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「大東亜戦争は継続中だ」と語ったインドネシア将軍(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。


■ 国際派日本人養成講座 ■

「大東亜戦争は継続中だ」と語ったインドネシア将軍

日本軍が引き上げた後も、インドネシアは植民地主義・共産主義と戦ってきた。



■1.「我々が取り組まねばならない植民地一掃の大事業」

 インドネシアのサンバス将軍は、次のように語ったと伝えられている。

__________
 日本の戦争目的は、植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、植民地主義国はまだ残っているではないか。ソ連(ロシア)は最後の植民地主義国だ。中国もチベットやウイグルを併呑した植民地主義国だ。これから我々が取り組まねばならない植民地一掃の大事業は、中ソが相手となる。[1, p111]
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 25年ほど前の発言だが、ソ連こそ打倒されたものの、チャイナによるチベット、ウイグルの弾圧・搾取は酷くなる一方であり、最近の南シナ海の軍事基地化はそのまま、東南アジア諸国への侵略である。

 しかし、この発言の真意を理解するには、インドネシア国民が第二次大戦後も植民地主義と戦ってきた足跡を知らなければならない。インドネシア国民から見れば、西洋植民地主義や共産主義と戦ってきた日本が大東亜戦争の敗戦で引き上げてしまったので、その後の「植民地一掃の大事業」を、彼らだけで取り組まなければならなくなった、というのである。

 戦後のインドネシアの戦いを見れば、大東亜戦争の意義も、日本の今後の使命も見えてくる。


■2.日本軍の支援を受けて独立準備

 1602年から始まったオランダのインドネシア支配は過酷で、各地でコーヒーや砂糖の栽培を強制し、その収益はオランダの国家予算の三分の一を占めたと言われている。貧困に喘ぐインドネシア人の平均寿命は、一説によれば、35歳まで低下した。

 オランダ支配に抵抗して、インドネシア人民は何度も独立闘争を起こしたが、そのたびに制圧された。そこに登場したのが日本軍だった。日本軍は同じアジアの民としてインドネシア人に助けられ、わずか七日あまりでオランダ軍を降伏させた。

 インドネシアに駐留した第16軍司令官・今村均大将は、独立運動の指導者スカルノに対し、将来の独立に向けた準備を支援する代わりに、戦争に協力するよう求めた。スカルノはこの取引に応じ、日本軍に物資や労務を提供する代わりに、日本軍はインドネシア人による軍隊(PETA)の創設・訓練、官僚の育成、法制度や教育体制の整備などを進めた。[a, b, c]

 その上で、日本軍が敗れた1945年8月15日の二日後、スカルノは初代大統領に就任して、独立を宣言したのである。


■3.オランダの「侵略戦争」

 しかし、それで過去300年以上の権益をあきらめてしまうようなオランダではなかった。オランダの副総督ファンモークは、スカルノの独立宣言を無視して、インドネシアの港町スラバヤにイギリス軍とともに、上陸した。

 ファンモークは「インドネシア人は、日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らは直ちに元通り従順になるに違いない」と考えていた。しかし、インドネシアは「日本軍のおかげで羊がトラになった」とオランダは驚愕した。

 イギリス軍は連合軍の管轄として、日本兵の武装解除、本国輸送などの役割を果たすためにやってきたのだが、インドネシア独立戦争に巻き込まれ、大きな犠牲を出した後で、1946年11月に軍隊を撤退させた。

 しかし、オランダは諦めず、1947年7月に戦車、飛行機、機関銃で武装した部隊約10万人を投入して、大規模な攻撃に出た。インドネシア共和国軍は兵員こそ2百万人もいたが、武器は日本軍から秘密裏に渡された小銃4万丁ほどに過ぎず、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。オランダ軍は瞬く間にジャワの大部分と、スマトラ油田地帯を含む産業地帯を占領した。

 オランダの「侵略戦争」は世界中の非難を浴び、国連安保理も「オランダの敵対行動の即時停止」と「平和的手段での解決」を謳った決議案を採択した。


■4.「植民地主義と戦うには力がなければ勝てない」

 オランダは、この決議案を受け入れて、停戦に応じるかと見せかけたが、占領地域からの軍隊撤退は拒否した。外交交渉が乗り上げ、局地的戦闘が続く中、1948年12月20日、オランダは空挺部隊による第二次攻撃を開始。

