメリカのコースト・ガードと比べても、日本の海保一人当たりが受け持っているEEZの面積は、アメリカの約6倍である。韓国のEEZの面積は我が国の約9分の1だが、それでも我が国と同規模の人員1万600人を抱えている。

 しかも我が国の周囲は、北朝鮮、中国、ロシアと係争を抱えた国に囲まれており、たとえば中国は我が国周辺で地球の27周分に相当する海洋調査を行うなど、ひっきりなしに日本の領海・EEZに入り込んでは、怪しい動きを繰り返している。そうした情報がもたらされるたびに、巡視船は現場に急行しなければならない。

 その日は悪天候で、波の高さは4メートルを超えていた。船が波に乗ると、3階建てのビルにのったような感覚であり、逆に波の谷間に入ると、3階から落下するような感覚を覚える。船の揺れも凄まじく、居室の本棚からはすべて本が落ちてしまう。テーブル上に開いた海図すら、しょっちゅうずり落ちてしまう有様だ。

 本庁からの「数時間前にだいたいこの辺りの海域にいた」という電話連絡だけを頼りに現場を目指す。本庁もジリジリして、30分も間を置かずに、「いまどのあたりだ?」「現場到着は何時になる?」と矢継ぎ早に電話が入る。いちいち受け答えしている余裕もないので、堀井船長は担当者の電話をとりあげて「30分しか経っていないのに状況が変わるはずがないだろう!」と怒鳴ったほどだった。


■5.海上保安庁始まって以来の船体への発砲

 12時48分、巡視船「いなさ」がようやく現場に到着した。深夜の出動命令から、すでに11時間が過ぎていた。

 午後1時12分、「いなさ」から工作船に向けて無線機、拡声器による停船命令が日本語、英語、中国語、韓国語で発せられた。同時に汽笛や旗流信号、さらには飛行機からも停戦命令が出された。

 工作船は中国の水域を目指して走り、その先には中国籍と思われる漁船群があった。工作船が日本の領海か、EEZ内にいる間に停戦命令を発していれば、中国のEEZ内に逃げ込んでも、日本側に追跡権が認められる。そのギリギリのタイミングだった。

 工作船は停船命令を無視するだけでなく、「いなさ」の進路を妨害するようにジグザグ走行をしながら逃げ続けた。逃走を諦める様子は微塵も感じられなかった。

 午後2時22分、「いなさ」が射撃警告を開始。15分後には、20ミリ機関砲で上空、および海面への威嚇射撃を行ったが、工作船は一向に動じる様子もない。

 やがて、堀井船長率いる「みずき」など、計3隻の巡視船が次々に現場に到着した。「みずき」が工作船の船影を捕らえたのは午後4時30分。本部からは「『いなさ』に代わって『みずき』が撃て!」と発砲命令が出た。「みずき」船内に一気に張り詰めた空気が広がった。

 午後4時58分、「みずき」は工作船の船体に向けて射撃を開始した。これは海上保安庁始まって以来、初めての船体への射撃だった。

「みずき」には、2年前の能登半島沖での不審船取り逃がしの反省から、高性能のRFS(Remoto Firing System)20ミリ機関砲が搭載されていた。目標物を自働追尾する性能を持っており、これによって揺れる船の上から撃っても、誤って船員を撃ってしまう、という危険が避けられるようになった。

 射手の「全弾命中!」という声が室内に響き渡った。そして「何発撃ちますか?」と聞く。堀井船長は「船が停まるまで撃て!」と命じた。


■6.「驚いたことに工作船の方では少しも慌ててないのです」

 日が陰って暗くなった海に、曳光弾が光の線となって、工作船に降り注ぐ。午後5時24分、工作船が出火した。甲板上でガソリンらしき可燃物に引火したようで、炎が上がるのが確認された。

__________
 火は10メートルくらいの高さまで上がりました。火柱が立つのが見えると、やはり反射的に「救助すべきなのか」と迷いました。それで一応「みずき」だけが放水銃の準備を始めました。[2,p186]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 反射的に「救助すべきなのか」と思ったのは、日頃、海難救助にあたっている習性だろう。しかし、救助を求めるような相手ではなかった。

__________
 しかし、驚いたことに工作船の方では少しも慌ててないのです。むしろ落ち着いていて、火が船橋に燃え広がらないようにわざわざ風上に向かって後進し始めました。前進しながらの消化では操舵室に火が延焼する恐れがありますからね。それと同時にTシャツを着た船員が出てきて消火を始めたのですが、その手際が実によくて、あっという間に鎮火してしまったのです。

 彼らの出火への対応を見たときの印象は、「みなよく訓練された船員たちなんだなあ」というものでした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 プロの工作員だから、おそらくは北朝鮮の軍人の中でも特に選ばれた強者たちであろう。


■7.「甲板上でたばこをふかしたり」

 悠然と消火作業を終えた工作船は再び逃走を開始した。巡視船の方は、威嚇射撃を続けながら停船させようと接舷を試みた。「きりしま」が工作船に接したのだが、工作船の船員たちがナイフや棒を振り回して抵抗したため、仕方なく「きりしま」は離舷せざるをえなかった。

 離れていく「きりしま」をみながら、工作船の甲板にいた船員らが、一斉に「万歳」のポーズをした。相手は余裕たっぷりで、甲板上でたばこをふかしたり、「カーラ、カーラ(朝鮮語で「向こうに行け」の意味)」と言いながら追い払うような手振りを見せたりもした。正当防衛でもなければ攻撃できない巡視船を舐めきっていたのだろう。

 工作船はその後、接舷に手間取る巡視船を尻目に、急に逃走のスピードを上げた。巡視船の乗組員の脳裏には、一瞬、能登半島沖の再現になるのでは、といやな予感が走った。

 速度を上げて走る工作船から、しきりに海面に向かって何かが投げ捨てられた。工作船の正体を隠すための証拠隠滅だろう。そして、なぜか今度は急に停船した。すでに午後10時を回り、あたりは真っ暗である。海は大しけで雨も強く降っていた。


■8.工作船からの銃撃

 停止した工作船を挟むように、巡視船「あまみ」と「きりしま」が両側から近づいた。「あまみ」の船体がまさに工作船と接しようとした。

 工作船の船橋にいた一人の男が合図らしきものを送った次の瞬間、船橋後部にあった毛布のかたまりのようなものが突然、ふわりと払いのけられると、その中から数名の男たちが飛び出してきた。

 その男たちは、一斉に巡視船に向けて自動小銃の弾を浴びせかけてきた。夥しい数の銃弾が巡視船に撃ち込まれる中で、ロケット・ランチャーが発射される音も聞こえた。

 銃撃が始まった瞬間、堀井船長率いる「みずき」はちょうど弾の充填のために工作船からおよそ5キロ離れた所に退避していた。そこに報告が届いた。

「あまみ」と「きりしま」が被弾----。

 部下の言葉に堀井船長は、我が耳を疑った。

__________
 私は瞬間的に「そんなはずはない。もう一度よく確認しろ」と命じましたが、すぐに「本当です。間違いありません」との返事が返ってきました。[1,p189]
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 これはもう本当の戦闘だった。

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節約といふ事

世の中に、チラシを見て、スーパーマーケットで特売品を買う人は限りなくいる。
家計を預かる身で、週に3回、4回と行く人ならなおさらである。

スーパーマーケットで売られている品物は、食品を含めそのほとんどが消耗品であるため、安い時に買うに越したことはない。

例えば、とある主婦が特売品ばかり買って、月に千円平常価格より得したとしよう。
年間で1万2千円、20年なら24万円だ。

「いつもより、たった50円安いだけだろ」
という感覚の人も多いと思うが、この差は侮れない。
目に見えて24万円が手元にあるわけではないかもしれないが、20年続けると、産まれた子供が成人する頃には、その分懐が潤っていることになる。


私の親戚がかつてよくやっていたが、家電製品が必要になると、必ず先着数名の日替わり特価品を買いに行っていた。

この「節約」で勘違いしてはいけないのは、
「ただ安いものを買う」
ということではないということだ。

例えばブランド品が通常販売価格より安くなっているときに買えば、その差額イコール節約ということであって、通常価格でブランド品より安いノーブランド品を買ったから節約ということにはならない。
(まあ、フトコロ的には安くあがるのだが)

ユニクロのように大量生産・大量流通によってコストを抑えているケースや、逆にブランド料が上乗せされているようなケースもあるが、基本的には
「値段どおりの性能」
であることを理解しておかないといけない。


一生の家計簿では、「入ってくる分」と「出ていく分」しかない。
今日節約した、50円、100円はその家計簿の中に確実に残っていく。
この積み重ねなのだ。
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弱休肝日

今週は、日・月とヘビー飲酒だったので、火曜水曜は抜いて、前々から決まっていた本日木曜に備えた。
酒は抜いたものの、仕事で帰宅時間が遅いので、逆に寝付きが悪くて困るくらいなんだが。

今日は、1次会で結構杯のやりとりはあったものの、コップに推移しない限り、私はびくともしない。
「体調万全なら、2次会でも、5次会でもつき合うんだがなあ」
と、思いつつそのまま帰宅。

こう、仕事の拘束時間が長いと、趣味仲間をどんどんと失う。
「来月、旅行がてらちょっと遠出してみない」
的なお誘いをくださった方が今日もいたが、半分義務的参加のイベントと重なっており、断らざるを得なかった。

残業代として、少し割り増しした賃金が労働者には与えられることとなっている(常時全額与えられるわけでもないし、ほとんどもらえない場合もあるが)。

しかし、逆に言えば、その対価の代償として、人生の中の時間を仕事に費やしている、費やさされているということを忘れてはいけない。


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思いどおりに生きてる人間なんかいやしない

先日、宴席で20代後半の女性と一緒になって、彼女がグチっぽく
「だって、そういうのってアタシの世界には無いことなんで、出来ないんでですよぉ」
と、仕事上のことでもあっさりそう言ってのける。
一応大学は出たらしいが、現在はちょっとした手伝い程度の仕事しかしてないらしい。

その場にいた全員では無いと思うが、結構引いた('A`) 

「そんなんだからまともに仕事につけないんだよ」
って、きちんと言うべきかとも思ったが、そこまで親しくない人間に対しては失礼だろう。
まあ、ニートも多いの世の中だから、こういう考えの人間も結構いるのか。


「思いどおりに生きたい」
などと言う人間は正直どうかと思う。

「出来る限り」が頭についたとしても、思いどおりに生きられる人間なんてこの世の中にいるかどうかも疑わしい。

私にすれば、まず株でもFXでも競馬でもパチンコでもいいが、それで収入が得られるなら、仕事に行かなくてもいい。

仕事に行くと、色々な案件が舞い込んでマイペースでは出来ないし、早く帰りたくても帰れない日もあるし、気が乗らなくてもやらないといけないことは山ほどあるし。

「自分の世界に無いから、それはできない」
とか言うと
「明日から来なくていいよ。いや、もう帰って」
って、言われるわ。

っとに、甘いよ、甘い。
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古事記



「大学」と「論語」に続く 「若い頃よく読んでたシリーズ」(笑)

「中庸」は、ネーミング的にちっちゃくまとまりそうなイメージがあって、ほとんど読んでいない。
「え、持ってたのか?」
と思ったくらい。
まあ年も年だしそろそろ読んでもいいかな。

講談社版より、現代向けにもう少しわかりやすくてもいいかもしれない。
PHPとかのやつは解説が丁寧だったかも。


「古事記」は、上つ巻しか読んでない。
文庫で言えば60ページくらい。
この厚さの5分の1くらいか。

内容は、神様がいっぱい出てくる物語。
神々様は、日本のあちこちの神社のご祭神。

伊勢神宮の天照らす大神(原文どおり アマテラスオオミカミ)を始めとして、挙げるときりがないです。
神社に行くと、功徳とか御利益がそれぞれあるが、これを読めばなるほどと。

外国の神話は、結構相手を殺してしまったり、何かに変えてしまったりと読んでいてうんざりするが、日本のは面白い。
日本人の生活習慣そのままというか、遙か昔も今も似たようなもんだ。

この物語は、私にとってIL GARAGEというかGARAGE WONDERLANDというかGARAGELANDというか、まあここが原点みたいな理屈抜きに好きな世界。

これ大河ドラマでやると面白いんだろうけどなあ。
猿田彦とか役的にかっこいいし。
宗教的だから無理か。


○古事記(角川日本古典文庫)
○中庸(講談社学術文庫)

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「トルコによるイラン在住日本人救出(下)」 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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「トルコによるイラン在住日本人救出(下)」

■1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」

事件当時、イランに駐在していた野村豊大使は、当時をこう振り返って、こう語っている。

『さて、フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。
その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。
そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです』

野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。
ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った。


■2.「この任務を皆、喜んで引き受けました」

同じく、前日の夜、トルコ航空では日本人救出機の飛行準備を進めていた。
機長のスヨルジョ氏は語る。

『このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、現地へ向かうということでした』

救援機に乗り込んだ客室乗務員でもっとも若かったキョプルルさんは、「イラク爆撃の話を聞いて恐怖心はありませんでしたか?」と聞かれて、こう答えている。

『私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。
当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否することもできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、この任務を皆、喜んで引き受けました』

キョプルルさんはこの任務のことを夫には伝えたが、父母には心配させたくなかったので、話さなかったという。


■3.搭乗券を手にすると、歓声があがった

当時、東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さんは、こう回想する。

『昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました』

そこにトルコ航空機が救援に来る、という知らせが大使館から入った。

『当日のテヘランの飛行場は脱出しようとするイラン人、外国人が一杯でしたので、いっせいに何千人という人が飛行場に駆けつけ、トルコ航空のカウンターの前にも長蛇の列が出来ていました。急なことだったので、着の身着のままの人も多かったのです』

