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頑固一徹スイスに学ぶ(国際派日本人養成講座から)

注)以下はメールマガジン「国際派日本人養成講座」からの引用です。
興味のある方は、メールマガジンを受信すれば、定期的に読むことが出来ます。



■ 国際派日本人養成講座 ■

No.900 沖縄の祖国復帰を果たした県民の思い

 沖縄が「グアム」化や「香港」化の道を避け、日本復帰を果たしたのは県民の祖国愛の賜だった。



■1.「グアム」化も「香港」化も避けた沖縄

 沖縄は昭和47(1972)年5月15日に返還された。戦争で失った領土が平和的な話し合いで短期間のうちに祖国に復帰したのは世界史上でもあまり例がない。

 一度失った領土を外交交渉で取り戻す事がいかに難しいかは、北方領土や竹島の現状を思い浮かべれば、容易に理解できる。香港はアヘン戦争の結果、1898年にイギリスとの間で99年間の租借条約が結ばれ、中国に返還されたのは1997年であった。

 まして米軍は沖縄戦で7万5千人もの死傷者を出した。アメリカ軍の中には、「沖縄は我々の青年の血で贖(あがな)った戦利品である」と発言する者もいた。

 昭和22(1947)年6月、マッカーサーは「沖縄人は日本人ではない」と発言した。この時点で、アメリカは、本土と沖縄を切り離して永久支配することを考えていた。いわば、今日のグアムのような形態である。

 朝鮮半島、中国大陸、東南アジアを睨む沖縄の地政学的な重要性を考えれば、ここをアメリカの直轄地として、自由に使えるようにしておきたい、と考えるのは当然であった。

 しかし、沖縄は「香港」にも「グアム」にもならず、平和裏に祖国に復帰できた。この世界史上での奇跡がどう実現したのか見てみよう。


■2.祖国防衛に尽くした沖縄

 沖縄が祖国防衛のために果たした役割は計り知れない。

 昭和20(1945)年2月のヤルタ会談で、ルーズベルト大統領は、日本を壊滅させ、無条件降伏させる方針を確認した。4月中に沖縄を占領した後、南九州上陸を狙うオリンピック作戦、続いて関東平野に侵攻するコロネット作戦が計画されていた。スターリンのソ連は北海道、東北地方に侵出することが決定されていた。[1,p19]

 このシナリオ通りに展開したら、本土決戦でさらに数百万人規模の日本人が犠牲となっていたろう。さらにドイツと同様、無政府状態となったまま、米ソに分割占領されていたはずだ。

 その悲劇を阻止したのが沖縄戦であった。日本軍の洞窟陣地を利用したゲリラ戦術により、米軍は太平洋戦争で最大の損害を受けた。日本軍守備隊の戦死者約6万5千人に対して、米軍は地上戦闘での死傷、神風特攻による艦船の沈没・損害、激烈な戦闘による神経症での戦線離脱などで合計7万5千人もの死傷者を出している。[a]

 日本軍の5倍の兵力を投入しながら、1ヶ月の作戦が3ヶ月もかかった。米軍は実質的には沖縄戦は敗北だったとの認識をしていた。[1,p17]

 そして、その被害の大きさに、このまま本土侵攻に進んだら、米軍も100万人規模の犠牲を出すであろうと予想された。ここから、米政府は無条件降伏の方針を撤回し、有条件降伏を勧めるポツダム宣言を出した。

 戦場となった沖縄で、日本軍は島民の三分の一、20万人を本土や安全な島北部に疎開させた[b,c]。それでも軍属として戦った青壮年、従軍看護婦らも含めて、10万人規模の住民犠牲者が出ている。

 沖縄戦での軍民の尊い犠牲により、本土決戦を避け得て、その何倍もの国民が救われ、国家と皇室の護持ができたのである。


■3.沖縄の「グアム」化を避けた昭和天皇のご提案

 この事情を踏まえてであろう、昭和天皇は沖縄県民に対して格別のお気持ちを抱かれていた。それは昭和62(1987)年に病に倒れられた際に、「(沖縄訪問は)もうだめか」と言われ、次の痛恨の御製を詠われた事から窺える。

 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

 昭和22(1947)年、占領下ながら、昭和天皇はアメリカに対して沖縄に関する重要な提案をされた。ひとつは、アメリカが沖縄を永久支配しようとしているのに対して、沖縄の潜在的主権は日本が持ち、施政権のみをアメリカが預かる形にして欲しいということ。

