注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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「絶対にゆるまないネジ」はいかに生まれたか
「利他の精神」で諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる。
■1.東京スカイツリーに使われている「絶対にゆるまないネジ」
高さ世界一の電波塔「スカイツリー」が5月22日に開業する。高さ634メートルは「武蔵の国」のムサシの語呂合わせだという。
その最先端の技術の中に「和の伝統」がちりばめられている。中心に直径8メートルの「心柱(しんばしら)」が建ち、地震の揺れを低減する構造は、法隆寺の五重塔などと同じだ。
地表部分の断面は三角形だが、上に行くにしたがって徐々に円形になっていくので、側面は場所によって、反っている部分と、ふくらんでいる部分が見える。反りは日本刀の刀身の美しさである。ふくらみは、古い神社仏閣の柱で「起(むく)り」と呼ばれる、少し膨らませて柔らかな印象を与えるデザインである。
もう一つ、使われているのが「絶対にゆるまないネジ」。東大阪市の中小企業・ハードロック工業株式会社の社長・若林克彦さんが、神社の鳥居で見たクサビからヒントを得て、開発した商品である。
ネジは、ねじ込まれたボルトが元に戻ろうする力で、かならず緩むものである。そのために定期的に点検し、「増し締め」しなければならない。高い鉄塔での増し締めは危険だが、それを怠るとネジが緩んで倒壊の危険を招く。
そんな場所では「絶対にゆるまないネジ」は貴重である。「絶対にゆるまないネジ」は、瀬戸大橋や新幹線、原子力発電所などで広く使われている日本の誇る技術である。
ハードロック工業は、東大阪にある従業員50名弱の典型的な中小企業だ。ネジという極めて成熟度の高い業界で、しかも100%国内生産を貫いている。通常なら、こういう企業は安価な中国製品に圧倒されて廃業するか、あるいは生産を中国に移すしかない。いずれにせよ人件費の高い国内生産は維持できない。
しかしハードロック工業のネジは、他社が真似できないので、価格競争とは無縁だ。昭和49(1974)年の創業以来、一度も赤字を出したことがない。この「絶対にゆるまないネジ」がどのように誕生したのか、その軌跡を辿ってみよう。
■2.「アイデアは人を幸せにする」
アイデアは人を幸せにする、というのが、若林さんが10歳の頃の体験から学んだことだった。大東亜戦争の末期、長野県の田舎に疎開していた時のこと、大人たちが腰をかがめて、一つ一つ等間隔に種を蒔いていく重労働を見て、「楽に種蒔きをする方法はないのか」と考えた。
するとアイデアが閃(ひらめ)いた。一輪車を小型にしたような器具を作り、車輪部分に一定間隔で穴を開け、種を入れておく。この一輪車を転がせば、等間隔で種が蒔ける。
腰をかがめることなく、楽な姿勢で効率よく種蒔きができるので、まわりの大人たちの喜んだこと! 「アイデアは人を幸せにする」ことを、10歳にして若林さんは知った。
高校生の時には、つけペンのペン先をインク壺につける際に、つけすぎたり、つけ足りなかったりする困り事を解決するために、いつも一定量のインクをつけられる「定量付着インク瓶」を発明して、文具メーカーに実用新案として売り込み、30万円も得た。
インク壺のように長年使われてきたものでも、まだまだ困りごとがある。それを、新しいアイデアで解決する事で、人を幸せにできるのである。
■3.独立と初受注
大学を卒業した若林さんは、技術者として大阪のバルブメーカーに就職したが、発明への情熱は持ち続けていた。昭和35(1960)年、27歳の時、国際見本市でネジの緩みを防止するために、ナットの中にコイル状のバネを入れて、戻り止め効果を出している商品を見つけた。
値段を聞くと、これが高い。直感的に、バネをコイル状ではなく、板状にすれば、もっと簡単に安く作れる、と閃いた。そして思った。「この商品は必ず売れる。この商品を世に広めたい。よし、そのために会社を作ろう」
