注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
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■ 国際派日本人養成講座 ■
機雷除去に命をかけた男たち(上)
■1.「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」
3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。
「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」
東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。
ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」
「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟である。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。
桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』[1]で見事に描いた掃海部隊員たちの姿がそれである。終戦後、機雷に閉ざされた日本の港を開くべく命をかけて掃海作業にあたってきた部隊員たちの活動をたどって、被災地で頑張る自衛隊員の皆さんへの応援としたい。
■2.「対日飢餓作戦」
先の大戦末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2千個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦だった。
終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。
米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。[1,p11]
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機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと一年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7千万の1割にあたる7百万人が餓死したに違いない。
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海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。
終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。
日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかった。
■3.「我々掃海隊員に課せられた責務」
終戦直後に、占領軍は帝国陸海軍を解体させたが、機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、すべての機雷の速やかな除去を命じた。
戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊はそのまま危険な除去作業を続けることになった。ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いであった。
徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。[1,p22]
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諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。
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こうして戦後の掃海作業が始まった。装備は、海防艦約20隻、徴用漁船その他約300隻余、そして人員は1万名余りであった。
■4.機雷除去作業
一口に機雷といっても、様々な種類がある。形態として海底に沈んだ重しからワイヤーで結ばれて海中に浮かんでいる「係維機雷」と、海底に沈んでいる「沈底式機雷」がある。
「係緯機雷」は、2隻の掃海艇が平行して走りながら、掃海索(ワイヤー)を曳航して、それによって機雷と重しとの間のワイヤーを切断し、浮き上がった機雷を銃撃して爆発させる。
このタイプは、帝国海軍が防衛のために自ら敷設したものが主で、敷設した場所も分かっているだろうし、処理も単純なので、約1年で除去完了となっている。厄介なのは、主に米軍がばらまいた「沈底式」である。
沈底式には、艦船の発する磁気に感応するタイプが3種類、音響に感応するタイプ2種類、加えて磁気と水圧の変化の複合型と7種類もあった。
磁気に感応するタイプに対しては、自身では磁気を発生させない木造の掃海艇2隻が掃海電線を曳航し、それに電流を流して磁気を発生させて爆発させる。
さらに、感応9回目ではじめて爆発するような設定になっていたりする。すると、1000メートルの航路を掃海するためには、100メートルずつの幅に分け、各幅を9回、合計90回の曳航を繰り返す。
しかもレーダーがない当時は、2分ごとに自分の目で3角測量という方法で測定するしかない。測量を間違えれば、掃海していない空白部分ができ、そこに機雷があれば、大事故につながるのである。
■5.名誉の戦死者でも、戦没者でもなく
掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者2百名の被害が出ている。
昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。[1,p75]
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午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
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浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。
殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。彼らの葬儀は表向きにできなかった。というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。
おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。
したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。
■6.「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」
しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。[a]
しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。
15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。
お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。[1,p80]
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高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、・・・隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。
「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」
「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。
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■7.荒れ海の登舷礼
昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)であった。
海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊32隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。
海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。
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私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。
ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。[1,p81]
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巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。
荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。
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・・・乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。[1,p82]
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国のため、国民のために、危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。
■8.「掃海殉職者顕彰碑」
昭和27(1952)年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、港湾都市からは歓呼の声があがった。この「安全宣言」による経済効果は絶大で、復興を大きく後押しすることになった。
なお、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。
同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。
世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、我が国の伝統なのである。
(文責:伊勢雅臣)