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エルトゥールル号のこと(2)

先日、メルマガを紹介したが、今回は物語風である。
初めて読んだときもそうだったが、これは泣ける。

◇◇◇(以下、引用)◇◇◇

和歌山県の南端の大島。
そこは、黒潮が近くに接岸する。
島の東側は黒潮が当たることもある。
明治3年(1870年)に樫野崎灯台が作られ、今も断崖の上に立っている。

それは明治23年9月16日の夜の出来事だった。
台風が大島を襲った。
大波が断崖を洗い、灯台は強風にさらされた。

夜の9時頃のことだった。
操舵不能になった木造軍艦が、灯台に向かって流されてきた。
全長76mもある船が、木の葉のように波に翻弄されていた。
灯台の立つ東側岸壁の下の海は、海面にとがった岩があちこちに突き出していて”魔の船甲羅”と呼ばれる場所である。
船は、轟音ととともに真っ二つに避けて、大爆発が起こった。
乗組員は海に投げ出され、波にさらわれた。
真っ暗な荒れ狂う海で、なすすべはなかった。
運良く断崖にたたきつけられた者も、服はもぎ取られ、裸同然で全身傷だらけであった。
死にものぐるいで痛む体を引きずって、暗闇の中に唯一見える灯り、灯台の灯りに向かって40mもある断崖を登った。
その灯りだけが、生きのびる希望であった。

灯台守は、嵐の中で爆発音を聞いた。
心配になり、嵐の闇の中を断崖に向かった。
灯台守は、彼を一目見て何が起こったのかわかった。
そして、奇跡的に彼が助かったことを驚き喜んだ。
灯台の中に彼を招き入れたが、言葉は通じなかった。
そこで「万国信号音」を見せて、彼がトルコ人であることを初めて知った。
船はトルコ軍艦であり、他に多くの乗組員が海に投げ出されていることも知った。

・・・一刻も早く、他の乗組員も救助しなければいけない。だがこの人たちを救うには人手がいる・・・

灯台守は、傷ついた水兵を手当てしながらそう思った。
「樫野の人達に知らせよう!」
灯台守は、人が1人やっと通れるほどの灯りもない真っ暗な道を、一番近くの樫野の村に向かって嵐の中を走った。
樫野の村人に急を告げて、灯台に戻ると10人ほどのトルコ人がいた。
みんな全身傷だらけで、憔悴しきっていた。
死にものぐるいで、やっと断崖をよじ登ってきたのだった。

その当時、樫野には50軒ばかりの家があった。
遭難の知らせを受けた男達は、総出で岩場を降りて救出に向かった。
だんだん空が白んでくると、海面におびただしい数の船の破片と遺体。
それは、目をそむけたくなる光景であった。
遠い外国から来て嵐にあって日本で死んでいく、同じ海の男達のことを思うと村の男達は胸が張り裂けそうであった。
「一人でも多く助けたい!」
しかし、大多数は動かなかった。

「息があるぞ!」
だが、触ってみると冷たかった。
村の男達は、裸になって乗組員を抱き起こし、自らも裸になり、自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」
村の男達は、我を忘れて乗組員達を温めた。
そして次々に乗組員達の意識が戻った。


600人あまりの乗組員の内、69人が助かった。
助かった乗組員達は、樫野の小さな寺と小学校に収容された。
当時は、電気・ガス・水道は無く、電話ももちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を使っていた。

樫野の人達は、漁をして捕れた魚を対岸の串本で売って米に換える貧しい生活であった。
他には、サツマイモとミカンが採れた。
各家庭では、ニワトリを飼って非常用に備えていた。

このような貧しい村に、69人もの外国人が収容された。
村人達は「どんなことをしても助けてあげたい。」と思った。
しかし、思いとは裏腹にみるみる蓄えはなくなっていった。
台風で漁に出られないため、すぐに食糧が底をついたのだった。

「どうしよう。もう食べさせてあげるものがない」
すると、一人の婦人が言った。
「ニワトリが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・」
「おてんとうさまが守ってくださるよ」
女達は、そう言って、最後に残ったニワトリを料理した。

こうして、トルコの人達は一命を取り留めたのであった。
また村人達は、遺体を引き上げて丁重に葬った。


船の名は”エルトゥールル号”といった。
この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は直ちに医者と看護婦を派遣し、さらに礼を尽くして生存者全員を、軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還した。
この出来事は、日本中に大きな衝撃を与えた。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。


 この話には、後日談がある。

1985年、イラン・イラク戦争の時である。
サダム・フセインが
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」
と宣言した。
イランには、日本企業の派遣員やその家族が住んでいた。
彼らは、あわててテヘランの空港に向かった。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることが出来なかった。
世界各国は自国から救援機を出して救出にあたっていたが、日本政府は対応が遅れていたのである。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

万策尽きてあきらめかけた時に、2機の飛行機が空港に到着した。
そして、この2機は日本人215名全員を乗せて成田に飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。
トルコ航空の飛行機だった。


なぜ、トルコ航空の飛行機が来てくれたのか?
日本政府もマスコミも知らなかった。

前駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は、次のように語った。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学校の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
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求道者イチローの原動力(国際派日本人養成講座から)

今回は、偉大なるサムライ、イチロー選手についてです。
彼をよく知る人から聞いた話では「ホントにフツーの人と変わらない。ただものすごく礼儀を大切にする」ということでした。
今回の内容にも、そういったエピソードがありますね。

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe(616)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 求道者イチローの原動力

前人未踏の道を行くイチローを駆り立てているものは何か。

■1.「満足できるための基準はだれかに勝ったときではない」■

 9月13日、9年連続シーズン200安打のメジャー新記
録を達成したイチローは「解放された。最高ですよ」と安堵の
笑顔を見せた。

 108年前のウィリー・キーラ−が記録した8年連続を塗り
替える前人未踏の大記録だが、「人の記録を意識しながらやる
のは、気持ちのいいものではない」とも語った[1]。このコメ
ントにイチローの野球に向かう姿勢が如実に表れている。

 自分にとって、満足できるための基準は少なくともだれ
かに勝ったときではない。自分が定めたものを達成したと
きに出てくるものです。[2,p10]

 イチローの目標は、キーラーの記録を破るというような「だ
れかに勝つ」ことではない。あくまで「自分が定めたもの」が
目標なのだ。

 2004年にジョージ・シスラーの年間257安打という記録を
84年ぶりに更新した時、記者から「これからの目標は」と聞
かれた際の回答にも、この姿勢が現れている。

 野球がうまくなりたいんですよね、まだ。そういう実感
が持てたらうれしいですね。これは数字には表れづらいと
ころですけど、これはもう僕だけの楽しみというか、僕が
得る感覚ですから。ただそうやって前に進む気持ちがある
んであれば、楽しみはいくらでもありますから。ベストに
少しでも近付きたいですね。[2,p34]

 今回、イチローが「解放された」と喜んだのは、これでマス
コミの騒ぎから解放されて、自らの「ベストに少しでも近付く」
道に戻り、一人静かに楽しみながら、歩んでいけるからだろう。

■2.首位打者を狙ったら妙な打算が入る■

 打率で首位打者のタイトルを人と争うよりも、安打数にこだ
わる所に、イチローの姿勢が見てとれる。

 妙な打算が働くから、打席で雑念が入りバットを振るこ
とに悪影響を与える。[2,p123]

 というのが、その理由だ。高打率を維持しようとすると、時
にはボールを待って四球を狙おうというような「雑念」が入る。

 ノースリー以外の状況で(フォアボールを取りにいくよ
うな)そういう心理状態が表れたら、僕はその打席は負け
だと思います。[2,p138]

 また「他人の打率が落ちてくることを知らないうちに願って
いる自分なんて想像したくない」[3,p184]という理由もある。

 バッターとしての真価は、一打席でも多くピッチャーに立ち
向かい、一本でも多くのヒットを打つことだというのが、イチ
ローの姿勢である。

 イチローは日本でのプロ3年目の平成6(1994)年にレギュラ
ー選手となるとともに、日本球界初の年間200安打を打ち、
パ・リーグ新記録となる打率3割8分5厘で首位打者を獲得し
た。この時に、イチローはこう語っている。

 皆さんは打率3割8分のことを評価しますが、僕の心の
中にはまだ6割以上の打ち損じがあるという思いがありま
す。それを少しでも減らしていくのが今後の目標です。
[2,p91]

 3割8分という高打率で首位打者のタイトルをとっても、そ
れはたまたま他の打者より打率が高かったという、人と比較し
ての外的な基準に過ぎない。「ベスト」への道は果てしない。

■3.ライバルではなく同行者■

 2002年、メジャーでの2年目のシーズンの前半終了時点で、
イチローは3割5分7厘で、打率2位の位置につけていた。気
の早い日米のファンは、メジャーでの2年連続首位打者、日本
時代からの通算では9年連続首位打者間違いなしとの予想を立
てていた。

 折り返し時点のオールスターで、メジャー屈指の強打者マニ
ー・ラミレスが、ロッカールームでイチローにアドバイスを求
めてきた。「スウィングで足を踏み出すと体が投手方向に突っ
込んでしまうのはどうしたら良いのか」と聞くのである。

 大リーグにおいては大先輩のラミレスが、2年目の新参者に
アドバイスを求めてくる所に、自分と同様、真摯に野球に取り
組む姿勢をイチローは感じとった。

 イチローは「体がつっこんでも構わない。(グリップ部分の)
手が後ろに残っていればいい」と助言した。この助言を得て、
ラミレスは後半戦を3割5分4厘と打ちまくり、イチローを抜
いて、自身で初めての首位打者のタイトルを手にした。9年連
続の首位打者を逃したイチローは、後悔もせずにこう言った。

 自分がアドバイスした通りにラミレスがやって、それで
結果が出れば嬉しいじゃないですか。僕もアドバイスで言っ
たことを同じようにやってきた。自分の考えていたことが
それで正しかったということになる。[3,p20]

 ラミレスは首位打者を争うライバルではない。共に打撃の道
を極めようとする同行者なのだ。

■4.好敵手を失ったショック■

 一本でも多くの安打を打とうとするイチローにとって、好敵
手はバッターではなく、投手である。2001年の開幕戦、イチロ
ーがメジャー公式戦で初めて対戦したピッチャーが、オークラ
ンド・アスレチックスのエース、ティム・ハドソンだった。前
年のアメリカン・リーグでの最多勝投手である。そのハドソン
にイチローは3打席を完全に抑え込まれ、試合後「あんなピッ
チャー見たことない」とコメントした。

