注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ Japan On the Globe(639) ■ 国際派日本人養成講座 ■
Common Sense:「日本人という生き方」(下)
〜 ウガンダ高校生たちの志
日本の躾を身につけたウガンダの高校生たちは、
「母国を良くしたい」と志すようになった。
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■1.ウガンダのために働いている日本人
「ウガンダの父」と呼ばれている日本人がいる。現地で45年以上もシャツ製造会社を経営している柏田雄一さんである。ある日、小田島さんは選手たちを連れて、柏田さんの工場を訪問した。柏田さんはウガンダの歴史、環境保護、そして工場内で実践している躾の大切さを語った。
話の終わりに柏田さんは「私は、もう引退して老後をゆっくり日本で暮らすこともできるのに、なぜここにいると思う?」と選手たちに尋ねた。誰も答えることができなかった。その答えは「ウガンダを愛しているから」であった。
その言葉を聞いたとき、選手たちの背筋がピンと伸びたように思えた。この人はお金のためでなく、ウガンダのために働いている日本人なんだ、ということを肌で感じたようだ。
その効果は翌朝の掃除から出ていた。前日の移動の疲れがあるので、今朝の掃除は無理かなと思っていたら、10分前に全員が揃った。放課後の練習も、今までにないピンと張り詰めた雰囲気となった。選手の心が変わったのだ。
■2.日本人以上に日本人らしく
早朝の読書と清掃、そして夕方の練習を続けて半年ほどすると、選手たちの真摯な姿勢、他人へのやわらかい物腰、何かを学ぼうという真剣なまなざしは、日本人以上に日本人らしくなっていた。
「時を守り、場を清め、礼を正す」だけで、これほどまでに効果が上がるとは思っていなかった。日本の教育現場は混迷の真っ只中にあるが、この選手たちの成長の姿を見せたら、忘れかけている日本の躾の素晴らしさを再認識して貰えるだろう、と小田島さんは考えた。
そこで、ウガンダでの様子をDVDに収め、日本でお世話になった人々に送った。その様子に感動した日本の人々との間で、ウガンダ・チームを日本に呼ぼうという企画が持ち上がった。日本での有志が「ウガンダ国際交流実行委員会」を立ち上げ、募金活動を始めた。
選手たちには折りにふれ、日本での支援者の様子を伝えた。
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彼らは、仕事があるのに、家族でもない、親戚でもない私たちのために動いている。彼らは、人のために動くことができる、本物のレディーであり、ジェントルマンだ。その恩に報いるためにも、私たちは、ジェントルマンになって日本に行かなければならない。[1,p130]
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選手たちはますます真剣になっていった。集合時間の1時間前の朝3時半に来て、自発的に読書や授業の準備をする選手も増えてきた。掃除も、小田島さんが「そこまでやるか」と思うほど徹底してやってくれるようになった。
■3.「試合中に5回ほど涙が出そうになった」
平成20(2008)年1月24日、セントノア高校野球部選手、校長、そして小田島さんの総勢15名が関西国際空港に降り立った。折から北海道は大雪で、札幌行きの便が飛び立てるか心配だったが、一行を乗せた便だけが欠航とならずに、新千歳空港に到着した。選手たち、支援者たちの思いを天が応援してくれたように小田島さんは感じて、涙がこぼれた。
初日は登別の温泉に入る。母国では、たらい一杯の水で体も頭も洗う彼らは、お湯がなみなみと張られている湯船にびっくりした。選手たちは体を洗い終えると、使った桶を片付け、腰掛をまっすぐに並べた。物を使ったら、次の人のためにきれいに片付けるという事が、当たり前のようにできるウガンダ青年たちの姿に、今度は周囲の日本人客が驚いていた。
札幌ドームでは北海道日本ハムファイターズ中学生選抜チームと親善試合を行った。屋根つきの体育館すらほとんど見たことの無いウガンダ選手たちにとって、屋根つきのドーム球場はまるでSFの世界のように見えただろう。
実力ははるかに上の相手で、大差で負けてもおかしくなかったが、奇跡が起こった。0対0の引き分けだった。投手のべナードが、何かが乗り移ったのかと思うほど、冷静で粘り強い投球を見せた。守備での相互のカバーリング、声の掛け合い。チームの一体感は、相手を上回っていた。技術の差を「心」でカバーする、まさに日本野球をウガンダ選手たちは見せた。試合終了後、2千人以上入ったスタンドからウガンダ・チームに大声援が送られた。
