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地球史探訪:「日貨排斥」の歴史は繰り返す
貿易を通じた中国の嫌がらせに、戦前の日本人も憤激していた。
■1.「日貨排斥」の歴史は繰り返す
尖閣列島付近の我が国領海内で違法操業をしていた中国漁船が、停船させようとした海上保安庁の巡視船に体当たりした事件で、中国人船長が逮捕された。
これに中国政府が即時釈放を要求し、那覇地検が「今後の日中関係を考慮して」釈放した。法律を守らせるという法治国家の根本が、中国の圧力でかくも簡単にねじ曲げられた点に、多くの国民は憤激している。
直近の世論調査では、「今回の事件で中国に対するイメージが悪くなった」79.7%、「中国は信頼できると思わない」83.1%、「中国は日本の安全を脅かす国だと思う」71.5%となっている。
今回の日本政府のあまりにも稚拙な対応については、すでに多くの論評がなされているので、ここでは繰り返さないが、弊誌が「やはり」と思ったのは、中国の圧力の掛け方である。
日本向け輸出に対する通関検査を厳格にして遅延させる、レアアース(希少資源)の輸出制限をする、さらには軍事施設を撮影したとして日本人4人を逮捕する等々、実態は不明確だが、こうしたニュースが日本のマスコミに流されることで、日本政府に対する大きな圧力となった。
実は中身こそ現代流になっているが、こうした形で日本に圧力をかけるというのは、戦前から中国が盛んに使っていた手口なのである。「日貨排斥」(日本製品のボイコット)で日本企業に損害を与え、在留邦人にはテロをしかける。それに憤激した日本国民が「暴支膺懲(ぼうしようちょう、暴虐な支那(中国)を懲らしめよ)」と立ち上がったのが、戦前の日中関係だった。
■2.政治的武器としての「排外ボイコット」
戦前の日貨排斥の実態については、「リットン報告書」が詳しい。これは昭和6(1931)年の満洲事変勃発の翌年に、国際連盟が派遣した調査団による報告書である。
「リットン報告書」と言えば、日本の「満洲侵略」を国際社会がこぞって非難したレポートだと歴史の授業で教わった人が多いだろうが、原文にあたってみれば、中国側の日貨排斥も不法行為として、事実に基づいた批判がなされている。
同報告書は、中国における排外ボイコットに関して、次のように説明している。
『国民的基礎の上に立ち、シナ(JOG注: China)が外国に対して行った政治的武器としての「排外ボイコット」は、1905年、アメリカに対してなされたボイコットにはじまる。それは同年改訂された「米支(JOG注: 米国とシナ)通商条約」の規定が前よりもいっそう厳しくシナ人の渡米を制限したことに起因していた。このとき以来今日まで、国民的規模のボイコットは十回も行われてきた(このほかに地方的な性質をもつ排外運動があった)。そのうち9回は対日で、1は対英だった』
すなわち、1905(明治38)年から1931(昭和6)年までの26年間に合計11回のボイコットが起きたというから、2、3年に一回の頻度で全国的規模の排外ボイコットが発生していた。そのうち9回は日本が対象だったというのである。
■3.「上海反日会」の四原則
「こうした運動は、もしボイコット団体がその手続きにおいてある種の統一性をもっていなければけっして効果はあがらない」として、同報告書は、対日ボイコットが組織的に展開されたことを指摘している。
1931年7月17日に開催された「上海反日会」の第一回会議で採
用された四原則は、この種の規則の主要目的を例証している。
イ すでに契約した日本製商品(いわゆる「日貨」)の注文を取り
消すこと。
ロ すでに契約した日本製商品で、まだ積み込みが終わっていない
ものは、船積みを停止させること。
ハ すでに倉庫に入っているものでも、支払いが終わってない日本
製商品は引き取りを拒絶すること。
