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ロリニンニク=初鰹の季節



初鰹が出回り始めると、新にんにくもスーパーなどで見られるようになる。
露地物はほとんど無く、国産だとバカ高い青森産しかないといった冬の状況からやっと開放されるわけである。

これまでは、普通の形状で紫がかったものが売られていたのだが、何があったのか、今年はこのタイプが多い。
まあ、やっとふんだんに使えるようになるのはありがたい。
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「グレートジャーニー」 地球を這う



なんかね、井の中の蛙っていうのを思い知るね。
あえて行きたいとは思わないけどw

現地の人たちと親密にふれ合った内容が、エッセイ的に綴られていて読みやすい。
ちょっとした合間に見られるこういう本好きだ。


<書籍データ>
「グレートジャーニー 地球を這う(2)ユーラシア〜アフリカ篇」ちくま新書
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ナムルはいい

基本は

・ほうれん草などミドリ色の野菜
・塩
・ごま
・ごま油

なんだよ。



緑色野菜はゆでて崩れなければ何でもいい。
塩はできれば高いヤツを買え!
ごまは常時ストックしておけ! チャックつきだ
ごま油も太白にしろ! 早く使い切れ

ってことで。



とりあえず、ほうれん草とかチンゲン菜あたりからやって感覚をつかめればOK。
買うときに高くても、そういった塩やごま油はガンガン使うので問題なし。

コンビニで一品買って帰るよりは、いい面も多い。






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ベルトの寿命



金曜日にデスクで普通に仕事していて、プリンターに行こうと席を立ったところ、
「あれ、ベルト外れてる」
と。
それと同時に
「今日は仕事に来てからトイレには行ってないが・・・・・」
と思ったら、画像のとおり縫い合わせ+接着部分から切れていた。

もっとも、こいつは革の上にコーティングしているという、よくありがちな長年愛用不可能商品で、表面もボロくなっているし、上着を着用しない夏場にはもう無理かと思っていたところ。

リーバイスとかのジーンズ用の一枚革仕立てなら、こういったことにはなりそうにないが、幅が大きかったりするし、ビジネスにはちょっと不向きかもしれない。


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禁煙するとなぜ太る

禁煙すると太るっていうけど、
「食事がおいしくなるから」
とかオカルトすぎwww
まあ禁煙=必ず長生きって考え自体もオカルトっぽいけど。

長年の習慣を変えると、グレリンとかバランスが崩れてそうなるんだよきっと。


※転載禁止
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ハナミズキ

エアグルーヴが急逝した。
3年ぶりの出産の際の内出血によるものということだ。
冥福を祈りたい。

私の頭の中では、ここ1か月あまりなぜか
「イントゥザグルーヴ 武豊」
というフレーズが何度も浮かんできた。
何かの巡り合わせだろうか。

普通なら、グルーヴで連想する馬名は、実績からして真っ先にアドマイヤグルーヴであろうが、私はなぜか違っていた。
調べてみると、イントゥザグルーヴは、大半を1,000万下クラスで過ごしてい て、出走したレース全体の成績は悪くはないが、大活躍したとまでは言い難い。
思い当たるのは、イントゥザグルーヴの現役だった時期は、平成16年1月から 19年2月で、新馬時代はちょうど私が競馬を見始めた頃である。
競馬のテレビ中継もその頃初めて観たので、たまたま聞いた馬場入場時の定番の 馬名紹介のフレーズが、頭にずっと残っているのかもしれない。
当時JRAがCMソングで使っていた「ハナミズキ」は、私にとっては「競馬のうた」である。
また、馬名は、学生時代の記憶ではあるが、マドンナのナンバーと同名でもある。

エアグルーヴが今回出産した子どもが順調に行けば、2年後にターフにやってく るはずである。
イントゥザグーヴも繁殖牝馬として出産しているので、遠くない将来、子と孫 の対決が実現する可能性もある。
そのときに、
「ああ、あのときの」
と思い出せればいいが。