 150キロ超のストレートがよく動くムービングファースト
ボールを自在に操り、フォークボール、チェンジアップの制球
も抜群だった。打者のひざより下のゾーンにしかボールが来な
い時もある。空振り三振を狙うよりも、ゴロで打ち取るタイプ
だった。イチローが一本でも凡打を少なくしようとするのに対
し、ハドソンは一本でも多く凡打を打たせようとする、いわば
対照的な好敵手だった。

 そのハドソンは「チームの勝敗とは別の次元で、僕の技術を
上げてくれるピッチャーだった」とイチローは評価する。それ
からの4年間でハドソンとは50打席以上勝負して、2割3分
と大苦戦していた。2004年は15打数6安打で4割と、ようや
くハドソンを打てるようになってきた。

 さあ、これからという時にショッキングなニュースが舞い込
んだ。球団経営の苦しいアスレチックスがハドソンをナショナ
ル・リーグのアトランタ・ブレーブスに放出したのである。リ
ーグが違って、ハドソンとの勝負ができなくなってしまった。

 ショックでしたよ。去年(2004)のオールスターで初めて
一緒になって、コミュニケーションも少しですが取れるよ
うになっていた。これからもっとお互いを意識しながら対
戦できると思っていたのに、、、。彼のように、打者とし
ての僕の可能性を上げてくれる、という意識を持たせてく
れるピッチャーはそんなにいない。ハドソンには、技術だ
けでは対応できない、志の大きさのようなものがありまし
たから。[3,p33]

■5.「いま小さなことを多く重ねること」■

 イチローは打席に立つと、狙いを定めるようにバットをセン
ター方向に向け、左手で右袖の上をつまむ。イチローのトレー
ドマークとして、全米でもすっかり有名になった仕草である。
実は、こういう仕草にも、イチローが野球に取り組む独自の姿
勢が表れている。

 打席に入る前には、マスコットバットを大きく振り回し、上
半身と脇腹の筋肉をストレッチする。その後は股割りを左に2
回、右に2回。試合用のバットを手に取り、打席に入る直前で
一度屈伸。打席に入ると、上述のルーチンに入る。一連の決まっ
た動作を、ほぼ同じリズムで繰り返す。

 単純な一連の動きの中に自分を投ずることにより、余計なこ
とを考えず、無心の状態を作り出すためだ。高校時代、スポー
ツ心理学の専門家から集中力アップのアドバイスを受けたのが
発端で、以後、自分流の改造を積み重ねて、現在の形ができた。

 原型が完成したのは、レギュラーとして活躍を始めた平成6
(1994)年だった。

 それまでは打席でやっぱりいろいろ考えてしまった。で
も、プロに入ってからやっぱりこれではダメだ、と。ただ、
(無心の状態をつくることは)口で言うほど簡単ではない
ことですけど。[3,p113]

 イチローの目指す道は、こうした細かい工夫の積み重ねにあ
る。こういう努力の末に、シスラーの年間257安打を84年
ぶりに更新した試合の後で、イチローはこう語っている。

 いま小さなことを多く重ねることが、とんでもないとこ
ろに行くただ一つの道なんだなというふうに感じてますし。
激アツでしたね、今日は。[2,p12]

■6.バット職人への謝罪■

 イチローの細かな工夫は当然、バットにも及ぶ。長さ85セ
ンチ、重さ約900グラム。芯で確実にボールを捉えるために、
贅肉を削ぎ落とした極細形状である。

 オリックス時代2年目から使っているこのバットを作ってい
るのは、ミズノテクニクスの久保田五十一(いそかず)氏。厚
生労働省の「現代の名工100人」に選ばれている。

 久保田氏によると、プロ野球選手が使うバットはアオダモ角
材1000本から300本程度しかとれない。それがイチロー
仕様のバットになると12本くらいしかとれない、という。

「あれだけのバットを作ってもらって打てなかったら自分の責
任ですよ」とイチローは語る。[3,p130]

 2004年にマリナーズのキャンプを訪れた久保田氏は心に残る
シーンを見た。フリー打撃を終えた選手たちがそれぞれのバッ
トを芝生の上に放り投げているなか、イチローだけがバットを
クラブでそっと包み、まるで眠った赤ん坊をベッドに横たえる
ように置いていた。

 凡退してバットを地面に叩きつける打者の姿はよく見るが、
それに対して、

 打てなかったあとに道具にあたるのもあまりいい感じは
しませんね。だってバットが悪いわけじゃないんだから。
モノにあたるくらいなら自分にあたれと思います。
[2,p170]

 そう語るイチローも一度だけバットを叩きつけたことがある。
平成8(1996)年7月6日、近鉄戦で左腕・小池秀男に三振を喫
したときのことである。その後、イチローは我に返って久保田
氏宛に謝罪の手紙を書いた。久保田氏はこう語る。

 何人かの選手から、自分が手がけたバットについてお礼
を言われたことは過去にもありました。でも、バットへの
行為そのものを謝罪されたのはあの一度だけですね。
[3,p130]

■7.「監督に感謝するためにも、いい成績を残したかった」■

 これほどの細かな工夫を日々積み重ねてまで、イチローを
「ベストへの道」に駆り立てているものは何なのか。富や名誉
ならもう十二分にあるのだから、それらがいつまでもモチベー
ションになっているはずがない。

 オリックスに入団した当時、「なぜそんなに厳しいトレーニ
ングを自分に課しているのか?」と記者に聞かれて、こう答え
ている。

 僕がこんなにトレーニングをしている理由は簡単なこと
です。僕を獲ってくれたスカウトの方に失礼があってはい
けませんから、、、[2,p45]

 このスカウトとは、イチローをドラフト4位で指名した三輪
田勝利氏である。三輪田氏は入団当初もいろいろ悩んでいたイ
チローに温かい言葉をかけて励ましてくれた。三輪田氏はその
後、ドラフトをめぐるトラブルに巻き込まれて自ら命を絶ち、
今は神戸港を臨む山あいの墓地に眠っている。

 イチローは毎年のシーズンオフに三輪田氏の墓を訪れ、花束
とセブンスター、缶ビールを供える。そのたびに、「僕を獲っ
てくれたスカウトの方に失礼があってはいけませんから」とい
う思いを新たにしているのではないか。

 イチローにはもう一人の恩人がいる。当時のオリックス監督
仰木彬(おおぎあきら)氏である。仰木監督はイチローの才能を
見抜き、選手名を「鈴木」から「イチロー」として、レギュラ
ーの2番打者に抜擢した。

 僕は仰木監督によって生き返らせてもらったと思ってい
ます。監督はたとえ数試合、安打が出なくても、根気よく
使ってくれました。その監督に感謝するためにも、いい成
績を残したかった。[2,p44]

■8.「感謝の心」こそ原動力

 スポーツ心理学では、選手が感謝の心を持ち、誰かのために
一生懸命練習し、プレーすることで、とてつもないエネルギー
を発揮できることを明らかにしている。

 今年3月23日、野球世界一を決めるWBC(ワールド・ベ
ースボール・クラシック)での韓国との決勝戦。同点で迎えた
延長10回2死2、3塁で、イチローは鮮やかなヒットを放っ
て勝利を決めた。

 日本代表チームの主将に任命されたイチローは「日の丸に恥
じないように」を合い言葉とし、チーム一丸となって戦ってき
たが、イチロー自身はそれまで打率2割1分1厘と不調に苦し
んでいた。しかし最後の最後で、応援してくれている日本中の
ファンに感謝し、その期待に応えようとする気持ちが歴史的な
ヒットを生んだ。

「感謝の心」こそ、求道者イチローの原動力なのである。
(文責:伊勢雅臣)
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こよいは はやく ねむりたい

結局昨夜は、自分なりの親孝行について、いろいろ考えていたら(ホントかよ?!)三時過ぎまで眠れなかった。
今日は、流れでほろ酔い程度に飲んで帰宅した。
(ちなみに酒を「飲む」ことを「呑む」と表現する人を私は好きじゃない)


昨日、物事の整理について書いたが、江戸時代の長屋住まいの庶民は本当に最低限のものしか所有してなかったそうだ

まず生活か貧しかったこともあるし、ひとたび火事があればすべて無くしてしまうという感覚があったことかららしい。

「捨てる技術(昔読んだ本)」+江戸の長屋の人々 の感覚を重視すれば、身の回りの整理もがんばれそうだ。
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親孝行しなくては

今日は、久しぶりに母親とゆっくり話をした。
当然ながら私の親不孝ぶりについて、長々と話を聞かされる羽目になった。

・家の中を整理しないといけない
・掃除もして清潔に保たないといけない
・無駄遣いをしてはいけない
・親に感謝の気持ちを持ち行動に移さなければいけない
・携帯にかけたら出なさいっ

衣類については、数年前に一度かなり整理したのだが、やはりちょっとどこかに出かけて、半分付き合いで「なんか買っていこうか」ってことになると、「とりあえずTシャツか」となってしまう。

あっても困りはしないが、自分でスポーツをする場合に着用するものは、それなりに機能性を追求したものを購入するので別々になってしまう。
また、相当ぼろぼろになっても捨てないので、どんどんたまってしまう。
ここ数年はクールビズのため、ポロシャツとチノパンが増えた。
以前、自分でも反省点としているので最低限の購入にとどめているつもりなんだが。。。

このままでは

 仕事(仕事上の付き合い含む)が忙しい
  ↓
 家の中の整理が出来ない
  ↓
 ものがどこにあるのかわからない
  ↓
 いざというとき無いので、余分なものを買ってしまう
  ↓
 またモノが増えて整理が難しくなる

という悪循環のままだ。


時間がかかりめんどくさいが、まずは自作パソコンの部品、マニュアルやCDと自転車の部品整理からやらねばなるまい。
ヤフオク出品も結構手間なんだよなあ。

まあ、まずは親孝行のための姿勢としてがんばらなくては。


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エルトゥールル号事件のこと(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

       エルトゥールル号事件のこと
(国民同胞平成10年3月号より転載)
占部賢志(福岡県、高校教諭)

■1.テへランに孤立した邦人■

 昭和60(1985)年3月18日の朝日新聞朝刊に「イラン上空
飛行すれば攻撃/イラクが民間機に警告」という見出しが躍った。
当時はイラン・イラク戦争(1980-1988)の真っ只中であり、長
びく戦闘にしびれを切らしたイラクのサダム・フセインは、つい
に総攻撃体制に入ったのである。

