注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■
国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」
自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
■1.「家がこんな状態なのに行くんですか」
宮城県の沿岸の都市で、ある酒屋が今回の大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。若者と母親が店内の片付けをしていると、制服の自衛官が来て、1枚の紙を示した。「召集令状」である。
若者は元自衛官であり、万が一の時に招集に応ずる即応予備自衛官であった。若者は令状を示す自衛官に直立して「了解しました」と答えた。
横からテレビのレポーターが「家がこんな状態なのに行くんですか」と聞くと、「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、10年、20年と後悔しますから」 そばにいた母親も「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。[1]
元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役並みの活動を期待されているのが、即応予備自衛官である。現在、約5600人いるなかで、今回の震災では4月中旬時点で、1300人が招集されていた。
教育勅語に、理想の国民像として「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」(もし危急の事態が生じたら、義心と勇気を持って、公のために奉仕し)との一節があるが、まさにそれを絵に描いたような一場面である。
■2.「仲間のために自分は行く」
東京電力福島第一原発の危機もなんとか沈静化しつつあるが、それも多くの人々の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」のお陰である。
東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員、根本誠さん(47、仮名)は3月11日の震災発生当時、第一原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚10数人とそのまま原発に残って、復旧作業に入った。
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被曝(ひばく)の危険性があることは分かっていたが、復旧作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた。
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第一原発では連日、東電社員と協力会社社員、合計で300〜500人が残って、復旧作業にあたった。1日の食事は非常食2食、毛布にくるまって雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける。
3日後の14日午前11時1分、根本さんが2号機で電源復旧作業に当たっていた時に3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。
外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、灰色の煙がもうもうと青空に立ち上がっていた。「もうだめだ、、、」仲間の声が聞こえた。
根本さんは「放射能をくらうぞ。避難するんだ」と声を上げて防護服のまま、瓦礫の上を走った。乗ってきた車は爆風で窓が割れて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近く、最後は息切れしながら、たどり着いた。
根本さんは翌日15日から東電の緊急退避命令により、しばらく避難生活を送ったが、また志願して、第一原発に戻るという。
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同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。むろん、行かなくとも誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く。[2]
