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■ 国際派日本人養成講座 ■
「己の道」を求めた人々
■1.「王位などとは口惜しいものじゃ」
平安時代の後期、堀河院(1079-1107)の頃、市の正(かみ)時光という笙(しょう、雅楽で用いられる管楽器)の名人がいた。
茂光という篳篥(ひちりき、雅楽や神楽で用いられる縦笛)の名手とよく気が合い、二人で興にまかせて裏頭楽(唐楽の一種)という曲を合唱していたが、その見事さが宮中にも聞こえて、堀河院からお召しの使者が来た。
使いの者は、その旨を伝えたけれども、二人とも夢中で歌い続けていて、耳を貸さないので、どうしようもなく、堀河院にありのままを報告した。これではどんなお叱りがあることかと思っていたが、案に相違して、堀河院はこう言って涙ぐまれたという。
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さても風雅なる者たちかな。それほどまでに音楽に夢中になって、すべてを忘れるばかり熱中することこそ尊いことよ。王位などとは口惜しいものじゃ。行って聞くことも出来ぬとは。[1,p70]
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宮中からお召しがあったら、その名を世に響かせるチャンスになっていたはずだが、二人にとっては、そんな事はどうでも良いことだった。ただただ、良い音楽を作り出せれば、それで満足であったのだ。
堀河院自身にしても、自ら管弦を愛し、その腕前も優れていたと言われており、天皇の位にあることよりも、彼らの優れた音楽を聞きに行くことすらできない、という事を口惜しく思われている。
■2.「古(いにしえ)の学者は己がためにし、今の学者は人のためにす」
「古(いにしえ)の学者は己がためにし、今の学者は人のためにす」という孔子の言葉がある。古の学者はただただ己の道の探求のために学問をしたが、今の学者は世間に知られんがために学問をする、というほどの意味である。
世間に知られる事を求めるのは、名誉や冨を得るためである。とするならば、名利が目的で、学問はそれを得るための手段である、ということになる。
それが昂じれば、名利さえ得られれば、学問の方は手を抜いても良い、ということになろう。そういう姿勢からは一流の学問も、また本当の学問の喜びも生まれない。
時光と茂光が名手名人となったのは、宮中からのお召しという名利よりも、ただただ良い音楽を求める、という己の道に没頭していたからであろう。
そして、そのような名手・名人こそが一流の芸術や学問を創り出す。「己がため」にすることが、結果的には「世のため人のため」になるのである。
我が国には、ひたすらに「己の道」を探究して、一流の芸術や学問を創り出した先人が実に多い。今回は、そうした人々を紹介したい。
■3.刀の目利きにかけては自分こそが天下の権威という誇り
本阿弥(ほんあみ)家は、代々刀剣の鑑定などを家業としていたが、その一人、本阿弥光徳(こうとく、1556−1619)が、徳川家康から正宗の脇指(わきざし)を見せられたことがあった。
代々足利公方家の宝とされてきたもので、足利尊氏直筆の添状(そえじょう)までがついており、家康のかねて自慢の品であった。
ところが光徳がその刀をよくよく見ると、焼き直しものでとうてい使い物にならない。そう正直に申し述べると、家康はとたんに機嫌が悪くなり、「なにとてさようなことを言うぞ」と心外ならぬふうであった。
光徳は、尊氏公の添状があったとて何の用にも立たない、尊氏公が刀の目利きであったという評判もない、と断乎として言ってのけた。家康は、慮外な奴と、二度と光徳を召し出すことはなかった。
刀の目利きにかけては自分こそが天下の権威という誇りは、天下第一の権力者を前にしても、変わることがなかった。
■4.「いかほど高値(こうじき)でもわれらが引き取りましょう」
本阿弥家には、これとは逆の逸話もある。有名な本阿弥光悦の孫、空中斎光甫(くうちゅうさい・こうほ、1601-1682)は、江戸滞在中のある日、安芸広島藩の屋敷に呼ばれていくと、刀奉行の今田四郎左衛門という人から、古びた鞘(さや)に入った錆び刀を見せられた。
