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小野式製麺機を分解してレストア(4)(まとめ1)

<手順>
分解

各部清掃・さび取り

塗装、部品製作

組み立て

◎カレンダーの裏側などを準備して、ばらしながら設計図を書くこと。
 組み立ての際使用するので、自分さえわかればよい。
 各心棒がどこのものか、ネジの長さ、ワッシャー有無など。
 木製スペーサーはどれがどの位置にあったのかも覚えておきたい。

○手順(勝手な私の思い)
まず底板を外す。
 ↓
続いてドライバーで外せるところを。
ローラーの目詰まり等を防ぐ真ちゅう製のクシ状、板状のパーツ。
((注)このパーツは両側の鉄板を固定しているので必ずローラーより先にはずすこと)
ローラー位置調整に間に挟まれている眼鏡橋みたいな薄い板など。
 ↓
歯車の割りピンを外す
 ↓
歯車・ローラーと心棒をつなげている平行ピンを外していくのだが、眼鏡橋パーツを外したら多少すき間ができるので、そこを利用して少しずらせば平行ピンが取り出せるようになる。
外の歯車に1、ローラーに1みたいな感じ。
ローラー内部はそれほどさび付く構造ではないので、組み立て時に多少潤滑油をいれれば大丈夫。
心棒のゆがみ、心棒端っこの変形、鋳鉄の割れなどにつながるので、あまりハンマーなどの力技に持ち込まないほうがいいかと。


○分解について
ネジ山さえつぶさなければ問題ないのだが、今回は全体のうち、1本だけ完全につぶしてしまったので、ネジの頭にドリルっぽくねじ込んでインパクトドライバで外すタイプのものを買ったが、結果的にさび付きに負けて失敗し、役に立たなかった。
やむなくその部分を、スプレー式潤滑剤1本全部の中身を取り出した液に一昼夜つけておいたら、ペンチで簡単にとれた。
これは偶然そのパーツが取り外せてそこそこの大きさだったからよかったが、そ うでない場合は困ったかもしれない。
また、専用の工具をどうせ買うなら、ほぼ同価格でペンチタイプの「ネジザウル ス」を買ったほうが後々も他の用途に使えてよかったのかも。

組み立てる時のために、部品を外すごとに写真を多めに撮っておくこと。
レストア終了後、比較するのも楽しいので、ポジションも考えて。

機械類の分解の際の基本だが、バットなどの入れ物に取り外したパーツをもれな く入れていくこと。




○鉄のパーツ
本体鉄部は、ブラシ、ワイヤーブラシでさび落としを行い、部分的にサンドペーパーややすりをかけたのち塗装。
妙に色が薄いと思っていたら、この薄緑色は上塗りしたようだ。
分解しないと塗られない部分までは至ってないので、前オーナーがたまたまペンキが余っていて塗ったのか。

仕上げにこだわるのなら平らになるまでペーパーがけを。
私はそこまでやりませんが・・・・・・。

まずビアンキ補修用だったチェレステ色(薄緑)のスプレーが余っていたのでそれを下地用とした。
最終色となる濃い緑色については、NEWワイドスプレーと、それと同色の缶(小)で、気の済むまで重ね塗りをした。
普通に家庭で使うならそうそうサビが再度出てくることもないのでスプレーだけでもOK。
筆は、大きめのはけ状のものと、幅1cm未満の絵筆くらいのものがあればよい。
水性塗料って楽でいい。
塗装については、パーツ部分を対応している合間にちょこちょこやるといい。

文字部分をオリジナルっぽく金色にしようとも思ったが、塗料も手元にないし、家の中でしか使わないので、そこまでやる必要もないと思いよした。

レストア1台目でお試し気分だったし、早く使いたいという思いが先に立ちすぎ て、今回塗装に関しては(いやすべてか)あまり気を使わなったが、きちんと下地処理後に塗装したほうが見た目はよいであろう。
(現在も塗料などが余っており、次々レストアしたかったがブツがオークション 市場で高騰しており2台目以降は未定というか、もう無理かも)


表になっている部分


ネジを外してバラしたパーツ


近影


調理の一例






(ネクストコナン)

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中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ小史(下)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■




