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中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ小史(下)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■




 朝日は、中国の国内代弁者としてモンスター国家の成長に一役買った。


■1.「国外追放になる記事はあえて書く必要はない」

 ソ連崩壊後、朝日新聞は代弁の依頼元を中国に乗り換える。その伏線が昭和42(1967)年の親中派・広岡知男氏の社長就任だった。

 昭和39(1964)年に日中記者交換協定が締結され、日中双方が8人ずつの記者を相手国に常駐させるようになった。しかし、日本側の記者が、次々と「反中国報道」を行ったなどの理由で国外追放になり、1970(昭和45)年には朝日の秋岡家栄・特派員のみが北京に留まっていた。

 広岡社長は他紙からの批判をものともせず「こう書けば国外追放になるという記事はあえて書く必要はない」と秋岡特派員に指示していた。秋岡特派員はこの指示を忠実に実行した。たとえば1971(昭和46)年9月に中国共産党副主席だった林彪がクーデターに失敗して、ソ連に向かって飛行機で脱出する途中、モンゴルで墜落死した。

 この年の国慶節パレードが突然、中止されたため、重大な事件が起こったのではないか、という観測が世界に広まったが、秋岡特派員は「北京の様子はまったく平静」などと否定した。

 日本の各紙が林彪失脚を記事にする中で、朝日だけが現地からの否定記事を送り続けた。朝日が「林彪すでに死亡」と報じたのは、翌年7月に毛沢東がそれを認めた後だった。[a]


■2.文化大革命は「世紀に挑む実験」

 この頃、中国では10年余におよぶ「文化大革命」が吹き荒れていた。その始まりは1966(昭和41)年だったが、同年5月2日付け社説では、中ソ対立を機に、中国がソ連とは別の道を歩み始めていた事を踏まえて、次のような期待感を表明した。

__________
 そこには、いわば「道徳国家」ともいうべきものを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする「世紀に挑む実験」といった意欲も感じられなくはないのである。[1,p185]
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 しかし、この期待感は、紅衛兵たちの蛮行によってすぐに裏切られる。「紅衛兵」の腕章をつけた少年少女が北京市内にあふれ、大人を「私は革命に反対した」というプラカードを持たせて、市中を引き回したりした[b,c]。朝日はこの暴走を「理性的配慮を欠いている」などと批判しつつも、こんな強弁で弁護した。

__________
 スターリンは、反対者をおさえるのに血の粛清をもってした。中国では、こんどはもちろん、以前にもそれがほとんどなかったことは、大きな進歩である。・・・中国が人間改造という途方もない大事業に乗出した意義と影響を、冷静に見守る必要があろう。{1,p187]
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■3.「日本軍国主義復活」

 広岡社長は昭和45(1970)年3月から1ヶ月近くも、日中両政府の「覚書貿易交渉」の日本代表にくっついて、中国に滞在した。なんとか日中国交回復を実現させたい、という思いからであった。

 後に回想録で「現役社長が、株主総会もすっぽかして1ヶ月も中国に滞在していて、いったい何をしていたんだと社員からも、世間からも責められる破目になった」と自慢げに書いているが、明らかに新聞社社長としての立場を逸脱した入れ込みようであった。

 しかし、広岡社長が夢見ていた周恩来首相との単独会見は叶わず、日本代表団に混じっての集団会見参加しか許されなかった。その会見記事には周恩来首相の発言しか掲載されていない。これでは平特派員とかわらず「何をしていたんだ」という批判も当然である。

 その周恩来は佐藤栄作・自民党政権の沖縄返還、日米同盟堅持、防衛力強化を「日本軍国主義復活」と批判し、朝日はその発言を紹介した上で、さらに社説でこう述べた。

__________
「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力となっている」とか「沖縄の返還は全くのペテンだ」と中国側は主張した。・・・ われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。だが「復活」の危険な情勢にあることは、・・・認めざるを得ないと思う。[1,p170]
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■4.「安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を」

 おりしも、70年安保改定が進められていた。日米安保条約の自動延長が決まった同年6月23日付け社説はここまで述べている。

__________
 日中関係の正常化こそ、わが国の恒久的な安全保障の条件なのであり、“選択の70年代”の課題は、対米関係の調整に立った安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を並行して進めてゆくことである。[1,p173]
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 以後、朝日は「日中関係正常化」に邁進するが、それは「日米安保の解消」とセットになった進路であった。自主防衛力強化にも反対しており、それは中国の属国になる道に他ならない。

