注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話
ソ連軍の迫る中で、9人の乙女は電話交換手として最後まで職務を果たそうと、決心した。
■1.「町民のために最後まで責任を全うしてくれた」
先の東日本大震災の際に、宮城県南三陸町で、身を顧みずに、防災対策庁舎から「6mの津波が来ます。避難して下さい」と放送し、多くの町民を助けた女性がいた。防災放送の担当職員の遠藤未希さん(24)だ。
未希さんが放送をした3階建ての防災庁舎は、津波に呑まれ、赤い鉄筋だけが残された。放送は途中で切れ、最後の方は声が震えていたという。
避難所に逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。[1]
遠藤未希さんの行為は、多くの人々に、終戦時、ソ連侵攻下の樺太・真岡で電話交換手として最後まで職場を護って殉職した9人の乙女の物語を思い起こさせた。
■2.「戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」
あの朝、昭和20(1945)年8月20日の午前6時頃、樺太南西部の港湾都市・真岡は深い霧に覆われていた。
5日前に終戦の詔勅が発せられ、港にはソ連軍の侵攻の前に婦女子を北海道に避難させるための船がぎっしり並んでいた。それらの船には北部から逃げてきた女性と子供がすでに乗っていたが、さらに乗り込もうと、リュックをかついだ人々が、霧の中を港へと坂道を降りて行く。
そこに、黒っぽい、一見してソ連艦船とわかる大きい軍艦2隻と、駆逐艦ほどの船2隻が湾内に入ってきた。真岡郵便局の上田豊局長は、すでに真岡北方の監視哨から「ソ連軍艦らしいのが、4、5隻、真岡に向かった」と連絡があった、との報告を電話交換室監督の高石ミキさんから受けていた。
敵艦の甲板にはぎっしり兵隊が並んでいたが、敵前上陸のような緊迫感は感じられず、上田局長は「ああ、何ごともなくすみそうだ。戦争が終わってすでに五日もたっているんだ」と思った。
しかし、その1、2分後に、大地を揺るがせるような砲声が轟き、追いかけるように、機銃がいっせいに火を吹いた。それまで道ばたに立って珍しげに港湾を見下ろしていた市民が、撃たれて倒れるもの、あわてて身を伏せるものもふくめてバタバタと、将棋倒しに倒れるのが見えた。
■3.「崇高な使命感」
その4日前の8月16日、上田局長は豊原逓信局から、女子職員を緊急疎開させるよう指示を受けていた。局長はすぐに女子職員全員を集めて、その旨を申し渡した。
ところが、電話担当の大山一男主事が「全員が引き上げに応じない。そして局にとどまることを血書嘆願するといって、準備をしているようです」と報告してきた。
上田局長は直ちに女子職員を集め、ソ連軍が進駐したのちに予想される事態を語り、説得した。ソ連兵が占領した地で、略奪暴行を繰り返すことは、よく知られていたであろう。
しかし、女子職員全員が「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかった。確かに、ソ連軍が迫る中で、一人でも多くの住民を安全に引き揚げさせるためにも、電話は欠かせない手段であった。
上田局長は感動したが、その決意を是認することはできなかった。引き揚げ船を確保し、それが真岡に入港したら、命令で乗船させようと決意した。しかし、その前にソ連艦船が来てしまったのだ。
上田局長は後に回想文に、次のように書いている。
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あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一カ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか、その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命感以外にない。[2,p329]
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「他人の命令」云々というのは、戦後、彼女らが軍の命令で職場に残された、というデマが流されていたことに対する当事者として反論である。
■4.親への最後の甘え