ニ すでに購入した日本製商品を「反日会」に登記し、その売却を
一時停止すること。
注文取り消し、船積み停止、引き取り拒否、売却停止、、、。こうした法律も契約も無視した仕打ちを受けた当時の日本人がどんな悔しい思いをしたか、今回のレアアース輸出制限、通関検査遅延で被害を受けた日本企業は、追体験したことだろう。
■4.「石炭商の構内に爆弾を投げ入れ、、、」
こんな事をすれば、輸入側の中国人商人も損害を被るので、「四原則」を守らない者も、当然出てくる。それに対しては「上海反日会」は厳しい弾圧を加えている。
「未登記日貨」を収蔵している嫌疑のある商店や倉庫には手入れ
を行い、規則違反を発見した場合は責任者に注意を促す。規則違反
(未登記日貨)を発見された商人はボイコット団体から罰金を科さ
れ、公然と民衆の非難にさらされ、所有商品は没収のうえ、公売に
付され、売上金は反日団体の資金となる。
同報告書が執筆されている最中にも、関東軍嘱託の一人の日本人が匪賊に拉致された事件から、日中の対立が高まると、再びボイコットが盛り上がった。
同市(JOG注: 上海市)の石炭商同業組合は日本炭の輸入を最小限度に制限することを決定した。同時に、日本炭を取り扱っている疑いがある石炭商の構内に爆弾を投げ入れ、商店主に対しては手紙を送り、「日貨販売をやめなければ財産を破壊するぞ」と脅迫するなど、いっそう激越な方法がとられるようになった。新聞に掲載されたこの種の脅迫状には「鉄血団」または「血塊除奸団」という署名があった。
国家の法律や企業間の契約を一切省みることなく、「上海反日会」という一民間団体が勝手に作った規則が押しつけられ、それを守らない商店にはテロが仕掛けられる。法治国家とはほど遠い、前近代的社会がここに見られる。
■5.排日ボイコットで「シナの工業を発展させる」
日本人の商店や日本企業に対する直接的な不法行為もなされていた。たとえば上海で1931年7月から12月末まで、排日諸団体員によって日本商品が捕獲・拘留された事件は35件、約28万7千ドルとの報告が、日本側から委員会に対してなされている。
委員会は、こうした排日ボイコットは、日本企業の事業を妨害して、中国の工業を発展させる狙いもあることを指摘している。
このボイコットのもうひとつの特徴は、右の例からもわかるように、単に日本の工業にダメージを与えるだけでなく、これまで日本から輸入していた製品の国内生産を刺激してシナの工業を発展させることにある。その主な結果は、上海の日本人所有の工場を犠牲にしたシナの紡績工場の拡張である。
『排日ボイコットは、サービス業にも及んだ。
ボイコットは商売だけにかぎられない。シナ人は日本の船で旅行
したり、日本の銀行を利用したりすることを禁じられ、業務上であ
れ私事であれ、いかなる資格においても日本人に仕えることがない
よう警告される。こうした命令を無視するものは各種の非難や脅迫
を受ける』
「日本人に仕えることがないよう」とは、日本企業に勤める中国人
従業員に対する脅迫である。
■6.ボイコットは中国の伝統的手段
中国側は、こうしたボイコットが純粋に自然発生的なものだと主張したが、これに対しても委員会は明確に否定している。
『われわれ委員会は、シナのボイコットは民衆運動であると同時に組織されたものであり、またボイコットは強い国民的感情から生まれ、それに支持されているといえども、これを開始または終息させることのできる団体(例えば国民党)によって支配され命令されたもので、確かに脅迫に近い方法によって強行されたものだと結論する。ボイコット組織には多くの団体があるが、主たる支配権力は国民党にある』
報告書は、こうしたボイコットが中国で数世紀にわたって発展してきた伝統的手段であるが、国民党がそれを闘争手段として活用している、と指摘している。