 もう一つは、共産主義勢力から沖縄を守るために、アメリカの軍事力を展開して欲しい、ということだった。この慧眼は、現代においても、沖縄の米軍基地が中国の覇権拡大を食い止め、東アジアの平和維持に必要不可欠の存在になっている事実からも窺える。

 昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復するが、その際にアメリカは昭和天皇のご提案を受け入れ、潜在的主権は日本が持ったまま、施政権はアメリカが預かる形とした。これにより「グアム」化への道は避けることができた。

 次の問題はアメリカが沖縄の施政権をいつまで持つのか、という点となった。イギリスが香港を99年間租借したように、アメリカも沖縄を長期間支配すべしというのが、当時のアメリカ国民の意見だった。このままでは沖縄は「香港」化する恐れもあったのだが、それを食い止めたのが沖縄の祖国復帰運動だった。


■4.「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」

 後に沖縄の祖国復帰運動の中心となった小学校教諭・仲村俊子さんは復帰前の沖縄県民の祖国への思いを次のように回想している。

__________
 復帰前の沖縄には、アメリカ施政下の琉球政府がありましたが、県民感情としては祖国日本が懐かしいのです。米軍統治下で物質的には恵まれていましたが、私たちの代で復帰を果たさないと、子供たちは自分の祖国がどこなのかさえわからなくなってしまうと危惧されていました。[1,p34]
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 祖国復帰運動に立ち上がったのは、沖縄教職員会だった。これは日教組とは違い、純粋な教育団体だった。その初代会長・屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏は、復帰後に初代の沖縄県知事となった人物である。この屋良会長の時に、学校教育を通じて日の丸掲揚を広げる運動が始まった。

 昭和27(1952)年に屋良会長名で次のような通知が出された。「各家に国旗を掲げるように奨励いたしましょう。国旗の注文はいつでも学校ごとにまとめて地区委員会を通じて申し込んでください」。毎年1万本の申し込みがあったという。本土側でもこれを支援して、大量の国旗を沖縄に送った。

__________
 当時、私は平敷屋中学校に勤務していましたが、初めて日の丸が学校で届いたときには、胸に響くものがあり、涙が出ました。[1,p35]
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 昭和30年代から40年代には、教職員が復帰運動の中核となった。「沖縄を返せ」と歌いながら、デモ行進を行った。沖縄全県で日の丸が掲揚された。

 こういう県民の想いに応え、佐藤栄作首相は昭和40(1965)年8月、戦後の首相としての初めての沖縄入りを果たし、那覇空港での第一声で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」と語った。この声明は祖国を願う県民を大いに勇気づけた。佐藤政権も政治生命をかけて沖縄復帰に取り組んだ。


■5.ニクソン政権の沖縄返還決断

 沖縄での祖国復帰運動の盛り上がりを背景にした日本政府の返還要求は、ニクソン政権を揺るがした。キッシンジャー大統領補佐官はニクソン大統領にこう提案をした。

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 日本の返還要求の圧力はもはや押し戻すことのできないところまでに来ている。この交渉を拒否すれば一切の基地を失ってしまうことになってしまう。[1,p23]
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 時あたかもベトナム戦争の最中であり、日本国内でも「ベトナム戦争反対」や「日米安保反対」と学生運動の嵐が吹き荒れていた。日本を自由主義陣営に留め、沖縄の基地を維持するためには、沖縄を返還せざるを得ないと考えたのであろう。昭和44(1969)年11月の日米首脳会談で「核抜き、本土並み、3年後返還」が合意された。

 しかし沖縄が日本に復帰して一体化・安定化し、米軍基地がそのまま残ったのでは、中国やソ連など共産陣営にとっては極めて都合の悪い。分断されたまま、住民が反米感情を抱いていた方が米軍の動きを制約できるし、いざとなれば沖縄だけ独立させて共産陣営に取り込む道も残る。


■6.「沖縄を日本革命の基地にしよう」

 そんな意向を受けたのであろう、左翼陣営から祖国復帰反対運動が起こされた。昭和43(1968)年、屋良会長が琉球政府の行政主席に当選し、事務局長だった喜屋武(きやむ)氏が会長に就任した頃から沖縄教職員会が変わり始めた。