「かあさん、これ私の形見。預かっておいてね」 そう言って、電話交換手の一人、可香谷シゲさんは、母親のあささんに白い布包みを差し出した。貯金通帳、写真のほか、シゲさんが日ごろ大切にしていた品々が入っていた。ソ連軍侵攻の前日、19日朝のことである。
「どうしたの、急に・・・」と、あささんが、けげんな顔をすると、「ううん、なんでもないの・・・」と言って、シゲさんは防空頭巾を背にくくりつけると飛び出していった。
この日は沖合に白波が立ち、北の奥地から二艘のハシケで避難してきた人たちが、真岡で下船して第一国民学校に仮泊するために坂道をあえぎながら登っていた。
夕方、シゲさんから電話がかかってきた。「おかあさん。晩ご飯のおかずがないの。なにかあったら持ってきてよ」
「ああいいとも。おとうさんがあとでタバコを買いに行くというから、何か持っていってもらうから」
娘のなんの屈託もない声にほっとする思いで、あささんは受話器をおいた。ところが、急に深い霧が湧き起こり、日が暮れるとソ連の空襲に備えて灯火管制をしている町は一寸先も見えない闇となり、おかずを届けることはできなかった。
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いまになると、あれがシゲの最後の願いであったわけで、それを聞いてやれなかったことを思うと・・・。死を思いつめていた娘は、最後に親に甘えてみたかったのでしょうね。かわいそうなことを・・・[2,p334]
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後に、あささんは、こう語って声をつまらせた。
■5.「武ちゃん、もう会えないかもしれない」
同じく19日、交換手の一人・吉田八重子さんの家では、翌朝の船で北海道に疎開する予定で、荷造りを進めていた。しかし職場に残る八重子さん一人を残していくことに、家族は気が重かった。
母親は、八重子さんの大好きなおはぎを作った。中学3年の弟・武さんがそれを八重子さんが働いている郵便局に届けた。すでに辺りは暗くなりかけていた。
局の階段を上って、交換室の戸を開けると、八重子さんは入り口に背を向けて交換台についていたが、戸の開いた音に気がついて、振り返ると、そこに弟がいるのを見て、近づいてきた。
「ねえさん。これ、おはぎだ。荷造りも終わったし、かあさんが最後のご馳走に、ねえさんの好物をつくったんだ」と、重い包みを差し出した。
「ありがとう。武ちゃん、こんなに。重たかったでしょう」
弟に礼をいって包みを受け取ると、ちょっと間をおいてから、低い声で「武ちゃん、もう会えないかもしれない。からだに気をつけて、しっかりやるんですよ」と言って、涙ぐんだ。
「うん、ねえさんもだよ」 死を決した姉の言葉とは知らず、武さんは軽くうなづいて局舎を出た。
後に、武さんはこう語っている。
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生前の姉たちにあったのは私が最後であったかもしれません。姉のあのあらたまっていったことば以外は、ふだんと変わりない交換室の空気でした。
死ぬとわかっていればむりにでも連れもどしたものをと思うと残念だ、くやしいと思うのですが、死を覚悟しながらふだんと変わらぬ表情、動作であったあの人たちの姿はほんとうに立派なものでした。
私の届けたおはぎを、みんなで分け合って食べてくれたろうと思う。死出の旅にささやかなご馳走であったが・・・[2, p335]
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■6.「敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・」
20日早朝、可香谷あささんは、シゲさんからの電話を受けた。それがわが子の最後のことばとなっただけに、あささんは忘れることができない。
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敵の船が見える。かあさん、とうとう・・・。いちばんよいものを着て、きれいに死んでね。鈴木さん(かづゑさん、JOG注: 付近の友人か)にも知らせて・・・[2,p335]