それまで、どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否していたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、本当に搭乗できるのか、疑心暗鬼であった。

最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると、歓声があがった。懸念が安心に変わると、後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ、順番が来るのを待った。

特に家族連れの日本人は、実際に搭乗券を手にした時、「これで脱出できる」と、妻子を護る、夫として親としての責任を果たせたので、安堵の気持ちに包まれた。


■4.「飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした」

救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種であった。緊急の救援要請にも関わらず、こんな大型機をやりくりしてくれたのである。

客室乗務員のキョプルルさんは、出発時の状況をこう語っている。

『エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。
私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に、早くお客さまを乗せ、一刻も早く出発しなければならないということを強く意識しました。
乗客の方々は皆、恐怖を感じながらも、テヘランを脱出できるという喜びに溢れていました。私たちもその感情を共有することができました。私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました』

飛行機がテヘランに到着してから、217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。

日本人乗客らは、緊急の救援機なので女性乗務員はいないだろう、とか、食事や、まして酒などなくとも仕方ない、と思い込んでいた。
ところが、客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性がにこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。

イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかったという。それだけ日本人乗客等は開放感に浸っていたのであろう。


■5.「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。この山を通過すると、スヨルジョ機長はアナウンスを行った。

「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。

「トルコ領に入ったぞ!」
「イランを脱出したぞ!」
「やった! やった!」
「万歳! 万歳!」

昨日からの一連の出来事が思い出され、いろいろな気持ちが一度に胸にあふれて、泣き出した人たちも多かった。殊に家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず、喜びを爆発させていた。

■6.「我々は地獄から天国に来たのだ」

トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て、驚いた。

汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で現れたのである。

殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。お気の毒としか言い表せなかった。無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。

ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。

世界三大料理の一つと言われるトルコ料理を堪能した後でも、邦人たちは「店先に並んでいる生カキが美味しそう」と言い出した。森永さんは、もう暖かくなってきているので、生で食べてお腹でも壊したら大変と止めた。

森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し、席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、皆が美味しそうに口にしているではないか。彼らは言った。

「こんな幸せはない。我々は地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。たとえコレラになっても、今までのつらい思いを思えば、ずっと幸せなのだ」

幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日、全員、無事に日本に向かった。


■7.「あなたを独りにしておかない」

しかしテヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、その便で100名程度のトルコ人が帰国した。

残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのである。テヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、外国人である日本人に特別機を提供して、救出したことになる。

「こんなこと、日本だったら許されるだろうか?」

私はそう考えると、まず怖れたのはトルコのマスコミの反応であった。

「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」
と報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を行っても不思議ではない。ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。

私は固唾を呑んで事態の推移を見守った。しかし、それらは全くの杞憂(きゆう)であった。なんと、誰も問題視しなかったのである。トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに私は感銘を受けた。

武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。トルコ人は
「あなたを独りにしておかない」
という。困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。「武士の情け」と同じ心だろう。


■8.恩返し

森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。やがてそのチャンスがやってきた。トルコ航空が、エアバスの長距離大型機を2機購入したいというのだが、その資金がなく、15年もの延べ払いが必要であった。

当時、トルコのカントリー・リスクは高く、長期の信用供与をしてくれる企業はなかった。森永さんは「私自身が担保となり、支払い遅延が発生したら必ず取り立てる」と言って、関係者を説得し、ついにトルコ航空とのファイナンス・リース契約にこぎ着けた。

また、トルコ航空はイスタンブル=成田間の就航を強く望んでいたが、成田の発着枠は満杯であり、交渉は一向に進展しなかった。

森永さんは運輸省の高官に説いた。
「日本人の為に、これまでに救援機など出してくれた国が、他にあったでしょうか?」
「それでもトルコ航空の要望を、他の国の航空会社と同じ扱いになさるのですか?」

「そうだったね。そんな事件があったね」
と答えて、その高官は、政府関係者を説得して回った。

こうしてトルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル=成田線に就航したのである。成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。
心配されていた15年のリース契約についても、トルコ航空は1度たりとも、支払い遅延を起こすことなく完済した。

平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。

そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行った。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのである。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。

日本とトルコは、長く深い友好の歴史があるが、このトルコ航空による邦人救出は、その特筆すべき1頁である。

(文責:伊勢雅臣)

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「トルコによるイラン在住日本人救出(上)」 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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「トルコによるイラン在住日本人救出(上)」

■1.「頼む! 助けてやってくれ!」

伊藤忠商事のトルコ・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんの電話が鳴った。日本の本社からだった。相手はいきなりまくしたてた。

『イラクのサダム・フセイン大統領が、「1985年3月19日20時以降、イラン領空を通過する航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発した。
イランにいる在留外国人は一斉に出国しようとしている。在留邦人も脱出しようとしているが、乗せてくれる飛行機がない。
ついては在留邦人救出のために、トルコ航空を飛ばしてもらうよう、トルコ政府にお願いできないか?
彼らは危険にさらされているのだ! 頼む! 助けてやってくれ!』

1980(昭和55)年に始まったイランとイラクの戦争は、5年経ってますます激しさを加えていた。1985(昭和60)年にはイラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆するまでになっていた。日本人学校の先生宅の2軒隣に爆弾が落ちて5人の死者が出ていた。

さらにイラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出したのである。


■2.日本政府は救援機を出せない

当時、テヘランにいた野村豊・駐イラン大使は当時の状況をこう語っている。

『在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運搬機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした』

「55年体制論争」とは、社会党の「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争につながる」という主張によって、海外在留邦人救出のための手段が必要だと言う声も、押しつぶされていた状況を指している。

『17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ救援機派遣要請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした』

自衛隊救援機も出せず、政府専用機もないので、民間航空会社に要請するしかないわけだが、その乗務員の安全確保が保障されない以上、日本からの救援機は出せない、というのである。

空爆の恐怖に曝されている現地在留邦人は、日本政府から見捨てられた形になっていた。


■3.どこの航空会社も「自国民優先主義」

当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れてなかった。危険を感じていた在留日本人の中には、欧州各国の航空会社に発券を申し込んでいたが、どの航空会社も「自国民と外交官を優先しなければならない」と拒否した。

ソ連のアエロフロートなら乗せてもらえるというので、オープン・チケット
(搭乗日未定の航空券)を事前に入手していた日本人も多かった。当然、搭乗できると思っていたので、空港のアエロフロートのチェックイン・カウ
ンターでチケットを提示して、搭乗手続きを行おうとした。

ところが、アエロフロートは「ソ連人かワルシャワパック加盟国(ソ連陣営の共産国)が優先」と言って取り合わない。

どこの航空会社も「自国民優先主義」が国際常識で、日本人を乗せてくれる会社はなかった。特に、家族連れの日本人駐在員は、奥さんや子供たちを脱出させる便が見つからないことから、絶望感と焦燥感でパニック状態に陥ってしまった。

こうした窮状が伊藤忠のテヘラン事務所から、東京本社に伝えられた。東京本社から、「頼む! 助けてやってくれ!」という悲鳴のような緊急電話が入ったのは、こういう状況だった。


■4.「何故日本の航空機が救出に来ないのか?」

電話を受けた森永さんは、不思議に思った。

『日本人がこんなに危機に直面しているのに、何故日本の航空機が救出に来ないのか?
今起きている問題は、イランにいる日本人の問題なのだから、本来イランと日本が当事国である。トルコは全く関係のない第三国である。それなのに何故トルコが巻き込まれるのか?』

森永さん自身が疑問に思った事は、トルコ政府からかならず質問されるだろ
う。それにどう答えるのか。さらに彼らは当然、次のようにも言うだろう。

『テヘランには大勢のトルコ人がいる。トルコ政府としてはまずはトルコ人を救出すべきなので、その対策で頭が一杯である。外国人である日本人救援のことまで頭が回らないのが実情なのに、何を言っているのだ?』

トルコ政府に頼むにしても、こうした質問や言い分に、すぐに答えられるよ
う、説得力のある回答をあらかじめ用意しておかなければならない。


■5.「体当たりでお願いしてみよう」

良い考えが浮かばないまま、いたずらに時間が過ぎていく。一方で、テヘランの在留邦人の窮状を思うと、もはや思案している場合ではなく、一刻も早く行動を起こさねばならない。焦燥感と責任感で心臓がつぶれそうだった。

森永さんは決心した。頼む相手は、無理筋の話でも、即断即決で引き受けてくれるトップでなければならない。しかも自分の親しい友人で、強い指導力と実行力のある人でなければならない。となると頼む相手はたった一人しかいない。
「オザル首相にお願いしよう」と決めた。

そして、本来、筋の立たないお願いなので、無手勝流となっても仕方がない。これ以上へたな思案をせずに、体当たりでお願いしてみよう。

意を決した森永さんは、オザル首相のオフィスに電話をかけた。頻繁に電話をかけあっている仲だったので、その時も「緊急」ということで、すんなりとつないでくれた。

「トゥルグット・ベイ! 助けて下さい」 トゥルグットは、オザル首相のファースト・ネームである。ただし、男性に対する尊称の「ベイ」をつけて呼んでいた。

「どうした? ドストゥム・モリナーガさん」 ドストゥムは、トルコ語で「親友」の意味である。また日本通らしく「さん」をつけて呼んでくれた。


■6.「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」

「トゥルグット・ベイ! トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救出して下さい」

「テヘランにいる日本人がどうしたと言うのだ? モリナーガさん」
森永さんはテヘランでの日本人の窮状を説明した。本来トルコには何の関係もない事だが、こんな事をお願いできるのは、あなたの他にいません、と必死で訴えた。

オザル首相は森永さんの話を黙って聞いていた。いつもならすぐに返事をするのに、その時は話を聞き終わっても何も言わずに沈黙を続けていた。


『私は固唾(かたず)を呑んで、彼の言葉を待っていた。「YES」とも「No」とも言わない。私にはこの沈黙の時間がものすごく長く感じられた。その間、「断られたらどうしよう」とか色んなことが頭をよぎる。でも彼は電話の向こうで沈黙を続けたままである。
やがてオザル首相は口を開いた。
「わかった。心配するな。親友モリナーガさん。後で電話する。」』

この答えに、森永さんはしばし呆然としてしまった。「質問されたら困るな」と怖れていたのに、何の質問もない。小躍りしたくなるほど嬉しかったが、胸がつまってしまい、「大変、ありがとうございます。トゥルグット・ベイ」と言うのが精一杯であった。


■7.オザル氏との信頼関係

森永さんが、オザル氏に初めて会ったのは、この時点より10年ほど前だっ
た。オザルさんはまだ政治家ではなく、いくつかの民間企業の顧問として働いていた。

「日本は資源がないので資源を輸入し、技術力で付加価値を付け輸出している」と口癖のように言う知日家であり、親日家であった。

当時のトルコは、農業が最大の産業であったので、日本から技術を導入し、農業用トラクターの製造を行おうとしていた。しかし、当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無だった。

そこで森永さんが協力して、何とか工面した外貨でトラクターの部品を日本から輸入し、細々と組み立てるという事業をおこした。

1978(昭和53)年、トルコはついに外国からの借款が返済できなくなるという最悪の状態に陥った。トラクター製造事業も風前の灯火となったが、森永さんとオザルさんは力を合わせてこの困難に対峙した。この過程で互いへの信頼が強まっていった。

その後、オザルさんは、手腕を見込まれて経済担当大臣となり、「オザル経済改革パッケージ」を発表した。それまでの規制だらけの経済を自由化する事を原則として、これが今日でもトルコ経済運営の基礎となっている。

大臣となっても、オザル氏は日本の経済運営を参考にしたいと、森永さんをよく大臣室に呼んで話を聞いた。オザル氏は、その後の内閣でも経済運営の腕を買われ、経済担当副首相となった。

そして1983(昭和58)年の総選挙では祖国党を立ち上げ、その分かり易い経済政策が国民に支持され、地滑り的な圧勝を遂げて、ついに首相になった。

一時、帰国していた森永さんが、イスタンブール支店長として再赴任すると、オザル首相は森永さんを「日本関係私設顧問」と呼びながら、大事にしてくれたのである。テヘラン在留日本人の救出を頼んだのは、それからまもなくの事であった。


■8.「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。」

オザル首相は「心配するな」と言ってくれたが、その後トルコ政府からも、トルコ航空からも連絡が来ない。森永さんは心配になってきた。このままでは、サダム・フセイン声明の設定した期限が過ぎてしまう。

数時間後、やっとオザル首相自身から電話があった。どきどきして森永さんは首相の言葉を待った。首相は落ち着いた声で、「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。親友モリナーガさん」と言ってくれた。

『日本人救援のため、テヘランにトルコ航空の特別機を1機出す。詳細はトルコ航空と連絡をとったら良い。日本の皆さんによろしく』
それを聞いて、森永さんは驚くと同時に、体の芯から喜びが湧き上がるのを抑えきれなかった。

『トゥルグット・ベイ! 大変、大変、大変ありがとうございます。何も難しい質問をせず、私のお願いを聞き入れて頂き、ありがとうございます。
日本人の救出のために救援機を出して、後で政治問題になるかもしれないの
に、リスクを取って大決断して頂き、ありがとうございます。どんなに感謝しても、感謝しきれません。早速テヘランの日本人にこの大英断を伝えます。大変ありがとうございます』