 朝日は、中国の国内代弁者としてモンスター国家の成長に一役買った。


■1.「国外追放になる記事はあえて書く必要はない」

 ソ連崩壊後、朝日新聞は代弁の依頼元を中国に乗り換える。その伏線が昭和42(1967)年の親中派・広岡知男氏の社長就任だった。

 昭和39(1964)年に日中記者交換協定が締結され、日中双方が8人ずつの記者を相手国に常駐させるようになった。しかし、日本側の記者が、次々と「反中国報道」を行ったなどの理由で国外追放になり、1970(昭和45)年には朝日の秋岡家栄・特派員のみが北京に留まっていた。

 広岡社長は他紙からの批判をものともせず「こう書けば国外追放になるという記事はあえて書く必要はない」と秋岡特派員に指示していた。秋岡特派員はこの指示を忠実に実行した。たとえば1971(昭和46)年9月に中国共産党副主席だった林彪がクーデターに失敗して、ソ連に向かって飛行機で脱出する途中、モンゴルで墜落死した。

 この年の国慶節パレードが突然、中止されたため、重大な事件が起こったのではないか、という観測が世界に広まったが、秋岡特派員は「北京の様子はまったく平静」などと否定した。

 日本の各紙が林彪失脚を記事にする中で、朝日だけが現地からの否定記事を送り続けた。朝日が「林彪すでに死亡」と報じたのは、翌年7月に毛沢東がそれを認めた後だった。[a]


■2.文化大革命は「世紀に挑む実験」

 この頃、中国では10年余におよぶ「文化大革命」が吹き荒れていた。その始まりは1966(昭和41)年だったが、同年5月2日付け社説では、中ソ対立を機に、中国がソ連とは別の道を歩み始めていた事を踏まえて、次のような期待感を表明した。

__________
 そこには、いわば「道徳国家」ともいうべきものを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする「世紀に挑む実験」といった意欲も感じられなくはないのである。[1,p185]
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 しかし、この期待感は、紅衛兵たちの蛮行によってすぐに裏切られる。「紅衛兵」の腕章をつけた少年少女が北京市内にあふれ、大人を「私は革命に反対した」というプラカードを持たせて、市中を引き回したりした[b,c]。朝日はこの暴走を「理性的配慮を欠いている」などと批判しつつも、こんな強弁で弁護した。

__________
 スターリンは、反対者をおさえるのに血の粛清をもってした。中国では、こんどはもちろん、以前にもそれがほとんどなかったことは、大きな進歩である。・・・中国が人間改造という途方もない大事業に乗出した意義と影響を、冷静に見守る必要があろう。{1,p187]
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■3.「日本軍国主義復活」

 広岡社長は昭和45(1970)年3月から1ヶ月近くも、日中両政府の「覚書貿易交渉」の日本代表にくっついて、中国に滞在した。なんとか日中国交回復を実現させたい、という思いからであった。

 後に回想録で「現役社長が、株主総会もすっぽかして1ヶ月も中国に滞在していて、いったい何をしていたんだと社員からも、世間からも責められる破目になった」と自慢げに書いているが、明らかに新聞社社長としての立場を逸脱した入れ込みようであった。

 しかし、広岡社長が夢見ていた周恩来首相との単独会見は叶わず、日本代表団に混じっての集団会見参加しか許されなかった。その会見記事には周恩来首相の発言しか掲載されていない。これでは平特派員とかわらず「何をしていたんだ」という批判も当然である。

 その周恩来は佐藤栄作・自民党政権の沖縄返還、日米同盟堅持、防衛力強化を「日本軍国主義復活」と批判し、朝日はその発言を紹介した上で、さらに社説でこう述べた。

__________
「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力となっている」とか「沖縄の返還は全くのペテンだ」と中国側は主張した。・・・ われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。だが「復活」の危険な情勢にあることは、・・・認めざるを得ないと思う。[1,p170]
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■4.「安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を」

 おりしも、70年安保改定が進められていた。日米安保条約の自動延長が決まった同年6月23日付け社説はここまで述べている。

__________
 日中関係の正常化こそ、わが国の恒久的な安全保障の条件なのであり、“選択の70年代”の課題は、対米関係の調整に立った安保条約の解消と、日中関係正常化への努力を並行して進めてゆくことである。[1,p173]
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 以後、朝日は「日中関係正常化」に邁進するが、それは「日米安保の解消」とセットになった進路であった。自主防衛力強化にも反対しており、それは中国の属国になる道に他ならない。

