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エルトゥールル号事件のこと
(国民同胞平成10年3月号より転載)
占部賢志(福岡県、高校教諭)
■1.テへランに孤立した邦人■
昭和60(1985)年3月18日の朝日新聞朝刊に「イラン上空
飛行すれば攻撃/イラクが民間機に警告」という見出しが躍った。
当時はイラン・イラク戦争(1980-1988)の真っ只中であり、長
びく戦闘にしびれを切らしたイラクのサダム・フセインは、つい
に総攻撃体制に入ったのである。
その一環として、あろうことか、テへラン上空を航行する航空
機はいづれの国のものであろうと撃墜するという方針に出たので
ある。期限は日本時間の3月20日午後2時。
明けて19日の朝刊トップは「邦人に動揺広がる/脱出路探し
に必死」と大書。外国航空の特別便が一部運航することにはなっ
たものの、自国民優先のため日本人ははじき出されてしまい、邦
人一行の不安におののくさまを伝えた。
外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、 「帰る際の安
全が保障されない」として日本航空側はイラン乗り入れを断念し
たという。事態はますます深刻度を増した。同日タ刊には「テへ
ラン 邦人300人以上待機」という見出しを掲げ、現地に釘付
けとなった邦人の孤立状況が続報された。
■2.日本・トルコ関係史に無知な朝日■
こうして、もはや万事休すと思われた土壇場、翌20日の朝刊
に「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215
人」という朗報が載った。
何とトルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出
してくれたのである。
まさに間一髪であった。掲載された写真には無事脱出できた子
供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。
さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を
冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対
して朝日新聞の記事はこうである。
すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化している
こと」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いてお
しまいなのである。
自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには
歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知ら
ないだけである。
無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書
くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親
愛の情を育ててきた国である。
■3.駐日トルコ大使のコラム■
その証左として、昨(平成9)年一月の産経新聞に載った駐日
トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラムを紹介する。
これを読むだけでも、トルコが何故日本に親愛の情を寄せるに
至ったかの消息が明らかになろう。それは日露戦争をさらに遡る
明治二十三年の出来事に端を発している。
勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを
日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍
艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現ト
ルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初の
トルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友
好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭
い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。
悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関
係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡
した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を
受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日
本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近
の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も
幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど
歴史上重要な出来事だ。
ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を
受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山
県沖に浮かぶ大島の村民である。
■4.島民挙げての救援活動■
当時、通信機関も救助機関もない離島のこととて、救助は至難
を極めたという。怒涛に揉まれ、岩礁にさいなまれ、瀕死のトル
コ人達に対して、大島村民は村長沖周の指揮のもと、人肌で温め
精魂の限りを尽くして救助に当たった。
さらには非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一
切を提供して精をつけ、彼らの生命の回復に努めたのである。
この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずから
まとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克
明に記されている。知る人も知ろうとする人も少ないだけである。
ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年に
は、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっ
ている。こちらの方は現在も小中高の歴史教科書に掲載されてい
て、多くの子供たちも周知の史実である。
難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員
は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見
捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末と
なった。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪
判決を下した。のち日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、3ヵ
月の禁鍋程度で賠償は一切却下。まさに不平等条約の非情さを天
下に知らしめた事件である。
それからまもなくエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大
島の村民もノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知って
いたであろう。それでも前述のように異国の人々の救助に献身し
たのである。
■5.明治日本人のオープンマインド■
いったいこの精神の高さはどこから来るのか。この点に関して、
トルコ大使に就任した遠山敦子氏と東京大学教授の山内昌之氏は、
こう述べている。 (中央公論社「世界の歴史」第二十巻月報)
山内: 明治時代の初等教育の普及率は大変な高さですね。小
学校の就学率は、明治30年代で90パーセントを突破します。
1891(明治24)年には非識字者は26.6パーセントでした
が、明治の最後の年になると字が読めない人の率は2.9パー
セントに低下しています。 (中略)これが明治日本の成功の
大きな理由だと思います。そして、そこにエルトゥールル号救
助の際の献身的な行為が生み出されてくる。
遠山: そのとき、救助にあたった村民たちがエルトゥールル
号の乗組員を人肌で温めて蘇生させたとか、村中の二ワトリを
かき集めてご馳走したとか、エルトゥールル号事件には、私は
大変感動しておりまして・・・。言葉は通じないけれど、1890
年にすでに日本の国民は、地方でもオープンマインドをもって
いて、いざというときには人類愛というか人間愛を発揮できた
んですね。
山内: そこに困っている人たちがいる、遭難している人たち
がいたら助ける、そこに理屈は何もない。この無償の行為に強
く心がうたれますね。やはり初等教育の普及といったことが背
景にあって、知らず知らずに人間愛が生まれてくる。これがや
はり文明というものだと思います。
この対談で山内氏は初等教育の普及が育んだ人間愛について言
及しているが、たしかに沖村長とともに救援活動に最も功労があ
ったと言われる樫野区長の斉藤半右ヱ門は、当時樫野小学校創立
期の学務委員として初等教育確立に尽カした人物である。救援活
動の過労と心労のためか翌年死去したが、誠実な人であったとい
う。
ただし、筆者は近代教育が与えた影響は否定しないが、むしろ
側隠の情は近代以前から地下水のごとく育まれていたと見るべき
ではないかと想像する。そうした精神的基盤があったればこそ、
わが国の近代初等教育に生命が宿ったと見る者である。
■6.「当然のことをしたまでです」■
いずれにせよ、一世紀を経た昭和60年に身の危険をも顧みず
トルコがテへランに孤立した日本人を救出したのは、エルトゥー
ルル号事件に対する恩義を背景として培われた親日の行為だった
と見てはじめて得心がゆく。
じつは、このエルトゥールル号事件のことを授業の教材にすべ
く、昨年七月にトルコ大使館から貴重な資料を送っていただいた。
その際、邦人救出に対して感謝の旨を伝えると、大使は通訳を
通じて「いやぁ大したことではありません。当然のことをしたま
でですよ」とこともなげに謙遜されたが、忘れ難い言葉である。
かくてこれらの資料のほか和歌山県の串本町や、この事件の顛
末を調査研究された和歌山県立串本高校の森修先生(故人)の遺
族の方などから送っていただいた資料をもとに、昨秋「日本・ト
ルコ関係史−エルトゥールル号事件の顛末−」と題する主題学習
にこぎつけることができた。
今どきの高校生であっても、こうした史実に学ぶと、例えば
「明治の人々は、見ず知らずの外国人に広く優しい心で接してい
る。トルコの人も今も変わらず日本人を思っていてくれてジーン
とした」と率直な感動を示すものである。
一方、経済援助に対する見返り行為だと憶断する朝日新聞の記
事に対して、「自分が日本人であることが恥ずかしくなった。感
謝することが大事だと思う。経済的にではなく、気持ちで恩返し
したい」と胸のうちを吐露する生徒もゐて頼もしい。
★★★
歴史教育とは、闇に隠されてしまった史実をも虚心に掘り当て、
今の世に鎮魂と顕彰の記念碑を打ち立ててゆく地道な作業である。
目下、春を迎へて如何なる史実をどのように取り上げるか、思案
と勉強の最中である。