森永さんは電話を切ると、この朗報を直ちに東京経由でテヘランに伝えた。

しかし、テヘランの日本人は、その情報をにわかには信じられなかった。それまでどこの航空会社にも搭乗を拒否されて、絶望の淵にいたのだ。急にトルコ航空が特別機を出すと言っても、信じがたい思いだった。

そもそもテヘランには600人を優に超えるトルコ人ビジネスマンが滞在している。トルコ航空が特別機を出すと言っても、彼らを優先するのが当然なので、日本人まで席が回ってくるか、といぶかしく思ったのである。

(続く)

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大学と論語




これら2冊は私が三十歳前後に買って、出張の移動時間などに読んでいたものである。
当時はかなり持ち歩いていたので、結構痛んでいる。


・大学(講談社学術文庫 1994版 フォント大きめ)
・論語(岩波文庫 1998版 フォントが小さく見づらい)


この二冊が個人的にはメインとなっている。
「中庸」は、題を見るからに平凡な人間になるようで。未だに手に取っていない・・・・・・

今見てみると、当時の私が心に残っただろう箇所に傍線を引いていたりして、なかなかのものである。

「大学」はリーダー学中心、「論語」は孔子を通した生き方の模範。
上述の出版社の書物に関わる人生か、関わらない人生かで、歩み方はまったく違ってくる。
ぜひとも、この二冊だけでも読んでもらいたい。

昨夜、上杉鷹山のドラマを見て久しぶりに取りだしたものだが、「論語」の内容を知るだけで、人間の幅はかなり広がる。

「あの シ、ノタマワク っていうやつね」だけでは情けない。
多くの先人が学んだ書物は、後世にも伝えていかないといけないのである。

センテンスごとに読めば後を引かないので、時間の少ないときでも読みやすいのもオススメである。


○四書五経
四書・・・「論語」「大学」「中庸」「孟子」
五経・・・「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」
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子供が喜ぶ武士道論語(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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JOG-Mag No.654
子供が喜ぶ武士道論語
■ Japan On the Globe(654) ■ 国際派日本人養成講座 ■

「自分の命より大切なものがあると知ったときに、その人の人生は輝きを増して、人間として素晴らしい人生を歩むことができるのです」

■1.派遣村に同情する価値なし
空手7段の瀬戸健介氏(昭和21年生まれ)は、毎月、論語勉強会を開催している。4歳の子供から幼稚園児、小学生も参加しているが、みな長時間、お行儀良く真剣に話を聞き、『論語』を学ぶことを楽しんでいる。ある時、瀬戸氏はこんな話をした。

君たち、派遣村って知っているかな? 一時ニュースですごく話題になっていたでしょう。日本が不況になって、クビになった派遣社員が行く所がなくなってしまった。それで日比谷公園に派遣村をつくり、炊き出しをしてもらって年末年始をしのいでいました。
彼らにインタビューして、「今、手持ちのお金がいくらですか?」と聞くと、千円とか二千円という人がたくさんいました。
みんな、気の毒だ、かわいそうだっていっていたけれど、先生は、そういう人たちに同情する価値はないと思います。ある程度年を取ってクビになった人は気の毒だと思うけど、若い人たちは、それまでにどういう生活をしていたかが問題だと思うんです。


■2.「だって、普通は親兄弟や友達が助けてくれるでしょう?」
なかには月々30万円から50万円も貰っていた人もいる。それなのにクビになって1ヶ月もたたないうちに数千円しか持っていないということは、結局、自分の未来の展望も考えずに、稼いだお金を使い切ってしまっていたのだろう。
「その結果、お金に困るというのは、本人たちの責任だと思います。君たちは絶対にそういう考えを持ってはいけません」と瀬戸氏は子供たちに諭す。
派遣村のニュースを見ていて、もう一つ不思議に思ったことがあります。寮を追い出されて住む所がないからといって、「これからはテント暮らしです」というのはどういう人なのだろうと思ったのです。

だって、普通は親兄弟や友達が助けてくれるでしょう? 泊まる場所がないという人は、信頼できる友達もいなければ、親兄弟や親戚からも相手にされていないってことなのでしょうか。
ここで瀬戸氏は、自分の体験を語る。
実は先生は、大学を卒業して海外へ空手の指導に2年間行っていました。父親が亡くなったので帰ってきたのですが、その後しばらく仕事をしていなかった時期があります。・・・

でも、お金はなかったけれど、それでも先輩や後輩が「うちに来い、うちに来い」って誘ってくれて、泊めてもらっていましたよ。少しも嫌な顔をされることはなかった。お互いに信頼していましたからね。


■3.「いい友達をつくる方法」
瀬戸氏は「いい友達をつくる方法」として、こう述べている。

みんなは素晴らしい友達を持っていると思うけど、もし君たちの周りに、友達ができなくてすねているような人がいたら、それは自分の責任だということを教えてあげてほしいと思います。

「いい友達が欲しいのなら、一生懸命勉強して自分を磨く以外にないよ。すねている時間があったら本を読んで、勉強しろよ」っていってあげてください。

その一例として、瀬戸氏は明治のはじめ、岩倉具視を団長として1年10か月もの間、欧米を巡回した視察団に参加した女の子たちの例を挙げている。8歳から16歳の女子が、日本の女子教育を発展させるために選ばれていたのである。
この女の子たちと接したアメリカ人の感想が残されている。それによると、「いま、我が国を訪れた日本の女性たちは、しとやかで上品な起居振る舞いのため、アメリカ人の間にたくさんの友人を得た」と書かれている。瀬戸氏はこう解説する。

英語が話せない小さい女の子がアメリカに行ってみんなに好かれているのです。言葉が通じなくても、人間としての徳性を身につけていれば、周りに自然と人が集まってくることがわかるでしょう。
最年少の津田梅子は、後に津田塾大学を創設して、日本の女子教育の先駆者と呼ばれるまでになったが、武家の娘として厳しい家庭教育を受けていたはずである。


■4.「徳は孤ならず。必ず隣あり」
瀬戸氏は「人間としての徳性を身につけていれば、周りに自然と人が集まってくる」事は、歴史を見ても多くの例があるとして、こう説く。
 ・・・近江聖人と呼ばれた中江藤樹なども滋賀県の小川村という片田舎に住んでいたのに、その人徳を慕って全国から人が集まってきています。当時は電話もないし情報も少ないのに、どこからか彼の評判を聞きつけて学びたいという人が大勢やってきました。

伊藤仁斎にしても、二宮尊徳にしても、佐藤一斎にしても、藤田東湖にしても、西郷隆盛[d,e]にしても、みんな彼らの徳を慕って全国から人が集まってきています。

「徳は孤ならず。必ず隣あり」の実例は、歴史を振り返れば数限りなく存在しています。

だから、みんなも自分を徳のある人間に磨くように心がけていけば、絶対に寂しい人生を歩むことはありません。

「徳は孤ならず。必ず隣あり」とは『論語』に出てくる孔子の言葉だが、派遣村で過ごす若者たちも、日頃からこうした言葉を習って自分の人間を磨いていれば、親兄弟や友達が助けてくれたであろう。

そうした学問をしていなかったばかりに、誰も助けてくれない、という寂しい人生を歩む。『論語』が今の我々の人生にも大切な教えを含んでいることが、よく分かる一節である。


■5.勉強ができる子とできない子の違いはどこから来るのか?
このように身近な例で『論語』の教えを説いてくれるのが、子供たちが喜んで瀬戸氏の勉強会に参加している理由だろう。
もう一つ、身近な例をあげよう。「子曰(い)わく、教えありて類なし」という一節を説明した部分である。類とは「種類」のことで、人間にはいろいろな種類がある。善い人もいれば悪い人もいる。
学校では「人間はみな平等だ」と教えるが、それなのにどうして善い人と悪い人がいるのだろう、と瀬戸氏は子供たちに問いかける。
君たちのクラスでも、同じ先生に勉強を習っているのに、勉強ができる人とできない人がいるでしょう? どうしてそうなるのだろう。
それは努力している人と、努力していない人の差です。同じ先生が、同じ情報を皆に与えているのだけれど、「僕は一所懸命に勉強して立派な人間になる」と心に誓っている人の方が、絶対に成績が上がります。
したがって「教えありて類なし」とは、人間は正しい教えを受けて、一所懸命に勉強することによって、誰でもみな素晴らしい人間になるということです、と瀬戸氏は説く。

すなわち勉強ができるかどうかは本人の努力で決まり、その努力ができるかどうかは、本人の「志」の如何による。

じゃあ、どういう志で努力をするのがよいのでしょうか。それは「自分は立派な人間になって、世のため人のために役立つ人間になるぞ」という心がけです。その気持ちさえ無くさなければ、君たちは絶対に立派な大人になることができます。


■6.「世の中には命よりも大切なものが絶対にある」
「志」に関連して、『論語』には、「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁をなすこと有り」という一節がある。
「志士」とは、国や社会のために自分の身を犠牲にしてでも尽くそうという高い志を持った人のことを言う。仁人とは、気高い志が一人の人間の中で固まって人格ができあがったような人のことである。
「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し」とは、「志士や仁人は、自分の命が惜しいがために人の道に反するような行為はしない」という意味である。次の「身を殺して以て仁をなすこと有り」は、「時には自分の命を投げ出してでも、人の道を貫き通す」ことを意味する。

今の世の中では「命より大切なものはない」と教えるが、それに瀬戸氏は異議を唱える。
でも、世の中には命よりも大切なものが絶対にある、と先生は思います。そして、自分の命より大切なものがあると知ったときに、その人の人生は輝きを増して、人間として素晴らしい人生を歩むことができるのです。
だから先生は、君たちには命よりも大切なものがあることを絶対に知ってほしいと思います。


■7.命を賭けてでも自分の志を貫こうとする人間の育成を孔子は目指した

「世の中には命よりも大切なものが絶対にある」ことを身をもって示した人間として、瀬戸氏は楠木正成(くすのきまさしげ)を挙げる。

鎌倉幕府の悪逆非道ぶりを正そうとした後醍醐天皇の呼びかけに馳せ参じ、正成は知謀の限りを尽くして幕府を滅ぼした。しかし、後醍醐天皇に反逆した足利高氏の数万の軍勢を敗北覚悟で迎え撃ち、「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対するもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)」と言って、弟・正季と差し違えた。

この楠木正成を尊敬し、自分の生き方の手本にしたのが、吉田松陰である。その門下から高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった人物が巣立ち、彼らが明治維新と明治日本の建設をリードしていく。

楠木正成は武士の理想像と仰がれてきた人物である。その生き様が幕末の志士たちに受け継がれた。彼らの生き様は、まさに「身を殺して以て仁をなすこと有り」を実践する武士道であったと言えよう。
孔子は、命を賭けてでも自分の立てた志を貫こうとする、激しくかつ肝の据わった人間の育成を目指しているのです。それがここに挙げた言葉からは伝わってきます。孔子の本質はここにあるといってもいいでしょう。
瀬戸氏の言う「孔子の本質」を踏まえれば、我が国においては、なぜ儒教が武士道の根幹の教えとされてきたのかが得心できる。このあたりは、いかにも
武道家ならではの指摘である。


■8.本当に大切なのは、限りある命をどう生きるか

「身を殺して以て仁をなすこと有り」という事の意味が分かれば、以下の瀬戸氏の説くところは、子供たちの心にもすっと入ってくだろう。
命はすごく大切なもの、尊いものだと君たちは学校で教わりました。でも、命は永遠に続くものではありません。すべての人に必ず死は訪れます。そう考えると、本当に大切なのは、限りある命をどう生きるかなのだと先生は思います。

 ・・・志ある人は「人間は必ず死ぬ」と知っています。志のない人は、人間が死ぬということの本当の意味を知りません。そこに人生に対する緊張感の差が出てきます。そして、その差が人間的な魅力の有無につながっていきます。

緊張感のある人生を送ることによって、人間には落ち着きが生まれ、そして輝きます。そこに人間としての美しさが表れてくるのです。美しさというのは、決して姿や顔形のことではないのです。

日頃の蓄えも、助けてくれる友人もなく、派遣村での炊き出しで食いつないでいる人々の姿は美しくない。彼らには自分の限りある人生をどう生きるか、という緊張感がない。それはそもそも世のため人のために尽くそうという志がないからである。

戦後の教育は「命を大切にしよう」と子供たちに教えてきたが、その結末を象徴しているのが派遣村の人々の生き方であると言える。「限りある命を大切にするためにはどう生きるべきなのか」を問うた先人たちの学問を忘れ去った結果である。

瀬戸氏の教室で、子供たちは「人としての生きる道、徳を説いた言葉に触れることで、背筋がしゃんと伸び、それを学び続けることで心の中に芯が生まれてくる」という。

これこそ子供たちを真に喜び輝かせる学問である。そしてこのように育った「背筋のしゃんと伸びた」国民が、国家の未来を切り開いていく。
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優秀な社員って何だろう

この4月から、一部新しい仕事を引き受けているが、さっぱりワケが分からない。

まず、この業務の引継書がA4にたった2枚。
(数年前に同じような状況があったナ)

年間のフラットファイルだけでも、ゆうに20冊。
8センチクラスのファイルも10冊くらいあるのに、こんなのでわかるわけがない。

幸か不幸か、前任の彼が近くにいるので、聞けば済むのだが、内心
「お前、もう少しやり方はないのか?」
である。
日々、ジョン・ライドンのように
「クソったれめ!」
と思う原因のほとんどは彼なのだから。


以前にも書いたが、私はいつも引継書をどんどん更新していっている。
自分がわからなかったこと、そこらのマニュアル本などでもすぐに引き出せない答えなど、後任に教えるべき物は限りなくある。