願わくば、私と同世代のヒーロー武豊が、エアグルーヴ、イントゥザグルーヴに 続いて、新馬の手綱を取ってほしいと思う。

思い出したついでに、運命的なものを感じて単勝1万円買ったら10万円にと か・・・・・・。
ないか。
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ココダの約束(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

ココダの約束 〜 戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男

「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」


■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束

 安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。

 硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。

 米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。

 戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。[a]

 国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。

 しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。

 そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。


■2.ハペル氏の驚き

 オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。

 現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」

 この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議と生き抜いた。

 そして戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきた、というのである。

 この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。『ココダの約束』[1]である。こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。


■3.小隊56名中、戦死55名

 西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。

 日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の三分の二の距離にエフォギ村はあった。日本軍の志気は高く、皆がポートモレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。

 エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃たれ、助けを求めて、うめいていた。

 その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。弾丸が3発、彼の肩を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒した。

 その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。

 その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原がとっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。しかし、逆に腰を打ち抜かれ、一瞬にして死んだ。

 こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。


■4.「この約束は必ず守る」

 日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。

 9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。

 その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。

 饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。

 最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。そして、こう約束した。

__________
 もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。[1,p106]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。

 残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。


■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ

 西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャツにショベルといういでたちだった。

 ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒されながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。西村の約束を待つ英霊たちが彼を護っていたのかもしれない。

 敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。

 しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。

 昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。

 それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけが父を理解して家に残った。

 西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。


■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」

 西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。

 多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。

 ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした場所だった。

 西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。

 68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。

 男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。


■7.「忠実なる英霊のために」

 このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建てている。またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の決意が窺える。

 一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。

 西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。

 自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。

 西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。


■8.果たされた約束、果たされてない約束

 2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。

 1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸子との暮らしを始めた。相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。

 西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。

 安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。

 我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。

(文責:伊勢雅臣)
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高知ファイティングドッグスナイターに来たよ!


昨日より寒い。雨だし。
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高知ファイティングドッグスナイターに来たよ!


まだまだ寒い
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MSNってほんとにクソだ!

メール機能が数日前からまた改悪されてる。

たいていの人間はフリーメールにそんなに求めてないと思うし、プロバイダ持ってない人でも再三仕様を変更されると迷惑だと思うのは私だけか?

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最近見ているYoutube

最近は寝る前にYoutubeでちょくちょくコントを見ている。

音声レベルがそれぞれ違っているのが多少面倒。
PC本体をMAXにすると、動画を見ているうちはいいが、その後、警告音が大きすぎてビックリする。

「笑い」に関しては、人それぞれツボが違うと思うが、数ある中から私が好きなのは、次の3組。
私はテレビを見ないので、3組とも初めてYoutubeで見た。


 サンドウィッチマン

 ナイツ

 東京03


しかし、最近のYoutubeの広告は非常にジャマだ。
スキップせずに最後まで見ている人って、じゃなり少数に違いないが、収入源なのでやむなしなのか。


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世の中軽薄になってないか

元々は東京カワイイTVあたりが発端かと思うが、NHKではやたら
「今、○○で注目の・・・・・・」
というフレーズを使いたがる。
世間全体から見ると、特に注目されるような要素もなく、ごく一部の人の間で流行っていることでもそう表現するので始末が悪い。

朝のニュースで、サッカーの海外進出勢が無理矢理活躍したような報道するけど、地元のメディアで酷評されてたりなんてこともある。


YahooやMSNのトップに出てくるニューストピックスも、限られた字数で注意を引こうとしていて、実際の記事を見に行ったら
「どうかんがえてもこの表題は誇張だろ。そんなこと何も本人は発言してないし」
みたいなことばかり。
こんな「何でもあり」の風潮はよくない。

先日あった
「元アイドルグループの女性と、男性ミュージシャンのローマ字表記を混同して祝福のツイート」
などは、社会人的に見てあり得ない話。
いくらローマ字とはいえ、文字認識能力が退化しすぎ。
これからいろいろな試験を受ける学生ならさらに致命的だ。

また、記事を見れば内容はわかるはずなのに誤解が生じているってことは、見出しだけをみてツイートしてのなら、軽薄と言わざるを得ない。
ネタにする側も、「何でそんなことを間違うのか」ってとこを論点にするべきではないかと思うのだが。