 広岡社長は帰国後、「日中友好」に血道を上げる。昭和46(1971)年4月には日中親善卓球大会を後援し、中国出土文物展を開催、47年の上海バレエ団公演では資金集め等、すべての実務を担当した。

 それ以前、日本国民にとって中国は「得体の知れない不気味な国」だった。昭和45(1970)年5月時点の時事通信社による世論調査では、中国を「好き」と答えた人はわずか2.5%であり、対中貿易は日本の貿易総額のわずか2%しかなかった。朝日の「奮闘」がなければ、その後の「日中国交正常化」そのものが不可能だったかも知れない。[d]


■5.朝日が始めた「南京大虐殺」キャンペーン

 中国の「日本軍国主義」批判に呼応して、朝日はその援護射撃をするかのように、自虐史観の宣伝を始めた。昭和46(1971)年8月26日夕刊から連載を開始した、本多勝一記者による「中国の旅」である。

 その中には「百人斬り競争」の記事がある。南京戦で、二人の日本兵がどちらが先に100人の中国人を殺せるか競争した、という戦中の東京日日新聞(毎日新聞の前身)の虚構の戦意高揚記事を、「日本軍の残虐行為」という視点で、書き直したものだ。

 後に山本七平氏が、日本刀で3人も斬れば使い物にならなくなり、ましてや「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、木刀でマキを切れないように物理的に不可能な点を指摘した。[e]

「中国の旅」の虚報に対して、様々な識者から批判されたが、本多記者は「中国で聞いた話を記事にしただけで、文句があるなら、中国側に言え」と突っぱねた。聞いた話が事実かどうか確認してから記事にするという基本も無視して、日本軍の「残虐行為」だけを書き散らした、まさにプロパガンダそのものである。

 ここから日本軍が南京で30万人規模の虐殺をしたという「南京大虐殺」のキャンペーンを、中国と朝日や日教組などの国内左翼勢力が連携して行い、日本人に中国に対する贖罪意識を持たせ、その上で「日中国交正常化」を中国ペースで進めた。

 林彪事件や文化大革命のように中国に都合の悪い事実は書かず、中国側の主張を繰り返し、「日中友好行事」に邁進すつつ、日本国民に虚構の「南京大虐殺」を刷り込んで贖罪意識を持たせる。中国にとって、朝日は日本国内における理想的な「工作機関」だった。


■6.日清戦争以来の中国侵略と「反共の障壁」を自省せよ

 昭和47(1972)年2月、親米・親台湾を信条とする佐藤栄作政権が末期を迎えると、周恩来は「日本軍国主義批判」をぴたりとやめ、次期首相と目される田中角栄を中国に招待した。

 首相となった田中角栄は、マスコミに「今太閤」と持て囃されるなか、内閣発足3ヶ月足らずのうちに、中国を電撃訪問し、「日中国交正常化」を謳い上げた共同声明を発表する。[d]

 これを朝日新聞は、広岡社長による「日中正常化と日本の進路」と題した論説を1面トップに掲げて、こう述べた。

__________
 去る9月25日、北京の人民公会堂で開かれた日本代表団の歓迎夕食会において、周恩来首相があいさつの中で「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」とのべて、日本の侵攻の起点を日清戦争としていることは、見逃してならぬ点であろう。・・・

明治維新によって、先進国の技術を取り入れ、近代国家に頭を突っこんだ日本が、富国強兵政策によって起こした中国との衝突が日清戦争であった。それ以降の日本人の頭の中には、侵略される側の犠牲を考える意識はなくなり、戦いに勝ち、国を取ったことによる国民の士気高揚のみが残った。[1,p173]
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 日清戦争まで日本の「侵略」とするのは、まさに中国側に立った特異な史観である。さらに同日の社説「共同声明の歴史的重み」は、こう述べた。

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 新しい日中関係の歴史は、戦前にさかのぼるわが国の中国侵略と、反共の障壁をかまえてきた戦後の外交政策に対する深い自省を起点とすることによって、初めて開かれる。[1,p174]
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「反共の障壁」とは、日本がアメリカと同盟を組み、西側陣営に属してきたことを指す。戦後のわが国は、日米同盟によって平和が保たれ、自由主義経済、貿易によって、奇跡的な復興を遂げた。それを「自省」し、文化大革命や大躍進政策で、数千万の犠牲を出し、経済も疲弊していた中国と共なる道を歩むべしと、朝日は説くのである。