ファイルやディレクトリについても、
「どう表現すれば、客観的にわかりやすいかな」
と、考えながら作業している。


ところが現在関わっている仕事は、すべてが逆。
紙ベースの資料はどこにあるのか分からないし、データファイルも古いものから新しいものまで1カ所に詰め込んであるので、膨大すぎて検索にもひっかからない。

なぜ、私がここまで引継にこだわるかというと、ひとつは、
「私が必死になって探して、やっとたどり着いた労力をむだにしたくないこと」
「後任には、そんな労力は省いて、新しく何かをやる時間を持ってほしい」
という点である。

こんなことをいうと
「探すという作業力が身に付かなくなる」
という意見もあるかも知れないが、さらに探す部分も必ず出てくるはずだ。


自慢するが(笑)、私の場合、全く違う場所に移っても、後任からはまったくと言っていいほど電話はかかってこない。
それだけきちんと読めば分かる「モノ」を作り、置いてきているからだ。


ただ、自分の脳内で仕事をこなし評価を受けることは、誰だって出来る。
個人的な評価につながらないかもしれないが、少し回り道をして、無意味な労力を後任に使わせないという手法を社員の大半が取れるのであれば、組織力は高まり、ひいては社会貢献につながるだろう。



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なんて私は仕事ができない

16時過ぎに
「どうも送ってもらったファイルが間違っているみたい」
と、仕事関係の方から電話あり。
一週間くらい前にファイルをいくつかもらって、それを修正する作業を終えて金曜日夕方に送信したはずが、修正前の元ファイルを送っているらしい。

仕方がないので、出社して送り直し。
保存するときに「○○○○(提出用)」といったファイル名にするとかもう少し気を利かせておけばこんなことにならなかったのに・・・ と。

仕事というものは、
「失敗しないために最善の準備をする」
といった部分がある。
今日もこの作業をしているときに、書類で散らかった机の上で行き場を失った紙コップを倒してしまい、被害は少なかったものの、余計にそう思ったのであった。
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「日本」ブランドを売る広報外交(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe(618) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

The Globe Now: 「日本」ブランドを売る広報外交

国際社会では各国がそれぞれの「国家」ブランドを戦略的に売り込んでいる。

■1.国家ブランド戦略「かっこいいイギリス」■

 あなたは英国についてどんなイメージをお持ちだろうか?
「保守的な英国紳士とストばかりしている労働者からなる停滞
した階級社会」か? あるいは「ビートルズやサッカーのベッ
カムを生んだ革新的でダイナミックな国」か。

 現在の多くの日本人は、後者のイメージを持っているだろう。
しかし、わずか20年ほど前には前者のイメージの方が支配的
だった。国家のイメージは劇的に変わりうるのである。

 英国のイメージ転換は、97年に首相の座についた44歳の若
き労働党党首トニー・ブレアが強力に推し進めた国家ブランド
戦略の賜物である。そのキャッチフレーズが「クール・ブリタ
ニア(かっこいいイギリス)」だった。

 ブレア首相のブレーンとして国家ブランド戦略の理論的支柱
となったのが、20代前半の研究者マーク・レナードである。
レナードは、海外において「陰鬱な気候、まずい料理、冷淡な
人々という、手垢にまみれたイギリスのステレオタイプ・イメ
ージが依然支配的である」と指摘し、英国民自身が自らに誇り
を持てず、企業は「イギリス」という看板をビジネスにマイナ
スと考えていると述べた。

 しかし、「実はイギリスは革新的なアイデア、商品、サービ
ス、国民、文化のハブ(中心)となっている国家であり、われ
われの歴史は追従型ではない創造性にあふれている」とレナー
ドは説き、これに従ってブレア首相は英国ブランドを確立する
ため、ポップ・カルチャーやファッション、スポーツなどの分
野での人材育成、新観光名所の整備、都市の再開発などを進め
ていった。[1,p62]

 こうした戦略的な努力により、世界における英国のイメージ
は変貌を遂げたのである。

■2.パブリック・ディプロマシー(広報外交)■

 企業が市場で自社のブランドを売り込むように、国家も自国
のイメージを国際社会の中で売り込む。これがパブリック・ディ
プロマシーと呼ばれる活動である。ここでは「広報外交」と訳
しておこう。

 たとえばイギリスはその国家ブランドにより、海外から多く
の観光客を集め、また2012年のロンドン・オリンピック招致に
も成功している。アメリカとともにイラク派兵も積極的に行っ
てきたが、アメリカとは違って「軍事的に強硬な国」というマ
イナス・イメージは希薄である。

 国際世論が各国政府を動かし、また国際市場で各国企業が競
争する現代においては、それぞれの国が国際社会に持つ「ブラ
ンド・イメージ」が、きわめて重要になってきている。そのた
めに各国が戦略的に公報外交を展開する時代になったのである。

■3.世界で最も影響力のあるBBCワールドサービス■

 イギリスの広報外交の内容をもう少し詳しく見てみよう。そ
の特徴としては国際放送と国際文化交流の2つの柱がある。

 英国は国際放送分野では、BBC(英国放送協会)ワールド
サービスという世界で最も影響力のある国際放送局を持ってい
る。世界42の言語で1億2千万人の視聴者にニュースや解説
を届けている。

 BBC本体のテレビ、ラジオ放送は受信料でまかなわれてい
るが、ワールドサービスは政府の補助金によって運営されてい
る。しかし報道の自由が政府から保障され、「正確で、偏見の
ない、独立したニュース報道機関」として、国際的な定評を受
けている。

 それでも、その目的は「国内や海外で発生した事態について、
バランスのとれたイギリスの見方を伝え、イギリスの暮らし、
組織、業績について正確かつ効果的に表象する」ことを目的と
しており、完全に無国籍、中立の立場に立っているわけではな
い。BBCワールドサービスを見聞きしているうちに、知らず
知らずのうちに、視聴者はイギリスの見方を学び、またイギリ
スの社会や文化について親近感を持つような報道がされている
のである。

■4.愛・地球博で日本の市民層をターゲットに■

 広報外交のもう一つの柱が国際文化交流だが、これについて
もイギリスは戦略的に自国のブランドを確立しようと努力して
いる。その一例を、平成17(2005)年の愛知万博に見てみよう。

 この「愛・地球博」への参加を、英国政府は「日本の市民層
をターゲットにした広報外交活動」と規定し、日本におけるイ
ギリスの政治的、経済的、文化的影響力を土台から補強しよう
と意図した。

 参加準備のプロジェクト・チームの責任者には、英国外務省
の広報外交部長が就任し、英国館は、日本の市民に向けて、イ
ギリスの革新性や最先端技術、環境保全努力などを発信するこ
とを目指した。こうして企画された英国館を、愛・地球博の公
式サイトは次のように紹介している。

 パビリオンに入ると、まず英国の空をイメージした作品
や、鳥の声などで田園風景を疑似体験できます。さらに進
むと、7つの展示が点在するイノベーション・ゾーンが現
れます。自然の中にはさまざまな科学のヒントが隠されて
いて、その仕組みを研究することによって革新的なアイデ
アや技術が生まれました。ヤモリが天井に貼りつく仕組み
から強力な接着テープを開発したり、サメの皮から発想さ
れたより速く泳ぐためのスイムスーツ、コウモリの超音波
を視覚障害者に役立たせるなど、英国で研究が進められて
いる数々の発明のインタラクティブなデモンストレーショ
ンをここで体験できます。

 英国館は予想を上回る好評を博した。当初設定した目標入場
者数は150万人だったが、その倍以上の301万人が訪れた。
その中には1768名もの世界の要人も含まれていた。

 日本のメディアでも好意的に報道され、301の記事が新聞
・雑誌に掲載され、50回のテレビ報道がなされた。これらを
広告費用として金額評価すると300万ポンド(約6.6億円)
の価値があり、これだけで出展費用400万ポンド(約8.8
億円)の75%を回収できたことになる。

 英国館入場者に対して行われたアンケート調査では、63%
が英国館を外国館のベスト5に入る、と答え、また入場者の7
割は、英国イメージが「停滞」「保守」から「革新」「ダイナ
ミック」「モダン」に変化したと回答している。

 こうした地道な努力の積み重ねによって、英国のイメージは
以前と大きく変わっていったのである。

■5.サムライたちの広報外交■

 このように万国博覧会は広報外交においても重要な舞台であ
るのだが、この点を我が先人たちは幕末の開国直後に即座に見
抜いていた。

 明治維新に先立つこと1年前の1867年に開かれたパリ万博で
は薩摩藩が「日本薩摩太守政府」の名で、あたかも独立国であ
るかのような体裁で参加した。そのため幕府の出展では「日本
大君政府」と名乗らざるを得なかった。薩摩藩と幕府の国内に
おける政権争いが、広報外交での競争にも発展したのである。
[a]

 明治維新の後も、国際社会に乗り出したばかりの日本は、独
立を維持し、近代国家の仲間入りするために、必死の努力を続
けた。その過程で広報外交は重要な武器であった。

 日清戦争当時、第二次伊藤博文内閣で書記官長(現在の内閣
官房長官)をつとめた伊東巳代治(みよじ)は、英国の通信社
ロイターに多額の資金を送って(悪く言えば「買収」して)、
国際世論を日本に有利に導かせた。[b]

 日露戦争では、金子堅太郎がハーバード大学仕込みの英語を
駆使して、全米各地で講演会を開き、晩餐会でスピーチをし、
新聞や雑誌に寄稿して、八面六臂の広報外交を展開した。その
ために米国の世論は、野蛮な侵略国ロシアに立ち向かう新興文
明国日本、というイメージを持った。[c]

 また戦地においては日本軍は欧米の新聞記者たちを温かく迎
え、個人的な親交を築いた。記者たちが多分に日本軍の視点か
ら見た記事を書いたことは想像に難くない。アメリカのシカゴ
・ニュースの記者スタンレー・ウォッシュバンなどは、乃木大
将を自分の父親のように敬愛し、帰国してから"Father Nogi"
という本を出版したほどである。[d]

 こうした日本の広報外交が奏功して、国際世論は親日的とな
り、これをテコに日銀副総裁・高橋是清は欧米で外債を発行し
て、膨大な戦費を調達することができたのである。[e]

■6.大正、昭和の広報外交■

 日清・日露戦争、第一次大戦の勝利を通じて、我が国は有色
人種でただ一つの強国という地位を獲得した。この特異な立場
から、パリ講和会議での国際連盟創設の議論において人種平等
条項を提案したことは、米国の黒人も含め、差別されている世
界の有色人種に希望を与え、かつ日本を有色人種のオピニオン
・リーダーと位置づけた点で、きわめて強力な広報外交であっ
た。[f,g]

 しかし日英同盟が解消され、英米との対立が深まると、国際
的に定評を得ている英米マスコミの後ろ盾をなくしたため、効
果的な広報外交はむつかしくなった。

 たとえば、日本政府はその後も人種平等政策を国策とし、ナ
チスや欧米社会からも忌避されていたユダヤ人難民に、満洲や
上海などで安住の地を与えたが、これなども広報外交としてもっ
と活用されるべき政策であった。これらの実績を効果的にアピ
ールしていれば、日本は世界のユダヤ人の支持を受けて、ナチ
スとは異なる人道主義の国として認識され、その後の英米との
対立もだいぶ様相が異なったはずである。

 また昭和18(1943)年、大東亜戦争の最中に満洲国、中華民
国、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府の代表者が
東京に集まり、大東亜会議が開かれた。この会議で採択された
「大東亜共同宣言」は、アジアの有色人種に「自主独立」と
「万邦共栄」を呼びかけたもので、独立を渇望するアジア各民
族に深い影響を与えた。しかし、これも時遅しで、戦況を好転
させるには至らなかった。

 戦後、昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックは、
日本が戦禍から完全に立ち直り、国際社会に復帰したことを世
界に告げる一大国家イベントであった[j]。また、昭和45
(1970)年の大阪万博は万博史上最多の64百万人の入場者数を
集め、奇跡的な高度成長によって、日本が世界有数の経済大国
になったことを国内外に示した。

 大東亜戦争前後の難しい時期はあったが、総じて我が国は国
際的な舞台において、真剣に広報外交に取り組んできたと言え
る。それは近代国際社会の荒海で生き延びるための必須の手段
であった。

■7.世界でもトップレベルの日本の評判■

 こうした広報外交努力の積み重ねもあって、現在の我が国の
国際社会におけるイメージは極めて良好である。BBC他は主
要12カ国それぞれについて「世界の中での影響が肯定的なも
のかどうか」を問う国際世論調査を実施し、その結果を2007(
平成19)年3月に公表した。

 調査は27カ国の2万8000人に対して行われ、総平均
(自国への評価を除く)で肯定的評価の率が高かったのは、カ
ナダ(54%)、日本(54%)、EU(53%)などであっ
た。

 日本への肯定的評価を国別で見ると、アメリカ(66%)、
ブラジル(64%)、イギリス(63%)、トルコ(51%)、
ナイジェリア(65%)、インドネシア(84%)、フィリピ
ン(70%)、オーストラリア(55%)など世界の全地域で
高い評価を受けている。実に27カ国中、25カ国で肯定的評
価が否定的評価を上回るという優等生ぶりである。

 例外の2カ国は、中国(肯定的18%、否定的63%)、韓
国(肯定的31%、否定的58%)と否定的評価が突出してお
り、この2カ国における意図的な反日教育、反日報道の影響で
あると思われる。

 日本国内では中韓の反日的態度から、日本は世界で評価され
ていないとか、アジアで警戒されているなどという先入観を持
つ人がいるが、事実は中韓の反日姿勢の方が世界でも異常だと
いうことである。

