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ぼくらの祖国を甦らせる「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」

■1.「奇跡の島」

 日米の最大の激戦が行われた硫黄島(いおうとう)は、アメリカでは「奇跡の島」と呼ばれている。戦後、日米の生き残った戦士やその子、孫、ひ孫が集まって、毎年早春に合同慰霊祭をやっているからだ。

 青山繁晴さんは、硫黄島で生き残った一人、金井啓さん(当時82歳)と会った時、この合同慰霊祭について、こう語った。

 それなのにそこにやってくるアメリカ軍の生き残りは、自分だけでなくて子や孫、ひ孫に至るまですべてアメリカ国民が支えて、つまりみんなみんな、税金で来ますね。アメリカ国民の支えによって、アメリカの政府とアメリカ軍の支えによってやってくる。

そして亡くなった方々は、ぼくが調べたらケンタッキーに帰った人も、ニューヨークに帰った人も、カンザスシティーに帰った人も、サンフランシスコに帰った人も、みなヒーローになって、そこで褒め称えられて祖国を守った英雄として扱われています。

 ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分たちで出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方はいまだに滑走路の下や岩の下に閉じ込められたままになっています。


■2.「この違いは何ですか。日米の違いは何ですか」

 日本から遺骨収容に行く人々は自費で硫黄島に渡り、政府に許されたごく一部の地域でしか、活動を許されていない。そして、米軍が作り、今は自衛隊が使っている滑走路の下には無数の遺骨が、今も眠っている。およそ2万人の戦没者のうち、遺骨として収容されたのは、いまだ8千数百柱に過ぎない。

 金井さん、この違いは何ですか。日米の違いは何ですか。ほんとうは、日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊ではなくて悪者だと教えてきたから、悪者だから忘れて良かった、悪者だから放っておいてよかった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使ってよかった、これが戦後日本の本当の真実なんですね。


 金井さんはそのとき突然、大きな声を出した。

「その通りっ。俺たちのどこが悪者なんだ。おまえたちのためにみんな戦ったんだ」

 そのたった一言を叫んで、金井さんはまた静まった。


■3.擂り鉢山

 青山さんは金井さんに会う前日、硫黄島に行っていた。硫黄島は東京都の小笠原村に属する昔からの日本の国土である。青山さんはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)の社有ジェット機に乗せて貰ったのだが、羽田からわずか2時間半、沖縄より近い。

 しかし、硫黄島は海上自衛隊の基地となっており、特別な許可がないかぎり上陸できない。青山さんは防衛庁と半ばケンカ混じりの交渉をして、「行くなら勝手に行け。ただし自衛隊は協力しない」とまで言われて、個人的にFNNのツテを辿って、ようやくやってきたのだった。

 ジェット機が島の上空に到達すると、慰霊のためにぐるりと一周して貰った。南端の擂鉢山は、その名の通り、擂り鉢(すりばち)の形をした火山であるが、その南側の火口が崩れている。アメリカ軍の艦砲射撃と爆撃により、火口が吹き飛んでいるのだ。この山にも張り付いていた日本軍将兵は、山の形が変わるまで砲撃されて、どうやって生きていられただろう。



 この擂り鉢山の頂を、激しい戦闘の末に占領した米兵のうちの6人が力を合わせて、星条旗を結んだ一本のポールを立てた。従軍カメラマンのローゼンタール記者がその光景を撮った写真は、ピュリツァー賞を受賞し、世界的に有名になった。

 アメリカはその写真を第二次大戦中最大の激戦の勝利を記念するものとして、そのまま立体の巨大な彫刻にして、首都ワシントンDCの広場に据え、自国のヒーローたちを称えている。

 わが国の観光客が、ワシントンDCを訪てその像の記念写真をとったりしているが、その陰に2万余もの同胞が犠牲になっていることをどれだけ知っているだろうか。ここでも、硫黄島のアメリカ軍将兵と、日本軍将兵とのそれぞれの国の処遇の違いは残酷なまでに明らかである。