 その一環として、あろうことか、テへラン上空を航行する航空
機はいづれの国のものであろうと撃墜するという方針に出たので
ある。期限は日本時間の3月20日午後2時。

 明けて19日の朝刊トップは「邦人に動揺広がる/脱出路探し
に必死」と大書。外国航空の特別便が一部運航することにはなっ
たものの、自国民優先のため日本人ははじき出されてしまい、邦
人一行の不安におののくさまを伝えた。

 外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、 「帰る際の安
全が保障されない」として日本航空側はイラン乗り入れを断念し
たという。事態はますます深刻度を増した。同日タ刊には「テへ
ラン 邦人300人以上待機」という見出しを掲げ、現地に釘付
けとなった邦人の孤立状況が続報された。

■2.日本・トルコ関係史に無知な朝日■

 こうして、もはや万事休すと思われた土壇場、翌20日の朝刊
に「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215
人」という朗報が載った。

 何とトルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出
してくれたのである。

 まさに間一髪であった。掲載された写真には無事脱出できた子
供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。

 さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を
冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対
して朝日新聞の記事はこうである。

 すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化している
こと」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いてお
しまいなのである。

 自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには
歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知ら
ないだけである。

 無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書
くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親
愛の情を育ててきた国である。

■3.駐日トルコ大使のコラム■

 その証左として、昨(平成9)年一月の産経新聞に載った駐日
トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラムを紹介する。

 これを読むだけでも、トルコが何故日本に親愛の情を寄せるに
至ったかの消息が明らかになろう。それは日露戦争をさらに遡る
明治二十三年の出来事に端を発している。

 勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを
日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍
艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現ト
ルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初の
トルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友
好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭
い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関
係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡
した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を
受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日
本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近
の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も
幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど
歴史上重要な出来事だ。

 ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を
受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山
県沖に浮かぶ大島の村民である。

■4.島民挙げての救援活動■

 当時、通信機関も救助機関もない離島のこととて、救助は至難
を極めたという。怒涛に揉まれ、岩礁にさいなまれ、瀕死のトル
コ人達に対して、大島村民は村長沖周の指揮のもと、人肌で温め
精魂の限りを尽くして救助に当たった。

 さらには非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一
切を提供して精をつけ、彼らの生命の回復に努めたのである。

 この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずから
まとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克
明に記されている。知る人も知ろうとする人も少ないだけである。

 ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年に
は、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっ
ている。こちらの方は現在も小中高の歴史教科書に掲載されてい
て、多くの子供たちも周知の史実である。

 難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員
は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見
捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末と
なった。

 にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪
判決を下した。のち日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、3ヵ
月の禁鍋程度で賠償は一切却下。まさに不平等条約の非情さを天
下に知らしめた事件である。

 それからまもなくエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大
島の村民もノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知って
いたであろう。それでも前述のように異国の人々の救助に献身し
たのである。

■5.明治日本人のオープンマインド■

 いったいこの精神の高さはどこから来るのか。この点に関して、
トルコ大使に就任した遠山敦子氏と東京大学教授の山内昌之氏は、
こう述べている。 (中央公論社「世界の歴史」第二十巻月報)

山内: 明治時代の初等教育の普及率は大変な高さですね。小
学校の就学率は、明治30年代で90パーセントを突破します。
1891(明治24)年には非識字者は26.6パーセントでした
が、明治の最後の年になると字が読めない人の率は2.9パー
セントに低下しています。 (中略)これが明治日本の成功の
大きな理由だと思います。そして、そこにエルトゥールル号救
助の際の献身的な行為が生み出されてくる。

遠山: そのとき、救助にあたった村民たちがエルトゥールル
号の乗組員を人肌で温めて蘇生させたとか、村中の二ワトリを
かき集めてご馳走したとか、エルトゥールル号事件には、私は
大変感動しておりまして・・・。言葉は通じないけれど、1890
年にすでに日本の国民は、地方でもオープンマインドをもって
いて、いざというときには人類愛というか人間愛を発揮できた
んですね。

山内: そこに困っている人たちがいる、遭難している人たち
がいたら助ける、そこに理屈は何もない。この無償の行為に強
く心がうたれますね。やはり初等教育の普及といったことが背
景にあって、知らず知らずに人間愛が生まれてくる。これがや
はり文明というものだと思います。

 この対談で山内氏は初等教育の普及が育んだ人間愛について言
及しているが、たしかに沖村長とともに救援活動に最も功労があ
ったと言われる樫野区長の斉藤半右ヱ門は、当時樫野小学校創立
期の学務委員として初等教育確立に尽カした人物である。救援活
動の過労と心労のためか翌年死去したが、誠実な人であったとい
う。

 ただし、筆者は近代教育が与えた影響は否定しないが、むしろ
側隠の情は近代以前から地下水のごとく育まれていたと見るべき
ではないかと想像する。そうした精神的基盤があったればこそ、
わが国の近代初等教育に生命が宿ったと見る者である。

■6.「当然のことをしたまでです」■

 いずれにせよ、一世紀を経た昭和60年に身の危険をも顧みず
トルコがテへランに孤立した日本人を救出したのは、エルトゥー
ルル号事件に対する恩義を背景として培われた親日の行為だった
と見てはじめて得心がゆく。

 じつは、このエルトゥールル号事件のことを授業の教材にすべ
く、昨年七月にトルコ大使館から貴重な資料を送っていただいた。

 その際、邦人救出に対して感謝の旨を伝えると、大使は通訳を
通じて「いやぁ大したことではありません。当然のことをしたま
でですよ」とこともなげに謙遜されたが、忘れ難い言葉である。

 かくてこれらの資料のほか和歌山県の串本町や、この事件の顛
末を調査研究された和歌山県立串本高校の森修先生(故人)の遺
族の方などから送っていただいた資料をもとに、昨秋「日本・ト
ルコ関係史−エルトゥールル号事件の顛末−」と題する主題学習
にこぎつけることができた。

 今どきの高校生であっても、こうした史実に学ぶと、例えば
「明治の人々は、見ず知らずの外国人に広く優しい心で接してい
る。トルコの人も今も変わらず日本人を思っていてくれてジーン
とした」と率直な感動を示すものである。

 一方、経済援助に対する見返り行為だと憶断する朝日新聞の記
事に対して、「自分が日本人であることが恥ずかしくなった。感
謝することが大事だと思う。経済的にではなく、気持ちで恩返し
したい」と胸のうちを吐露する生徒もゐて頼もしい。

             ★★★

 歴史教育とは、闇に隠されてしまった史実をも虚心に掘り当て、
今の世に鎮魂と顕彰の記念碑を打ち立ててゆく地道な作業である。
目下、春を迎へて如何なる史実をどのように取り上げるか、思案
と勉強の最中である。

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思わず買いそうになる今日の商品

○80%OFF 星野JAPAN野球日本代表プレイヤーズTシャツ

うーん、製品はいいモノだと思うんで背番号とか無しなら即買いなんだけどなあ。


○87%OFF% ミズノレディースアイスタッチ アンダーウェア U首半袖

これは安い。
アンダーじゃなくTシャツならもっと売れるんだろうけど。


○69%OFF ミズノ アイスタッチアンダーウェア ボーダー柄ショートパンツチャコールグレー

こっちは男性用。


○68%OFF MIZUNO ミズノ ビューリーグ ハイネック半袖アンダーシャツ Oサイズ

あと1枚しかない。


○80%OFF ミズノレディース 半袖ポロシャツ グレー

クールビズ全盛の昨今、普段使いには十分でしょう。


○70%OFF ミズノV首 半袖 ベースボールシャツ

野球する人には基本のベースボールシャツ


○60%OFF さらっと爽快!軽量!高吸水発散機能!ミズノ プラクティスTシャツ(陸上)

ちょっと好みは分かれるかも

○60%OFF 涼感素材 ミズノアイスタッチ ノースリーブシャツ

これいいなあ。
ポロシャツ着たときにノースリなら袖がはみ出さないし。


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お客 (おきゃく)

お客とは (おきゃくとは) 酒宴を意味する 
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GC女性キャスターの・・・

以下順不同 やけに7月生まれが多いな


荘司典子 1970年7月13日

岡部玲子 1979年7月30日

石山愛子 1975年10月15日

梅田陽子 1978年7月29日

小川真由美 1972年7月18日

小島友実 1971年6月14日

村瀬美希 1976年11月9日

山本潤 1978年6月22日

水野由加里 1979年11月22日


<おまけ>
秋田奈津子 1983年(推定)9月18日
半田あい 1981年2月25日
松原香織 ????年7月3日
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再生中のAdove flash player 着メロ 着うた ダウンロード

連休中の真夜中、いろいろ調べてた。
以下、くれぐれも自己責任で。

まずは、「再生中の Adove flash player のダウンロード」について。
これについては、一度動画を最後まで再生させると、下記フォルダに保存される仕組みになっているようだ。
FLV動画を再生できるソフトがパソコンに入っていれば、下記フォルダからデスクトップにコピー(念のため)した後、再生して確認できる。

C:¥Documents and Settings¥○○○○¥Local Settings¥Temporary Internet Files
※○○○○部分は、パソコンによって数や文字が異なるので探すこと。デスクトップに該当のTemporary Internet Filesショートカットを作れば便利。フォルダ内の動画を直接再生させようとするとメッセージが出るが無視。

このフォルダは、次回アクセスしたときに早くページを表示するため画像などを一時保管しておく場所である。
ツール → インターネットオプション → 全般
に出てくるインターネット一時ファイルの保管場所だ。
ページに入れば膨大なファイルを持ってくるので、一度このフォルダのファイルを全部消去してから、Web上でファイルを再生。一度上のフォルダに戻ってからこのフォルダを読み込み(フォルダ内容は自動更新されないため)するという方法がベターかと思う。

着メロ・着うたもページによるが、これと同じ仕組みの場合は保存可能である。
たぶんファイル形式が携帯向けではないので、あとは拡張子との戦いだ。



ただ今日はいくつかのプログラムをインストールしたので、そのおかげでこういうことが可能になったのかもしれない・・・(汗
ちなみにインストールしたのは、AdobeMediaPlayer、flvpex02、FLASH MANIAの3点である。


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連休も終わりか

シルバーウィークだったが、お付き合いなどなどで何もせぬまま残りは明日だけ。

今日は、ごひいきのオリックス&ライオンズとも勝ったので少々気分がいい。
球場での観戦はパ・リーグが主となるが、日本ハムとロッテの応援は印象に残る。
日本ハムは、メロディー・歌詞ともいい。
あまり聞きたくない(笑)チャンステーマのチキチキバンバンもおもしろい。
比較的、歌声が大きいので各選手の応援歌のフレーズが耳に残りやすいんだろう。「僕らは待つよ輝く瞬間」、「美作男児の心意気」とか。