■7.教科書検定の誤報

 宿願の「日中国交正常化」を果たした後も、朝日は中国の代弁者として忠勤に励む。中国は日本国民に贖罪意識を持たせつつ、それをテコとして賠償金がわりに経済援助を引き出す戦術をとった。そのためには日本国民の自虐史観を維持することが必要だった。

 昭和57(1982)年6月26日、朝日は一面トップで「教科書さらに『戦前』復帰へ」「文部省 高校社会中心に検定強化」「『侵略』表現薄める/古代の天皇にも敬語」と大々的に報道した。


 各紙で一斉に同様な報道がなされた事から、ある共通の情報元からの意図的なプロパガンダがなされたのだろう。特にこの年、9月に鈴木善幸首相が日中友好10周年記念行事で訪中を予定していたので、それに狙いを定めたようだ。

 朝日記事は、検定前と検定後の違いを一覧表にして、「日本軍が華北を侵略すると・・・」を「進出すると」、「中国への全面侵略・・・」を「全面侵攻」に訂正された、と指摘したのである。

 この報道を踏まえて、中国政府は日本側に正式抗議してきた。朝日の挙げた「華北侵略」の例をそのまま使っており、その報道に依拠したものであることは明白であった。

 その後、「侵略」を「進出」に書き換えた事実はなかった事が明らかになったが、朝日はわずか15行の「誤報訂正記事」を出しただけで、逆に「『侵略』抑制、30年代から一貫」と題する9段抜きの長文記事を出したりして、問題を煽り続けた。[f]

 この事件が外国政府が日本の教科書に口出しをする悪しき前例となり、教科書検定に「近隣諸国に配慮する」という「近隣諸国条項」が盛り込まれ、わが国の歴史教科書は自虐史観の度を強めていく。

 さらに、この傾向に歯止めをかけようと執筆された「新しい歴史教科書をつくる会」による『新しい歴史教科書』に対しても、朝日は「「中韓懸念の『つくる会』教科書」「中韓など反発必至」などと大々的な非難キャンペーンを行い、これに呼応するように中国政府が抗議をしてきた。中国とその代弁者・朝日は息のあった連携を見せ続ける。[g]


■8.朝日が貢献したモンスター国家の成長

 また中国は首相の靖国参拝については、まったく問題にしていなかったのに、昭和60(1985)年8月15日の中曽根首相の参拝に突然、非難の声をあげた。これは親日派・胡耀邦をターゲットにした共産党長老たちの権力闘争が背景にあったと考えられるが、以後、朝日は靖国参拝に関しても、執拗な日本政府攻撃を続けて「軍国主義批判」を援護射撃する。[h]

 権力闘争の末に天安門事件が起こり[i]、国際的な経済制裁を受けると、中国は天皇訪中をきっかけにした日本の制裁解除を目論み、朝日もこれを後押しして、実現させた。[j]

 こうして中国は共産党独裁体制を温存したまま、経済・軍事大国化し、わが国のみならず台湾、フィリピン、ベトナムなどの周辺諸国に軍事的な圧力をかけている。このモンスター国家を育てた大きな要因は、日本の経済援助と日本企業進出である。

 朝日に代表される親中マスコミがプロパガンダ報道ではなく、大躍進、文化大革命、天安門事件、さらにはチベットやウイグルでの蛮行を正確に伝えていたら、国民も警戒して、対中援助もこれほどには行われず、日本企業の進出ももっと抑制的となり、天安門以降の経済制裁も長期化していたろう。

 わが国は中国の巧みな外交戦略に乗せられてきたのであり、それは朝日という国内代弁者がいなければ成功しなかった。仮に国内代弁者なく、中国政府だけが同様の主張をしてきたとしたら、日本国民はかくも見事に騙されなかったろう。

 今後、このような過ちを避けるためには、わが国のマスコミが外国政府の代弁者ではなく、正確に事実を報道しつつ、日本国民のための言論活動をする、という本来の報道機関に戻ることが不可欠である。

(文責:伊勢雅臣)
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中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ小史(上)(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■




