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願わくば

昨日日曜日は、某酒場の関係者恒例の花見だったのだが、土日は風邪とも花粉症ともつかない状態で、果てしない頭痛とそれ相応の症状に悩まされ、行くことがかなわなかった。

例年、遅い日の設定で、あちこちから文句を言われ、今年は一週間早めた結果、絶頂期だったようであるから、なおさら口惜しかった。


まあ、今日の情報によると、過日の酒席で
「さっき、私のこと触ったよね」
「は? 触ってないよ」
「絶対触ったってば、何考えてんの!」
みたいなやりとりをした女性が、同じ会場に別組で来てたようであるから、神様が行かせなかったのだと好意的に解釈することにした。

ここで一句
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
宴席の主催者が好んでいる西行の歌である。


草野マサムネのダウンをチケットを買ってる周囲の連中も。そろそろ心配している。

同じパンクルーツの同級生世代として、今の年齢で個人的に置かれている環境のキツさは理解できる。
「揺るがないベースはあるんだけれども、じゃあ何なんだ」みたいな。

個人的に好きな曲は、「空も飛べるはず」「ロビンソン」「チェリー」「スターゲイザー」の4曲。

こと「スターゲイザー」は、TV番組の主題歌だったから、軽く見られがちだけど、本物だよ。羊にとってはね。

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機雷除去に命をかけた男たち(下)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

機雷除去に命をかけた男たち(下)

■1.「北朝鮮海域に海保の掃海隊を出してほしい」

 海上保安庁の初代長官・大久保武雄が日本橋兜町にあった極東海軍司令部に呼び出されたのは、昭和25(1950)年10月2日のことだった。参謀副長アーレイ・バーク少将は大久保にこう言った。

「元山上陸作戦のために、北朝鮮が敷設した元山港の機雷を除去したい。海保の掃海隊を出してほしい」[2]

 大久保は絶句した。海上保安庁の掃海部隊は、国内の港湾、航路の掃海に大きな成果をあげていたが、朝鮮戦争が行われている海域での掃海は戦争行為そのものであり、米国が押しつけたばかりの新憲法に抵触する。

 この時、朝鮮戦争は大きな山場に差し掛かっていた。4月に北朝鮮軍が大規模な奇襲攻撃を仕掛けて、国連軍は朝鮮半島南端に追い詰められたが、総司令官マッカーサーの仁川上陸作戦により北朝鮮軍を挟み撃ちにして、戦局を挽回した。

 マッカーサーはさらに日本海側の元山に上陸し、朝鮮半島の最も細いくびれた地帯を東西から分断し、北朝鮮軍を袋のネズミとして殲滅しようという作戦に出た。しかし北朝鮮は沿岸にソ連製機雷を大量に敷設しており、それらの除去が不可欠だった。

 しかし国連軍で掃海作業にあたっていたのは、わずか数隻の、それも経験に乏しい掃海艇のみで、上陸作戦を行うにはどうしても熟達した日本の掃海部隊の助けを借りるしかなかったのである。


■2.「極秘でやってくれ」

 新憲法を盾に「掃海部隊派遣は困難」と回答した大久保長官に対して、バーク少将は「掃海艇がなければ国連軍が敗北するかもしれない。それは日本に不幸な結果をもたらす」と脅した。

 大久保長官は事の重大さに、とても一人で決められる問題ではないと、ただちに吉田首相を訪ねて、指示を仰いだ。おりしも、講和条約の締結に向けた交渉が進んでいた時期であり、独立を待望していた我が国にとって、掃海艇派遣拒否はどう考えても得策ではなかった。

「それは困ったな。米国と講和条約の交渉に入ったばかりだから、(掃海を断って講和の)チャンスを逃すわけにはいかない。しかし、やれば国内的に問題になる…極秘でやってくれ」と吉田は答えた。

 その日の真夜中、「直ちに出港準備をなせ!」との命令が各地の掃海隊に下された。1時間ほどすると、各艇から次々に「出港準備完了!」の連絡が返ってきた。有事即応の海軍精神が生きていた。掃海隊は任務地は教えられないまま、下関港での集結を命じられた。


■3.「大義」は?

