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■ 国際派日本人養成講座 ■
ココダの約束 〜 戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男
「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」
■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束
安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。
硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。
米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。
戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。[a]
国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。
しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。
そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。
■2.ハペル氏の驚き
オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。
現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」
この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議と生き抜いた。
そして戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきた、というのである。
この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。『ココダの約束』[1]である。こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。
■3.小隊56名中、戦死55名
西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。
日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の三分の二の距離にエフォギ村はあった。日本軍の志気は高く、皆がポートモレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。
エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃たれ、助けを求めて、うめいていた。
その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。弾丸が3発、彼の肩を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒した。
その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。
その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原がとっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。しかし、逆に腰を打ち抜かれ、一瞬にして死んだ。
こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。
■4.「この約束は必ず守る」
日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。
9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。
その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。
饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。
最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。そして、こう約束した。
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もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。[1,p106]
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西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。
残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。
■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ
西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャツにショベルといういでたちだった。
ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒されながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。西村の約束を待つ英霊たちが彼を護っていたのかもしれない。
敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。
しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。
昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。
それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけが父を理解して家に残った。
西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。
■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」
西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。
多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。
ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした場所だった。
西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。
68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。
男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。
■7.「忠実なる英霊のために」
このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建てている。またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の決意が窺える。
一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。
西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。
自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。
西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。
■8.果たされた約束、果たされてない約束
2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。
1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸子との暮らしを始めた。相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。
西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。
安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。
我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。
(文責:伊勢雅臣)