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行かなくては「自分がよしとはできない」とする心が「義」であり、危険を承知で現地に赴くのが「勇」である。
■3.「任務ですから」
原発には、東京消防庁のハイパーレスキュー隊、自衛隊、警視庁なども放水活動のために駆けつけた。
大阪市消防局は53人が20日夜から90時間、東京消防庁の活動を支援した。参加した隊員たちには、本人の意思を確認した上で、職務命令が出された。指揮を執った片山雅義・警防担当課長代理(48)は、こう語った。
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東京消防庁が孤軍奮闘、国民のために命がけで戦っているのを、同じ消防職員として見過ごすわけにはいかない思いだった。
私の息子は24歳だが、ほぼ同じ年齢の東京の隊員が体を震わせながら「任務ですから」とだけ言い残して出動していった。
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原発から約20キロ地点の前進基地から、800メートル地点の指揮所までサイレンを鳴らして移動する途中で、自分たちに向かってお年寄りら6人の住民がお辞儀をした。
「腰を90度まで曲げて、深々とおじぎをされた。その姿を見て、これは絶対に何かお役に立って帰らねばと思った」と片山さんは語った。[2]
■4.全国から集まった3千人の都市ガス局員
同僚が命がけで戦っているのを「見過ごすわけにはいかない」という「義勇」の心は、民間事業者も同じだ。
仙台市ガス局では7市町村で35万世帯の都市ガス供給がストップした。この危機に全国の都市ガス業者が立ち上がった。北は北海道ガスから、南は鹿児島の日本ガスまで、最大手の東京ガスも含め、約30業者が約3千人を仙台に派遣。仙台市ガス局員約500人とともにガス管の損傷確認や一軒ごとの開栓作業など、人海戦術で復旧にあたっている。
仙台市ガス局内に設けられた現地復旧対策本部には、会社ごとに異なる様々な作業着を着た技術者たちが集まる。全国に派遣要請を出した日本ガス協会の広報担当・山田俊彦さんは「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い。同業の仲間として放っておけない」と使命感を語る。
新潟県柏崎市から8時間かけて駆けつけた同市ガス水道局の佐藤貴人さんも、3月末、仙台市内でガス管の修繕作業に従事した。「中越沖(地震)の際には仙台市にも助けてもらった。やっと恩返しができる」と、語った。
オール・ジャパンによる総力戦の復旧作業で、地域ごとに供給が再開されていった。仙台市ガス局の桝川佳隆さんは「同業者の支援は本当にありがたい。全域復旧を急ぎたい」と声をつまらせた。[3]
■5.「荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声」
電気、ガスと同様、ライフラインとして重要なのが物流だ。ヤマト運輸は岩手、宮城、福島の125店舗を震災後10日で再開させた。阪神・淡路大震災の時に要した日数が15〜20日なので、大幅に縮めている。
石巻市でいち早く営業再開した石巻蛇田センターは、近隣の5事業所分の荷物を一気に引き受け、北信越、関西などの事業所から駆けつけたヤマト運輸社員がサポートして、通常1日取扱量800個程度のところ、3000〜3200個をさばいた。
そのほとんどすべての荷物は、被災した親戚に食べ物を届けたいとか、親友に衣類を送りたいという、救援物資である。阿部浩・石巻支店長は言う。「自宅や避難場所に荷物を届けると、返ってくるのは一様に喜びの声。物流は電気や水道と一緒。同じインフラなんです」
ヤマト社員たちの心意気を示すエピソードがある。ヤマト運輸のドライバーたちは、避難所間の供給物資の格差に気がついた。ある避難所には潤沢に救援物資が行き渡るのに、小さな避難所には行き渡らない。
各担当エリアを隅々まで知り尽くしているヤマト運輸のドライバーたちは、自発的に小さな避難所まで救援物資を送り届けた。他の運送会社と共同で、救援物資の配送を行ったケースもあった。
ドライバーたちの自発的な動きを知ったヤマト運輸本社では、こうした活動を支援するために急遽「救援物資輸送協力隊」を組織し、グループ挙げての活動に乗り出した。
宮城県気仙沼市の青果市場に設けられた救援物資の一時倉庫では、約50人の自衛隊員と同数のヤマト運輸の協力隊が働いている。自衛隊が宮城県の倉庫からこの一時倉庫に物資を輸送し、ここから約90カ所の避難所に配るのがヤマト社員の役割である。[4,p13]
■6.自動車営業マンの奉公