 神戸、舞鶴、大湊、呉、門司などから次々に掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻が下関港に集結した。全船艇の指揮官、艇長が集められ、航路啓開本部長の田村久三が任務を語った。米軍からの命令で、朝鮮水域での掃海にあたって貰う、という内容だった。

 重苦しい沈黙が続いた。今まで国内での掃海に取り組んできたが、それには「国家再建のため」という大義があった。つらい危険な作業だったが、それは戦後の窮乏に苦しむ国民を救うために、誰かがしなければならない仕事だった。

 海軍軍人として一度は捨てた命を、もう一度、国家、国民のために捧げることは厭わない。しかし、今回は「祖国のため」とか「愛する人のため」ではなく、ただ「占領軍の命令」なのだ。

 重い空気を破って質問が出た。「行き先は? 大義名分は? 命令権者は誰か? 米軍の指揮下に入った場合の我々の身分は? 万一のことが起きた時の補償や手当は?」

 それから3時間も堂々巡りの議論が続き、「北緯38度線以南の戦闘の行われていない港湾の掃海とする」などの事項が、この場で定められた。しかし、掃海部隊の内々の決め事を米軍が守ってくれるという保障などどこにもなかった。


■4.「今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」

 各艇長を通じて、乗員全員に任務の説明がなされ、「下船したい者があれば申し出るように」と伝えられたが、2名を除いて、全員が了解した。

 朝鮮へ出動すると知った家族は各地から下関に駆けつけた。岸壁に横付けされている船から夫を捜し出して、「朝鮮には行かないで頂戴! 掃海隊を辞めてうちに帰ってください!」と涙ながらに訴える妻がいた。また夫の胸にすがりついて「日本の戦争は終わったのに、今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」と必死に引き止める妻。隊員たちも必死に家族を説得したに違いない。

 10月7日、第一掃海隊5隻、116名が下関を出港。翌朝には総指揮艦艇「ゆうちどり」を先頭とした第2掃海隊7隻が続いた。

 米軍の命令で、船名も消され、日の丸を掲げることも許されなかった。夜になっても、灯火はいっさいつけず、暗夜の無灯航行を続けた。

 途中で、米海軍の駆逐艦数隻が現れ、掃海部隊の左右両側を護衛するように航行した。目的地は「元山」、「隊内においても、日本に向けても無線は封止」「本艦に続行せよ」との指令が下された。

 第2掃海隊指揮官の能勢省吾は、こう記している。[1,p128]

__________
 10月10日、夜が明けてみるとついに元山沖付近まで来ていたのである。遙か沖合の方に米第7艦隊らしい戦艦、航空母艦等がずらりとならんでいるのが沖合い遠くに見える。我々の行く処は朝鮮東岸の元山沖であったのかと、はじめて皆はびっくりしたのであった。・・・

 これこそ第7艦隊の主力ではないか。元山でこんな大部隊を動かすような大作戦が計画されていたのかと思って私は驚いた。
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 湾口近くにいる駆逐艦数隻は、陸上への砲撃を行っていて、戦場に来たのだということを、誰しもが感じた。


■5.米掃海艇2隻沈没

 米艦から燃料、水、食糧の補給を受け、12日、早朝から掃海作業を始めた。能勢は米軍の4隻の掃海艇を見て目を疑った。全て鋼の船体で、これでは磁気機雷にかかればひとたまりもない。実はそれ以外の掃海艇はすべて米本土に帰されていたのだ。

 しかし、その米掃海艇は恐れを知らないかのように、先頭に立って、湾口をめざす。

__________
 先頭艦が湾口にさしかかった時である。「ドーン!」という大音響とともに、先頭艦AM275が水煙に覆われた。「やられた! 触雷だ!」艦橋に居合わせたもの皆一様に、声もなく、見つめた。[1,p131]
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 水柱は10〜15秒で消え、同艇は船首を下に、急速に沈下しつつあった。3分ほどで、最後のマストまで見えなくなった。

 その時、「ズドーン!」とけたたましい音が耳をつんざいた。湾口南側の島から敵の攻撃が始まったのである。米2番艇は、沈没した1番艇の乗員を救助しながら、艦載砲で反撃する。

 しかし、その2番艇も触雷し、「ドーン!」という大音響とともに水柱と煙につつまれ、見る間に横倒しになって、一瞬のうちに沈んでしまった。

 3番艇、4番艇も砲撃しつつ、救助作業を行う。日本の掃海艇はただ見守ることしかできなかった。しばらくすると「掃海を中止し、泊地に撤退せよ」との命令が下された。結局、この日、2隻の掃海艇が失われ、戦死者13名、負傷者92名の被害が出た。


■6.行方不明1名

 その後、沖合から湾口の島々に、米戦艦、巡洋艦、駆逐艦から、まる一晩、艦砲射撃が行われた。これだけ撃ち込まれたら、北朝鮮の砲撃部隊も壊滅しているだろうと思われた。その後、掃海作業が連日、続けられた。

