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チベット・ホロコースト  50年(下)〜ダライ・ラマ法王の祈り〜(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.法王の脱出■

 1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノ
ルブリンカ宮殿を包囲した。その日、法王は中共軍司令部での
演劇に招待されていた。しかも中共側は法王が護衛なしで来る
ことを要求していたのである。今まで東部チベットで、高僧が
中共軍司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄
されるケースが4回もあった。群衆は、法王を中共軍の手に渡
すまいと決意していた。

 法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、訪問に反対する「民
衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告
げた。中共軍の将軍たちは激高して叫んだ。

 いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事
件は叛乱である。これが決裂点である。われわれは今こそ
行動にでるであろう。だから覚悟しろ。

 群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。3月
17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の
近くに落ちた。法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の
対立がいや増すだけだと考え、国外脱出の決意を固めた。群衆
の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそ
かに宮殿を脱出した。[2,p127-169]

■2.中共軍「反乱を鎮圧」■

 法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2
時から、宮殿に向け、一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41
時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1
万から1万5千人のチベット人が殺された。宮殿の内外は死体
で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。

 中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土
に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4000人を逮捕し
た。[4,p136] 中共軍の内部資料によると、10月までに、ラ
サおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人を殺害したと
いう。[3,p89]

 3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット
政府の解散と、その職権を「チベット自治区準備委員会」に移
すことを発表した。そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されて
いる間、パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。
[4,p136]

 パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チ
ベットに現れたと信ぜられ、法王に次ぐ宗教的権威を認められ
てきたが、世俗的権力はなかった。このパンチョン・ラマも、
中国の傀儡にはならず、89年には「チベットは中国から得たも
のよりも、失ったものの方が大きい」という歴史的な声明を発
表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。
[4,p161],[3,p214]

■3.ヒマラヤ超え■

 世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、
その安否を気遣っている間、法王の一行約100人は、200
名の兵士、ゲリラ兵に守られて、徒歩でラサから道もない広大
な山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断
して、インドへ向かっていた。

 国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋を
きわめた。そうして、つづく二,三日というもの、大吹雪、
雪に反射するぎらぎらする光、それから滝のようにおちる
激しい雨などの異常な連続によって、わたくしたちは悩ま
された。・・・

 非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が
凍りついた。・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸び
た人々もかなりあったが、その人々の口ひげには、氷がい
っぱいついた。

 それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかっ
たから、暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけ
であった。[2,p193]

 途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュ
ースを聞き、法王は同行していた人々で臨時政府を作り、その
宣言のコピーをチベット全土に送った。

 法王の一行が、正式な許可を得て、インドに入国すると、町
や村では、心からの親切な歓迎をした。ネール首相も、電報で
歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。さらに全
世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえてい
た。[2,p200]

 法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人
が、同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。途中で行き倒
れになった人数は数知れない。[3,p88]

■4.アデの悲しみ■

 アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。常に
囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。
厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、ア
デは耐え抜いた。1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に
移った百人の女囚のうち、3年後に生き残っていたのはアデを
含め、わずか4人であった。

 21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許
された。バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、通りにたくさん
の中国人がいることに驚かされた。標識はすべて中国語で書か
れていた。実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収され
ていた。

 森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になる
まで、薬草や花がやみくもに採取されていることがわかっ
た。私はその荒廃ぶりに圧倒された。生命あるものに対し
て、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、
いったいどういうことなのか理解できなかった。[1,p276]

 私の若いころにはとても活気に満ちていた、カルナン僧
院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破
壊され、略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前
建っていたところには、野生の灌木が生い茂っていた。
[1,p273]

 アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。二人の兄は人
民裁判で暴行され殺された。最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダ
ーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、発狂して死んだ。

 息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、母
親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、そうしているうち
に、川に落ちて死んでしまったという。

 アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンド
は、アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。アデは22
歳になっていた娘を初めて見た。娘は近く結婚する事になって
おり、アデは幸せな生活を送って欲しいと、自分の悲惨な過去
についてはあまり話さなかった。

 私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ
(収容所)に戻る準備を始めた。またバスに乗り、カンゼ
を通り過ぎるとき私が考えていたのは、「もう何も残って
いない」ということだけだった。苦痛、別離、そして失っ
てしまった21年間がすべて心の中にこみあげてくるよう
な気がした。それは本当に耐え難いものだった。そして、
いまの私には何も残されていなかった。[1,p281]

 アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。
アデはその後、インドに脱出し、ダライ・ラマ法王がチベット
亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。

■5.収奪された国土■

 第二次大戦後、アジアやアフリカの民族が次々と独立してい
く中で、チベット民族はこうして、唯一、植民地に転落した。

 チベットは、ヨーロッパ共同体に匹敵する広大な領土を持っ
ていたが、その東部は分割されて、四川省、雲南省、甘粛省な
どに編入された。北部のアムド地区は青海省とされた。たとえ
ば、アデの生まれ育ったカンゼ地区は、四川省甘孜(カンゼ)
チベット族自治州とされている。細かく分割して、周囲の省の
少数民族とされたのである。残るチベット自治区の面積は、約
半分にすぎない。[3,p83]

 1949年当時のチベットの森林面積は22万平方kmであった
が、中共軍による乱伐で、1985年には13.4万平方kmとほ
ぼ半減した。中共軍は旧国民党系の囚人や、チベット人を使っ
て、原始林へのアクセス道路を切り開き、伐採した木材を中国
本土に送っている。

 チベットは、インドや東南アジアを望む戦略的地域である。
中国はここに90基の核弾頭を配備している。アムド地区の中
国西北核兵器研究所は、その核廃棄物をきわめてずさんな方法
でチベット高原に廃棄したと伝えられている。[3,p170-179]

■6.生活と文化の破壊■

 チベット亡命政府は、1949年から79年の30年間に死亡した
チベット人は、120万人をくだらないと発表している。その
内訳は、拷問17万3千人、死刑15万7千人、戦闘43万3
千人、飢餓34万3千人、自殺9千人、傷害致死9万3千人で
ある。侵略以前のチベット人口が600万人なので、5人に一
人が殺された事になる。チベット人の家庭で、家族が一人も投
獄、殺害されていない家を見つけるのは難しい。[3,p99-10]

 仏教国家チベットには、6,259もの僧院、尼僧院があっ
たのが、1976年に残っていたのは、わずか8つに過ぎない。仏
像や装飾品などは、ことごとく中国本土に持ち去られた。59
万人いた僧、尼僧などのうち、11万人強が拷問死し、25万
人以上が還俗を強制された。[3,p146-149]

 僧院に付随して学校があったのだが、それらも一緒に破壊さ
れた。チベットの12歳以上の文盲率は、中国側の発表でも、
74.8%であり、中国本土の31.9%の2倍以上となっている。
[3,p132]

 中国政府は、産児制限や、中絶・不妊手術により、チベット
人の人口抑制を図っている。その一方で、中国人の移住を数々
の優遇策によって奨励した。その結果、チベット人口600万
人に対して、チベット全土に住む中国人は750万人と見積も
られている。[3,p166]

 チベットは、中国の過剰な人口の捌け口とされ、チベット人
は自らの国土においても、少数・劣等民族とされてしまったの
である。

■7.ダライ・ラマ法王の祈り■

 ダライ・ラマ法王の働きかけで、国連総会は1959年、61年、
65年の三度、「チベット人民の基本的人権と、その独特の文化
的ならびに宗教的生活を、尊敬することを要求する」と決議し
ている。

 近年、多くの国の議会がチベットの人権を尊重するよう中国
政府に求める決議を行ってきた。たとえば欧州議会(1987-90,
4回)、旧西ドイツ(1987)、イタリア(1989)、オーストラリア
(1990,1991)など。アメリカの上下院は10回以上の決議を行
っている。[3,p114]

 1989年には、ノーベル平和賞が法王に授与された。ノルウェ
ーのオスロ大学での受賞記念講演では、法王は「平和は私達一
人一人の内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々
とも平和を分かち合うことができます。」との信念を披瀝し、
「非暴力による平和の追求」が世界の一大潮流になっているこ
とを指摘した。

 89年6月の第2次天安門事件において、「中国で同じような
変化をもたらそうとした勇気ある人々の努力は、・・・暴力で
うち砕かれてしまいました。」しかし中国の若者達が「権力は
銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、非暴
力を選んだことを、法王は高く評価した。

 チベット高原全体を、人間と自然が調和して、自由に平
和に暮らして行ける保護区にしようというのが、私の夢で
す。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自
分自身の内にある平和の真の意味を探し求める地区とした
いのです。

