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チベット・ホロコースト 50年(上)〜アデの悲しみ〜(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■
■1.「花の土地」に生まれたアデ■

 アデは1932年、チベット東部、中国との国境に近いカム地方
メトク・ユル(花の土地)にタポンツァン家の末娘として生ま
れた。

 いまでも目を閉じれば、子どもの頃の日々が鮮やかによ
みがえる。はてしなく広がる空の下、花でいっぱいの野原
を笑いながら走ったり、転げ回ったりしていた日々。
[1,p24]

 遊び疲れた遅い午後には、父のひざの上に座るのが大好
きだった。父はよくカワロティ山脈の峰のほうを見つめて
いた。この山々の姿を見ると、父はしばしば乾杯のために
杯をささげ、歌うのだった。・・・父はカワロティ(万年
雪)とは、ヒマラヤの神で山の中に住み、私達が立ってい
るこの土地もカワロティの領土なのだと教えてくれた。
[1,p26]

 この幸福な少女が、後に父も兄も、将来の夫も子供も、侵略
者に命を奪われ、さらに27年も牢獄で暮らすことになるとは、
この時、誰が予想し得たであろう。

 私たち子どもがいうことを聞かないとき、大人たちはよ
く中国人を持ち出して子どもたちをおびえさせた。大人た
ちはこういった。「いうことをきかないと、劉文輝将軍が
来て連れてかれちゃうよ」[1,p31]

 劉文輝将軍とは、1920年代に四川省のほとんどを制圧した軍
閥で、チベットの国境地域を侵略し、残虐な行いでチベット人
から恐れられていた存在だった。

 しかし、実際にやってきたのは、もっと恐ろしい毛沢東の共
産党軍だった。彼等は、日本の6.5倍もの広さを持つチベッ
ト全土を蹂躙し、山林を乱伐し、核廃棄物の捨て場とした。6
00万人のチベット人のうち、120万人の生命を奪い、さら
に産児制限や中絶・不妊手術の強制を行った。今日では750
万人もの中国人が移住した結果、チベット人はチベット本土で
も少数民族にされてしまった。[3]

■2.中国人は我々からすべてを奪い去るつもりだ■

 1948年の晩春、16歳になっていたアデは、3歳年上のサン
ドゥ・パチェンと結婚した。やさしく思いやりのある夫とその
母親にアデは暖かく迎えられた。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。1950年春には、中
国共産党軍がアデの住むカンゼ地区にやってきた。この地方だ
けで、3万人の中国兵であふれかえった。中共軍はこう発表し
た。

 私たちは、みなさんが一般の人々の生活を向上し、過去
の過ちを正して、真の人民による政府を築き上げるのを助
けるために来ました。・・・私たちの義務を遂行したら、
私たちは自分の国に帰ります。[1,p71]

 やがて占領軍は、貧しい子どもたちのために小学校を作り、
中国共産党の講師たちが教え始めた。チベット人は彼等の偉大
なる母国中国の少数民族であり、はるかに卓越した中国文化を
学ぶべきだと教えた。

 アデの父親は、地域の有力者として選ばれ、派遣団の一員と
して、中国視察に送られた。彼はそこで国民党員の囚人をあふ
れるほど載せて処刑場に向かうトラックを見て、中国共産党の
正体を知った。

 戻った父は、信頼できる友人を訪ねては、中国人は我々から
すべてを奪い去るつもりだ、と語った。中共軍は父に「再教育
を受けるように」と命じた。帰国時から健康のすぐれなかった
父は、その時すでに病床に伏しており、中国兵に病院に連れて
行かれた。

 父ははじめは頑固に治療を拒否していたが、アデの兄たちの
すすめに従って、薬を飲み始めた途端、見る間に体力が衰えて、
亡くなってしまった。

■3.チベットから帝国主義侵略勢力を追放する■

 1951年の始めに、ダライ・ラマ14世は、中国政府の要求に
より、チベット代表団を北京に送った。

 この時、ダライ・ラマは弱冠16歳だったが、租税徴収の公
正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発
揮し始めていた。しかし平和な宗教国家として、わずか850
0人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に
屈するしかなかった。