夏の甲子園で優勝した駒澤大学苫小牧高校野球部の香田元監督は、試合の様子を次のように語った。[1,p156]
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ウガンダ人の野球に対する姿勢が本当に勉強になった。試合中に5回ほど涙が出そうになった。子供の頃、初めてボールを握った感覚や、楽しくボールを追っかけていた過去が蘇りました。言葉ではうまく表現できないけれども、日本野球に失われたものを彼らは持っている。
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■4.「ウガンダを良くしたい」
日本への旅は、選手たちを一段と成長させた。「正しいことを積み重ね、良い人間になれば、誰かが必ず応援してくれる」ということを、経験から学んだのだ。
帰国後20名近くの部員が新たに入部したが、先輩部員たちは、毎朝4時半に彼らを起こし、時間通りに清掃を始めた。後輩部員も、夢を叶えた先輩を尊敬し、積極的に真似ようとした。その結果、先輩たちが6ヶ月かかったことを、後輩たちは1ヶ月でできるようになった。
さらに先輩部員たちは、自分たちの経験を多くの人に伝えようと、校内で集会を開いては、「時を守り、場を清め、礼を正す」の大切さを一般生徒にも説いた。地域の小学校を訪問しては、日本の躾の素晴らしさと、「夢は実現する」ということを語った。
「ウガンダを良くしたい」「自分たちの生き様をウガンダに広げたい」「ウガンダのリーダーになる」、そういう志を選手たちは持つようになったのである。
■5.「どうしたらよいでしょうか?」
そんなある日、キャプテンのアーロンが小田島さんの所に相談に来た。家庭の都合で学校をやめなければならないという。
アーロンはチームリーダーとして、陰日なた無く働いてくれていた。彼の夢は、大学に進学し、アフリカの国々を鉄道でつないで、友好の架け橋になる、という事だった。
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実は、私は母子家庭です。お父さんの顔は見たことがありません。お母さんも働けません。だから、祖母の遺産で高校に進学することができました。ただ、その遺産が底をついたようです。だから学校をやめ、働くことになります。野球もやめなければなりません。どうしたらよいでしょうか?
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と言うアーロンに、小田島さんは返す言葉を失った。
[1,p168]
■6.「私は、親にもウガンダという国にも感謝しています」
アーロンは本当によくやっている。朝の4時半から学習し、掃除をする日々。「私の高校時代と比べると天と地ほどの開きがある。私は、彼らのような努力もせずに大学卒業まで野球を続けることができた」と思った小田島さんは、アーロンを慰めるつもりでこう言った。[1,p170]
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もし、君が日本に生まれていたら、絶対成功している。君ほど頑張っている若者はいないのだから。ウガンダに生まれたばかりに、かわいそうに。
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ところが、彼から意外な返事が返ってきた。
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コーチ、違います。私は運の強い人間だと思います。ウガンダでは多くの人は高校に行けません。祖母がお金を残してくれたおかげで、私は高校に通うことができました。そして、親が許可をしてくれたので野球をすることができました。そしてコーチに出会い、多くの日本の方々に応援していただき、日本に行くことができました。
こんなウガンダ人、アフリカ人はいません。ここウガンダに生まれたからこそ、実現できたことだと思います。私は、親にもウガンダという国にも感謝しています。
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アーロンの言葉に、小田島さんはショックを受けた。「高校に通えて当たり前」「野球ができて当たり前」だと信じていた自分の考えを恥ずかしく思った。世界の8割の途上国の人々にとっては、それは当たり前のことではなかったのだ。