ロッテはこれに輪をかけて声主体だし、キッスは目にしてだし。
応援歌というより、選手名コールのほうが印象に残る。

オリックスはどちらかといえば楽器音が主体なので、フレーズがほとんど残らない。
ライオンズはその中間くらい。
ライオンズの場合、ミラクル元年(&その後のもろもろ)歌いたくって球場に行ってるようなもんだ。



先日書いた財布の件についてだが、今回発見したことがある。

まず「長財布って意外に大きくない」こと。
自分の中では街中で見かけるズボンの後ろポケットからはみ出している人のイメージがあったが、スーツなどの場合はほとんどがポケットの中に入ってしまう。
実際の大きさは短財布の1.5倍くらいで、柔軟性のある素材なら、思っていたより落とす心配もなさそうだ。
短財布はたくさん入れた場合に、ポケットの形状によりなかなか出てこない場合があるのと、支払いの際にお札が折れてしまっている。
これを機会に長財布にトライしてみようかと思う。


また、革の種類がたくさんあることは、自称「革フリーク」なので知ってはいたが、牛革では「カーフスキン」が一番いいものらしい
今後は、同価格・同デザインなら単に「牛革」より「カーフ」と書いているモノを選んだほうが得な気がするということだ(笑 
コードバン、クロコ、オーストリッチとかは知ってたが、牛革にもランク付けがあるとは知らなかった。

革製品は、バッグも財布もそうだが、裏地が先にダメになる場合が多い。
これはいかに高いブランド品でも関係ない。
革にコーティングしている部分がはげ落ちたり、べとついてきたりするのである。
名刺入れには致命的で、一度こうなった後はこのあたりもチェックして買うようになった。
ヘルツの製品(バッグしか持ってないが)は、一枚側だからその心配は皆無だが、逆に重いという部分もある。それよりまず高いし・・・




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オリックス・バファローズ観戦記


19・20日と京セラドームでオリックスVS日本ハム戦を観戦。
今回は新しい携帯が電池切れで、古いほうで撮影したので画像最悪。


これは初日の撮影会。キンコと岸田両投手。


球場内売店のきつねうどん。
ある意味つゆダク(笑  こぼさないように注意。


しかし、球場内は結構出費が多い。
早めに入って食事2回分とかやってると、チケット代よりかなり高くつく。
コンビニおにぎりとか紙パックのお茶(ペットボトルは持ち込み禁止)をしこたま持っていけば、Bsショップで買うおみやげ代にもっと回せるかも。
マックも単品300円以上のラインナップはやめて、100円バーガー置いてくれよう。たぶん他の店と基本単価が違いすぎて無理なんだろうな。

今年はこの後ロードということもあり、早くも10月5・6日のホーム最終戦が次のメインとして宣伝されている。
ポスターの「やられっぱなしでは終われない」のコピーは、盛り上がっていた昨年の今頃を考えるとちょっと寂しいですな。



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ミズノのグラブ革の財布



先日注文していた、ミズノの財布が到着した。

専門ショップHPのとおり、開くと左側にカード入れが3か所、右側に上に向かってカブセがある小銭入れ。
札入れは2か所に仕切られている。

この画像では見えないが、カード入れ&小銭入れの裏には、きちんともう1か所カードなどを入れる部分がついている。
最近の紳士用(男性用)財布には結構採用されているのだが、この仕様はありがたい。

とりあえず、グラブ用保革油で処理した。
残り生きてる時間を考えると、さっさとエージングしなきゃな

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財布をなくして

先日財布をなくしてしまった。
警察にも届けてはいるが、まだ出てきていない。

使っていない財布が家にはひとつしかなかった。
20年ほど前の二つ折りの長財布(お札を折らずに収納するタイプ)でコインが入らないタイプである。
生まれてこの方ずっと短財布(お札を折って収納するタイプ)を使っている者にとってはまことに使い勝手が悪い。
小銭入れは普段から使っているのだが、常時携帯していないとポケットでチャリチャリ音を鳴らす羽目になるのもつらいもんだ。

これを機会に、ミズノのグラブ革で作られた財布を注文した。
お目当ては短財布だったが、通販のため「送料がもったいない」という貧乏根性が出てきて長財布も注文。
(今初めて気づいたけど、これって余り革でつくってんだ・・・)

が、これが在庫状況の関係で時間がかかるんだな。
「このままでは性格が悪くなる」と先に購入したのがこちら。
ウオーキング時などに少額を持っていけるコンパクトなものということも考慮した。
高校の頃だったか、同じ作りの財布を持っていて懐かしさもあって買ってしまった。
当時持っていたものは流行りのDCブランドのものだったのでかなり薄目だったが、こちらは革の専門家が作っているだけあって、しっかりしたジッパーを使用しておりその分マチが広い。
ミズノのものが届くまでは、カード類も入れないといけないのでそれにも対応できる。

かつて一生モノと思ってHERZ(ヘルツ)の小銭入れを購入した。
が、県外のホテルに置き忘れ。
すぐに電話して所在確認後、ほぼ月1回は利用していたので、次回宿泊する際に受け取る旨を伝えた。
その後たまたま当地への出張が無く、行ったのは4か月後。
その間連絡しなかったのもいけなかったが、フロントで尋ねると「処分した」と。
本体価格もさることながら、500円玉も数枚入っていたのにそれを処分したとは・・・
わざわざ電話までしているのに・・・

企業が人件費を削減するようになって、マニュアル通りの人間ばかりになってしまった世の中をここでも認識させられたのだった。

<今回購入した財布>

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韓国プロ野球 2008シーズン成績(勝敗表)

韓国プロ野球 2008シーズン成績(勝敗表)

順位 チーム名 試合数   勝   敗  分 勝率  差

1.SK    126  83  43  0 .659 -

2.トゥサン  126  70  56  0 .556 13.0

3.ロッテ   126  69  57  0 .548 14.0

4.サムソン  126  65  61  0 .516 18.0

5.ハンファ  126  64  62  0 .508 19.0

6.キア    126  57  69  0 .452 26.0

7.ヒーローズ 126  50  76  0 .397 33.0

8.LG    126  46  80  0 .365 37.0



韓国プロ野球 2007シーズン成績(勝敗表)

順位 チーム名 試合数  勝   敗  分 勝率  差

1.SK    126  73 48  5 .603 −

2.トゥサン  126  70 54  2 .565 4.5

3.ハンファ  126  67 57  2 .540 7.5

4.サムソン  126  62 60  4 .508 11.5

5.LG    126  58 62  6 .483 14.5

6.現代    126  56 69  1 .448 19.0

7.ロッテ   126  55 68  3 .447 19.0

8.キア    126  51 74  1 .408 24.0



韓国プロ野球 2006シーズン成績(勝敗表)

順位 チーム名 試合数  勝   敗  分 勝率  差

1.サムソン  126  73 50  3 .593  −

2.現代    126  70 55  1 .560  4.0

3.ハンファ  126  67 57  2 .540  6.5

4.キア    126  64 59  3 .520  9.0

5.トゥサン  126  63 60  3 .512  10.0

6.SK    126  60 65  1 .480  14.0

7.ロッテ   126  50 73  3 .407  23.0

8.LG    126  47 75  4 .385  25.5



韓国プロ野球 2005シーズン成績(勝敗表)

順位 チーム名 試合数  勝   敗   分 勝率  差

1.サムソン  126  74  48  4 .607  −

2.トゥサン  126  72  51  3 .585  2.5

3.SK    126  70  50  6 .583  3.0

4.ハンファ  126  64  61  1 .512  11.5

5.ロッテ   126  58  67  1 .464  17.5

6.LG    126  54  71  1 .432  21.5

7.現代    126  53  70  3 .431  21.5

8.キア    126  49  76  1 .392  26.5



韓国プロ野球 2004シーズン成績(勝敗表)

順位 チーム名 試合数  勝   敗  分 勝率 差 

1.現代   133  75  53  5 .563

2.サムソン 133  73  52  8 .548 0.5
 
3.トゥサン 133  70  62  1 .526 7.0
 
4.キア   133  67  61  5 .603 8.0

5.SK   133  61  64  8 .458 12.5

6.LG   133  59  70  4 .443 16.5

7.ハンファ 133  53  74   6 .398 21.5

8.ロッテ  133  50  72  11 .375 22.0


 注)内容に誤りがあるかもしれません


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不眠症ゆえに

昨夜もなんだかんだで結局午前4時まで眠れず。

今日は外で結構飲んだのだが、いっこうに酔わない。
帰り道で考えてみたら、フライング気味に早い時間に飲み始めたので、摂取アルコール量を時間で割るとさほど多くなかったことに気づく。
かつて21時に仕事を終えてから23時閉店の店で飲むことが掟だった時代があって、普段は2時間で日本酒換算5合ピッチで飲むので致し方ない。

今日は何とか寝付けるかもしれないが、明日=飲んだ翌日 はまた不安だなあ。
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日本は小さな政府なのに(2)

前回に引き続き)

○天下りとか公益法人とか
週刊誌では、「省庁退職後に天下りして、法外な給与と退職金○千万円を複数の場所でもらっている」という記事を目にする。
(ただし、こういう人々公務員のうちでもほんの一握りである)

ひとくちに「天下り」といっても中にはそれまでの経験を生かして行政の手の足りない部分を補っている団体もあるだろうし、すべてが悪いわけではない。
やみくもに公務員数を削減すると、こういった団体を増やすことにつながる。
それらが傍目に見ても適正な報酬で雇用されているなら「ご苦労様ですね、ぜひ頑張ってください」ということになる。

しかし、一方で最悪なのは、天下り先で随意契約により多数の契約を取って官公需のコスト増を招き、民業を圧迫しているものである。
官公庁に対するOBや国会議員の働きかけや口利きが行われていると想像できる。
無駄づかいも根元でもあるこういったケースは排除してもらわなければならない。

○まとまりきらないが結論
個人的には生きているうちに国の特別会計にメスが入るとは思っていなかったが、今回実現しそうである。
いや実現してもらわなければならない。

国家予算(一般会計)は80数兆円というのを漠然と知っている人は多いだろうが、これとは別に「特別会計」にはその3倍もの金額があり、予算管理者の胸先三寸で使われている事実を知っている国民がどれだけいるのだろうか。

マニフェスト実現も大切だが、まずもって「国家百年の大計」とまではいかなくとも、30年先、50年先を見通した国のあり方を総合的に議論すべきである。
「将来、道州制実現のためには基礎自治体の強化が必要」ということで市町村合併を実施したものの、その後道州制導入の議論は堂々巡りしているままだ。