国元から、代金2枚で売ってくれと頼んできたので、方々へ見せたが、買い手がつかない。光甫の手でどこかへ売ってくれないか、という。
光甫が刀をつくづくと見ると、銘もなく、錆びて見るかげもなくなっているものの、刀はまさしく正宗である。そこで光甫は、「いかほど高値(こうじき)でもわれらが引き取りましょう。が、あとで後悔めさるるな」と言った。
その場に居合わせた重臣たちが、興味を持って、「この刀いったい何であるか」と尋ねるので、光甫は「正宗に間違いありませぬ」と断定して、一同を驚かせた。
光甫はその刀を預かって、京に帰り、研ぎ上げてみると、見ればみるほど良い刀となった。一族の長・光温(こうおん)は判金250枚という値段をつけてやった。
光甫は、目利きたる自分が正宗と断じたものを、相手が知らぬからと言って、安い値で引き取るような所業を恥とした。そんな卑しい金儲けよりも、刀の目利きにかけては自分たちこそが天下の権威であるという誇りと自負を護ることが大事だったのだ。
その誇りと自負を支えるためには、どれほど日頃の精進があったことか、想像に難くない。
本阿弥家が長きにわたって、刀剣鑑定にかけては天下の権威として君臨したのも、権力者に媚びず、利に流されず、ひたすら己の道に打ち込んだ故であろう。
■5.「一点の俗悪の気なし」
江戸時代中期の文人画家、書家の池大雅(いけのたいが)も金銭には目もくれない人だった。書画を書いて謝儀を受け取っても、扇を開いて受領し、封も切らないままにそばの箱の中に入れておく。金額を見れば、多少の欲心が出てよくない、と言っていたそうだ。
米味噌などの代金を受け取りに商人が来ると、「この内に天より給いたる品あれば取りていくべし」と言って、勝手にその箱から持って行かせた。自分の書画のわざは天の与えたものであって、それで米味噌など必要なものをいただければ、充分と考えていた。
8、9畳ほどの粗末な小さな部屋に妻と二人で住み、時々は大雅が三味線を、妻が琴を弾いて、楽しんでいた。
ある時、金屏風を描いて大金をいただいたが、その包みをそのまま床の上においておいた。夜中に盗人が壁を切り抜いて、その包み金を持ち去った。朝、妻が切り抜かれた壁を見て、驚いて、昨日いただいた金はどこに置きましたか、と尋ねると、大雅は驚く様もなく「床の上に置いたが、なければ、盗人が持っていったのだろう」と答えた。
門人たちが来て、壁の穴は見苦しいので修繕したら、と勧めたが、大雅は、ちょうど夏で涼風が入るから、このままで結構と取り合わなかった。
また、ある時、祗園祠の修繕が計画され、門前の人々は財産に応じて、費用を出すよう求められた。見るからに貧しそうな生活ぶりの大雅は、300銭しか割り当てられなかった。
しかし、大雅は押入れに銭が貯まっているが、使うこともないのに貯めておくのも無益なので、祗園祠に奉納するに如かずと、数えてみたら300貫余もあった。夫婦で喜んで、銭を担いで奉納すると、近所の人はみな奇特な人だと讃えた。
こうした生き方を貫いた大雅が描いた書画は「一点の俗悪の気なし」と讃えられている。
■6.「たのしみは」
池大雅の風格を慕った幕末の歌人が橘曙覧(たちばな・あけみ)である。曙覧は福井の人で、30代半ばにふと決心して、祖先伝来の家業財産を弟に譲り、山中に引きこもって、貧乏暮らしも気にせずに、歌を詠んで生きた。
曙覧の歌で、最も有名なのは「たのしみは」で始まる『独楽吟』であろう。
たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭ならべて物をくふ時
たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人を見し時
貧しい中にも、いかにも心豊かな生活が窺われる歌である。
福井藩の名君・松平春嶽は曙覧の歌才を重んじ、その家を訪ねた事があったが、壁は落ちかかり、障子は破れと言った様に驚いている。しかし、その机にはおびたたしい書物が積んであった。
春嶽公は、次のような意味のことを書き記している。