翌年、会社を辞め、この板バネを使った新製品「Uナット」を売るための新会社を、弟と友人の3人で立ち上げた。早速、ネジ問屋に飛び込み営業を始めたが、「こんなもん使えるか」と、まったく相手にされない。そこで気がついたのは、問屋は今売れている物しか扱わない、ということだ。全くの新製品なら、ネジの使い手である工場を回らなければならない。
しかし東大阪にたくさんある中小企業の工場を回っても、どこも相手にしてくれない。どこも忙しいので、使えるかどうか分からないものを試してくれる所などないのだ。
そこで作戦を切り替えた。とあるコンベアの工場を訪問して、その片隅に、Uナットを一箱置いてきてしまう。その後で、電話して「よろしければ、使ってください」と伝える。「そんな勝手なことして、、、」
2〜3週間して、その工場を再訪すると、「一般ナットの在庫が切れたので、使ったで。伝票入れといて」と言ってくれた。勝手に置いていったものだから、お金はいらない、と言ったが、相手も「タダではモノは受けとれんわ」と承知しない。
これが初受注だった。若林さんは、この時ほど嬉しかったことはない、と言う。しかし、さらにUナットを使ったコンベアを出荷した先まで出向いて、問題なく使えているか、確認した。コンベアで最も振動の激しい場所に使われていたが、「まったくゆるみもないし、問題なく使っているよ」
このコンベアメーカーからは、継続的に注文が入るようになった。たまたま、そこがコンベア業界では大手だったので、そこで使われているということで、他のメーカーでも広く使われるようになった。
この経験から、若林さんは、良い製品があっても売れるとは限らない。その良さをお客さんに理解して貰う営業活動が欠かせない、と気がついたのである。
■4.困った時の神頼み
Uナットの事業は軌道に乗り、昭和48(1973)年頃には、従業員80名、月商1億3千万円ほどに成長した。
しかし、ある時、「なんや、絶対にゆるまへんのと違うんか!」とものすごい剣幕のクレームを貰った。スチームハンマーでコンクリートパイルを打ち込む「杭打ち機」のメーカーからだった。
緩まないと思って使っていたUナットが緩んでボルトが折れ、機械が壊れてしまったという。「もし人身事故にでもなったら、どないしてくれるんや!! 機械の修理費用は、あんたのところでもってもらうで!」
さすがのUナットも杭打ち機のような強い衝撃が続く機械では、緩んでしまうことが分かった。万一、これで大事故が起こったら、どうするのか。若林さんは真剣に悩んだ。そして、決心した。「どんなことがあっても、絶対にゆるまないナットをつくろう!」
しかし今回ばかりは行き詰まってしまった。事業の傍ら、いろいろと考案・開発を重ねたが、激しい振動を与えると、どうしてもネジは緩んでしまう。
「まあ、気分転換に神頼みでも」と近くの住吉大社にお参りにいった。その鳥居の前で若林さんは、ふと、足をとめた。「これや! これやがな!」
鳥居の縦の柱と、横に渡した貫(ぬき)の繋ぎ目にクサビが打ち込まれている。同様にボルトとナットの間にクサビを打ち込めば、強いゆるみ止め効果が得られる。そこから工夫を重ねて、2個のナットを重ね、上のナットの中心をずらして、ねじ込むと下のナットの一片を強く押さえ込む構造とした。
試作して、何回着脱を繰り返しても、絶対に緩むことがないことを確認できた。若林さんは飛び上がるようにして喜んだ。「これからは堂々とお客様に商品を使ってもらえる!」
クレーム、すなわち、お客様の困り事から逃げないことで、絶対にゆるまないネジ、「ハードロック」が誕生したのである。
■5.「今度はこのナットを使えって言うんやろ」
しかし共同経営者は「多少のゆるみのクレームなんか、いいじゃないですか」とせっかく売れているUナットを潰しかねない新商品の販売に乗り気ではなかった。
お客様に喜んでいただくことを信条とする若林さんは、その共同経営者とは一緒にやっていけないと感じて、売上の3パーセントの特許使用料を貰うという条件だけで、会社を共同経営者に譲ってしまった。
昭和49(1974)年、若林さんはハードロック工業を設立した。しかし、やはりハードロックも、お客様に良さを理解して貰うのに時間がかかり、最初の2〜3年はなかなか売れなかった。ナットが二つに分かれたことで、Uナットよりも価格が2〜3割高くなってしまうし、作業の手間も増えてしまう。