このまま少子化に歯止めがかからないと、この先数十年は現在国と地方が背負っている借金も含めて若年層高負担の時代が続く。
では、少子化対策に力を入れるのか、一方で医療・福祉を含めた高齢者対策はどうするのか、国民所得は現状維持を目指すのか、それともワンランク下にするのか、では、限りある財源の中で雇用対策として特に末端地方に期待されている公共事業はどうするのか、すべてトータルで考えなければならない。
公務員経費削減もその一歩かもしれないが、それだけでは何の解決にもならない。
たかだか5兆円のパイで人気取りをするより、200兆円のほうを優先すべきではないか。





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日本は小さな政府なのに(1)

民主党が衆院選のマニフェストである、公務員制度改革に乗り出している

この「公務員制度改革」とか「小さな政府を目指す」とかよく目にするが、どうも有権者ウケを狙っただけのもので、それにバカな国民がだまされているという図式になっている気がしてならない。

そもそも日本の政府は小さいのである。

−−−(以下、H19.2.05の当ブログから引用開始)−−−

「小さな政府」への疑問 


最近、決まり事のように「小さな政府」を連呼する人は多い。

では、現在の日本が「大きな政府なのか?」というと、答は決定的にNO!である。


<人口1000人当たりの公務員数>
 日本 米国 イギリス フランス ドイツ スウェーデン
 38 75  80   97  65  100超

出典:財務省「各国社会経済主要諸元(データは98年)」
   スウェーデンのみ、「スウェーデンの地方自治」を参照

上記のとおり、日本は決して大きな政府ではなく、小さすぎるくらいだ。
「小さな政府」好きな人々は、この事実を知っておられるのだろうか?
特に、道州制推進論者は、スウェーデンを理想の国とする向きが多いが、右へならえなら、公務員は現在より3倍増。
加えて「小さな政府」を主張するなら、いわゆる「いいとこどり」で、主義主張にあまりにも矛盾があり、ただでさえ道州制導入を理解しがたく感じている国民が、さらについていけなくなるのではないか。
(質的変換>量的変換 ということを私は言いたい)

かといって、私は単純に「大きな政府でもOK」とは考えていない。
上述の各国の公務員数についても、「どこまでを公務員としてカウントするのか」という基準が国により異なっている可能性もあり、多少のばらつきも想定される。
基本的に、公務員数の多少の議論よりも、国民が安心感を持てるような仕組みづくりをトータルで考えることのほうが大事なのであって、いたずらに「小さな政府、公務員数削減」を主張し、「ともかく歳出経費が削減されれば、すべて解決」(負の理論)とすることが、いかがなものかと思うのである。
北欧諸国を道州制のモデルにするなら、それらの国々のセーフティーネットのあり方や、教育や企業育成の手法などを中心に論じるべきであって、ことスウェーデンに関しては、「小さな政府」はまったくあてはまらない。

政府が主導して、マスコミもそうだそうだと食いついている「小さな政府、公務員数削減」論については、

・公務員(仮想勝ち組)バッシングによる、格差社会における不満分子へのガス抜き
・ごく一握りの国家公務員が優遇されている、法人への天下りを少しでも長く続けるためのカムフラージュ

 と、私は考えている。

−−−(以上、引用終わり)−−−

○公務員給与カットは必要か?
地方では小規模町村や、起債などの借金を抱え込んでいる自治体ではすでにカットを行っているところも多い。
現在、公務員給与は「50人以上の企業」を対象に民間と比較したうえで算出されている。
今後は、もう少し人数の少ない企業も対象にするという。
「それはないだろ」と、私は思う。

公僕とはいえ、きちんと試験を受け今ではものすごい難関を突破してきた人々である。
そういった者に対し、(失礼な言い方になるが)特に努力もせず無試験で入社した人、コネで入社した人などと同等の給与水準とするのはいかがなものか。
乱暴な言い方をすれば、「業務についての最低限の能力があれば、あとは抽選で」としているのと同じではないか。
また、あまりに給与を下げてやる気を無くされると今度は住民に跳ね返ってくる可能性もある。
「そんな職員よりやる気のある者を」と思っても、公務員はおいそれとクビにはならない。
ましてや、霞ヶ関の省庁に勤務する国家公務員は国益のため世界と各国と渡り合ってもらわなければならない。
いわゆるエリートであるのに、大企業よりずっと低い所得でいい人材が集まるわけがない。

また、公務員給与は全国平均で40代前半・700万円台とされている。
数字だけ見ると「毎月40万円くらいもらってる。多すぎる」と思うだろうが、周囲でこの年代の人がいれば尋ねてみるといい。
多くが「それより100万円以上低い」と言うだろう。
この数字はいわゆる「込み込み」なのである。


○公務員数は削減すべきか?
民主党も採用抑制を考えているようだが、これにも疑問がある。
小規模な町村役場に行くと若い職員はほとんどいない。
いたとしても、多くが臨時職員である。
これまでの年齢別階層なんてとっくに崩れ去っている。
国内のほとんどの市町村が市町村合併協議において財政シミュレーションを行い、「このままでは財政再建団体になりかねない。職員数の削減だ」と新規採用を最低限しかしなくなったからだ。


上述の「日本の政府は小さい・・・」の中で述べているとおり、そもそも国別の公務員数というのはあまりあてにならない。
医療サービスをどの範囲まで公務で行うかとか、軍隊の有無だとか存在する場合の人員規模だとか様々な状況により異なってくる。
今回は、マニフェストの実現としての「公務員経費削減」が目的で、具体的に「我が国をよくするにはどうすべきか」という視点が後回しにされている。
まあ、5兆円のうちのいくらかが浮けば、他に回せる財源が出来るんだろうけどね。









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日曜の夜に思うこと

毎日毎日持病でロクに眠れない中、先週金曜日はわけあって早い時間から飲んでいたのだが、当然といえば当然のごとく体にこたえて、携帯の履歴から見ると午後9時には帰宅したらしい。
土曜日は朝10時頃起きたので、12時間くらいは「寝だめ」ができたってことか。
しかし土曜日は「O−157」に冒されたかと思うくらいにトイレに何度も通い、やっと収まってから3時間ほど夕寝。
再度午前4時に寝付いたが、朝7時前起床で16キロのウオーキングに参加。
そのまま今に至っている。

「運動すれば眠れる」とか言うけどさ、個人的にはウオーキングだったら30とか40とか歩かないと無理みたい。


学生の頃、ビデオ店でアルバイトをしていた友人が何本かのビデオを撮って送ってくれた。
その中に、「再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ」(1988)があった。
今となってはストーリーの詳細は覚えてはいないが、オープニングでマイケル・J・フォックス演じる主人公が、明け始めた繁華街で「日曜日の午前5時、僕はここにいる」みたいなことを語っているシーンが印象的だった。
要するに主人公は失恋だなんだで堕落していたワケだが、日本のバブル期とあいまって、何とも・・・ って感じだった。
(この映画は、現在でもネット上の評判はよくない。24で有名になったあの人が出てたりするが)


昔、どっかの本で「日曜日に夜遅くまで遊ぶこと恐れてはいけない」みたいなことを読んだ記憶があって、別に日曜日の夜更かしをどうこうは思わない。
私の場合、これが月曜からも続くことが問題なんだよなあ。
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愛国心で経済再生(国際派日本人養成講座582)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


 消費者と企業が、その消費と生産にささやかな
 愛国心を込めれば、日本経済は再生する。

■1.「森林大国が木材輸入大国」という矛盾■

「100年に一度」と言われる大不況の中でも、明るいニュー
スはあるものだ。林野庁によれば、木材の国内自給率が上昇傾
向にあるという。と言ってもまだ22.6パーセント(平成
19年)だが、前年から2.3ポイントも上昇している。[1]。

 我が国は世界有数の森林大国でありながら、世界最大の木材
輸入国でもある。

我が国土の緑被率(森林が国土に占める割合)は67%と、
フィンランドの69%に続いて世界第2位。その森林を健全に
保つためには、木を間引いて間隔を空けたり、枯れかかった木
を除く間伐が行われる。この間伐材が年間5千万立米ほど発生
するが、実際の需要はその三分の一ほどでしかなかった。間伐
は手間がかかるので、値段が高いためだ。

木材需要全体では1億立米もあるのだが、その大半が安い輸
入材でまかなわれる。大手の住宅建設企業が安価で安定的な木
材供給を求めて、国産材から輸入材にシフトしたのである。

こうして国内の大量の間伐材はムダにされて、海外材を輸入
するというおかしな事になった。国内では間伐が進まないと、
森林が荒れてくる。同時に海外での乱伐はその国の自然を破壊
する。どこかがおかしいのではないか。

木材の国内自給率が上昇している、ということは、豊かな森
林を抱える地方経済が活性化し、同時に国内と海外の森林保全
が進む、ということである。


■2.消費者のこだわり、企業と地方自治体の努力■

なぜ木材自給率が上昇しているのか。

一つの要因は消費者の中に国産材へのこだわりが根強くある
ということだ。コマなど木の玩具を作っているメーカーの社長
は、「子どもが触れるので薬品などが心配という声もあり、国
内の木を主に使っています」と言う。またある大手住宅メーカ
ーは、「高品質なイメージがあることから、国産にこだわるお
客様の需要が結構あります」と語っている[1]。

同時にメーカー側の国産材利用の技術開発も進んでいる。住
宅の床や壁、家具などに使われる合板は、以前は間伐材の細い
丸太から作ることができず、外国産の太い丸太を使っていた。
しかし、輸出国での環境規制などによる輸入材の価格上昇もあっ
て、製材業者が技術開発を進め、安価な細い間伐材が使えるよ
うになった。現在、合板の52パーセントは国産材でまかなわ
れるようになっている。また住友林業は国産材100パーセン
トの「究極エコ住宅」を販売している。

さらに地方自治体と企業が協力して、間伐を進める取り組み
も広がりつつある。高知県では平成17(2005)年から「協働の
森づくり事業」として、企業や団体から協賛金を集め、市町村
有林の間伐を進めている。30以上の企業・団体と契約し、約
17平方キロの山林を対象としている。間伐は森林の温暖化ガ
ス吸収を高めるため、企業は「○○トンのCO2吸収に貢献し
た」とアピールできる。また社員らのボランティア活動や環境
研修にも活用できる。

こうして、消費者の国産材へのこだわり、企業側の技術開発、
地方自治体の後押しと、三者の努力があいまって国産材の有効
活用が進んだ。国産材活用がさらに拡大していけば、森林を美
しく健やかに保ち、かつ地方経済の活性化にもつながっていく。