 オランダとの独立戦争では、日本軍人数千人が戦後も現地に残ってインドネシア軍とともに戦った。そのなかには、インドネシア国立英雄墓地に祀られている人々もいる。[d]

 国際世論、特にインドを始めとするアジア諸国はオランダによる都市の無差別爆撃に激しい非難を浴びせかけた。国連安保理も1949年1月28日、オランダに対して、インドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。

 アメリカ議会の中では、これ以上、軍事行動を続けるならば、マーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済復興援助)を打ち切るべきだという声が出てきて、これが最終的にオランダを諦めさせた。結局、国連による非難決議は、オランダの侵略に対する有効な阻止手段とはならなかったのである。

 3年半の独立戦争で、インドネシア側が払った犠牲は死者だけで80万人、負傷者は1千万人を超えた。しかし、オランダは謝罪するどころか、戦闘を賄うために自ら発行した軍票60億ドルのインドネシア政府による弁済、オランダ人官吏への恩給支給、オランダ人所有の不動産の権利承認などを要求した。

 インドネシア政府は独立確保のために、オランダの要求をすべて呑んだ。そして再侵略の心配がなくなった1963年に、オランダの要求を否認する声明を出した。その時の外相であったルスラン・アブドルガニー氏は、[1]の筆者・江崎道朗氏に次のように語った。

__________
 我々はようやく力がついてから全世界の見ているところでオランダとの約束を全部破り捨てました。つまり植民地主義と戦うには力がなければ勝てないのです。オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が与えてくれたおかげで我々は独立することができました。[1, p80]
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 連合国が東京裁判で我が国を「侵略の罪」で裁いている最中に、原告側に立っていたオランダは露骨な侵略をしていたのである。


■5.共産クーデターとの戦い

 オランダからの独立を果たしたのも束の間、インドネシアは今度は共産主義勢力の標的とされる。ソ連や中国はスカルノを操って、インドネシアを共産化しようとした。1958年には、スカルノ政権はソ連から10億ドルもの武器援助を受けとった。

 1963年、終身大統領に就任したスカルノへの反感から欧米諸国が援助を控えると、中国は肩代わりし、共産党の勢力拡大に注力した。インドネシア共産党は「入党すれば、いい仕事につける」と宣伝し、党員3百万人、シンパ18百万人にまで膨張した。

 1965年10月1日未明、ついに共産クーデターが勃発。大統領親衛隊の約5百人の決起部隊が、陸軍将校の邸宅を次々と急襲し、大統領官邸を占拠した。俗に「9・30事件」と呼ばれる。

 しかし、陸軍戦略予備軍司令官のスハルト少将が、共産クーデターに呼応しないよう国軍幹部を説得し、即座に鎮圧に動いた。スハルトを中心とした陸軍が行動を開始すると、学生とイスラム教徒の民衆は共産党に立ち向かった。

 各地で民衆が左右に分かれて激突し、半年間で死者百万人に上ると言われる内戦が繰り広げられた。この結果、共産クーデターが失敗に終わり、周恩来主導のアジア共産化構想は頓挫した。スカルノは大統領の職位こそ解かれなかったが、失脚して実権を失った。


■6.「日本にぜひ協力してもらいたい」

 9・30事件の翌66年2月、インドネシア軍の司令塔となっていたアリ・ムルトポ准将が来日して、福田赳夫外相、佐藤栄作首相と会談した。ムルトポは、次のように訴えた。

__________
 束南アジアはこれまで、米中ソの代理戦争をしてきました。米中ソを入れないようにASEAN(東南アジア諸国連合)という垣根を作ります。1967年にその構想を発表します。中国、ソ連、ベトナムに対抗する政治連合です。

 共産国の出方次第では、軍事連合にするかもしれない。しかし、我々が政治団体とか軍事団体を結成すると言えば、アメリカにぶち壊されてしまうので、当分の間は文化、観光、経済の団体という覆面をするつもりです。日本にぜひ協力してもらいたい。[1, p121]
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 日本政府は察知していなかったが、9・30事件以降、インドネシアやマレーシア、シンガポールなど東南アジアのリーダーたちは、「もうこれ以上、巨大な象(米中ソ)に我々の士地を荒らされてはかなわない」と考えて、ピースゾーン(平和地域)としてのASEAN建設に向けて一致して動いていたのだ。