TV番組も能動的には見ないが、家でついているのを見ることはある。
相変わらず、くだらないひな壇バラエティーが多い。
もうすっかりネタも尽きているもんだから、既出のものを引っ張り出してきて大げさに驚いてみせたり、大したことのない話題をこれまた何かすごいことのように演出したりしていてうんざりする。

最近気づいたのは、世の中にもこういったいわゆるひな壇バラエティー的な人たちもいること。
大の大人が、くだらないことを延々としゃべり続けて盛り上がってるのって何なんだと思って長らく理解できなかったが、こういった番組ばかり見せられているうちに、この人たちはそうなってしまったんだとわかった。

フツーの話ができたうえで、味付けとしてそういったのがあるのはいいけど、そればっかの人とかは個人的にはご遠慮したい。
まあ、こういったTVをよく見る人たちが視聴率とか、CM見てその商品を買うとか一般的な社会的動向に貢献しているんだろうけど。

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安全な国土を子孫に残そう (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

安全な国土を子孫に残そう

 祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして、子孫に残すという事 は我々の責務である。


■1.連動する大地震

 日本のある地域で大地震があると、かならずと言って良いほど、他の地域でも 20年程度の間に大地震を誘発しているというデータがある。[1,p52]

・東日本 貞観地震(M8.3以上) 869年
・関東圏 相模・武蔵地震(M7.4) 878年(9年後)
・西日本 仁和地震(M8.0以上) 887年(18年後)

・西日本 慶長大地震(M7.9以上) 1605年
・東日本 慶長三陸地震(M8.1) 1611年(6年後)
・関東圏 慶長江戸地震(M6.1) 1615年(10年後)

・関東圏 明治東京地震(M7.0) 1894年
・東日本 明治三陸地震(M8.2) 1896年(2年後)

・関東圏 関東大震災(M7.9) 1923年
・東日本 昭和三陸地震(M8.1) 1933年(10年後)
・西日本 昭和東南海地震(M8.0) 1944年(21年後)
・西日本 昭和南海地震(M8.0) 1946年(23年後)

 日本列島の下では、4つの大陸プレートが押し合い、へいしあいして地震エネ ルギーをいろいろな箇所に蓄積しており、一カ所で大地震が起こると、それがプ レート間のバランスを崩して、他の地域での大地震を誘発する、というメカニズ ムである。

 そう考えると、平成7(1995)年には西日本で阪神淡路大震災が起こり、16年 後の平成23(2011)年には東日本大震災が起こった。次は東海、南海、東南海地 方で大震災が起こっても、なんら不思議はない。今後30年以内に、そのいずれ かが起こる確率は50%〜87%と言われている。[1,p174]

 阪神淡路大震災では死者・行方不明者が6千4百余人、被害総額10兆円規 模、東日本大震災では1万8550人、16兆円〜25兆円。東海・南海・東南 海を直撃する大震災となれば、直接被害だけでも40〜60兆円に達すると予想 されている。東日本大震災の被災地復興とともに、他地域での防災、減災を急ぐ 必要がある。


■2.「此処(ここ)より下に家を建てるな」

 藤井聡・京都大学教授の『列島強靱化論 日本復活5カ年計画』[1]では、来 たるべき大震災から日本列島を「強靱化」するための8策を提案しているが、そ のいくつかは東日本大震災で住民を守った事例に基づいている。本稿では、まず これらの成功事例から見ていこう。

 岩手県宮古市の重茂半島東端の姉吉地域では、太平洋に張り出して、津波をま ともに受ける地形にも関わらず、12世帯約40人のすべての家屋が被害を免れた。

 この村ではかつて、明治、昭和の二度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞ れ2人、4人という壊滅的な被害を受けた。

 その経験を踏まえ、昭和8(1933)年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メート ルの場所に「此処(ここ)より下に家を建てるな」という石碑を建て、以後、す べての村民が石碑より高い場所で暮らすようにした。

