先日、
メルマガを紹介したが、今回は物語風である。
初めて読んだときもそうだったが、これは泣ける。
◇◇◇(以下、引用)◇◇◇
和歌山県の南端の大島。
そこは、黒潮が近くに接岸する。
島の東側は黒潮が当たることもある。
明治3年(1870年)に樫野崎灯台が作られ、今も断崖の上に立っている。
それは明治23年9月16日の夜の出来事だった。
台風が大島を襲った。
大波が断崖を洗い、灯台は強風にさらされた。
夜の9時頃のことだった。
操舵不能になった木造軍艦が、灯台に向かって流されてきた。
全長76mもある船が、木の葉のように波に翻弄されていた。
灯台の立つ東側岸壁の下の海は、海面にとがった岩があちこちに突き出していて”魔の船甲羅”と呼ばれる場所である。
船は、轟音ととともに真っ二つに避けて、大爆発が起こった。
乗組員は海に投げ出され、波にさらわれた。
真っ暗な荒れ狂う海で、なすすべはなかった。
運良く断崖にたたきつけられた者も、服はもぎ取られ、裸同然で全身傷だらけであった。
死にものぐるいで痛む体を引きずって、暗闇の中に唯一見える灯り、灯台の灯りに向かって40mもある断崖を登った。
その灯りだけが、生きのびる希望であった。
灯台守は、嵐の中で爆発音を聞いた。
心配になり、嵐の闇の中を断崖に向かった。
灯台守は、彼を一目見て何が起こったのかわかった。
そして、奇跡的に彼が助かったことを驚き喜んだ。
灯台の中に彼を招き入れたが、言葉は通じなかった。
そこで「万国信号音」を見せて、彼がトルコ人であることを初めて知った。
船はトルコ軍艦であり、他に多くの乗組員が海に投げ出されていることも知った。
・・・一刻も早く、他の乗組員も救助しなければいけない。だがこの人たちを救うには人手がいる・・・
灯台守は、傷ついた水兵を手当てしながらそう思った。
「樫野の人達に知らせよう!」
灯台守は、人が1人やっと通れるほどの灯りもない真っ暗な道を、一番近くの樫野の村に向かって嵐の中を走った。
樫野の村人に急を告げて、灯台に戻ると10人ほどのトルコ人がいた。
みんな全身傷だらけで、憔悴しきっていた。
死にものぐるいで、やっと断崖をよじ登ってきたのだった。
その当時、樫野には50軒ばかりの家があった。
遭難の知らせを受けた男達は、総出で岩場を降りて救出に向かった。
だんだん空が白んでくると、海面におびただしい数の船の破片と遺体。
それは、目をそむけたくなる光景であった。
遠い外国から来て嵐にあって日本で死んでいく、同じ海の男達のことを思うと村の男達は胸が張り裂けそうであった。
「一人でも多く助けたい!」
しかし、大多数は動かなかった。
「息があるぞ!」
だが、触ってみると冷たかった。
村の男達は、裸になって乗組員を抱き起こし、自らも裸になり、自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」
村の男達は、我を忘れて乗組員達を温めた。
そして次々に乗組員達の意識が戻った。
600人あまりの乗組員の内、69人が助かった。
助かった乗組員達は、樫野の小さな寺と小学校に収容された。
当時は、電気・ガス・水道は無く、電話ももちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を使っていた。
樫野の人達は、漁をして捕れた魚を対岸の串本で売って米に換える貧しい生活であった。
他には、サツマイモとミカンが採れた。
各家庭では、ニワトリを飼って非常用に備えていた。
このような貧しい村に、69人もの外国人が収容された。
村人達は「どんなことをしても助けてあげたい。」と思った。
しかし、思いとは裏腹にみるみる蓄えはなくなっていった。
台風で漁に出られないため、すぐに食糧が底をついたのだった。
「どうしよう。もう食べさせてあげるものがない」
すると、一人の婦人が言った。
「ニワトリが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・」
「おてんとうさまが守ってくださるよ」
女達は、そう言って、最後に残ったニワトリを料理した。
こうして、トルコの人達は一命を取り留めたのであった。
また村人達は、遺体を引き上げて丁重に葬った。
船の名は”エルトゥールル号”といった。
この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は直ちに医者と看護婦を派遣し、さらに礼を尽くして生存者全員を、軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還した。
この出来事は、日本中に大きな衝撃を与えた。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
この話には、後日談がある。
1985年、イラン・イラク戦争の時である。
サダム・フセインが
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」
と宣言した。
イランには、日本企業の派遣員やその家族が住んでいた。
彼らは、あわててテヘランの空港に向かった。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることが出来なかった。
世界各国は自国から救援機を出して救出にあたっていたが、日本政府は対応が遅れていたのである。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
万策尽きてあきらめかけた時に、2機の飛行機が空港に到着した。
そして、この2機は日本人215名全員を乗せて成田に飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。
トルコ航空の飛行機だった。
なぜ、トルコ航空の飛行機が来てくれたのか?
日本政府もマスコミも知らなかった。
前駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は、次のように語った。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学校の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」