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国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」


 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。


■1.「家がこんな状態なのに行くんですか」

 宮城県の沿岸の都市で、ある酒屋が今回の大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。若者と母親が店内の片付けをしていると、制服の自衛官が来て、1枚の紙を示した。「召集令状」である。

 若者は元自衛官であり、万が一の時に招集に応ずる即応予備自衛官であった。若者は令状を示す自衛官に直立して「了解しました」と答えた。

 横からテレビのレポーターが「家がこんな状態なのに行くんですか」と聞くと、「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、10年、20年と後悔しますから」 そばにいた母親も「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。[1]

 元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役並みの活動を期待されているのが、即応予備自衛官である。現在、約5600人いるなかで、今回の震災では4月中旬時点で、1300人が招集されていた。

 教育勅語に、理想の国民像として「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」(もし危急の事態が生じたら、義心と勇気を持って、公のために奉仕し)との一節があるが、まさにそれを絵に描いたような一場面である。


■2.「仲間のために自分は行く」

 東京電力福島第一原発の危機もなんとか沈静化しつつあるが、それも多くの人々の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」のお陰である。

 東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員、根本誠さん(47、仮名)は3月11日の震災発生当時、第一原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚10数人とそのまま原発に残って、復旧作業に入った。

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 被曝(ひばく)の危険性があることは分かっていたが、復旧作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた。
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 第一原発では連日、東電社員と協力会社社員、合計で300〜500人が残って、復旧作業にあたった。1日の食事は非常食2食、毛布にくるまって雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける。

 3日後の14日午前11時1分、根本さんが2号機で電源復旧作業に当たっていた時に3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。

 外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、灰色の煙がもうもうと青空に立ち上がっていた。「もうだめだ、、、」仲間の声が聞こえた。

 根本さんは「放射能をくらうぞ。避難するんだ」と声を上げて防護服のまま、瓦礫の上を走った。乗ってきた車は爆風で窓が割れて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近く、最後は息切れしながら、たどり着いた。

 根本さんは翌日15日から東電の緊急退避命令により、しばらく避難生活を送ったが、また志願して、第一原発に戻るという。

__________
 同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。むろん、行かなくとも誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く。[2]
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 行かなくては「自分がよしとはできない」とする心が「義」であり、危険を承知で現地に赴くのが「勇」である。


■3.「任務ですから」

 原発には、東京消防庁のハイパーレスキュー隊、自衛隊、警視庁なども放水活動のために駆けつけた。

 大阪市消防局は53人が20日夜から90時間、東京消防庁の活動を支援した。参加した隊員たちには、本人の意思を確認した上で、職務命令が出された。指揮を執った片山雅義・警防担当課長代理(48)は、こう語った。

__________
 東京消防庁が孤軍奮闘、国民のために命がけで戦っているのを、同じ消防職員として見過ごすわけにはいかない思いだった。

 私の息子は24歳だが、ほぼ同じ年齢の東京の隊員が体を震わせながら「任務ですから」とだけ言い残して出動していった。
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 原発から約20キロ地点の前進基地から、800メートル地点の指揮所までサイレンを鳴らして移動する途中で、自分たちに向かってお年寄りら6人の住民がお辞儀をした。

「腰を90度まで曲げて、深々とおじぎをされた。その姿を見て、これは絶対に何かお役に立って帰らねばと思った」と片山さんは語った。[2]


■4.全国から集まった3千人の都市ガス局員

 同僚が命がけで戦っているのを「見過ごすわけにはいかない」という「義勇」の心は、民間事業者も同じだ。

 仙台市ガス局では7市町村で35万世帯の都市ガス供給がストップした。この危機に全国の都市ガス業者が立ち上がった。北は北海道ガスから、南は鹿児島の日本ガスまで、最大手の東京ガスも含め、約30業者が約3千人を仙台に派遣。仙台市ガス局員約500人とともにガス管の損傷確認や一軒ごとの開栓作業など、人海戦術で復旧にあたっている。