 チベット代表団は、17項目の協定案を最後通牒として提示
され、従わない場合は、より以上の軍事行動を展開する、と脅
迫された。ダライ・ラマの訓示を仰ぐことは禁ぜられ、中国側
が偽造したチベット印璽で、調印することを強要された。

 その第一条は、以下の文面であった。

 チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢
力を追放すること。チベット人民は母国中華人民共和国の
大家族に復帰すること。

 これには、二重の虚偽が含まれている。第一に、この時、チ
ベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、外国勢力
といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だ
けであった。[2,p100]

 第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に
史実をねじ曲げたものだった。チベットは、史実の伝わる13
00年以上の歴史を通じて、かつて漢民族によって支配された
ことはない。元と清の皇帝はラマ教(チベット仏教)に帰依し、
チベットの宗主国の立場にあったが、前者はモンゴル民族であ
り、後者は満洲民族である。漢民族はそれらの帝国の植民地の
一部であったにすぎない。[2,260]

 協約の第2条は「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベ
ットに入って国防を強化するのを積極的に助けること」、第8
条はチベット軍を中共軍に併合する事を規定し、第14条は、
外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪していた。

 協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、中共軍一万
人規模の駐屯が始まった。

 かれらは何一つ携帯しては来なかった。ことごとくわれ
らの貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。穀物
の価格が突如として約10倍にも高騰した。バターが9倍、
一般穀物が2倍ないし3倍になった。ラサの民衆は飢餓の
縁まで零落した。[2,p98-103]

■4.夫の急死■

 1955年春、アデに長男チミ・ワンギャルが生まれた。しかし、
この時には、夫サンドゥ・パチェンは、アデの兄たちや、姉の
夫ペマ・ギャルツェンとともに、中共軍と戦う決意を固めてい
た。

 翌56年の早春には、多くの地域で戦闘が始まっていた。サン
ドゥは、アデと幼いチミを、ラサにいる裕福な親戚のもとに避
難させる事にした。

 出発に先立ち、地域の人を集めて送別の宴を開いた。ところ
が、サンデュが出された肉を食べた途端、胃をかきむしり、叫
びながら地面に倒れた。アデは彼のもとに駆け寄った。何人か
の人々が村医者を呼びにいった。しかし、サンデュは医者が来
る前に、あっけなく死んでしまった。彼の皿に毒が入れられる
所を見た人はいなかったが、中国側のしわざと誰もが思った。

 多くの友達や家族が、遺体の周りに立って泣いた。すべてが
一瞬の出来事だったので、アデは呆然とするばかりだったが、
目から涙がこぼれだした時には、気を失って倒れた。この時、
息子のチミは1歳、アデは次の子どもを宿していた。

 アデに実の母親のようにやさしくしてくれた姑のマ・サムプ
テンは絶望状態に陥り、息子の死の衝撃から立ち直れずに、半
年後に亡くなった。アデは息子とともに、実家に戻った。
 
■5.「民主改革」始まる■

 56年春にはカンゼ地区での「民主改革」が始まった。僧院の
所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。耕作はミミズ
や虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許され
ていなかった。このチベット仏教の教えを否定するために、僧
たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。

 人民裁判がさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は
雇い主を、僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。ア
デは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせら
れ、中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。群
衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。

 民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。アデの指
輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、古
いすり切れた洋服だけが残された。中国兵たちは、仏壇から仏
像を持ち出し、「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどう
かを見てみよう」と言って、射撃の的にした。

 貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。
後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。この
方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、後には、竹
串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。

■6.アデの逮捕■

 カンゼ地区の男たちは、森に潜伏して、中共軍にゲリラ戦を
挑んだ。アデは5〜60人の女性とともに、密かに中国側の動
きを伝え、食料を供給する役を果たした。抵抗組織のリーダー
の一人は、義兄のペマ・ギャルツェンだった。

