注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。
■ 国際派日本人養成講座(平成10年9月26日)■
地球史探訪:忘れられた国土開発
■1.李朝朝鮮の飢餓地獄■
本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だった。
たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」には、次のような記述がある。
1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
は、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
放置しておく道を選んだ。[1,p64]
まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったから、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。これが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。
■2.20年間で倍増の人口爆発■
朝鮮半島が急激な人口増加を迎えるのは、20世紀に入ってからである。1906年(明治39年)からの20年間で、980万人から、1,866万人と倍増した。さらに1938年には、2,400万人となった。日韓併合時代である。[1,p29]
この人口増加の原因としては、いくつかの要因がある。一つは第6代宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動である。30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。併合当初米の生産量が約1千万石であったのが、20年後の昭和に入ると、2千万石へと倍増した。[1,p80]
もう一つは医療制度の確立、特に伝染病の予防である。1910年から徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年から20年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減した。
さらにインド、中国から朝鮮にかけて猛威を振るっていたハンセン病退治のための救ライ事業として、世界的規模と質を誇る小鹿島更正園を作って、6千人以上もの患者を収容している。[1,p85-86]
農村振興は、終戦後も朴正熙大統領のセマウル運動として続けられる。宇垣総督の秘書役であった鎌田澤一郎氏が、その経験を買われて何度も朴大統領に呼ばれ、アドバイスをしている。[2,p44]
北朝鮮が現政権から解放された暁には、日本も援助をして、このような農村振興をもう一度やり直さねばならないだろう。日韓併合時代にどのような国土開発事業を行って、朝鮮半島の民生向上に成功したのか、今のうちに研究しておく必要がある。
■3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■
李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。
1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような旅行記を残している。
どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
めに刈り取られている。
山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
見られない。
森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要というのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。[1,p114]
内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている。[2,p39]
植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総合的な国土開発事業が展開された。
これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]
■4.きめこまかな農民保護政策■
こうした大規模な国土開発とともに、きめこまかな民生安定化の施策がとられた。宇垣総督時代には、当時8割を占めた小作農の生活を安定させるため、朝鮮農地令を実施して小作権を確立し、税制を整理して、負担を軽くした。さらに低利資金を融通して高利債務を返還させ、多角農業主義により綿花栽培や山羊飼育を奨励した。
[3,p414]
また従来、朝鮮農民が見捨てていたような不毛の地に入植して、開墾する日系移民も約3,800戸あった。これらの移住農民が、米の改良品種、新農法を持ち込み、養豚、養鶏、養蚕などの多角経営を図り、また厳冬にも家族ぐるみで副業に励む姿を見せた。日系農家の自力更正が、朝鮮農民の意識改革に大きな役割を果たしたのである。[1,p153]
興味深い事に、米作保護のために、現在の日本と同様の逆ざや価格政策がとられた。昭和18年の生産者の手取り価格は生産奨励金なども含めると一石62円50銭、消費者価格は43円、この逆ざやは政府が負担していた。
農業生産が軌道に乗ると、日本への輸出が急成長した。併合当時わずか11万石だったのが、昭和3年には760万石までになった。
これは日本の農家を圧迫し、日本政府は朝鮮米の輸入制限を図ろうとするが、総督府は徹底的にこれに反対して、朝鮮農民を守った。[3,p414]
朝鮮経済の保護育成政策は、関税制度にも明らかである。朝鮮から日本に輸出されるものは免税だが、輸入は移入税を課した。後進国が自国の産業育成を図るときに、輸入関税で保護するというのは、常套手段だが、日本は朝鮮経済に対して、これを適用したのである。
ちなみに当時の日本人の土地所有は1割程度なので、総督府の農業保護の恩恵の9割は、朝鮮農民が受けたと言える。また治山治水事業での労働に対しては、作業者に日当が支払われている。これは李朝時代には無かった事である。
■5.開発をささえた資金源は■
こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから出てきたのだろうか。
宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であった。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔も変わりない。それでも足りない分は、日本の金融市場から集めた公債によってまかなわれた。[1,p142]
ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]
朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多くの面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。
しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。
■6.食料危機対応のモデルケース■
北朝鮮が金日成政権から解放されたら、飢餓地獄から北朝鮮国民を救うべく、朝鮮総督府が行った国土開発事業をもう一度、始めからやり直さねばならないだろう。費用の問題は別として、そのモデルは、朝鮮総督府によって示されたと言って良いであろう。
実はこの国土開発の方法は、朝鮮総督府の独創ではなく、我が国江戸時代に、上杉鷹山公(米沢藩藩主)、恩田木工(信州松代藩)、二宮尊徳などが行った農村振興を発展させたものだ。それは西洋的な自然征服ではなく、治山治水を通じて、自然と共生しつつ、農業生産の向上を図るという、優れたエコロジー的発想なのである。
環境破壊による食糧危機は、北朝鮮だけではない。中国の最近の洪水被害も国土破壊の結果であり、いよいよ食料自給が困難になってきている。中国が食料輸入国に転落すれば、現在の国際食料価格が急騰し、アジア、アフリカ、南米などにも飢餓が広まろう。そうした視点から見れば、朝鮮総督府による国土開発事業の世界史的な成功は、貴重なモデルケースとなるはずである。
[参考]
1. 歪められた朝鮮総督府、黄文雄、光文社、H10
2. 「韓国併合」とは何だったのか、中村粲、日本政策研究センタ
ー,H8
3. 日韓2000年の真実、名越二荒之助、国際企画、H9