 仙台市ガス局内に設けられた現地復旧対策本部には、会社ごとに異なる様々な作業着を着た技術者たちが集まる。全国に派遣要請を出した日本ガス協会の広報担当・山田俊彦さんは「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い。同業の仲間として放っておけない」と使命感を語る。

 新潟県柏崎市から8時間かけて駆けつけた同市ガス水道局の佐藤貴人さんも、3月末、仙台市内でガス管の修繕作業に従事した。「中越沖(地震)の際には仙台市にも助けてもらった。やっと恩返しができる」と、語った。

 オール・ジャパンによる総力戦の復旧作業で、地域ごとに供給が再開されていった。仙台市ガス局の桝川佳隆さんは「同業者の支援は本当にありがたい。全域復旧を急ぎたい」と声をつまらせた。[3]


■5.「荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声」

 電気、ガスと同様、ライフラインとして重要なのが物流だ。ヤマト運輸は岩手、宮城、福島の125店舗を震災後10日で再開させた。阪神・淡路大震災の時に要した日数が15〜20日なので、大幅に縮めている。

 石巻市でいち早く営業再開した石巻蛇田センターは、近隣の5事業所分の荷物を一気に引き受け、北信越、関西などの事業所から駆けつけたヤマト運輸社員がサポートして、通常1日取扱量800個程度のところ、3000〜3200個をさばいた。

 そのほとんどすべての荷物は、被災した親戚に食べ物を届けたいとか、親友に衣類を送りたいという、救援物資である。阿部浩・石巻支店長は言う。「自宅や避難場所に荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声。物流は電気や水道と一緒。同じインフラなんです」

 ヤマト社員たちの心意気を示すエピソードがある。ヤマト運輸のドライバーたちは、避難所間の供給物資の格差に気がついた。ある避難所には潤沢に救援物資が行き渡るのに、小さな避難所には行き渡らない。

 各担当エリアを隅々まで知り尽くしているヤマト運輸のドライバーたちは、自発的に小さな避難所まで救援物資を送り届けた。他の運送会社と共同で、救援物資の配送を行ったケースもあった。

 ドライバーたちの自発的な動きを知ったヤマト運輸本社では、こうした活動を支援するために急遽「救援物資輸送協力隊」を組織し、グループ挙げての活動に乗り出した。

 宮城県気仙沼市の青果市場に設けられた救援物資の一時倉庫では、約50人の自衛隊員と同数のヤマト運輸の協力隊が働いている。自衛隊が宮城県の倉庫からこの一時倉庫に物資を輸送し、ここから約90カ所の避難所に配るのがヤマト社員の役割である。[4,p13]


■6.自動車営業マンの奉公

 宮城県石巻市のトヨタ自動車系ディーラー、仙台トヨペット石巻店は、地震発生の40分後に、巨大な濁流に襲われた。車はすべて流され、営業再開のメドも立たないため、須藤店長は従業員に自宅待機を命じた。しかし、4日目には、従業員が一人、また一人と店舗に戻ってくる。

 売るものなど何もなかったが、須藤店長は店を開けることにした。すると、顧客が次々と店舗にやってくる。「流されたクルマで玄関が開かない、道路が通れない」など、用件の大半はクルマの撤去で、1日に10件以上も依頼が舞い込んでくる。店舗の片付けも終わらない中で、従業員は数人がかりで、撤去作業に出かけていく。

 携帯電話がつながるようになると、営業マンたちは常連客の安否確認を始めた。すると、顧客からの第一声は「生きていたか」「家族は大丈夫か」と、営業マンたちの身を案ずる言葉だった。

 電車もバスも途絶えた被災地で、車は生活に欠かせない移動手段であり、物資の運搬手段である。顧客からは次々と注文が寄せられる。地震発生後3週間で新車30台、中古車25台を受注した。震災前の10日間の受注は10台だった。

 石巻店は津波の難を逃れた在庫をやりくりして、4月1日、震災後の納車第1号ハイブリッド車「プリウス」を顧客の許に届けた。仙台トヨペットは、全国各地のディーラーに呼びかけて、200台の中古車を調達する手はずを整えた。