 広岡社長は帰国後、「日中友好」に血道を上げる。昭和46(1971)年4月には日中親善卓球大会を後援し、中国出土文物展を開催、47年の上海バレエ団公演では資金集め等、すべての実務を担当した。

 それ以前、日本国民にとって中国は「得体の知れない不気味な国」だった。昭和45(1970)年5月時点の時事通信社による世論調査では、中国を「好き」と答えた人はわずか2.5%であり、対中貿易は日本の貿易総額のわずか2%しかなかった。朝日の「奮闘」がなければ、その後の「日中国交正常化」そのものが不可能だったかも知れない。[d]


■5.朝日が始めた「南京大虐殺」キャンペーン

 中国の「日本軍国主義」批判に呼応して、朝日はその援護射撃をするかのように、自虐史観の宣伝を始めた。昭和46(1971)年8月26日夕刊から連載を開始した、本多勝一記者による「中国の旅」である。

 その中には「百人斬り競争」の記事がある。南京戦で、二人の日本兵がどちらが先に100人の中国人を殺せるか競争した、という戦中の東京日日新聞(毎日新聞の前身)の虚構の戦意高揚記事を、「日本軍の残虐行為」という視点で、書き直したものだ。

 後に山本七平氏が、日本刀で3人も斬れば使い物にならなくなり、ましてや「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、木刀でマキを切れないように物理的に不可能な点を指摘した。[e]

「中国の旅」の虚報に対して、様々な識者から批判されたが、本多記者は「中国で聞いた話を記事にしただけで、文句があるなら、中国側に言え」と突っぱねた。聞いた話が事実かどうか確認してから記事にするという基本も無視して、日本軍の「残虐行為」だけを書き散らした、まさにプロパガンダそのものである。

 ここから日本軍が南京で30万人規模の虐殺をしたという「南京大虐殺」のキャンペーンを、中国と朝日や日教組などの国内左翼勢力が連携して行い、日本人に中国に対する贖罪意識を持たせ、その上で「日中国交正常化」を中国ペースで進めた。

 林彪事件や文化大革命のように中国に都合の悪い事実は書かず、中国側の主張を繰り返し、「日中友好行事」に邁進すつつ、日本国民に虚構の「南京大虐殺」を刷り込んで贖罪意識を持たせる。中国にとって、朝日は日本国内における理想的な「工作機関」だった。


■6.日清戦争以来の中国侵略と「反共の障壁」を自省せよ

 昭和47(1972)年2月、親米・親台湾を信条とする佐藤栄作政権が末期を迎えると、周恩来は「日本軍国主義批判」をぴたりとやめ、次期首相と目される田中角栄を中国に招待した。

 首相となった田中角栄は、マスコミに「今太閤」と持て囃されるなか、内閣発足3ヶ月足らずのうちに、中国を電撃訪問し、「日中国交正常化」を謳い上げた共同声明を発表する。[d]

 これを朝日新聞は、広岡社長による「日中正常化と日本の進路」と題した論説を1面トップに掲げて、こう述べた。

__________
 去る9月25日、北京の人民公会堂で開かれた日本代表団の歓迎夕食会において、周恩来首相があいさつの中で「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」とのべて、日本の侵攻の起点を日清戦争としていることは、見逃してならぬ点であろう。・・・

明治維新によって、先進国の技術を取り入れ、近代国家に頭を突っこんだ日本が、富国強兵政策によって起こした中国との衝突が日清戦争であった。それ以降の日本人の頭の中には、侵略される側の犠牲を考える意識はなくなり、戦いに勝ち、国を取ったことによる国民の士気高揚のみが残った。[1,p173]
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 日清戦争まで日本の「侵略」とするのは、まさに中国側に立った特異な史観である。さらに同日の社説「共同声明の歴史的重み」は、こう述べた。

__________
 新しい日中関係の歴史は、戦前にさかのぼるわが国の中国侵略と、反共の障壁をかまえてきた戦後の外交政策に対する深い自省を起点とすることによって、初めて開かれる。[1,p174]
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「反共の障壁」とは、日本がアメリカと同盟を組み、西側陣営に属してきたことを指す。戦後のわが国は、日米同盟によって平和が保たれ、自由主義経済、貿易によって、奇跡的な復興を遂げた。それを「自省」し、文化大革命や大躍進政策で、数千万の犠牲を出し、経済も疲弊していた中国と共なる道を歩むべしと、朝日は説くのである。