■4.滑走路での土下座

 1944年12月、米軍はサイパン島などマリアナ諸島から爆撃機を飛ばして、日本本土の爆撃を開始したが、マリアナ諸島から東京までは往復5千キロもある。戦闘機は航続距離が足りなくて護衛できない。また爆撃機も被弾したり、故障したりすると、途中で海に落ちるしかない。

 マリアナ諸島と東京のちょうど中間にあるのが、硫黄島だった。米軍からしてみれば、硫黄島に滑走路を作れば、日本の本土爆撃をより効率的に、より少ない損害でできる。

 だから、米軍は硫黄島の戦いが終わる前から、必要な土地を制圧するや滑走路を作り始めたのだ。日本兵の亡骸を収容することもなく、その上からコンクリートを流し込んで、滑走路を作った。

 硫黄島が返還された後も、滑走路のごく一部が遺骨収容のために掘り返されたが、大部分は今もその下に日本兵の遺骨を下敷きにしている。

 ジョット機が滑走路に着陸し、倉庫の隅に機体を寄せた。小さな飛行機で、滑走路に降り立つステップは3段ほどしかない。しかし、青山さんの両足は凍りついたように動かない。

 その理由は青山さんには分かっていた。自分が滑走路に足を下ろしたならば、自分たちのために命を捧げた先人の頭や胸や腰を踏みつけることになるからだ。

 しかし、硫黄島に滞在できる時間は限られている。クルーは帰りに備えて機体の点検もしなければならない。青山さんは足を無理に動かして、地面に降りると、そのまま土下座をした。滑走路のコンクリートに手のひらを当て、その下にいるはずの英霊たちに語りかけた。

 これから硫黄島の中を見せていただいて、それをぼくが生きている限りは必ず国民のみんなにありのままお伝えしますから、今から島の中を見せてください。どうかお許しください。



■5.「これは実質的な敗戦ではないか」

 硫黄島の日本側の司令官、栗林忠通・陸軍中将は、武官として米国駐在経験もあり、米軍の物量作戦や戦略を見抜いていた。そして本土空襲を一日でも遅らせるために、硫黄島での戦闘を一日でも長く引き延ばすことを決心した。

 そのためには波打ち際で華々しく玉砕するのではなく、島内に地下壕陣地を作り、砲撃・空爆を凌ぎつつゲリラ戦にでる、という戦術をとった。

 中将は「自決をしてはならぬ」「万歳突撃をしてはならぬ」と命じた。どうせここで死ぬなら、最後は華々しく散りたいと願うのは人情で、この命令には反発もあったが、中将は各部隊を回って、自身の考えを説いた。

 結果から見れば、中将の作戦は成功した。2万余の日本将兵のほとんどが戦死したが、米軍も総員7万5千のうち2万6千近くの死傷者を出し、当初、島を5日間で占領する計画だったのが、36日間もかかった。

「これは実質的な敗戦ではないか」という一大論争が米国内に沸き起こった。小さな島一つ取るのにこれほどの被害が出るなら、ルーズベルト大統領の主張する無条件降伏を要求し続けて、日本本土決戦まで行ったら、どれだけの米兵の命が失われるのか、という疑問がつきつけられた。

 硫黄島戦の直後、ルーズベルト大統領が急死した事もあって、ポツダム宣言での有条件降伏に変更され、ようやく日本が降伏を受け入れられる余地が生じた。硫黄島2万余の英霊は、その死闘によって、和平への道を切り開いたとも言えるのである。


■6.地下壕

 青山さんは同行した海上自衛官らとともに地下壕の一つに入った。掘った道具は今も、そのまま転がっている。青山さんが見たのは、子どものおもちゃのようなトンカチだけだった。それだけでも手にできた人は幸運で、道具のない人は、生爪をはがしながら手で掘った。しかも、硫黄島は地獄のように暑い。掘っていったら、気温が70度にもなったと、わずかに生き残った兵は証言している。