 トヨタ本体からも毎日のように救援物資が届けられる。仙台トヨペットでは、支援物資の多くを自社の店舗だけでなく、避難所や病院にも届けている。地域社会に根ざしたディーラー網は、住民生活を支える社会インフラとなっている。[4,p11]


■7.生活に必要なものを普通に買える喜び

 宮城県気仙沼市にあるイオン気仙沼店では、地震発生直後、店舗にいた買い物客と従業員は、避難場所に定めてあった店舗正面入口に集まった。町内放送は高さ6メートルの津波が押し寄せてくる、と伝えた。雪が降る中、高瀬千晃店長(59)は高台にある県立高校跡地などに全員を誘導し、一人の被害者も出さずに済んだ。

 翌日、避難先から店に戻った従業員たちが目にしたのは、無残に破壊された売り場だった。建物はなんとか残ったものの、1階売り場では自動車が流れ込んで横転しているなど、膨大な瓦礫の山に埋め尽くされていた。

 高瀬店長は、どう店を再開するのか、悩んだ。店舗の外のスペースは既に自衛隊が拠点として利用していた。建物の内部が使えないとすれば、残るは屋上しかない。「お客さまが満足する売り場になるのか。そもそも、早い時期に再開する意味があるのか」と迷った。

 それでも顔見知りの常連客からは「お店はいつ開くの?」「早く営業して」と何度も声をかけられた。従業員たちにとっても、大切な職場だ。

 4月1日、屋上駐車場にテントを張った仮設店舗で、店を再開した。並んだ商品は、カップ麺、野菜、自転車、布団など生活必需品が中心だった。冷蔵庫が必要なものは置けない。

 斎藤光代課長(62)が朝礼で、いつものように「行動規範宣言」唱和のリード役を務めた。斎藤さんは26年前の気仙沼店開業時にパート従業員として採用され、その後、正社員として、この店で働き続けてきた。

 朝礼では、再開にこぎ着けた喜びで、多くの従業員が涙を流した。開店前に約500人もの買い物客が列をなしていた。開店後は、臨時レジの前で長い行列ができた。生活に必要なものを普通に買える喜び、その客の喜びを従業員も受けとめたことだろう。

 売り場を完全に破壊された店舗の本格復旧は今もメドが立たない。それでも斎藤課長は誓う。「私たちにはこの場所しかない。ここで必ず復興する」[4,p6]


■8.公とは「大きな家」

「公に奉ずる」の「公」とは、「おおやけ」、すなわち「大きな家」という意味である。国全体を一つの「大きな家」だと見なし、その家族一人ひとりがそれぞれの働きを通じて、「大きな家」を支えることが、「公に奉ずる」ということである。

 ここで紹介した即応予備自衛官、原発作業員、消防隊員は言うに及ばす、ガス工事のおじさん、宅急便のおにいさん、自動車営業マン、スーパーのおばさんたちも、一人ひとりがそれぞれの仕事を通じて、立派な「奉公」をしている。

 そういう生き方を理想とするのが、我が国の国柄であり、明治日本の急速な隆盛も、戦後の奇跡的な復興も、多くの国民がそれぞれの場で奉公に勤しんだ事が原動力となっている。

 震災によって、本編の登場人物たちのように、いまだ多くの人々がそれぞれの職場で奉公をしていることがあきらかになった。そしてこれらの人々の生き様に感ずる処があったら、あなたの心の中にも、このDNAが脈々と受け継がれていると思ってよい。

 大震災を契機に、国民一人ひとりの中で、「義勇公に奉ず」の心が目覚めたとすれば、膨大な犠牲者の御霊も慰められるであろう。

(文責:伊勢雅臣)
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Media Watch : 政治的ウソの見分け方(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■