 として、チベットの非武装、非核化、自然保護、そして国際
人権保護機関の設置を提案した。法王は演説を次の祈りで締め
くくった。

世界に苦しみがあり、
生き物が残っている限りは、
私も、残ります。
世界の苦難を消すために

 ダライ・ラマ14世の肉体は滅びても、その魂は15世とし
て、この世に戻ってくる。世界の苦難を消すために。チベット
仏教の輪廻転生信仰は、世代を越えて受け継がれる人類の「内
なる平和への意志」の象徴とも言えよう。
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チベット・ホロコースト 50年(上)〜アデの悲しみ〜(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.「花の土地」に生まれたアデ■

 アデは1932年、チベット東部、中国との国境に近いカム地方
メトク・ユル(花の土地)にタポンツァン家の末娘として生ま
れた。

 いまでも目を閉じれば、子どもの頃の日々が鮮やかによ
みがえる。はてしなく広がる空の下、花でいっぱいの野原
を笑いながら走ったり、転げ回ったりしていた日々。
[1,p24]

 遊び疲れた遅い午後には、父のひざの上に座るのが大好
きだった。父はよくカワロティ山脈の峰のほうを見つめて
いた。この山々の姿を見ると、父はしばしば乾杯のために
杯をささげ、歌うのだった。・・・父はカワロティ(万年
雪)とは、ヒマラヤの神で山の中に住み、私達が立ってい
るこの土地もカワロティの領土なのだと教えてくれた。
[1,p26]

 この幸福な少女が、後に父も兄も、将来の夫も子供も、侵略
者に命を奪われ、さらに27年も牢獄で暮らすことになるとは、
この時、誰が予想し得たであろう。

 私たち子どもがいうことを聞かないとき、大人たちはよ
く中国人を持ち出して子どもたちをおびえさせた。大人た
ちはこういった。「いうことをきかないと、劉文輝将軍が
来て連れてかれちゃうよ」[1,p31]

 劉文輝将軍とは、1920年代に四川省のほとんどを制圧した軍
閥で、チベットの国境地域を侵略し、残虐な行いでチベット人
から恐れられていた存在だった。

 しかし、実際にやってきたのは、もっと恐ろしい毛沢東の共
産党軍だった。彼等は、日本の6.5倍もの広さを持つチベッ
ト全土を蹂躙し、山林を乱伐し、核廃棄物の捨て場とした。6
00万人のチベット人のうち、120万人の生命を奪い、さら
に産児制限や中絶・不妊手術の強制を行った。今日では750
万人もの中国人が移住した結果、チベット人はチベット本土で
も少数民族にされてしまった。[3]

■2.中国人は我々からすべてを奪い去るつもりだ■

 1948年の晩春、16歳になっていたアデは、3歳年上のサン
ドゥ・パチェンと結婚した。やさしく思いやりのある夫とその
母親にアデは暖かく迎えられた。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。1950年春には、中
国共産党軍がアデの住むカンゼ地区にやってきた。この地方だ
けで、3万人の中国兵であふれかえった。中共軍はこう発表し
た。

 私たちは、みなさんが一般の人々の生活を向上し、過去
の過ちを正して、真の人民による政府を築き上げるのを助
けるために来ました。・・・私たちの義務を遂行したら、
私たちは自分の国に帰ります。[1,p71]

 やがて占領軍は、貧しい子どもたちのために小学校を作り、
中国共産党の講師たちが教え始めた。チベット人は彼等の偉大
なる母国中国の少数民族であり、はるかに卓越した中国文化を
学ぶべきだと教えた。

 アデの父親は、地域の有力者として選ばれ、派遣団の一員と
して、中国視察に送られた。彼はそこで国民党員の囚人をあふ
れるほど載せて処刑場に向かうトラックを見て、中国共産党の
正体を知った。

 戻った父は、信頼できる友人を訪ねては、中国人は我々から
すべてを奪い去るつもりだ、と語った。中共軍は父に「再教育
を受けるように」と命じた。帰国時から健康のすぐれなかった
父は、その時すでに病床に伏しており、中国兵に病院に連れて
行かれた。

 父ははじめは頑固に治療を拒否していたが、アデの兄たちの
すすめに従って、薬を飲み始めた途端、見る間に体力が衰えて、
亡くなってしまった。

■3.チベットから帝国主義侵略勢力を追放する■

 1951年の始めに、ダライ・ラマ14世は、中国政府の要求に
より、チベット代表団を北京に送った。

 この時、ダライ・ラマは弱冠16歳だったが、租税徴収の公
正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発
揮し始めていた。しかし平和な宗教国家として、わずか850
0人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に
屈するしかなかった。

