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新幹線を創ったサムライたち (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座(H21.12.27) ■

新幹線を創ったサムライたち

〜世界初の高速鉄道は、無数のサムライ達の献身的な努力で実現した〜



■1.新幹線開発は日本の不朽の功績■

 温室効果ガスを排出する自動車や飛行機に替わって、高速
鉄道がグローバルに広まりつつある。現在、アメリカ、ブラ
ジル、ベトナムなどが導入を計画している。

 この高速鉄道の先駆者が日本の新幹線である。新幹線が開業
したのが昭和39(1964)年だから、すでに45年前になる。日
本の新幹線の成功に刺激されて、その6年後に建設が始まった
のがイタリアのディレティッシマ、さらにその6年後にフラン
スのTGV、ドイツのICEの工事が始まった。[a]

 1960年代と言えば、鉄道は自動車と飛行機にとって替わられ
つつある斜陽産業だと考えられていた。また鉄道技術で先進の
欧州諸国では、試験走行でこそ300キロ以上のスピードを記
録していたが、一度走ると線路が壊れてしまうので、営業運転
などとても無理、と考えていた。

 日本が新幹線を成功させて、そんな常識をひっくりかえさな
かったら、今でも世界は石油をがぶ飲みし、温室効果ガスをま
き散らす自動車と飛行機に頼るほかなかったであろう。

 新しい地球環境文明の大きな柱として高速鉄道を開発した我
が国の貢献は不朽である。そして、それは戦後の復興を賭けて
常識に挑戦したサムライたちの功績なのである。

■2.「線路をまくらに討ち死にする覚悟で」■

 サムライの筆頭が、新幹線建設を推し進めた国鉄総裁・十河
(そごう)信二である。十河は71歳の高齢で、昭和30
(1955)年5月に国鉄総裁に就任したのだが、それには事情があっ
た。

 その数日前、国鉄宇高連絡船が同じく国鉄の貨車航送船と衝
突して沈没、168人の死者が出て、前任の国鉄総裁が辞任し
ていた。当時の国鉄は大量の戦後復員者を抱え、改善の見込み
のない赤字体質、さらに大事故のたびに総裁の首が飛ぶとあっ
ては、誰も進んで総裁になろうという人はいなかった。

 国鉄出身の十河が心配して、民主党総務会長の三木武吉など
に後任総裁を進言していたが、誰も引き受け手がおらず、三木
は「十河さん。そんなにいうんならあんたがやったら」と言い
出した。十河は高齢と健康を理由に固持したが、

 君の祖国である国鉄は苦難つづきで、いま危機に瀕して
いるではないか。君は赤紙(召集令状)を突きつけられて
も祖国の難に赴くことをちゅうちょする不忠者か。[1,p42]

 とまで言われると、明治生まれの十河は返す言葉もなく、
「俺は不忠者にはならん」と引き受けてしまった。

 十河は総裁就任の記者会見でも「国鉄のため、国民のため、
最後の御奉公と思い、線路をまくらに討ち死にする覚悟で」と
思いを述べた。

■3.十河総裁の「討ち死に」■

 十河は総裁に就任するとすぐに、国鉄再建の目玉として、東
海道に広軌新線を敷く案の検討を命じた。東京−名古屋−大阪
を結ぶ高速鉄道こそ、日本の経済発展を支える大動脈になる、
との考えである。それは明治の終わりから大正の初めにかけて、
十河が満鉄時代に仕えた後藤新平の構想だった。

 しかし、今後は飛行機と自動車の時代で、鉄道の衰退は世界
的な流れと考えられていた。たしかに東海道線は切符もなかな
か買えないほど混み合っていたが、それは翌年秋に全線電化が
完成すれば輸送力が増して解決できる問題だと考えられていた。
国鉄内部で広軌新線の案に賛成したのは一握りの人々だけで、
十河は内部の説得に努め、同時に政治家や官僚、財界人にその
必要性を説いて回った。

 ようやく策定された建設計画の投資規模は3千億円を超えて
いた。国家予算が4兆1千億円程度の時代である。またすでに
計画が進んでいた東京−神戸の高速自動車道(後の東名、名神)
の総建設費が約15百億円だった。十河は「すこしぐらいの赤
字ならあとから俺が責任をもって話をつけてやるから」と無理
矢理、投資額を2千億円以下に下げさせた。

 昭和33(1958)年12月、3年間の努力が実を結んで、新幹
線の着工が正式決定となった日の夕方、十河は青山墓地に行き、
広軌鉄道の先覚者だった後藤新平の墓に、その実現の日がつい
にやってきたことを報告した。

 十河は総裁を2期8年務め、昭和38(1963)年5月に退任し
た。せめて1年4ヶ月後に迫った開業式まで留任させてテープ
カットをさせてあげてはという同情論もあったが、工事費は物
価上昇も含めて38百億円に膨れあがっており、総裁の責任と
してそれは許されなかった。

