注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人
荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。
■1.「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」
二人の男が自転車で部落にやってきた。「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」という声がした。洋服姿をしているだけで、侮蔑の眼差しを向ける。老人は逃げ、青年たちは嘲りの表情で二人を見た。女たちも戸を閉めて家の中に隠れた。
自転車を降りた二人のうちの一人は、杖をついてびっこを引きながら歩いている。丸眼鏡に頬髭を生やした特異な風貌である。その歩く様を、子供たちがそっくり真似しながら、はしゃいで、ついてくる。
大正14(1925)年11月、平壌から東に40キロも入った江東という寒村でのことである。平壌からは1日1回、6人乗りのバスが往復するだけで、電気もなく、夜はランプの暮らしだった。
びっこを引く男は重松〇修(○は高に昇、まさなお)。江東金融組合の理事である。金融組合とは、日本政府によって各地に作られた小規模の組合で、高利貸しに苦しむ農民を救うために小口低利の貸し出しを行っていた。
江東金融組合では理事の重松以下、4人の朝鮮人職員がいるだけだった。びっこを引いているのは、前任地で暴徒に襲われ、脚を打ち抜かれるという重傷を負ったからだ。
重松が訪れたのは、江東の下里(かり)という50戸ほどの部落で、両班(ヤンバン、貴族)の家柄から働くことを軽蔑して、のんびりと長煙管(きせる)を吸いながら、その日その日を過ごすことを誇りとしていた。そんな生活を続けていたので、零落していたが、それでも生活態度を変えようとはしなかった。
重松は、因習を続けている下里を更正させることで、江東全体の変える模範部落にしようと考えたのである。
■2.養鶏の副業で農民を豊に
重松は、江東の地に赴任してから、区域内の農民の現状を観察して回った。小作農や小農は凶作だと食べるものもなくなって、高利貸しに金を借りる。借金の返済のために僅かな土地を売り、一家離散したり、都会の浮浪者になる、という有様だった。
金融組合が「節約して貯蓄を」と勧めても、そもそも貯蓄そのものが不可能な貧窮農家が多かった。そこで重松の考えたのが、養鶏を副業として農民を豊かにする事だった。
トウモロコシの実をとった残りの黍殻(きびがら)を臼で擂(す)って鶏の餌にする。鶏の糞で田畑を肥やす。その卵を売り、また一部は育てて親鶏を増やす、というアイデアだった。
こう思いついてから、重松は仕事の傍らで自力で鶏舎を建て、平壌に行って日本人の専門家から飼育の仕方を習い、10羽の白色レグホンと5羽の名古屋種を購入して育て始めた。朝晩は重松が世話をし、昼は妻が手伝う。
艶々とした真っ白の羽と赤い鶏冠を持った白色レグホンとバラ色をした名古屋種は、鶏舎の中を元気に歩き回り、手のひらで餌を差し出すと、駆け寄ってきて、ついばんだ。
やがて卵を生み始めると、毎晩、重松は卵が親鶏の羽の下からはみ出していないかチェックする。北朝鮮の冬では、冷えた卵は凍死してしまうからだ。
養鶏は順調に進み、白色レグホンから生まれ育った若鶏は136羽。こららの生む有精卵を下里の村人たちに無償配布しようというのである。
■3.「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」
重松は李青年の案内で、立派な門構えの家に入っていった。飼い犬が吠えると、髭をたくわえた老人が出てきた。この村の長老のようだ。李青年は朝鮮式の丁寧な挨拶をした。部落の人も10名近く集まってきた。
重松は朝鮮語で挨拶し、ここに来た目的を語り始めた。各戸に白色レグホンの有精卵を15個ずつ無料で配布するので、それを育て、とれた卵を供出して貰って共同販売する。卵の代金は据え置き貯金にして、貯まったお金で、豚や牛を買い、土地も買える。
重光の熱意の籠もった言葉を、村人たちは黙って聞いていたが、はがて口を開いた。
「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えば罰があたる」
「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんで、そんなことがあり得るはずがない」