 チベット代表団は、17項目の協定案を最後通牒として提示
され、従わない場合は、より以上の軍事行動を展開する、と脅
迫された。ダライ・ラマの訓示を仰ぐことは禁ぜられ、中国側
が偽造したチベット印璽で、調印することを強要された。

 その第一条は、以下の文面であった。

 チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢
力を追放すること。チベット人民は母国中華人民共和国の
大家族に復帰すること。

 これには、二重の虚偽が含まれている。第一に、この時、チ
ベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、外国勢力
といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だ
けであった。[2,p100]

 第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に
史実をねじ曲げたものだった。チベットは、史実の伝わる13
00年以上の歴史を通じて、かつて漢民族によって支配された
ことはない。元と清の皇帝はラマ教(チベット仏教)に帰依し、
チベットの宗主国の立場にあったが、前者はモンゴル民族であ
り、後者は満洲民族である。漢民族はそれらの帝国の植民地の
一部であったにすぎない。[2,260]

 協約の第2条は「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベ
ットに入って国防を強化するのを積極的に助けること」、第8
条はチベット軍を中共軍に併合する事を規定し、第14条は、
外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪していた。

 協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、中共軍一万
人規模の駐屯が始まった。

 かれらは何一つ携帯しては来なかった。ことごとくわれ
らの貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。穀物
の価格が突如として約10倍にも高騰した。バターが9倍、
一般穀物が2倍ないし3倍になった。ラサの民衆は飢餓の
縁まで零落した。[2,p98-103]

■4.夫の急死■

 1955年春、アデに長男チミ・ワンギャルが生まれた。しかし、
この時には、夫サンドゥ・パチェンは、アデの兄たちや、姉の
夫ペマ・ギャルツェンとともに、中共軍と戦う決意を固めてい
た。

 翌56年の早春には、多くの地域で戦闘が始まっていた。サン
ドゥは、アデと幼いチミを、ラサにいる裕福な親戚のもとに避
難させる事にした。

 出発に先立ち、地域の人を集めて送別の宴を開いた。ところ
が、サンデュが出された肉を食べた途端、胃をかきむしり、叫
びながら地面に倒れた。アデは彼のもとに駆け寄った。何人か
の人々が村医者を呼びにいった。しかし、サンデュは医者が来
る前に、あっけなく死んでしまった。彼の皿に毒が入れられる
所を見た人はいなかったが、中国側のしわざと誰もが思った。

 多くの友達や家族が、遺体の周りに立って泣いた。すべてが
一瞬の出来事だったので、アデは呆然とするばかりだったが、
目から涙がこぼれだした時には、気を失って倒れた。この時、
息子のチミは1歳、アデは次の子どもを宿していた。

 アデに実の母親のようにやさしくしてくれた姑のマ・サムプ
テンは絶望状態に陥り、息子の死の衝撃から立ち直れずに、半
年後に亡くなった。アデは息子とともに、実家に戻った。
 
■5.「民主改革」始まる■

 56年春にはカンゼ地区での「民主改革」が始まった。僧院の
所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。耕作はミミズ
や虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許され
ていなかった。このチベット仏教の教えを否定するために、僧
たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。

 人民裁判がさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は
雇い主を、僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。ア
デは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせら
れ、中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。群
衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。

 民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。アデの指
輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、古
いすり切れた洋服だけが残された。中国兵たちは、仏壇から仏
像を持ち出し、「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどう
かを見てみよう」と言って、射撃の的にした。

 貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。
後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。この
方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、後には、竹
串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。

■6.アデの逮捕■

 カンゼ地区の男たちは、森に潜伏して、中共軍にゲリラ戦を
挑んだ。アデは5〜60人の女性とともに、密かに中国側の動
きを伝え、食料を供給する役を果たした。抵抗組織のリーダー
の一人は、義兄のペマ・ギャルツェンだった。

 各地の抵抗組織は、中共軍の駐屯地を攻撃し、多大の損害を
与えた。しかし中共軍は、飛行機による爆撃や、数万人規模の
兵力を投入して反撃した。チベット亡命政府の発表では、戦闘
による犠牲者は43万人に上るとされている。[3,p102]

 ペマ・ギャルツェンも、カンゼ地方の中国人行政官を夜襲し、
高級将校二人とともに、殺害した。この成功の知らせはチベッ
ト中の人々の望みを高まらせた。

 しかし、この事件で、アデの兄オチョエを含む地区の行政委
員が告発され、処刑されると発表された。ギャルツェンは、オ
チョエを救うべく、仲間とともに山を下り、投降した。