■3.愛国心で経済再生■

名城大学教授・磯前秀二氏は著書『愛国心の経済学』の中で、
こう主張している。[2,p3]

 ・・・私たち日本人がしかと愛国心を身に付ければ、
「日本社会のソフト力」が飛躍的に高まり、日本経済は再
生軌道に乗るだろう・・・

木材自給率の向上は、この一例だ。木材自給率の向上によっ
て、間伐材を供給する地方が潤い、住宅メーカーの利益は向上
し、消費者も安くて安全な木造住宅や木造りの家具・玩具など
が買える。それだけ日本経済は豊かになる。

こうした変化をもたらしたのは、間伐材を利用する技術開発
や、「協働の森づくり事業」のような仕組みのお陰である。こ
うした技術や仕組みが「日本社会のソフト力」だろう。

そして、この「ソフト力」が高まったのも、消費者、企業、
地方自治体のそれぞれが「日本の森林を護ろう」と志した「愛
国心」の賜物である。

これに比べれば、かつて住宅メーカーが安い海外材に切り替
えて、国内では間伐が進まずに森林荒廃、海外では乱伐と、地
球環境悪化を招いたのとは対照的である。目先の利益のみ追っ
ていたのでは、結局、行き詰まって、経済もうまくいかなくなっ
てしまう。

迂遠なようだが、日本の森林を大切にしようとする愛国心が、
地球環境を保護し、健全な経済発展をもたらすのである。


■4.日本のおかしな食糧事情■

自給率と言えば、食料の問題もある。日本は世界最大の食糧
輸入国で、食糧自給率はカロリーベースで39パーセントと、
主要先進国で最低の水準である。

その一方で、政府はコメの減反政策(作付面積を減らして生
産量を抑える政策)を続け、今や減反面積は水田の約4割に達
した。米作の生産性向上により供給が増える一方で、食生活の
変化によりコメの消費量が減り、売れ残りが生じてきたためで
ある。耕作放棄地も、この狭い国土で埼玉県に匹敵する面積と
なっている。

この状況は国民の大半がおかしいと感じている。95パーセ
ントが食料の確保に不安を感じ、85パーセントの人が減反政
策を見直すべき、と考えている。[3]

自給率の低下は安全保障上の問題を引き起こすだけではない。
国土の荒廃をもたらし、国民生活に損害を与える。日本学術会
議が平成13(2001)年に発表した「地球環境・人間生活にかか
わる農業及び森林の多面的な機能の評価について」によると、
農地と森林は毎年、次のような効用を生んでいる。[4,a]

・洪水防止機能      3兆5千億円
・水源涵養機能      1兆5千億円
・土砂崩壊防止機能      5千億円
・土壌浸食防止機能      3千億円
・保健休養・やすらぎ機能 2兆4千億円

合計8兆2千億円と、国民一人あたり年間6万5千円もの価
値を毎年、生んでくれている。言い換えれば、農地・森林が失
われることで、洪水や水不足、土砂崩壊、さらには観光資源の
減少によって、国家経済上も大きな損失を被ることになる。


■5.地球0.4周分の食料輸入距離■

さらに海外からの食料輸入は、ムダなエネルギーを使う。

消費される食料の量に運搬距離をかけ合わせたフードマイレ
ージという尺度がある。我が国の食料輸入量(平成13年)は
5万8469トン、平均輸送距離は1万5396キロメートル
(地球の約0.4周分!)で、フードマイレージは約9千億キ
ロ・トン。世界ダントツの一位で、2位の韓国、3位のアメリ
カの約3倍と突出している。

全国民の食料の6割を、地球の0.4周分もはるばる運んで
いては、輸送エネルギーも膨大である。輸入小麦で作った食パ
ン1斤を国産小麦製のものに変えるだけで、クールビス2日分
以上のCO2抑制効果がある、という。

結局、国民が食料安全保障にも、国土保全にも、地球環境に
も気を使わず、安くて良いものなら、どこからでも買うという
自己本位の消費を続けた結果が、こんな矛盾を生んでいるので
ある。


■6.「地域の共同体が農業を支える」■

さて、この問題にも磯前教授の提案する「愛国心で経済再生」
のアプローチが有効である。実際に各国でそのような運動が始
まっている。[5]

北イタリアで始まった「スローフード運動」は、現在100
カ国以上に広がっている。ハンバーガーやフライドポテトのよ
うな「ファーストフード」が大量生産された輸入食材を使い、
世界どこでも均一化された加工食品を提供するのに対して、
「スローフード」は「郷土料理や質の高い食品を守る」「素材
を提供する生産者を守る」「消費者全体に食の教育を進める」
といったテーマのもとに、「地方の食文化」を伝え残そうとい
う活動である。

「農と自然の研究所」代表理事の宇根豊氏はドイツでのこんな
体験を紹介している。[4]

ある村ではリンゴをジュースに加工して付加価値を付け
て販売していた。そのリンゴジュースが飛ぶように売れて
いるのだそうだ。・・・町の人たちは「このリンゴジュー
スを買って飲まないと、あの村の美しい風景が荒れ果てて
しまう」と言って買うのだそうである。・・・リンゴはリ
ンゴだけでは育たない。

同様に米国でもCSA (Community Support Agriculture)と
いう取り組みがある。「地域の共同体が農業を支える」という
意味で、一年分の農産物の購入を事前に契約するなど地域の農
業を消費者が支援し、環境保護と地域コミュニティーの維持を
目指す活動である。

我が国でも「地域の産物を地域で消費しよう」という「地産
地消」活動が広がっている。


■7.ごはん一杯で経済再生■

こうした郷土愛や祖国愛が、どれほどの経済再生効果を持つ
のか。

「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」は、われわれが毎日
ごはんをもう一杯多く食べるだけで次のような効果がある、と
いう試算を発表している。[5]

・食糧自給率が8%向上。
・転作された田が、60万ヘクタール、水田に蘇る。
・貯水機能が12億トン(東京ドーム1000杯分)高ま
り、洪水、水不足を防止する。
・稲の光合成により二酸化炭素を300万トン(東京ドー
ム1520杯)吸収する。

現在の農業就業者人口約300万人が、食糧自給率に比例し
て増大するとすれば、自給率の40%から48%への向上は、
60万人分の仕事を生み出す。

昨今、話題になっている派遣労働者たちにも、豊かな就業機
会を提供できる。そして若い人たちが高齢化が進む農村に入れ
ば、地域の活性化も大きく進むだろう。

またご飯を中心とする日本型食生活はビタミンやミネラルを
豊富に含み、健康にも良い[b]。それによって健康寿命を伸ば
し、医療や介護費用を大きく節減することができる。

政府の経済財政諮問会議が打ち出した「日本21世紀ビジョ
ン」では、「80歳健康大国」を目標の一つに掲げている。健
康に生活できる「健康寿命」を75歳から80歳に伸ばす、と
いう内容である。

「健康寿命」後の介護が必要な期間を短縮することで、医療
・介護費用は大きく減る。岩本康志・東京大学大学院教授は、
 国民一人あたりの医療・介護費用(自己負担含め)の減少分を
 728万円と試算している。

一方、平均寿命が延びることで年金費用は455万円増加す
るが、差し引きでも273万円もの費用節減になる。それだけ
政府の財政再建にもつながるわけである[2,p95]。

もっとも年金の増加は、お年寄りが老後も健康で楽しく暮ら
せるためのもので、後ろ向きの医療・介護費用に比べれば、は
るかに生きたお金の使い方である。


■8.立派な企業、格好良い消費者■

以上、木材と食料の自給率の問題を見てみたが、問題の発端
は、安くて良いものであれば、どこから、どんな過程で生産さ
れたものでもこだわりなく購入する消費者の自己本位の態度で
あった。

そうした消費者のニーズに応えるべく、企業は外国産の木材
や食料を大量に買い付け、国内に供給した。それにより海外で
環境破壊を起こしたり、輸入のための膨大なエネルギーのムダ
を発生させた。

同時に、価格競争力を持たない国内の農業・林業は廃れる一
方となった。行き詰まった農家を助けるために、膨大な国家予
算が投入されても、問題解決の兆しは一向に見えない。また荒
れ果てた自然は水害などを引き起こし、災害対策のための税金
投入も必要となる。

経済学においては、消費者も企業もそれぞれの利益を最大化
する事を目標として自己本位に行動すると仮定するが、それは
金額に現れない悪影響を自然や社会に与える場合が少なくない。
そして現代の巨大な消費量・生産量は、地球環境や地域経済、
国家財政すら破壊しかねないほどの影響力を持つ。

この袋小路から逃れるためには、まずは消費者や企業が自己
本位の態度を改め、少しでも郷土愛、祖国愛、人類愛を込めて、
消費や生産を行うことである。そのような消費者や企業が現れ
つつあることは、冒頭の木材自給率向上の例でも示した通りで
ある。

国産の木材で家屋・家具・玩具を製造し販売する企業は立派
である。それらを購入する消費者も格好良い。これらの企業や
消費者は、自らの生産や消費を通じて、日本の森林と地方経済
の再生に貢献しているのだから。

こんな感覚が一般的となって、立派さ、格好良さを競争する
ようになれば、我が国の国土も経済も国家も健全に発展してい
くだろう。やはり愛国心こそ、その原動力である。
(文責:伊勢雅臣)

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夜中にシウマイ



ああ相変わらず寝付けない。
腹が減ったんで横浜土産でも食うことに仕様。
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2009アジアシリーズ

今年は昨年よりは縮小って話でしたが、そのとおりとなりました

地元球団長崎セインツ存続で揺れる長崎で開催予定です。

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SKキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

韓国プロ野球では、首位キアと2位SKがデッドヒートを演じている。

<9月9日現在の成績>
キア122試合72勝46敗4分勝率.590
SK124試合72勝47敗5分勝率.581 差1.0


3年連続シーズン優勝を目指すSKは6月末まではほぼ順調に来ていたが夏場に少し失速してしまう。
というより7・8月の間、SKは勝ち越し2でそうそう悪い戦いではなかったのだが、この期間勝ち越し20としたキアが驚異的だったというほかない。

<6月末時点の成績>
SK75試合44勝26敗5分勝率.587(1位)
キア73試合38勝31敗4分勝率.521 差5.5(3位)