 今回の巨大地震発生後、港にいた住民たちはみな高台にある家をめざして駆け 上がり、全員が助かった。震災後、自治会長のの木村民茂さん(65)は、「幼 い頃から『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで 集落は生き残った」と語った。[1,p196]

 同様の例は原発にもある。東北電力女川原発は津波対策として、主要な建屋を 海抜約15mに設置していたので、13mの津波に襲われても何の被害も受けな かった。当時想定されていた津波の高さは約3mだったが、同社の元副社長が強 硬に海抜15m以上と主張したという。[2]

 この元副社長の脳裏には、昔からの地域の知恵が残っていたのではないか。


■3.「2度あることは3度あってはいかん」

 人工的な防災措置で、津波から無事だった村もある。岩手県・三陸海岸北部の 普代村、人口約3千人の漁村には高さ15.5メートルの防潮堤と水門が作られ ていた。

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 高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁村や加工 工場を一気にのみ込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。 みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約 1000世帯が住む集落までは来ませんでした。(普代村魚協・太田則彦氏) [1,p97]
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 港に船を見に行った男性が行方不明になったが、防潮堤の内側にいた人の被害 はゼロ、住宅への被害も一切なかった。ちなみに隣の田野畑村では、高さ8メー トルの防潮堤では津波を防げず、死者・行方不明者40人、全・半壊533戸の 被害が出たという。

 普代村で15.5メートルもの堤防を造った経緯について、村役場住民課の三 船雄三氏は、次のように語っている。

__________
 防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同) で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行 方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。

戦後、和村幸徳(わむら・こうとく)村長が「2度あることは3度あってはいか ん」と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるの で、当時は「他のことに使えばいいのに」「ここまでの高さは必要なの?」と いった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。

 きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか。[1,p98]
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■4.3千人近い小中学生が難を逃れた「釜石の奇跡」

 立地や防潮堤などハード面ではなく、防災教育というソフト面で大勢の人命を 守った事例もある。岩手県釜石市の3千人近い小中学生のほとんど全員が津波の 難を逃れた「釜石の奇跡」と呼ばれている事例である。

 明治三陸大津波では、当時、約6500人だった釜石町(当時)の人口のう ち、実に約4千人もの命が失われた。それでも現代の地元は無防備で、地震が あって津波の避難勧告が出ても、それに従う人はほとんどいない、という状況 だった。

 そこで群馬大学大学院の片田敏孝教授は、学校での防災教育を十分にやれば、 いずれその子供たちが親になって地域に根付いていくだろう、と考えた。その教 育が実って、3月11日に大地震が襲うと、中学生たちは率先して、隣の校舎の 小学生たちを連れて、避難所に向かった。

 小学生たちは校舎の三階に避難していたが、日頃から中学生たちと一緒に避難 する訓練を重ねていたので、一斉に校舎を飛び出し、中学生について避難した。 後にその校舎の3階には、津波に運ばれた車が突き刺さったほどだから、そのま まそこにいたら、多くの犠牲者を出したろう。

 東北地方には「津波てんでこ」という言い伝えがある。津波が来たら、てんで んばらばらに逃げないと、家族や地域が全滅してしまう、という教訓だ。片田教 授は、子供たちが親に「いざという時は、僕は必ず逃げるから、お父さんやお母 さんも必ず逃げてね」と伝えるように教育していた。

 今回の震災で、釜石市全体では約1300人が亡くなったが、3千人の小中学 生の親を調べてみると、亡くなったのは40人程度で、比率的にも非常に少な かった。これは「津波てんでこ」のような先祖の知恵が、防災教育を通じて、子 供たちから親にも伝わった成果だろう。


■5.「天変地異という有事」に対しても「平和ぼけ」

 以上、紹介した三つの事例を日本全国で実践すれば、今後予想される大地震・ 津波の被害者数を一桁、二桁下げる、ということも夢ではない。

 これらの三つの事例で共通していることは、過去の津波で大きな被害を受けた 後、次の津波では被害を減らそう、なくそうと、知恵を絞っていることだ。

 しかも、その対策として低地に家や原発を作らないとか、巨大な防潮堤を作 る、など、目先の利益を犠牲にしても、いつ来るか分からない地震・津波から住 民を守ろうとしている。