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自分は富貴の身で大廈高楼(たいかこうろう)に住み、何ひとつ足らぬものとてない身上であるけれども、その屋に万巻の書の蓄えもなく、心は寒く貧しく、曙覧に劣ること言うまでもないから、自然とうしろめたくて顔が赤くなる気持がしたことであった。
これからは曙覧の歌ばかりでなく、その心の雅を学ばねばならぬと思った。[1,p119]
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陋屋の有様などは気にもかけずに、自らの心の貧しさに顔を赤らめる春嶽公もまた、名利にとらわれず己の道を歩んだ人であったろう。
■7.庶民の生き方
以上、芸道の達人・名人を取り上げてきたが、名利に囚われず、ただ己の道を究めようとする生き方は、市井の庶民にもできることだ。その一例として、以上の例を引用させて頂いた『清貧の思想』[1]の著者・中野孝次氏は、自身の両親の生き様を紹介している。
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わたしの父は職人−家を建てる大工−でしたが、父の関係で知った様々な職人には、職人気質という一つの生き方の規範がありました。
かれらはその小さな家に必ず神仏を祀(まつ)り、朝夕敬虔にそれを拝し、神仏の存在を信じていました。たとえ法や人の目に触れなくとも間違ったことをするのは神仏に対して許されぬ、という心の律を持っていたのです。・・・
そしてその暮しは・・・身を粉にしても貧しいもので、しばしばそのことを嘆いてもいましたが、人間はまっとうに働いて生きるべきもので、盗みや詐欺や収賄や投機や、そんな手段で成功するのは間違っていると信じていました。・・・
かれらは仕事と自分の業に誇りを持ち(本阿弥一族と同じです)、金儲けよりもよい仕事をすることを望んでいました。[1,p224]
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母親の生き方も欲得を離れたものであった。
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わたしの母なぞは炊事、掃除、縫い物など、すべて家族のために身を捧げるような毎日でしたけれども、家の内はつねに清潔に保ち、みずからに対して求めることはまったくなかったのでした。・・・
母は狭い庭に花の咲く灌木や草や盆栽を育てていて、それらの花が咲くと近所の友だちと茶を飲みながら、今年はよく咲いたと、生きてふたたび花に逢えたことを一緒に楽しんでいたものでした。[1,225]
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■8.「己の道」を歩んでいけば
こうした、名利にとらわれずにひたすら己の道を歩んだ庶民が、かつての我が国にはあちこちにいたのだ。こういう生き方から見れば、現代の、経済成長率がどうの、株価がどうのとばかりいう世界は、あまりにもお金に囚われ過ぎているように見えてくる。
そして、目先の利益だとか、経済成長にとらわれて、顧客や社員のためになる事業を追求したり、技術を磨いたり、という「己の道」を怠れば、結果的に経済も衰退してしまう。近年の我が国の経済不振も、このあたりが原因かも知れない。
それよりも、中野氏の父親のような一徹の職人、母親のような家事や育児に没頭する婦人、さらには実業家、技術者、教育者、政治家、自衛官、警察官などが、それぞれの「己の道」を追求している国の方が、立派な社会を築き、経済も発展するだろう。
その結果、池大雅のように、知らないうちに押入れに大金が貯まっていて、困っている他国を助けてあげる、ということもできるかもしれない。
名利にとらわれて「己の道」を見失えば名利も逃げていく。名利を忘れて、ただ「己の道」を歩んでいけば、心豊かな生き方ができるし、時には名利も勝手についてくる。我が国の先人たちは、こういう事を教えてくれているようだ。
(文責:伊勢雅臣)