<7・8月の成績>
SK 7月:14勝10敗 8月: 9勝11敗
キア 7月:20勝 5敗 8月:11勝 6敗


さらにSKはアジアのエースで先発の勝ち頭でもあるキム・グァンヒョンが戦線離脱するなどチームは追いつめられる。
8月23日には、首位キアに3タテをくらい、首位から6.5ゲーム差の3位にまで後退。
しかし、それ以降SKは立ち直ったかのように、ここにきて怒濤の11連勝でキアは5連敗。ついにゲーム差は、6.5から1.0に。
完全に流れは変わっている。
残り試合が20程度となった時点からの11連勝は、さすが韓国シリーズを連覇したチームの地力としか言いようがない。

韓国ではレギュラーシーズン1〜4位のチームがプレーオフに進出できるが、当然上位のチームほど優位なので、優勝するに越したことはない。
今年はアジアシリーズはない模様だが、ぜひともSKには3年連続韓国シリーズ制覇を成しとげてもらいたい。

昨年SKの関係者の方から「ウチは連敗しただけで裏では大変なんですよ」との話を聞いた。
今年はかなり金監督の檄が飛ばされたのでは・・・


※7・8月の勝敗数はHPの表で数えたので間違ってたらスイマセン


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もう少し眠らないともっと早死にしそう

首の持病から来る不眠症もあり、またいろいろやりたいこともあって、このところ本当に毎日3〜4時間しか眠っていない。
朝起きるのはツライし、集中力もないし、これは地球が30時間で1回転してくれるしか解決策がないような気がする。
おかげで移動中には熟睡しており退屈しなくてすむのだが。。。

そのおかげか、昨日から1泊2日で出かけていたのだが、「まあ大丈夫だろう」思って携帯の充電器を持っていかなかったら電池切れになるわ、同じく訪問場所の地図も持っていかなかったら少し迷ったりと、出張の達人のはずが「一体これまで何やってきたんだ」という自己嫌悪に陥った。

まあ多少悩みもありつつ眠れない部分もあるわけであって、今日買った本に「悩みや困難は喜ばしいと思いなさい」という言葉があって、「なんだい人の気も知らないで」と思いながらも、いやいやながらも前向きに多くの問題解決にあたらねばと思った次第。
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住吉大社


日程の都合上、足をのばして参拝したら昼食がとれないんだが無理してでも来た。
国家の弥栄祈願に加え素直に個人的な現状を報告。
その後、おみくじを引くと恐ろしいくらいずばりのおみくじを引いた。

そうだよなあ、迷ってばかりいるより前を向かないとなあ。
いや、来させていただいてよかった。

ちなみに橋は現在工事中。
左側の石橋から境内に。
また建て替え中のため、第一本宮(一番奥側)と第二本宮は参拝できません。


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アインシュタインの見た日本(国際派日本人養成講座548)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


     アインシュタインが日本で見たもの、それは
     人びとが慎み深く和して生きる世界だった。

■1.アインシュタインの感動■

大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。
フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。
瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た時でした。

景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私はそうした人々を見て深く感動しました。

日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。・・・


これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。


■2.「神秘のベールに包まれている国」■

アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。


山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。
それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。

私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。


当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンであった。
アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。

やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。

当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。


■3.熱狂的な歓迎■

11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で一泊。翌朝、東京に向かった。

朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。・・・

東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。


この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。

東京駅で人びとが絶叫----「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。

この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。

私の生涯に、こんあことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ愉快だ、心からうれしい。


■4.「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」■

11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。

6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。

その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。

アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な聴講態度は、何が原因だったのだろう。


■5.「外国の学者に対する尊敬の念」■

12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。

中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたためである。

外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。

嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。


「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、 世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を 体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」という伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っていたからであろう。

■6.「微笑みの背後に隠されている感情」■

日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。

われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことは できません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。

もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。

全世界の植民地化、そして1900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。


■7.「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」■

それに対して、日本人はどうか?

日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 
私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、 この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。


「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。


■8.「自然と人間は、一体化している」■

日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のためにアインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。

けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも 豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。

この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。・・・

この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。

・・・どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。


「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。


■9.アインシュタインの警告■

明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れないものであった。

また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。

たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。

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横井小楠 〜 明治維新の設計者(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■■ Japan On the Globe(612) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 横井小楠 〜 明治維新の設計者

西洋列強が押し寄せる国難に際して、小楠は「無私の心」による国内団結を唱えた。

■1.横井小楠が設計し、西郷が具現化した明治維新■

 勝海舟は、維新後にこんなことを言っていた。

おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(しょうなん)と西郷南洲(JOG注: 隆盛)とだ。[1,p81]

横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出て来たワイ。[1,p191]

勝の見方によれば、明治維新は横井が設計し、西郷が実現した、と言える。

横井小楠は幕末に幕府方の中心人物であった越前福井藩主・松平慶永(よしなが、号は春嶽)のブレーンであり、最後の将軍・徳川慶喜もその説に感服していた。勝海舟も「自分は小楠の弟子である」とまで自称していた。

一方、吉田松陰も小楠に敬服し、長州藩まで指導に来て欲しいと招請している。坂本龍馬も何度も横井を訪れて、その意見を聞いている。西郷は、横井の説を勝から聞いて、それをやり通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。明治に改まってからも、小楠は17歳の明治天皇に国政の理想を説いた。

要は、幕末から明治維新にかけての中心人物たちが、幕府方と薩長方を問わず、誰もが師と仰いだ人物が小楠なのである。

■2.エリートコースからの転落■

小楠とは後につけた号で、通称は平四郎といった。平四郎は文化6(1809)年に熊本・肥後藩士の次男として生まれ、10歳で藩校・時習館に入学すると、めきめきと頭角を現した。29歳には寮長として塾生を指導する立場に立った。

31歳にして江戸遊学を認められた。幕府における学問の総元締め林大学頭(だいがくのかみ)に入門するとともに、尊皇攘夷思想のリーダーである水戸藩士・藤田東湖にも親しく教えを請うている。

その藤田東湖が開いた忘年会の帰りに、泥酔した平四郎は一人の幕臣と口論になり、殴ってしまう。この事件を聞きつけた熊本藩の江戸留守居役は、平四郎を帰国させた。藩からは「つまらない事件で有為の人物を処分するな」と言ってきたが、熊本藩内部では二つの派閥が勢力争いをしており、一方の家老から後押しされていた平四郎はそれに巻き込まれたのである。

帰国した平四郎は自宅謹慎を命ぜられ、兄の家の6畳一室に閉じこもって、ひたすら学問に打ち込んだ。やがて志ある郷士や豪農の子弟が、小楠に学ぼうと出入りするようになった。

門下生が増えると6畳では手狭であり、弟子たちは力を合わせて、新しい塾を建ててくれた。この塾は「小楠堂」と名づけられた。平四郎は尊皇に生涯を捧げた楠木正成[a]を尊敬しており、それにあやかったのである。本稿でも、これからは小楠の号を使う。

■3.越前藩へ■

嘉永4(1851)年2月、小楠は諸国遊歴の旅に出発した。すでに43歳となっていた。遊歴の許可を藩政府に願い出ると、二つ返事で許可が下りた。藩政に対してもなにか批判的な言辞を述べる要注意人物がしばらくでも旅にでることは、藩にとっても歓迎すべきことであった。

小楠は、北九州、山陽道、大坂、大和、伊勢、さらには北陸まで足を伸ばし、各地で名高い人物と会った。

特に福井には25日も滞在し、歓待を受けた。小楠堂には越前藩から来た武士も学んでいて、小楠の評判を国に伝えていたのである。滞在中は連日のように講義を求められ、それがさらに小楠の名声を高めた。

福井からの帰路、琵琶湖西岸の小川村を訪ねた。小楠はかつて陽明学者・熊沢蕃山の書から多くを学んだが、その蕃山の師が近江聖人と呼ばれた中江藤樹であり、この小川村には藤樹が書院を開いた跡があった。

「国を治め天下を平らかにする」という政治の根本は、まず人間一人ひとりの心の中にある「まごころ」を磨くところから始めなければならないと説いた藤樹の教えは、村全体の空気に染みこんでいた[b]。日本全体をそのような道ある国にしたい、というのが、小楠の志だった。

小楠を越前藩に招聘しようという案に藩主・松平慶永も乗り気になり、肥後藩主・細川斉護(なりもり)に、小楠借用を願い出た。松平慶永の妻は斉護の娘で、婿−舅(しゅうと)の関係である。しかし、肥後藩の重役たちは「藩の恥を晒(さら)すようなものだ」と聞き入れない。

結局、慶永は斉護に二度も直接手紙を書き、斉護は「ここまで婿殿が思い込んでいるのだ」と重役たちの反対を押し切って、承諾させた。

安政5(1858)年4月、小楠は福井に着き、50人扶持の待遇を受けて、越前藩の藩校での講義、および藩政改革の指導に当たることになった。

■4.藩を富ます■

越前藩の藩政改革で、小楠がまず取り組んだのは、殖産興業によって藩を富ますことだった。従来の藩政改革は倹約一辺倒でやってきたが、倹約して得た資金を貿易や商品開発に注ぎ込んで、富を増やすことを説いた。

藩士・三岡八郎(後の由利公正、五箇条のご誓文の起草に参画)を使って、名望のある商人を集めて物産商会所を作らせ、生糸、茶、麻などを扱わせた。そして農村での養蚕を奨励し、長崎のオランダ商館を通じて生糸を輸出した。3年後には、貿易高が3百万両にも達し、藩の金蔵には今まで見たこともないほどの富が蓄えられた。

「横井先生は、口舌の徒ではない。その説かれる教えは高邁だが、さすが実学を旨とされるだけあって、藩を富ます術にも長けておいでだ」と、小楠の越前藩における名声は完全に確立された。

小楠が旨としていた「実学」とは、学者が世間を知らずに論語などの字句の研究に沈潜し、一方では政治家が学問を通じて自分の身を修めることをしない、という傾向を批判していた。これも中江藤樹の「学問とは人の生き方を正すものだ」という教えを継承する姿勢だった。

■5.「富国」「強兵」「士道」■

安政7年春、松平慶永の跡を継いで新藩主となっていた松平茂昭(もちあき)が江戸からお国入りし、すぐに小楠に会いたいと言ってきた。茂昭は藩が豊かになったことへの礼を述べ、ついてはその使途について大綱を定めたいので、意見を聞きたい、と言った。小楠は感激して、すぐに筆をとり、『国是三論』と題した意見書をとりまとめた。