 両国とも日本から膨大な経済援助を貰いながら、それぞれの
政権が「反日」を存立基盤にしている、という歪んだ国内事情
がある[k,l]。言わば、被害妄想の隣人に憎まれているような
もので、正常な隣人たちとはまた別の付き合い方が必要である。

■8.個人的つきあいから生まれる親日イメージ■

 中国社会科学院研究所が2006年に実施した世論調査でも、日
本に対して「親近感を持っていない、あまり持っていない」が
52.9%、「非常に親近感あり、親近感あり」が7.5%、
「普通」が37.6%と同様の結果が得られている。[1,p238]

「親近感を持っていない」理由として挙げられているのは、
「日本は中国侵略を反省していない」が断然トップで、まさに
反日教育の影響が如実に窺われる。

 逆に注目すべきは、少数派の「親近感を持つ」方の理由とし
て「両国友好の歴史が長い」「日本の経済が発展している」と
並んで、「日本留学・訪問の経験がある」「日本人の友達がい
る」「家族や友達が日本にいる」などという理由が挙げられて
いる点だ。

 日本の社会は、親切、礼儀正しさという点で国際水準をはる
かに超えており、これは日本を訪問する外国客や留学生の多く
が一様に感ずる所である[m]。また海外在住の日本人も、個人
的な礼儀正しさ、親切さで、現地の人々に肯定的イメージを与
えているケースは良く聞く。

 海外に住む日本人はもちろんの事だが、国内にいて海外から
の観光客、ビジネス客、留学生などに日本人らしい親切さ、礼
儀正しさで接し、彼らに良い日本のイメージを持ってもらうこ
とは、広報外交の重要な柱であり、またその良いイメージが我
我の子孫の財産になる。こうした振る舞いを心がける人こそ、
「国際派日本人」と呼びたいものである。
(文責:伊勢雅臣)
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エルトゥールル号のこと(2)

先日、メルマガを紹介したが、今回は物語風である。
初めて読んだときもそうだったが、これは泣ける。

◇◇◇(以下、引用)◇◇◇

和歌山県の南端の大島。
そこは、黒潮が近くに接岸する。
島の東側は黒潮が当たることもある。
明治3年(1870年)に樫野崎灯台が作られ、今も断崖の上に立っている。

それは明治23年9月16日の夜の出来事だった。
台風が大島を襲った。
大波が断崖を洗い、灯台は強風にさらされた。

夜の9時頃のことだった。
操舵不能になった木造軍艦が、灯台に向かって流されてきた。
全長76mもある船が、木の葉のように波に翻弄されていた。
灯台の立つ東側岸壁の下の海は、海面にとがった岩があちこちに突き出していて”魔の船甲羅”と呼ばれる場所である。
船は、轟音ととともに真っ二つに避けて、大爆発が起こった。
乗組員は海に投げ出され、波にさらわれた。
真っ暗な荒れ狂う海で、なすすべはなかった。
運良く断崖にたたきつけられた者も、服はもぎ取られ、裸同然で全身傷だらけであった。
死にものぐるいで痛む体を引きずって、暗闇の中に唯一見える灯り、灯台の灯りに向かって40mもある断崖を登った。
その灯りだけが、生きのびる希望であった。

灯台守は、嵐の中で爆発音を聞いた。
心配になり、嵐の闇の中を断崖に向かった。
灯台守は、彼を一目見て何が起こったのかわかった。
そして、奇跡的に彼が助かったことを驚き喜んだ。
灯台の中に彼を招き入れたが、言葉は通じなかった。
そこで「万国信号音」を見せて、彼がトルコ人であることを初めて知った。
船はトルコ軍艦であり、他に多くの乗組員が海に投げ出されていることも知った。

・・・一刻も早く、他の乗組員も救助しなければいけない。だがこの人たちを救うには人手がいる・・・

灯台守は、傷ついた水兵を手当てしながらそう思った。
「樫野の人達に知らせよう!」
灯台守は、人が1人やっと通れるほどの灯りもない真っ暗な道を、一番近くの樫野の村に向かって嵐の中を走った。
樫野の村人に急を告げて、灯台に戻ると10人ほどのトルコ人がいた。
みんな全身傷だらけで、憔悴しきっていた。
死にものぐるいで、やっと断崖をよじ登ってきたのだった。

その当時、樫野には50軒ばかりの家があった。
遭難の知らせを受けた男達は、総出で岩場を降りて救出に向かった。
だんだん空が白んでくると、海面におびただしい数の船の破片と遺体。
それは、目をそむけたくなる光景であった。
遠い外国から来て嵐にあって日本で死んでいく、同じ海の男達のことを思うと村の男達は胸が張り裂けそうであった。
「一人でも多く助けたい!」
しかし、大多数は動かなかった。

「息があるぞ!」
だが、触ってみると冷たかった。
村の男達は、裸になって乗組員を抱き起こし、自らも裸になり、自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」
村の男達は、我を忘れて乗組員達を温めた。
そして次々に乗組員達の意識が戻った。


600人あまりの乗組員の内、69人が助かった。
助かった乗組員達は、樫野の小さな寺と小学校に収容された。
当時は、電気・ガス・水道は無く、電話ももちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を使っていた。

樫野の人達は、漁をして捕れた魚を対岸の串本で売って米に換える貧しい生活であった。
他には、サツマイモとミカンが採れた。
各家庭では、ニワトリを飼って非常用に備えていた。

このような貧しい村に、69人もの外国人が収容された。
村人達は「どんなことをしても助けてあげたい。」と思った。
しかし、思いとは裏腹にみるみる蓄えはなくなっていった。
台風で漁に出られないため、すぐに食糧が底をついたのだった。

「どうしよう。もう食べさせてあげるものがない」
すると、一人の婦人が言った。
「ニワトリが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・」
「おてんとうさまが守ってくださるよ」
女達は、そう言って、最後に残ったニワトリを料理した。

こうして、トルコの人達は一命を取り留めたのであった。
また村人達は、遺体を引き上げて丁重に葬った。


船の名は”エルトゥールル号”といった。
この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は直ちに医者と看護婦を派遣し、さらに礼を尽くして生存者全員を、軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還した。
この出来事は、日本中に大きな衝撃を与えた。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。


 この話には、後日談がある。

1985年、イラン・イラク戦争の時である。
サダム・フセインが
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」
と宣言した。
イランには、日本企業の派遣員やその家族が住んでいた。
彼らは、あわててテヘランの空港に向かった。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることが出来なかった。
世界各国は自国から救援機を出して救出にあたっていたが、日本政府は対応が遅れていたのである。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

万策尽きてあきらめかけた時に、2機の飛行機が空港に到着した。
そして、この2機は日本人215名全員を乗せて成田に飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。
トルコ航空の飛行機だった。


なぜ、トルコ航空の飛行機が来てくれたのか?
日本政府もマスコミも知らなかった。

前駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は、次のように語った。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学校の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
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求道者イチローの原動力(国際派日本人養成講座から)

今回は、偉大なるサムライ、イチロー選手についてです。
彼をよく知る人から聞いた話では「ホントにフツーの人と変わらない。ただものすごく礼儀を大切にする」ということでした。
今回の内容にも、そういったエピソードがありますね。

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe(616)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 求道者イチローの原動力

前人未踏の道を行くイチローを駆り立てているものは何か。

■1.「満足できるための基準はだれかに勝ったときではない」■

 9月13日、9年連続シーズン200安打のメジャー新記
録を達成したイチローは「解放された。最高ですよ」と安堵の
笑顔を見せた。

 108年前のウィリー・キーラ−が記録した8年連続を塗り
替える前人未踏の大記録だが、「人の記録を意識しながらやる
のは、気持ちのいいものではない」とも語った[1]。このコメ
ントにイチローの野球に向かう姿勢が如実に表れている。

 自分にとって、満足できるための基準は少なくともだれ
かに勝ったときではない。自分が定めたものを達成したと
きに出てくるものです。[2,p10]

 イチローの目標は、キーラーの記録を破るというような「だ
れかに勝つ」ことではない。あくまで「自分が定めたもの」が
目標なのだ。

 2004年にジョージ・シスラーの年間257安打という記録を
84年ぶりに更新した時、記者から「これからの目標は」と聞
かれた際の回答にも、この姿勢が現れている。

 野球がうまくなりたいんですよね、まだ。そういう実感
が持てたらうれしいですね。これは数字には表れづらいと
ころですけど、これはもう僕だけの楽しみというか、僕が
得る感覚ですから。ただそうやって前に進む気持ちがある
んであれば、楽しみはいくらでもありますから。ベストに
少しでも近付きたいですね。[2,p34]

 今回、イチローが「解放された」と喜んだのは、これでマス
コミの騒ぎから解放されて、自らの「ベストに少しでも近付く」
道に戻り、一人静かに楽しみながら、歩んでいけるからだろう。

■2.首位打者を狙ったら妙な打算が入る■

 打率で首位打者のタイトルを人と争うよりも、安打数にこだ
わる所に、イチローの姿勢が見てとれる。

 妙な打算が働くから、打席で雑念が入りバットを振るこ
とに悪影響を与える。[2,p123]

 というのが、その理由だ。高打率を維持しようとすると、時
にはボールを待って四球を狙おうというような「雑念」が入る。

 ノースリー以外の状況で(フォアボールを取りにいくよ
うな)そういう心理状態が表れたら、僕はその打席は負け
だと思います。[2,p138]

 また「他人の打率が落ちてくることを知らないうちに願って
いる自分なんて想像したくない」[3,p184]という理由もある。

 バッターとしての真価は、一打席でも多くピッチャーに立ち
向かい、一本でも多くのヒットを打つことだというのが、イチ
ローの姿勢である。

 イチローは日本でのプロ3年目の平成6(1994)年にレギュラ
ー選手となるとともに、日本球界初の年間200安打を打ち、
パ・リーグ新記録となる打率3割8分5厘で首位打者を獲得し
た。この時に、イチローはこう語っている。

 皆さんは打率3割8分のことを評価しますが、僕の心の
中にはまだ6割以上の打ち損じがあるという思いがありま
す。それを少しでも減らしていくのが今後の目標です。
[2,p91]

 3割8分という高打率で首位打者のタイトルをとっても、そ
れはたまたま他の打者より打率が高かったという、人と比較し
ての外的な基準に過ぎない。「ベスト」への道は果てしない。

■3.ライバルではなく同行者■

 2002年、メジャーでの2年目のシーズンの前半終了時点で、
イチローは3割5分7厘で、打率2位の位置につけていた。気
の早い日米のファンは、メジャーでの2年連続首位打者、日本
時代からの通算では9年連続首位打者間違いなしとの予想を立
てていた。

 折り返し時点のオールスターで、メジャー屈指の強打者マニ
ー・ラミレスが、ロッカールームでイチローにアドバイスを求
めてきた。「スウィングで足を踏み出すと体が投手方向に突っ
込んでしまうのはどうしたら良いのか」と聞くのである。

 大リーグにおいては大先輩のラミレスが、2年目の新参者に
アドバイスを求めてくる所に、自分と同様、真摯に野球に取り
組む姿勢をイチローは感じとった。

 イチローは「体がつっこんでも構わない。(グリップ部分の)
手が後ろに残っていればいい」と助言した。この助言を得て、
ラミレスは後半戦を3割5分4厘と打ちまくり、イチローを抜
いて、自身で初めての首位打者のタイトルを手にした。9年連
続の首位打者を逃したイチローは、後悔もせずにこう言った。

 自分がアドバイスした通りにラミレスがやって、それで
結果が出れば嬉しいじゃないですか。僕もアドバイスで言っ
たことを同じようにやってきた。自分の考えていたことが
それで正しかったということになる。[3,p20]

 ラミレスは首位打者を争うライバルではない。共に打撃の道
を極めようとする同行者なのだ。

■4.好敵手を失ったショック■

 一本でも多くの安打を打とうとするイチローにとって、好敵
手はバッターではなく、投手である。2001年の開幕戦、イチロ
ーがメジャー公式戦で初めて対戦したピッチャーが、オークラ
ンド・アスレチックスのエース、ティム・ハドソンだった。前
年のアメリカン・リーグでの最多勝投手である。そのハドソン
にイチローは3打席を完全に抑え込まれ、試合後「あんなピッ
チャー見たことない」とコメントした。

 150キロ超のストレートがよく動くムービングファースト
ボールを自在に操り、フォークボール、チェンジアップの制球
も抜群だった。打者のひざより下のゾーンにしかボールが来な
い時もある。空振り三振を狙うよりも、ゴロで打ち取るタイプ
だった。イチローが一本でも凡打を少なくしようとするのに対
し、ハドソンは一本でも多く凡打を打たせようとする、いわば
対照的な好敵手だった。

 そのハドソンは「チームの勝敗とは別の次元で、僕の技術を
上げてくれるピッチャーだった」とイチローは評価する。それ
からの4年間でハドソンとは50打席以上勝負して、2割3分
と大苦戦していた。2004年は15打数6安打で4割と、ようや
くハドソンを打てるようになってきた。

 さあ、これからという時にショッキングなニュースが舞い込
んだ。球団経営の苦しいアスレチックスがハドソンをナショナ
ル・リーグのアトランタ・ブレーブスに放出したのである。リ
ーグが違って、ハドソンとの勝負ができなくなってしまった。