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コーチ。私はウガンダのリーダーになりたい、そのために成功する必要がある。そして日本人の伝統習慣を多くのウガンダ人に伝えたい。そうすれば、ウガンダが発展すると思います。
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彼の「どうしたらよいのでしょうか」という質問は、この志を遂げるために、今後、どうしたらよいか、という相談だったのだ。アーロンは小田島さんと話し合って、農業を志すことに決めた。肥沃な土地と豊富な水に恵まれたウガンダは、農業に大きな可能性を秘めている。彼の目標は、農業で成功するということに変わった。
■7.「どうして日本がそんなに豊かになったのか」
ウガンダから見れば、高校進学率が95%近くに達し、半数以上の若者が大学に行ける日本は、別世界のように豊かな国である。小田島さんはセントノアセカンダリー高校の先生から、こんな質問を受けたことがある。[1,p192]
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日本は先の大戦で原爆を2つも落とされ、敗戦した。国がひどい状況になったにもかかわらず、60年たった今、世界で有数の豊かな国になっている。ウガンダは独立してから50年以上経つが、まだこのような貧乏な国である。あと10年したら日本のような国になれるのか? そして、どうして日本がそんなに豊かになったのか教えてほしい。それがわかれば、ウガンダの発展のヒントになると思う。
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小田島さんは、この質問に答えることができなかった。日本人でありながら、そのようなことを考えたことはなかった。
この質問への答えを見つけるべく、日本のことを調べていく中で、「焼き場に立つ少年」という写真に出会った。アメリカ人の報道写真家が戦争直後の日本を撮った1枚で、10歳ほどの少年が死んだ赤ん坊をおぶって、直立不動の姿勢で焼き場の順番を待っている姿である。
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悲しみに打ちひしがれながらも、涙一つ見せずに、強い意志を持って自分の責任を果たそうとする少年の姿に、この時代の日本人の精神性の高さを知った。
指先を伸ばし、あごを引いて、直立姿勢を保つ少年の姿に、この頃の家庭及び学校での躾教育の素晴らしさを見た。わずか10歳でも、このような凛々しさを持っている。彼に理想の日本人の姿を見た。[1,p195]
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今の豊かな日本は、こういう強い精神力に根ざした先人のたゆまぬ努力の賜物である、と小田島さんは知った。そして、そういう人物を作る教育こそ、小田島さんがウガンダで目指したものだったのである。
■8.「精神のリレー」
朝5時からの読書、6時前からの校内清掃は野球部員にとって、当たり前になりつつある。しかし、一般生徒や教員は、ゴミ箱を増やしても、そこらにポイ捨てしてしまう。
「時を守り、場を清め、礼を正す」という日本人の生き方は一朝一夕にできたものではない。2千年以上の努力の積み重ねによって出来上がったものだ。その努力の賜物として、「高校で野球をする」というほとんどのウガンダ人のとっては「かなわぬ夢」も、普通の日本人には挑戦可能な幸せな社会が実現している。
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先祖のたゆまぬ努力があって、自分の夢が実現する。
そう考えると自分の人生は自分のものだけでなく、先祖のものであり、子孫のものでもあるのだ。自分のためだけでなく、次の世代のためにも、自分の人生を完全燃焼しなければならない。
「命のリレー」は、「精神のリレー」である。
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ウガンダでの2年間、野球部員とともに小田島さん自身の心も大きく成長した。ウガンダを去るにあたって、小田島さんは次の言葉を選手たちに贈った。
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私は日本を良くするために生きる、そして君たちは、ウガンダを良くするために生きてほしい。私はウガンダで、君たちのようなジェントルマンに会えたことを誇りに思う。それぞれの国で、人生のチャンピオンになろう。
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(文責:伊勢雅臣)