 各地の抵抗組織は、中共軍の駐屯地を攻撃し、多大の損害を
与えた。しかし中共軍は、飛行機による爆撃や、数万人規模の
兵力を投入して反撃した。チベット亡命政府の発表では、戦闘
による犠牲者は43万人に上るとされている。[3,p102]

 ペマ・ギャルツェンも、カンゼ地方の中国人行政官を夜襲し、
高級将校二人とともに、殺害した。この成功の知らせはチベッ
ト中の人々の望みを高まらせた。

 しかし、この事件で、アデの兄オチョエを含む地区の行政委
員が告発され、処刑されると発表された。ギャルツェンは、オ
チョエを救うべく、仲間とともに山を下り、投降した。

 ギャルツェンの仲間の一人が、拷問の末、支援者としてアデ
の名を漏らし、早朝6人の中国兵がアデを逮捕しに来た。アデ
が子どもたちをおいてはいけないと抵抗すると、彼らはアデを
殴ったり、蹴ったりして、ロープで縛った。泣き叫ぶ息子のチ
ミがアデにまとわりつくと、中国兵は押し返して、ブーツで蹴
り上げた。なおも抵抗するアデを家の外まで引きずり出した。

■7.我々は、お前を一生苦しめたいのだ■

 アデに仲間の名前を白状させようと、中国兵たちは拷問を続
けた。両手を頭の上にあげて、二つの鋭い三角形の木の上にひ
ざまづくよう強要された。腕を下げると、ライフルの柄でひじ
をなぐられた。またある時は、極細の竹棒を人差し指の竹の間
に、第一関節まで少しづつ突き刺していった。

 獄中では、何ヶ月も手錠をかけられたままだったので、両手
とも手のひらまで腫れ上がった。監獄の仲間たちは、そんなア
デの食事や用足しを助けてくれた。それでもアデは仲間の名前
を白状しなかった。

 ある朝、アデは車で軍司令部の近くの平原に連れて行かれた。
膨大な数の群衆が集まっていた。横20センチ、縦10センチ
ほどの板が首にかけられた。

 そこに義兄のペマ・ギャルツエンが、同じように首に板をか
けられた姿で、連れてこられた。アデとペマは向かい合ってひ
ざまづかされた。ペマは両手を後ろにきつく縛られ、のどにも
ロープを巻きつけられて、ろくに話すこともできない状態だっ
た。それでも、殴られて赤く腫れあがった顔で、アデにほほえ
みかけた。拡声器から声が流れた。

 本日、我々はペマ・ギャルツェンの処刑を行う。アデ・
タポンツァンは、残りの人生を通して苦しませるという判
決が下った。本日、彼女には16年の「労働による矯正」
が宣告された。

 二人は立ち上がるよう命ぜられた。アデは「さあ、早く三宝
(仏法僧)に祈りを捧げるのよ」と言った。ペマはうなづいた。
後ろから2発の銃声が聞こえ、ペマはアデの前に倒れた。脳の
破片と血液がアデの服の上に飛び散った。

 アデは中国兵に、自分も殺してくれ、と頼んだ。

 だめだ。もしお前を殺しても、いま目の前にいるペマ・
ギャルツェンと同じだ。一瞬で終わってしまう。我々は、
お前を一生苦しめたいのだ。もう誰が勝ったかわかってい
るな。

 拡声器は、「自分たちのいうことを聞けば、幸せな生活が待
っている。さもなければ、ペマ・ギャルツェンと同じ運命が待
っている」と群衆に叫び続けた。

 1959年晩冬の日だった。この日からアデは各地の収容所を転
々とし、強制労働に耐えつつ、持ち前の強い気力で餓死や病死
をまぬがれた。釈放されたのは、26年後、1985年のチベット
正月であった。
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