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「トルコによるイラン在住日本人救出(下)」 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「トルコによるイラン在住日本人救出(下)」

■1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」

事件当時、イランに駐在していた野村豊大使は、当時をこう振り返って、こう語っている。

『さて、フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。
その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。
そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです』

野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。
ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った。


■2.「この任務を皆、喜んで引き受けました」

同じく、前日の夜、トルコ航空では日本人救出機の飛行準備を進めていた。
機長のスヨルジョ氏は語る。

『このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、現地へ向かうということでした』

救援機に乗り込んだ客室乗務員でもっとも若かったキョプルルさんは、「イラク爆撃の話を聞いて恐怖心はありませんでしたか?」と聞かれて、こう答えている。

『私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。
当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否することもできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、この任務を皆、喜んで引き受けました』

キョプルルさんはこの任務のことを夫には伝えたが、父母には心配させたくなかったので、話さなかったという。


■3.搭乗券を手にすると、歓声があがった

当時、東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さんは、こう回想する。

『昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました』

そこにトルコ航空機が救援に来る、という知らせが大使館から入った。

『当日のテヘランの飛行場は脱出しようとするイラン人、外国人が一杯でしたので、いっせいに何千人という人が飛行場に駆けつけ、トルコ航空のカウンターの前にも長蛇の列が出来ていました。急なことだったので、着の身着のままの人も多かったのです』

それまで、どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否していたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、本当に搭乗できるのか、疑心暗鬼であった。

最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると、歓声があがった。懸念が安心に変わると、後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ、順番が来るのを待った。

特に家族連れの日本人は、実際に搭乗券を手にした時、「これで脱出できる」と、妻子を護る、夫として親としての責任を果たせたので、安堵の気持ちに包まれた。


■4.「飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした」

救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種であった。緊急の救援要請にも関わらず、こんな大型機をやりくりしてくれたのである。

客室乗務員のキョプルルさんは、出発時の状況をこう語っている。

『エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。
私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に、早くお客さまを乗せ、一刻も早く出発しなければならないということを強く意識しました。
乗客の方々は皆、恐怖を感じながらも、テヘランを脱出できるという喜びに溢れていました。私たちもその感情を共有することができました。私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました』

飛行機がテヘランに到着してから、217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。

日本人乗客らは、緊急の救援機なので女性乗務員はいないだろう、とか、食事や、まして酒などなくとも仕方ない、と思い込んでいた。
ところが、客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性がにこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。

イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかったという。それだけ日本人乗客等は開放感に浸っていたのであろう。


■5.「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。この山を通過すると、スヨルジョ機長はアナウンスを行った。

「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。

「トルコ領に入ったぞ!」
「イランを脱出したぞ!」
「やった! やった!」
「万歳! 万歳!」

昨日からの一連の出来事が思い出され、いろいろな気持ちが一度に胸にあふれて、泣き出した人たちも多かった。殊に家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず、喜びを爆発させていた。

■6.「我々は地獄から天国に来たのだ」

トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て、驚いた。

汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で現れたのである。

殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。お気の毒としか言い表せなかった。無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。

ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。

世界三大料理の一つと言われるトルコ料理を堪能した後でも、邦人たちは「店先に並んでいる生カキが美味しそう」と言い出した。森永さんは、もう暖かくなってきているので、生で食べてお腹でも壊したら大変と止めた。

森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し、席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、皆が美味しそうに口にしているではないか。彼らは言った。

「こんな幸せはない。我々は地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。たとえコレラになっても、今までのつらい思いを思えば、ずっと幸せなのだ」

幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日、全員、無事に日本に向かった。


■7.「あなたを独りにしておかない」

しかしテヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、その便で100名程度のトルコ人が帰国した。

残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのである。テヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、外国人である日本人に特別機を提供して、救出したことになる。

「こんなこと、日本だったら許されるだろうか?」

私はそう考えると、まず怖れたのはトルコのマスコミの反応であった。

「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」
と報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を行っても不思議ではない。ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。

私は固唾を呑んで事態の推移を見守った。しかし、それらは全くの杞憂(きゆう)であった。なんと、誰も問題視しなかったのである。トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに私は感銘を受けた。

武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。トルコ人は
「あなたを独りにしておかない」
という。困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。「武士の情け」と同じ心だろう。


■8.恩返し

森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。やがてそのチャンスがやってきた。トルコ航空が、エアバスの長距離大型機を2機購入したいというのだが、その資金がなく、15年もの延べ払いが必要であった。

当時、トルコのカントリー・リスクは高く、長期の信用供与をしてくれる企業はなかった。森永さんは「私自身が担保となり、支払い遅延が発生したら必ず取り立てる」と言って、関係者を説得し、ついにトルコ航空とのファイナンス・リース契約にこぎ着けた。

また、トルコ航空はイスタンブル=成田間の就航を強く望んでいたが、成田の発着枠は満杯であり、交渉は一向に進展しなかった。

森永さんは運輸省の高官に説いた。
「日本人の為に、これまでに救援機など出してくれた国が、他にあったでしょうか?」
「それでもトルコ航空の要望を、他の国の航空会社と同じ扱いになさるのですか?」

「そうだったね。そんな事件があったね」
と答えて、その高官は、政府関係者を説得して回った。

こうしてトルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル=成田線に就航したのである。成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。
心配されていた15年のリース契約についても、トルコ航空は1度たりとも、支払い遅延を起こすことなく完済した。

平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。

そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行った。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのである。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。

日本とトルコは、長く深い友好の歴史があるが、このトルコ航空による邦人救出は、その特筆すべき1頁である。

(文責:伊勢雅臣)

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