 青山さんが入った地下壕は、草藪の中に、小さな縦に掘った穴が口を開いていた。両手を広げ、体をこすりながら、ストーンと真っ直ぐに下まで落ちる。底には、毛細血管のような細いトンネルが、横に続いている。灯りで照らすと、壁は全部、焦げている。米軍の火炎放射器に焼かれたのだ。

 横穴を、両腕を縮めて匍匐(ほふく)前進すると、突然、天井が高くなって、背が立つようになる。さらに進むと、びっくりするくらい広い部屋が突然、現れた。そこはまったく焦げていない。栗林中将は、米軍が火炎放射器を使う事を知っていて、この迷路のようなトンネルを作ったのだ。

 日本軍の将兵は、こういう地下壕から出没して、米軍に果敢なゲリラ戦を挑んだ。


■7.英霊の方々が本当に聞きたいこと

 青山さんは、我慢できなくなって、後ろについてきた海上自衛官たちに絞り出すような声で語りかけた。


 みなさん、これを見ましたか。

 生半可な努力でこんなものは掘れないよ。そして一番大事なことは、これを掘った2万1千人の日本の方々のうち、一人でも自分の利益のために、自分が助かりたいとか、自分の利益になるからといって掘った人はいるんですか?

 ひとり残らず、ただ人のために、公のために、子々孫々のために、祖国のために、それだけが目的で掘ったんですね。

 そしてこの掘った人たちを、私たちは戦後ずっと日本兵というひと固まりで呼んできました。ほんとうは大半が普通の庶民なんです。・・・

 ここにいらっしゃる、間違いなくこの部屋にいらっしゃる、この英霊の方々が本当に聞きたいのは戦争は悲惨でしたという話だけではなくて、今、自分たちが助けた女性と子供を手がかりにして甦っていった日本民族が、祖国をどんなよい国にしているのか、その話を聞きたいんだ。

 その英霊の方々にぼくたちは、日本はこんな国になりましたと言えるんですか。

 経済は繁栄したけれども、いまだ国軍すらないから隣国に国民を拉致されて、されたまま救えず、憲法はアメリカが原案を英語でつくったまま、そして子が親をあやめ、親が子をあやめ、さらにいじめられた子が自殺する。

 そういう国に成り果ててしまいましたと、この英霊に言えるのか。 ぼくたちの一番の責任はそこでしょう。



■8.「祖国を蘇らせる手がかり」

 地下壕を出ると、若い海上自衛官が、青山さんの目をまっすぐに見て、話しかけてきた。

 青山さん、私たち昼ご飯を食べていると、帝国海軍の方が横で昼飯を食べているんです。今まではただの幽霊だと思っていました。しかし本当は、おい、おまえたち、祖国はどんなよい国になった、今、話してくれ、祖国はいい国になったんだろうなと、それを聞いていらっしゃるんですね。

 初めて今日、わかりましたよ。

 この硫黄島の話をインターネットの動画で視聴した琉球大学の学生から、青山さんはEメールを貰った。彼は「思春期のころから、夢のない無気力人間」だったが、硫黄島の話に触れて、こう考えるようになったという。

 自分の欲求、私利私欲だけを追求し続けて死にたくない。人のために生きたい。人のため、社会のため、公のために、生きたい。人のためになら、たった一度の人生を頑張れる、克己(こっき)できる。そう思いました。

 祖国とは、自分が大切に思う家族、郷里、さらに自分の血肉となっている言語、歴史、文化である。したがって祖国とは自分の心のうちにある。

 戦後教育は、その祖国を意識的にわれわれの心の中から忘れさせようとしてきた。しかし、忘れたものは、思い出せばよい。青山さんは、思った。
 あぁ、硫黄島は、ぼくらの生きるヒントだ。
 生きる手がかり、生き直す手がかり、祖国を蘇らせる手がかりだ。


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