Media Watch : 政治的ウソの見分け方
〜 国際政治学者・中西輝政氏に学ぶ

 歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治的ウソを見分けることができる。




■1.「予測をどこでどう間違えたのか?」

 国際政治学者の中西輝政京都大学教授は、自ら政治的なウソに騙された事例を紹介している。

 イラク戦争直後、教授は二、三年かかるにしろ、イラクの国内状況は次第に落ち着きを取り戻し、経済の発展も始まるだろうと考えていた。しかし、イラク情勢はその後何年経っても、依然として混迷状態にある。そこで教授は「予測をどこでどう間違えたのか」と何度も反芻した。

 一つは情報の歪みである。ワシントンやニューヨークの一流メディアから流される情報はすべて楽観論一色で「アメリカはすでに並ぶものなき軍事大国で、その力は隔絶している」などというものだった。「いまから考えると、かなりの部分が情報操作だったのでしょう」と教授は言う。[1,p164]

 もうひとつの反省点は、自身で「あれ?」という疑問を持ったのに、それを深くつっこまなかった事だ。その疑問とは、なぜアメリカ軍はイランやシリアとの国境を閉鎖しなかったのか、という事であった。

 国境を閉鎖しなかったら、イランからアルカイダなどのゲリラ勢力が自由に入ってくるし、シリアからも武器や物資が運び込まれてくる。「こんなことでは危ない。なぜ閉めないのだろう」と教授は疑問に思ったが、「まあ、アメリカのことだから、そんな事は百も承知でやっているのだろう」「人工衛星か何かで監視しているのだろう」などと、自分の疑問を押し込めて、自身を納得させてしまった。


■2.「ふと浮かんだ疑問」を大事にする

 当時、大統領選を翌年に控え、ブッシュ政権は「アメリカの鮮やかな勝利」を強調していた。ラムズフェルド国防長官は「アメリカは軍事革命を果たした」「衛星とスリムな軍隊で、アメリカは世界のどの地域でも同じ事ができる」という新ドクトリンを打ち出していた。

 しかし、国境を閉鎖しようとしたら、最低3、4万人の兵力を増派しなければならない。それでは「イラクは実はうまくいっていないのではないか」という批判を招きかねない。

 その批判を避けるために、国境は閉鎖しなくとも何とかなるだろう、という大バクチをラムズフェルド国防長官は打ったのだった。そして、それに都合のよいウソの情報を流していたのである。はたしてバクチは裏目に出て、イラクは泥沼化し、アメリカは深い傷を負った。

 中西教授は、もし「なぜ国境を閉めないのだろう」という疑問にこだわって、いろいろ調べていけば、かなりの情報が集めら、早い段階で「この戦争は泥沼化する」と分かったはず、と自省している。

 ふと浮かんだ疑問は自分の素直な感覚であり、物事を考える際にこれがものを言うことが多いと、教授は言う。


■3.美しい言葉にはトゲがある

 我々日本国民もさまざまなウソに騙されてきた。たとえば、「次の言葉のうちで、あなたが好感できるものを選んでみてください」と中西教授は問いかける。

「豪華」「自慢」「自由」「蓄財」「大物」「平等」「格安」「平和」「出世」「民主」 おそらく大部分の人は「自由」「平等」「平和」「民主」などを選ぶ。これらの「美しい言葉」は誰も疑わない。だからこそ、そこに危険なワナが仕掛けられている。これらの「美しい言葉」は、人々の思考停止を誘い、我々の素朴な感覚を押さえつけてしまう。

 たとえば「平和」。軍隊をなくし、核兵器をなくせば、平和な世界が来る、と戦後教育では教えられてきた。そして「平和」を声高に叫ぶ人々は、「核兵器反対」を唱え、米国の艦船が核を積んでいるのかどうか、などと問題にしていた。

 しかし、彼らは日本を狙うソ連や中国の核兵器には何も言わない。かつて広島の反核集会で、「米国の核ミサイルだけでなく、ソ連の核ミサイルにも反対する必要があるのではないか」と発言した学生が、演台から引きずり下ろされてしまった事もあった。