『国是三論』は「富国」「強兵」「士道」の三つの柱から成り立っていた。

「富国」は生産を奨励して、藩の財政も豊かにして税率を下げる。藩民の暮らしを豊かにして、人の道を教える。

「強兵」は、極東に押し寄せてきた西洋列強に対抗できる海軍を作る。日本海に面した越前藩も青少年を鍛え、船で他国と往来させて、外国の事情を見聞させる。

「士道」は、人君は慈愛の心を持ち、家臣はその心を体して、人民を治める。その環境の中から、人材が次々と出てくる。

「富国強兵」は西洋列強の侵略に備える策として、すでに多くの先人が唱えていたが、小楠はこれに「士道」を加え、この3つとも人材を育成輩出することを中心に置いた。この点でも、中江藤樹の志が受け継がれている。

小楠の思想は、三岡八郎、後の由利公正が「五箇条のご誓文」を起草する際にも受け継がれた。「上下(しょうか)心を一(ひとつ)にして盛に経綸(けいりん、経済その他の活動)を行ふべし」「智識を世界に求め大に皇基(国家統治の基礎)を振起すべし」などの表現に窺われる。

■6.「幕府も朝廷も、私の心を捨てて」■

文久2(1862)年、松平慶永は幕府から政事総裁職への就任を要請された。その前年、大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、幕政は混迷を極めていた。井伊直弼は朝廷の勅許を得ずに独断で日米修好通商条約を結び、また世に言う「安政の大獄」で反対する大名・公家・志士らを次々と処刑・弾圧した張本人であった。

慶永は小楠を江戸に呼び寄せ、意見を求めた。小楠は政事総裁職を引き受けるべき、と主張し、実行すべき政策を『国是7カ条』として献策した。

その第一条は「将軍は上洛して列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」であった。幕府も朝廷も、私の心を捨てて、公の心を持って議論を尽くし、日本の進路を決定しなければならない。そのために、まず天皇から大政を委任された幕府の方から、歴代の無礼をお詫びし、私心なき事を天下に示そうというのである。

さらに、大名の参勤交代を大幅に縮小し、人質として江戸に置かせていた妻子を故国に帰らせること。これも大名たちに幕府の私心なき事を示すためである。あとは人材登用、公論の尊重、海軍増強、貿易振興など、『国是三論』に共通するものであった。

西洋列強がひたひたと押し寄せてくる国難に際して、国内の朝廷、幕府、諸大名などが互いに私心を持ったまま勢力争いをしていては国家の独立を守れない。まずは幕府が私心無きことを示して、朝廷や諸大名の力を統合していこうというのである。

 これを聞いて、慶永は「なるほど、これは天下の人心を一新
するためにもそうとう効果のある政策かもしれない」と希望を
抱き、政事総裁職就任を決意した。そして、この『国是7カ条』
を就任の条件とするよう、将軍側近の大久保忠寛など要人の間
で小楠に根回しをさせた。要人たちも小楠の説得を受け入れた。

■7.「大乱を未然に防ぐ」■

慶永は政事総裁職に就任してから、早速、参勤交代の大幅縮小、大名の妻子帰国などを実現した。しかし「列世(歴代)の無礼を天皇に謝罪すること」には、幕府の首脳の中で反対意見が強かった。「将軍は天皇から政治の大権を委任されていて、その中には外交問題も入っているので、勅許を得ずに外国と条約を結んだからといって、無礼には当たらない」という論も起きる。幕府の面子をなんとか保とうという「私心」である。

その中で将軍後見職・一橋慶喜(後に最後の将軍として大政奉還)が「小楠の意見を聞きたい」と言い出した。幕府首脳がずらりと並んだ中で、小楠は語った。

幕府が公武一和を標榜する以上、武家の頂点に立つ将軍が自ら勤皇の実をあげることが、徳川家が私心を去り、公の心を持ったということの証(あかし)になります。将軍にとってもお辛いこととは存じますが、この一事によって天下の人心が鎮まり、大乱を未然に防ぐことができます。
[2,p245]

幕府と朝廷が互いに争い、諸大名がこれに加われば、国内は内乱状態になる。西洋列強は当然、それぞれの後押しをして、介入してくる。そうなれば他のアジア諸国のように植民地化されることは目に見えている。「大乱」とはこうした事態を指す。

慶喜が真っ先に「横井先生のご意見に感服した」と賛成すると、他の首脳たちは反対する気持ちを失った。

■8.「その時は、政権を朝廷にお返しすれば」■

 しかし、慶永には、もう一つ心配があった。将軍が上洛してまでの無礼を謝罪しても、朝廷があくまで「攘夷を実行せよ」と命じた時は、どうすべきか、という問題である。

「その時は、政権を朝廷にお返しすればよろしゅうございましょう」と小楠はこともなげに答えた。慶永は驚いた。

(攘夷のような)できもしないことをできるかのように天下を偽ることは、私の心に通じます。できないことはあくまでもできないと申し上げ、できないことをどうしてもやれと仰せられるのなら、政治の大権を朝廷にお返しして、朝廷の方で攘夷を実行していただければよろしいではございませんか。[2,p240]

攘夷をできるかのように偽っているのも、政治の大権にしがみついていたいという幕府の私心である。それでは国内の公論を欺き時間稼ぎをしている間に、列強はひたひたと迫ってくる。

小楠の説は、国家の独立を保つためには、国内が公論のもとで一致団結しなければならず、そのためにはそれぞれが「私心」を捨てて、ひたすら国全体のためにどうすべきか、と智慧を絞り、力を合わせなければならない、という一点にあった。

■9.「清冽な地下水のごとき伝統」■

その後、多くの紆余曲折はあったが、慶喜が将軍を継ぎ、幕府が朝廷に恭順の意を示すことで内乱を最小限の規模に収め、また大政奉還によって、明治新政府が誕生した。大筋として、小楠の描いた筋書きに従って、わが国は一挙に新体制への一新を図り、その後は富国強兵に邁進して、独立維持に成功するのである。

これも小楠の説くところに、松平慶永、一橋慶喜、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛など、当時の中心人物が共感したからであろう。冒頭で述べたように、西郷も、小楠の説を勝海舟から聞いて、それをやり通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。

なぜ小楠の説がこれほどの説得力を持ったのか。それはその根底に「国を思う無私の心」を置いたからだ、と思われる。

小楠の敬愛する楠木正成も中江藤樹も、無私の心でひたすらに世のため国のために尽くした足跡を歴史に残した。その清冽な地下水のごとき伝統を掘り当て、幕末の国難の時期に噴き出させたのが小楠の功績であった。
(文責:伊勢雅臣)
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国際派日本人養成講座について

6年前の1月、東京・六本木のとある店を借り切って出席者30名程度のオフ会が開催された。

参加者の職業は、会社員、地方公務員、自営業から新橋で街宣車で演説している者まで多岐にわたっていたが、全員に共通していることは「国家のためにDNA」を有していることであった。
一行は何度か河岸を変えながら夜遅くまで、各自の思いをそれぞれぶつけあった。
最近では紙面に「国益」という言葉をよく目にするようになったが、当時はほとんど無かったと記憶している。
が、この日の議論では、この言葉が当たり前のように飛び交っていた。

その後、この出会いをきっかけに各地で参加者を中心とした交流が広がっていった。
そして今回の衆議院選で2名の国会議員を輩出するに至った。


私もこの最初のオフ会に参加した一人である。
「誰か一緒に日本を変えたいやつはいないのか!」という思いが当時の私の中に熱く燃えたぎっていて、その思いがネットを通じて結実し多くの方との邂逅を得ることが出来た。

同じ時期に読み始めたと記憶しているメールマガジンがこの「国際派日本人養成講座」である。
読むたびに私の中の「国家のためにDNA」を揺さぶられていた。

個人的にここ数年、あまりにも仕事が忙しすぎ、少々自分を見失っていた。
そんな中で、最近再度読み始めたのがこのメルマガで、自分の原点を確認することができつつある。

幸いにもこの拙いブログも日々多くの方からのアクセスをいただいている。
日本のために、少しでも多くの人にこういったエピソードを紹介すべきではないかと今回短絡的に考え、転載させていただくこととした。
少しでも志を同じくする方の目にとまれば幸いである。



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龍馬脱藩の道 ルート

注)山間部など徒歩のみのルートがあります

○高知市上町2丁目
 ここからは複数ルートあり
 例)上町5丁目まで電車通りを西進し北へ

○高知市立神田小学校

○和霊神社
 神田小学校の南南西約650m
 この後鴨部まで複数ルートあり
 例)鴨田小学校西側、西武中学校西側を通過

○高知市鴨部(鏡川橋南詰め)
 ここから国道33号を西進
 高知西バイパスではなくJR朝倉駅前を通過 

○日下橋(くさかばし 日高村日下)
 日下橋手前を左折
 ここから県道谷地日下停車場線

○猿田洞(日高村沖名)

○五位山公園(佐川町襟野々)
 スーパーマルナカ通過後、国道494号へ

○JR佐川駅前
 ここを左折

○猿丸峠〜佐川町斗賀野(とがの)

○斗賀野トンネル(通過後山道へ)

○朽木峠

○津野町姫野々深瀬
 ここから国道197号

○梼原町神在居(ゆすはらちょうかんざいこ) 
 野越トンネル付近から旧道へ
 ここらあたりはちょっと複雑

○梼原町役場付近
 梼原町中心部は那須邸跡など見所が多い

○神幸橋(みゆきばし)
 三嶋神社にかかる屋根付きの橋
 ここから吉祥寺を通過し梼原中学校へ
 
○維新トンネル(大越峠)

○梼原町宮野々
 ここから県道2号城川梼原線

○梼原町六丁
 ここで案内看板に従い県道304号上郷梼原線へ
 続いて壁路公園付近の案内板に従い山道へ

○茶や谷〜松ケ峠番所跡〜ナラ山〜高階野

○韮ケ峠
 ここから愛媛県。県道36号線は通らず山道利用

○男水自然公園(旧野村町小松付近)

○坂本龍馬 脱藩の宿
 ここから山道

○榎ケ峠(旧野村町榎付近)

○旧河辺村神納・御幸の橋
 一瞬県道55号を通り再び山道へ

○封事ケ峠(高森山の北側)

○三杯谷の滝

○旧河辺村日除

○水ケ峠(鎧掛山の南側)

○石城峠
 ここから石上峠までほぼ町村境を通る

○大森山山頂付近

○泉谷の棚田〜泉ケ峠

○石上峠〜白岩〜弦巻〜奈良野

○宿間
 ここから県道32号を通る
 大川橋付近で合流する国道197号へ

○大洲市中心部
 ここを過ぎて県道24号へ

○喜多小学校付近で橋を渡り県道43号へ

○五郎駅手前で橋を渡り県道24号で長浜まで

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