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あささんが、付近の家に「シゲからソ連の軍艦が見えるといってきた」とあわてて飛び込んでいった瞬間、頭上にものすごい弾道音がとどろいた。
真岡の東、内陸部にある清水村逢坂の広瀬郵便局長夫人きみさんは起き抜けに、ゴーゴーという遠鳴りを耳にして、遠雷だと思った。交換手をさらに内陸部の豊原に避難させた後、きみ夫人は一人で交換台についたが、真岡から豊原の師団司令部へ火急を告げる連絡電話を傍受して、遠雷ではなく、敵の艦砲射撃であることを知った。
真岡局を呼ぶと応答があった。可香谷シゲさんの声だった。しかし、その声は銃砲声にかき消されそうになるほどだった。「外を見る余裕なんかないのよ」 シゲさんの悲痛な声は、いまでもきみ夫人の耳朶(じだ)にこびりついている。
その頃には、ソ連軍が上陸し、自動小銃や機銃を浴びせながら、市街に侵入していたのであろう。きみ夫人は、その後も断続的に真岡を呼んだが、砲撃で回線が切断されてしまったのか、午前6時半頃には不通になってしまった。
■7.「長くお世話になりました。おたっしゃで・・・」
真岡の北方にある泊居(とまりおろ)局との回線はつながっており、真岡の各所で火の手があがる様子が伝えられた。銃砲声の中で、弾雨にさらされている9人に危険が刻々と迫っていることが感じられた。
交換手の一人、渡辺照さんが「今、みんなで自決します」と知らせてきたのは、所弘敏局長の記憶では午前6時半ごろだという。
「みんな死んじゃいけない。絶対、毒をのんではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手ぬぐいでもよい、白い布を入り口に出しておくんだ」
所局長は受話器を堅く握りしめて、懸命にさけんだ。声だけで相手を説き伏せられないもどかしさ。しまいには涙声で同じ言葉を繰り返した。しかし、その声をひときわ激しさを増した銃砲声が吹き飛ばした。
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高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできたし、もうどうにもなりません。局長さん、みなさん・・・、さようなら、長くお世話になりました。おたっしゃで・・・、さようなら・・・[2,p336]
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所局長も交換手も顔をおおって泣いた。無情にも電話は切れた。誰かが「真岡、真岡、渡辺さん・・・」と叫んだが、応答はなかった。
■8.職務に殉じた乙女たち
上田局長は郵便局に向かう途中で銃撃を浴びて負傷し、その後、上陸したソ連軍に海岸の倉庫に連行された。倉庫内には血みどろの負傷者がその後も運び込まれたが、何の治療もされず、翌21日朝には局長の周囲にいた重傷者の多くはすでに冷たくなっていた。
そんな中で、上田局長は「宿直の交換手全員が自決したらしい」と耳にして、「ほんとうか」と聞ききつつも、眼からみるみる涙があふれ、嗚咽が漏れた。
23日になって、見回りに来たソ連軍将校に、部下局員の遺体を引き取るために局舎に入ることを認めてほしい、と訴えると、将校は「私が連れて行く」と言ってくれた。
局舎に着き、交換室の戸をあけると、真っ先に目に飛び込んできたのは、監督の机の前に倒れている高石ミキさん(24歳)の遺体だった。机の上には、その日の交換証のつづりと事務日誌がきちんと重ねられて、そのわきに睡眠薬の空き箱が二つ転がっていた。
吉田八重子さん(21歳)はブレスト(交換手用のヘッドセット)をつけ、交換台にプラグを握ったまま、うつ伏せになっていた。
隣の渡辺照さん(17歳)も同じくブレストをつけ、コードを握って、横倒しになった椅子の上に、おおいかぶさるように亡くなっていた。二人とも、薬物を飲んで、薄れ行く意識の中で、最後の瞬間まで、交換台で仕事をしていたのだろう。
他の乙女たちは部屋の真ん中で、肩を寄せ合うように倒れていた。室内は、いつものように整然ととしていた。しかし、交換台には、5、6発の弾痕があった。
上田局長は膝まづいて慟哭した。同行したソ連将校も、静かに胸元で十字を切って瞑目した。職務に殉じた乙女たちを見たとき、そこには敵味方も、人種の差もなく、人間としての崇敬の気持ちがあるだけだ、と上田さんは思った。
(文責:伊勢雅臣)