 敗戦直後からソ連崩壊まで、朝日新聞はソ連の忠実な代弁者として発言してきた。



■1.我が国の自由民主主義を破壊するプロパガンダ

 朝日新聞が「慰安婦問題」での32年も前の「誤報」を認めた事から、新聞、週刊誌、ネットが大炎上している。「誤報」と括弧つきで書くのは、弊誌にはそれが意図的な「誤報」、すなわち政治宣伝(プロパガンダ)だったとしか思えないからだ。

 朝日が、慰安婦は日本軍によって強制徴用された「性奴隷」だと誤認し、人道的な観点から謝罪や補償を訴えたのなら、まだ救いがある。その事実誤認が分かり次第、自ら謝罪して、正しい事実を広めようと誠実な努力をする限り。(その姿勢が全く見られないから、大炎上しているのだが)

 しかし、仮に朝日が韓国や中国の意向を受けて、誤った事実と知りながら、世界に訴えてきたとしたら、どうだろう。それは意図的な虚報によって、日本の国益・名誉を損ない、中韓を外交的優位に立たせる行為である。

 これを世に「売国行為」と言う。しかし、弊誌ではそのような悪罵よりも、確かな事実と自由な言論に基づく議会制民主主義を破壊して、かつてのソ連や現在の中国のような全体主義社会をもたらしかねない危険なプロパガンダであると批判する。

 弊誌では、20年近く前から、28号「平気でうそをつく人々」[a]や42号「中国の友人」[b]を初めとして朝日のプロパガンダを批判してきた。「慰安婦問題」に関する「誤報」は、中ソの代弁者として活動してきた朝日新聞の戦後70年の歴史のほんの一幕に過ぎない、と弊誌は見る。

 以下、その歴史を振り返ってみれば、この点は明白となろう。


■2.国際共産主義団体コミンテルンに協力した朝日記者

 朝日が中ソの代弁者となる予兆は、すでに戦前からあった。朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)は特派員として昭和2(1927)年から上海に駐在し、リヒャルト・ゾルゲと親交を結ぶ。ゾルゲはドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。


 尾崎はその後、朝日を退職して近衛内閣の嘱託となり、日本と蒋介石政権を戦わせて共倒れにさせ、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」を実現しようとするコミンテルンの方針に協力して、さかんに日本軍の中国大陸進出をけしかける記事を発表した。[a]

 その後、ゾルゲは在日ドイツ大使の私設情報官となり、尾崎と緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流した。二人は昭和16(1941)年に逮捕されて、死刑に処せられる。

 尾崎秀實の所行は、朝日新聞社とは関係のない、あくまで異端分子のものだろうか。当時は、ソ連が誕生したばかりで、共産主義の理想が巧みに宣伝されて少壮軍人や革新官僚などを洗脳していた。

 当時の知識人が集まっていた朝日の中にも、ソ連シンパが潜んでいたとしても不思議はない。戦後の朝日の報道ぶりを見れば、尾崎は氷山の一角だった、という事が見えてくる。


■3.朝日の共産主義運動への参加宣言

 敗戦から3ヶ月足らず後の昭和20(1945)年11月7日付け一面で、朝日は「国民と共に立たん/本社、新陣容で「建設」へ」という宣言を掲げた。戦争中、軍部に協力した報道責任をとるために、社長以下全重役、編集幹部が辞職し、今後は「あくまで国民の機関たることをここに宣言する」と述べた。

 同日の社説では、この「国民」とは「支配者層と判然区別せられたる国民でなければならない。それは一言にして言えば、工場に、職場に、農山村に働く国民のいひである」として、「新聞の担(にな)ふべき究極の使命は、働く国民の間から生まれるべき日本民主主義戦線の機関たることでなければならない」と明言した。

 朝日の言う「国民」とは、支配者層と区別された「労働者階級」であり、その「民主主義戦線」とは当時の日本共産党が唱えていた「民主戦線」に他ならない。「共産主義」の言葉こそ隠しているが、これは朝日の共産主義運動への参加宣言であった。

 この「宣言」の起草者は、後にマルクス・レーニン主義に強く傾き、毛沢東信奉者となる森恭三であった。戦時中の経営者層の退陣と同時に、尾崎秀實の後継者たちが実権を占めるようになったのである。