 ギャルツェンの仲間の一人が、拷問の末、支援者としてアデ
の名を漏らし、早朝6人の中国兵がアデを逮捕しに来た。アデ
が子どもたちをおいてはいけないと抵抗すると、彼らはアデを
殴ったり、蹴ったりして、ロープで縛った。泣き叫ぶ息子のチ
ミがアデにまとわりつくと、中国兵は押し返して、ブーツで蹴
り上げた。なおも抵抗するアデを家の外まで引きずり出した。

■7.我々は、お前を一生苦しめたいのだ■

 アデに仲間の名前を白状させようと、中国兵たちは拷問を続
けた。両手を頭の上にあげて、二つの鋭い三角形の木の上にひ
ざまづくよう強要された。腕を下げると、ライフルの柄でひじ
をなぐられた。またある時は、極細の竹棒を人差し指の竹の間
に、第一関節まで少しづつ突き刺していった。

 獄中では、何ヶ月も手錠をかけられたままだったので、両手
とも手のひらまで腫れ上がった。監獄の仲間たちは、そんなア
デの食事や用足しを助けてくれた。それでもアデは仲間の名前
を白状しなかった。

 ある朝、アデは車で軍司令部の近くの平原に連れて行かれた。
膨大な数の群衆が集まっていた。横20センチ、縦10センチ
ほどの板が首にかけられた。

 そこに義兄のペマ・ギャルツエンが、同じように首に板をか
けられた姿で、連れてこられた。アデとペマは向かい合ってひ
ざまづかされた。ペマは両手を後ろにきつく縛られ、のどにも
ロープを巻きつけられて、ろくに話すこともできない状態だっ
た。それでも、殴られて赤く腫れあがった顔で、アデにほほえ
みかけた。拡声器から声が流れた。

 本日、我々はペマ・ギャルツェンの処刑を行う。アデ・
タポンツァンは、残りの人生を通して苦しませるという判
決が下った。本日、彼女には16年の「労働による矯正」
が宣告された。

 二人は立ち上がるよう命ぜられた。アデは「さあ、早く三宝
(仏法僧)に祈りを捧げるのよ」と言った。ペマはうなづいた。
後ろから2発の銃声が聞こえ、ペマはアデの前に倒れた。脳の
破片と血液がアデの服の上に飛び散った。

 アデは中国兵に、自分も殺してくれ、と頼んだ。

 だめだ。もしお前を殺しても、いま目の前にいるペマ・
ギャルツェンと同じだ。一瞬で終わってしまう。我々は、
お前を一生苦しめたいのだ。もう誰が勝ったかわかってい
るな。

 拡声器は、「自分たちのいうことを聞けば、幸せな生活が待
っている。さもなければ、ペマ・ギャルツェンと同じ運命が待
っている」と群衆に叫び続けた。

 1959年晩冬の日だった。この日からアデは各地の収容所を転
々とし、強制労働に耐えつつ、持ち前の強い気力で餓死や病死
をまぬがれた。釈放されたのは、26年後、1985年のチベット
正月であった。
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3rdスープジャー

先週土曜日は、七月初めに亡くなった義父の四十九日の法要の日であった。
一応家族なので喪服しか選択肢がなかったのだが、多少曇り気味だったこともあり、前日までほどは暑くなくひと安心したところ、帰宅時はこれでもかというくらいの土砂降りでそちらのほうが大変だった。

雷は午後もずっと続き、ヒルポタはお預け。
ウイークデイはいつも天気がいいのに、週末に限り天候が悪いことは多い気がするが、これは私が思うところであって、例えば水曜が仕事休みの人は、土日天気がいいのになどと、同じ思いをしてるかもしれないと思ったりもする。


このたび、新たにスープジャーを買った。
いつもカレーとライスとに分けて2つ持っていくのだが、ロングサイズのほうは深くてスプーンが届きにくい。
また、サイズ大きいからといって、多めに入れがちなので、食べすぎも考慮して。

先日、元から使っているジャーのフタを回していて、なんかジャリ感があるなと思っていたところ、元々分解できるフタのねじが緩んでいることに気づいた。
今まで分解したことは無かったが、意外に簡単にできることを知り、綺麗に洗浄した。
構造上、フタの裏側のetcは、ジャーに入れているものにはふれないので健康面に影響はないが、綺麗にしておくほうが精神的にもいいと思われる。


<左端がこのたび購入>


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