『数世紀にわたってシナ人は、商人、銀行家の団体や同業組合においてボイコットを常用してきた。同業組合は近代的な情勢に合致するよう変形されてきたが、いまなおシナには多数存在し、共通の職業的利益を擁護するため組合員に対して絶大な力を振るっている。
数世紀の歴史をもつ組合活動で得られた訓練と姿勢は、現代のボイコット運動において、近年の熾烈なナショナリズムと結合した。国民党はそのナショナリズムの組織的な表現だ』
■7.明治末から始まっていた日貨排斥
日貨排斥は、「日本の中国侵略」に対抗するための中国側の正当な手段である、と主張する向きもあろうが、実は「日本の中国侵略」のはるか以前から始まっている。
『シナ人とは何か 内田良平の「支那観」を読む』は、日貨排斥の始まりについて、次のように説明している。
明治時代には清国から多くの留学生が日本を訪れ、また孫文など革命家を日本が支援していたので、日中関係は良好だった。
雲行きがおかしくなったのは、辛亥革命後、清朝軍閥の生き残りである袁世凱と革命派が妥協して袁が新「中華民国」の大総統に就任した「南北妥協」(明治45年1月)の頃からである。
袁は革命派鎮圧のため清朝政府から全権を授けられながら模様眺めをした老獪な人物である。彼は革命派の弱体を看て取り、革命により自国権益が回収されることを恐れるイギリスを後ろ盾に、革命派と日本の離間を図り、日本に満洲侵略の意図ありとの風説を流した。
動乱の責任を日本になすりつけ、漢民族大衆の「中華」意識から発する排外主義に火をつけた袁の術策は当たり、大衆は日貨排斥に走った。
袁世凱は革命派を追い落とすために、その後ろ盾になっている日本に対してボイコットを仕掛けたのである。西洋の侵略からアジアを守るために、一刻も早く中国に近代化してほしいと孫文ら革命派を支援してきた日本[a,b]としては、思いも寄らぬ仕打ちだった。
「南北妥協」の明治45年と言えば1912年。「日本の中国侵略」の端緒と言われる満洲事変が始まったのが1931年(昭和6年)、さらにその淵源と言われる対華21ヶ条要求でも1915年(大正4年)である。
■8.「賢者は歴史に学ぶ」
袁世凱の日貨排斥の成功に学んだのは、蒋介石率いる国民党であった。昭和初年に、満洲の支配者・張作霖を打倒するために、張を「日本の傀儡(かいらい)」として、大衆の排外ナショナリズムを燃え上がらせ、日貨排斥を広めたのである。
このように排外ボイコットは、中国社会に深く根ざした伝統であり、外国と対立すれば、ごく自然に「ボイコットで圧力をかけよう」という発想が浮かび上がる。戦前は日本からの石炭輸入阻止、現代では日本へのレアアースの出荷制限、とその具体的な手段は変われど、発想はまったく同じである。
したがって、今後も日中摩擦が起こるたびに、排外ボイコットは常套手段として繰り返される可能性がある。「誠意を尽くして話し合えば」とか「過去の侵略の真摯な謝罪をすれば」で、解決する問題ではない。
これに対抗するには、排外ボイコットは自分の首を絞めるだけと中国に理解させる事が必要である。
たとえば、今回、初めて中国はレアアース輸出制限というカードをちらつかせた。国内需要の9割以上を中国から輸入している米国では、即座に下院がレアアースの自給体制の確立を目指す法案を可決した。我が国でも大畠経産相が「補正予算でレアアースの安定供給のための対策を検討する」と語った。
レアアースの生産では中国が世界の97%を占めているが、埋蔵量自体は世界の3割超に過ぎない。中国のレアアースの独占的供給は以前から危険視されていたが、今回、そのカードを実際にちらつかせてしまった事で、賢明な国はそのリスクに気がつき、一斉に対中依存から逃げ出していくだろう。
同様に賢明な企業は貿易や工場投資なども中国向けを減らして、ベトナムやインド、ブラジルなど、より安全な新興国に向けていくだろう。
「賢者は歴史に学ぶ」とはこういう事である。
(文責:伊勢雅臣)