 17日午後3時半、「ドーン!」と足元から突き上げるような大音響が起こった。煙が消えると、日本の掃海艇の一隻が、すでにマストと艦橋部分を残して水没しているのが見えた。能勢は「掃海中止、掃海索を揚げ救助せよ!」と各艇に指示した。

 しかし、各艇は掃海索の揚収にもたついている。また周辺は機雷の海で、下手に動けば同じように触雷するかもしれない。歯噛みをしていると、米艦が救助に全力で急行するのが見えた。日本艇の沈没を見て、自らの危険を顧みずに救助に向かうその姿は、日本の掃海部隊員の心を打った。

 30分ほどして、米艦から24名を救出、うち重傷3名、軽傷5名との連絡を受けた。1名、中谷坂太郎が行方不明のままであった。

 油に覆われた海面から助け出された隊員たちは、入浴が許され、新しい衣服が支給された。北朝鮮の海は10月にはもう冷たく、米艦上でも震えが止まらなかったが、暖かい飲み物を配られて、少し落ち着いた。米兵の真心のこもった親切さが身にしみた。

 救助された隊員たちは、翌々日には佐世保に送られ、負傷者は病院へ、元気な者は旅館に収容された。久しぶりの畳の上の生活だったが、皆もう一度、元山に戻って、残してきた仲間を助けたいと思った。

 なかでも、石井艇長は「俺は中谷の遺体を見ていない、まだ生きて、助けを待っているかもしれないじゃないか」と、どうしも戻ると言って聞かず、結局、その後、再び、元山に赴いている。


■7.国事に殉じた一青年

 行方不明となった中谷坂太郎は厨房員だった。触雷沈没した17日は、掃海作業が一段落し、元山に上陸できそうなので、「ごちそうを作らないとな」と、張り切っていたという。そして、触雷の直前に、後部の船倉に降りていく姿があった。船倉にいたとしたら、触雷爆発ではひとたまりもない。

 事故から一週間後、坂太郎の両親の元に米軍大佐が通訳と一緒に訪れて、訃報を告げたが、その際、「瀬戸内海で死んだことにして欲しい」と言った。憲法9条とのからみもあり、国際問題になる事を避けるため、と説明された。

 父親の力三郎はかつての陸軍近衛兵であり、それが国のためになるのなら、と黙って米軍大佐の申し出を受け入れた。27日、呉海上保安部にて、海上保安庁葬が営まれ、同艇の乗組員たちも参列したが、彼らが朝鮮で掃海作業に従事していたことは、厳重に口止めされていた。

 失意のためか、母親のハナはその後間もなく亡くなり、半年後、父の力三郎も後を追うように息を引き取った。

 当時、海上保安庁長官だった大久保武雄のその後の奔走により、30年近く後の昭和54(1979)年、亡くなった坂太郎に「戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章」が授与された。大久保は、国事に殉じた一青年を国家として慰霊・顕彰していないことの責任を30年にわたって背負い続け、ようやくせめてもの叙勲にこぎ着けたのだった。

 これを機に、坂太郎の兄・藤市は、靖国神社に弟の合祀を申請した。国のために「戦死」したのだから、靖国神社に祀られることこそ坂太郎の本懐であろう、と考えたのである。靖国神社としても、できることなら合祀したいと考えたが、「朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外となっている」とのことで、いまだ実現していない。


■8.日本の独立を早めた掃海部隊の貢献

 犠牲者まで出た触雷事故に、一部の掃海艇長から「38度線以北には行かない」などと内輪で取り決めていた事項が守られていない事に関する不満が一気に噴き出した。それをなだめるべく、より安全な掃海方法への変更を米軍に提案したが、米軍は遅れている元山上陸作戦を早く実行するために「予定通り掃海を実行せよ」と聞き入れない。

 これに憤って3隻の掃海艇が任務を降りて、内地に引き返した。しかし、入れ替わりに日本から直ちに5隻の掃海艇が新たに増派されて、掃海作業を続けた。

 世界最強の米艦隊は3千個の機雷に行く手を阻まれ、日本の掃海部隊が掃海を完了するまで、じっと待っていなければならなかった。10月26日、掃海を終えて、ようやく米軍による元山上陸が実行に移された。

 一度、日本の部隊によって掃海された海域は、やり直しの必要はなかった。国連軍の他の国による掃海は、そうはならなかったことから、日本掃海部隊の実力と貢献は高く評価された。

