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「トルコによるイラン在住日本人救出(上)」 (国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。

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「トルコによるイラン在住日本人救出(上)」

■1.「頼む! 助けてやってくれ!」

伊藤忠商事のトルコ・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんの電話が鳴った。日本の本社からだった。相手はいきなりまくしたてた。

『イラクのサダム・フセイン大統領が、「1985年3月19日20時以降、イラン領空を通過する航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発した。
イランにいる在留外国人は一斉に出国しようとしている。在留邦人も脱出しようとしているが、乗せてくれる飛行機がない。
ついては在留邦人救出のために、トルコ航空を飛ばしてもらうよう、トルコ政府にお願いできないか?
彼らは危険にさらされているのだ! 頼む! 助けてやってくれ!』

1980(昭和55)年に始まったイランとイラクの戦争は、5年経ってますます激しさを加えていた。1985(昭和60)年にはイラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆するまでになっていた。日本人学校の先生宅の2軒隣に爆弾が落ちて5人の死者が出ていた。

さらにイラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出したのである。


■2.日本政府は救援機を出せない

当時、テヘランにいた野村豊・駐イラン大使は当時の状況をこう語っている。

『在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運搬機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした』

「55年体制論争」とは、社会党の「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争につながる」という主張によって、海外在留邦人救出のための手段が必要だと言う声も、押しつぶされていた状況を指している。

『17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ救援機派遣要請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした』

自衛隊救援機も出せず、政府専用機もないので、民間航空会社に要請するしかないわけだが、その乗務員の安全確保が保障されない以上、日本からの救援機は出せない、というのである。

空爆の恐怖に曝されている現地在留邦人は、日本政府から見捨てられた形になっていた。


■3.どこの航空会社も「自国民優先主義」

当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れてなかった。危険を感じていた在留日本人の中には、欧州各国の航空会社に発券を申し込んでいたが、どの航空会社も「自国民と外交官を優先しなければならない」と拒否した。

ソ連のアエロフロートなら乗せてもらえるというので、オープン・チケット
(搭乗日未定の航空券)を事前に入手していた日本人も多かった。当然、搭乗できると思っていたので、空港のアエロフロートのチェックイン・カウ
ンターでチケットを提示して、搭乗手続きを行おうとした。

ところが、アエロフロートは「ソ連人かワルシャワパック加盟国(ソ連陣営の共産国)が優先」と言って取り合わない。

どこの航空会社も「自国民優先主義」が国際常識で、日本人を乗せてくれる会社はなかった。特に、家族連れの日本人駐在員は、奥さんや子供たちを脱出させる便が見つからないことから、絶望感と焦燥感でパニック状態に陥ってしまった。

こうした窮状が伊藤忠のテヘラン事務所から、東京本社に伝えられた。東京本社から、「頼む! 助けてやってくれ!」という悲鳴のような緊急電話が入ったのは、こういう状況だった。


■4.「何故日本の航空機が救出に来ないのか?」

電話を受けた森永さんは、不思議に思った。

『日本人がこんなに危機に直面しているのに、何故日本の航空機が救出に来ないのか?
今起きている問題は、イランにいる日本人の問題なのだから、本来イランと日本が当事国である。トルコは全く関係のない第三国である。それなのに何故トルコが巻き込まれるのか?』

森永さん自身が疑問に思った事は、トルコ政府からかならず質問されるだろ
う。それにどう答えるのか。さらに彼らは当然、次のようにも言うだろう。

『テヘランには大勢のトルコ人がいる。トルコ政府としてはまずはトルコ人を救出すべきなので、その対策で頭が一杯である。外国人である日本人救援のことまで頭が回らないのが実情なのに、何を言っているのだ?』

トルコ政府に頼むにしても、こうした質問や言い分に、すぐに答えられるよ
う、説得力のある回答をあらかじめ用意しておかなければならない。


■5.「体当たりでお願いしてみよう」

良い考えが浮かばないまま、いたずらに時間が過ぎていく。一方で、テヘランの在留邦人の窮状を思うと、もはや思案している場合ではなく、一刻も早く行動を起こさねばならない。焦燥感と責任感で心臓がつぶれそうだった。

森永さんは決心した。頼む相手は、無理筋の話でも、即断即決で引き受けてくれるトップでなければならない。しかも自分の親しい友人で、強い指導力と実行力のある人でなければならない。となると頼む相手はたった一人しかいない。
「オザル首相にお願いしよう」と決めた。