 総裁在任中、政治家たちが地元利益のために新線建設をさか
んに依頼してきたが、十河はそのような票目当てで経済効果の
ない建設計画を抑え込み、真に国家が必要とする新幹線建設に
予算をつぎ込んだために、敵が多かったのである。

 昭和39(1964)年10月1日の新幹線開業式に十河は招待さ
れなかった。十河はその覚悟通り「線路をまくらに討ち死に」
したが、その志は立派に果たされたのである。

■4.島秀雄の「あえて火中の栗を拾う」決意■

 十河に任命されて、副総裁格の技師長として新幹線建設の技
術開発の指揮をしたのが、島秀雄である。実父が戦時中に弾丸
列車の設計に携わった縁で、「親父さんの弔い合戦をやらんか?」
と十河に誘われたのである。

 島は電車列車方式、ATC(信号方式)、CTC(列車集中
制御方式)など画期的な技術開発を成功させ、欧州の鉄道界が
不可能としていた時速200キロ以上での営業運転を実現した
ばかりか、開業以来今日まで45年間、一度も大事故を起こし
ていないという驚くべき安全性をもたらした人物である。その
足跡は[a]で述べたが、ここでは十河からスカウトされた時の
逸話のみを紹介しておこう。

 島は終戦後、工作局長として国鉄の近代化に辣腕を振るって
いたが、昭和26年8月に国鉄を退職した。その4ヶ月前、京
浜東北線桜木町駅構内で、電気工事のミスから車両火災が発生
し、106人もの焼死者が出るという大事故が発生した。島は
その責任をとるとともに、これだけの大惨事に国鉄内部で責任
のなすりあいをしている姿に嫌気がさして、辞職したのである。

 島はその後、住友金属工業に入り、その技術的手腕で大きな
成果を上げて役員にまでなった。そんな矢先に十河から、新幹
線をやるので、戻ってこいと誘いを受けたのである。

 島は「住友金属にお世話になっているから」と固持し続けた
が、十河は住友金属の社長に会って、島の説得と譲渡方を頼ん
だ。社長からも勧められては、島も断り切れず、「あえて火中
の栗を拾う」決意を固めた。住友金属の役員から国鉄技師長に
転任すると、収入もかなり減ったが、島は冗談交じりに十河に
語っただけで、以後、二度とそのことを口にしなかった。

 十河が総裁を退任した際に、島も一緒に国鉄を退職した。石
田礼助・新総裁から「技術面の責任者としてぜひとどまってい
ただきたい」としきりに慰留されたが、「私は十河さんに呼ば
れて国鉄に入ったのだから、十河さんがお辞めになるんなら私
も辞めます」と断った。新幹線も技術的には99%目処がつい
たという思いがあった。

 島も開業式には招待されず、高輪の自宅から一番列車の出発
を見送った。

■5.零戦の技術が新幹線開発に生きた■

 陸海軍には飛行機や軍艦、兵器などの研究開発に携わってい
た技術者が大勢いたが、終戦後、そのほとんどが軍の解体で職
を失い、路頭に迷うところだった。それを見た当時の鉄道技術
研究所長・中原寿一郎は、運輸次官に対して、

 陸海軍の優秀な技術者をみすみす散逸させてしまうのは
国家にとって大きな損失。国鉄で引き受けましょうよ。

と口説き落とし、約1千人の技術者たちを研究所に採用してし
まった。当時5百人だった研究所が、一挙に3倍以上に膨れあ
がった。

 海軍航空技術廠で飛行機の振動問題を研究していた松平精も
その一人であった。世界有数の研究設備と工場も含めて3万人
もの人員を擁していた海軍航空技術廠にいた松平は、木造のバ
ラック3棟からなる研究所を見てがっかりした。しかし鉄道で
の振動の研究論文を読んでいくと、お粗末なものばかりで、
「これならやることはいっぱいある」と思った。

 この頃の国鉄は脱線事故は珍しくなく、時には100人以上
もの死者が出ていた。昔からの鉄道技術者たちは、レールの蛇
行が脱線の原因と考えていた。それに対して、松平は零戦がフ
ラッター現象(空気流によって機体の振動が増幅していく現象)
で空中分解した事故を研究した経験から、同じ事が列車で起こ
り、それがレールを曲げて、脱線にいたると考えた。

 松平がいくら説明しても、フラッター現象などという新しい
概念を鉄道技術者たちは受け入れなかった。論より証拠と、松
平は円形の無限レールの上で車両を高速走行させ、その振動状
況が観察できる試験装置を開発した。ある速度になると突然、
車輪が左右に揺れだして、松平の仮説が正しかったことが誰の
目にも明らかになった。