宮城県石巻市のトヨタ自動車系ディーラー、仙台トヨペット石巻店は、地震発生の40分後に、巨大な濁流に襲われた。車はすべて流され、営業再開のメドも立たないため、須藤店長は従業員に自宅待機を命じた。しかし、4日目には、従業員が一人、また一人と店舗に戻ってくる。
売るものなど何もなかったが、須藤店長は店を開けることにした。すると、顧客が次々と店舗にやってくる。「流されたクルマで玄関が開かない、道路が通れない」など、用件の大半はクルマの撤去で、1日に10件以上も依頼が舞い込んでくる。店舗の片付けも終わらない中で、従業員は数人がかりで、撤去作業に出かけていく。
携帯電話がつながるようになると、営業マンたちは常連客の安否確認を始めた。すると、顧客からの第一声は「生きていたか」「家族は大丈夫か」と、営業マンたちの身を案ずる言葉だった。
電車もバスも途絶えた被災地で、車は生活に欠かせない移動手段であり、物資の運搬手段である。顧客からは次々と注文が寄せられる。地震発生後3週間で新車30台、中古車25台を受注した。震災前の10日間の受注は10台だった。
石巻店は津波の難を逃れた在庫をやりくりして、4月1日、震災後の納車第1号ハイブリッド車「プリウス」を顧客の許に届けた。仙台トヨペットは、全国各地のディーラーに呼びかけて、200台の中古車を調達する手はずを整えた。
トヨタ本体からも毎日のように救援物資が届けられる。仙台トヨペットでは、支援物資の多くを自社の店舗だけでなく、避難所や病院にも届けている。地域社会に根ざしたディーラー網は、住民生活を支える社会インフラとなっている。[4,p11]
■7.生活に必要なものを普通に買える喜び
宮城県気仙沼市にあるイオン気仙沼店では、地震発生直後、店舗にいた買い物客と従業員は、避難場所に定めてあった店舗正面入口に集まった。町内放送は高さ6メートルの津波が押し寄せてくる、と伝えた。雪が降る中、高瀬千晃店長(59)は高台にある県立高校跡地などに全員を誘導し、一人の被害者も出さずに済んだ。
翌日、避難先から店に戻った従業員たちが目にしたのは、無残に破壊された売り場だった。建物はなんとか残ったものの、1階売り場では自動車が流れ込んで横転しているなど、膨大な瓦礫の山に埋め尽くされていた。
高瀬店長は、どう店を再開するのか、悩んだ。店舗の外のスペースは既に自衛隊が拠点として利用していた。建物の内部が使えないとすれば、残るは屋上しかない。「お客さまが満足する売り場になるのか。そもそも、早い時期に再開する意味があるのか」と迷った。
それでも顔見知りの常連客からは「お店はいつ開くの?」「早く営業して」と何度も声をかけられた。従業員たちにとっても、大切な職場だ。
4月1日、屋上駐車場にテントを張った仮設店舗で、店を再開した。並んだ商品は、カップ麺、野菜、自転車、布団など生活必需品が中心だった。冷蔵庫が必要なものは置けない。
斎藤光代課長(62)が朝礼で、いつものように「行動規範宣言」唱和のリード役を務めた。斎藤さんは26年前の気仙沼店開業時にパート従業員として採用され、その後、正社員として、この店で働き続けてきた。
朝礼では、再開にこぎ着けた喜びで、多くの従業員が涙を流した。開店前に約500人もの買い物客が列をなしていた。開店後は、臨時レジの前で長い行列ができた。生活に必要なものを普通に買える喜び、その客の喜びを従業員も受けとめたことだろう。
売り場を完全に破壊された店舗の本格復旧は今もメドが立たない。それでも斎藤課長は誓う。「私たちにはこの場所しかない。ここで必ず復興する」[4,p6]
■8.公とは「大きな家」
「公に奉ずる」の「公」とは、「おおやけ」、すなわち「大きな家」という意味である。国全体を一つの「大きな家」だと見なし、その家族一人ひとりがそれぞれの働きを通じて、「大きな家」を支えることが、「公に奉ずる」ということである。
ここで紹介した即応予備自衛官、原発作業員、消防隊員は言うに及ばす、ガス工事のおじさん、宅急便のおにいさん、自動車営業マン、スーパーのおばさんたちも、一人ひとりがそれぞれの仕事を通じて、立派な「奉公」をしている。
そういう生き方を理想とするのが、我が国の国柄であり、明治日本の急速な隆盛も、戦後の奇跡的な復興も、多くの国民がそれぞれの場で奉公に勤しんだ事が原動力となっている。
震災によって、本編の登場人物たちのように、いまだ多くの人々がそれぞれの職場で奉公をしていることがあきらかになった。そしてこれらの人々の生き様に感ずる処があったら、あなたの心の中にも、このDNAが脈々と受け継がれていると思ってよい。
大震災を契機に、国民一人ひとりの中で、「義勇公に奉ず」の心が目覚めたとすれば、膨大な犠牲者の御霊も慰められるであろう。
(文責:伊勢雅臣)