 ショックでしたよ。去年(2004)のオールスターで初めて
一緒になって、コミュニケーションも少しですが取れるよ
うになっていた。これからもっとお互いを意識しながら対
戦できると思っていたのに、、、。彼のように、打者とし
ての僕の可能性を上げてくれる、という意識を持たせてく
れるピッチャーはそんなにいない。ハドソンには、技術だ
けでは対応できない、志の大きさのようなものがありまし
たから。[3,p33]

■5.「いま小さなことを多く重ねること」■

 イチローは打席に立つと、狙いを定めるようにバットをセン
ター方向に向け、左手で右袖の上をつまむ。イチローのトレー
ドマークとして、全米でもすっかり有名になった仕草である。
実は、こういう仕草にも、イチローが野球に取り組む独自の姿
勢が表れている。

 打席に入る前には、マスコットバットを大きく振り回し、上
半身と脇腹の筋肉をストレッチする。その後は股割りを左に2
回、右に2回。試合用のバットを手に取り、打席に入る直前で
一度屈伸。打席に入ると、上述のルーチンに入る。一連の決まっ
た動作を、ほぼ同じリズムで繰り返す。

 単純な一連の動きの中に自分を投ずることにより、余計なこ
とを考えず、無心の状態を作り出すためだ。高校時代、スポー
ツ心理学の専門家から集中力アップのアドバイスを受けたのが
発端で、以後、自分流の改造を積み重ねて、現在の形ができた。

 原型が完成したのは、レギュラーとして活躍を始めた平成6
(1994)年だった。

 それまでは打席でやっぱりいろいろ考えてしまった。で
も、プロに入ってからやっぱりこれではダメだ、と。ただ、
(無心の状態をつくることは)口で言うほど簡単ではない
ことですけど。[3,p113]

 イチローの目指す道は、こうした細かい工夫の積み重ねにあ
る。こういう努力の末に、シスラーの年間257安打を84年
ぶりに更新した試合の後で、イチローはこう語っている。

 いま小さなことを多く重ねることが、とんでもないとこ
ろに行くただ一つの道なんだなというふうに感じてますし。
激アツでしたね、今日は。[2,p12]

■6.バット職人への謝罪■

 イチローの細かな工夫は当然、バットにも及ぶ。長さ85セ
ンチ、重さ約900グラム。芯で確実にボールを捉えるために、
贅肉を削ぎ落とした極細形状である。

 オリックス時代2年目から使っているこのバットを作ってい
るのは、ミズノテクニクスの久保田五十一(いそかず)氏。厚
生労働省の「現代の名工100人」に選ばれている。

 久保田氏によると、プロ野球選手が使うバットはアオダモ角
材1000本から300本程度しかとれない。それがイチロー
仕様のバットになると12本くらいしかとれない、という。

「あれだけのバットを作ってもらって打てなかったら自分の責
任ですよ」とイチローは語る。[3,p130]

 2004年にマリナーズのキャンプを訪れた久保田氏は心に残る
シーンを見た。フリー打撃を終えた選手たちがそれぞれのバッ
トを芝生の上に放り投げているなか、イチローだけがバットを
クラブでそっと包み、まるで眠った赤ん坊をベッドに横たえる
ように置いていた。

 凡退してバットを地面に叩きつける打者の姿はよく見るが、
それに対して、

 打てなかったあとに道具にあたるのもあまりいい感じは
しませんね。だってバットが悪いわけじゃないんだから。
モノにあたるくらいなら自分にあたれと思います。
[2,p170]

 そう語るイチローも一度だけバットを叩きつけたことがある。
平成8(1996)年7月6日、近鉄戦で左腕・小池秀男に三振を喫
したときのことである。その後、イチローは我に返って久保田
氏宛に謝罪の手紙を書いた。久保田氏はこう語る。

 何人かの選手から、自分が手がけたバットについてお礼
を言われたことは過去にもありました。でも、バットへの
行為そのものを謝罪されたのはあの一度だけですね。
[3,p130]

■7.「監督に感謝するためにも、いい成績を残したかった」■

 これほどの細かな工夫を日々積み重ねてまで、イチローを
「ベストへの道」に駆り立てているものは何なのか。富や名誉
ならもう十二分にあるのだから、それらがいつまでもモチベー
ションになっているはずがない。

 オリックスに入団した当時、「なぜそんなに厳しいトレーニ
ングを自分に課しているのか?」と記者に聞かれて、こう答え
ている。

 僕がこんなにトレーニングをしている理由は簡単なこと
です。僕を獲ってくれたスカウトの方に失礼があってはい
けませんから、、、[2,p45]

 このスカウトとは、イチローをドラフト4位で指名した三輪
田勝利氏である。三輪田氏は入団当初もいろいろ悩んでいたイ
チローに温かい言葉をかけて励ましてくれた。三輪田氏はその
後、ドラフトをめぐるトラブルに巻き込まれて自ら命を絶ち、
今は神戸港を臨む山あいの墓地に眠っている。

 イチローは毎年のシーズンオフに三輪田氏の墓を訪れ、花束
とセブンスター、缶ビールを供える。そのたびに、「僕を獲っ
てくれたスカウトの方に失礼があってはいけませんから」とい
う思いを新たにしているのではないか。

 イチローにはもう一人の恩人がいる。当時のオリックス監督
仰木彬(おおぎあきら)氏である。仰木監督はイチローの才能を
見抜き、選手名を「鈴木」から「イチロー」として、レギュラ
ーの2番打者に抜擢した。

 僕は仰木監督によって生き返らせてもらったと思ってい
ます。監督はたとえ数試合、安打が出なくても、根気よく
使ってくれました。その監督に感謝するためにも、いい成
績を残したかった。[2,p44]

■8.「感謝の心」こそ原動力

 スポーツ心理学では、選手が感謝の心を持ち、誰かのために
一生懸命練習し、プレーすることで、とてつもないエネルギー
を発揮できることを明らかにしている。

 今年3月23日、野球世界一を決めるWBC(ワールド・ベ
ースボール・クラシック)での韓国との決勝戦。同点で迎えた
延長10回2死2、3塁で、イチローは鮮やかなヒットを放っ
て勝利を決めた。

 日本代表チームの主将に任命されたイチローは「日の丸に恥
じないように」を合い言葉とし、チーム一丸となって戦ってき
たが、イチロー自身はそれまで打率2割1分1厘と不調に苦し
んでいた。しかし最後の最後で、応援してくれている日本中の
ファンに感謝し、その期待に応えようとする気持ちが歴史的な
ヒットを生んだ。

「感謝の心」こそ、求道者イチローの原動力なのである。
(文責:伊勢雅臣)
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エルトゥールル号事件のこと(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

       エルトゥールル号事件のこと
(国民同胞平成10年3月号より転載)
占部賢志(福岡県、高校教諭)

■1.テへランに孤立した邦人■

 昭和60(1985)年3月18日の朝日新聞朝刊に「イラン上空
飛行すれば攻撃/イラクが民間機に警告」という見出しが躍った。
当時はイラン・イラク戦争(1980-1988)の真っ只中であり、長
びく戦闘にしびれを切らしたイラクのサダム・フセインは、つい
に総攻撃体制に入ったのである。

 その一環として、あろうことか、テへラン上空を航行する航空
機はいづれの国のものであろうと撃墜するという方針に出たので
ある。期限は日本時間の3月20日午後2時。

 明けて19日の朝刊トップは「邦人に動揺広がる/脱出路探し
に必死」と大書。外国航空の特別便が一部運航することにはなっ
たものの、自国民優先のため日本人ははじき出されてしまい、邦
人一行の不安におののくさまを伝えた。

 外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、 「帰る際の安
全が保障されない」として日本航空側はイラン乗り入れを断念し
たという。事態はますます深刻度を増した。同日タ刊には「テへ
ラン 邦人300人以上待機」という見出しを掲げ、現地に釘付
けとなった邦人の孤立状況が続報された。

■2.日本・トルコ関係史に無知な朝日■

 こうして、もはや万事休すと思われた土壇場、翌20日の朝刊
に「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215
人」という朗報が載った。

 何とトルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出
してくれたのである。

 まさに間一髪であった。掲載された写真には無事脱出できた子
供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。

 さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を
冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対
して朝日新聞の記事はこうである。

 すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化している
こと」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いてお
しまいなのである。

 自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには
歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知ら
ないだけである。

 無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書
くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親
愛の情を育ててきた国である。

■3.駐日トルコ大使のコラム■

 その証左として、昨(平成9)年一月の産経新聞に載った駐日
トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラムを紹介する。

 これを読むだけでも、トルコが何故日本に親愛の情を寄せるに
至ったかの消息が明らかになろう。それは日露戦争をさらに遡る
明治二十三年の出来事に端を発している。

 勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを
日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍
艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現ト
ルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初の
トルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友
好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭
い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関
係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡
した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を
受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日
本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近
の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も
幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど
歴史上重要な出来事だ。

 ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を
受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山
県沖に浮かぶ大島の村民である。

■4.島民挙げての救援活動■

 当時、通信機関も救助機関もない離島のこととて、救助は至難
を極めたという。怒涛に揉まれ、岩礁にさいなまれ、瀕死のトル
コ人達に対して、大島村民は村長沖周の指揮のもと、人肌で温め
精魂の限りを尽くして救助に当たった。

 さらには非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一
切を提供して精をつけ、彼らの生命の回復に努めたのである。

 この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずから
まとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克
明に記されている。知る人も知ろうとする人も少ないだけである。

 ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年に
は、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっ
ている。こちらの方は現在も小中高の歴史教科書に掲載されてい
て、多くの子供たちも周知の史実である。

 難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員
は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見
捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末と
なった。

 にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪
判決を下した。のち日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、3ヵ
月の禁鍋程度で賠償は一切却下。まさに不平等条約の非情さを天
下に知らしめた事件である。

 それからまもなくエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大
島の村民もノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知って
いたであろう。それでも前述のように異国の人々の救助に献身し
たのである。

■5.明治日本人のオープンマインド■

 いったいこの精神の高さはどこから来るのか。この点に関して、
トルコ大使に就任した遠山敦子氏と東京大学教授の山内昌之氏は、
こう述べている。 (中央公論社「世界の歴史」第二十巻月報)

山内: 明治時代の初等教育の普及率は大変な高さですね。小
学校の就学率は、明治30年代で90パーセントを突破します。
1891(明治24)年には非識字者は26.6パーセントでした
が、明治の最後の年になると字が読めない人の率は2.9パー
セントに低下しています。 (中略)これが明治日本の成功の
大きな理由だと思います。そして、そこにエルトゥールル号救
助の際の献身的な行為が生み出されてくる。

遠山: そのとき、救助にあたった村民たちがエルトゥールル
号の乗組員を人肌で温めて蘇生させたとか、村中の二ワトリを
かき集めてご馳走したとか、エルトゥールル号事件には、私は
大変感動しておりまして・・・。言葉は通じないけれど、1890
年にすでに日本の国民は、地方でもオープンマインドをもって
いて、いざというときには人類愛というか人間愛を発揮できた
んですね。

山内: そこに困っている人たちがいる、遭難している人たち
がいたら助ける、そこに理屈は何もない。この無償の行為に強
く心がうたれますね。やはり初等教育の普及といったことが背
景にあって、知らず知らずに人間愛が生まれてくる。これがや
はり文明というものだと思います。

 この対談で山内氏は初等教育の普及が育んだ人間愛について言
及しているが、たしかに沖村長とともに救援活動に最も功労があ
ったと言われる樫野区長の斉藤半右ヱ門は、当時樫野小学校創立
期の学務委員として初等教育確立に尽カした人物である。救援活
動の過労と心労のためか翌年死去したが、誠実な人であったとい
う。

 ただし、筆者は近代教育が与えた影響は否定しないが、むしろ
側隠の情は近代以前から地下水のごとく育まれていたと見るべき
ではないかと想像する。そうした精神的基盤があったればこそ、
わが国の近代初等教育に生命が宿ったと見る者である。

■6.「当然のことをしたまでです」■

 いずれにせよ、一世紀を経た昭和60年に身の危険をも顧みず
トルコがテへランに孤立した日本人を救出したのは、エルトゥー
ルル号事件に対する恩義を背景として培われた親日の行為だった
と見てはじめて得心がゆく。

 じつは、このエルトゥールル号事件のことを授業の教材にすべ
く、昨年七月にトルコ大使館から貴重な資料を送っていただいた。

 その際、邦人救出に対して感謝の旨を伝えると、大使は通訳を
通じて「いやぁ大したことではありません。当然のことをしたま
でですよ」とこともなげに謙遜されたが、忘れ難い言葉である。

 かくてこれらの資料のほか和歌山県の串本町や、この事件の顛
末を調査研究された和歌山県立串本高校の森修先生(故人)の遺
族の方などから送っていただいた資料をもとに、昨秋「日本・ト
ルコ関係史−エルトゥールル号事件の顛末−」と題する主題学習
にこぎつけることができた。

 今どきの高校生であっても、こうした史実に学ぶと、例えば
「明治の人々は、見ず知らずの外国人に広く優しい心で接してい
る。トルコの人も今も変わらず日本人を思っていてくれてジーン
とした」と率直な感動を示すものである。

 一方、経済援助に対する見返り行為だと憶断する朝日新聞の記
事に対して、「自分が日本人であることが恥ずかしくなった。感
謝することが大事だと思う。経済的にではなく、気持ちで恩返し
したい」と胸のうちを吐露する生徒もゐて頼もしい。

             ★★★

 歴史教育とは、闇に隠されてしまった史実をも虚心に掘り当て、
今の世に鎮魂と顕彰の記念碑を打ち立ててゆく地道な作業である。
目下、春を迎へて如何なる史実をどのように取り上げるか、思案
と勉強の最中である。

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アインシュタインの見た日本(国際派日本人養成講座548)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


     アインシュタインが日本で見たもの、それは
     人びとが慎み深く和して生きる世界だった。

■1.アインシュタインの感動■

大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。
フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。
瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た時でした。

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私はそうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。・・・


これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。


■2.「神秘のベールに包まれている国」■

アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。


山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。
それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。

私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。


当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンであった。
アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。

やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。

当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。


■3.熱狂的な歓迎■

11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で一泊。翌朝、東京に向かった。

朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。・・・

東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。


この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。

東京駅で人びとが絶叫----「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。

この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。

私の生涯に、こんあことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ愉快だ、心からうれしい。


■4.「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」■

11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。

6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。

その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。

アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な聴講態度は、何が原因だったのだろう。


■5.「外国の学者に対する尊敬の念」■

12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。

中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたためである。

外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。

嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。


「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、 世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を 体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」という伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っていたからであろう。

■6.「微笑みの背後に隠されている感情」■

日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。

われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことは できません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。

もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。

全世界の植民地化、そして1900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。


■7.「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」■

それに対して、日本人はどうか?

