このところ、いわゆる小説がなかなか読めない。
これに関しては、忙しくて時間がないというより、自分の精神状態がついていけない小説が多いというか、精神的に好き嫌いの強い時期に来ているとしか言いようがない。
夏目漱石の「こころ」についても、だいぶん前から読み始め、ときどき思いついて読もうとするのだが遅々として進まない。
先の展開を見たい、読みたいと思わないのである。
「銀の匙」も同様だった。
逆に捨てるために実家から先日数十冊取ってきた中に乃南アサの短編集があって、それはあっさり読み切った。
さすが、一時期角川ホラー文庫を創設時のものからほぼ全巻手元に揃えていたことはあると自画自賛。
二十代から三十代の初めにかけては、小説も大量に読んだが、通勤途中などちょっとした時に読めるように、短文とその解説という形の本もよく読んでいた。
特に「大学」は、意味はわからなくても長いこと持ち歩いてくり返し眺めていたので一番ぼろぼろになっている。
かといって
「じゃあ、大学でも論語でも印象に残る言葉は何ですか」
と言われても、よく会社勤めしてられるなというくらいこういった面での記憶力はものすごく悪いので、さっぱりである。
何、こういうものは、教えとして心のどこかに刻まれていればよいのだ。
そういったちょい読みのできる形式の本の中で、一般的に禅語録の入門編と言われる「碧巌録」に続くとされているのがこの「六祖壇経」である。
これも実家から取ってきた本で(捨てないほう)、仕事場のデスクのそばに置いておいて、最近週に1回程度気が向いたときに見ているが、時折ハッとさせられる内容もある。
かつては何とも思わなかった内容でも、年齢によって変わってくるのである。
最終的には、白隠禅師がやっておられた内観の法などに通じるのだが、
「我の中に何もかもある」
的な世界であり、それゆえ
「まずお前の中のなまくらから追い出せっ!」
となるのである。
私も長いこと書物その他でそういう教えに多く接してきているので、わかっちゃいるんだけどねえ。