 この試験装置から、高速走行しても横揺れしない車両の開発
につながった。かつての零戦の技術が、新幹線の誕生に役だっ
たのである。

■6.新丹那トンネル工事に挑む■

 路線建設工事は工期が長く、技術的にも難しいトンネルや橋
梁から始められた。新幹線ルートはできるだけ最短距離を通る
ようにしたため、トンネルが多くなった。総延長515キロの
うち、トンネルの総距離は69キロに達した。

 なかでも最長は熱海の先の全長8キロの新丹那トンネルで、
最初に着工された。近くを通る東海道本線の丹那トンネルは、
大正7年に着工されて16年近くを要し、67名もの犠牲者を
出して、完成されたものである。

 戦争中の弾丸列車計画で、昭和16(1941)年から新丹那トン
ネルが着工されたが、戦局の悪化に伴い、昭和19(1944)年6
月に工事が中止された。戦後の新幹線では、この未完成の新丹
那トンネルでそのまま工事が再開されることになった。

 戦争中のトンネル工事で熱海側の工事区長だった青木礼二は、
工事中断後もずっとトンネルの保守を続けてきた。新幹線建設
で15年ぶりにトンネル工事が再開されると、今度は三島側の
工事区長として、取り組んだ。

 工事途中で、断層から大量の出水があり、掘削中止に追い込
まれたが、水抜き坑を別途掘るなどして、半年後に工事を再開
し、4年4カ月で完工にこぎ着けた。青木はこう語っている。

 新丹那トンネルは旧丹那と50メートルしか離れておら
ず、地質もよく似ている。そこで私は新丹那トンネルの工
事を再開する際に、『丹那隧道工事誌』という旧丹那トン
ネル工事の精密な記録をくり返し熟読し、難所や問題点は
すべて頭の中に入れておいた。このため工期はわずか4年
そこそこで、直接の事故は全くなかった。これは全く丹那
トンネルを完成した先人のおかげだ。[1,p219]

 ちなみに、新丹那トンネルから出る大量の水は熱海市の水道
に利用され、その3分の2ほどをまかなっているという。

■7.「鉄道に入って糞尿の調査とは」■

 新幹線の開発に必要だったのは、こうした最先端の技術ばか
りではない。もっと泥臭い開発も必要だった。その一つが糞尿
の処理である。

 当時は、乗客の糞尿は走行する車両からそのまま線路にまき
散らされていた。そのため、飛散する汚物で沿線の民家の洗濯
物が汚れるなどの問題が起きていた。このまき散らしの方式だ
と高速の新幹線では、どれだけ被害が広がるか分からない。

 そのために、糞尿を車両床下のタンクに貯め、それを車両基
地で処理する方式が考えられた。これは日本のみならず、世界
でもはじめての試みだった。

 糞尿処理施設の設計のもととなる基礎資料づくりを命ぜられ
たのが、国鉄に入社して間もない鎌田覚だった。「鉄道に入っ
て糞尿の調査とは」とぼやいたものの、誰かがやらなければな
らない、と思い直して、調査に乗りかかった。

 東海道本線の列車のトイレに糞尿のタンクを仮設し、朝7時
半に大垣を出てから、東京に行き、22時半に大垣に戻るまで、
トイレのそばに陣取って、乗客の使用回数と時間を調べた。大
垣ではタンク内の糞尿の量を量り、サンプルをとって、夜行で
東京に戻り、内容の分析をする。

 こうした鎌田の献身的な調査から得られた基礎データに基づ
き、世界で初めて列車の糞尿処理の問題が解決したのである。

■8.サムライたちの努力の結晶■

 このほかにも、地上げ屋との不眠不休の戦いを続けた用地買
収係員、品川駅で新幹線のためのスペースを空けるために、複
雑な在来線の線路や架線、信号、施設の付け替え工事を、まる
で心臓手術のように、綿密に着実にやり遂げた工事担当者、等
等、縁の下の力持ちの仕事に、無数の人々が寝食を忘れて取り
組んだ。

 世界初の高速鉄道がいきなり登場して、驚異的な安全性と事
業としての成功を達成したのは、ひたすら新幹線の成功のため
に、それぞれの使命に献身的に打ち込んだ無数の人々の努力の
賜物なのである。

 サムライを「公のために主体的、献身的に努力する人」と定
義すれば、まさしく新幹線は無数のサムライたちの生き様の結
晶である。

 JR東海は、超電導磁気浮上式リニア新幹線を2025年頃に完
成させる計画を進めており、有人での世界最高時速581キロ
を達成している。この壮大な計画には、また多くのサムライた
ちが献身的な努力を続けているのだろう。その姿こそ「大和の
国」すなわち「大いなる和の国」の強みである。
(文責:伊勢雅臣)
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