「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」
重光は底知れぬ頑迷さを感じた。しかし、村人たちの嘲りの裏には、充たされぬ思いが潜んでいるような気がした。
重松は何も反論せずに、「もっとよく静かにお考えになってください。そのうちまたお邪魔に上がります」と言って、引き揚げた。重松は自転車を押しながら、あの頑迷さを打ち破るには何度も何度も訪問し、誠意で彼らの心に触れ、愛によって彼らの心の底の魂を揺り覚まさなければならない、と考えた。
■4.見たこともない大きな卵
重松は下里の村に何度も足を運んで、養鶏を勧めた。翌年2月末、一人の老婆が組合事務所に現れて、「卵を欲しい」と言ってきた。重松は急いで舎宅に戻り、有精卵を15個、丁寧に綿で包んで、老婆の持ってきた籠に入れてやった。老婆は見たこともない大きな卵に驚いて「アイゴー・・・」。そして自分のしていた襟巻きを卵に掛けて帰って行った。
3月になると、重松の配る卵の大きさに驚き、ポツリポツリと下里から種卵を貰いに来る人が出てきた。その中には、かつて重松に毒づいた人たちもいた。
3月の終わりには、老婆から「13羽、雛が孵(かえ)りましたよ」と伝えてきた。重松は時間ができると、下里に行って、雛の育て方を指導した。8月末までに520個の種卵を配布し、そのうち半分が育った。初年度としては満足すべき結果だった。
翌春には育った鶏が産卵を始めた。その卵を組合に持ってこさせ、重松とその妻が、日本人校長や署長、朝鮮人の組合長など、比較的余裕のある家に売り歩いた。従来種の値段よりも一割ほど高くしたが、大きさと新鮮さ、それになによりも重松夫妻の志を知っているので、快く買ってくれた。
それでもさばききれないほど、卵が持ち込まれるようになり、重松は平壌の金融組合連合会本部に販売を頼むと、斉藤清理事長は快く引き受けた。
重松と部下たちは勤務時間終了後、集まってきた卵を一つ一つ明かりを当てて調べ、合格印を押し、厳重に荷造りして、乗合バスに載せて貰う。
そうして届いた卵を、斉藤理事長は何個か背広のポケットに入れ、近所の銀行や会社などに出かけて、「この卵を買わないか。大きくて美味いよ。食堂で使うといい」と売って歩いた。相手は、顔見知りの経営者である。販売先は次々に決まっていった。ただ、時々、ポケットの中の卵が割れて、困ったこともあった。
■5.未亡人の借金返済
下里で若くして夫を亡くした夫人がいた。二人の小さな子供を抱えており、組合にも37円の借金をして、途方に暮れていた。亡くなった夫は、立派なレグホンを育てていて、重松も一目置いていた人物だった。
重松の部下は「土地がわずかばかりありますから、差し押さえをすれば、組合に損失はないですよ」と言った。それが当時の朝鮮社会の常識だった。
重松は「そんな冷酷なことはできないよ。一度、会ってみて、話をしてみよう」と言った。しばらくして、夫人が組合にやってきて鶏卵を届け、その後で重松の前に来た。4歳の長男を抱えている。
「ご主人が亡くなられてお気の毒です」と重松から話しかけた。「ありがとうございます。その主人の病気や葬儀などもあって、借りていたお金を返したいのですが、どうにもしようがないのです」とやつれた顔で答えた。
「ここにあなたの養鶏貯金が4円55銭あります。滞貨しているあなたに払い戻しはできません。しかしあなたが豚を飼って一生懸命働いて債務を返す覚悟がおありでしたら、払い戻しを特別に認めたいと思います」
土地を取られるものと思っていた所に、思いがけない言葉をかけられて、彼女の目は輝いた。そして4円だけ引き出し、市で子豚を買って帰った。その後も婦人は卵を組合に持ち込み続けた。重松は顔を合わせるたびに、激励の言葉をかけた。
それから7ヶ月後、育てた豚を32円で売り、それと養鶏貯金のお金で、37円の貸付金と利子をきれいに払った。重松には何度も頭を下げて、礼を言った。
「理事さんのおかげで土地も売らず夫の債務を払うことができました。これから先も豚や鶏を飼って貯金し、子供を学校に行かせるつもりです。本当にありがとうございました」と、涙をこぼさんばかりに喜んでいた。
■6.「鶏が医生を生んだ」
37歳の貧しい小作人がいた。妻と3人の幼い男の子を抱え、二間しかない草葺きの小屋に住んでいた。しかし重松の指導どおりに鶏を飼い、どしどし卵を組合に持ってきた。やがて養鶏貯金は27円75銭になり、もうすぐ牛を買える額に近づいた頃、重松に手紙を出した。