日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 
私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、 この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。


「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。


■8.「自然と人間は、一体化している」■

日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のためにアインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。

けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも 豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。

この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。・・・

この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。

・・・どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。


「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。


■9.アインシュタインの警告■

明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れないものであった。

また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。

たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。

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新社会人の皆さんへ(11)

<環境問題>

先日のサミットでも大きな話題であったし、またNHKが一日中特番をやるなどしてるから多くの方は多少の知識はあるだろう。

私はもう10年ほど前に、ある方にレスター・ブラウンの著書を読むことを勧められたと同時に「環境問題はこれから本当に重要になってくるよ、大変だよ」と言われたことを鮮やかに記憶している。

気付いていただきたいのは、現在これだけあちこちで宣伝されてるってことは「本当にヤバイ状態」だということである。

私も居住地域や会社の規則に従ってゴミの分別をしている。
これの不思議な点は、一度やり始めると元に戻れないこと。
たまにイベントなどで、「今日は(分別せず)一緒でいいよ」みたいなときもあるが、自分が地球に悪いことをしている後ろめたさを感じるし、最近ではスーパーマーケットで袋をもらうのも「環境に悪いよなぁ」と感じ始めている。

私が感じているように、いずれは皆さんもそういう世界に入っていくことと思う。
例えば、何かを企画するときにはどこかにエコのエッセンスを入れる。
一緒に企画した人や参加者が同じことをすれば、かなり広がっていく。
仕事であれ私生活であれ、「環境」を常に意識していただきたい。



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新社会人の皆さんへ(10)

<プロであること>

当たり前の話だが、就職すればあなたは自分で給料を稼ぎ、自分で食べていく。
職種がどうであれ、あなたはその道の「プロ」でなくてはならない。
これはプロ野球の選手でも、会社員でもまったく変わりがない。

経理担当ならば数字にミスがあってはならないし、企画担当であれば企画書に漢字の変換ミスがあってはならないし、営業担当なら顧客に質問されたことは必ず答えられるようにしなければならない。
とは言っても、最初から誰しも間違いがないわけではない。

例えば「個別の表と集計表からなるデータを作っていて、個別の表の一部の数字をを訂正した。集計表の数字も変えなくてはならなかったが、当初の数字が残っており上司にそれを指摘された」
このような連動する部分を訂正し忘れるケースは私も何度か体験している。
・以後、その出来事を心に留め、次回以降は当たり前のようにチェックを行う
・今までは集計表と個別の表を別々に作成していたが、連動するようワークシートを作り直す
こういった対応ができてこそプロである。

「自分はそそっかしいから」、「上司に作成を急がされたから」といった言い訳は最初しか通用しない。
プロである以上、その仕事でメシを食っている以上、きっちり仕事はしないといけないのである。


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新社会人の皆さんへ(9)

<余暇の過ごし方>

皆さんそれぞれ趣味があることと思う。
映画鑑賞だったり、ドライブだったり旅行だったり、釣りやギャンブルだったり。

率直に言えば、休みの日も平日もそうだが、感動・感激する日々を送っていただきたい。
・いい映画を観て感動する
・いい景色を見て感動する
・自分がスポーツなどの試合に勝って感動する
・応援するチームがいい試合をして感動する
・狙っていた大物を釣り上げて感動する

このように、人それぞれ何でもいいから、とにかく楽しく、心がいい方向に動くようなことを中心に過ごすことである。

私は20代の休みの日は、釣りと国内旅行を中心に過ごしていた。
冬の時期に、朝6時頃から磯に船で渡って夜明けの海を眺め、磯の上で弁当を食べ、仲間と冷やかしあいながら釣りに興じていた(釣れないストレスはあったかも?!)。
また、国内旅行は男女混合でワンボックスに乗り合わせて、車中泊だったりしたこともあったが、ワイワイと楽しかった。


他では、スポーツをやってきた人もそうでない人でも、社会人のクラブやサークルに入るのもいい。
仕事をし始めると運動不足になりがちなので、そこそこ体を動かせる機会があるほうが望ましい。

また、ギャンブル三昧はあまりおすすめしない。
パチンコなどは商売として成り立つから経営されているのであって、どうせ勝ち続けることが出来ない(=生涯成績で+にできない)のなら時間とお金の無駄である。
私も毎年1回か2回、親しい仲間と競馬に行くのだが、どちらかといえば遊びに行くのが目的で、たまたま内容が競馬であるという程度だ(少し言い訳がましいか)。
たとえば20年後、計画的に休みを取って海外旅行に行って世界遺産をたくさん見てきた人と、毎週末殺伐としたパチンコ店で過ごしていた人とを比較して、どちらが心に栄養を与える休暇を過ごしてきたか、それまでの人生がどうだったかを振り返ってみたとき、その差は歴然である。

仕事でもそうだが、若い時期は先入観がない分、何でもがむしゃらに出来る。
我を忘れるような時間こそ、日常から解放されている証拠なので、そういった趣味や時間の過ごし方を見つけてほしい。

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新社会人のみなさんへ(8)

<お金とのつきあい方>

○「お金を借りる」行為はよそう
今年新しく社会人になる方は、4月に初任給を受け取ることとなる。
親や、お世話になった方に感謝の気持ちを表すのもいいだろう。

現在日本では、「初任給が安く、給料もなかなか増えていかない」状況となっている。
社会に出る皆さんも、きちんとしたお金とのつきあい方を自分なりに考えておいた方がいい。
現在、ネット上ではメルマガでローンの誘いが頻繁に来るし、市中にはサラ金も数多くあるが、「ちょっと今月足りないから」「ボーナスまで」などと安易にこういった商品に手を出すのは厳禁である。

仮に、年利15%で50万円を借り入れたとしよう。
ざっと計算して、年間の利息は7.5万円なので月々の利息は1万2500円。
月々2万円入金したとしても、元本は7500円しか減らない。
1年で24万円支払っても元金は9万円しか減らない。
100万円に借り入れが増えれば、生活にまで影響を与えかねないし、月々の返済額を低くたとしても全額返済するまで気の遠くなる年月がかかる。
これだけでも、金利の付いたお金を借りることがいかに不経済であるかがわかると思う。

社会人になれば真っ先に購入を考える乗用車のローンは5%程度なのでまだマシな部類であるし、車も大切に乗ればある程度下取りの値段も付くので、これは「絶対やめろ」とは言わないが、可能であれば親や親戚に利息のいらないお金を借りて対応した方がいい。

仮に100万円を自動車ローンで借りれば利息は年5万円だが、1〜2万円で「利息分だよ」と言って何か買ってあげればそれで十分喜んでもらえると思う。
ただし、こういう場合もきちんと約束の期日は守らなければいけない。
ここで「親だから」という甘えを持つようでは社会人とは言えないし、そういった「ルーズさ」は社会に出て人付き合いをしていくうえで大いにマイナスである。


○保証人にはなるな
これは昔から言い古された言葉でもある。
現在は、正社員で信用保証が受けられれば、かなりの金額を銀行やローン会社で無担保無保証で貸してもらえる。
保証人を依頼してくるような状態の人間は、せっぱ詰まっている可能性が高い。
世話になった関係などで断れず、資産を結構失った人間を私も間近で見ている。

相手が自営業の場合は、「持ち直すから大丈夫」などという話になるが、定額収入が見込めないため倒産などした場合、逆にまったく帰ってこなくなる可能性が高い。
「家に資産があり、貸し倒れになっても影響が全くない」のなら止めはしないが、そうでなければ若い時期からこのようなリスクを犯す必要はまったくないので、これはこれで断固断るべしである。

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新社会人のみなさんへ(7)

名刺は汚してかまわない

汚すといっても、コーヒーをこぼしたり、カバンの奥につっこんでおけということではない。
私が社会人に成り立ての頃、とあるホテルの社長秘書の方(結構ご年輩)と名刺を交換した。
その方は交換するなりペンを取りだし、私の名刺にその日の日付と場所を書き込んだ。
で、「君、名刺はこうやって使うもんだ」と一言。

私も若い頃は比較的会う人も少なかったのだが、年を経るに従い会う人は増えるし、生来の顔・名前覚えの悪さに拍車がかかり大変な思いをし始めた頃に思い出したのがこの出来事。
当時は「ピカピカの名刺にものを書き込むなんて失礼?!」などと思っていたが、書き込み始めたらもう止まらない(笑)
とりあえず、日時・場所・用向きを書いておけばシチュエーションが浮かぶので、結構これが後々役に立つ。
(私の場合、書き込むのは打ち合わせとかが終わった後。翌日の場合もある)

最近は、年度途中に開催されるイベントの関係者に4月に挨拶回りをすることが多いのだが、3か月後、半年後、10か月後まで会わないというパターンがある。相手が少人数だといいのだが、5人を超えてしまうと顔すら浮かばず、ドキドキしながら空港に迎えに行かなければならない。
こういうときのために、まだやったことはないが「・・・な感じの人」とか書いておくのもありかなと考えている。
何も、当人の名刺を持って迎えに行くわけではないのだから。

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新社会人の皆さんへ(6)

<仕事の進め方>

「筋の悪い仕事は、さっさととりかかる」ことが大切である。

「筋の悪い」とは、
「回答のしようがない質問」
「前例もないし、どうすりゃいいのかわからない」
「先方の要望がメチャクチャで、どう考えてもスムーズにことが運びそうにない」
などがあげられる。

こういった内容の物は、一人で解決策を考えようとしても、ラチがあかない。
そうこうしているうちに月日が流れてしまい、結果的に期日間際になってあたふたすることになり、「早めに動いておけば、もう少しやりようがあったのに」ということになりがちだ。
それよりも、さっさと自分の考え方をまとめて、上司あるいは周囲に報告して自分のとこから放り出す方法を取る(その仕事を放り出すって意味じゃないよ!)ことがベストである。

それから
「先方との調整を何度も必要とする仕事」
も、これと同様だ。
「お互い調整が必要なのは分かっているから」
と、先方からの申し出を待っているようではいけない。
上司から見ると、会社の窓口はあなた。
スケジュールが遅れると、多少先方に責任があったとしても、結果的に
「何でさっさと調整しないんだ」
ということになる。

「先方がやってくれる、段取りをしてくれる」
という期待は最小限にして、どんどんこちらからスケジュールを決めるなど、進めて行くほうがいい。
期日が迫ってくると、選択の範囲はどんどん狭くなっていく。
仕事は先手先手でやっていこう。

また、遠方にある取引先などは、近くに行った折りに顔を出すことも忘れずに。
たまの電話では文句ばかり言う相手でも、ついでとはいえ、わざわざ立ち寄れば、ソフトな対応をしてくれる(多少のグチは聞かされることはあるが)。
ビジネスには、こうしたコミュニケーションも大事である。

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新社会人の皆さんへ(5)

<メモを取る>

取引先に行ったときや会議に出席したときには、当然メモを取るものである。私は、若い頃からメモが嫌いで・・・
というか、特に1対1で話しているときなどには、相手に退屈させてしまいそうで、また、気恥ずかしさもあったりして、なかなか取ることができなかった。

で、ある時、私の上司になった方が、それを私の弱点であり短所と見抜き、ひたすらメモを取るように指導された。
当時は、会議や打ち合わせが多く、終了後、その上司に嫌がらせのように「あの件は、先方はいつどうするって言ってたっけ」とよく尋ねられたものだった。
で、書き漏らしていると、また叱られるわけである。

そういった経験上、今ではメモを取ることの大切さを痛感している。
最近は、仕事の守備範囲が広く、話をする相手も非常に多い。
とにかく口頭だけで済ませずに、手帳、ふせん、メモ用紙、封筒の裏など、でも何でもいいので書くことにしている。
記憶から消えてしまっても、書いたものが残っていれば何とかなる。

記入するものは、会議や長い打ち合わせであればA4の大学ノート、短い打ち合わせはレベルブックという手帳を使う。
大学ノートは、縦書き(経験上こちらが速く書ける)にもできるし、メモ用紙に記入したものを貼ったりもできるので便利である。
「ICレコーダーがあるから」という意見もあるだろうが、一目で分かるメモと、探さなければいけないのと、どちらかロスが少ないのかは歴然である。
まあ、録音内容を紙に起こすのを外注して、それが帰ってくるまで待てるほど余裕があるのなら別だが。

メモは、自分が書いた内容が分かればいいのである。
走り書きの汚い字を見られても、気にする必要はない。
また、仕事の関係でよく使う単語は、短縮形を自分で考えて書くと、なおよい。