■4.サンフランシスコ講和条約への反対

 ソ連の代弁者としての報道が本格化したのは、日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約に際してである。当時はすでに朝鮮戦争の最中で、米ソの対立が表面化していた。ソ連は東欧に鉄のカーテンを降ろし、中国大陸を赤化し、今また中国軍を使って朝鮮半島に触手を伸ばしていた。

 この講和条約の意味する所は、時の吉田茂政権が、日本は米国を中心とする自由主義陣営に立ってソ連の侵略から国を守る、という道を選択したことであった。[d]

 しかし、朝日を中心とする左翼勢力は、これを「単独講和か、全面講和か」という問題にすり替えた。「全面講和」とは、ソ連と共産圏諸国を含めた全関係国との講和という美辞麗句で、現実に米ソが対立している以上、それは実現不可能な空想であり、それではいつまでも独立回復などできない事は明らかであった。

 一方の「単独講和」とは、米国を中心とする自由主義陣営との講和であるが、講和に賛成したのは48カ国、反対したのはソ連、チェコ、ポーランドの3カ国だけだったので、実質は「多数講和」である。これを「単独講和」と呼ぶのは、日本国民に国際社会の現実を見せまいとするプロパガンダそのものであった。

 朝日は、講和会議でのグロムイコ・ソ連首席全権の発言をそのまま伝えている。

__________
 日本は米国の軍事基地に転換されつつある。対日講和条約の目的は米軍を日本に駐在させることにあり、米国は「老練な戦争誘発者」たるダレスの指導下に「侵略者の連合組織」を打ち立てようとしている。[1,p69]
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「全面講和」などという日本人の琴線に触れる虚構で、ソ連にとって好都合な世論誘導をしてくれる、まことに得がたい代弁者が登場したのである。


■5.「日本を他国の戦争にまきこむ危険」

 米ソ対立の中で、日本の進路の第二の岐路は「60年安保闘争」であった。これは日米安保を、単に米軍に基地提供するだけの条約から、日米共同防衛、また在日米軍の配置や装備に関する両国での事前協議など、より対等の同盟に近づけようとする改訂であった。

 これに関して、朝日は昭和34(1959)年10月9日付けの社説「なお消えぬ安保改定への疑念」で次のような主張を展開した。

__________
 核兵器の持込みを含む、在日米軍の装備の重要変更と日本領域外における作戦行動は、これを「事前協議」するとしているが、なぜこれを単なる協議でなく、同意を必要とすると明記できないのか。・・・

「事前の協議を」を必要と認めた政府が、日本の安全を第一に考えなければならない安保条約に、日本を他国の戦争にまきこむ危険をもつ、日本領域外の米軍の作戦をどうして認めようとするのか。[1,p80]
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「日本を他国の戦争にまきこむ危険」とは、前節のソ連による「日本は米国の軍事基地に転換されつつある」と同じ見方である。そこには、ソ連の侵略からどう国を守るか、という視点が欠落している。以後、この「捲き込まれ論」は日米同盟反対の一つ覚えの論法として繰り返される。最近の集団的自衛権での騒ぎでも同様である。

 朝日の主張するように、もし在日米軍の作戦行動に日本の同意を必要とするとしたら、いかなる作戦行動であろうと、社会党が国会でごねて在日米軍を一歩も動かせなくなる。ソ連から見れば、在日米軍の動きを阻止する上で、実に効果的なくびきとなったろう。


■6.ソ連軍事増強よりも「我が国の防衛力強化」を懸念

 昭和50年前後には中国はソ連と対立するようになり、日米接近を図った。ここで朝日は親中派の広岡知男社長の旗振りで「日中友好」に大きな役割を果たしたが、これについては後編に譲る。

 昭和52(1977)年に、モスクワ特派員の経験もある親ソ派・秦正流が専務取締役編集担当となると、ふたたび親ソ派が社内で実権を握った。そして「ロシア・ソビエト国宝絵画展」「全ソ民族舞踊アンサンブル」「建国60周年記念ソビエト連邦展覧会」「ロシア美術館名品展」「ソビエト映画フェスティバル」と親ソ行事を次々と主催または後援して、ご機嫌取りに奔走する。

 昭和54(1979)年10月初め、ソ連が日米中の接近を威嚇して、国後、択捉島に5、6千人の約1個旅団と約50両の戦車などを配備したと防衛庁が発表すると、朝日は「もはや軍事力を背景にして、外交を展開する時代ではないのではないだろうか」と、まるで他人事のような前置きをした後、こう言い切った。