そして、本来、筋の立たないお願いなので、無手勝流となっても仕方がない。これ以上へたな思案をせずに、体当たりでお願いしてみよう。

意を決した森永さんは、オザル首相のオフィスに電話をかけた。頻繁に電話をかけあっている仲だったので、その時も「緊急」ということで、すんなりとつないでくれた。

「トゥルグット・ベイ! 助けて下さい」 トゥルグットは、オザル首相のファースト・ネームである。ただし、男性に対する尊称の「ベイ」をつけて呼んでいた。

「どうした? ドストゥム・モリナーガさん」 ドストゥムは、トルコ語で「親友」の意味である。また日本通らしく「さん」をつけて呼んでくれた。


■6.「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」

「トゥルグット・ベイ! トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救出して下さい」

「テヘランにいる日本人がどうしたと言うのだ? モリナーガさん」
森永さんはテヘランでの日本人の窮状を説明した。本来トルコには何の関係もない事だが、こんな事をお願いできるのは、あなたの他にいません、と必死で訴えた。

オザル首相は森永さんの話を黙って聞いていた。いつもならすぐに返事をするのに、その時は話を聞き終わっても何も言わずに沈黙を続けていた。


『私は固唾(かたず)を呑んで、彼の言葉を待っていた。「YES」とも「No」とも言わない。私にはこの沈黙の時間がものすごく長く感じられた。その間、「断られたらどうしよう」とか色んなことが頭をよぎる。でも彼は電話の向こうで沈黙を続けたままである。
やがてオザル首相は口を開いた。
「わかった。心配するな。親友モリナーガさん。後で電話する。」』

この答えに、森永さんはしばし呆然としてしまった。「質問されたら困るな」と怖れていたのに、何の質問もない。小躍りしたくなるほど嬉しかったが、胸がつまってしまい、「大変、ありがとうございます。トゥルグット・ベイ」と言うのが精一杯であった。


■7.オザル氏との信頼関係

森永さんが、オザル氏に初めて会ったのは、この時点より10年ほど前だっ
た。オザルさんはまだ政治家ではなく、いくつかの民間企業の顧問として働いていた。

「日本は資源がないので資源を輸入し、技術力で付加価値を付け輸出している」と口癖のように言う知日家であり、親日家であった。

当時のトルコは、農業が最大の産業であったので、日本から技術を導入し、農業用トラクターの製造を行おうとしていた。しかし、当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無だった。

そこで森永さんが協力して、何とか工面した外貨でトラクターの部品を日本から輸入し、細々と組み立てるという事業をおこした。

1978(昭和53)年、トルコはついに外国からの借款が返済できなくなるという最悪の状態に陥った。トラクター製造事業も風前の灯火となったが、森永さんとオザルさんは力を合わせてこの困難に対峙した。この過程で互いへの信頼が強まっていった。

その後、オザルさんは、手腕を見込まれて経済担当大臣となり、「オザル経済改革パッケージ」を発表した。それまでの規制だらけの経済を自由化する事を原則として、これが今日でもトルコ経済運営の基礎となっている。

大臣となっても、オザル氏は日本の経済運営を参考にしたいと、森永さんをよく大臣室に呼んで話を聞いた。オザル氏は、その後の内閣でも経済運営の腕を買われ、経済担当副首相となった。

そして1983(昭和58)年の総選挙では祖国党を立ち上げ、その分かり易い経済政策が国民に支持され、地滑り的な圧勝を遂げて、ついに首相になった。

一時、帰国していた森永さんが、イスタンブール支店長として再赴任すると、オザル首相は森永さんを「日本関係私設顧問」と呼びながら、大事にしてくれたのである。テヘラン在留日本人の救出を頼んだのは、それからまもなくの事であった。


■8.「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。」

オザル首相は「心配するな」と言ってくれたが、その後トルコ政府からも、トルコ航空からも連絡が来ない。森永さんは心配になってきた。このままでは、サダム・フセイン声明の設定した期限が過ぎてしまう。

数時間後、やっとオザル首相自身から電話があった。どきどきして森永さんは首相の言葉を待った。首相は落ち着いた声で、「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。親友モリナーガさん」と言ってくれた。

『日本人救援のため、テヘランにトルコ航空の特別機を1機出す。詳細はトルコ航空と連絡をとったら良い。日本の皆さんによろしく』
それを聞いて、森永さんは驚くと同時に、体の芯から喜びが湧き上がるのを抑えきれなかった。

『トゥルグット・ベイ! 大変、大変、大変ありがとうございます。何も難しい質問をせず、私のお願いを聞き入れて頂き、ありがとうございます。
日本人の救出のために救援機を出して、後で政治問題になるかもしれないの
に、リスクを取って大決断して頂き、ありがとうございます。どんなに感謝しても、感謝しきれません。早速テヘランの日本人にこの大英断を伝えます。大変ありがとうございます』

森永さんは電話を切ると、この朗報を直ちに東京経由でテヘランに伝えた。

しかし、テヘランの日本人は、その情報をにわかには信じられなかった。それまでどこの航空会社にも搭乗を拒否されて、絶望の淵にいたのだ。急にトルコ航空が特別機を出すと言っても、信じがたい思いだった。

そもそもテヘランには600人を優に超えるトルコ人ビジネスマンが滞在している。トルコ航空が特別機を出すと言っても、彼らを優先するのが当然なので、日本人まで席が回ってくるか、といぶかしく思ったのである。

(続く)

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