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・・・私は理事様の公益を広く施そうという高義に副(そ)いたいと思います。私は来る4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心いたしました。
その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したく思います。理事様にこのことをご了承いただければ、小生はそのご恩は永久に忘れません。[1,p157]
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重松は驚くとともに、感激した。改めて調べてみると、医者にかかれない貧しい人のために医生になろうと、毎晩、漢方医の本で独学していたという。
平壌での一年の苦学の末、総督府より医生の免許が交付された。重松からの手紙でこの事を知った京城日報社長の松岡正男は感激して、その手紙を新聞に4段抜きで紹介した。そこでは「部落では、鶏が医生を生んだなどと喜んでおります」と重松は喜びを語った。
■7.「軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」
昭和5(1930)年の春、重松が平壌に出てきた際に、斉藤理事長に第77聯隊に連れて行かれた。重松の説明を受けた白石聯隊長は「朝鮮の農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と語った。聯隊との間で月7千個もの卵を収める契約が交わされた。
ある時、軍事演習に合わせて、2千個もの大量注文が電報でもたらされた。重松は組合の在庫を調べたが、その半分もない。考えた末に、重松は近くの小学校の菅校長を訪ねた。
菅校長は50歳近くになって、教育者としての最後の舞台を朝鮮人少年少女の教育に捧げようとやってきた人物である。そして雛を育てることが少年少女の情操教育にもつながると、生徒の家庭でも養鶏貯金を奨励していたのである。
重松は、菅校長に事情を話し、朝礼の時間に全校生徒に各家庭での卵をあるだけ持ってくるように伝えてくれないか、と頼んだ。菅校長は「いいですとも、さっそくやりましょう」と快諾した。こうして4百人の生徒が、めいめいの家庭から卵を持ち込み、軽く2千個が集まって、演習地に送られた。
軍関係では、さらに航空隊、高射砲隊、病院などが江東の卵を買ってくれるようになり、販売数は飛躍的に増加していった。昭和2年の鶏卵の販売数は993個だったが、昭和11年には30万個を軽く超えるようになった。
それまでに養鶏貯金で購入された牛1千頭、豚2千100頭、土地2万5千坪、さらに進学資金、結婚資金、家の建て替えなどに使われ、江東農民の生活は格段に向上した。また江東の成功を見て、同様に養鶏を始める地方が数多く現れた。
■8.「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」
副業としての養鶏が軌道に乗ると、重松はさらに女性たちにハングルを教えたり、村人が集まって将来を論じあうための集会所を建てることを提案した。それを受けて、村人たちは朝一時間、早起きして、自力で会堂を作り上げた。こうした作業が勤勉と共同の精神を育てていった。
昭和11(1936)年2月11日の紀元節、3番目の模範部落であった芝里が一番の更正部落として、知事から表彰された。芝里は歓喜の渦に包まれ、重松の喜びも一入(ひとしお)であった。
3月の終わり、芝里の代表たちが組合にやってきて、重松に次の日曜日に部落に来てくれ、と頼んだ。「なにがあるんです?」と聞くと、「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」という。重松は呆然としたが、もう碑は出来ているのだから、行くしかなかった。
昭和13(1938)年6月、重松に転勤命令が出た。江東での実績が高く評価され、京城の金融組合聯合会本部で、後輩の育成をせよとの辞令である。遠方からも組合員たちが押しかけ、名残を惜しんで送別会を開いてくれた。長老の一人は「理事さん、家族の食べる分はわしらが出すから、残ってくれ」と泣き声で言った。
その後、重松は金融組合の教育部長などを努めて、後輩の育成に邁進した。戦争が終わると、朝鮮総督府関係の有力者として逮捕状が出たが、養鶏で学資を得て出世した人物たちが、密かに手配して重松を日本に脱出させることに成功した。
(文責:伊勢雅臣)