用途としては、多少のコストと手間をかけても、ボルトが緩むことで大事故につながり兼ねない分野ということになる。まず目をつけたのが鉄道である。
当時の国鉄に行って、「車両や線路の保守点検作業が大幅に省けますよ」と売り込みをかけたが、当時、組合の強かった国鉄では、「それでは人減らしになってしまう。そんな提案をするんじゃない!」と追い返されてしまった。当時の国鉄は、こんな組合が幅を効かせていた。
そこで国鉄を諦め、私鉄に向かった。以前Uナットの売り込みをかけた阪神電鉄は「今度はこのナットを使えって言うんやろ」と試してくれた。
すると、保安要員がレールをつなぐボルトの緩みの点検・増し締めをする回数が大幅に減り、安全性も向上すると分かって、正式に採用が決まった。他の私鉄や民営化後のJRも追随して、受注量が急増した。
さらに新幹線1編成には2万個以上のナットが使われていると知って、新幹線車両設計の部署に、いつものように商品を置いていくアプローチで売り込みをかけた。しばらくすると、鉄道総合研究所での厳しい試験の結果、ハードロックナットがダントツの性能を発揮したとして、採用が決まった。
新幹線は、金属疲労の関係で100万km走ると、ナットを全数交換する。それだけ、安定的な売上が見込めることになった。そして、新幹線に採用された実績で、ハードロックのブランド力が大いに向上した。
ネジが緩むというピンチをチャンスに変える、そして国鉄に断られたら私鉄に向かうという粘りが、ハードロックを生み、育てたのである。
■6.「うちの便所より小さいじゃないですか!」
その後、ハードロックナットは、電力会社の送電線用鉄塔や、電電公社(現在のNTT)の放送用鉄塔、日立製作所を経由しての原子力発電所などと、用途が広がっていった。
電電公社での採用が決まった時、工場を見に来ると言われて、若林さんは困った。町工場の狭い、汚い工場を見られては、注文を断られてしまうかもしれないと心配したからだ。なんとか、工場を見せまいと、とあがいたが、工場を見ないことには発注できないと言われて、観念した。
工場に連れてくると、電電公社のリーダー格が言った。「えっ! これ、うちの便所より小さいじゃないですか!」 これで取引は中断だ、とがっくりしたが、相手は続けて、こう言った。
「工場が古くて狭いのはいいんですよ。問題は生産管理や品質管理がまるでなっていないことですよ。ですから、われわれが指導しますんで、まずはマニュアルを整備して、その通りに品質管理をやってください。」
「えっ・・・教えてくれはるんですか!」「ハードロックナットそのものは素晴らしい技術ですから、我々もぜひ採用したいんです」
また、山梨大学の澤俊行教授は、ハードロックナットと出会って興味を持ち、なぜ緩まないかを、理論的に証明してくれた。その研究成果をアメリカの学会で発表してくれたことから、国際的な認知度が高まった。
日本の社会では、世のため人のために頑張ってくれると、かならず、このように応援してくれる人が現れるのである。
■7.「利他の精神」で諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる
国際的な認知度を高めたハードロックナットは、台湾、中国、ポーランド、英国などの高速鉄道でも、採用されるようになった。
海外で有名になってくると、当然のように中国から多くの模造品が出回るようになった。価格は2〜3割安い。しかし、振動試験機でテストしてみれば、すぐ緩んでしまう。
この違いは、寸法のバラツキをミクロン(千分の一ミリ)単位で押さえ込んでいることによる。髪の毛の太さが80ミクロン程度なので、その80分の一と言えば、精度が想像できるだろう。
若林さんが考案した特殊な工作機械によって、こんな高精度のナットの大量生産が可能になったのである。また、毎分数百個のナットの各寸法を、これまたミクロンレベルで測定する世界最高レベルの全数検査装置も導入している。
中国メーカーがナットの形だけ真似しても、絶対に緩まないネジは作れないのである。
ナット一筋でコツコツと37年もやっているからこそ、ここまでの商品ができた。まわりのみなさんを幸せにしたい、という「利他の精神」で、諦めずにやっていけば、誰でも世界一になれる、というのが若林さんの信念である。
(文責:伊勢雅臣)