■7.教科書検定の誤報

 宿願の「日中国交正常化」を果たした後も、朝日は中国の代弁者として忠勤に励む。中国は日本国民に贖罪意識を持たせつつ、それをテコとして賠償金がわりに経済援助を引き出す戦術をとった。そのためには日本国民の自虐史観を維持することが必要だった。

 昭和57(1982)年6月26日、朝日は一面トップで「教科書さらに『戦前』復帰へ」「文部省 高校社会中心に検定強化」「『侵略』表現薄める/古代の天皇にも敬語」と大々的に報道した。


 各紙で一斉に同様な報道がなされた事から、ある共通の情報元からの意図的なプロパガンダがなされたのだろう。特にこの年、9月に鈴木善幸首相が日中友好10周年記念行事で訪中を予定していたので、それに狙いを定めたようだ。

 朝日記事は、検定前と検定後の違いを一覧表にして、「日本軍が華北を侵略すると・・・」を「進出すると」、「中国への全面侵略・・・」を「全面侵攻」に訂正された、と指摘したのである。

 この報道を踏まえて、中国政府は日本側に正式抗議してきた。朝日の挙げた「華北侵略」の例をそのまま使っており、その報道に依拠したものであることは明白であった。

 その後、「侵略」を「進出」に書き換えた事実はなかった事が明らかになったが、朝日はわずか15行の「誤報訂正記事」を出しただけで、逆に「『侵略』抑制、30年代から一貫」と題する9段抜きの長文記事を出したりして、問題を煽り続けた。[f]

 この事件が外国政府が日本の教科書に口出しをする悪しき前例となり、教科書検定に「近隣諸国に配慮する」という「近隣諸国条項」が盛り込まれ、わが国の歴史教科書は自虐史観の度を強めていく。

 さらに、この傾向に歯止めをかけようと執筆された「新しい歴史教科書をつくる会」による『新しい歴史教科書』に対しても、朝日は「「中韓懸念の『つくる会』教科書」「中韓など反発必至」などと大々的な非難キャンペーンを行い、これに呼応するように中国政府が抗議をしてきた。中国とその代弁者・朝日は息のあった連携を見せ続ける。[g]


■8.朝日が貢献したモンスター国家の成長

 また中国は首相の靖国参拝については、まったく問題にしていなかったのに、昭和60(1985)年8月15日の中曽根首相の参拝に突然、非難の声をあげた。これは親日派・胡耀邦をターゲットにした共産党長老たちの権力闘争が背景にあったと考えられるが、以後、朝日は靖国参拝に関しても、執拗な日本政府攻撃を続けて「軍国主義批判」を援護射撃する。[h]

 権力闘争の末に天安門事件が起こり[i]、国際的な経済制裁を受けると、中国は天皇訪中をきっかけにした日本の制裁解除を目論み、朝日もこれを後押しして、実現させた。[j]

 こうして中国は共産党独裁体制を温存したまま、経済・軍事大国化し、わが国のみならず台湾、フィリピン、ベトナムなどの周辺諸国に軍事的な圧力をかけている。このモンスター国家を育てた大きな要因は、日本の経済援助と日本企業進出である。

 朝日に代表される親中マスコミがプロパガンダ報道ではなく、大躍進、文化大革命、天安門事件、さらにはチベットやウイグルでの蛮行を正確に伝えていたら、国民も警戒して、対中援助もこれほどには行われず、日本企業の進出ももっと抑制的となり、天安門以降の経済制裁も長期化していたろう。

 わが国は中国の巧みな外交戦略に乗せられてきたのであり、それは朝日という国内代弁者がいなければ成功しなかった。仮に国内代弁者なく、中国政府だけが同様の主張をしてきたとしたら、日本国民はかくも見事に騙されなかったろう。

 今後、このような過ちを避けるためには、わが国のマスコミが外国政府の代弁者ではなく、正確に事実を報道しつつ、日本国民のための言論活動をする、という本来の報道機関に戻ることが不可欠である。

(文責:伊勢雅臣)
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