 元山以外にも、仁川、群山など各地の港湾、航路の掃海が、日本の部隊によって行われた。冬の日本海の高波、強風、そして雪の舞う中を、掃海隊員たちは一日中、甲板で黙々と掃海作業に従事した。その姿と確実な掃海ぶりは、国連軍の信頼を集めた。

 延べ46隻、1200名以上の隊員が参加した特別掃海隊は12月15日に任務を終えた。米極東海軍司令官ジョイ中将からは、米海軍の最大級の賛辞”Well Done”が贈られた。

 翌昭和26(1951)年3月31日、米国から対日講和条約草案が示されたが、それは外務省が予想したよりも遙かに日本に有利なものであった。日本に掃海艇派遣を要請したバーク少将は大久保長官にこう語っている。[1,p202]

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 海上保安庁掃海部隊が朝鮮半島で国連軍を援助したことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の気運をぐっと早める効果をもたらしたと思う。
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(文責:伊勢雅臣)

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機雷除去に命をかけた男たち(上) (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

機雷除去に命をかけた男たち(上)

■1.「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」

 3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。

「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」

 東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。

 ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟である。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。

 桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』[1]で見事に描いた掃海部隊員たちの姿がそれである。終戦後、機雷に閉ざされた日本の港を開くべく命をかけて掃海作業にあたってきた部隊員たちの活動をたどって、被災地で頑張る自衛隊員の皆さんへの応援としたい。


■2.「対日飢餓作戦」

 先の大戦末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2千個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦だった。

 終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。

 米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。[1,p11]

__________
 機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと一年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7千万の1割にあたる7百万人が餓死したに違いない。
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 海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。

 終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。

 日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかった。


■3.「我々掃海隊員に課せられた責務」

 終戦直後に、占領軍は帝国陸海軍を解体させたが、機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、すべての機雷の速やかな除去を命じた。

 戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊はそのまま危険な除去作業を続けることになった。ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いであった。

 徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。[1,p22]

__________
 諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。
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 こうして戦後の掃海作業が始まった。装備は、海防艦約20隻、徴用漁船その他約300隻余、そして人員は1万名余りであった。


■4.機雷除去作業

 一口に機雷といっても、様々な種類がある。形態として海底に沈んだ重しからワイヤーで結ばれて海中に浮かんでいる「係維機雷」と、海底に沈んでいる「沈底式機雷」がある。

「係緯機雷」は、2隻の掃海艇が平行して走りながら、掃海索(ワイヤー)を曳航して、それによって機雷と重しとの間のワイヤーを切断し、浮き上がった機雷を銃撃して爆発させる。

 このタイプは、帝国海軍が防衛のために自ら敷設したものが主で、敷設した場所も分かっているだろうし、処理も単純なので、約1年で除去完了となっている。厄介なのは、主に米軍がばらまいた「沈底式」である。

 沈底式には、艦船の発する磁気に感応するタイプが3種類、音響に感応するタイプ2種類、加えて磁気と水圧の変化の複合型と7種類もあった。

 磁気に感応するタイプに対しては、自身では磁気を発生させない木造の掃海艇2隻が掃海電線を曳航し、それに電流を流して磁気を発生させて爆発させる。

 さらに、感応9回目ではじめて爆発するような設定になっていたりする。すると、1000メートルの航路を掃海するためには、100メートルずつの幅に分け、各幅を9回、合計90回の曳航を繰り返す。

 しかもレーダーがない当時は、2分ごとに自分の目で3角測量という方法で測定するしかない。測量を間違えれば、掃海していない空白部分ができ、そこに機雷があれば、大事故につながるのである。


■5.名誉の戦死者でも、戦没者でもなく

 掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者2百名の被害が出ている。

 昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。[1,p75]

__________
 午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。

 殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。彼らの葬儀は表向きにできなかった。というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。

 おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。

 したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。


■6.「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」

 しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。[a]

 しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。

 15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。

 お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。[1,p80]

__________
 高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、・・・隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。

「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」

「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。
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■7.荒れ海の登舷礼

 昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)であった。

 海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊32隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。

 海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。
__________
 私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。

 ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。[1,p81]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。

 荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。

__________
・・・乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。[1,p82]
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 国のため、国民のために、危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。


■8.「掃海殉職者顕彰碑」

 昭和27(1952)年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、港湾都市からは歓呼の声があがった。この「安全宣言」による経済効果は絶大で、復興を大きく後押しすることになった。

 なお、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。

 同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。

 世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、我が国の伝統なのである。

(文責:伊勢雅臣)
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