 この学生のように素朴な疑問を大事にすることで、こういう美しい言葉に隠された危険なウソを見破ることができる。

 美しいバラにはトゲがあるが、美しい言葉にはウソが隠されてることがしばしばある。政治的ウソを見分けるには、まずは美しい言葉を見たら、そこにはウソが隠されていないか、気をつける必要がある。そこから素朴な感覚が働き出す。


■4.化けの皮がはがれた「日中友好」

「日中友好」も、かつては多くの日本人を騙して、膨大な国富を奪った美しい言葉であった。

 1980年代には「日中友好2千年」「日中は(同じ漢字を使う)同文同種の国」「一衣帯水(一筋の帯のように、細い海峡に隔てられた隣国)」など、マスコミの流す様々なスローガンが友好幻想をかき立てた。総理府(現・内閣府)の調査によると、1980年代前半では70%以上の日本国民が中国に親しみを感じていた。

 もともと、これらの美しいスローガンは、中国がソ連と対立して、日本からの経済協力を必要としていた時代に、流されていたものである。[a] 「日中友好2千年」などというスローガンが、いかに歴史的に見ても偽りに満ちたものかは[b]で述べた。

 最近は尖閣諸島問題や反日デモなどで、こういうスローガンのうさん臭さが誰の目にも明らかになり、ここ数年では、中国に親しみを持つ人々は20%台にまで落ち込んでいる。

 しかし、過去20年ほど「日中友好」に騙されてきた結果、3兆円以上(日本国民一人あたり3万円規模)も貢いできた対中ODAは感謝もされずに忘れ去られようとしている。

 またマスコミの「中国経済賛美」に乗せられた日本企業の対中投資額も10兆円規模に達しているが、日本企業がいざ中国から撤退しようとしても、中国政府や合弁の相手企業は難癖つけて投資分を返さない。「日中友好」の美辞麗句に騙されて、膨大な国富を我々は奪われてきたのである。

 孔子は「便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり(外見が良いだけの人を友とし、人当たりが良いだけの人を友とし、言葉巧みな人を友とするのは損である)」として、友を選ぶことの重要性を語っている。

 国家間の関係も、我々の友人関係と同じである。相手が友として信頼してよい人物かどうかを見極めることが大切だ、という素朴な感覚を大事にしなければならない。


■6.米軍の刑法犯は国内平均の半分以下

 近年、中国が太平洋に覇権を伸ばそうとするにしたがって、沖縄の米軍基地に関する政治的ウソがさかんに流されるようになってきた。沖縄の米軍基地こそが、中国の太平洋侵出にとっての最大の障害だからである。

 たとえば、沖縄には在日米軍基地・施設の約75%が集中していると言われると、ほとんどの日本人は驚いて、いかに沖縄県民が米軍基地の「過重な負担」を堪え忍んでいるか、と思ってしまう。

 しかし、この75%とは米軍が単独で使用している基地だけの話で、自衛隊と米軍が共同使用している三沢、厚木などの基地を加えると約25%というのが実態である。[2]

 また、沖縄で数年に一度、米兵による強姦事件などが起きると、マスコミが大騒ぎするが、千人あたりの刑法犯検挙人数で見ると、

−沖縄の米軍  1.4人
−沖縄県民   3.0人
−来日中国人  15.7人(登録者・永住者+短期旅行者/日数)
−来日韓国・朝鮮人 19.4人 (同)

 となっている[3]。外国人犯罪について騒ぐなら、10倍以上の刑法犯を出している近隣諸国からの在留者、旅行者こそ問題にしなければならないはずだ。

 さらに最近は米軍の新型輸送機オスプレイの危険性がマスコミで騒がれているが、これもデータを見れば、そのウソが分かる。オスプレイは2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回で、いま使われているヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下である。沖縄県民の安全を本当に心配するなら、一刻も早くオスプレイ配備を願わなければならない。

 現在のヘリコプターCH-53Dでは尖閣諸島には届かないが、オスプレイなら1時間で着ける。オスプレイの「危険性」を本当に心配しているのは中国軍の方であろう。[4]