 日本政府は、スハルト大統領体制が発足すると、直ちに大規模なODA(政府開発援助)を供与しインドネシア政府を支援した。

 ムルトポ准将の言葉通り、1967年、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールと反共を国是とする5カ国でASEANが誕生した。

 昭和51(1976)年に総理大臣に就任した福田赳夫は、翌52年、東南アジア諸国を歴訪し、マニラで、ASEANを全面的に支援する事を約束した。この演説は「福田ドクトリン」としてASEAN諸国から、今も高く評価されている。


■7.日本を助けたインドネシア指導者たち

 インドネシアをはじめとするASEAN諸国は、日本を頼りにするばかりでなく、日本をできる限り助けようとした。アイゼンハワー政権のダレス国務長官が、日本が講和独立後に、朝鮮戦争特需に代わる新たな経済市場が必要と考えた時に目をつけたのが東南アジア市場だったが、東南アジア諸国の指導者たちも、この方針を支持し、日本企業の東南アジア進出を支援した。

 1973(昭和48)年にOPEC(アラブ石油輸出機構)が中東戦争を有利に運ぶために、石油供給を削減して、石油ショックが起こった。

 この時、日本政府は内密にOPECのリーダーであるサウジアラビアのフェイサル国王に日本向け石油の供給増加を依頼したのだが、その際に同じイスラム教徒として、国王との仲介をしてくれたのが、アラムシャ副首相やモハメッド・ナチール首相らインドネシアの指導者だった。彼らはこう語って、日本への支援を求めた。

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(大東亜戦争によって)キリスト教徒(オランダ)に支配されていた我々イスラムの民を救い、その独立を支援してくれたのが日本であり、日本はイスラムの味方だ。[1, p90]
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 平成17(2005)年、小泉首相の靖国参拝に関して、中国政府がヒステリックな批判を繰り返していた際にも、ちょうど訪日していたインドネシアのバンバン・ユドヨノ大統領は「国のために戦った兵士のお参りをするのは当然のことだと思う」と参拝を支持した。


■8.「たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾だ」

 戦後も続いた日本とインドネシアの橋渡しをしたのが、中島慎三郎氏という一民間人だった。中島氏は戦時中は日本陸軍の防疫給水部衛生兵として、インドネシア各地で伝染病対策を行って、大歓迎を受けつつも、疲弊した人々の生活に心を痛めた。

 終戦後に帰国し、東京新橋駅前で花屋を始めた。そこに出入りするようになったのが、戦時中に陸軍士官学校や早稲田大学に留学していたインドネシアの青年たちだった。彼らは帰国できないまま、母国の発展には日本の協力が必要だと考え、日本との関係を築こうとしていた。彼らは中島氏を父とも仰ぐようになり、やがて母国に戻って、政財界で活躍するようになる。

 アリ・ムルトポ准将を福田外相に引き合わせたのが、この中島氏である。ユドヨノ首相が靖国参拝を支持してくれたのも、中島氏がツテを辿って依頼したのである。

 冒頭の「我々が取り組まねばならない植民地一掃の大事業」と語ったサンバス将軍の言葉は、実は海部首相が行った大東亜戦争に関する謝罪演説に激怒して、中島氏に国際電話で語ったものだった。それはこう続く。

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 そんなときに行つた海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残っている植民地主義を攻撃すべきだった。大東亜戦争は継続中だ。たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾だ。[1, p111]
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 このサンバス将軍の発言を、中島氏は次のように解説した。

__________
 要するに、戦争に負けたからと言って、その戦争で自ら掲げていた理想まで否定するのは無責任ではないかと、サンバス将軍は言っているのだよ。その無責任さが結局、現在の日本の東南アジア政策のお粗末さになって現れているのだ。[1, p111]
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「植民地解放」という理想を忘れてしまった現代日本が、現状維持だけを旨とする「お粗末な外交」に堕(だ)してしまったのも当然である。それを歯噛みして見ている国々がある。草葉の陰の我が先人たちも同様であろう。日本が戦った植民地主義・共産主義との戦いとしての「大東亜戦争」は、今も続いているのである。
(文責:伊勢雅臣)
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