 しかし、こういう事ができたのは、ごく一部の限られた地域のみで、日本全体 としては、これとは逆のことが行われてきた。

 たとえば、民主党政権で「コンクリートから人へ」というスローガンで、その 前の麻生政権で立案されていた小中学校の耐震強化のための予算が1800億円も削 減された。高速道路の耐震補強のための1211億円の予算執行も全額取りやめに なっている。子ども手当や高校無料化などの票目当てのバラマキが、国民の安全 を守る措置よりも優先されたのである。

 戦後の復興と高度成長を果たした約半世紀は我が国は長らく平和が続いたが、 同時に「地震静穏期」にあたり、巨大地震がほとんど起こらない時期だった。藤 井教授はこう指摘する。

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 つまり、戦後の日本人は、何も、「戦争という有事」に対してのみでなく、 「天変地異という有事」に対してもまた、愚かしい「平和ぼけ」を、半世紀以上 も続けてきたのである。[1,p176]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 しかも、阪神淡路大震災で甚大な被害を出しながら、いまだに「平和ぼけ」か ら目覚めずに、耐震化工事の予算を削ってまでバラマキに努めたのでは、阪神・ 淡路の6千人以上もの死者・行方不明者も浮かばれないだろう。

 さらに東日本大震災で、それ以上の被害を出した現在、和村幸徳村長の言う通 り「2度あることは3度あってはいかん」という常識が我々に求められている。


■6.デフレ・スパイラル脱却と防災投資

 藤井教授の『列島強靱化論』がユニークなのは、防災論に留まらず、防災投資 がデフレ対策にもつながるという経済的主張である。

 現在の日本は需要と供給の差、すなわちデフレ・ギャップが30兆円程度ある という。これだけ物が売れないと、企業が倒産したり、人々の収入が減って、そ の結果、さらに需要が減り、デフレ・ギャップが拡大を続ける。この悪循環がデ フレ・スパイラルである。

 1991年のバブル崩壊以降、我が国経済はこのデフレ・スパイラルに落ち込み、 国民一人当たりの平均所得が100万円以上も落ち込んでしまった。同時に自殺 者も一気に1万人以上も増加し、それが10年以上も続いている。つまりデフ レ・スパイラルによって、10万人もの人々が命を失われているのだ。

 積極的な防災投資を行うことによって、将来の大災害を予防すると同時に、現 下のデフレ・スパイラルからも脱却できる、というのが、藤井教授の主張である。


■7.子孫に安全な国土を残す

 問題は、どこにそんなお金があるのか、という点だろう。実は国内の銀行の 「預金残高」から「貸出残高」を差し引いた預金超過額は、平成22(2010)年 11月時点で151兆円に達している。

 つまり、国内の銀行は151兆円ものお金が余っていて、貸し付け先が見つか らない状態なのだ。だから、その余っているお金を政府の防災投資のために役立 てたらよい、といのが、藤井教授の主張である。

 手段としては国債を発行して、銀行に買って貰うという事になる。国債とは子 孫に借金を残すということだが、それで集めたお金をバラマキで使ってしまった ら、現世代の消費のツケを子孫に回るということで、倫理的に問題だ。

 しかし、今後、発生が予想される大地震や津波から子孫を守るために、現世代 の余っているお金を借りて使うということは、十分、倫理的なことではないだろ うか。子孫に借金は残るが、安全な国土という資産も残せるのである。

 しかも、それによってデフレ・スパイラルから脱却し、少しでも明るい日本経 済を残せるとしたら、それも子孫のためになる。


■8.より美しく、より安全な国土を子孫に残そう

 藤井教授の考え方で共感するのは、防災には共同体意識が必要だという感覚 が、著書のあちこちに窺える点である。

 たとえば、和村村長は苦労して巨大な防潮堤を作ったが、生きているうちにそ の効果を見ることはなかった。生前は「他のことに使えばいいのに」と多くの批 判を受けた。

 また、姉吉地域で「此処(ここ)より下に家を建てるな」と言い伝えたのも、 高台で暮らす不便を堪え忍んでも、子々孫々のために安全を確保したい、という 先人たちの思いである。