<手帳について>

ビジネスマンなら、ダイアリーは必需品である。
私は、社会人になった当初は1年使い切りの物を使用していたが、5年ほど前にシステム手帳(B7サイズ 14×9.5センチ)を購入したため、今はそちらを使っている。
革製で、値段も結構したので乗り換えにくいのと、クリヤホルダーに非常用の名刺を入れておけるし、時刻表などをコピーしてはさめるという点などを少し優位に感じている。
また、バイブルサイズも同時期に購入したが、結局あまり使ってない。
こちらをメモ取り用にすることも考えたが、やはり少々重いことと、リフィルをうまくプラスチック製のファイルなどで管理できるかどうか自信がなく、家でもっぱらネットのパスワードなどの備忘録として使用している。

使い切りがいいのか、システムがいいのかは、個人の趣味としか言いようがない。見開きの種類もそうである。あまりカバンを持たない人なら、システム手帳はまあ向かないだろう。

※後日談
19年11月以降、複数の取引先と数多く打ち合わせをするようになったので、容量を求めてバイブルサイズを使用中。
仕事専用ファイルにしているので、これはこれで使いやすい。
スケジュールもわざわざ当年用のリフィルを買わなくても、空白のものに日付を記入すれば十分使える。
当面3月あたりまでなので、月間スケジュール表については、エクセルで見やすいように作成したものを貼り付けて使っている。


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新社会人の皆さんへ(4)

<出張とおつきあいと>

先日、東京に出張していたが、この出張たるや忘れ物のオンパレードだった。
ときどき丸ごと忘れてしまう洗面用品などはきちんとチェックしたが、「パスモ・スイカ」「デジカメ」「携帯電話充電器」「携帯灰皿」などを忘れ、大いに不便を強いられた。
以前は、手帳の1ページに、「出張に持っていく品リスト」を作ってチェックしていたのに、最近慣れが出てくるとこれである。
早速、再開することにしよう。

出張の際、宿への忘れ物にも気を付けたい。
私は、ビジネスホテルに入ると、とりあえずデスクの上にある宿泊約款やらホテル内のレストランの案内を隅の方にひとまとめにする。
その後、所持品は基本的にデスクの上以外に置かないようにしている。
特にベッドボードや、クローゼットの上の段などは意識的に使わない。
これで、最近は忘れ物をすることはなくなった。
(ただし、冷蔵庫のペットボトル飲料を除く)

余談だが、昔「オバケのQ太郎」で、パパが毎朝出かける前に「サ・テ・ハ・ラ・タ・カ」と、チェックする場面があった。
「財布、定期、ハンカチ、ライター、たばこ、傘を持っているか」という琴だったと記憶している。
現在なら、これに「携帯」を加えれば使えるのではないか。


少し話を戻して、なぜ今回こんなに忘れ物が多かったかというと、「おつきあい」に尽きる。
二日連続、「今日は早く帰ろう」と思っていたところ、無理矢理次の店に引っ張って行かれたのである。
初日はなんとかマイペースに近い形であったが、二日目は「勝手に食べ物をどんどん頼んで自分は食べず、人に食べるよう強要する」かつ「勝手に次から次へ他人の酒を注文する」人につきあわされたので最悪。

「もう二度とアンタとはつきあわねえ!」と思った次第。
が、もし私が先に帰ったところで、「この人覚えてないだろうな」とも。
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新社会人の皆さんへ(3)

<書類の整理>

通常、ビジネスの世界では、自分の仕事は自分の代で終わるものではない。次々とその仕事を受け持っていく担当がいるわけである。

この4月に、新しい業務を受け持つことになり、前任者からA4表裏1枚の内容の引継書をもらった。
「始まってから2年程度の事業なので、大した分量でもないのだろう」と思い、深く考えず、簡単に説明を受けた程度だったのだが、この甘い判断(つっても当時の自分にはわかりはしないのだが)によって、私は後々イタイ思いをすることになるのである。

取引先への挨拶回りが一段落し、その業務に具体的に取り組むようになっていったわけだが、まずファイルが年度ごとに「○○関係文書」と書かれた1種類しかない。
さしあたり、そのファイルの範囲で仕事は進めていたが、どうもしっくり来ないし、不明点が多すぎる。
当初から、デスク脇のキャビネットに封筒がたくさん入っていて、私はてっきりパンフレットか何かだと思っていて、数ヶ月後、中を見て唖然。
何とこれらの封筒をファイル代わりにして、文書が入っているではないか。
しかも、封筒はテーマ別ではあるが年度区分はない。
また、最初に渡されたファイルは年度区分はされているが、テーマ別に分類はされていない。

どうしようもないので、とりあえず、この業務に関する書類を全部一度すべてドーンと積み上げた。
その後テーマ別かつ時系列に並べ直し、フラットファイルに綴じていったが、これが時間がかかることこの上ない。
まず、重複書類が多く、内容が同じなのか異なるのかを確認しないといけない。
また、時系列にするにも、日付のない書類もあるし、会議資料にも関わらず月日しか入っておらず、似通った内容の書類から年度を類推するしかなかったりもした。

やっとの思いでこれらの作業を終わらせたところ、部の共有ファイルを置く場所に、その業務のパイプ式ファイルを発見。
「ま、こちらは決裁文書だからな」と思いつつ、中を見てガチョーン!
基本的には、部内決裁を受けた書類を綴じるようになっているのだが、決裁処理分と単なる回覧分がごちゃまぜ...
しかもご丁寧に、番号インデックスと番号簿付きで、これまた作り直し。

以上が、私の体験談である。



私も、長年やっているが、文書整理はその業務にある程度精通しないとベストの方法は見つけにくいかもしれない。
1年ごとにフラットファイルに綴じていったほうがいい事業もあるし、パイプ式ファイルに前年度以降が参照できるように綴じた方がいい場合もある。
そこらは、経験で補っていくしかないが、現在の方式に疑問を持ったら変えてみるのもいいかもしれない。
やってみて「やはり元の方がよかったかな」と思えば元に戻せばいいのだから。
「何もそこまで」と考える人もいるかもしれないが、第三者が見ても分からないような書類整理しかできない人間が、第三者にうまく説明できる資料を作れるとは思えない。

例えばひとつの会議を行う場合、担当者のところには、「会議資料の案」や「資料のデータ」や「出欠連絡」など、さまざまな内容の書類が残っていくこととなる。これらの書類に「会議資料・会議録」を混ぜ込んで綴じてしまうと、どれが最終的に会議に出した資料なのかさえ、第三者には分かりづらくなる。こういった場合は「会議資料・会議録」をそっくりコピーして独立させ、別ファイルに綴じるようにしたほうがいい。

また、とりあえずお勧めするのは、「会議・出張予定専用ファイル」と「問い合わせの多い事項専用ファイル」である。
1か月以上先の予定の細かい部分など記憶する必要もないのだが、場所・時間を確認する必要が出てくる場合がある。
また、よく問い合わせのある事項を確認するのにいちいち大きいファイルを開くのも面倒だから、その部分だけコピーしてひとつのフラットファイルに一元化しておく。
細かいことだが、こういったことをしておけば、聞かれたときにすぐ答えることが可能となり、ロスを未然にカットできるのである。

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新社会人の皆さんへ(2)

今回は靴について

一般的なビジネス向けの男性の靴は、次のとおりである。

○紐あり
ストレートチップ、ウィングチップ、プレーントゥ、Uチップ

○紐なし
モンクストラップ、ローファー、スリッポン

○ブーツ系
チャッカーブーツ、サイドゴア


靴の種類は、自分のビジネスをとりまくライフスタイルに合わせたほうがいい。
会社に行けば靴を脱げるのならデザイン重視の靴でもいいし、頻繁に脱いだり履いたりするなら、ローファーを選ぶといい。
ちなみに紐の付いている革靴は、履くときには紐を結びなおすのが本当らしい。
最近は、比較的寛容な世の中になっているので、よほど華美でない限り「ちょっと、それは」とは言われないだろう。

<手入れ>
手入れについては、ブラシで汚れを落として、汚れ落としクリーム、ミンクオイルというコースが基本だが、ラナパーだけでも結構綺麗になる。
最終的にミンクオイルほど靴にいいのかどうかは分からないが...

よく雑誌に「2〜3足を履き回せ」とあるが、これは正解。
特に湿った状態で続けて履くとニオイの原因にもなる。
年中とは言わないが、夏場や雨の翌日などは履き替えたほうがよい。

<選び方>
靴のサイズも、同じ26センチ表記でも、靴により多少の差違はある。
またワイズ(E、EE、EEE)により、足入れの感じも随分違ってくる。
靴屋さんで履いて選ぶのに越したことはないが、通販で買う場合は、ワイズの大きめのものを選んだほうがよい。
ヒモ無しタイプで甲がキツイ場合は、調整がなかなか難しい。

<出張用の靴を持とう>
出張の場合は、公共交通機関利用にしろ、乗用車利用にしろ、歩行距離が普段より多くなるのは間違いない。
こんなときに、比較的フィット製が悪い底の薄いローファーなど履いていくと最悪である。
時間が余ったとき、観光地などにちょっと足を延ばす気さえ失せてしまう。

近頃は、ウオーキングも盛んなので、ウオーキング系かつビジネスにも耐えうるモデルが多数ある。
個人的には、黒の本革製ならスニーカータイプでも反則ではないと思う。
ただ、「ウオーキングビジネスシューズ」と銘打ってある靴は、「本来ビジネスタイプ路線だが歩くことを考え改良したもの(リーガルウオーカーなど)」と「本来はウオーキングシューズ路線だがビジネスユースできるものを作ったもの(ダナムなど)」の二通りがあり、専門的分野で考えると後者を選んだ方がいいのは言うまでもない。

楽に歩けるシューズのキモは、ソールである。
ウオーキングシューズでも、高価なものほどソールに安定感がある。
Dr.Martenのエアクッションソール(ワイズが広くないモデルもあるので注意)の付いた靴や、スポーツブランド系のソールがしっかりした靴を選ぼう。
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新社会人の皆さんへ(1)

これは、社会人になって20年近くなる私が、偉くもないのに、えらそうに勝手な思いを書こうと始めるものである。


<スーツ>

こいつは、社会人には切っても切れないほどのものである。
4月に入社して、「そろそろ2着目を」と思っている方も多いだろう。


○素材について
ウール(毛)、ポリエステルあたりが大半である。
好みもあるが、やはりウール100%か、ウール混のものがオススメ。
天然素材のほうが自然だと思えるからである。
特にパンツは、ポリエステルで裏地のないものは、夏場には汗で脚にくっついたりして不快である。
素材に限らず裏地がある場合でも、夏場はひざ丈のトランクスや薄手のステテコをかませば快適だ(デートのときはよせ)。
生地の汗ジミや、汚れも防止できる。


○色について
現在は、黒系が主流である。
黒・紺と暖色系(茶色・ベージュ系)と両方をもつと、ソックスなどの小物も幅を広げなければならない(気にしない人はOK)ので、どちらかに重きを置いた方がいいのではないか。
年齢によって、多少趣味も変わっていくだろうが、自分の好きなパターンを見つけてその組み合わせを中心にすればよい。
紺ブレ+パンツというパターンもあるが、以外に紺ブレに合うパンツは少ない、
いつも着るものなので、「安いから」といって、安易に手を出すのは避けるべき。


○ダブル・シングルについて
上着がよほどふざけたデザインでなければ、ダブルでも問題ないと思うが、結構飽きる。
パンツの裾は、どちらでもよい。好みの問題。


○夏用・冬用について
夏用のスーツの特徴としては、
・生地が薄い(背中が若干透ける)
・背抜き(背中の下から4分の3部分に裏地がない)
などがあげられる。
クールビズ隆盛の昨今だが、どうしても夏場スーツが必要な仕事の場合は、とにかく涼しいモノを選ぼう。

背抜きでも生地の厚いモノもあるので、これは合物と考えるべきである。
たまに、夏用として、腕の部分の裏地がないモノもあるが、テレっとなってしまうのでカッターシャツとは合わないので注意。

現在は、どこでも暖房が完備されており、真冬用としての厚手のスーツは、寒い地域でない限り、あまり必要ないと思う。


○サイズについて
最初に言っておくが、既製品でジャストサイズのスーツ、カッターシャツなどあり得ない
98A7とか、100AB7といったサイズは、一定のありがちな体型のモノを売っているだけなのであって、きちんと着たいのであれば、オーダーメイドするか、既製品に手を加えるしかない。

購入時に、パンツの裾はカットするが、それと同様に袖丈のカットも必要である。
もともとは、カッターシャツの袖が少しのぞくくらいが適当なのであって、社会人の大半は、長めなのが現実なのである。
お直し代はかかるが、購入店で適当な長さに直してもらうか、かけつぎや補正をやっている店(行きつけを作れば便利)で直してもらおう。
上着の場合、袖丈以外はシルエットが崩れるので、補正することはまずない。

人によって、右手・左手の長さが数センチが違うこともある。
カッターシャツも、スーツ同様、袖丈が合わない場合、特に人前に出るときはアームベルトなどで補正しよう。

また、袖丈が長いコートなどもこの方法で着やすくなる。
コートの場合は、少しスーツより長めでもよい。


○サイズについて
通販やオークションを利用する場合は、自分の今着ているスーツのサイズと徹底的に比較しよう。
上 着・・・肩幅、袖丈、着丈、袖丈
パンツ・・・ウエスト、わたり、股下(折り返し部分含む)

特に、中古のオーダー品は、細かいところまで手が入っているので、合わないパターンもあるので注意。

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