 政治的なウソが、センセーショナルな犯罪報道や、巧みに作られた数字によって流されることがある、と知れば、ちょっと待てよと、素朴な感覚を働かせるチャンスが出てくる。

 特に最近は、[2]や[3]のように、大手マスコミの報道する政治的ウソをデータで客観的に暴くインターネット・サイトも増えてきているのは、歓迎すべき傾向である。こういうサイトを見聞する事で、データを通じて、我々の素朴な感覚を磨くことができる。


■7.我々の素朴な感覚を磨く道

 我々の素朴な感覚を磨くには、他にどのような道があるのか。一つは人生経験を積むことだが、もう一つは、他者の経験、すなわち歴史に学ぶことである。

 中西教授はイギリス・ケンブリッジ大学に留学した際に、国際政治に関する分野を教わったのは、歴史学者のハリー・ヒンズリー教授だった。ヒンズリー教授は「歴史に還元しないと何事も本当の知識にはならない」と中西教授に教えたという。

 中西教授の国際政治に関する独自の見方は、歴史的な視野を持っているところから来ることが多い。たとえば、現代の日本が直面している少子化、人口減少に関しても、こんなエピソードを紹介している。

 1935年にアメリカ政府は、米国における長期人口予測を発表した。そこには、次のような予測が示されていた。

__________
 1965年になったとき、アメリカの人口は三分の二に減っているだろう。大々的に移民を受け入れるか、それともこのままやっていくかの大変な分かれ道だ。
[1,p216]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この予測は見事にはずれた。第二次大戦が始まると、急に結婚率が上がり、それにつれて出生率も大幅にあがった。これが1965年まで続き、「大ベビーブーム」時代が出現したのである。

 もし、1935年時点で、この予測にしたがって、大々的な移民政策がとられていたら、どうなっていたろう。現在でも、大規模な移民政策がうまく行っている国がないのは、トルコ移民問題に悩むドイツ[c]や、中国化しつつあるカナダ[d]を見れば明らかである。

 アメリカは経済的にも社会的にも1960年代に黄金時代を迎えるが、もし1935年の時点で大規模な移民政策をとっていたら、貧しい移民たちへの生活保護に税金を投入せねばならず、また治安の悪化などで、その後の黄金時代を迎えられたかどうかは分からない。

 大ベビーブームを経験したアメリカですら、その前に人口減少が政府によって予測されていたという歴史的事実を知っているだけで、我が国の少子高齢化はもはや覆せない傾向だとあきらめ、1千万人移民計画などに突っ走る危険性を感じとることができるだろう。

 歴史を通じて、人類の過去の経験を知ることで、我々の素朴な感覚も磨かれていくのである。


■8.「宙ぶらりん」の状態に耐える

 少子高齢化と人口減少を前にして、大規模な移民政策にも走らず、何か他の方策はないかと思い悩む状態は人間にとって、つらい状態である。弱い人間はえてして、「もう移民政策しかない」などと、一足飛びに結論に飛躍したがる。

 イギリスの軍事史研究家かつ戦略思想家のリデル・ハートは次のような言葉を残している。

__________
 ものごとがいずれにも決しない状態に耐えることはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて「死に至る道」(後先考えずに飛び込んでしまう衝動的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。

しかし、このつらい「宙ぶらりん」の状態に耐えることこそ、可能性の明確ではない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼(かいじん)に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである。[1,p25]
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「平和」とか、「日中友好」などという美辞麗句に踊るのも、現状の「宙ぶらりん」の状態に耐え続けることができず、政治的ウソとして与えられた明快な結論に飛びつく、という弱さの表れだろう。

 フランス革命やロシアや中国の共産革命の歴史を知れば、政治的な嘘に踊らされて、「死に至る道」を突っ走った国民の悲劇を目の当たりにする事ができる。
逆に、宙ぶらりんの状態に耐えつつ、一歩一歩、素朴な感覚に基づきながら危機を克服してきた英国の強さを知ることができる。

 どちらの道を目指すかは、その国の人々がいかに政治的ウソにだまされずに、自らの素朴な感覚を磨き、働かせるか、にかかっている。

(文責:伊勢雅臣)
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