__________
 学校に「日の丸に賛成か、反対か」と言うアンケートが配られ、驚いて思わず「本当に喜屋武先生の名前できているのか」と聞いたほどです。私の勤務していた那覇市の城岳小学校はしっかりした人が多く、「賛成」が多数でした。

すると「やり直し」と言われてアンケートが返ってきたのです。指導を受けて「反対」を多くすると、ようやく通りました。この一件でおかしいと感じ始めました。

 名護で開催された教職員婦人部の会では「今の日本に復帰するのではないから、復帰は言わずに安保反対だけを言え」という主張がなされていました。・・・

学校には「70年安保に向けて」というパンフレットが回ってくるようになり、街には「沖縄を日本革命の基地にしよう」という教職員会のポスターが貼られるようになりました。[1,p36]
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■7.「沖縄県民が望まないのに無理してまでも復帰させなくてもいい」

 学校でも闘争資金集めがあり、「この組織には絶対についていけない」と感じた仲村さんは、昭和44(1969)年11月に仲間5人と教職員会を脱会した。

 脱会声明を「沖縄タイムズ」と「琉球新報」に乗せ、連絡先として中村さん宅の電話番号を記した。新聞社は「相当の圧力が来るかと思うが大丈夫か」と心配してくれたが、翌朝、立て続けにかかって来たのは抗議ではなく、「よく頑張った」という激励だった。

 昭和46(1971)年6月に「沖縄返還協定」が調印され、11月に批准、翌年5月に返還という運びとなっていたが、そこに東京から「復帰が危ない」という連絡があった。前年に参議院議員に当選していた喜屋武会長が、与野党に「批准に反対してくれ」と説いて回っている、との由。

 また沖縄でも安保反対のデモがあり、東京からは県民の大多数が復帰そのものに反対しているように見えたので、「沖縄県民が望まないのに無理してまでも復帰させなくてもいい」という話が国会でも出ているとのことだった。

 仲村さんは居ても立ってもいられなくなり、組合を一緒に脱退した仲間たちと10月31日に「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」を開いた。千人以上の県民、市町村の首長や議員も集まってくれた。仲村さんもクビを覚悟で、登壇して意見発表をした。

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■8.「祖国復帰とは、必死に祖国を守るために戦われた英霊の御心に応えること」

 11月3日、仲村さんら8人の陳情団が上京した。沖縄出身の議員を始め、関係する政治家を回って、早期批准の陳情を行った。竹下登・官房長官などは祖国返還を願う仲村さんたちの訴えを涙ながらに聞いてくれた。

 さらに6〜13日は都心部やターミナルなどでビラまきをし、沖縄返還協定批准を願って「祈・批准」と書いたタスキを掛けて、整然としたデモ行進を行った。

 一方、返還反対運動は過激化して、沖縄ではゼネスト、渋谷では暴動事件が起こり、両方で火焔瓶が投げられて、警察官が死亡するという事件まで起きた。

 しかし、県民集会や陳情が奏功して、「沖縄返還協定」は11月24日に衆議院で自民党による単独採決で批准された。

 沖縄に戻った時は、年休の2週間を超えていた。学校で60人あまりに吊し上げられ、組合の分会長からは「お前たちが陳情に行ったから、沖縄返還が強行採決されたんだぞ」と、ノートでテーブルを叩きながら、怒鳴り散らされた。

 しかし、仲村さんは「私のクビ一つだけで沖縄が復帰できれば安いものだ」と吹っ切れた気分で出勤していた。何日か経って、校長とともに那覇市の教育委員会に呼ばれたが、理解ある教育長で、クビにはならずに済んだ。

 仲村さんと一緒に上京して活動した富川春子さんは、沖縄戦で現地召集兵の父親と幼い弟を亡くしている。富川さんは上京時の思いを目を真っ赤にしてこう語っている。

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 祖国復帰とは、必死に祖国を守るために戦われた英霊の御心に応えることなのです。
 上京時の私たちはわずか7名でしたが、背後には十数万柱の英霊がついていて下さると思うと、不思議と怖くありませんでした。
 沖縄戦で亡くなられた英霊を思えば、赤化していく沖縄の状況を到底座視することはできませんでした。[2]
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 今また、沖縄は中国とその手先となっている左翼勢力により祖国から奪われる危機に瀕している。
(文責:伊勢雅臣)


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