 防災投資とは、現世代が自分のために使えるお金を、後の世代の安全のために 使う、ということである。そこには自分たちの世代が我慢をしても、子孫のため に尽くそうという無私の心がある。これが共同体意識である。

 耐震工事の予算を減らしてバラマキに使ってしまう、という民主党の政策は、 まさに先祖に感謝し子孫のために尽くす、という共同体意識を忘れた戦後的発想 の表れである。自分の世代のことしか考えない享楽主義では、百年の計が必要な 防災対策はできない。

 祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして子孫に残すという事は 我々の責務である。

(文責:伊勢雅臣)
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高知城 花回廊





昨日、通りかかったので寄ってみた。
20時を過ぎていたが、結構な人手だった。
クリスマスのイベントの際は人はまばらだったが。

昨日は撤収大変だったのでは。

高知城 花回廊」は、今日土曜、明日の日曜も開催。

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新社会人に捧ぐ 2013



ファッション的な意味では、この秋冬シーズンはもう終盤だが、今シーズンは所有して いるスーツ大蔵ざらえというか、とりあえず今後着るのか、さもなくば処分して しまうのかといった意味での点検を行った。

スーツの点数が多い方なら、あるスーツをたまたま着なかった年があるという経 験もあるだろうが、私の場合、主にサイズの関係で6〜7年ぶりというのが3着 あった。

画像のモノは、現在数多く所有しているチェンジポケット(普通のポケットの上 に小銭入れ用とされるポケットが付いている)仕様のもののうち、私が初めて購 入したもの。
当初からウエストが少しきつめで何とかなると思っていたが、何とかならなかっ たので、長らく敬遠していたのだが、
「クローゼットの中で、来ないかもしれないスリムになる日を待って無為に時を 過ごすよりは、1シーズン着倒されたほうが服としては幸せだろう」
ということで、ウエストを補正。
今シーズンは、多用した。
他にアイロンペッターのおかげで日の目を見たのが2着あった。
しかし、虫はいい服から食べていくのは不思議だ。

スーツと言えば、私の職場にも久しぶりに新規採用の女性がやってきた。
いわゆるリクルート系スーツが初々しい。
リアルに20歳くらい離れてるし、異性だし、特にかけてあげたい言葉も思い浮 かばないが、例えば私が新採のときに、こう言われておけばよかった(言われた かもしれないがきいてないだけか?!)だろうことを少し。



1)常にベストを尽くせ
月並みだが。
・プロである以上は、同じミスを何度も繰り返さない。
・会社・組織のために働くことを忘れないこと。
・境遇がどうであれ、ベストを尽くすこと。




2)ビジョンを持て
まあ、普通に
「○○歳で結婚して、○○歳で新居を買って」
とか、いわゆる節目的なことは考えておくこと。
私はヒカゲと同じで、くたばるまでPUNKPUNKPUNK的な生き方だったから正反対だったけどw
細かく考えなくていいので、最低いつまでにとか、あくまで大枠で。


3)やり続けろ
一番いいのは、中学・高校でやってた部活を社会人になってもやれることかな。
まあ、新しいことにトライしてもいいけど。

私は、磯&渓流釣りとかマラソンとか料理とか、いろいろはまりましたw
最近は、野球観戦と自転車とウオーキングか。

今でも昔マラソン一緒に走った人とたまにバッタリ会って話したりするし、釣りに関しては、今やっている人と話し始めたらもう止まらないって感じ。
マラソンは、やってるときは一人スポーツだが、こういった部分もあります。


社会人になると年齢が上がっていくほど、運動をする時間の確保が難しくなっていくので、週数回できるスポーツを継続する(予定をやりくりして最優先するほどのもの)のがベスト。
まあ、最近は、走る・歩くがどんどん市民権を得てきてるから、メインは土日にして、トレーニングは夜遅くでも1時間くらいやればいいんだけど。

まあ、30年、40年社会人生活はあるんだから、その期間ずっとは無理だとしても、いくつか10年以上続けたことを持ってほしいです。

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