__________
 われわれは、今回のソ連側の動きに対して、国内で不必要な反応が生じることも防がねばならぬ。・・・ 今回のソ連軍基地増強が、我が国の防衛力強化論につながるおそれがあるからだ。[1,p130]
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 朝日にとっては、ソ連の軍事基地増強よりも、日本の防衛力強化の方が危険のようだ。ソ連から見れば、そうに違いない。

 ソ連は日本側の世論工作のためか、同月末にノーボスチ通信社社長一行を派遣し、朝日新聞東京本社を訪問させた。中江編集局長が対談で、北方領土の軍事力増強について質問すると、トルクノフ社長はこう答えた。

__________
 それらの情報は周知の通り、米国の軍事筋によってあおられたものであり、明らかに一定の目的を追求している。・・・いわゆる「ソ連の軍事的脅威」についてのペンタゴンのグローバルな宣伝キャンペーンだが、実際には存在せず、それを隠れ蓑にして米国と日本をふくむその同盟国の軍事力の増強が行われている。[1,p132]
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 自国に脅威を与えている軍事増強に対して、中江編集局長は食い下がることもせずに、このトルクノフ社長の発言をそのまま記事にして流した。まさにソ連の忠実なる代弁者であった。


■7.ソ連の「立場を正しく理解することが必要」

 昭和56(1981)年に、日本政府が2月7日を「北方領土の日」と定めると、朝日は猛烈に反対した。

__________
 ・・・東西の緊張が高まり、内外に右旋回が著しくなるなかで、「北方領土の日」をテコとした国民運動が誤った方向にねじ曲げられたら、所期の目的を達せられなくなるおそれがある。・・・いたずらに「ソ連脅威論」であおったり、右傾化のバネに利用してはならない。[1,p145]
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 相変わらず、ソ連の脅威を論ずることは「右傾化、軍事力強化のテコ」という論法である。同時に、相互信頼の確立に不可欠なのは、北方領土に対するソ連の「立場を正しく理解することが必要」として、こう力説する。

__________
 ソ連は第二次大戦において、世界で最も大きい人的、物的被害をこうむった。それゆえに第二次大戦の結果にソ連がこだわるのは、決して理由のないことではないのである。北方領土問題は、ソ連にとって国際法の問題というよりは、多くの犠牲のもとにえた結果を失えぬという、国益と感情問題なのである。[1,p148]
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 史実を見れば、ソ連が第二次大戦で受けた被害のほとんどはドイツとの戦いによるものであり、北方領土は終戦間際に我が国との中立条約を踏みにじって、武力で奪ったものだ。この点での自国の「国益と感情」を押し殺して、ソ連の「国益と感情」を「正しく理解せよ」と説くことは、筋金入りの代弁者でなければ言えないセリフだ。


■8.ソ連崩壊で代弁者の豹変

 ソ連は平成3(1991)年に崩壊し、新たな連邦「独立国家共同体」に生まれ変わった。

 これは西側諸国との軍拡競争でソ連経済が耐えきれずに崩壊した結果であった。極東においては、自衛隊と在日米軍がソ連軍と対峙し、その消耗を加速させた。朝日のいままでの論調と正反対に、日米同盟と自衛隊強化が、ソ連という最大の軍事的脅威を取り除いたのであった。

 ソ連の忠実な代弁者だった朝日は、この事態に豹変する。同年8月25日付け社説はこう述べた。

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「自由な共和国による揺るぎない連邦」。スターリンの時代以来、ソ連の指導層は自国をこうたたえてきた。それは建前にすぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGB(JOG注:秘密警察)などの「鉄の腕」に締め上げられてきた。・・・

 新連邦条約は何より、忌まわしい過去を清算し、これまで建前に過ぎなかったものに実質を与えるものでなければならない。[1,p163]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「鉄の腕」「忌まわしい過去」とは、よくも言ったり。代弁者は、落ちぶれた依頼人を、手のひらを返したように見捨てた。しかし、朝日の代弁者としての本質は変わらない。

 今度は新しい依頼人、「中国」のために奔走するようになる。
(以下、次号。文責:伊勢雅臣)
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